2018年7月16日 (月)

『続々ざんねんないきもの事典』今泉忠明監修

ハマユウは2鉢になり今年は6輪咲きました。
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コスモスの種も蒔いたので賑わっていますが、撮影しなかったですが今一番元気にたくさん咲いているのがオニユリです。
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今年どこからかやって来たのがアゼナ(アゼナ科)。水田の畔などの湿った場所に生える雑草。我が家が湿った場所でもないけれども元気に咲いています。ムラサキサギゴケ等によく似た小さな花です。Oさんに教えていただきました。ありがとうござました。
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本2冊
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『続々ざんねんないきもの事典』今泉忠明監修

いきもの事典だから、今回は植物もちょっと出てくるし、ネコの視点から見ると「ヒトもざんねん!?」それは
1 頭が大きすぎてすぐ転ぶ・・バランスが悪いにゃ~。
2 2本足だから走るスピードがおそい。ネコなら100mを7秒台で走れちゃうニャ。
3 目にたよりすぎで、鼻も耳も悪い。ネコの聴力は人間の4倍以上、嗅覚は数万倍ともいわれるニャ。
4 体に毛がなくて寒そう。
なんてネコに言われる人間様です。

3冊目になってもおかしなのがたくさん紹介されていて楽しい!

・蟹の仲間の「モクズショイ」は藻屑やサンゴ、軽石などのごみを背負わずにはいられない。
・カタツムリはカラフルな(食べ物の色素を消化できない)うんこを心をこめておりたたむ。
・コウモリはぶら下がれるけど、立ち上がれない。脚の骨は細く、筋肉はガリガリなので。
・ラクダのコブはたまにしおれる。瘤の中身の合計100㎏近い脂肪が、1ヶ月も食べないで使われてしまった場合。
・アベコベガエルは成長するほど、どんどん小さくなる。オタマジャクシが25㎝の大きさになり、5~6㎝の体長のカエルになる。
・チンパンジーは自分で自分をくすぐって笑う・・・のだそうだ。動物園で見てみたい(一日檻の前にいても無理か?)
・マダラアグーチ(哺乳類)はおしっこをかけられると相手が好きになる。
などなど、今回もざんねんな<こだわり><体><生き方><能力>に分けて115種類も楽しめました。

『日本の神社100選』一度は訪れたい古代史の舞台ガイド 日本神社研究会

裏表紙より・・神話の時代から各地の豪族による群雄割拠の時代、ヤマト王権の誕生、飛鳥時代、奈良時代を通じて「日本」という国のかたちが整えられるまで、その時代ごとに創設された神社、合計100社を掲載している。

前文より・・世界各地にはさまざまな宗教があるが、日本には神社を信仰する「神道」がある。その原型は仏教やキリスト教が誕生する前の縄文時代までさかのぼるといわれる。
神道には教えや戒律がなく日本人の伝統的な価値観から成り立つ。現存する最古の歴史書『古事記』、最古の正史『日本書紀』には数多くの神社が登場する。古代の日本においても「祭り事」を行う神社は重要な存在だった。
私が行ったことがある、あるいは超有名な神社が意外な時代に造られたりして、御神体や祭神や成り立ちなど改めて知って、結構面白い本でありました。自分で行ったのだけあげると

1神話の時代の神社(15社) 出雲大社 諏訪大社 宗像大社 花窟神社 青島神社 鵜戸神宮 

2ヤマト王権の黎明期(16社) 3世紀末から4世紀初め。 熊野那智大社 鹿島神宮 富士山本宮浅間大社 戸隠神社 彌彦神社

3ヤマト王権の創成期(10社) 実在する初代天皇・10代崇神天皇、11代垂仁天皇の時代やまと纏向に宮があった。大神神社 石上神社 熊野本宮大社 日吉大社

4初期ヤマト王権の時代(17社)12代景行天皇の第2皇子ヤマトタケルや14代仲哀天王の妃・神宮皇后の三韓征討の時代。伊勢神宮 熱田神宮 大國魂神社 香椎宮 

5倭の五王の時代(8社)15代(応神)~21代(雄略)7人のうち5人と考えられる。寒川神社 貴船神社 

6古代「国家」成立(7社)仏教が伝来したのが6世紀。神への信仰を主張する物部氏と仏教の受容を進める曽我氏が対立し物部氏が敗れる。日本の信仰は、ここから明治時代まで続く神と仏を同一視する神仏習合の時代へと変わる。山岳修行で超人的な能力の獲得を目指す修験道も誕生した。宇佐神宮 英彦山神宮

7飛鳥時代(15社) 談山神社 八坂神社 厳島神社 出羽三山大社

8奈良時代(12社) 伏見稲荷神社 神田神社 高麗神社 日光二荒山神社 三嶋大社 ・・・と本社をお詣りしたのは32社でした。 

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2018年7月11日 (水)

東海道五十三次歩き26 鳴海宿・宮宿・桑名宿(3)

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●桑名宿(42番目の宿)宮宿から0㎞(海里7里) 日本橋から372.3㎞ 宿の長さ2.7㎞ 本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒。脇本陣の数は小田原と並んで1位。旅籠数は宮に次いで2位。

桑名宿も宮宿と同様七里の渡しの渡船場として栄え、旅籠数も120軒も数える賑やかな宿場であった。

・六華苑を出て揖斐川の堤防の上を歩き宿場の中心へ向かっていく。向こうに長良川の河口堰も見えた。

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・大塚本陣跡(現在料亭・船津屋)、この先が船番所、脇本陣駿河屋(現在高級旅館山月)。
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泉鏡花がこちらの小学校の講演で来た時船津屋に宿泊し、この時の印象をもとにして小説『歌行燈』を書きあげた。演劇化し映画化するため、久保田万太郎もここに滞在し、戯曲『歌行燈』を書き、明治座で公演された後映画化された。読んでないので図書館から借りてきました。
「歌行燈句碑」久保田万太郎が船津屋主人に求められてその情景を詠んだ句碑。字が消えて読めない。「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」
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・桑名側の七里の渡し
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・伊勢の国一の鳥居。初めて建てられたのは天明年間(1781~1789)で、式年遷宮ごとに伊勢神宮宇治橋の鳥居を移しているそうだ。
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・蟠龍櫓(復元)が見える。広重の絵にも描かれている。蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍の事で、航海の守護神としてここに造られたという。
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・舟会所、問屋場跡、通り井跡を通り、蛤料理屋さんを見て、九華公園(桑名城址)へ
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                    お堀がきれい
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  天守台跡 崩れやすいため登るのは禁止。戊辰殉難招魂碑が建っている。
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             猫4匹に遭遇。この子は親分みたいな感じ。
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本多忠勝の像 徳川四天王の一人。関ケ原の合戦後家康は本多忠勝をここに配置し、その後城を整備していった。
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・東海道に戻ると右手に青銅の鳥居の春日神社がある。木製から青銅に造り替えられたのは1667年。門の奥には楼門が見える。逆光で見えないが、鳥居には色々な模様が彫ってあって、貫には藤紋、両柱の上部には上り藤紋がある。
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             島木には花輪違いの模様があるのには驚く
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「しるべいし」が鳥居の左下にあって、迷子石とも呼ばれ、左に子どもの特徴を書いた紙を貼り、右に心当たりのある人が子どものいた場所などを書いて貼ったそうだ。
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              楼門の左右には左大臣と右大臣がいた
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拝殿 春日神社(俗称)は桑名宗社(公称)で、桑名神社(拝殿の紋は「三」)に中臣神社(拝殿の紋は「大」)が遷座したもの。
拝殿には「大」と「三」の紋が見える。桑名宗社の紋は「大三」とのこと。
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・飛び出し注意の看板は蛤のかぶりものが
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・桑名城城壁 積石は「野面はぎ」「打込みはぎ」の乱積み。
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・歴史を語る公園 東海道五十三次を模していて、日本橋、富士山、そしてたちまち三条大橋に到着。面白い。
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・石取会館 昔銀行だったが現在、日本一やかましい祭りの「石取祭」の祭車や祭りの紹介施設。桑名七曲り一つ目を曲がった先。
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向かいのマルマンにて名物アイス饅頭を買って食べる。暑かったので美味しかったこと。
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・「右:京いせ道」「左:江戸道」と書かれる
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・光明寺、泡洲崎八幡社を通り、十念寺へ。森陳明(戊辰戦争で新政府軍と戦い、降伏後、桑名藩の全責任を負い、切腹した人物)の墓がある。桑名は幕府側についたため、このあと城も取り壊されてしまった。
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・寿量寺の、狩野光信(永徳の長男の絵師)の墓。江戸からの帰り、桑名で病死し、このお寺に葬られたのだそうだ。
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七曲見附跡で曲がり、シーボルトも見学したという広瀬鋳物工場跡の説明碑を過ぎる。

・天武天皇社 壬申の乱の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に泊まったことにちなんで建立された神社で、天武天皇を祭祀する唯一の神社だそうだ。
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・一目連神社 雨乞いの神で、火を扱う鋳物師によって信仰され、金属工業の神として知られたという。
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・善西寺の鐘
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・馬繋ぎの輪 実際の立て場はこの寺あたりで現在より少しずれていた
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・矢田立場跡(火の見櫓が復元されている)
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・近畿地方に多いと言われる飛び出し坊やだそうだ
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益生駅はすぐそこ、いろいろ近鉄を乗り継いで名古屋駅へ。約1時間後の切符が取れたので、きしめんをいただく。
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何時も買ってもらうお土産は、岡崎で買えなかった「あわ雪」、これがきめが細かくて絶品。写真が何処かへ消えてしまったのが残念。
7:42ののぞみに乗り、帰宅は11時でした。

今回桑名はブログ友の「花筐~花がたみ」Saas-Feeの風さまが歩かれてもっと詳しく説明されているのを参考にさせていただきましたが、とても全部見ることが出来ませんでした。お礼申し上げます。
                
                    (終わり)

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2018年7月 8日 (日)

東海道五十三次歩き26 鳴海宿・宮宿・桑名宿(2)

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●宮宿(41番目の宿) 鳴海宿から6.5㎞ 日本橋から約371㎞ 宿の長さ約1.3㎞ 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒。
宮宿は桑名への海上七里の渡しを控えていたことから、東海道で最も大きな宿場の一つであった。悪天候で欠航した際の船待ちの客や、乗り遅れた旅人で、他にはないほど248軒の旅籠で賑わった。熱田神宮の門前町でもあった。

新堀川を熱田橋で渡って宮宿(熱田宿)に入り、右に神明社があり名古屋と知多半島を結ぶ道の道標があった。

・一里塚跡(89里目)は再現されたもの
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・姥堂の建物の1階には裁断橋址があり、橋のミニチュアがあった。裁断橋は精進川に架けられていたが、川が埋め立てられすでにない。姥堂の姥は奪衣婆という説や日本武尊の母などという説がある。隣に都々逸発祥の地の碑があった。
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あんかけスパゲティの店でミラカンの昼食です。ミラカンとはミラネーゼ(赤ウィンナー、ベーコン、ハム)とカントリー(玉ねぎ、ピーマン、トマト、マッシュルーム)をミックスした具のあんかけスパゲティ。胡椒が効いているのが特徴でしょうか。面白い味でした。
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・すぐ先の鈴之御前(れいのみまえ)神社は熱田神宮への参詣者が禊をした場所だそうだ。神社の裏側が徳川家康幽距跡地だが見つからなかった。織田信秀の元に送られた時2年間ここに幽距させられたそうだ。
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・白本陣跡の表示は見つからず、七里の渡しへ曲がる手前に分岐点の道標がある。南は宮の渡しへ、北は美濃路・佐屋路へと重要な分岐点だ。いつか佐屋街道を姫街道と同じく余裕があったら歩きたい。
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・道標の向かいの地蔵が「ほうろく地蔵」。ほうろく売りが荷物の片方の重し代わりにして運んでここで捨てたのを石仏として地元の人が祀った。なかなか立派である。
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・赤本陣跡の説明板が、ひつまぶしで有名な蓬莱軒の駐車場にあった。お店は30分待ちという混み具合。
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・宮宿側の七里の渡し船着き場跡(宮の渡し公園)に到着。 芭蕉がしばしばここを訪れたことやシーボルトもここに寄ったということが説明板に書いてあった。
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                     熱田常夜灯
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時の鐘の櫓 昭和58年建築。江戸時代は熱田神宮前の蔵福寺にあって時を知らせていたが戦災で焼けてしまった。
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・公園の前の熱田荘。明治時代の建物で料亭だった。今はデイケアとして利用されている。
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・熱田神宮へ。三種の神器の一つである草薙剣を御神体としており、伊勢神宮に次ぐ社格を誇る。敷地19万㎡。本宮、別宮の他、摂社、末社など45社にのぼる。
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               愛知県の日本酒が奉納されている
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          御神木の大楠 弘法大師お手植えで千年以上という
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本宮拝殿 祭神は熱田大神(天照大神)他、相殿神四神。相殿神は同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること。広重の絵ではここの熱田神事が描かれる。
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鶏がいた。奈良の山の辺の道の石上神宮には神様としての使いの鶏がいる。40年前に奉納された東天紅や烏骨鶏だ。さて、熱田神宮のこの名古屋コーチンは奉納されたのか、勝手に棲みついたのかわからない。
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信長塀 信長が桶狭間の戦いの前、熱田神宮に戦勝祈願をした。戦勝した信長はお礼に築地塀を寄進した。
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           きよめ茶屋で、抹茶ときよめ餅のセットで一休み。
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ここで愛知県が終わりました。静岡県に比べてあっという間。往時の本陣や旅籠見学、美しい松並木、かきつばた園、東海道三社のうちの二社にお参りした。芭蕉の句碑が多く、しかも生前の直筆まで見られるとは。実にいろいろなお地蔵さまに会えたし、三面馬頭観音様もたくさん見ることが出来た愛知県でした。

◆名古屋駅から近鉄で30分、桑名駅で降りて歩きはじめるが、桑名宿七曲りを歩く前に海臧寺と六華苑を見学する。

・桑名のマンホール 七里の渡しと蛤
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桑名の千羽鶴 1枚の紙から最大切込みを入れながら97羽も鶴を折るそうだ
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・海臧寺 三大河川の治水工事に外様大名の薩摩藩が工事を命じられた。その間、悪疫、紛争、工事費の超過などの責任を負って殉難した24名の墓があり中央が平田靭負のお墓である。
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「通り井」・・桑名は水質が悪く、住民たちは飲み水の確保に苦労したので、桑名藩の4代目藩主が水路を造り、各所に井戸を設けて用水にしたという。・・説明板や三崎見附跡や蔵前祭車庫を通って、六華苑へ

・六華苑 山林王、桑名の実業家二代目諸戸清六の邸宅で洋館部分はジョサイア・コンドルの設計(鹿鳴館を設計した人)。「黒井戸殺し」のロケ地として使われたそうだ。敷地は18000㎡と広い。
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         洋室、庭(国の名勝)、和室、離れ屋とどこも実に素晴らしい。
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                        続く

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2018年7月 5日 (木)

東海道五十三次歩き26 鳴海宿・宮宿・桑名宿(1)

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6/22(金)晴れで暑くなりました。この日から名古屋まで「のぞみ」。東京駅6:43発~名古屋8:23着。名鉄に乗り換えて鳴海駅に戻り、9時頃より歩き始めました。鳴海宿の続きから宮宿へ。現在、七里の渡しがないので熱田神宮駅から名古屋駅。名古屋駅から近鉄で桑名駅へ。桑名宿を歩き、隣の駅益生駅より名古屋に出て、東京へ。47278歩でした。

●鳴海宿(40番目の宿) 知立宿から11.1㎞ 日本橋から約363.7㎞ 宿の長さ1.8㎞ 本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒。
殆ど遺構が残っていない。広重の絵は「名物有松絞」。

鳴海駅から旧東海道へ出てスタート。

・復元された鳴海宿高札場。宿場間の駄賃や人足賃を示しているそうだが読めない。
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・その奥の天神社は鳴海城跡だ。今川方の猛将・岡部元信は今川義元が討たれても籠城して戦ったという。
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・斜め向かいにあるお寺の圓道寺には三猿が山門の上の扁額に、本堂の上の屋根に、絵馬にも描かれる。
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どうして三猿?ここの御本尊が青面金剛明王だから。この明王はインド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し日本仏教における庚申講の本尊で、三尸(さんし)を押さえる神とされる。
「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わり、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいう。その教えが、三猿のモチーフになった。それで青面金剛や庚申塔の多くに三猿が彫り込まれていて、この東海道の旅でたくさん見てきて、初めて知ったというわけです。

                  青面金剛不動明王
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・お隣の誓願寺には芭蕉最古の供養塔があった。緑色の石である。このお寺は芭蕉の弟子・下里知足の菩提寺で、芭蕉没後の翌月に如意寺に建てられた供養塔が、すぐ近くのこの寺に移された。亡くなって翌月なので一番古いということになる。
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・少し先のところを右の道に入った所に東福院がある。廃城になった鳴海城の廃材で寛永年間(1624~1644)に再建されたもので山門が当時のもの。古く感じなかった。
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             門の脇の観音堂の中央は子宝観音である
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・丹下町常夜灯 ここが鳴海宿の西端。鳴海宿の東端と西端には常夜灯があって、今までなかったことで貴重とのことだ。
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◆鳴海宿と宮宿の間

・千句塚公園内の千鳥塚 芭蕉存命中に立てられた唯一の翁塚で、俳文学史上稀有の遺跡。この文字は芭蕉筆。1687年。
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・公園の奥に緒畑稲荷神社があるが、白狐が棲みつき神社を守っていたという。
建物内の狐と外の笑っているような白狐
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                  可愛い不動明王と弘法様
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・天白川を渡ると名古屋市南区に入る。またまた珍しい地蔵・いぼ地蔵があった。地蔵の左手のいぼ状の隆起に触れていぼが取れるのを祈願するという。
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・笠寺一里塚(88里目) 片側しか残っていないが、名古屋市に現存している唯一の一里塚。
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・玉照姫が祀られる泉増院 
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この後に行った笠寺観音(笠覆寺)には、呼続(よびつぎ)の浜の流木に刻まれた十一面観音があったが、堂が荒れ、観音像が雨ざらしになっていたのを見かねた玉照姫が自分の笠をかぶせた。後日娘が仕えていた長者の家に泊まった藤原兼平は娘を見初め、妻とし、その時から玉照姫とよばれるようになった。

・笠寺観音の山門は立派だ
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                        本堂
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              玉照堂 縁結びとして信仰されている
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               芭蕉の千鳥塚と宮本武蔵之碑もある
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・塩付街道(星崎塩田の塩を信州に運んだ道)の標柱を左に曲がると富部神社がある。隣の長楽寺に家康四男松平忠吉が病気の平癒祈願をし、無事回復したので、そのお礼に建てた神社。桃山時代の特徴を備えた国の重要文化財。
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・その長楽寺は動物寺で盲導犬サーブのお墓がある。御主人を交通事故から守って、そのため片足をなくした盲導犬だ。そもそもこの寺は弘法大師の創建で今川氏が再建したもの。
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                     目守弘法大師
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・鎌倉街道と交差したところの地蔵院の中に、又初めて聞く大きな(2.3mの坐像)湯浴地蔵がある。人々が湯を浴びせて祈願したことから名付けられたそうだ。
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・一方左折すると百毫寺があり、 年魚市潟(あゆちがた)勝景碑が建てられている。年魚市潟は鳴海から熱田にかけての海辺の湾入した遠浅の地形をさし、これがあいちに転じで愛知の語源になったそうだ。今は潟の面影がなかった。
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2018年7月 2日 (月)

リニア&猿橋見学

●リニア見学
6/9(土)、丁度リニア見学センターでリニアの走行試験が見られる日でした。

大月駅で下車すると岩殿山(昔登った)の岩が向き出しているのが見えた
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                            バスからリニア走行試験線が見えてきた
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見学センターに到着 超伝導リニアが出迎えてくれる。車両に備えた超電導磁気と地上に設置したコイルの間に生じる力で、車体を浮かせて走る、磁気浮上式の鉄道。摩擦力に頼らないためより速く安全に走ることができるとのこと。
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見学センターでは早速1時間に何回も繰り返される走行試験を見ることが出来た。時速500㎞以上とはあっという間に走り去る。カメラは走り去る方向に構えよと教えてもらったのでかろうじて撮れた。
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研究が始まったのが1962年で新幹線が走る2年前。1972年浮上走行成功。1979年無人走行時速517㎞。1995年有人走行411㎞、2003年有人走行581㎞、2015年有人走行608㎞。2005年の段階で皇太子さまはじめ試乗者が10万人突破。東京・名古屋開業予定2027年。東京・大阪2045年。

色々な型の模型
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磁気浮上走行の模擬体験をする。説明者の言葉に山梨県は新幹線が走らない県で京阪に出るのも時間がかかり、これは私たち県民の夢でもあるという言葉が印象的でした。
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                                    全長17mのジオラマの一部
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●猿橋見学
大月駅から猿橋駅まで一駅戻って、桂川を左に見ながら、あじさい遊歩道に沿って歩き、最後に上ると猿橋に到着。

あじさい遊歩道 例年より10日以上も早く満開に近い状態で今年のあじさい鑑賞となりました。
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桂川 このあたりの崖は猿橋溶岩流といって、富士山から30Kmも桂川に沿って流下してきた溶岩流の末端部だそうだ。
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猿橋は日本三奇橋の一つ(岩国の錦帯橋、もう一つは黒部の愛本橋あるいは徳島のかずら橋、日光神橋、長野桟)で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル、水面からの高さ31メートル。
1984年(昭和59年)に架け替えられたこの橋は1851年(嘉永4年)の橋を復元したもの。説明板によると総工費3億8千3百万円だったそうだ。
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橋脚の構造(Wikipediaより引用)
深い谷間のために橋脚はなく、鋭くそびえたつ両岸から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支え木をせり出し、橋を支えている。
刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。
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             歌川広重や葛飾北斎が猿橋を描いている
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          重要文化財の第1号水路橋は八ッ沢発電所の施設
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江戸時代に川から30mの高さに吊り橋でなく、刎木と呼ばれるこんな構造の橋をよくぞ造ったものと感心したが、思えば2000年の昔にローマの水道橋などは橋を支えるアーチを考え出したのも凄いことと土木、建築の世界には驚かされます。

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2018年6月28日 (木)

東海道五十三次歩き25 新安城~知立宿~鳴海宿(3)

先日テレビで「外国人がはるばる買いに来るスゴイ日本製品ランキング16」という番組があって有松が出てきたのでついでに全部見ました。
ランキングの15位に有松絞りのハンカチが入っていました。本当に凄い!
ちなみに一位から並べると、1.ニッカウィスキー(北海道)2.アメ横のお菓子 3.靴下・5本指など(原宿)4.アメ横の焼き海苔 5.あぶらとり紙(京都)6.七味唐辛子(京都)7.古着(原宿)8.木版画(京都)9.箸(銀座)10.絵具(天王洲)11.カー用品(町田)12.布(日暮里)13.錦鯉(新潟)14.革財布(浅草)16.傘(浅草)

◆豊明市から有松までの間・・・桶狭間の戦いに関する史跡があった。

・名鉄前後駅の先を右手に上って行くと戦人塚がある。桶狭間の戦いの戦死者2500人余を供養したところ。前後という地名も今川軍が狼狽して前後して逃げ惑ったという説がある。

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・豊明市の端の方に桶狭間古戦場跡がある。1560年に駿河・遠江・三河の今川が尾張の織田勢の急襲を受けて、義元が戦死した。信長は清州を出るときは6騎だけで、熱田神宮に戦勝祈願した時は1000人、合戦の時は軍勢3000人。対する今川25000人の軍勢だったという。
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                今川義元の霊が祭られている墓
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桶狭間七石表 
今川武将の七人の戦死場所の碑で一号碑が義元の戦死場所だ。二号碑が松井宗信の戦死場所。桶狭間古戦場はもう一つあるという説があってそこは名古屋市緑区で少し遠いために行かなかった。まだどちらが本当の古戦場だったかは決着がついていないという。
               義元の戦死場所(一号碑)
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向かいの高徳院境内にはお化け地蔵(亡霊を鎮めた地蔵)などいろいろな地蔵が並ぶ。そこに義元仏式の墓碑(法名を刻んで建立された供養塔)もあった。
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◆有松宿(間の宿) 
重要伝統的建造物保存地区(平成28年選定された。現在117ヶ所ある)で美しい街並みは800m続いている。重伝建であることを慕辺未行さまに教えていただきました。有難うございました。有松・鳴海絞りは国の伝統的工芸品に指定されている。

ついに豊明市から名古屋市緑区に入った。有松宿に着く。

        どの家にも「ありまつ」の絞り染めののれんがかかっている56_450x300
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       名古屋市の消火栓のマンホールは名古屋城としゃちほこだ
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               別バージョンはアメンボとのこと
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            有松のは絞りをイメージしているのでしょうか
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有松山車会館。3台の山車があり、交互に1台ずつ展示している。土日祝日しか開館していないということで見られなかった。
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服部家は1790年創業の絞り問屋。屋号が井桁屋。11棟の建物が県の有形文化財。主屋の2階は黒漆喰の塗り籠造、屋根に卯建が上がる。土蔵は漆喰の塗り籠造、腰はなまこ壁で防火対策を行っている。連子格子、虫籠窓等なんて美しいのでしょう。
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中舛竹田荘は有松絞りの開祖、竹田庄九郎ゆかりの建物で外観だけ江戸期の様式を再現。現在デイサービスの建物として使われている。
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絞り問屋の竹田邸の屋根の上には、明治時代のガス灯の名残のランプが置かれている。
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岡家住宅(右手)の二階窓は優美な縦格子だ。広重の絵の鳴海宿ではよくこれが描かれている。
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小塚家の立派な卯建。この建物は塗籠造のうち最も古いものの一つと言われる。
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この辺りで街並みが終わるが、電柱がなかったのでより美しかった。
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・有松の氏神の有松天満社
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・復元された有松一里塚(87里)
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●鳴海宿 知立宿から11.1㎞ 日本橋から約363.7㎞ 宿の長さ1.7㎞ 本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒。

・名残松を通り過ぎるとやがて永代常夜灯が現れる。ここが鳴海宿の東の入口である。
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・中島砦跡 織田信長が義元の侵攻に備えて築いた砦で、桶狭間の戦いでは重要な砦だった。
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・瑞泉寺の山門 宇治の万福寺の総門を模したもの。
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鳴海宿はとば口を見ただけ。次回に鳴海宿を見ることにしここで街道歩きを終え 鳴海駅に向かう。名鉄で名古屋へ。新幹線の並び席が取れたのが1時間後だったので山本屋本店で味噌煮込みうどんを注文する。漬物盛り合わせの中の生玉ねぎスライスが何も辛くなくて、生まれて初めてこんな美味しい生玉ねぎをいただきました。
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                   お土産はきしめん
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街道歩きに関してもいつもいつもお付き合いいただきありがとうございます。娘の有給休暇も今年度のはそのうちなくなりそうですし、真夏はお休みし、四日市から向こうをいかにして日帰りで歩けるか難問ですが、来年のいつかクリアできたらと思っています。次の鳴海宿から宮宿、桑名宿は先週歩きました。またよろしくお願いいたします。

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2018年6月24日 (日)

東海道五十三次歩き25 新安城~知立宿~鳴海宿(2)

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●知立宿(池鯉鮒宿)の続き

・山車庫 知立神社の例祭「知立まつり」の隔年に行われる本祭の山車が保管される。その時、知立神社では国指定重要無形民俗文化財の人形浄瑠璃芝居の「山車文楽」と「からくり」が上演される(ユネスコ文化遺産)。このあと似たような山車庫を桑名までいくつか見た。
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・その横の奥に入った所の宝蔵寺には追腹塚がある。石田光成が家康の暗殺を命じた加賀野井弥八郎の墓とこれに絡む刈谷城主や浜松城主との斬り斬られで刈谷側の家臣が二人切腹するという、ややっこしい話の塚なのである。三十三観音菩薩像もあった。
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・知立古城址 知立神社の神主氷見氏の居館だったが、桶狭間の戦いのあと、織田軍によって落城した。
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・あんまきの店・小松屋本家であんまきを食べる。美味しいのなんのって!
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・知立公園へ花菖蒲を見に行く。ここの花菖蒲は明治神宮から昭和時代にご下賜いただいたものだそうだ。例年なら見頃だが今年は見頃を過ぎていたがきれいにまだ咲いていた。
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・隣の知立神社へ(東海道三社の一つ。他は三嶋大社、熱田神宮)
                                 拝殿1832年(天保2)造営
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国指定重要文化財の多宝塔がなかなか素晴らしい。850年僧・円仁の創建、1509年の再建、1929年解体修理復元。
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                                          神社の裏の花菖蒲
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                                    太鼓橋は1732年のもの
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この辺りが知立宿の西見付跡だ

◆知立宿から有松宿(間の宿)の間 (知立市~刈谷市~豊明市へ)

・総持寺 家康側室・お万の方の生誕地碑がある。家康の次男・結城秀康を産んだお万の方は、知立神社の神主氷見氏の娘だそうだ。
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             洗心水琴窟 水子地蔵に7回水を掛けると水琴窟の音がした
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                             お地蔵様に囲まれた一願出世不動
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逢妻川を渡ると知立市から刈谷市に入って85里目の一里塚は現存せず説明板だけ。ここで回転ずし「くら寿司」で赤だし(味噌汁)で発汗で失われた塩分を補いながら寿司8貫と巻きずしを食べる。

・刈谷市のマンホールも知立市と同じかきつばた
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・十王堂の三面馬頭観音様
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・洞隣寺の中津藩士の墓(左2つ)と「めったくやしいの墓」(右の小さな墓)
帰国途中の中津藩士2人が喧嘩して斬り合いここに葬られたが、どうしても反対側に傾いたので村人が篤く葬りなおしたので傾かなくなった墓。
洞隣寺の気立ては良いが不美人の下女が医王寺の住職に恋したが、見向きもされず憤死。ここに葬られたが墓石から火の玉が出て「めったくやしい」の声と共に医王寺へ飛んで行ったとか。
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・いもかわ(ひもかわ)うどん発祥の地。名古屋では「きしめん」といわれる。
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・馬頭観音そのものが道標になっている。観音の台石を見ると「右 ころも」「左 東さかい」と彫られている。挙母(ころも)街道と東街道の分岐点の道標になっていた。
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・藤松駅手前付近の街並み
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・乗蓮寺の椎の木は樹齢850年の刈谷市の天然記念物 2本ではなく空洞だそうだ。
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・境川の境橋を渡ると刈谷市から豊明市に入った。ここが三河と尾張の境だそうだ。
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・豊明市のマンホールは桶狭間古戦場のデザイン
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・どんどん歩いていくと、こんな風に両側に残っている阿野一里塚(86里)がある
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                      (続く)

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2018年6月21日 (木)

東海道五十三次歩き25 新安城~知立宿~鳴海宿(1)

6/15(金)名古屋方面は1㎜程の雨のち曇りということで出かけました。地元駅5:17の中央線、東京駅発6:26の豊橋に停まる「ひかり」座席指定で出発。名鉄に乗り換え前回の乗車駅・新安城に到着し、歩き始めたのは8:45分頃。在原業平伝説の八橋かきつばた園に寄り、知立(池鯉鮒)宿を経て桶狭間の古戦場跡に寄り、間の宿の有松の重伝建の通りを鑑賞し鳴海駅に到着。名古屋に出て新幹線の座席指定の横並び2席がたった1ヶ所取れたのが1時間後の7時過ぎ。10時過ぎには家に帰りましたが、とても長い一日でした。約46000歩。
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◆新安城~知立宿まで

・駅からすぐの所に立派な崇福寺がある。注連縄が張られた三猿に会えなかったが素晴らしい庭に感動。
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コンロンカや夏椿が咲く
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・安城市の別バージョンの七夕の図柄のマンホール 安城も平塚や仙台と同じく七夕が有名とのこと。
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猿渡川を渡ると安城市から知立市に入った。

・御鍬(おくわ)神社には伊勢神宮の2分の1の大きさの、神明造りの本殿があった(建物は大正時代に造られた)。江戸時代に近隣の8つの村が連合して伊勢から御鍬神を勧請した。豊受比売尊が祭神で豊作を祈ったのだそうだ。
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・「従是四丁半北八橋業平作観音在」と彫られた道標は八橋かきつばた園のある無量寿寺へのもの。往復2㎞もあるがそこへ向かう。
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・東下りの途中、同行者に言われて詠んだ在原業平の有名な歌は(かきつばた)の五文字を冒頭に据えた。
 からころも 
 きつつなれにし 
 つましあれば 
 はるばるきぬる 
 たびをしぞおもう
と刻字されていて、まわりに「かきつばた」がデザインされている知立市のマンホールがあった。
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・無量寿寺 
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杜若姫供養塔や芭蕉連句碑が境内にあり、また亀の上に立っている亀甲碑(八橋古碑)・・・(荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた)がある。
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             業平竹 縁結びの竹として信仰されている
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                    杜若池(心字池)
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所在地の八橋は古来から杜若の名勝地であった。現在かきつばた園には3万本の杜若が咲く。4月終わりから1か月間開催されるお祭りは今年は生育不良で中止になったそうだ。この日、1輪だけ咲いていた!
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昭和になって復元されたかきつばた園の八橋。満開だったら尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」を彷彿とさせるでしょう。この絵の10年後、橋を描いた「八ッ橋図屏風」を制作している。伊勢物語を題材にしているが、八橋の杜若がモデルだったとも言われる。
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                 業平像と句碑もあった
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・東海道に戻り進む。松の植えられた塚が両側に残っている来迎寺一里塚(84里)がある。普通は榎が植えられている。
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・吉田忠左衛門夫妻の墓 忠左衛門は赤穂浪士の一人。妻りんは身を寄せていた娘婿が刈谷に転封されたので、この地に移り亡くなった。死別の折、形見に貰った夫の生歯とともに埋葬されたとのことだ。
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両口屋本舗の「ミカン氷餅」を午前中なのでやめたのは残念であった。

・三河三弘法の一つ見返り弘法大師道、遍勝院への道の入口。見に行けなかったが、三弘法とは別れを惜しんで、 やや右を向いて振り返っておられる御姿の見返弘法大師と、立ち去る大師との別れを惜しんでお見送りされたので見送弘法大師、大師との別れに際して涙を流されたので流涕弘法大師と呼ばれる三体の弘法大師像のこと。
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・知立宿の東の外れに松並木がある。500mに170本植えられているそうだ。
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並木横の歩道には池鯉鮒の碑と可愛いモニュメントがあり、杜若も植えられている。万葉歌碑と馬市句碑と広重の絵が並木の最後にあり、知立市の力が入った松並木は楽しい。
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●知立宿(池鯉鮒宿)(39番目の宿)岡崎宿から15㎞。宿の長さは1.36km。日本橋から約351.6㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒。

・名鉄三河線の踏切を越えたら東見附跡。ここを右折して慈眼寺へ。入口の家畜市場標柱。
広重の絵にも野原で開かれている馬市の様子が描かれるが、明治時代に、馬市はここ慈眼寺境内に移り、昭和19年に馬市は終了した。
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愛知県はお地蔵さんが多い印象だが、このお寺にも珍しい名前のお地蔵さんがいらした。馬頭観音は60年に1回の開帳とのこと。
                      北向き地蔵
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                       蚕地蔵
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              マンマ地蔵(歯が痛いときにお詣りする)
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                  顔が白いおびんずる様
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こんな店があった
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・知立市別バージョンのマンホールはやはり「かきつばた」
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・問屋場跡の石柱を過ぎると、本陣跡、明治天皇行在所碑があった。
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2018年6月18日 (月)

国史跡・八王子城跡

先日、北条氏が造った城として小田原城と山中城を見てきました。残る北条氏の八王子城と鉢形城、合わせて4城とも日本100名城に入っています。
その八王子城跡に行ってきました。これで100名城の32の城・城跡を見たことになります。100名城めぐりをしているわけでなく偶然です。一方日本の滝100選はたった12滝にとどまります。

北条5代 早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直 
   
三代氏康の三男で、四代氏政の弟である氏照が建てた山城。ちなみに鉢形城城主が氏照の弟・氏邦だ。
氏照は八王子城の少し東北にある滝山城(以前訪れたが堀も深く土塁も高く広大で立派ですが、平面的な広がり大きく、各廓の高低差が少なく籠城に向かない)の城主・大石定久の養子となり大石源三を名乗ったが、北条氏照に改名。
1582年頃(織田信長没)から八王子城の築城を始める。江戸時代の城は、平地に造られ、立派な天守閣があるが、戦国時代の城は山の地形を生かして築かれ、天守閣もなかった。
1586年頃、ここに移り1590年、氏照は兄と共に秀吉の小田原城攻めで小田原城にいた。八王子城は秀吉軍の中の前田利家・上杉景勝軍に攻め込まれ、一日で落城した。
一方の山中城は秀吉軍の豊臣秀次軍により半日で落城したのでした。

                              八角形の屋根のガイダンス施設の中

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4_450x355_3マンホール蓋3種、3兄弟の順に、城を守る方向に設置している。
①小田原市:小田原城主・北条氏政「酒匂川」
②八王子市:八王子城主・北条氏照「車人形」 
③寄居町:北条氏邦「キジ、カタクリ、ヤマザクラ」 ③しか見つからなかった。


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御主殿の滝 落城時に御主殿にいた北条方の武将や婦女子らが、滝の上で自刃して次々に身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったという。
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曳橋 当時、城山川に簡単な木橋をかけ、その橋を壊すことで敵の侵入を防いだ。
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石垣 虎口 
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                        石垣 城山山中から産出する砂岩で出来ている
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                                               御主殿跡 
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御主殿庭園跡 池も配されていたという
この御主殿からは接合したら2436点の個体になった遺物が見つかった。お茶をひくための茶うすや中国製の皿、そしてベネチアで生産されたレースガラス器があった。日本国内での出土は八王子城のみという。
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本丸と頂上目指して登山開始  アザミやユキノシタが咲いていた
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                      九合目
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       少し先からの展望 スカイツリーや西武ドームなども見えた
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                      頂上
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        八王子神社 城の守護神「八王子権現」が祀られている
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八王子城本丸跡 標高460m 本丸が頂上と書かれた石標より高い所にあった?
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       八王子城跡入口手前に北条氏照及び家臣墓がある
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                  グミの実が美味しそう
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戦国武将の生活の意外な一面を見た八王子城でした。

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2018年6月14日 (木)

東海道五十三次歩き24 美合~岡崎宿~新安城(後編)

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●岡崎宿の続き

・いよいよ岡崎公園の中の岡崎城へ27_450x300
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                                    龍神神社の前のご神馬
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  天守閣(昭和34年復興)  手前右は亀の台座の上に家康公の遺訓碑が。
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家康は1542年にここで生まれ6歳で織田信秀の人質、8歳で今川義元の人質に、19歳の時の桶狭間の戦いにて義元戦死でここに戻る(1560)。10年後1570年に嫡男信康を城主とし、自分は浜松へ。秀吉によって家康が関東に移されると、二十七曲を造った秀吉の家臣・田中吉政が城主。江戸時代になってからは岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏と家格の高い譜代大名が城主となったと説明されていた。他、武具や城下町の産業(鋳物・刀鍛冶、石工道具、三河花火、矢作川舟運、八丁味噌など)やジオラマが展示されていた。
                                      5階展望台からの景色
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石垣めぐりのマップに寄れば、岡崎城跡には見えないものも合わせて23種類の石垣が紹介されている。岡崎産の花崗岩が使われている。
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またまた芭蕉句碑を見、家康公の銅像、花時計、二の丸の跡の能楽堂、東照公産湯の井戸などを見学した。
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・城から八丁ある八帖町、八丁味噌発祥の地だ。「い」から始まった標柱の最後に見た「れ」は1枚板で草履も絵で描いてあった。
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カクキュー(1664年創業)とまるや(1337年創業)がある。

まずカクキューの方で「味噌煮込みうどん」の昼食をとる。白い大きな食品は「たま麩」だそうだ。八丁味噌(豆味噌)の味が少々鹹いけど、汗をかく歩きには塩分補給になった。
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                  自販機が八丁味噌色
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まるやで工場内見学
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高さ2m、重さ700㎏の木桶に約6トンの味噌が入れられ、その上に3トンの重石が円錐状に積み上げられる。一人前に積めるようになるには10年かかるそうだ。八丁味噌が欧米、オーストラリアやニュージーランドに輸出されているそうだ。
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カクキューとまるやに挟まれた旧道を進み矢作橋(東海道三大大橋)を渡る。江戸時代9回も架け替えられたとか。広重の岡崎宿の絵に描かれている橋だ。
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渡った先に蜂須賀小六と日吉丸の出合之像がある。秀吉は出世前はこんなところにいたのだ。この辺りで岡崎宿とお別れ。
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◆岡崎宿から新安城駅まで

・家康の長男信康の肖像画や遺品があるという勝蓮寺は見られないのでパス。弥五謄神社(やごとう神社)を通り過ぎ、誓願寺十王堂を覗く。この寺は浄瑠璃姫と義経にまつわる伝説があるらしい。
                    十王堂の中

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・竊樹神社(ひそこ)という字も読みも難しい神社を過ぎ、薬王寺の手前に「三河国薬王寺刀匠鍛刀造趾碑」がある。室町後期から薬王寺派の刀鍛冶集団が住んでいたそうだ。
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安城市に入って松並木が続く。松の根元にはマツバギクがずっと植えられキラキラ輝いている。
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         暑いので夕方近くならないと見られない猫、癒される。
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・東高根用水祈念碑や予科練の碑( 第一岡崎海軍航空隊跡)、一里塚跡(83番目)を過ぎた所で安城市のマンホールがあった。安城市発祥の三河万歳の扇と鼓。
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・永安寺 助郷役を宿場から命じられたとき、村の窮状を訴えて免除を願い出た庄屋・柴田助太夫は1677年に死罪になった。その恩に感謝し村の人々が彼の旧宅跡に草庵を建立、のちに寺として整えられた。その頃からある雲竜の松で推定350年。枝張りが東西17.9m、南北24.7mで、高さ1.5mの所から雲を得て昇ろうとする竜のようでこの名が付いた。何て大きな立派な松なのでしょう!
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                三十三所観音もあった
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明治川神社交差点に立つのは明治用水記念碑。矢作川から水を引き、西三河を灌漑するための用水路で、この一帯は「日本のデンマーク」と言われる農業地帯となったそうだ。

                また松並木で涼しく感じる
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・扁額が落ちてしまっている青麻神社は道端に石造物がごろごろとあるだけだが、明治初期に活躍した力士、濱碇(はまいかり)の像が目立つ。
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ここを左に曲がって新安城駅へ。豊橋からひかりに乗れる時間帯だったが、金曜日で混んでいる模様で、先に出るこだまに乗車したが2時間10分もかかって東京駅に到着。家には10時過ぎの到着になった。
お弁当もほとんど売り切れだったが、買えたのはおかずがなくてわびしい助六寿司だった。が美味しかった。
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