2017年11月 6日 (月)

東海道五十三次歩き13 見付~浜松(後編)

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・妙恩寺 金原明善の菩提寺 供養塔が立派である。450x338_8
                 家康公お手植えのツゲ450x338_9
・龍梅寺 臨済宗妙心寺派450x338_10
      焼餅地蔵があって、何故か焼き餅を備えたという面白い地蔵。 338x450_4

●浜松宿(29番目)

                     外木戸東門跡338x450_5
ここから浜松宿が始まる。本陣6軒、旅籠94軒あり、遠江・駿河国で最大の宿場であった。

            浜松の中心街が近くなってビルが多くなってきた450x338_11
・夢告地蔵が道端に祀られている。安政5年(1858)に大流行したコレラで亡くなった人を供養するために建てられた。450x338_2_2
遠州鉄道の高架をくぐった先を少し行くと 交差点に浜松城大手門跡がある。東海道は左へと折れるが、右に曲がって浜松城に寄る。338x450_6
・浜松城は、今川氏が築いた引馬城を家康が1570年に拡大築城し、地名も浜松に改めた。家康29~45歳の17年間過ごしたが、ここで三方ヶ原合戦敗北を経験した。
家康が駿府に移ってから廃城となるまで譜代大名が城主となり12人が入城したが、うち幕府老中を6人も輩出したため、「出世城」と呼ばれた。

                  天守閣 昭和33年に再建450x338_13
                    若い時の家康像338x450_7
             石垣は堅固な野面積みで400年前のもの450x338_14
                 天守門は平成26年に復元450x338_15
天守閣展望台から北に見える三方ヶ原古戦場。森の一番奥だそうだ。家康敗北で有名な三方ヶ原はこんな所にあったのです。450x338_16
                  西、水平線は浜名湖450x338_17
                     南、遠州灘450x338_18

大手門跡に戻り東海道、浜松宿を進むが、戦災で2度も焼失して何も残っていない。駒札が全部表示されていた。高札場跡、6つの本陣跡、問屋場跡、中番所跡。西番所跡は見つからなかった。P1110141_450x315

●高塚駅(東海道線)まで東海道を進む

・少し行くと、子育て地蔵尊があった。戦災で顔の一部が欠けてしまったことから「首なし地蔵」とも呼ばれる。(中央の地蔵)450x338_19
・掘留ぽっぽ道があり、ケ91タンク機関車があった。大正7年製造の初期軽便機関車(岐阜県美濃太田~多治見間)。450x338_20
         八丁畷は森田から東若林まで続く旧東海道の長い畷338x450_8
・畷が終わった所で右に曲がる角に道路に向かいあって建つ二つの御堂がある。 藤原秀衡が京で病気になったことを聞いた妾がこの地で秀衡の訃報を聞き、秀衡の菩提を弔い、自らもここで亡くなってしまう。しかし、秀衡は実際には病気から回復し、帰国途中に妾の話を聞きお堂を建てた。
                北側の秀衡が建てた御堂450x338_21
                 南側の妾が建てた御堂450x250

                  振り返ると虹が出ていた2_374x450
                   前方には夕焼けが450x338_24
・秋葉常夜灯。木造屋形の鞘堂であるで明かりがともり立派だ。袋井からいくつか立派な常夜灯にお目にかかってきた。338x450_9
          浜松領と堀江領の境界である領地境界石があった338x450_10
高塚駅に着き、東海道線で浜松駅に一駅戻り、新幹線ひかりに乗れたので家には9時前に到着できた。
         夕食のお弁当 家康くん弁当が売り切れで残念でした450x338_22
                       (完)

      ●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●

11月9日から17日までスペインバスク地方に行って参ります。海外は約2年半ぶりになります。天気予報を見ましたら現地はずっと雨でその後も雨の様子、ちょっとがっかりの旅になりそうです。帰りましたらまたよろしくお願いいたします。

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東海道五十三次歩き13 見付~浜松(前編)

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10/25(水)午前中は雨で地図も破れそうなほど濡れて、それを見ながら歩く娘は大変であった。午後には小やみになって夕方は西の空が晴れる。46406歩。
東海道の駅は磐田~豊田町~天竜川~浜松~高塚駅の5駅間を歩いた。見付宿のはずれを歩き、天竜川を渡って浜松宿へ向かい、浜松駅の隣の駅まで頑張る。次回が楽になるため。

●天竜川を越えて浜松へ

・磐田駅南口前の前島密像とポスト
前島密は維新前は海軍伝習生だったが、維新後はここ磐田に赴任し善政を尽くす。後新政府に出仕し、イギリスで郵便事情を視察し、帰国後郵便制度を設け、日本郵政の父として敬慕される。
明治4年の郵便創業時のポストで模したものであるが(当時は木製)、現在使われている。街道筋ものとして東海道62ヵ所に置かれていた。
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・磐田駅北口前の善導寺大楠と磐田市イメージキャラクターのしっぺい(怪物退治の悉平太郎)像。善導寺は移転してここにない。450x330
・鳥居だけでなく屋根から社殿まですべて真っ赤な珍しい伏見稲荷神社450x417
               磐田市マンホールはジュビロ君450x403
                宮之一色一里塚(61里・地図上)450x338
・一里塚のすぐ先にある常夜灯は竜の彫り物がある立派なもので、竜灯と呼ばれ大変貴重なものだそうだ。昼間だけれど明かりが灯されていた。450x405

天竜川が近くなってきた

           若宮八幡宮は、奉納相撲が有名で土俵があった。450x210
   新天竜川橋で天竜川を渡る。青い鉄橋は昭和8年に作られた天竜川橋だ。450x338_2
天竜川は江戸時代は渡船であったが、明治9年木橋が作られた。天竜橋だ。1163m、幅3.6m。古い写真の向こう側にも昭和8年に完成した天竜川橋が見える。450x447
                    木橋の天竜橋跡338x450

天竜川を渡ると浜松市東区に入った。7つの区からなる巨大な市だ。縦長で1558㎢で1412㎢の静岡市より広いのだ。
六所神社や明治天皇玉座跡、舟橋跡、木橋跡などの碑を見て中野町通りを歩いていると、餃子でも有名な浜松。円形に焼き中央開いた穴にもやしが添えられているという、その餃子屋さんが見えてきたが、この日はうなぎなので残念ながら見られないし、味わえない。

・末子蔵(まっしぐら) 江戸城の石垣にも使われたという伊豆半島から切り出された伊豆石を使用した蔵。伊豆石は耐火性に優れ、廻船問屋の蔵として明治37年に建てられた。市内には使用した建造物が数多く残っているそうだ。450x338_3
浜松と言えばうなぎ、蔵の前の中川屋はまだ11時15分なのにもう人が結構入っている。早く到着して良かった。「うなぎとろろ飯茶漬け」を注文。
いずれも茶碗によそって食べるが、まず1杯目はそのまま茶碗によそって食べ、2杯目は薬味をのせてだし汁をかけて鰻茶漬けで食べ、 3杯目はとろろをかけて食べる。
うなぎの油っこいのが茶漬けやとろろで緩和されてなかなか美味しい。しかしご飯を残して満腹状態だがデザートは別腹。夕ご飯前もお腹がすかなかった。450x338_4
           浜松のマンホールは凧揚げで有名な浜松の凧だ450x378
・薬師霊場の松林寺(臨済宗)の門には中央にお地蔵さんが安置されていて面白い。
庭が禅寺らしくきれいに整えられている。枯山水の庭もあった。
薬師堂は徳川家光が浜松城主に命じて建立させたもの。2度の火事にも焼失しなかった。450x338_5
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・金原明善生家  明善(1832~1923)は天竜川の治水事業に全財産を投じた。その他にも植林事業、出獄人の保護事業なども行った偉人である。450x338_7
・安間一里塚跡(63里)は姫街道安間起点でもある。ここ浜松市からも行かれるわけだが、磐田市の姫街道の方が磐田駅から近い。338x450_2
                 牓示杭(是より西・浜松領)となる338x450_3
                       (続く)

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2017年11月 2日 (木)

東海道五十三次歩き12 掛川~袋井~見付3

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●見付宿

見付宿は奈良時代には遠江の国府が置かれ、古くから遠州の中心地として栄えていた。天竜川の渡船業務を担う川越しの宿場であり、姫街道との分岐点でもあったので多くの旅人で賑わったという。地名の「見付」は京側から来て初めて富士山が見えたからという。しかし見えそうな感じはしなかった。

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・遠州鈴ヶ森刑場跡
品川と同じ鈴ヶ森という名の刑場跡。白浪五人男の日本左衛門の首が晒されたところでもある。供養塔「南無阿弥陀仏」の碑がある。 
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・見付天神 裸祭が有名
この神社には悉平(しっぺい)太郎という犬の像がある。昔神社の森に住む妖怪に人身御供が行われていたが、この妖怪を悉平太郎が退治し、宿場に平和が戻ったとの伝説がある。700年前のこの怪物退治に里人が踊り上がって喜んだのが裸祭だそうだ。国指定無形民俗文化財で天下の奇祭として知られているとか。450x338
          太郎の反対側で2匹の猫のにらみ合いが続いていた2_450x262
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・悉平太郎や江戸時代の風俗なども道のタイルに埋め込まれていてなかなかだ450x334
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         ジュビロ磐田のホームタウンなので旗がひらめいている338x450_9

・国史跡 旧見付学校 明治8年に落成。基礎が石垣積みで5階建て。現存する日本最古の木造洋風小学校校舎。最上階から町を一望できる。
明治時代の教科書や学用品等多数展示され、日本の初期教育を知る上で大変貴重な学校。450x338_2
                私的には石板が懐かしい教室450x338_3
                      職員室450x338_4
  黒塗りの教科書は私は知らないけれども聞いたことがある。こんなに真っ黒。450x338_5
                    和服姿の小学生338x450_10
5階は太鼓楼になっていて、登校合図や正午の時報として太鼓が打ち鳴らされたとのこと。5階からの眺め450x338_6
懐かしいおもちゃの一部
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・淡海國玉神社 小学校の隣にある。遠江の総社で遠江のすべての神社の神様が祀られている。初めてだったのが狛犬ならぬ、狛兎であった。
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・大見寺 ここには江戸時代中期、安倍川で空を飛んだ鳥人・幸吉の墓があるというが見つからなかった。450x338_9
・又一庵にてあきらめていたお菓子・きんつば(栗やサツマイモ、あずきなど)を買った。450x338_10
・姫街道の道標 東海道が左に直角に曲がる辺りの角にある。姫街道は東海道の新居宿の新居関所の「女改め」が厳しかったのと、浜名湖の今切の渡しを姫様たちが嫌い、浜名湖を迂回し、気賀の関を通り、三河の御油で東海道と合流する。いずれこの姫街道も歩いてみたい。338x450_11
・木戸跡(西) 338x450_12
・西光寺の表門 家康の別荘の門を移築したもので、江戸時代の総ケヤキ造りの門。市の文化財。450x313
・府八幡宮 奈良時代の桜井王がここに赴任してきたときに建立したと伝えられる。450x338_11
・ジュビロのマスコットキャラクターのジュビロくん。静岡県の県鳥、サンコウチョウがモチーフ。
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もう磐田駅はすぐそこ、東海道線で掛川駅に戻り、お弁当を買い新幹線に乗る。帰宅は9時半頃でした。450x338_13
                       (完)

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2017年10月30日 (月)

東海道五十三次歩き12 掛川~袋井~見付2

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台風一過、素晴らしい晴天です。今朝白かったはずの富士山、雪がなくなっていました。雨で融けちゃったのでしょうか?

●袋井宿(27番目)へ  五十三次のどまん中 感慨深いです。往時の建築物は残っていない(安政地震と東南海地震で倒壊)が、前回も書いたように、商店も小学校も「どまん中」の看板を掲げて宿を盛り上げ、案内板も良く整備されているので歩いていて楽しい宿だ。

・宿に入る前の「新屋の秋葉常夜灯」は屋根瓦にしゃちほこのついた立派な常夜灯で、こんなのは今までで初めてである。袋井市内には石の灯籠型と木造の屋形の常夜灯が14基現存されているとのこと。
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                  これより袋井宿の石柱338x450
・東海道どまん中茶屋 観光案内所でボランティアの方にとても美味しいお茶の接待を受ける。向かいは今はやってないけれども「どまん中食処」もあった。
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袋井の今昔マップなどをいただいた所へ青島クリーニング店の青島さんが見えた。袋井宿の見張り番で、街道ウォーカーとして87街道を歩き、東海道はもう6回も歩かれたとのこと。お店で通過証明書を発行してくださるということで、一緒に記念撮影後、クリーニング店にお邪魔する。お店には街道に関するちらしや弥次喜多風スタイルで歩く姿の写真などたくさん貼ってあった。東海道袋井通過証明書と袋井通過証をいただき、写真も許可していただき撮らせていただいた。感謝しつつお店を後にしたのだが、6回も東海道をなんてもうただただ驚くばかりである。私も京都まで1回だけでも辿り着きたいもの。青島さんに元気を頂いた。450x338_4
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                東本陣跡 公園になっている450x338_6
                     宿場公園450x338_7
  問屋場跡、中本陣跡、西本陣跡を過ぎ、高札場跡を過ぎると説明板がある。450x338_8
             明治天皇御小休跡はどまん中酒屋さんだ450x338_9
                 東海道どまん中西小学校450x338_10
澤野医院記念館 1727(享保12年)から地域医療を担ってきた内科医で、幕末から昭和初期まで建てられ続けた建物で市の指定文化財。土日祝日しか公開されていない。450x338_11
寺沢家長屋門 1868年に建てられたそうで東海道沿いには珍しい長屋門だそうだ450x338_12

●袋井宿から見付宿へ 掛川宿から9.6㎞歩いてきたけれど、ここから見付までまだ5.9㎞ある。

・木原一里塚(59里)地図上では59里、看板には61里となっていて一応地図に従うことにする。平成11年に復元されたもの。338x450_2
・掛川をずっと過ぎた頃から槇の垣根の家が増え、袋井はずっと続くし、このあと見付を過ぎてもまだ所々あったのである。都会ではお金持ちの家にあるなんて言われているけれども。450x338_13
・許禰(こね)神社 (江戸時代は熊野権現社)
家康が大敗を喫した見方原の戦いの前哨戦になった古戦場木原畷の碑がある。1572年、この神社付近に布陣していた武田信玄と徳川家康が戦った古戦場跡だ。450x338_14
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       隣の長命寺の楠の大木と六蛙える(迎える)蛙6匹が可愛い450x338_16
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<磐田市に入る>

・須賀大社の大楠 樹齢500年 樹高15m、幹回り9.5m、枝針25m、市指定天然記念物 静岡県では今まで大楠を何本見たことでしょう。温暖な気候だから?
穴は向こうまで見通せてあちら側にも穴が開いているということだ。中に空洞部分があって良く生きていること。本当に植物の逞しさに圧倒される。450x338_18
・三ヶ野に来たら松並木が見え、左手の田んぼに隣接する三ヶ根坂の鎌倉古道、江戸の古道、大正の道、明治の道を通って元の東海道に戻る。338x450_3
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                          イボテングタケ(Sさん感謝です)
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鎌倉古道を登った頂上は大日堂があって、徳川軍が武田軍と戦う時この辺りに陣を敷き、この高台から物見したそうだ。450x338_20
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田んぼかなたには日本一の蜻蛉の生息地があって、磐田市のマンホールは蜻蛉の図柄だ。450x338_22
                        (続く)

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2017年10月27日 (金)

東海道五十三次歩き12 掛川~袋井~見付1

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10/18(水)前日までと翌日からの雨続きの間の貴重な晴れの一日でした。44356歩。袋井がちょうど五十三次の中間点です。
東海道の駅は掛川~愛野~袋井~磐田駅。袋井が五十三次の中間点でやっと半分(神奈川県の多くが抜けているが)ですが、静岡県はまだ終わらないのです。

●掛川~袋井市へ

富士川からの富士山。今年は寒い日が多いのにまだ冠雪していません。1週間後には初冠雪、昨日26日は、家の窓から見るともう真っ白で冬の富士山の様相でした。Photo
   掛川駅前の二宮金次郎像 ムクドリの糞はきれいに掃除されていた338x450
・秋葉山本宮秋葉神社の掛川一ノ鳥居 ここは秋葉街道(塩の道)の入口だ。石の道標や小さな祠がある。
富士川を過ぎたあたりから秋葉と書かれた常夜灯が見られるようになって、秋葉とは?その時はまだ知らなかったけれど、秋葉信仰、つまり火の神様を祀る信仰で神社も寺もある。
浜松市秋葉山に秋葉寺と秋葉神社、袋井市に可睡齋秋葉総本山があり複雑。
広重の絵の掛川は「秋葉山遠望」だ。しかし秋葉山は赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で天竜川を遡った所にあり、ここから約35㎞先にあるので、広重の絵のようには見えない。秋葉信仰は神奈川県の大山信仰のようだ。338x450_3
・芭蕉天神と子育て地蔵 松尾芭蕉ではなく植物のバショウが植えられた、祭神が菅原道真の天神。450x338
キンモクセイ ブロ友hiroさんに教えていただいたキンモクセイ前線。桜前線と反対だそうで、家の方ではすっかり散ってしまっていたキンモクセイが静岡県では満開から散り始めであった。338x450_4
・天竜浜名湖鉄道(掛川から浜名湖の西・新所原まで)の無人駅「西掛川駅」。丁度通った電車は1両編成であった。450x338_2
次の歩きを1昨日(10/25)してきて、掛川駅に着くとここ始発の、この電車が停まっていた。電車全面に「直虎」の文字が目立っている。気賀や井伊谷の方を通っているから今年いっぱい電車はこの化粧なのでしょう。450x228
・57里の大池一里塚跡を通り過ぎ境界を示した道標がこの後たくさん現れるようになる・・これは「従是北岡津區」。これらは大正時代のものらしい。338x450_6
・仲道寺 東京・京都中間地点 由緒ある寺だそうだが、今は測定によって違うらしく、袋井市が真ん中と言われる。450x338_3

・この辺り(岡津・原川間)から袋井市に入ったあたりに美しい松並木が何回か出てくる。この秋はきのこを全然見かけなかったが、松の根元にきのこがたくさん生えている。450x338_4
     テングタケまたはイボテングタケ    Sさんありがとうございました
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間の宿の原川 掛川宿まで6㎞、袋井宿まで3.6㎞。片浜屋という寿司屋や椎の木旅館などが並んで昔の面影を少し残している。
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ムラサキツユクサにそっくりの花だが、葉が白い柔毛で覆われてる。調べたら和名白雪姫、トラディスカンティア・シラモンタナ(ツユクサ科)で、別名ホワイトベルベットであった。450x338_9

 この原野谷川の同心橋を渡ると東海道五十三次のどまん中袋井に入る450x338_10
・かなり東海道に力を入れている袋井市、あちらこちらに「どまん中」という言葉が出てくる。
共同ゴミ集積所にはこんな浮世絵などが書かれたゴミ箱があちこちに見られた。このゴミ箱には袋井名物の丸凧や、このゴミ箱あたりの名栗には花茣蓙が作られて売られていた絵が描かれる。450x338_11
・また松並木。ここに一段下がった歩道がある。きのこ(イグチ属か)がまたまたたくさん生えている。ベニタケ属やサルノコシカケも。338x450_8
     チチアワタケ              ベニタケ属
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                 サルノコシカケ科の幼菌450x338_13
・そして街道には、袋井が出てくる浮世絵が40以上もあるらしく、スポンサーがついてたくさん立てている。見ながら歩くのも楽しい。450x338_14
・富士浅間宮の赤い鳥居。かなり遠いそうで行くのは省略。この神社の名前が懐かしいほど久しぶりである。450x338_15
・妙日寺 ここには日蓮の両親の墓がある。この土地の豪族だった父、貫名重忠が源平合戦で平氏に味方したため、安房の小湊へ流された。その地で生まれたのが日蓮である。鎌倉時代末に身延山久遠寺の日善によって貫名氏の館跡にこの妙日寺が建立された。450x338_16
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・久津部一里塚は江戸から丁度58里。 これは本当の形の一里塚。
今まで見てきた一里塚は跡の記念碑ばかりであったが、一里塚とは、街道の両側に一里ごとに土を盛り上げて道のりの目印にした江戸時代の塚のことで、多くは榎や松がその上に植えられていた。ここも松が枯れたりして、江戸時代のものでなく、袋井東小学校100周年に記念に昭和47年に立てられたもの。338x450_10
・東海道五十三次どまん中東小学校450x338_17
          11時半になって昼食、鍋焼きうどんとしらすサラダ450x338_18

                     (続く)

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2017年10月22日 (日)

柴又へ

柴又帝釈天題経寺と山本亭に行ってきました。もう3回目ですが今回は帝釈天の彫刻と山本邸の庭をじっくり拝見しました。

柴又駅前の寅さん像の前には「見送るさくら像」が新しく出来ていました。
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参道には草だんごや佃煮、煎餅とお土産屋がずらり並んでいて、帰りに草もちを家人への土産に買いました。
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帝釈天題経寺の創建は1629年で開基は日栄上人。日蓮聖人の親刻になる帝釈天の板本尊がある。裏と両脇には経文が彫られているという。江戸庶民に盛んに信仰された。

                 帝釈天二天門 彫刻が立派450x338_3
     瑞龍の松 東京都指定天然記念物 龍の形をしてとても美しい松450x338_4
帝釈堂木彫 昭和4年に完成された帝釈堂の外壁に法華経説話が当時の名人8人により彫られ、とても価値あるものだそうだ。450x338_5
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客殿の日本一南天の床柱 樹齢1500年とは。その割には細い。南天は太くならない樹木なのですね。我が家の21年の南天の直径は3㎝。338x450_3
                  横山大観群猿遊戯図450x338_8
                  邃渓園(すいけいえん)450x338_10
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矢切の渡し 雨のため渡し舟は休み 渡った先には伊藤左千夫の野菊の墓文学碑があるのでした。450x338_12
                       昼食450x338_13

山本亭 
カメラ部品製造の創立者山本栄之助翁の自宅で、関東大震災後に移り住んだ。
庭園は昭和初期のもので、当時のまま残されているのは、都内で旧安田邸、徳富邸とここだけだそうだ。今は葛飾区の所有。450x338_14
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庭園のこのような記事が。足立美術館は行ったことがあって、アメリカの日本庭園専門誌のランキングは日本人が感じるのとは違うなあと思ったが、この山本亭の小さな庭園が3位とはまたびっくりです。樹木は種類が多く、樹木と池や石の配置などは美しくしっとりと落ち着いていますが。3_600x597_3
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喫茶があって、昼食を食べ始めてから50分しかたたないのに善哉を頂く。大きなあずきでとても美味しい。450x338_18

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2017年10月19日 (木)

「猫百態」展 朝倉彫塑館にて

台東区立・朝倉彫塑館は国指定名勝で国登録有形文化財です。昭和10年に現在の原型が完成したそうです。
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朝倉文夫はここを「朝倉彫塑塾」と命名し、門下生を育成し、住まいと学校と生育の場が一体となっていました。
2度目ですが、建物の素晴らしさを認識していませんでた。撮影禁止ですが玄関と屋上だけは禁止マークなしです。
大きな鯉のいる池と様々な素晴らしい石が並べられた中庭は、和風の住居棟とコンクリート造りのアトリエ棟に挟まれています。アトリエは天井高8.5mで三方向から光りを取り入れている。
和風建築には竹がいろいろな所に形を変えて使ってあり、様々な木を用いた床の間、天井などや置いてある家具なども垂涎もの。書斎は天井までガラス張りで凄い蔵書で埋まっている。

                    門と玄関

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屋上 スカイツリーが半分以上雲の中というのは初めて見ました450x338_5
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ところで「猫百態」展では猫の様々な姿態を、石膏とブロンズで見ることが出来ます。
ちらしに書かれていますが、猫は、予期しないような動き、人を避けるような仕草、奔放で媚を売らないかと思えば甘え上手な性質。朝倉氏はそうした猫の特性を好んで制作したそうだ。
写真で拝見すると10数匹飼っていたようです。見ていてとても楽しい。312x450

               夕焼けだんだんの方に行ってみる380x285_2
以前もブログに載せたりしている、お店や屋根の上の猫など、猫だらけの谷中銀座でした。450x338_8
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もう終わってしまいましたが、都美術館の「ボストン美術館の至宝展」ではゴッホの肖像画と曽我蕭白が見られて感動し、太田美術館の「月岡芳年・月百姿」が素晴らしかった。
そして生誕150年記念で練馬区立美術館で開かれた「藤島武二展」は色々な画風に挑戦した画家の絵を150数点見ることが出来ました。練馬区は豪気、75歳以上は他の地域の人も無料です。
運慶展は行列が長くあきらめましたが、芸術の秋は早稲田大学の方の美術史講座がまた始まって、復習もままならず、読む本もたくさんあって、それなりに暇人の私もちょっぴり忙しいです。

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2017年10月15日 (日)

近所で御開帳

ローカルな話ですが
近くの武蔵国分寺跡の方、国分寺仁王門の奥に国分寺薬師堂があります。
年に1回、10月10日に薬師堂内の「木造薬師如来坐像」の御開帳があります。ここに引っ越してきて21年にして初めて見てきました。

仁王門 国分寺市指定文化財 宝暦年間(1751年-1763年)の建立で、入母屋造の八脚門450x338
薬師堂 国分寺市指定文化財
建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたと伝えられています。現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1764年)に今の場所に移され、建て替えられたものです。以前の建物は義貞が分倍河原で負けた時に焼き払ってしまったとのこと。その時薬師如来は持ち出されて無事だったのでしょう。450x338_2

木造薬師如来坐像 国指定重要文化財 平安時代末期から鎌倉時代初期の制作。作者不明。寄せ木造、漆箔仕上げ。像高191.5㎝。
今国立博物館で運慶展をやっているが、康慶・運慶親子の活躍した時代とほぼ同じ時代のもの。800数年ここにおわして、お顔も黒く変色して痛々しい感じです。今度は御開帳の祈祷の儀式から見てみたい。338x450
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                  左脇侍・日光菩薩と十二神将のうち六体 元禄2年制作450x338_3
                   右脇侍・月光菩薩と十二神将のうち六体 元禄2年制作450x338_4
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天井に龍が描かれるが色も褪せて見えない。寺額は東大寺西大門の勅額を模したものだそうです。450x338_6


帰り道
      花の時は気が付かず、実がなって初めて気が付くサネカズラ450x338_7
               マユミの実はまだはじけていない300x260

谷中で買ってきてもらった「もにゃか」という名の最中。餡は羽二重団子に入っているものだそうで美味しい餡子。猫ちゃんをパクリはちょっと気が引けたけれども。300x225

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2017年10月12日 (木)

東海道五十三次歩き11 金谷~日坂~掛川(後編)

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●日坂宿と掛川宿の間

・宿をはずれるとすぐ、遠州一宮の式内社・事任(ことのまま)八幡宮がある。まず本宮にお参りするが271段の階段を登らなければならなかった。338x450
県道を渡って事任八幡宮へ。『枕草子』にも「事任の明神 いとたのもし」と出てくる古社だ。意味は「願い事が思いのまま叶うありがたき言霊社」
その後1062年源頼義が石清水八幡宮を当社に勧請した。江戸期には徳川幕府も信仰し、社殿を改築し朱印高百石余を献上した。朱印高という言葉は恥ずかしながら初めてで、朱印地、黒印地という言葉もあって、寺社に関係する石高。→こちら

・塩井神社 一日に3度塩水が出るところがあって、そこを塩井と呼び、川を塩井川と言ったとされる。川に渡された板の上を渡って行く。昔塩がないときこの水で味付けしたそうだ。450x338
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ああ、びっくり!突然現れた蛇を娘が踏んでしまった。
黒い蛇はシマヘビ(カラスヘビ)、ヤマカガシ、マムシの3種の黒化型があるそうで、多分シマヘビでしょうか?450x332
                                                 神社450x338_2
・福天権現道標 東海道を上下する旅人の興味を引いたようで、太田南畝も「掛川領にいれば、左に福天権現本道とあり。いかなる神ならん」とある。菊川市西方の龍雲寺境内に祀られ、願掛けに御利益があるとして、多くの信仰を集めた。338x450_3
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・七曲り いよいよ掛川宿に入る手前の七曲りだ。容易に敵を侵入させないための構造。終点に城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所があった。
途中に塩の道標柱がある
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●掛川宿(26番目)
掛川は内助の功で有名な山内一豊が整備した城下町。江戸後期、旅籠30軒全てが飯盛女を置かない平旅籠だったという。
今までの宿と違って、掛川宿は宿場跡を記すものが皆無だ。ただ商店街には白漆喰塗籠造りの家が多く城下町の趣がある。

掛川城 東海の名城といわれた天守閣は平成6年に日本初の本格木造天守閣として復元された。
城は最初今川氏が築かせたが、桶狭間の戦いで義元が討たれてから家康領有となり家康の重臣石川氏が入城。その後秀吉が全国平定すると、家康を関東に移し、掛川城には山内一豊を入れた。その後家康の天下になってからは家康の異父弟の松平氏から始まり、太田道灌の子孫の居城として栄えた。しかし安政の東海大地震により大半が損壊し、明治2年廃城となった。
                           大手門 天守閣復元後にここも復元された

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天守閣 実に美しい!山内一豊が造った。450x338_5
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                                           天守閣からの景色450x338_8
                                           眼下の御殿450x338_9
掛川城御殿 江戸時代後期の建物だが、地震で倒壊後、時の城主太田氏が再建した。現存する城郭御殿としては京都二条城など全国で4ヶ所しかない貴重な建造物で国の重要文化財だそうだ。部屋は20もある書院造。藩の公的式典の場であり、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設。450x338_11
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・ヘンミイの墓 オランダ商館の一員で江戸の将軍家斉謁見の帰途、ここで亡くなったので天然寺に葬られた。享年51歳。蒲鉾型の墓だ。450x338_15

・信用金庫や銀行が白漆喰で瓦屋根で他の町にはない珍しい金融機関だ。

                    掛川信用金庫450x338_16
          清水銀行には山内一豊と千代夫人の浮彫刻が見える450x338_17
・円満寺蕗の門(城から円満寺が買い受けた)を通り過ぎたところがもう西番所だった。450x338_19
・その少し先の掛川十九首町にある十九首塚で見学を終わる
十九首塚は、将門の乱で平将門は、平定盛、藤原秀郷らに滅ぼされた。将門ら19人の首実検が掛川で行われ、940年に埋葬された(大手町にも首塚があり全国にあるようだ)。450x338_20

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日曜大河ドラマで「おんな城主直虎」をやっている。楠戸義昭著『女城主・井伊直虎』によると、
直虎の許婚・井伊直親(虎松、徳川四天王の一人・直政の父)が小野但馬守道好の讒言に遭い、今川氏真に潔白を申し開きに掛川城に行ったのだが、ここ将門の十九首塚のある場所で氏真の手のものに殺されたのである。唯、資料が少ないので謎は多いと著者は記す。

十九首塚の近くの電線にムクドリの大群がとまっていたが、散歩していたおばあさんが、このムクドリは暗くなると掛川駅の前の木に集まり、ここだけでなく周辺からものすごい数が集まると教えてくださった。
暗くなった駅に到着すると凄いにぎやかな囀りとベンチまでにも落ちている糞。樹木をねぐらにしていた。何故駅に集まるのか??

掛川には新幹線が停まるので、お弁当を買って乗り、東京駅まで乗り換えなし。但し「こだま」なので時間のかかること。駅に着く度にのぞみとひかりに追い越されているから。
「直虎ちゃん弁当」は12月までの期間限定。1個しかもうなかった。
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                       (完)

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2017年10月 9日 (月)

東海道五十三次歩き11 金谷~日坂~掛川(前編)

9/21(水)に金谷宿から日坂宿、掛川宿まで41728歩でした。東海道の駅は金谷~菊川~掛川。箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道三大難所と言われた小夜の中山越えがありました。普段登山をしているので苦しいとは思えなかったけれども、草鞋で石畳、それ以前の粘土質の道もさぞかし歩きにくかったでしょう。549x600
●金谷石畳、菊川坂と菊川宿、小夜の中山

金谷駅で降り前回の芭蕉句碑から坂を上がり、道祖神を過ぎると金谷の石畳が始まる。450x338
ここは粘土質で雨が降ると滑りやすく石畳が1862~3年に敷かれたが、宿が廃止されると電話線などの埋没のため剥がされコンクリート舗装された。しかし平成3年、金谷町民約600人で430mの石畳が復元された。

すべらず地蔵尊「ここの石は滑らないということから受験や商売など何事も願いが叶う」・・とはいいながら皮肉にも金谷坂の石畳は、日が射さないため苔が生えて滑りやすいそうだ。450x338_2
            金谷坂を登り切ると左手に茶畑が広がっている450x338_3
反対側には諏訪原城跡がある。この城は武田信玄が築いた金谷城を武田勝頼が遠江侵攻の拠点として、拡大築城させ諏訪大明神を祀ったので諏訪原城となった。450x338_4

次に出てきた坂が菊川坂だ。下った所に、金谷宿と日坂宿の間は急所難所ゆえ、間の宿・菊川が置かれた。
菊川坂は611mの石畳だったが、現在江戸時代の石畳が160m残る。菊川の家並みが向こうに見える。338x450
        いよいよ小夜の中山だ。坂が続く。茶畑が両側に見えてくる。450x338_5
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多くの人が中山峠を歩いて句を残したので、その歌碑や句碑が次々と十数カ所に出てくる。
これは最初の方の一つで、「雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月」は『十六夜日記』の阿仏尼の歌碑である。十六夜日記を読んだが道中の苦しさはあまり書いてなかったような記憶がある。338x450_2
久延寺(きゅうえんじ)・真言宗は、夜泣き石伝説にまつわる寺で掛川市の指定文化財。450x338_6
夜泣き石と弘法大師 妊婦お石が中山峠で賊に殺されるが、お石の霊が石に移って石が泣いたため、生まれた子どもは久延寺の和尚に飴で育てられた。その後弘法大師がこれを聞き、お石に同情し石に仏号を刻み、立ち去ったという。(地図にもあるように夜泣き石はもう一つあるし、夜泣き石が実際にあった跡もある)450x338_7
寺の隣の茶店扇谷の名物・子育て飴は、お休みで買えなかった。447x450
扇谷の前の西行の歌碑「歳たけてまたこゆべしとおもひきや 命なりけり小夜の中山」40年ぶりにここを通った西行の感動の歌だ。450x338_9
           向こうの栗ヶ岳の横腹に「茶」の文字が見える450x338_10
    広重の五十三次の絵「日坂 小夜の中山」 坂がデフォルメされている450x290
沓掛や二の曲りの急な坂や曲り(坂というのは写真では伝わらないものだが)が終わって日坂宿だ。450x338_11

●日坂宿(25番目)
                   日坂宿の屋号札450x338_12
700mで本陣1、脇本陣1の小さな宿だったが旅籠は33軒あった。天保11年当時の屋号を書いた木札が通り沿いの各家にたくさんかかっていて驚いた。建物も数軒残っていて昔の面影を残す宿だ。

扇谷本陣跡は公園になっている。食堂がないことが分かっていたので、おにぎりと果物で食事、後で道の駅で「おでん」を食べる。450x338_13
              藤文 商家で最後の問屋役を務めた450x338_14
                     萬屋 旅籠450x338_15
川坂屋 上級旅籠で士分格の人が泊まった。山岡鉄舟や西郷従道らの書が残る。450x338_16
                バショウと花
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    相伝寺は遠江観音霊場第二十一番札所の小寺で庚申塔などがある450x338_19
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        天保の頃のが復元された高札場でここが下木戸跡である450x338_20
日坂宿も火災が多かったため秋葉信仰が盛んで、日坂宿3つ目の秋葉常夜灯である。450x338_21
                    (続く)

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