2019年6月24日 (月)

中山道2 武佐宿~愛知川宿~高宮宿(3)

愛知川~高宮の続き 

伊藤忠兵衛記念館は無料。伊藤忠創始者・伊藤忠兵衛の旧邸であり、二代目忠兵衛が生まれた豊郷本家。明治15(1882)年建設された。
大きく立派な家で庭も広く手入れされ、蔵は2つもあって当時の貴重な品が沢山保管されている。
初代の妻八重さんは大所帯を切り盛りするだけでなく、アシスタントとして江州での近江麻布の仕入れを一手に切り回した。新入店員の教育もし、また二代目を自ら指名し、丁稚小僧扱いにし、5年間の地方回りの下積みを重ねさせ、その後イギリス留学をさせた由。
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伊藤長兵衛家屋敷跡。九代目伊藤長兵衛が1921年伊藤忠商店と合併して株式会社丸紅商店設立し、初代社長になった。伊藤忠と丸紅は同じ系統だったことを初めて知った。この方は地域のために自費で病院を建て、屋敷跡は病院の駐車場になっている。
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八幡神社にある石柱には豊郷町のこのあたりが石畑で間の宿とあった。立場跡もあった。
又、那須城跡でもあり、かつては弓に名手・那須与一の次男石畑宗信がこの地を治めていたそうだ。
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旧豊郷小学校は、この町出身で丸紅の専務だった古川鉄治郎の寄付で建てられたもので、ヴォーリズの設計。滋賀県最古の鉄筋コンクリート造りで、縦長の窓が並んでいるのが特徴。見たことがないけれども、アニメ「けいおん!」のモデルになったところ!
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スズムシバナの群生地があった。鈴虫が鳴く頃に薄紫の色の花を咲かせるが、九州、四国、本州(近畿地方以西)に自生し、この町のものが自生しているものでは北限だそうだ。キツネノマゴ科ですが葉はシソの葉によく似ている。
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彦根市に入って西側に「おいでやす」、東側に「またおいでやす」と書かれたモニュメントが立っている。その上に麻の荷を担いだ女性、旅人、近江商人がのっている。
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月通寺には行基が刻んだ柏原地蔵(見られない)がある。この門が医薬門(左右に本柱と控え柱をそれぞれ1組ずつ配し、屋根は切妻破風造りのもの)。
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松とカエデの並木の街道。
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120里目の壊れた一里塚跡。
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またこちらにも無賃橋が出てきた。
当初ここ犬上川には橋はなく、川越人足による渡しだったが費用が高く、彦根藩は豪商らに命じて費用を一般から募って橋を造らせ無料で渡れるようにしたため、無賃橋と言われるようになった。無賃橋碑があった。
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高宮宿(64番目の宿)愛知川宿から7.9㎞、鳥居本宿まで5.9㎞、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒。

橋を渡って高宮宿に入ってきた。多賀大社の門前町であり、「高宮上布」という麻織物の集散地として栄え、中山道の宿場の中では本庄宿につぐ規模だったそうだ。

彦根市のマンホールは市章を幾何学的に配置し、外周に市の木のたちばなをデザインした。ひこにゃんのマンホールもあるらしい。
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今日のお土産は旭堂の丁稚羊羹。刻んだ栗が美味しい羊羹。丁稚さんでも買えた羊羹という。
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まず円照寺があってとても立派なお寺。明治天皇ゆかりの松を見、家康の腰掛石があるというがこれは見つからなかった。
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表門が現存している本陣跡。
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高宮寺(こうぐうじ)。奈良時代に行基とインドから来日した婆羅門が開基したと伝わる。中に重文の木像や県指定文化財4点があるという。
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小林家の前に芭蕉の紙子塚の説明板と碑がある。
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芭蕉が小林家に泊まった際、「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 と詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、庭に塚を作り古い紙子を収めて 「紙子塚」 と名付けたという。

多賀大社の一の鳥居。高さ11メートルで滋賀県最大。県指定有形文化財。ここから多賀大社まで3.6㎞の距離がある。江戸時代の三大神社参りは伊勢、熊野そしてここ多賀であった。延命信仰では重源や秀吉の話が有名だ。
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高宮宿の街並み。雨がやっと止む。
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座・楽庵の看板のある建物は布問屋で蔵もある。建物は登録有形文化財。
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高宮神社は創建は鎌倉末期。見つからなかったが芭蕉の句碑も残る。
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参道にあった立派なお宅は馬場家住宅。元大庄屋の家である。近江商人でもあって、蔵が4つあり、天保4年の創建という。
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街道歩きは宿の終わるこのあたりで終了し高宮駅へ。
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彦根まで近江鉄道に乗り、琵琶湖線に乗り換えて米原着が6時前。18:57のひかりに乗り、米原駅のお弁当を食べ(なかなかに美味しい)、21:10東京着。帰宅は22時半前。41264歩(この内、家往復は帰りのみバスを使うので約2700歩)
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(完)

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2019年6月21日 (金)

中山道2 武佐宿~愛知川宿~高宮宿(2)

◆武佐~愛知川(続き)

近江商人について、まだ本を読むに至らず、地図の説明を引用させていただきました。
「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の近江商人の精神と信仰心が商売の精神と結びついた。
近江商人は日本全国に留まらず、ベトナム、朝鮮半島、中国まで行商に出かけ、日本の近代商業の発祥の役割を担った。
この先で邸宅を見た伊藤忠・丸紅、その他住友、高島屋、西武グループなど現在の日本を代表する老舗を輩出した。「近江の千両天秤」という言葉は天秤棒一本で千両を稼ぐ商魂の逞しさを表している。
何故近江商人が誕生したのか?1つに大名がおらず、領地が他国大名、旗本、社寺の領地で、移動に通行手形が簡単に取れた。2つに日本の真ん中で東西を結ぶ交通の要衝であり琵琶湖の水運もあったことである。
重伝建になっている近江商人の屋敷や街並みは、中仙道から少し入った金堂地区で寄らなかったが、この街道沿いにも商人の家は残っている。

江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍した市田庄兵衛の本宅。明治初期の建築。
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家の跡が残る近江商人・市田太郎兵衛邸には明治天皇が巡幸の際、往復路この家で小休され、その記念碑が向かいにあった。東海道では数えきれないほど明治天皇御聖蹟があって、殆ど写真はスルーしたが、中山道にも見かけている。明治天皇は随分とあちこち出かけられたのですね。
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道標を兼ねた常夜燈。「左いせ ひの 八日市 右京道」と刻まれている。天保15年(1844)・・・大飢饉、お伊勢参り大流行、天保の改革が行われた年。
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旧五個荘郵便局は大正14年の建物。国の登録有形文化財である。
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中がこんな立派な小さな地蔵堂があった。
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渡った大同川の橋には近江商人のレリーフがあった。
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小幡町に入って近江鉄道の五個荘駅も近い。趣ある立派な大神宮常夜燈。この後3つも見る。
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昔を偲ばせるような街並み。
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小幡人形のお店があった。伏見人形を見た飛脚が街道土産として売り始めたのが発祥で、500種類もあるという土人形。伏見人形は若冲の絵で見た。笠森観音のある千葉県長南町には猫が多い芝原人形があると聞いたことがある。
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東嶺禅師生誕の碑。静岡県原宿の白隠禅師の高弟だそうだ。
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愛知川(えちがわ)にやってきた。睨み灯籠(大神宮常夜燈)といって、両岸に睨みあうかたちで存在している。
愛知川を御幸橋で渡るとちょうど近江鉄道が通っていったが、橋梁は明治31年のものだそうだ。古いのによくもっているものです。
この川は歩行渡りだったが、増水すると旅人が多く死亡、「人取川」と恐れられ、1831年無賃橋が架けられて多くの旅人に喜ばれた。広重の六拾九次之内にも描かれている。
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祇園神社は御幸橋の守護神として建立された牛頭天王社である。
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●愛知川宿(65番目の宿) 武佐宿から9.8m、高宮宿まで7.9m、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒。

愛知川宿のゲートが見えてきた。時々国道を歩くとダンプカーのしぶきを浴びて参った参った。びしょ濡れだ。
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ゲートの先に不飲川があり、橋の欄干に載っているものがある。愛知川名物の瓶手毬なのだそうだ。瓶の中に手毬が見える。瓶細工手毬と言って、ボトルシップのように、その口より大きな刺しゅうを施した手毬が入ったもの。
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竹平楼は昔は旅籠(1758年)で明治天皇の小休所となった。登録有形文化財。現在は食事処だ。
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愛知川宿の街並み。商店街の街灯は近江商人の隊列があしらわれているそうだが見なかった。
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高札場跡、脇本陣跡と本陣跡を挟んで八幡神社があり、愛知川の産土神。本殿は檜皮葺で立派だ。
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お隣の寶満寺には親鸞お手植えの紅梅があるそうだが探せなかった。この地の最初の小学校になったり最初の郡役所になったお寺。
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しろ平老舗という和菓子屋さんに寄って「米どころ」という名物の最中を買って今日のおやつにする。
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郡分延命地蔵尊の所が愛知川宿の江戸口だ。地蔵は暗くてよく見えなかったが、お堂の脇にはたくさんの地蔵とおぼしき石仏が。
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ゲートをくぐって愛知川宿とお別れする。ゲートの文字愛知川宿の隣は瓶手毬の絵。
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愛知川~高宮(間に間の宿・豊郷町があり7.9㎞)

式内社石部神社は石を扱う石作部の神社。社標の文字は第35代首相・平沼騏一郎(平沼赳夫の養父)のものだそうだ。
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愛知川のマンホールは町を流れる愛知川、宇曽川、安壺川、新愛知川、不飲川の5つの川と花火大会の花火をデザイン化したそうだ。
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歌詰橋。謂れは平将門が藤原秀郷によって討たれた。秀郷が京に上る途中この橋まで来た時に、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、その首に対して一首をと言うと、将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちたという。ここで豊郷町に入る。
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千樹寺の前に「伝統芸能・扇踊り日傘踊り・中山道千枝の里碑」と「江州音頭発祥の起源碑」。「江州」とは「近江の国」の異称。
は信長によって焼かれた千樹寺が、近江商人によって再建された。この落慶法要で時の住職がお経に音頭の節をつけて唱い踊りだし、見物人も面白くなって踊り出し、住職が扇子や花傘を持たせて踊らせたのが 「江州音頭」 の始まりとのこと。まさに現在の盆踊りのよう。
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豊郷町のマンホールにも内側から、江州音頭を踊る人々、町の花・ツツジ、提灯がデザインされている。
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近江商人・又十屋敷跡(豊会館)はお休み。その隣に121里目一里塚址があった。
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タンクにも江州音頭が描かれていた。
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続く

 

 

 

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2019年6月17日 (月)

中山道2 武佐宿~愛知川宿~高宮宿(1)

滋賀県に入って、いやに天井川が多いなあと思っていたのですが、友人に天井川について聞かれて調べたら、全国都道府県29に少なくとも240が存在し、うち半分の122が関西地方に、なかでも滋賀県には3分の1に当たる81が存在するとのこと。全国の3分の1というから驚くではありませんか。

6/7(金)雨が降る中、3つの宿を歩いてきました。いつもの4時半起床で6:26のひかりで米原下車。琵琶湖線で近江八幡、近江鉄道に乗り換え武佐駅到着9:43。

武佐宿 守山宿から13.8㎞、愛知川宿まで9.8㎞、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒

歩き始めた武佐駅から武佐宿が始まる。高札場跡の解説版が立ち、武佐宿の西の見附。この解説版は1989年の小学校卒業生が制作とある。
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近江八幡市のマンホールが続いて出てきた。中央に八幡山を描き、八幡堀、白壁の蔵、近江商人のそろばんの玉柄ののれん、市の木サクラが描かれる。
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こちらは船も描かれている。
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人のいない街道筋
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本陣跡。門が立派だ。端に見えるのが武佐(むしゃ)竜胆。これから後もあちらこちらで見かけた。
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お隣の郵便局も本陣の敷地だったところで、黒い書状集箱があり、実際に使っている。
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歌川広重と渓斎英泉とが合作した「木曽海道六拾九次之内」の武佐宿は川を2艘の船の上に板を敷いた橋を渡っている人々が描かれる。木曽街道が海道となっている。
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1729年に象が通った道と説明板にあった。(吉宗の時です)
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脇本陣跡には冠木門が作られている。
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高札場跡を通り牟佐神社に寄る。正面に6体見える御神燈、このあたりの中山道の神社に多い。武佐宿の東入口に位置する神社で商売繁盛の神様である。
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武佐~愛知川 

どんどん川(蛇砂川・いさがわ)はかつての天井川・・を渡ると水田景色となり、水辺に泡子延命地蔵尊遺跡がある。・・茶屋の娘が旅人の僧に恋をし、僧の残した茶を飲んだところ懐妊し男の子を生んだ。3年後僧侶が現れ、男の子の話をすると僧侶は男の子に息を吹きかけた。すると男の子は泡となって消えてしまったという。
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旧安土町のマンホール。永楽通宝が三つ並んでいて、織田信長が刀に付けて愛用した「まけずの鍔(つば)」のデザインのもの。「sewerage」は英語の下水設備、「ANZUCCI」は安土のポルトガル語表記。
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東光寺の伝内堂には秀吉の書記だった建部伝内の像がある。伝内は書家で、歌舞伎「菅原伝授手習鑑」のモデルになった人で境内に墓もある。
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福生寺の地蔵
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西老蘇地区に入り、鎌若宮神社(奥石神社の若宮)に寄り、奥石神社御旅所や杉原氏の庭園・緑苔園(県の有形文化財)を通り過ぎ、老蘇の森、奥石(おいそ)神社に着く。ここは元安土町で東海道線安土駅の向こうには安土城があり、今は石垣(比叡山から奪ってきた石や地蔵の話がありましたっけ)が残っているが、天守閣5,6階部分は原寸で復元され展示されているそうだ。来るとき東海道線で安土駅の手前から標高190mの安土山を探したけれども見つからなかった。またこの神社の近くには佐々木六角氏の居城観音寺城があって、安土城はこれを真似たというし、日本で最初の楽市も開かれたところだ。
奥石神社は式内社で安産の神。
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本殿(重文)は1581年、織田信長が家臣柴田勝家に命じて造らせた。
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老蘇の森は奥石神社の森で国指定史跡。紀行文や和歌の歌枕として歌に詠まれてきた。
   東路の 思ひ出にせむ 郭公 おいその森の 夜はのひとこゑ
                                 大江公資朝臣(後拾遺和歌集)
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孝霊天皇(第7代)の頃、水が噴き出して住めなくなったが、石辺大連が祈ると大きな森となった。この人物が百数十歳まで元気だったので老蘇の名前がついたという。

 八幡道との分岐の大神宮常夜燈を通り過ぎると、東近江市に入る。
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このあたりは五個荘の清水鼻町で、湖東三名水の一つで清水が湧いている。
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てんびんの里の碑。道中合羽を着て振り分け荷物を持った近江商人の像が立つ。このあたりがかの有名な近江商人の街だ。
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石塚一里塚跡の石柱。123里目。
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昼食は近江ちゃんぽんの専門店・ちゃんぽん亭でちゃんぽん。殆ど野菜ばかりでヘルシー。そのままでも、酢、醤油、胡椒など好きなものを入れて食べても良い。長崎ちゃんぽんとは違う味で美味しい。
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続く

 

 

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2019年6月15日 (土)

津久井城山に登る

  津久井城山は戦国時代、山城でした。山頂が狭く、城主や家臣は山麓に住んだが、そこを「根小屋」と言って今も地名が残り、根小屋式山城というのだそうだ。
ここも秀吉の小田原城攻めに伴い落城したが、山中にその遺構が残っている。
築城は鎌倉時代の三浦氏の一族の津久井氏。16世紀に北条氏が整備し、城主は内藤氏だった。
それにしても秀吉の小田原攻めで、小田原を中心に北条氏関係の城が東京は八王子の方まで全部落城させられてしまった。ここの落城は1590年。
最近では、箱根から三島に抜ける山中城跡は凄かったし、河村城址、八王子城址などの山城の跡を見たが、空堀や土塁跡の数々、不便な山の上に築かれた曲輪跡などを見て、当時の様子が目に浮かぶようです。秀吉によってすべて破壊つくされた城址が栄枯盛衰を物語っています。
津久井湖は以前ずっと神奈川県に住んでいて、行こう行こうと言って一度も訪れられなかった所です。

この日の行程は橋本駅で降り、バスに乗り、「根小屋」に「北が」付いた「北根小屋」というバス停で下車。
そこからパークセンター、山頂、津久井観光センターへ下るという簡単なコース。
津久井城山は375mで標高差は242m。ワンちゃんと一緒に登れる山で桜の頃が一段と奇麗なようです。

諏訪神社
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津久井湖が見えてきた。これはダムが出来る前は相模川の流れで、敵の防御になるとともに船による運搬がなされていた。
対岸の山中には峯の薬師(武相四大薬師の一つ)があり、その奥の山が高尾山でさらに奥が八王子城になる。
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牢屋の沢 牢屋があったそうで水牢であった。
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ミズキのまだ青い実を間近に見る
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アザミ
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緑がきれい
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標識
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山頂曲輪跡
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山頂の立て札は見つからない。津久井湖が隙間から見えた。
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宝ヶ池 津久井城の水源  山城は水の確保が大変だったでしょう。ここは割合と湧き出て豊富だったようです。
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津久井観光センターに降りてきた。お花がきれいなところ。もう少し先に行くとルピナスがきれいとのことだがバスの時間もあったし、お買い物に店へ突進。キュウリなどを買って荷物を重くする。
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バス停前 道祖神からお地蔵さんまで揃っています。街道歩きで撮るのが癖になって。
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まずまずのお天気に緑と花と水と山の風景。それにかけがえのない友人たち。幸せな一日でした。

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2019年6月11日 (火)

中山道1草津~武佐(後編)

◆ 守山~鏡(間宿)
次の武佐宿まで13.8㎞と草津から武佐よりも倍以上の長い距離で鏡という間(あい)の宿があった。

稲妻型道路と言って守山宿の加宿・吉身は、街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっていたとのこと、今見られないのが残念だが、思うに歩きづらそうな感じだ。宿場の治安維持を図るための工夫だったらしく全国的にも珍しかったとのこと。

加宿の高札場跡を過ぎて野洲市に入り、野洲川を渡る。野洲川は大きな川で、朝鮮通信使などの場合を除き、橋は架けられず、徒渡しだったそうだ。三上山がきれいに見えた。
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まだまだ近江路、もうお地蔵さんだらけ。この先もたくさん見かけた。これもその一つで川を渡った先に並んでいた。個人宅にもかなり見られた。
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芭蕉句碑を撮影。「野洲川や 身は安からぬ さらしうす」・・野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす 「布晒」 を行っていて、冬に冷たい川に入って布をつくのは重労働だったという意味。風景が思い浮かぶようだ。
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野洲市のマンホールは旧野洲町から出土された銅鐸の模様。
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梅元老舗という和菓子屋でおやつとして三上山彩景という三上山の形をした蒸しパンのようなどら焼きを購入しもう少し先でいただく。
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唯心寺の屋根は茅葺きでなかなかいいものだ。このお寺を開基した唯心尼は処刑された住蓮坊を手厚く葬ったという。
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弘法大師作と伝わる背くらべ地蔵がある。当時は乳児がよく死んだため子を持つ親達が、小さい方の地蔵と子供の背丈を比べ我が子の発育を祈った。大きい方は、阿弥陀如来立像で背比べをしているわけではない。
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行事神社の鳥居にかかっている縄は勧請縄といって悪霊や疫病神が入ってこないよう縄を張って境を守る。紙垂が木の枯れ葉のようで実に面白い、珍しいしめ縄。枯れ葉が落ちていないのが不思議?何か仕掛けがあるのかな。
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この神社の横を流れる用水路は祇王井。平清盛の寵愛を受けた祇王が故郷の人々が干ばつで苦しんでいることを訴え、清盛が水路を造らせたとのことでこの名がついた・・と平家物語にあるとか。
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野洲市の2種類目のマンホールは市章と三上山、鉄橋、野洲川とアヤメ。
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こんな可愛い六地蔵もあった。
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宝樹寺には鎌倉時代の宝篋印塔がある。この寺で近江天保一揆の打ち合わせが行われたという。東海道側まで一揆は広がっていた。
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銅鐸出土地のあたりを過ぎ、国史跡大岩山古墳群の一つの桜生(さくらばさま)史跡公園の3つあるうちの甲山古墳(6世紀)・横穴式が街道沿いにある。中の石棺が大きい。
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子安地蔵堂には平安時代の地蔵があるが秘仏で見られず、天井川だった家棟(やのむね)川を無くして新家棟川を作ったのを渡る。滋賀県は天井川だらけでもあったのに感心する。渡ったところにある愛宕山常夜燈。静岡県や愛知県は火伏として秋葉常夜燈であった。
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不帰池(蛙不鳴池)。1185年、源義経が平家の大将・平宗盛とその子清宗を処刑した時、その首を洗った首洗い池と続いていて蛙が鳴かなくなったと言われた池だ。
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平家終焉の地、平宗盛・清宗胴塚
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◆鏡の宿(間宿)~武佐

竜王町に入ると、道に駅・竜王かがみの里がある。
向かいに義経元服の池とその碑があった。
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隣の鏡神社の参道には、義経が元服後参拝した折に烏帽子をかけたとされる烏帽子掛け松があった(明治6年の台風で倒れたため切断したまま残されている)。神社の本殿は室町時代のもので重文。
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間宿として、旅籠の跡や本陣跡などの案内板が続く。本陣には皇女和宮も休息した。
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源義経宿泊の館跡。このあたりは義経関係が多い。
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こんな愛宕常夜燈もあった。
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竜王町のマンホールは町の木「松」と町の花「コバノミツバツツジ」が描かれている。
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間の宿を抜けると遥かかなたまで田んぼが広がる。近江盆地の最も広い平地部で 耕地の約90%が水田で、他にメロン、ぶどうなどを栽培しているそうだ。
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「みなくち道」「是よりいせみち」の道標があってまたまた、東海道(水口)や伊勢につながっている道が出てきた。
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川縁の石造物。
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日野川を渡ると近江八幡市に入った。
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水田と麦畑の中を行く。今まさに麦秋だ。
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高札場跡の向かいに八幡社がある。
源義家が奥州遠征の途中、愛馬が熱病にかかりここで休ませたところたちまち回復したので、応神天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願して造ったとの伝承がある重文の社である。
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遠くに住蓮坊古墳が見えた。その母が自害した場所を通ったが、住連坊は安楽坊と同じく法然上人の弟子で後鳥羽上皇の溺愛する女官を、上皇の留守中に出家させたために死罪になった。安楽坊は京都で住連坊はこの地で。二人の墓があるのがこの古墳だ。
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武佐宿に入ってすぐ住友グループの育ての親・伊庭貞剛邸跡がある。公園になっていて、武佐竜胆が飾られていた。武佐で発見された竜胆のようだ。
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近江鉄道の無人駅・武佐駅に到着。
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近江八幡駅でJR琵琶湖線に乗り換え、米原で新幹線「ひかり」に乗る。名古屋を過ぎると小田原に停まるだけで21:10に東京駅到着。家には10時半頃着く。47081歩で最初から良く歩いたものです。
米原で買ったお弁当は牛肉弁当。
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2019年6月 6日 (木)

中山道1 草津~武佐(前編)

また歩くことになりました。よろしかったとき、お付き合いをくださいませ。

5/30(木) 今日から中山道69次を京都側から歩きます。マップは風人社のです。丁寧な説明と絶対に迷わない地図。
中山道は江戸から京都まで約526.3㎞なので東海道の492㎞より34.3㎞長いことになります。
しかし69番目の大津宿と68番目の草津宿は重なり、草津追分から歩くので、18.6km少なくなり、15.7km東海道より長く歩くだけで、1回分くらいの距離です。が交通が不便、山あり谷あり、ストック持参で出かける日もありそうです。人によっては90歳越えても歩いている方がいらっしゃるそうで、果たして私は挫折してしまうかは神のみぞ知るです。

いつもの6:16ののぞみに乗り京都(京都は今朝が最後、帰りは米原から)で乗り換えて草津へ。草津駅から歩き始めたのが9時10分。

◆草津~守山

いざ草津追分の道標を再び見てトンネル(旧草津川隧道)をくぐって出発!中山道はしばらく近江路を行く。
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トンネルの上は草津川跡地公園となっていて、ここから京都へ向かう東海道・中山道の草津宿が見えたが、高層ビルが両側に多く建っている宿だ。
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覚善寺の前の街道の分岐点の道標。明治時代に移転していたらしい。
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伊砂砂神社。檜皮葺の本殿は重文で高く評価されている神社。
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まだ滋賀県なので飛び出し坊やが多く、栗東市に入ってからもスヌーピーなど面白いのが続く。
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綣(へそ)という変わった名前の集落に入る。綣は巻子など糸巻きに関係するらしい。
佛眼寺地蔵堂の綿被り地蔵。大雨で河川が氾濫し、上流から流れてきた一体の地蔵尊を拾い上げ、「冷たい水に漬かって、さぞかし寒かっただろう」 と頭から綿をかぶせて祀り、綿被り地蔵の名がついたと伝わるが、綿は水を吸って地蔵を傷めるということで今はかぶっていない。
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大宝神社 大宝年間(701~4)創建の古い神社で疫病の神・牛頭天王(茅の輪くぐりの習俗はこの牛頭天王に由来する)を信仰。
8社ある境内社の中の1つ、追来神社は1283年建立で重文。
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「へそ=綣」が出てくる芭蕉句碑がある。「へそむらの 麦まだ青し 春の暮」。
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守山市に入るとマンホールが目に入る。
 ゲンジボタル、琵琶湖大橋、空から見た琵琶湖に浮かぶたくさんの矢印(えりと呼ばれる定置網の一種で、琵琶湖独特の漁法)が描かれているそうだが、1地番下の草みたいのがわからない。ドローンで湖の上の矢印が見られたら最高。
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十王寺焔魔堂。焔魔堂町の由来になったお寺。開基は小野篁で閻魔大王など十王を彫った。十王とは人が亡くなって冥府で死者を前世の善悪業因により中有(初七日から3周忌の間)裁くことにより来世の生所が定まる裁きを行う10人の王様。ダンテの『神曲』を思い出す。
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重蓮坊母公墓標石
法然、親鸞の浄土教が発展していくなかで、旧勢力から弾圧がなされた「承元の法難」に関係した重蓮坊が近江八幡で打ち首になったとの報を聞いた母が、悲しんでこの地の池に身を投じて亡くなったという。
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今宿一里塚(128番目)中山道の一里塚は草津まで129ある。滋賀県で唯一原型をとどめる一里塚。南側だけしか残らず、榎は二代目。
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本像寺 朝鮮通信使が宿泊した時、本陣として使用された寺。
ここには江戸時代の奇石収集家で「石の長者」と呼ばれた、木内石亭の墓があり、いろいろな石もあった。
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●守山宿(67番目の宿)草津宿から5.9㎞、次の武佐宿まで13.8㎞。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒。宿は400mしかない。

守山宿に土橋を渡って入る。
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「かたた屋」で昼食。かたた屋は旧旅籠の堅田屋で旅籠の面影を残している。中の雰囲気もとても良い。
昼食に注文したのは鶏ひつまぶし。鶏肉は炙り焼きで、まずはそのままで、次に薬味をつけて(柚子胡椒が美味しい)、最後に鶏がらスープをかけていただく。
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東門院 仁王門 ご本尊は十一面観音だ。重文の不動明王坐像(平安時代)は見損なったが多くの文化財を保有する。
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東門院五重塔は鎌倉時代のもので重文。左は宝塔、右は宝篋印塔。
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  本陣跡と井戸跡
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天満宮の裏に源内塚がある。平治の乱に敗れた源頼朝が東国に敗走する途中、源内兵衛真弘らが襲いかかったが、頼朝は髭切りと呼ばれる名刀で源内を一刀両断にしたという。
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うの家は、元首相の宇野宗佑氏の実家。レストランのようだった。
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すぐ先に「すぐいしべ道」の道標。ここから東海道のあの石部宿までつながっているのだ。距離的にはとても近い。分かれたばかりだから。
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続く

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2019年6月 3日 (月)

北斎『神奈川沖浪裏』のルーツの宮彫師「波の伊八」の世界へ

「北斎ゆかりの地めぐり」の3回シリーズのバスツアーがありまして
① 江戸編が生まれ育った浅草から両国(これは行けるので参加せず)
② 房総編が今回参加したもの。
③ 信州編は昨年参加して渋温泉・小布施に行ってきました。

行元寺の宮彫師・初代「波の伊八」こと、武志伊八郎信由(1751~1824)が彫った「波に宝珠」が北斎の「神奈川沖浪裏」のルーツと言われている。
そっくりです。(パンフレットより)宝珠が北斎では富士山になっています。
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しかしこの二人に面識があったという話はない。
ところが、江戸後期に活躍した堤等琳がいて、伊八に紹介されて飯縄寺の天井画「龍」を描いている。
等琳は北斎の師であった。
又、行元寺に同じく等琳の弟子で北斎と一緒に学んだ仲の五楽院等髄が杉戸絵の「土岐の鷹」を描いている。
北斎もそんな関係であったのか、房総を2度も訪れているという。
そんなことがあって「波に宝珠」を北斎が見た可能性があり「神奈川沖浪裏」に影響を与えたのではないかと言われているのだそうです。

そんな初代伊八~5代伊八の作品の一部を鴨川市郷土資料館でまず説明を受けました。
4代伊八と5代伊八は葛飾の柴又帝釈天での彫刻を請け負ったという。5代が昭和29年に亡くなって180年間の伊八は終わりを告げた。

かくして北斎に影響を与えたのではないかと言われる初代・波の伊八の彫刻を中心に房総を回りました。

●鴨川のここ生誕地の大塚台屋敷跡は今は何も残っていない
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一族の墓地と初代伊八夫妻の墓
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●鏡忍寺 日蓮宗 (鴨川市)

立派な山門をくぐると大きな槙の木がある。日蓮が浄土宗の一団に襲われた時、この槙に鬼子母神が現れて救ったという。
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祖師堂には伊八作の力士像が二体(外壁にはレプリカが飾られていた)と七福神の彫刻が欄間に彫られていた。
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●行元寺(ぎょうがんじ)天台宗 (いすみ市荻原)堂内は撮影禁止

このお寺に伊八作「波に宝珠」と北斎の仲間の等髄作「土岐の鷹」があったのです。
ご住職の不幸があったようです。
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本堂に向かう坂道には説明板がずらりと並んでいた。
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山門
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本堂
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●飯縄寺 天台宗 (いすみ市太東崎灯台下)堂内撮影禁止。伊八作品と北斎らの師・等琳の天井画の墨絵「龍」があるお寺。
808年開山。当初は満蔵寺と称していたが、鎌倉時代に戸隠の飯縄大権現を勧請し、飯縄寺と改めた。天海上人と縁が深く、江戸初期には上野寛永寺直轄寺院になった。
東叡山御直末の碑
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仁王門(市指定文化財)寺内で一番古い建物で室町様式の藁葺き屋根。
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鐘楼(市指定文化財)1846年建立。4面に花鳥風月、唐獅子の彫刻が施されている。
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本堂(県指定文化財)外側の彫刻が素晴らしい。
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この地には源義経が奥州に向かう途中に立ち寄ったそうだ。このためか、本堂の欄間に初代伊八による「天狗と牛若丸」が彫刻され、他に「波と飛竜」と等琳の「龍」が見られた。パンフレットより。
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2019年5月26日 (日)

東海道35(最終回) 大津~三条大橋


5/23(木)いつもの6時過ぎののぞみに乗り、京都から山科、そこで京阪に乗り換え前回の大谷駅に到着して9時頃から歩き始める。お天気も良く、途中富士山も見えた。京都の気温は午後30度。

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◆大津(大谷駅)~三条大橋

広重の「大津 走井茶店」の絵には店の前の井戸から勢いよく水が吹き出ている。茶店は明治初期まで続いたが、日本画家・橋本関雪の別荘となった後、月心寺になった。
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髭茶屋追分
東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点。追分で大津絵が生まれ、大津算盤も当地で日本人向けに改良され全国に広まった。
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閑栖寺には車道が再現されていた。車道は京と大津間に敷かれ、京に向かって右側で車幅は約2.7mで、人馬道より15~30㎝低くなっていた。その様子を描いた絵が飾られていた。
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井筒八ツ橋本舗で工場内を見学し、「夕子」の製造過程を見、お茶と一緒にご馳走になる。販売用お菓子だけでなく、大津絵や大津算盤、縫い針の展示説明もされている。
大津絵は寛永年間、ここ大谷・追分付近で町絵師が素朴な仏画を描いて旅人に売ったのが始まり。鳥子紙に泥絵具で描く。藤娘は良縁、鬼の念仏は子供の夜泣き止めと護符として庶民信仰と結びついて流布した。
八ツ橋や生八つ橋入りどら焼きの「三笠」を買って、三笠は午後のおやつにする。
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京都市に入ると「徳林庵」があり、京都に入る際の厄除け寺。
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京都に入ってもお地蔵様や飛び出し坊やが続く
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京都のマンホール 古都京都にちなんで「御所車」をモチーフとしたデザインで雨の時に滑り止めとしての機能もあるとのこと。
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天智天皇陵はこの奥の方にある
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街道が狭いが昔はこんなところが多かったのでしょう。
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かなり長い日ノ岡峠を越えると車石の広場に出る。
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何も残ってい居ない粟田口の刑場跡後を過ぎると広い蹴上浄水場に至り、ここはツツジの名所らしい。
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粟田神社の本殿と御神馬は立派だ。元禄時代の様式らしい。ここから平安神宮の赤い大鳥居がすぐ目の下に見えた。
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「おふく」にて昼食。京都らしい「にしんそば」を食べる。
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坂本龍馬・お龍の結婚式場跡
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三条白川橋道標は京都最古の道標
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明智光秀の塚 家来が自刃した光秀の首を切り落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたという。
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12:35 三条大橋に到着!!
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橋の欄干の柱頭には12の擬宝珠がある。川床も見え、比叡山も見えた。
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弥次喜多さんの銅像
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日本初の駅伝のスタート地点でもある。1917年(大正6)4/27午後2時スタート、上野不忍池の博覧会場に4/29午前11時34分到着。45時間30分強。23区間。約508㎞だったそうだ。
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思えば2年1ヶ月前の2017年4月20日に沼津から歩き始めて途中で日本橋に戻っては歩き、全492㎞を歩き終えました。
1回目の処は既に一度歩いて重なったので、結局日帰りで全34回、1414189歩。1回の平均は41594歩でした。寄り道が多かったので単純計算より大幅に歩数が増えました。
広重の絵と比較してもその面影は殆どないですが、たくさんの資料館で当時の様子を見て、往時の旅人のことを想像しながら只々電車などのない大変な旅を想いました。今は往復、電車やバスを使い、しかも何十日(早い人は15日だった)も続けて歩くわけでなく、当時の名物のご飯の一部やおやつを味わっただけで、飲み物は水だけでなく好きなのを飲み放題で贅沢な旅人でありました。
しかし、城、街道の建築、信仰、名勝、歴史、地理、神社仏閣、現代の鉄道などなど、もう思い出せないほど色々なことを学ぶこともできました。毎回何か楽しみや驚きがあり苦痛はなかったです。一番心に残った風景は薩埵峠の富士山でしょうか。仕事で忙しい娘が、食事処から名物の売店まで調べ、電車の切符まで買っておいてくれ、マップ片手に引率してくれたのでカメラだけ持って説明を聞き後についていくご気楽な旅であり、娘に感謝です。私の力ではとても一人で歩けませんでした。


<おまけ>
◆二条城、三十三間堂、京都タワー 街道歩きとは関係ないが、時間が余ったので3ヶ所を周りました。聞きしに勝る外国人の多さに改めて驚く。

・二条城(世界遺産)1603年に家康によって、京都の守護と上洛の際の宿泊所として建てられた。宿泊は家康、秀忠、家光、家茂(14代)、慶喜の5人のみ。御幸は1626年の後水尾天皇とその中宮・和子(秀忠の娘)。その際、狩野派の障壁画が新たに描かれたという。

東南隅櫓
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唐門(重文)、二の丸御殿(国宝)では狩野派の障壁画(レプリカ)を堪能し、後で展示収蔵館で「牡丹と梅」の原画を見る。
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二の丸庭園(特別名勝)、清流園(豪商・角倉家の屋敷跡から譲り受ける)
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・三十三間堂 中央の中尊と左右各500体、合計1001体の国宝「十一面千手千眼観世音」は全部顔が違っていて壮観。同じく国宝「雷神と風神像」、国宝「二十八部衆像」も素晴らしく玉眼で生きているようでため息が出る。高校の時以来で感動する。
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 ・京都タワー いつも外観だけだったので登ってみた。京都が大阪方面の一角だけ少し空いているが、ぐるっと山に囲まれた盆地であることがよくわかった。
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・京都駅大階段と反対側
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階段途中のカントリーハウス英國屋にてお茶
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夕食は弁当の「皐月の彩」
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お土産は京賀茂名物の「おやき」
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家には午後10時半前に到着。36266歩でした。完歩まで長いお付き合いに感謝します。次は予定通り、中山道を草津から東京に向かって進むことにします。また気が向きましたらお付き合いくださいませ。長くなって失礼しました。

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2019年5月20日 (月)

松田山登山と小仏城山登山の連チャン

●松田山(標高510m)
5/11(土)バスで小田急新松田駅から20分の田代向(たしろむかい)バス停で降りる。
その寄(やどろぎ)地区から松田山山頂を経て東名から見える、河津桜と菜の花が美しい西平畑公園を結ぶ「松田山みどりの風自然歩道」8㎞のトレッキングです。標高差は239mと低いのですが、累計標高差、上りが538m、下りが716mと上り下りが激しく大変運動になりました。
ストックを忘れたのが痛恨の極みでしたが、登山靴を履いていったのが救いでした。

中津川に架かる田代橋から向こうに見える尾根を縦走です。
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面白いオブジェのある家がある。
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はるか下に渡った橋が見えてきた。 
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ヤマフジ花盛り 
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山頂手前の展望台から雲をかぶった富士山が見えた。
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どら焼きを持ってきた人が羨ましい。
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頂上到着。低くても嬉しいものだ。 
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オオデマリとモミジのツーショット 
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最明寺史跡公園の池には鴨、。カキツバタとツツジが目に鮮やか。
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パラグライダー、気持ちよさそう!
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西平畑公園に着くとふるさと鉄道(ポッポ鉄道)が走ってきた。実物の1/6の大きさのミニ列車。全長1.1㎞。鉄橋や踏切、トンネル、スイッチバック2箇所、坂道やカーブもあるそうで、大人も凄く嬉しそうだ。
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松田駅の方を見ながら下山、ハーブ館でお茶して帰路に就く。25327歩。登山は昨年の2/28以来で1年2ヶ月半ぶりでした。
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●小仏城山(標高670.3m)
翌日5/12(日)、大丈夫かと危ぶみながら、高尾山の隣の小仏城山に登山に参加する。登山クラブがトレッキングクラブに改名して再開された(高齢化する一方のメンバーなので)。普通高尾山や景信山とセットだが、この山だけで高尾山登山のようなものでしかも混んでいなくて気持ち良く楽な山歩きでした。
高尾駅からのバスで日影で下車。帰路は小仏峠の駐車場方面に下山。そこからバスで高尾駅へ。

キンラン、コゴメウツギ、ツルニンジン、ジュウニヒトエ、アラゲカワラタケに似たキノコなどを見ながら登ると視界が開けてくる。
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頂上到着
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四等三角点 
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下山始めると相模湖が霞んで見えてきた。
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低い山ながら無事2日間の登山を終えて今回は足がつることもなく大満足でありました。16828歩。
足や腰を痛くしないで歩けるようにするため、体操をたった2,3分、遠赤外線をあてること10分と、甚だ不真面目な日常ですが、毎日欠かさないことがいいのだと言い聞かせています。

 

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2019年5月16日 (木)

東海道34 瀬田~大津宿(3)

●大津宿(53番目の宿)の続きです。<三井寺と逢坂の関蝉丸神社見学>

辻の札から寄り道して三井寺へ。

途中に琵琶湖疏水がある。
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三井寺到着。園城寺(三井寺)は天台寺門宗総本山。始まりは天智、弘文、天武天皇の勅願による。開祖は智証大師円珍和尚で母は弘法大師の姪。

立派な仁王門だこと(重文)。徳川家康より寄進される。
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釈迦堂(重文)
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近江八景「三井の晩鐘」。日本三銘鐘(あと2つは平等院・高雄神護寺)の一つ。数回来ているが覚えていたのはこれだけであった。
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金堂(本堂・国宝)は秀吉の北政所により再建された。本尊は弥勒仏(秘仏)。特別公開で内陣の大日如来や不動明王などの他、円空仏も見られた。
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閼伽井屋を見てから、霊鐘堂で弁慶の引き摺り鐘を見る(重文)。
藤原秀郷が三上山の百足退治のお礼に琵琶湖の龍神からいただいた鐘を寄進したと伝えられているが、その後弁慶が奪って比叡山に引き摺りあげたところ、イノーイノー(帰りたい)と響いたので、谷底に投げ捨ててしまった。そういえば延暦寺には力持ちの弁慶が渡り廊下をてんびん棒にして、2つのお堂をかついだという伝説から「弁慶のにない堂」というのもありましたっけ。
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弁慶の汁鍋。鐘を奪った際に置いていった大鍋というがその大きいこと。
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一切経蔵(重文)の内部の、一切経を収める回転式の八角輪蔵。
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三重の塔(重文) 家康により寄進された。
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微妙寺の十一面観音(重文・平安初期・湖国十一面観音霊場第一番札所)は見られない。
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地蔵様 
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毘沙門堂(重文)は鮮やかに彩色されている。
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西国十四番札所観音堂(県指定文化財)へと上がっていく。
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更に上の展望台に上がってみると、すっかり晴れて琵琶湖が一望できたのです。素晴らしい眺めです。三井寺から琵琶湖が望めることすら知りませんでした。
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大津そろばんの碑(大津はそろばん発祥の地)  
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東海道に戻る途中の長等神社内の馬神神社には、競争馬の名前が書かれた木札が貼ってあった。
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このあたりのお寺の多さにも驚きさすが日本一を感じる。大津宿も草津宿同様、宿場の解説板は殆どなく、ただこの本陣跡だけあった。
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この後、京阪京津線の大谷駅までの間に三つの蝉丸神社(平安時代、逢坂峠の守護神として建立され、後に蝉丸が合祀された)があり、その間に弘法大師堂や逢坂山関址の碑、大津絵販売の地碑などがある。

「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の歌で有名な蝉丸。逢坂の関に庵をむすび、往来の人を見てこの歌を詠んだという。
平安時代の歌人であった盲目で琵琶の名手だった蝉丸は、歌舞・音曲の神として、また眼病の人々の神として祀られている。能や人形浄瑠璃にも『蝉丸』がある。
逢坂の関は平安時代、山城国と近江国の国境となっていた関だったが、平安後期には形骸化され形を失ったという。
逢坂の関を詠んだ歌がもう一首、百人一首にある。清少納言「夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」

・関蝉丸神社下社 
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蝉丸型の時雨燈籠(重文)がある。鎌倉時代のもので貴重な燈籠だそうだ。
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・関蝉丸神社上社 
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弘法大師堂 
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逢坂の坂  
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逢坂山関址の碑と常夜燈があった。
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大津絵販売の地ハン六の碑。逢坂山付近の名物は、この大津絵と算盤と縫い針と走井餅だった。
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・蝉丸神社分社。
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2列になった車石。草が生えてわかりづらいが、牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が京都・大津間に敷設されていたという。
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京阪の大谷駅に到着すると、かわいらしい、コルクのオブジェがいろいろ並んでいた。
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大津絵もあった。
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この駅は日本の普通鉄道駅でもっとも傾斜のある駅であり、ベンチの脚の長さが左右で違っている!腰掛けながら反対のホームのベンチを見る。
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入ってきた京阪電車は碓氷峠並みの66.7%の勾配を下りてきたのだった。又辻の札あたりは併用軌道を走っていた。
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この日のお弁当は「京のおばんざい弁当」 お土産は生八つ橋でした。
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前回と同じのぞみに乗り帰宅は10時半頃。43800歩。いよいよ次回にゴールの三条大橋に到着予定です。

 

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