小田宅子
俳優・高倉健・本名は小田 剛一(おだ たけいち)の5代前の直系の、歌人・小田宅子(いえこ)は『東路日記』を著した。
九州中間市に居を構えた裕福な商人の出である。養子を取り、のちにに弟が生まれたので家督を譲り、醬油屋に職を変えているが。
その先祖の一人に北条篤時(金沢文庫の創設者・実時の子)がいるそうだ。
宅子さんは子育てを終えてから和歌を学び、万葉集から源氏、平家物語、本居宣長などまで勉強し古典の教養溢れた女性である。
天保12年(1841)に宅子さんは53歳で他女3人と従者3人で伊勢へと旅立つ。
瀬戸内海は船に乗ったり下りたりで山口や錦帯橋や安芸の宮島など多数見物する。大阪に到着後山越えして奈良の地をあちこち見物し、伊勢へ。その後中山道木曽(九州との貧富の余りの凄さに驚いている)から善光寺へ向かい、そこから日光、江戸で遊び、甲州街道から秋葉街道(今でも大変な峠道のようだ)、三重県、京都で長い事遊び、大阪にも滞在し、瀬戸内海を帰っていく。
5ヶ月3200キロお買い物遊山紀行であった。
以前東北の三井夫人の豪遊の時も触れたような気もして重複して申し訳ないですが、あまり衣服、履物など恵まれてない時代に、その土地その土地で、素晴らしい歌を作っているのでそれを観賞しながらの、我々とは全然味の違うその昔の街道旅を味わえました。
女性でありながら一日に7里半、時には8里つまり30㎞も32kmも歩いてしまうのですからちょっと心も体も出来が違う。私たちは最大28㎞か。
豊かで心と体が丈夫ならこんな大変なことを人間はしてしまうということです。これは田辺聖子著『花ざかり 花の旅笠』で知りました。
昨日17日は阪神大震災から30年でした。あの恐怖をテレビで見て、そのあと、ニューヨークビルの倒壊、そして東日本大震災の大津波や原子力発電所の途方もない事故を見守ってきたわけです。
そんな中我が家では同じ日に結婚60年、すなわちダイヤモンド婚を迎えました。金婚式ではもう無理だと思っていたのですが、お陰様にてここまでずっと喋る相手がいて幸せなことでした。
お若いお隣のご夫婦から心のこもったお花を頂戴して感激で胸がいっぱいになった幸せ者です。半年前にちょっと雑談で喋ってしまったことを覚えていてくださったのです。
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