2018年1月22日 (月)

『息子が殺人犯になった』 ス-・クレボルド著

『息子が殺人犯になった』ス-・クレボルド著 仁木めぐみ訳
コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白

1999年4月20日コロンビア州デンバーのコロンバイン高校で、同校の生徒、エリック・ハリスとディラン・クレボルトが生徒12人と教師1人を殺し、24人を負傷させたあと自殺した史上最悪の学校銃乱射事件があった。それは未成年2人によるあまりに残虐な犯行だった。
アメリカのごく普通の家庭で育った兄弟。著者はディランの母として、妻として、女性として、教育関係者として優等生的人生を送ってきた人だ。
それがこの日に突然破壊され、絶望の淵に突き落とされ、殺人犯の家族としていきなり社会にさらされ、責められ、自身も息子を失い、価値観のすべてを壊された著者が、嘆き悲しんだ末、自分を取り戻し、世界の人に向けてすべてのことを発信する本を書いたのだ。著者紹介によると、事件直後から家族の生活の細部まで振り返り、原因を追究してきた。その過程で、精神衛生と暴力の関連性について理解を深めながら、現在は自殺を防止する活動に奔走しているというのである。

事件が起こって間もなく、職場に電話が入り、帰宅するも、警官とマスコミとヘリコプターがいっぱいで、家の中に入れてもらえず、ずっと夜まで外に立たされ、その後はとりあえずの品物だけの持ち出しが許され、ホテルへと思っても、野次馬とマスコミに晒されることで、行き場所がない。密かに夫の姉の家の地下室に数日かくまってもらうところから始まる。
最初何も知らされず、どうやら息子が犯人らしいということで、テレビを見ることも出来なくなってしまう。何も食べられず、眠れず、嵐のような、被害者や世間の人々の犯人の親に対する憎しみに対面して行かねばならない。
そんなに普段から家族の一員として格別悪い子ではなかったし、「私の育て方は間違っていなかった」と思い、とても大量殺人をする子に思えなかった。
しかし人々は言う「いい親なら、子どもがなにをしようとしているか、ちゃんとわかるはず」と。
著者が想像を絶する非難を浴び、喪失し、加害責任を引き受けていく過程が凄い。それでもわが子を否定しきれない葛藤が続く。結論は親の知らない面で、子どもは精神的に病み、自殺願望が高まっていて、友人のエリックの銃乱射に加担する残忍な方法で自殺するという、救われない自殺の仕方だった。
事件後すっかり体が弱ってしまったが、2か月後に職場に復帰するように親切な上司や同僚に言われ、ふらふらしながら、職務はまだ果たせないけれども、外に出て行ったことが凄い。
ストレスの胃腸炎で、トイレがすぐそばにない所では働けなかったという。
たくさんの裁判を起こされ、また莫大な弁護士費用で、やがて土地も家も失い、そして夫とだんだん思いが通わなくなって事件度10数年経ってから別の道を歩み始めたという。
約400頁にわたる克明な記録が事件から15年以上も経って上梓された。
毎日起こる事件で、同情できない犯人を見聞し、親が悪い、家庭が悪い、社会が悪いとそこだけに結論を持って行きがちだけれども、そんなものではないということもわかった、いささか気分が落ち込む内容でもあったが、著者は自殺願望の人を防止する活動をしているし、物凄い19年を送ってきたし、よくここまで生きて来られたなあと感嘆したのです。この人だけではない。世界にはこんな思いをしている人がたくさんいるのでしょう。状況によっていろいろ異なるも、1つの事件の内外両面からの克明な記録として私の心に深く焼きついた本でした。

今年も、ロウバイにたくさん出来た蕾をヒヨドリに全部食べられてしまいました。少し残っている万両よりは美味しいのですね。
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2018年1月11日 (木)

本:『名古屋学』と『日本の分水嶺』

『名古屋学』岩中祥史著 

東海道歩きももう少しで愛知県に入るので関係する名古屋について知ろうと鹿児島学に続いて読んだ。
著者のまえがきからの抜粋でほぼわかったつもりになれる。名古屋弁についていやに力が入っていると思ったら著者が名古屋出身だった。

名古屋は古くは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を輩出したところだ。何れも名古屋にその後住んだわけではないが。
特に戦国時代の混乱に決着をつけ約270年も続く江戸幕府の創始者の徳川家康に象徴されるように、名古屋人はしたたかな人種として知られるそうだ。何があっても決してめげない、よそを気にしない。
それは家康の情報力であり、名古屋人も情報力にかけて東京人、大阪人を圧倒している。

名古屋人はケチで有名である。その理由は冠婚葬祭に備えてである。特に嫁にやる娘の支度にかけるお金は他の地域より群を抜いて1000万円以上かける。…などこれって21世紀になり平成もまもなく終わりの現在もそうなのでしょうか?

そのケチぶりは会社経営にも発揮され、無借金の企業40社が挙げられているが、その中にトヨタ自動車、リンナイ、カゴメ、INAX、デンソーなど錚々たる企業が名を連ねている。
「浮かれない、騒がない、踊らされない」が名古屋の経営者の鉄則になっている。勤勉で良く学び、粘り強く取り組むので、特に生産部門では群を抜いている名古屋だ。
サラリーマンも夜、外で飲んだりせずまっすぐ家へ、無駄と思われることは一切しない。夜の盛り場もさっさと閉まるというから信じられないが、そういうことだ。

タクシーに乗る人も少ないから、他所からの人間が乗ってみるとなんでも日本一運転手さんが丁寧でサービス精神に富んでいるらしい。(私が最近医者に行くのにハイヤーを頼んだら凄く丁寧で親切で感動したので、東京でも流しのタクシーとは違うのであろうか。タクシーは東京では殆ど乗ったことがないので比較が出来ない)

バブルにものらずに堅実で、だから宅地面積も広く、地下も上がらず住みやすく、名古屋の地から他へ就職しようともしないのが大半。
名古屋は都会の「乾性」と田舎の「湿性」とが見事に調和した空間なのだそうだ。

しかし、名古屋は文化度が低く、文化不毛の地と言われる(が気にしないそうだ)。そして味オンチだそうで、味噌カツ、きしめん、ういろう…お世辞にも美味しいとは言えない料理を次々と発明する名古屋人と著者は書いている。

『日本の分水嶺』~地図で旅する列島縦断6000キロ~ 堀公俊著

降った雨の行先が太平洋か日本海か?その一本の線が大分水嶺。
北海道の宗谷岬から下関、九州は門司から佐多岬へ。
北海道は知床岬と襟裳岬にも分岐する。本州では琵琶湖の東の方から和歌山県の田倉崎へ分岐する1本があり、その続きが四国の徳島から愛媛の佐田岬へ、その先、九州の阿蘇から分岐する1本につながっている。九州には英彦山からもう1本分岐していて平戸大橋へ。
この分水嶺には「百名山」の他に「百名峠」や「歴史の道百選」「自然百選」「残したい日本の音風景百選」などが所々に出てくる。
峠からの絶景も随所にあり、花咲く湿原も随所にあって素晴らしいらしい。それを踏破しようと試みる人もいるようである。


千両をヒヨドリだけが食べていると思っていたら、1昨日鳩が食べにやってきているのを発見。塀からなかなか千両に向かって飛べなくて、やっと細い幹に飛びつき、実を突いている所。ピンボケで見ずらいです。
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2018年1月 8日 (月)

日本はお土産(特に食べ物)の宝庫

食べ物に関するお土産について外国と比較すると、お菓子には餡や餅があること。そして海沿いの県に行くと海産物のお土産がいっぱい。漬物が豊富な日本。山野草を加工したお土産も山国に行くと種類が豊富だし、そのものを買ってくることも多い。地方に行くと水がいい所には、どこにも酒造メーカーがあること。

お正月に3つの福袋を持って年賀に現れた娘たちが、その2日後に掛川の花鳥園に行き、東海道を歩いた時に買えなかったお土産を7種類買ってきてくれました。
藤枝から島田、掛川、袋井、磐田(見付)、浜松までのもの。おまけが道中にない御前崎のまんじゅう。ありがたや。ありがとう。
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・藤枝朝ラーメン 静岡市の隣、藤枝市の志太地区では朝ラーメンという独自の食文化が根付いた地域。お茶を栽培する人たちが朝早くから作業していて、それでラーメンを朝から食べる習慣ができたとか。一度食べたら忘れられない味というよりも、忘れかけた頃にまた食べたくなるクセになる味とか。食べ方は温かいラーメンをまず1杯。続けて冷たいラーメンをシメにもう1杯。これぞ通の極みとばかりに、喉越しやだしの香りを楽しんでいるのだそうです。冷たいラーメンもということで明日17℃になるということでチャンス。明日食べます。

・富士山静岡紅茶 島田市。本当は紅茶発祥の地は丸子で、歩いた時看板だけを写してきたのですが、丸子には売っていなかったそうだ。イギリス紅茶とはまた違った味で美味しい。

・振袖餅 掛川市「もちや」に売っている。きな粉をまぶしたものと2種類。大振りの大福餅をのばしたような形で粒餡がたっぷりで、牡丹餅を食べているようでした。歩いた日は休日でした。

・山の息吹 掛川産のお茶。以前袋井で買ったし、お正月にも娘からもらっているので、暫くずっと掛川産のお茶を楽しめそう。美味しいのです。

・しっぺい小まんじゅう 磐田市イメージキャラクター  見付天神の妖怪を退治した犬。白餡でした。
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・みかんバター 浜松市の三ヶ日みかんをバターで仕上げたもの。毎朝トーストに塗っている、みかんの香りがする珍しいこのバター、美味しいです。

・ミニ亀まんじゅう 御前崎市 御前崎灯台のある浜で亀が産卵に来るそうで作られたお菓子で亀の形で甲羅まで表現されている。小豆餡で餡の味も良い。

婿さんが出張した富山で買ってきてくれた「白えび釜めしの素」。今晩炊きます。253x450

同じく娘たちが昨日三井記念美術館に(掛川花鳥園つながりで鳥の展覧会をやっているそうで見に)行ったとき通る神田、日本橋、東京駅界隈にはアンテナショップがたくさんあるそうで、北海道の店に寄って買ってきてくれたお土産。「さんまのひつまぶし」とは!うなぎのさんま版。どんな味でしょう。あずきスプレッドはみかんバターが終わってからの楽しみ。「月寒あんぱん」もあずき餡の味が楽しみ。
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2018年1月 4日 (木)

ロートレック展

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          明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

友人から戴いた年賀状にこんなにたくさんの犬のシールが貼ってあって可愛い。これは捨てられません。407x450
昨年11月から12月にかけて1ヶ月余の間にすぐ治ったのですが、何と4回も風邪を引いて今までは年に1回程度だったのにと加齢もここまで進んでしまったのかと少々気落ち気味でした。
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初詣も夫に代表で行ってもらって拝んできてもらいました。その間、当番で回ってきた高校女子会の50人の名簿作りで、今は電話も固定と携帯の両方が多く、E-mailもあって長ったらしくなり疲労困憊。まあ打ち終わったので一安心。
暮れから体力を温存のため、働かないことにし、病気以外では初めておせち料理をサボって取り寄せし、手抜きのお正月会。初めて「獺祭」を試飲、日本酒の味が全然わからない。何でも杜氏のいない酒造だそうで。ワインはボルドーで渋い。

昨日3日は恒例のダイヤモンド富士撮影。これも夫だけ行って撮影。電池切れでここで終わりになってしまったとか。

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今日は久しぶりに電車に乗り、東京駅で降り、三菱一号館美術館へ『パリ❤グラフィックロートレック展とアートになった版画・ポスター展』という今までにない長い名前の美術展に行ってきました。
すっきりした東京駅丸の内側と東京駅全景

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こんなビルの壁。時々替えるのでしょうか。
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19世紀末期のパリ、ロートレックや世紀末前衛芸術家(ヴァロットン、ボナール、ドニ等)たちによって、版画が絵画と同じく芸術の域まで高められ、それらを収集する愛好家も出現したそうだ。美術が人々の暮らしにまで浸透したのもこの時。かくして「グラフィック・アート」が生活と芸術の結節点だということです。
三菱一号美術館は随分たくさんの作品を所蔵していて、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館の貴重な19世紀末版画コレクションと合わせて約140点が集められている。
たくさんの人の作品が展示されているけれども、何と言ってもロートレック!上手い事ピカイチ。表情、体の線、色使いなど惹きつけられる作品ばかり。特にポスターはミュシャもいいけれども、その上を行く作品群ではないかと私は思います。貴族の出でありながら遺伝子疾患で成長停止になり、絵を描きながらも差別を受けたことから、アルコール依存や梅毒になり36才の若さで亡くなる。ゴッホも気の毒だったけれども、別の意味で可哀相な画家でした。
一部屋だけ撮影可能でした。
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2017年12月28日 (木)

世田谷一周区境ウォーキング第3回に参加

448x650_212/17(日)に使っている東海道歩きの地図の発行元・風人社が主催する「ホントに歩く 世田谷一周ぐるっと区境ウォーキング」の3回目に参加しました。1,2回目は他事と重なってパス。23区で世田谷区は社宅に住んでいた杉並区とその後移り住んだ武蔵野市と同じくらい住みたかった区であるが、結局終の棲家はその延長の中央線の区から大分はずれた西の方になってしまった。いざその憧れの世田谷区へとは言っても区境なのですが。

3回目は下高井戸~駒沢大学(14㎞)
ちらしの案内をそのまま写させていただくと・・・
駒場・駒沢・下馬…‥馬と共にあった世田谷の昔に思いを馳せる。三宿・池尻に明治期から増えた軍施設の名残を見る。駒沢はゴルフ発祥の地・・・とあります。

出発点は京王線下高井戸駅で正午に出発し明大前、代田橋駅あたりまでは線路に沿って杉並区の境を歩く。

    出発駅のそばにカラスミらしき食品が干してあって指をくわえて眺める
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    区境は甲州街道沿いで杉並区側に築地本願寺和田掘廟所がある
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               その隣は明治大学キャンパス
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京王線代田橋駅をくぐり線路と少し離れて玉川上水緑道と第2緑道を東へずっと歩く。(踏めなかったけれども駅へと曲がる先に杉並・渋谷・世田谷の三境集合地点がある)

ゆずり橋からの玉川上水。人口が増えて給水路が増え使われなくなった玉川上水が、1986年に20年ぶりに水を流すようになったそうだ。
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玉川上水から分水した水路が何本も出来、世田谷区内でも北沢用水(北沢川)、烏山用水(烏山川)などが農業用水として使われた。
区内では代田橋駅付近からゆずり橋までのほんの小区間が昔ながらの水路で、下流は概ね暗渠で緑道となっている。

世田谷区立の2000年公園があった。富士山プレートに経緯度・海抜が書いてあった。ここからは富士山は見えない。
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笹塚のそばでしたか、渋谷区と世田谷区の境の家で世田谷区側に住んでおられる渋谷さんの家が紹介されて笑いました。

三境集合地点 真ん中横断歩道の向こう側が目黒区、手前が渋谷区、右手が世田谷区。
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        目黒区の駒場通りの日本民芸館 以前来たことがある。
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目黒区立の駒場野公園で休憩(ここも以前来たことがある)
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ケンネル田圃 旧駒場農学校の実習田でドイツ人教師ケンネルが実習と研究したのにちなんでつけられた。今は筑波大付属駒場中学高等学校のもの。
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           駒場地蔵尊とあった(〆切地蔵とも言うのか?)
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       池尻の騎兵山に馬神碑があって人参が備えられていた
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騎兵山の反対側から上って行くと騎兵第一聯隊址があって、秋山吉古(司馬遼太郎の「坂の上の雲」がドラマと共に懐かしい)が建立した碑が建っている。
明治24年に陸軍騎兵大隊・乗馬学校が池尻に移転し、明治30年に現在の世田谷公園の辺り一帯に駒澤練兵場ができたということで、駒場の方から下馬・上馬・駒沢と実に広い地域が乗馬学校や練兵場であったことを知る。
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      北沢川緑道と烏山川緑道の合流点でここから目黒川緑道となる253x450_4
目黒川緑道は冬の今もお花が一杯で素晴らしかった。パピルスも植えられている。
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池尻大橋の高速をくぐると両区にまたがって陸上自衛隊三宿駐屯地がある。当時駒澤練兵場での急坂道訓練など過酷な訓練が行われたという。
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道標1766年(明和3)建立。西せたがや道、南ゆふてん寺道、北めぐろ道と書いてあるそうだ。
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芦毛塚の碑 1189年(文治5)、奥州藤原氏攻めで頼朝がここ蛇崩川を通った時、愛馬「葦毛」(碑では芦の字)が落ちて死亡。碑は昭和43年建立。
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この後、下馬地区の区境を歩き、世田谷区の地図で東側真ん中の尖った部分、富士エリア(富士山は見えなかった)を通り、九十九里浜のように地図ではカーブしている区境を歩いて田園都市線の駒沢大学駅へ5時頃到着。飲み会(懇親会)にも出席し、いろいろなエキスパートの方々と一緒に歩いていたのだと驚くやら感心するやらの会でありました。1月に第4回目の二子玉川までのも歩く予定です。

この1年もありがとうございました。来年もまたよろしく願いいたします。

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2017年12月26日 (火)

『鹿児島学』岩中祥史著

著者はこの本を書くために鹿児島県の全市、ほとんどの町村を訪れたそうだ。
本土の他、種子島・屋久島を経て、悪石島のあるトカラ列島、その先の奄美諸島の与論島まで普通の地図には収まらない長い県だ。
江戸時代には沖縄まで島津が治めていた。

鹿児島県で最大、最強のものは温泉で源泉の数が全国第2位(1位は大分県)で鹿児島市内の銭湯は殆ど源泉かけ流しだそうだ。
そして思い浮かべるのが桜島(この灰だけが悩みの種)。さらに指宿・霧島温泉、焼酎、黒豚、薩摩揚げ、豚の角煮、キビナゴ、サツマイモ、白熊(かき氷)、薩摩焼、大島紬。

薩摩と言えば、明治維新の原動力となった。歴史上の人物では西郷隆盛、大久保利通、島津の殿様たち、天璋院篤姫、陸軍の大山巌、海軍の東郷平八郎、伊東祐亨(すけゆき)、山本権兵衛、洋画家の藤島武二、東郷青児、歴史小説家の海音寺潮五郎。

産業は製造品は37位、農業産出額3位、畜産業の「豚」1位、「肉用牛」「鶏」2位、食料自給率(生産額ベース)は宮崎県に次いで2位。

日本一長い「海上国道」58号線があるのが面白い。沖縄本島を貫き、与論島や徳之島を飛び越し、奄美大島に58号線が現れ、次は種子島で最後が鹿児島港から700mの西郷隆盛の銅像が建つ中央公民館交差点までが58号線の全ルートだそうだ。

路面電車が走る都市は17あるが、鹿児島市のは架線柱があり、架線が少なくすっきりしている。軌道が敷設されている部分に芝が植えられている。世界でもまれだそうだが、ついこの間スペインバスク地方で見て写真も撮ってきたところだ。お洒落な感じで、気持ちを和ませ、電車から発生する熱や騒音大幅に減らし、ヒートアイランド現象を緩和する効果もあるそうだ。
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日の丸、君が代、軍艦マーチ、国産ビール、野球、那須塩原温泉、キヨスク、一橋大学。これら全てに薩摩が深く関わっていたとのこと。
それぞれ長い説明があるが、一度読んだだけでは頭に入らなかった。

一途で猪突猛進の鹿児島人。お墓参りは欠かさない篤い信仰心。
徹底して行われた廃仏毀釈でお寺が少ない県で47都道府県中44位。国宝、文化財が極端に少ない県。しかしパチンコ店は日本一多い。本土の県内のいろいろ個所の話。藩主の搾取で悲惨な島民だった奄美大島、世界遺産の屋久島、鉄砲伝来・宇宙センターの種子島など様々な角度から357頁にわたって紹介されていてなかなかに興味深い本でありました。

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2017年12月23日 (土)

荒川土手の岩淵水門と浮間公園へ

赤羽駅から東へアーケード街を抜けて荒川へ向かう。志茂ゆりのき公園辺りに差し掛かると四角い頭に丸い目が3つついたような水門(岩淵水門、通称青水門)が見えてきました。
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                            ゆりのき公園の紅葉はまだ健在(12/9)450x253_2
水門の目の前の川は新河岸川で水門の所で、隅田川と合流する。
南側にはスカイツリーが見える
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新河岸川も荒川の支流の一つ。荒川も全国の川、例えば木曽・長良・揖斐川のように反乱を繰り返し、埼玉県の農地や東京の下町の家々を洪水でめちゃめちゃにした。
そこでここの水門辺りから向こう側に荒川放水路(現在は荒川と呼ぶ)を掘り進め、隅田川と分岐して東京湾に注ぐ。(明治44年に着手、完成が昭和5年。約20年かかる)
この岩淵水門はこの日は真ん中だけ船が通れるようになっていた。大雨になると水門を閉じて荒川(放水路)の方へ流すそうだ。
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                      そばで見ると水がかなり汚い。扉の重さは214tだそうだ。450x253_6
         西の方は川口市のビル群。キューポラの街は大変身していた。450x253_7
左の赤い水門が旧岩淵水門で赤水門と言われる。大正時代に造られ、現在は使用してない。歴史的建造物として保存されている。
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                 半月がうっすらと見える
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               更にズームすると浅間山が見えた
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                  東に向くと筑波山
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           荒川・隅田川分岐点。水門は手前右手にある。
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                      荒川
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水門の近くに荒川治水資料館がある。ここで30分ばかりレクチャーを受ける。
明治43年8月11日~21日までの新聞の記事が掲載されていて、荒川が大溢れして、東京市中は「さながら阿鼻叫喚」「飢え、渇く」「チフス、コレラ発生」「餓死、死体が流れる」「収容所・孤立・苦難の日々」、あるいはボランティアのニュース、病人を背負う力士などの話が書かれていた。
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河川敷は整備され、マラソンコース(この日も行われていた)があり、遡っていくとゴルフ場や川に突き出したボードウォークがある。ただここに降りるとどぶの臭いがしてきて、まだまだ下水完備が行き届いていないし、東京湾のオリンピックもこの汚水では危ぶまれると感じた。
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荒川の源流は100名山で登りたくて果たせなかった、甲武信ヶ岳(2475m)で甲州、武州、信州の境にあるから付いた名。ここは武州には荒川、甲州には笛吹川(釜無川と合流して富士川となる…懐かしい!)、信州には千曲川(新潟県に入ると信濃川)の3つの川の源流だ。荒川は東京湾まで埼玉県をぐるっと回って東京湾まで173㎞。

ゴルフ場の左手が浮間公園だ。北区と板橋区の境界線上にある公園。ここは湿生植物によって水の浄化を目的に作られた公園だそうだ。
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             チワワとダックスフンドのあいの子。珍しい。
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                      バン
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           浮間ヶ池には鴨がたくさん キンクロハジロが多い
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帰りは赤羽から2駅先の浮間舟渡駅から乗る。約19000歩。
水辺は癒されます。

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2017年12月19日 (火)

東海道五十三次歩き14 神奈川~保土ヶ谷~戸塚(後編)

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●保土ヶ谷宿(4番目の宿)

松原商店街を抜けるとシルクロード天王町商店街に入る。
ここに保土ヶ谷宿江戸方見附跡があった。説明板に寄れば、見附は土盛をした土塁の上に矢来を組んだ構造で「土居」とも呼ばれていた。
保土ヶ谷宿上方見附跡まで約2㎞だ。

・橘樹神社 この辺りは天王町と呼ばれるのはこの神社が牛頭天王と呼ばれたから。裏に神田不動尊や古い庚申塔がある。
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商店街のお寿司屋さんが混んでいたので、ここでジョナサンに入ってサラダ、デザート、飲み物付きの水牛モッツァレラのマルゲリータの食事をした。

・帷子橋を渡り相鉄天王寺町駅をくぐると復元された帷子橋跡がある。帷子川は暴れ川で度々下流域に水害をもたらしたので、現在のようにまっすぐにしたとのこと。
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・香象院に大釜が2つ並んでいた。最大の寺子屋があったそうだ。450x253_5
この辺りから先が保土ヶ谷宿の中心である。左手はJR保土ヶ谷駅だ。

・助郷会所跡、問屋場跡を見逃し、高札場跡の標柱を見る
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・金沢横町と呼ばれる金沢・浦賀往還への出入り口の角に「かなざわ・かまくら道」など四基の道標がある。
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説明書にも紹介されているが、声をかけてくださって保土ヶ谷宿のマップをくださるお店のおじさんがいました。

・JRの線路を渡ると刈部家・保土ヶ谷本陣跡があり、現在も在住。通用門が現存する貴重な史跡だ。
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・脇本陣跡を通り過ぎると、旅籠屋(本金子屋)が当時の面影を残す(明治2年に建て替えられたものだそうだけれど)。
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・茶屋本陣跡の斜め前が、上方見附跡と8番目の一里塚跡。
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●戸塚宿との間
・外川神社 出羽三山の羽黒山の外川仙人大権現の分霊を祀っている
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・今井川、コガモを久しぶりに見た
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・樹源寺 紅葉と庭が美しい日蓮宗のお寺。本陣の刈部家が1628年に身延山久遠寺の末寺として開山した。
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・権太坂 家から駅に行く国分寺崖線の坂もきついけど、その3倍半くらいあったでしょうか。江戸からの初めての難所だったそうだ。
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      上りきったところで、大山と富士山がうっすらと見えた。感動もの。450x253_13
・栗山というお菓子屋さんで、後に見る地蔵の「おじぞうさんもなか」を買う。
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・投込塚の碑 権太坂で行き倒れた旅人や馬が投げ込まれた死体の骨が1961年宅地造成で発掘され、改葬され、ここに供養碑が建てられた。
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・境木立場跡の先に境木地蔵があった(お菓子のおじぞうさん最中になった)。鎌倉腰越に打ち上げられた地蔵を牛車で江戸に運ぶ途中ここで動かなくなったので、ここに祀ったと言われる。ここは武蔵国と相模国の国境で、境内の欅の木が目印になって境木という地名になったそうだ。
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・茶屋があって焼き餅が売られていた焼き餅坂下って行くと、9番目の品濃一里塚がある。神奈川県内で道の両側に昔のまま完全な姿で残るものである。右手は鬱蒼として塚の上にも大木が生えていた。一里塚ってかなり大きかったことが分かった。
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東戸塚駅前のオーロラシティにてタピオカドリンクを飲んで休憩。

・富士山と大山が再び見えるようになったが、国道1号線を渡ってから旧道から富士山が真正面に見えていたのが一瞬左富士が見えた。神奈川県ではあと、茅ヶ崎馬入川付近で見られるという。
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道路沿いには東海道線との間に、山崎製パン、ポーラ、ブリジストンの工場が続く。

・右手には王子神社。5時頃で境内は真っ暗。王子神社の祭神は護良親王(後醍醐天皇の皇子で建武の新政を成功させるも足利尊氏と対立し、その弟の直義によって殺害された)で、本殿の下には親王の首が葬られているという。少し離れた場所にある親王の首洗い井戸は見つからなかった。

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・斎藤家のレンガ造りの土蔵。英国人カーティスの使用人だった斎藤角次が日本人初のハム製造を始め、「鎌倉ハム」と言い、ここがその倉庫だったそうだ。
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●戸塚宿(5番目の宿)

戸塚宿の江戸方見付跡に到着。いよいよ戸塚宿。次の機会にしっかりみたい。253x450_2
10番目の吉田一里塚跡。日本橋から約40㎞。昔は一日でここまで歩いてきた!!我らは朝が遅いにしても3回目でもう真っ暗。
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下を見ると戸塚区のマンホールは駅伝選手が走っているもの450x384
戸塚駅近くの吉田大橋には広重の絵があった。橋の手前が鎌倉道と東海道の分岐点だったという。
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ラッシュ時に1時間に3分しか開かなかった「開かずの踏切」は大踏切デッキが出来て戸塚駅に到着できた。午後6時ごろ。

東海道線と中央線で地元に帰り、いつもの庄やで歩けたことに感謝して乾杯。ビール、お通しの肉豆腐の他、砂丘らっきょう、マグロとアボガドのわさび醤油、蟹詰めクリームフライ、鶏団子鍋。
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                (完)

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2017年12月15日 (金)

東海道五十三次歩き14 神奈川~保土ヶ谷~戸塚(前編)

11/29(水)今年最後の東海道歩きは、浜松の方ではなく神奈川県の方にしました。ゆっくり出発で東神奈川駅から歩き始めたのは10時20分。日の暮れが早くなって日没は午後4時半頃。最後は暗くなってペンライトで照らさなければならないほどです。37494歩。

大山街道歩きと同じく、今、東海道もずっと風人社のマップと説明書にお世話になっています。色々な本やマップがある中、一番わかりやすく、回りきれないほどいろいろな場所が紹介されている。

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●神奈川宿 (3番目の宿)

前回、宿の入り口を確認したが、その続きもお寺が多かった。そのお寺が幕末、外国の領事館や公使館になったことが東海道の最後の歴史となる。神奈川宿を見て、東京の埋め立て同様、横浜も随分埋立られていたことを知る。

・東神奈川駅を降り、少し南の京急線仲木戸駅(将軍が宿泊する神奈川御殿の警護する木戸があったとか)を抜けると、右手に立派なお寺・金蔵院がある。
平安末期の古刹。本堂前に家康「御手折梅」があったそうで、毎年1月に当院住職がこの梅の一枝を折って携えて登場するのがならわしだったという。
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・道沿いの松並木がいい
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・裏手は熊野神社は金蔵院の境内にあったが神仏分離で分かれた。御神木の大銀杏は名木古木で樹齢400年。この神社の狛犬が巨大であること、狐の像が多いなど面白い神社だ。
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・神奈川地区センターの中には神奈川宿のジオラマがあった。神奈川宿の目の前はすぐ海であったことが分かる。今は埋め立てられ見えないくらい遥かかなただ。
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              センター前に高札場が再現されている450x253_4
センター裏の成佛寺はアメリカ人宣教師の宿舎になり、ローマ字で有名なヘボンもここに滞在した。

・線路の向こうが慶運寺でフランス領事館だったし、浦島伝説も伝わる。450x253_6
滝の川を滝の橋で渡るが橋の両側に本陣があったという。

・橋を渡った先が宗興寺でヘボンがここで診療所を開いた記念碑がある。その先にはイギリス領事館であった浄瀧寺があった。

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・洲崎大神の前が船着き場であった。頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して祀った事に始まる。この大神内の狛犬が面白い場所にあった。
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                  この日、出会った猫の顔!253x450_3
・普門寺(イギリス士官宿舎跡)の先に甚行寺(フランス公使館跡)の銀杏が見事だった
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・青木橋で京急、JRを越えるとき左手に横浜駅前のビル群がすぐそこに見えた。ジオラマや広重らの絵でもわかるように横浜駅はあの頃海の中だったのですね。
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・本覚寺 すぐ線路沿いの高台にある。
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臨済宗栄西の創建だが今は曹洞宗に。開港当時ハリスは立地条件の良いこの寺をアメリカ領事館に決めた。
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その時山門が白いペンキで塗られたそうで、これが日本初のペンキ塗装だそうだ。又、生麦事件で負傷したイギリス人が逃げ込んで、ヘボンの手当てをここで受けている。本覚寺の中には塗装業者合同慰霊碑があった
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・大綱金比羅神社に日本橋より7つ目の一里塚が置かれていた。なぜか境内に大きな天狗の木彫りの顔があってユーモアを誘う。
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・坂をさらに上がった所が湊を望む景勝地で多くの茶屋がならんでいて、今ある料亭田中屋に坂本龍馬の妻おりょうが、英語も話せて働いていたそうだ。
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・神奈川台関門跡 鶴見橋の関門同様、開港後の外国人殺傷増加に対応した。このあたりで神奈川宿は終わりのようだ。
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●保土ヶ谷宿までの間

・浅間神社
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神社のある山は「袖すり山」と呼ばれ、すぐ海が迫り、すれ違うのに袖を触れ合うほどだったことに因む。今は遠くにランドマークが見えるほど海が遠い。
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・追分八王子道(八王子から横浜で絹を運ぶシルクロードだった)と保土ヶ谷通り大山道と東海道の分岐点の追分の標柱
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・洪福寺松原商店街 この日はすいていたが日曜日は人でごった返すという、アメ横みたいな活気ある商店街が現れた。いろいろ買いたくなってしまったが、歩く旅では叶わない。
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                     (続く)

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2017年12月12日 (火)

嵐山光三郎著 『悪党芭蕉』

昔から芭蕉は幕府の隠密だったので歩くのも早かったと言われてるし、今テレビ時代劇で『隠密 奥の細道』をやっている。

題名に、「えっ、芭蕉って悪党だったの」とどのような悪党かと読んでみた。
芭蕉の周辺には危険な人物が多かった。其角や画家の英一蝶などは花街で遊び、大名や旗本の屋敷に出入りし、当主を吉原に誘ったりしてそれが桂昌院(綱吉母)の縁筋まで及び、スキャンダルとなったりし、一蝶は三宅島遠流、其角も流罪すれすれだった。罪人すれすれのところで成立した俳諧は危険な文学である。という意味で芭蕉を「悪党」としてしまったとのこと。
冒頭、芥川龍之介と正岡子規の芭蕉批判が書かれる。
芥川は「芭蕉は大山師だ」といった。実はこれは芥川の自己を投影した逆説的賛辞ではあるのだけれど、芭蕉を俳聖としてあがめることによって生じる文芸の衰弱を批判したというのである。

子規は「芭蕉の句の過半を悪句駄句である」といった。子規の論は感情的で未完成の域を出ないとしつつも、その主張は芭蕉を神格化する宗匠への批判であった。芭蕉の句を鑑賞するよりも、芭蕉の廟や碑を建てることに熱中する宗匠を風刺したのであるが。東海道にも小夜の中山など芭蕉句碑が結構あった。

ほとんどの芭蕉評伝は、芭蕉を最高指導者として芭蕉を中心にとらえている結果、芭蕉に離反した俳人を脱落者として断罪する。
しかし芭蕉は自らいうように、風狂の人であって聖人君子ではない。悪党の貫禄があり、いささかでも癇にさわると、虫けらのように見捨て、重用した人ほど切り捨てたくなる性分だ。
才ある人を育てながらも気分一つで嫌ってしまう。才が鼻につくと、もう気にいらない。それを知り抜いていたのが其角だったそうだ。
芭蕉はスキャンダルを抱えた人でもあった。妾とその3人の連れ子、甥という5人の扶養者を抱えていた。
自ら進んでスキャンダルに突入していく破滅志向があった。芭蕉には衆道がいて百日間の蜜月の旅をしたとも。死後出版された『笈の小文』がそうだ。
著者は知れば知るほど芭蕉の凄みが見えて、どうぶつかってもかなう相手ではないと結ぶ。そういうことだったのですね。

今、植木鉢42鉢を家に中に入れ(これだけで腰が2日くらい痛かった)、もう庭は荒涼としています。キクが2種とチェリーセージと千両の実だけが外で頑張って咲いているだけです。
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      蛇はダメだけど蜘蛛は大丈夫。ジョロウグモはお洒落な蜘蛛です。
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