2022年6月22日 (水)

中山道21 塩尻駅~塩尻宿~下諏訪宿(3)

<下諏訪宿プラス諏訪大社下社春宮と万治の石仏>

道祖神。諏訪では建物、石造物が4本の御柱に囲まれているのが見られる。
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左手に春宮の鳥居(青銅製)が見え、突き当りが春宮である。
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すぐ先右手に魁(さきがけ)塚がある。維新政府軍の先駆けとして相楽総三と7人の同志の墓。
東山道軍先鋒の赤報隊8人は偽官軍の冤罪で慶応4年斬首されたが、のちに名誉は回復された。
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下諏訪宿に入る。右手突き当りは下諏訪駅だ。
●下諏訪宿(29番目)。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒。
諏訪大社下社の門前町として古くから栄え、和田峠と塩尻峠、甲州街道との追分を控え、上諏訪から続く中山道随一の温泉場として賑わった。

高札場(復元)から左斜め前方へ道は入っていく。
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宿場街道資料館に寄る(入場無料)。
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中の様子。
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当時の食事の様子。高齢家族の我が家と同じです。
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和宮様の行列の様子。最後が通るのが3日後とか。よく細かく書いたものだ。
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約1ヶ月前(4/22)に着いた下諏訪宿 甲州道中・中山道合流之地の碑である。懐かしいのでまた写真を。
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後ろにある宿場問屋場跡。ここは綿の湯があったところ。
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今日のお土産は、すぐ右側の塩羊羹の店・新鶴本店の塩羊羹。他の塩羊羹と違って美味しい。
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岩波本陣。和宮、明治天皇の小休所となったそうだ。大半が残って残ているそうだが開いていなかった。
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本陣の前は脇本陣だったが今は旅館まるやとなっている。

本陣の先の和泉式部伝説が伝わる来迎寺に寄る。
下諏訪の湯屋別当方にかねという娘が奉公しており、日頃道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えするやさしい子だった。ある日別当の妻が火箸でかねの額を打ち据えて傷から血が流れ、痛みに耐えかねたかねが、お地蔵様に祈り仰ぐとお地蔵様の額から血が流れ、かねの傷は無くなったという。都から訪れた大江雅致がこの話を聞き養女にし、都で書道や歌道を学び宮中に仕え、後に和泉守橘道貞と結婚し、歌人和泉式部となった。「あらざらむ この世の他の思い出に 今ひとたびの逢ふこともがな」の歌碑があった。
かねの像。
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銕焼(かねやき)地蔵尊。
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宿には温泉や旅館が並んでいる。
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御作田(みさくだ)社。
下社の御作田祭(御田植神事)が行われる。植えられて1ヶ月で収穫するという、御作田の早稲として諏訪七不思議の一つにあげられているそうである。3帖ほどの神田が見えた。
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伏見屋邸。元商家の建物で登録有形文化財。
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下諏訪一里塚跡。53里目。両塚あったが、取り壊された。
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慈雲寺へ。織田信長と豊臣秀吉に仕えた日野根高吉(高島藩初代藩主)の供養塔や梵鐘があるそうだ。
長い階段を上がる。
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国道をまたいでその向こうに参道が続き並木と苔が美しい。
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街道に戻り少し先に進むと、「左諏訪宮 右中山道」と刻まれた道標がある。街道は今回はここまで。
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諏訪大社下社春宮と万治の石仏に寄る。

春宮にすぐ着く。
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神楽殿の左右に御柱が2本と、目を凝らすと奥の2本も見える。
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一之御柱。今年は寅年。真新しい!
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幣拝殿と片拝殿。秋宮と同じだ。
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浮島社経由で万治の石仏へ。
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浮島橋。
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万治の石仏。ユーモラスなお顔!
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1660年(万治3年)に造られた石仏。高さ2.6m、幅3.8m、奥行き3.7mの安山岩をそのまま胴体とし、その上に高さ約65㎝の仏頭を載せた石仏である
3回まわって願い事をするように書いてあったのでしてみる。
後ろ姿。
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岡本太郎がこんな面白いものは見たことはないと絶賛し全国紙に掲載したので観光名所になった。岡本太郎の揮毫「万治の石仏」を彫った石碑があった。
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諏訪市出身の小説家・新田次郎も万治の石仏を賞賛しており、同仏像はイースター島の石人の頭部が日本へもたらされたと想定して小説『万治の石仏』を書いている。

駅に向かう。
下社最古の建造物、春宮下馬橋。春宮参拝の際は、ここで下乗下馬しなくてはならなかった。
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御土産は塩羊羹と、ワカサギの佃煮。夕食はス-パーで買ったのをあずさの車内で。
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帰宅は9時過ぎだった。約43400歩。

(完)

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2022年6月16日 (木)

中山道21 塩尻駅~塩尻宿~下諏訪宿(2)

<塩尻峠を越え、岡谷市を歩く>

昼食を終えて街道に戻り少し進むとサンサンワイナリーがあった。こちらでブドウ畑と見えてきた山々の景色を見ながらの食事は時間の関係で叶わなかった。
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旧道は気持ち良い。
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新茶屋の立場があった牛馬守護神碑。
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ハシリドコロ(ナス科)ではなくてコンフリー(ムラサキ科)でした。ポージィさんありがとうございました。このさきあちらこちらに咲いているのを見る。
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その後国道に合流、明治の道に入り犬飼の清水(御公家様の愛犬が元気を取り戻した水)を通り過ぎまた旧道へ。

塩尻市東山地区の高ボッチ高原の名物、草競馬の図柄のマンホール。
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そういえば塩尻から見えていた高ボッチ高原への標識が出てくる。草競馬が出来るくらい細長かった。ここから8.6㎞登っていくと行けるのだ。しかし遠い。
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この辺りはオオデマリの木が多い。豪華である。林に入ると蛙のような鳴き声が聞こえてくる。蛙ではなくてエゾハルゼミのようだ。赤松になどにいて鳴くのがハルゼミだそうで蛙が鳴いていると間違えたのでエゾハルゼミにしておこう。
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東山一里塚(57里目)。南側のみ現存している。
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さらに進むと親子地蔵があった。天明の大飢饉で行き倒れになった親子を供養したものである。
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明治天皇御膳水とその前の茶屋本陣跡を通り過ぎると塩尻峠に到着。標高1050mで塩尻市と岡谷市の境である。
明治天皇御野立所碑、明治天皇行幸記念碑、浅間社をさらに上がっていく。
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展望台があった。諏訪湖が一望できる。奥左には八ヶ岳連峰、真ん中右に富士山、右側に甲斐駒から北岳、仙丈ヶ岳まで見えたはず。残念ながら富士山も見えなかった。
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塩尻方面は御嶽山、乗鞍、北アルプス穂高方面が見えるはずが、これも残念ながら見えなかった。
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ここで、パーキングエリアで購入した信州産シャインマスカット生サブレを食べて休憩した。
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峠を降り始めるが急坂で、江戸側から来たら悲鳴をあげそうなほどだ。

大石。昔、山賊がこの石の裏に隠れて旅人を襲ったのだそうだ。
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一気に降りてきて、諏訪湖が近くなってきた。
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石船観音。足腰の弱い人に対して霊験あらたかということで、わらじが沢山かかっていた。
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岡谷市のマンホールは市の花・ツツジ。
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間の宿今井に入ってきた。
茶屋本陣跡がある。皇女和宮、明治天皇がここで休息された。
中に明治天皇今井御休所の碑や向かいには今井穀留番所跡の碑があった。口留・穀留(米の移動を監視)の役割を果たした。
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男女双体道祖神や天満宮と蠶玉神社の石碑や字の道祖神を見て、横河川を大橋で渡る。
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しばらく進むと東堀一里塚跡碑(56里)があった。
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生け垣が立派なお屋敷が連なる旧街道。
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今日の道にはメドウ・アネモネ(キンポウゲ科)、日本では春咲きシュウメイギクという園芸種らしいが多く咲いていた。家の方では見かけない。
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「右中山道 左いなミち」と刻まれた道標のある交差点を右折して、東堀正八幡宮に寄り道をする。
いろいろな男女双体道祖神などが並ぶ。
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舞屋。安永期頃(1772-80)の建築。
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拝殿の左右には片拝殿があり、諏訪大社と同様の造りで諏訪造と言われる。明和3年(1766)の建立。奥の本堂は見に行かなかった。
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街道に戻り平福寺(真言宗)を見学。
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日限地蔵尊が有名とのことだ。「おひぎりさま」の通称で親しまれる地蔵尊で、日を限って願うと聞き届けられるのだそうだ。特に23日とのことでこんなお地蔵様も初めてだ。
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庭もきれい。
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十四瀬川を木橋で渡ると諏訪郡下諏訪町に入った。
すぐにまた砥川を富士見橋で渡って、細い中山道を少し行く。
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(続く)

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2022年6月12日 (日)

中山道21 塩尻駅~塩尻宿~下諏訪宿(1)

またまた続いて中山道の続きなんです。今回は塩尻駅から歩いて甲州街道との合流点に到着しました。
梅雨に入らないうちに、暑くならないうちに進んでおこうと先週1週間後の5/27(金)に出かけてきました。曇のち晴。
駅に9:28に到着し塩尻宿に向かって歩き始める。

 今回の(1)は<塩尻宿とその先>です。

駅前には「山賊焼」のお店があって、松本や塩尻のご当地グルメで鳥のムネやモモ丸ごとから揚げにしたものでここの店が発祥とか。

駅前から街道に着き、少し進むと耳塚神社がある。2本の剣がご神体なのだが、小さなお堂に素焼きの皿やお椀に孔を空けて奉納すると耳の聞こえがよくなるとの信仰が広まった。沢山奉納されていた。孔を上手に空けるのが大変そうだ。
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隣は大門神社。鳥居は両部鳥居。境内から出土した銅鐸は日本最北の弥生銅鐸で平出博物館に展示されている。
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蠶玉(こだま)大神、秋葉大神、庚申塔、道祖神、南無妙法蓮華経題目碑と読める文字だけの石碑が出てきた。
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さくらんぼが美味しそう。
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堀内家住宅。旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農だった。冠木門。
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雀踊りの棟飾りの立派な住宅は国の重要文化財だ。
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男女が手を繋いだ道祖神が多くなってくる。
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道が枡形になって塩尻宿に入る。800m続く。
●塩尻宿(30番目)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒。洗馬宿から7.2㎞。下諏訪宿まで11.4㎞。この宿も、文政11年(1828)と明治15年の大火で焼失してしまっている。

枡形になる左手正面には阿礼神社がある。
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式内社で拝殿は寛保三年(1743)に再建された。武運長久、必勝祈願の神様。
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笑亀酒造が陣屋跡だ。陣屋は3万石以下の城を持たない大名や幕府直轄領の代官や役所が置かれた建物。
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脇本陣跡。脇本陣は本陣の川上家の分家だった。土蔵と庭は残っているそうだ。
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中山道六十九次・渓斎英泉の塩尻宿の絵は、塩尻峠から諏訪湖を望み富士山が見えている。
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本陣跡。中山道随一の規模だったとのこと。横に書いてあった間取り図を見ると確かに広い!造り酒屋を兼ねた川上家が勤めた。後ろに明治天皇塩尻御膳水碑がある。
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高札場跡兼下問屋跡。向かいには上問屋跡があり、半月ごとに問屋をつとめた。
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飛脚問屋跡の斜め向かいにあるのが小野屋住宅で旅籠屋「いてうや」を営んだ。国重文に指定されている。
幕末嘉永年間(1848~54)の建築で、明治の大火を逃れた。
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五千石街道の碑に続いて十王堂跡の碑があり、いろいろな石造物がある。
その中のこの道祖神は、普通は男性が右側、女性が左側だが、これは逆並びで女性が盃を持っている。
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口留番所跡(米・塩・材木・女人などの取り締まりをおこなう)を通り、三州街道碑(三河の岡崎で東海道と合流)を通り過ぎ塩尻宿を出る。

柿沢一里塚跡碑(58里目)。
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木曽義仲ゆかりの永福寺に寄り道。
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参道の石造物群。
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山門は仁王門だ。
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本堂。
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観音堂。義仲が信仰した馬頭観世音を祀ったのがはじまりという。
茅葺きで、諏訪の名工立川和四郎(京都御所、諏訪大社、豊川稲荷などを手がけている)の建築で立派だ。
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街道に戻る。
双体道祖神。板碑に掘られた抱擁像で、お女郎道祖神をも呼ばれている。
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ようやく国道を離れ旧道へ入る。
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柿沢集落へと入ってきた。屋号札のかかっている家もあった。永井坂という長い坂を上がっていく。
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本棟造りで雀踊りの屋根を持つ民家がいくつもある。
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高札場跡を通り、首塚と胴塚に寄り道。
塩尻の町が下の方に見える。大分上がってきた。
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首塚と胴塚
天文17年(1548)、武田信玄軍と松本城主の小笠原長時軍が永井坂で合戦、小笠原軍は大敗し、千人の死者がここに埋葬された。信玄も随分戦いが多かったのですね。
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街道に戻る。バイカウツギがきれいに咲いている。
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さらに上がって行き、途中可愛い馬頭観音を見て、柿沢橋を渡って、みどり湖パーキングエリアへと降りていく。小木曽屋玄治郎で昼食にざる蕎麦を食べた。

(続く)

 

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2022年6月10日 (金)

『オードリー・タン 天才IT相7つの顔』アイリス・チュウ 鄭仲嵐 共著 

以前日本人の父と韓国人の母がIQの高い子供二人を育てた本を読みましたが、それはアメリカでした。大成功で二人は今若くして才能を開花させて国家の役に立っています。
タンは台湾のIT大臣としてコロナと共に登場。その手腕が世界中に驚かれたものです。
アメリカと違って、日本と同様な環境の台湾。一人ずば抜けたIQ180とも言われるタンは優秀しすぎるが故、虐められ、満足に学校へ行かれない。とうとうドイツへ行ってその才能を生かし伸ばされ、帰国。中学で大学の授業に出、中学だけ卒業し高校へ進学しなかった。独学で8歳でプロムラミングを学び、その後インターネット界の天才たちと起業し、多国籍コミュニティをリードし、シリコンバレーで成功した。2年間に渡って世界ツアーをし、実績を重ねる。まさに天才シビック・ハッカー(ハッカーは悪い意味でのハッカーでない)。24歳でトランスジェンダー、性別を超え彼女となった。

特別付録「台湾 新型コロナウイルスとの戦い」が凄い。
なぜ、感染者と死者を初期の段階で世界一にストップさせたか?それには理由があった。
それは2003年の悲惨なSARSとの戦いが原点にあった。
その時に色々な教訓を得、世界に類をみないスピードで感染を予防し、拡散させなかった。
役所に色々な課ができ、特に国家衛生指揮センターが出来、優秀な防疫学者、公衆衛生学者、医者、看護師等々関係者が集められた。足りなくなった時は退職者を相当数募った。一番は水際対策だと。もし漏れた場合は1人につき300人以上の人を徹底して洗い出した。
掟を破った人には罰金をも辞さない。その額36000円から360万円だ。数か月前に台湾も感染者が増えたこともあった。それほどにコロナは複雑怪奇です。
まあ、これはほんの一部。政府の重鎮が進めるのでなく、専門家が集まって事を進めていくのが日本と大違いだ。日本は自分に関係する団体などに便宜を図る(ゴートゥートラベルなど)や選挙に勝ちたいからという政治家根性、お役人根性が直らないから、絶望的な社会の仕組みでもあるなあと、ますます絶望的になってしまいました。

借金を増やし続けて、どうして平気なのだろう。自分たちの例の100万円だけでも小さな小さな節約に寄与するのに。
電気が足りなくなるのがわかっているのにどうしてもっと切実に節電を熱心に今から呼びかけないのでしょう。
女性議員も何をやっているのやら。ウクライナ侵略以来、西欧のトップ、その他を見ていると日本と全然違うなあと。ただイギリス首相問題にはちょっと笑ってしまいました。

何処からかやって来たツユクサは午前中に咲いて午後は眠る。見ていたら本当に午後は青い花が見えなくなった。
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10数年前に突然気が付いたら塀の所に生えていた一重の花のクチナシ。今年は数えきれないほど花を付けました。冬に生る実は料理の色つけにももう使わない。
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かなり前にorangepekoさんからいただいたアサリナはまだ咲き続けている。
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ミヤコワスレは長々と咲く。薔薇と競演しています。
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コエビソウは切り戻すと良く咲きます。
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2022年6月 4日 (土)

中山道20 贄川宿~本山宿~洗馬宿~塩尻駅(後編)

本山宿を出ると下町石像群と秋葉神社がある。庚申塔、馬頭観音、二十三夜塔、道祖神等お馴染みの石像群。
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その斜め前に鯉のいるため池がある。今まで木曽の山々から流れ出ている水がどこでも驚くほど多く、水場がたくさんあった。木曽を出たら水がそれほど多くなく、畑や水田が出てくるのと関係あるのでしょうか。
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お天気が良くソフトクリーム日和で食べて休息。

次から次と石像が出てきて緑の中にいい感じで私たちを見ている。と石像の隣に筍が終わりかけとはいいながら、今頃生えているのに家の方と何たる違いと驚く。
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そして閻魔大王みたいな石像を初めて見る。何なのでしょう。
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牧野一里塚跡(60里目)。
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線路をくぐり、ちょっと寄り道。言成(いいなり)地蔵尊へ。願い事を叶える地蔵。
お堂には千羽鶴が沢山奉納されている。何故か?病気回復、夫婦円満、平和の象徴の意味を持つ千羽鶴とお願い事が合致したのか。
帰って千羽鶴を折ってみたが、手先の不器用さに拍車がかかって、全然きれいに折れないのです。
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猿庚申塔?🙈🙉🙊とあと一匹は何猿?考える猿だそうだ。

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いくつかの石像の中にかわいい豆地蔵さんがいた。
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洗馬宿に入ってきた。
●洗馬宿(31番目)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒。現在の洗馬駅を真ん中にして、湾曲している。江戸と善光寺の追分に当たる。

高札場跡。
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中山道69次の広重が描いた洗馬宿。あふた清水から奈良井川を見た風景で、柳が枝垂れ、月明かりの中、舟が行き交う。
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芭蕉の句碑。「入梅はれの わたくし雨や 雲ちきれ」
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キングサリ(マメ科)。日本では初めて見たかも。
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アヤメも見かけます。
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万福寺の朱塗り門(再建)。住職が木曽代官山村氏の娘と結婚したことからこのような門をつくることが許された。
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脇本陣跡には明治天皇御駐輦之處碑がありその先に荷物貫目改所跡がある。街道を通行する伝馬の荷物の重量を検査するため置かれた。中山道には洗馬、追分、板橋の3宿に置かれた。

本陣跡を過ぎ、あふた(邂逅)の清水に寄る。木曽義仲が挙兵の際、今井から出迎えた今井兼平と邂逅した(出会った)所と言われ、ここで兼平が義仲の馬を洗うと、馬はたちまち元気を回復した。これが洗馬の地名の由来となった。
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ここから田んぼが見えたのだが、ちょうど田植えを人の手でしているところだった。人が点に見える。
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洗馬宿も昭和7年の大火のため家がすべて失われてしまった。この道の突き当りあたりが洗馬宿の江戸方見附だ。
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追分(中山道と善光寺道)。右が中山道。
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塩尻はレタス(日本トップ)とブドウの名産地。ワインが有名。
レタス畑の向こうを中央西線が通った。
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ブドウ畑が続く中、葡萄の実の赤ん坊かと思ったら調べたら、これから雄蕊5本、メシベ1本だけの花が付くという。
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山の向こうの電線の間に穂高連峰が見えた。
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さらに進んで第1中仙道踏切を渡る。塩尻から中津川の間にある16の踏切の一番目だそうだ。中津川から塩尻までほとんど木曽で長かったです!
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まっすぐな道を進み平出遺跡に寄り道する。
日本三大遺跡(ここと登呂遺跡、茅野の尖石遺跡)の一つ。昭和27年に国史跡に指定される。
縄文時代から平安時代にかけての大集落で、発掘調査により、縄文時代の中期60、後期2、古代の古墳時代79、平安時代28、時期不明30の計199軒の住居が発見され、緑釉水瓶をはじめとする土器・石器などが大量に出土している。
縄文・古墳・平安の3つの時代の住居がそれぞれ再現されている。

まずは古墳時代の村。
右は住居。左は高床式倉庫。
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右の住居は切妻で平にも妻にも出入り口があった。これは妻側。
こちらは平側。
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おはつもも。古代より栽培された中国原産の桃。5月に開花。古代の人も桃を食べていたのだ。
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縄文の村。屋根には茅が使われていた。
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住居の中。
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最後に平安時代の村へ。形が違ってくる。
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街道に戻って両塚を残す「平出一里塚」59里目を見学。
南塚。武田家の武将山本勘助が桔梗ヶ原合戦の際に赤子を拾ったとされる伝説から「勘助子育ての松」「乳松」と呼ばれたそうだ。今の松は何代後のでしょう。
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北塚。
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少し先で街道歩き終了し塩尻駅へ。次回は駅から街道に出て塩尻宿に向かってかなり歩くところから。

(私がいつも留守番してもらっている夫)娘のお父さんへのお土産は毎度ですが今日は栗田塩羊羹とクッキー。9時過ぎに帰るのだがその場で一つペロリなのでラインで報告すると娘にいつもびっくりされるわけです。
19時29分のあづさに乗れたので、地元駅ビルで夕食。
今日は約37000歩でした。

 (完)

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2022年5月30日 (月)

中山道20 贄川宿~本山宿~洗馬宿~塩尻駅(前編)

<今日で木曽路は終わり信州路に入る>・・近江路、美濃路は既に忘れてしまったところが多い。

5/19(木)晴のち薄曇り 車内から富士山も見え、まだ雪で覆われてきれいだった。
先週は奈良井駅がゴールだったが奈良井から贄川までは昨年先に歩いていたので、贄川駅からスタートする。既に贄川宿は見学済みで次の本山宿に向かう。贄川駅より1時間ちょっと歩いたところで木曽路が終わる。

塩尻駅到着9:28。奈良井宿の方へ行く、葡萄マークの小さな地域振興バスで塩尻から洗馬~日出塩~贄川まで乗る。たった100円。20人乗りくらいの小さなバスでこれが旧道を走るのである。10:50に45分間かけて到着。ここをこれから夕方にかけて同じところを逆戻りするわけだ。勿論バスも通れない旧道も存在しそこも歩く。
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前回同様、駅で早い昼食を済ませて出発。
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またまた石像を右に左に見、両部鳥居の諏訪神社を過ぎる。二十三夜塔・庚申塔など石像物が多数点在。
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今週もまた燕が沢山行き交う。
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山藤も木曽の山々を彩っている。
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若神子(わかみこ)一里塚(62里目)。鉄道と国道によって伐られ現在は高さ1m、直径5mの木が残されているというが果たしてどれが?
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片平集落を通過する。小さな集落だ。「ふじや」という屋号札がかかっている家があった。
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立派な石垣に守られた白山神社。
拝殿。この神社は、加賀の国(石川県鶴来町)の白山比咩神社が総本社で、祭神は菊理媛神。夫婦の縁から現世とあの世の縁まですべての調和結合をはかり生産者には生産の力を人には和を与える神様・・・と倒れた解説版に書かれていた。なかなか素晴らしい神様ではないでしょうか。
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桜沢茶屋本陣跡があった。贄川宿と本山宿の間の立場が置かれていた立場茶屋だ。
見える碑は明治天皇御駐輦跡碑と櫻澤御小休所碑と御膳水碑だ。その間にあるのが立派な本陣門だ。
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オダマキが多く、塩尻、諏訪に近づくにつれ、セイヨウオダマキとジャーマンアイリスが各家庭に植えられているのに驚く。木ではライラック、オオデマリ、キングサリ、ニセアカシアなどが多く見かけられる。標高が高いので北海道のようなのか。
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旧道を上がって行くと三面八臂の馬頭観音と南無阿弥陀仏名号碑。
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その隣に大岨(おおそば)隧道が残っている。中央線が開通した当時通っていたトンネルだが、昭和40年代に電化や複線化で廃止された。
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崖路の左手下を見ると奈良井川が流れている。
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国道に下りると「是れより南木曽の碑」がある。ここは木曽路の北の入り口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。
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「ようこそ木曽へ」という看板もあった。
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今日、ここで長く感じた木曽路も終わり、信濃路に入る。標高は812mだ。
木曽路はコロナで細切れになってしまったが紅葉と新緑を両方楽しめた。山に挟まれた中を途中から木曽川や奈良井川のそばを歩いたことはとても印象に残る。

しばらく国道を歩いていると、養蜂場があった。蜂がぶんぶん飛んで怖い。それなりに色々な花が咲いているのでたくさん美味しいはちみつが採取できるのでしょう。
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旧道に入って次の駅・日出塩駅の手前にも道祖神、秋葉大権現、筆塚が並んでいる。
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長泉寺を通り過ぎると左手に61里目の石碑のみの一里塚跡がある。
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いよいよ本山宿だ。
●本山宿(32番目)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠34軒。木曽路の玄関口として賑わった。蕎麦切り発祥の地でもある。
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高札場跡には秋葉大権現(文政13年)と秋葉大権現常夜燈(元治6年)があった。
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長久寺・常光寺跡(松本藩の厳しい廃仏毀釈によって廃寺)、口留番所跡(1642年より幕末まで松本藩により、口留番所が置かれ、米穀、塩、女などの通行改めをした)、脇本陣跡・上問屋跡を通り過ぎる。

広重が描いた本山宿。版画を見ると、大きな松の木が倒れていて鳥居みたいにつっかえ棒がしてあって、その下で旅人が焚火で暖まっている。
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マンホールは、塩尻市の宗賀南部地区農集排と書かれ、北アルプスと蕎麦の花、周囲はカタクリの花がデザインされる。
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ここも「扇子屋」とか「扇屋」など屋号札がかかる。作っていたところなのだろうか?
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小林本陣跡。雀おどりのある家(明治18年建築)で、明治天皇本山行在所碑あった。皇女和宮も泊まられた。
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その前には国登録有形文化財の旧旅籠川口屋、池田屋、若松屋が並んでいる。斜交(はすかい)屋敷(道に対して斜めに建っている)となっている。どの家も袖うだつがあがり、出桁(だしげた)造り。この宿も何度も大火に見舞われ、これらも明治2年の大火後の建物だそうだ。
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本山そばの里。
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このあたりの畑はそば畑である。蕎麦は6月から9月に蒔くが、この辺りはまだ蒔かれていないかな。
そば切り発祥の地と言われる(山梨県甲州市大和町も発祥地とされるが)。本山宿の江戸口見付。

(続く)

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2022年5月23日 (月)

中山道19 宮ノ越宿~藪原宿~奈良井宿(後編)

跨線橋で線路を越え、右手奥の方の鳥居峠へ向かう。
鳥居峠は古くは信濃と美濃の国境で、木曽義元(義仲の子孫)が先勝祈願のために鳥居を建ててから、鳥居峠と呼ばれるようになった。
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尾張藩鷹匠役所跡がある。
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はじめは尾州藩鷹匠役所は妻籠宿にあったのだが、享保15年(1730)、薮原宿に移され明治4年まで続いた。毎年春になると、尾張藩から鷹匠と役人がやってきて、鷹の巣を見つけて鷹の飼育・調教・公儀献上、巣山の管理などを木曽代官山村家の家臣等と行っていたのだそうだ。

原町清水に水神様が祀られる。木曽は山に囲まれているので水が豊富だ。
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鳥居峠登山口でストックを用意する。
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石畳の道がはじまる。
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熊除けの鐘が数か所にあって熊除けカウベルを娘が付ける。

ニリンソウの群落が続いていた。
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経塚牛馬供養塔。
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馬頭観音。
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振り返ると藪原宿が見えた。
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山の中に丸山公園があって句碑や古戦場碑など多数の碑があった。
芭蕉句碑が2つあってこれは「木曽の栃うき世の人の土産かな」。芭蕉は1684年の『野ざらし紀行』と1688年の『更科紀行』の2度、この峠を越えている。
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峠山から引かれた御嶽清水(旅人はここで飲んだのでしょう)から上がったところに義仲硯水井戸があった。
義仲が平家追討の旗揚げで御嶽山遥拝所に参拝し、戦勝祈願文をしたためさせて出陣した時の硯水。
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ここから少し登った所に御嶽神社があり、御嶽山遥拝所がある。東から来た旅人が最初に御嶽山が見えるポイント。
遥拝所からはズームすると御嶽山がちょっとだけ見えた。木曽の御嶽山遥拝所は3ヶ所あったがはっきり見えずじまいだったのは残念だった。
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御嶽神社。
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たくさんの石塔石造物が並んでいた。
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不動明王もいます。
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ヨゴレネコノメソウ(ユキノシタ科)やレンゲツツジやキケマンなど低山の花が咲いている。
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鳥居峠のトチノ木群碑を過ぎた先に、子産みの栃があった。大きな空洞がある。昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったそうだ。
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トチノキが並んで葉も存在感があってきれいだ。
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道を曲がろうとして左手の道を見やると野生の猿がいた!このあと猿がたくさんごそごそと木を揺らしたりしていた。
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明治天皇駐蹕所碑がこんなところにもある。字が読めない。このあと明治天皇駐輦碑があるがどう違うのか?
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お六櫛の原木であるミネバリが植えられている。白樺のような木肌で細い。
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鳥居峠到着。標高1197m。3時17分。
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やがて中利茶屋到着。茶屋の横には水場があった。木祖村から塩尻市に入る。此の先塩尻市はとても広い。
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蛇が出て娘が踏みそうになる。初めて見る茶色の蛇。調べるとジムグリで70㎝~1mもある。無毒。
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木の橋がいくつも出てくる。穴の開いた橋もあった。倒れた木があって昨年の台風のつめ跡が残る。
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鳥居峠一里塚跡(65里目)。
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中の茶屋跡到着。菊池寛の「恩讐のかなたに」の舞台となったとあった。九州の青の洞門の前にこんな場所が書いてあったのでしょうか?
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ここは、天正10年(1582)、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた古戦場で、この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれるているそうだ。

かわいらしい石像が鎮座。
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ついに登山口に到着!4時22分。
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再び奈良井宿を歩いて駅へ向かう。
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今日はわざわざ塩尻を通り越して松本までとことこ行って、「山里おつまみ弁当」を買って6時40分のあずさに乗り込み、お弁当夕食を愉しむ。
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帰宅は9時を10分くらい回っていた。約33000歩。鳥居峠はちょっとしたハイキングで気持ち良かったです。

(完)

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2022年5月20日 (金)

中山道19 宮ノ越宿~藪原宿~奈良井宿(前編)

昨年12月は宮ノ越宿~奈良井宿の間は鳥居峠があって雪のため歩けなくなって、先に奈良井宿~贄川宿を歩いた。
ようやく春になって鳥居峠も良しということになって、順序が逆になってしまったが、それに曇りのち少量の雨だったが歩いてきました。

あずさ1号に乗って塩尻についても宮ノ越に行く普通電車が1時間以上もなくて、特急しなので木曽福島まで戻って、宮ノ越に普通電車で進み到着したのが11時13分。歩き始めがこんな時間になってしまう。そこで木曽福島の待ち時間30分の間に10時半に持参のおにぎりなどで昼食にし歩き時間開始が遅いのをカバーした。木曽はなかなかに不便だ。
そうそう、宮ノ越は木曽義仲が育った場所だ。前回乳兄弟姉妹みんなで勉強した場などを見学した。

駅からの道の突き当りに徳音寺がある。
途中義仲橋で木曽川を渡った。この辺りが宮ノ越宿の江戸方見付だった。
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その先右に義仲館があるが見学せず。義仲と巴御前の像を撮影する。
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徳音寺は木曽氏の菩提寺である。木曽一族の墓がある。義仲が母を葬った寺。
山門(鐘楼門)は、享保8年(1723)に建立されたもので鐘は「徳音寺の晩鐘」として木曽八景のひとつとなっているそうだ。
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木曽一族の墓。
中央が木曽義仲の墓。大津の義仲寺にも芭蕉と並んでお墓があった。
右側の右から今井四郎兼平(巴御前の兄)、義仲の母小枝御前の墓。左側の左から樋口次郎兼光(巴御前の兄)、巴御前の墓が並ぶ。
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木曽義仲公霊廟。
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本堂前の巴御前乗馬像。
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色々な塚を見るが、蛙塚は初めてだ。最近ガマガエルさえ見かけない。蛙を急に見たくなった。
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つらぬきいし。巴御前が木曽川巴淵を馬で駆けた際、馬蹄がこの石を貫いたのだそう。
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白い藤、満開になったらきれいでしょう。
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前回見学した宮の越宿の街道に戻り、木曽川をまた渡り直したりして旧道を歩く。まだ八重桜が咲いている。
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標高は宮ノ越駅約860m、これから向かう藪原宿の駅は約925m。越える鳥居峠は1197m、到着予定の奈良井宿は934m(JR東海で一番高い駅であった・・もう忘れていた)。かなり涼しい。

宮ノ越宿を外れたこの辺りまで屋号札がかかる。
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有栖川宮御休所跡碑。明治20年、有栖川熾仁親王夫妻が中山道旅行の際、紺屋を営む手塚家で休息した。
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木曽のこの辺りの道祖神は諏訪と違って文字だけだ。
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ミヤコグサ(マメ科)が咲いている。 ではなくてサーモプシスシネンセスでした。多摩NTの住人様ありがとうございました。
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中山道と木曽川が山吹山に突き当たって直角に迂回するところが巴淵(ともえがふち)で水の色がきれいだ。山吹も巴も義仲の愛妾の名である。謡曲「巴」にもある。巴状に渦巻き名が付けられた。巴御前はここで水浴し武技を練ったという。
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旧道が立ち入り禁止なので音の煩いトンネルを行く。抜けると木曽町から木祖村(木曽川源流の里だそう)に入った。「きそ」の字が異なる。
吉田一里塚跡(67里目)。後ろに見えるのは蕗。宮ノ越からこの辺りは蕗畑が沢山あって名産地なのだろうか。
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吉田橋を渡ると吉田洞門が見えてきた。国道は木曽川の横すれすれを通り、山が迫る部分は吉田洞門で保護され、歩道は川側にある。旧道は山の斜面にあるが今はヤブで通れないそうだ。
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鳥居峠の壁画があった。御嶽山と峠を越える旅人と馬子と松が描かれている。大きすぎて撮れない。
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木祖村のマンホールは村の花「りんどう」と村の木「とちのき」そして木曽川がデザインされている。
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ここで中山道も半ばを過ぎて初めて街道ウォーカーさんに会う。京都の人たちで東京方面から歩いてきたという。鳥居峠で御嶽山が良く見えたそうだ。

藪原駅のところにSLがあってそばに68里目の一里塚があった。藪原宿に入ってきた。
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●藪原宿(35番目)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒。宮ノ越宿から7.6㎞。奈良井宿まで5.4㎞。 
この宿は鳥居峠と飛騨街道追分を控え、お六櫛の生産地として賑わった。明治17年の大火で、宿並の大半が焼失してしまっている。

お六櫛の工房。女流作家・木内昇(のぼり)の『櫛挽道守』に神業と称えられた櫛職の父のもとに櫛に魅入られた長女登瀬のことが出てくる一家の物語が書かれる。こんな冬厳しい木曽のここで作られていたとは。櫛は博物館ですでに見ている。ちょうど藤村の『夜明け前』と時代が重なる。
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高札場跡の標柱
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この宿も、どの家も屋号札がかかっている。
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お六櫛問屋篠原商店。
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漆器店もあった。
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水場もたくさんある。
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宿の風景。
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防火塀跡。薮原宿は4回も大火に見舞われ殆ど焼失。その対策として石垣を築き、その上に高い土塀をたて防火壁としたそうだが、今は石垣だけ
が見える。
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極楽寺(観音堂はお六櫛のお六が祀られ、天井画は藤田嗣治が描いた)と、藪原神社(式部鳥居)が街道から見えた。時間の関係で見学は省略。
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旅籠米屋。明治の大火後に須原宿から移築された建物だそうだ。
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脇本陣跡や本陣跡を通り過ぎ、宿を出て鳥居峠へ向かう。

(続く)

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2022年5月15日 (日)

日連アルプス・金剛山へ

「低山友の会」のリーダーが1年4ヶ月ぶりに療養から復活されて始まりました。
会員13名。いつでも友人を連れてきても良い。コロナ対策ばっちり。私より年齢が2,3年、年上の方が二人いるので弱音を吐いてはいられない。

日連(ひづれ)アルプスへは神奈川県相模原市緑区の中央線・藤野駅から出発。400m級の低山だが久しぶりであなどれない。
藤野は有名な「緑のラブレター」のある芸術の盛んな地区。国分寺駅からは藤野駅まで27㎞で近い。
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駅前の道路から日連アルプスが見える。
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日連大橋で相模川を渡る。少し先が相模湖だ。
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旧藤野町のマンホール。藤が一房アップで描かれたデザイン。
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山道に入るとホウチャクソウ(ゆり科)が。久しぶりです。
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ツツジのハナグルマも久しぶり。
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ヤブデマリ(ガマズミ科)か?枝を水平に出しているから。似ているムシカリはもっと高山に生える。
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宝永(1710年頃)と読める石仏(馬頭観音)が目に留まる。
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宝の峰(374m)の頂上から
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レンゲツツジ
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標高が書いてない日連山を通り過ぎ峯山(423m)に到着。
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その先の眺望の良い場所から右奥高尾山から陣馬山方面を望む。
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最後の金剛山(410m)
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金剛山神社 火の神様が祀られている。山頂に神社のある山は信仰の対象として昔から崇められてきた山であると認識しました。
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金剛山は登りは這うように、下りは急坂でへっぴり腰で、もう若くないのでした。
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とはいういうものの久しぶりに懐かしい植物に会え、山仲間に会え、約16600歩で心地よい山行でした。

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2022年5月11日 (水)

甲州街道歩き13 青柳駅~金沢宿~上諏訪宿~下諏訪宿(3)

街道に戻る。
諏訪市のもう一つのマンホール。諏訪湖の花火と高島城がデザインされている。
(2)で高島城に行っていないような事を書きましたが、子供が小学生の頃(1976年8月)見に行っていました。コンクリート造りの城だと書いてあり写真が子供のアルバムに貼ってありました。すっかり忘れています。
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吉田の松。4代高島藩主の諏訪忠虎の大坂城守備に随行した高島藩士の吉田式部彦衛門が持ち帰った黒松。推定300年くらいで市内最年長の松。
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桑原の一里塚跡碑(52里目)を左に見、右側に入っていくと高島藩主廟所と和泉式部の墓、高島藩の菩提寺の温泉寺は時間の関係で行かれなかったのが残念であった。

児玉石神社。下桑原の鎮守。拝殿の前の石はいぼ石と言われる。石の凹部の水でいぼを洗うと治癒するのだそうだ。
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先宮神社。
道路と神社の間に水が流れているのです。橋がないので跨ぎます。諏訪神社の神が出雲からこの地に鎮座した際、この神社の神が抵抗したため境内から出ることが許されなかったためという。
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(ここでカメラが壊れる!この後はスマホ撮りと娘の写真を借用)
拝殿脇の御神木のケヤキには一番下の大こぶを始めたくさんのこぶがある。樹齢650年以上と推定される。
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ついに諏訪湖が見えた!この辺りの家は冬は寒いでしょうが、毎日諏訪湖を見て暮らしているのがいいなあ。
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今度は穴が向こうまで開いていて、反対側は木が半分裂けているケヤキがあった。よく生きている。植物も凄い!
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天保10年(1839)の北村中と刻まれた常夜燈。何処に明かりをともしたのか見てこなかった。
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下諏訪町のマンホール。さくらとつつじがデザインされている。
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下諏訪町は諏訪郡の町で、前に歩いてきた同じ諏訪郡の富士見町と原村とは接していない飛び地だ。諏訪郡下諏訪町、諏訪市上諏訪とややっこしい。

突然棚田が現れた。棚田はあまり見たことがなくてこのよい風景に見とれる。
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その先に茶屋橋本屋跡がある。諏訪湖で獲れた鯉の料理が名物で、高島藩主もわざわざここまで食べにきたという。
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双体道祖神があちこちで見られる。
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元気もりぞうポスト。
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アララギ派、島木赤彦旧宅(柿蔭山房)に寄る。かやぶきの立派なお宅だ。
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前回富士見公園で句碑があったが、明治30年久保田家の婿養子となり、死去までここに生活した。墓は裏山にあるそうだ。
庭の立派な松。
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諏訪湖も大分回ってきた。
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南信八名所石投場碑と明治天皇駐輦址碑があり、江戸時代には、諏訪湖がこの真下まで迫っており、旅人はここから湖面に石を投げ、打ち興じたという。明治天皇は、ここから漁師達の投網を御覧になったという。
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最後(53里目)の一里塚跡の碑。あと1.1㎞歩くと終点の下諏訪宿。
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旧承知橋の一枚岩。
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承知川を承知橋で渡った所にある。この模様は、滑り止めとも信玄の埋蔵金の隠し図とも言われている。私には人が数人並んでいるように見えたが。
承知という名は信玄の馬が信玄が約束を果たさないことがあった時、頑として動かなったことがあった。信玄が「神のお告げ承知つかまり候」と言ったことからきたという。

横には承知地蔵尊がある。
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●下諏訪宿(33番目)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒。
また諏訪大社下社の門前町として昔から栄え、中山道との追分を控え、中山道唯一の温泉場として賑わった。

諏訪大社下社秋宮が見えてきたが、後で見学することにして先にゴールをめざす。
手前の建物は塩羊羹の老舗・新鶴本店で丁度閉めているところで、中山道歩きで通るときに買うことにする。
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甲州街道のゴールで中山道との合流点に到着。万歳!17時33分。江戸日本橋から約220㎞。13回かかった。
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御柱祭の木落としがデザインされているカラーマンホール。
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今年は7年に1度の御柱祭の年。コロナで車両で山出し、木落しは中止。里曳の観客は氏子のみ。始まりは桓武天皇の平安初期だそうだ。
狩猟の神、武勇の神として信仰を集めてきた。4本の御柱の長さは一之御柱16.7mから順に1.5mずつ短くなっているそうだ。4月に山出し、5月に里曳き(社に曳き着けて建てる)が行われる。

諏訪大社下社秋宮の見学に戻る。すぐそこ見える。
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神楽殿。しめ縄が太い。狛犬は青銅製の狛犬としては日本一大きいそうだ。
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天覧の白松。
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弊拝殿。弊殿と拝殿が一体となっている。二重楼門造りで見事な彫刻が施される。高島藩の命により1781年に造営された。
左右片拝殿。
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奉納されたお酒。
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神社の前の専女(とうめ)の欅(樹齢1000年。秋宮の一部で芽吹きや紅葉で気候を占なう「陽気木」として知られる)。
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上諏訪まで一駅乗り、御弁当が売り切れで、いったん外に出てコンビニで夕食を買い、7時3分のあずさに乗り、9時過ぎに帰宅。
こんな夕食になりました。この後の中山道は何時もこうなるのか?
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約46800歩でした。

コロナ禍で木曽まで出かけられないことがあったので、思いがけず甲州街道を完歩。これで五街道のうち二街道を制覇出来ました。
まだ残雪の南北アルプスと八ヶ岳連峰を見ながら、時には木立の中の旧道や田畑の中を、あるいは立派な神社や路傍の多くの石造物を見ながらの快い歩きでした。

この街道も日帰りが困難な地区があったのですが、娘が研究を重ね全部日帰りできました。また東海道と違って中山道と甲州街道は昼食難民になりそうなところもあってそんなことや有名なお土産屋なども調査してもらい、往復の乗り物の手配もしてもらって大名気分。せめて元気にして転ばないようにして歩かないと罰があたります。
次回からはとりあえず本日の中山道との合流点まで、中山道を歩きたいと思います。
長くなりましたが読んでいただきありがとうございました。
次回から中山道、どこまで歩けるか時間の問題になってきましたが、読み飛ばして見てくださいませ。

(完)

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