2025年2月 6日 (木)

青梅街道4 花小金井~小川宿~桜街道(2)

今回は小平市を歩いていてその続きです。
小平市の別のマンホール。市の木ケヤキと小平市の街並みがデザインされている。
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小平市の中心あたりから昔は小川村が広がっていた。そこには小川用水が流れる。西武国分寺線に小川駅があるわけが今頃分かりました。
明暦2年(1656)に小川村開発にあたった名主小川九郎兵衛により開削され、明治時代まで飲料水として利用されていた。またここに馬継場があったので発展した。

熊野宮には夫婦ケヤキや、その後ろに3代目孫ケヤキがあるが、旅人の目印になったそうだ。
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少し進むと、面白い建物が見えてきた。
なかまちテラス(図書館)で北斎美術館を設計した妹島和世の設計なので、外観もちょっと似ているような感じがする。
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平安院。元文4年(1739)、小川新田(仲町)に移住した農民の菩提寺として建立されたもの。
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山門前の笠付庚申塔。享保2年(1717)造立。300年以上も前のものとは思われないほど状態が良い。
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立派な槙のある庭で、奥が本堂。
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西武多摩湖線の踏切を通り過ぎるとすぐに次はこのあたりでは地下にもぐっている武蔵野線の新小平駅がある。
青梅街道は鎌倉街道と交差し、続いて府中道と交差。さらに来るとき乗ってきた西武国分寺線の踏切を通り過ぎると小川宿の中宿に入ってくる。名主の小川家の現在の家もあった。

さらに進むと、仁王門が見えてきた。
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小川寺(しょうせんじ)である。小川村開村と同時に小川九郎兵衛が開基したお寺である。
久しぶりに「舟形浮彫り別石六地蔵」
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角形四地蔵
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本堂
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ご本尊は薬師如来様
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薬持観音
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千手観音
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よく手入れされた庭が続く
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本堂の裏には逃げ水の里庭園がある。
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三十三観音
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山茶花がきれい
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出口近くに大きな獅子柚子が十数個なっていた。
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立派な、しかもいろいろあって楽しいお寺拝見になった。

斜め向かいにあるのが小平神明宮。寛文元年(1661)に名主・農民などの協力のもとに建立されたもの。阿豆佐味天神社の摂社であった神明社を遷座。
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鳥居をくぐったところに、小川用水が流れている。どこかの街道にもこんなことがあったが思い出せない。
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拝殿。文政年間(1818~30)の建立。
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ボケボケだけれどキセキレイに会えて嬉しい。
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小平上宿交差点で竹内家の大ケヤキを見る。樹齢300年以上で樹高35m、枝張り面積400平方メートルもあるそうだ。
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ここで(先週も買った人参だけれど)今日は大きい3本が150円と100円のほうれん草を購入。小平の人参はとても美味しい。昔の味がする。

街道に戻ってしばらくすると、度々来る東京都薬用植物園(小平市)の前に出た。
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すぐそこは小川駅から一駅の西武拝島線の東大和市駅だ。
明暦元年(1655)野火止用水が完成すると、青梅橋が架けられたのでその名が残っているのだが、昭和38年に暗渠となったと説明版にあった。
ここで東大和市に入って桜街道を歩いていると、東大和市のマンホールを発見。村山貯水池の取水塔と市の花ツツジのデザイン。
(かつて、旧青梅街道は江戸街道と呼ばれ桜並木だったが、昭和20年の空襲で壊滅状態に。東大和市で桜並木を復活させるため桜を植え、桜街道という名前にしたそうだ)
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桜街道に入ってからは特に見所はなくひたすら進み、この日のゴールのモノレールの桜街道駅に到着。
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ここからモノレールの一駅を歩いて、西武線の玉川上水駅(場所はモノレールの玉川上水駅と同じ場所)より帰る。
帰宅は5時半前だった。約25300歩でした。

 

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2025年2月 1日 (土)

青梅街道4 花小金井~小川宿~桜街道(1)

1/24の4回目は家から西武線で近くなので12時半前に花小金井をスタートできた。今回は見どころが多く街道歩きの醍醐味でもあります。しかし次回は何もないとのことで歩く練習になってそれだけでも由です。

小川用水に棲むヤマメをデザインした小平市のマンホール。
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こうしたお地蔵様を今回、お堂ではたくさん見てきた。生花が絶えなく飾られているようなところが多く、今でも地蔵信仰の篤さを感じる。文化5年(1808)のだそうだ。
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別の小平市のマンホール。市の木ケヤキと市の花ツツジの周りに「KODAIRA 雨水の道 小平」の文字と 市の鳥コゲラを描き、外周には十二支と東京都のシンボルマークのイチョウが描かれている。
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武蔵野神社到着。参道が長い。野中新田開発の際の一角に、駅そばの前回最後に寄った円成院から分離した末社の猿田彦大神を祭祀した神社。
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珍しい七福神。
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猿田彦大神。鼻が大きくや腕の太い神様だ。
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西武新宿線を渡ると、右手に整備された小平ふるさと村がある。江戸初期から明治時代以降の近代の建物を復元した施設だそうだ。
1軒1軒に丁寧な説明のチラシが置いてあって昔のこのあたりの様子を詳しく知ることが出来る。

まず旧小平小川郵便局舎。明治41年築で赤い屋根の二ヶ所に〒マークがあるのが印象的。手前に丸ポスト。この後も丸ポストばかり見るが、小平市には30以上も残っているそうだ。中には金庫も見え、横に回ると自宅の部屋が残されていた。
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消防小屋。昭和3年製作の手動ポンプ車などが展示されている。
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旧神山家住宅主屋。
江戸後期に小金井から廻り田新田に移築されたもの。間取り形式は喰違い四ツ間型。
ここには、台所、馬屋、お勝手、お座敷には各種道具や婚礼衣装など今までの街道歩きで見たような展示がされていた。
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こんな井戸も見たことあります。
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水車
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水車小屋の中。木造平屋建切妻杉皮葺で、循環式で水量毎秒10リットル。天明8年(1788年)には、玉川上水の分水にかかる水車は33か所もあったそうだ。
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粗末な開拓住居を見た後、こちらは旧小川家住宅玄関棟。
小川家は幕末までの200年間、小川村の名主を代々務めた家で、この玄関も控えの間があり主家と渡り廊下で繋がっている格式の高い造りになっている。
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最後のやはり藁ぶき屋根の旧鈴木住宅の穀櫃を見て、出たところで青木屋の草餅をご馳走になって出発。

その先に延命寺というお寺が現れた。
享保年間の野中新田開発に際して入村した者たちの願いにより、野中善左衛門が開基となり享保18年(1733)この地に引寺したお寺。
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門前に嘉永3年(1850)の珍しい青面金剛庚申塔があった。
写真ではよく見えないが、青面金剛も笑っているような表情で、三猿が狩衣を身につけて、烏帽子をかぶり、一匹は左手に扇を持ち右手で口をふさぎ、一匹は左手に鈴を持ち右手の扇で顔をおおい、一匹は左手にご幣をかつぎ右手で耳をふさいで三番叟を踊っている。
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本堂の他、お地蔵様、六地蔵や、鐘楼、観音堂、境内にある多摩野神社もある。
かわいらしいお地蔵様。
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本堂。
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古い正徳2年(1712)の石灯籠も残っている。
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神社の鳥居の手前にジュウガツザクラが咲いていた。
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(続く)

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2025年1月27日 (月)

青梅街道3 上石神井~田無宿~花小金井

上石神井駅到着12時半、45分に街道に出てスタート。(もう2週間前の1月14日のことです)
青梅街道には街道の説明(江戸城の壁材である石灰を運ぶ道として開かれた)と道しるべの石碑がところどころに立っていた。
このあたりから、古の人々が掘った用水、上水があちらこちらに見られるようになる。
多摩川上水から分岐した千川上水。
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お地蔵さんが多い青梅街道であるが、「関のかんかん地蔵」なるものがあり石で叩けば願いが叶うとのことで叩かれた石の部分が細くなって修繕されていた。願い事の多い私は「お願いします」と街道歩きの時によく神頼みする。
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下野谷遺跡(平成27年国史跡に指定)に寄る。
この遺跡は石神井川沿いの縄文時代中期の環状集落。今は公園としてきれいに整備されている。
竪穴式住居跡(復元)。
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ぼこぼこしているのはお墓だそうだ。ここで大きめの塩大福をご馳走になって前進。
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西東京市(田無と保谷が統合された)に入ると真っ赤な大きな鳥居が。
昭和4年、伏見稲荷大神の分霊を奉迎して創建された東伏見稲荷神社だ。
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京都とは比較にならないが結構たくさんの鳥居が並ぶ。
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拝殿には澤乃井のお酒がたくさん奉納されている。青梅から近いからでしょう。
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拝殿裏の境内社は20も並んでいてそれぞれに丁寧にお参りしている若者あり。
初めて知るのがいくつか
佐田彦大神(方針決定の守護神)
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田中大神(権太夫。勧善懲悪を司る神)

旧保谷市マンホールで、市の花サザンカと市の鳥シジュウカラがデザインされている。
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先ほどから大きな石柱の庚申塔や弘法大師供養塔をいくつか見てきたが、これは六角地蔵石幢である。「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養したのだそうだ。
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柳沢(やぎさわ)庚申塔があった。道標を兼ねた庚申塔である。享保8年(1723)の建立。型式は、梵字、ニ鶏、三猿、青面金剛、邪鬼が揃えられた角柱塔である。「是より左ハあうめみち 是より右ハはんのふみち」と書かれている。
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その先の交差点が青梅街道(左)と秩父道との追分でここから田無宿だ。

すぐに田無神社がある。初詣客で賑わっている。
式台構えの玄関である国登録有形文化財の参集殿を左に見、石神井川に流れていた田無用水のあとを見、拝殿に至る。
彫刻は立派であるが、内部の本殿は天才彫刻師の島村俊表が手がけたそうだが、見ることはできない。
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茅の輪か
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神社には5つの龍がいる。黒龍、青龍、撫龍、白龍、赤龍。
これは楠木正成像で奥が青龍。正成の子孫が保谷に移り住んだそうだ。
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「田無神社と五木寛之」という説明板があった。大学に合格後上京していたものの、お金がなかったのでしょう、この神社の床下で暮らしたそうだ。知らなかった。

続いて総持寺に向かう。手前にいろいろな柄の西東京市のマンホール、市の木(ケヤキ)、市の木(金木犀)、市の花(田無ツツジ)、市の木(ハクウンボク)、市の花(沈丁花)。
これはハクウンボク
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総持寺仁王門。仁王像が大きい。裏には広目天と多聞天が。正面が本堂。
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大きなケヤキは、本堂の完成(嘉永3年(1850))を記念して植栽されたものの1本だそうだ。全部入らない。
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妙見堂。安政6年(1859)に制作された田無村名主、下田半兵衛の木像が納められているが見られず。
半兵衛は田無神社を再建し、養老畑を以って老人を助け、現代の福祉行政の先駆といわれる名主だったそうだ。
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水仙が咲いていた。
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お寺の斜め向こうの路地を入ると下田半兵衛の家がある。安政4年(1857)建築で、旧田無市最古の民家。
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反対側に稗倉が現存している。
半兵衛は幕府に願い出て飢饉に備える五百石入りの備蓄庫を自費で建設したもの。現存の稗蔵は文久3年(1863)に建て替えられたもの。
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用水跡は「やすらぎのこみち」や「ふれあいのこみち」になっている。
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ひまわりのマンホールも発見。マンホールの種類が多い市だ。
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コートを着せられて顔も見えないお地蔵様。
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次にあった三猿だけの庚申塔が珍しい。
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小平市に入る。

花小金井駅に向かう途中で最後に円成院に寄る。
開基した矢沢大堅は武州多摩郡上谷保村(現国立市)の出身で宝永2年(1705)10月に黄檗宗に帰依して谷保とこの地にお寺を開いたとのこと。本堂。戸の桟などが凝っている。
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旧本堂(開山堂)。燈籠は天明6年(1786)のもの。
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庚申塔と馬頭観音が2基。
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花小金井駅から西武線を乗り継ぎ、5時半前帰宅。約22400歩。

 

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2025年1月18日 (土)

小田宅子

俳優・高倉健・本名は小田 剛一(おだ たけいち)の5代前の直系の、歌人・小田宅子(いえこ)は『東路日記』を著した。
九州中間市に居を構えた裕福な商人の出である。養子を取り、のちにに弟が生まれたので家督を譲り、醬油屋に職を変えているが。
その先祖の一人に北条篤時(金沢文庫の創設者・実時の子)がいるそうだ。
宅子さんは子育てを終えてから和歌を学び、万葉集から源氏、平家物語、本居宣長などまで勉強し古典の教養溢れた女性である。
天保12年(1841)に宅子さんは53歳で他女3人と従者3人で伊勢へと旅立つ。
瀬戸内海は船に乗ったり下りたりで山口や錦帯橋や安芸の宮島など多数見物する。大阪に到着後山越えして奈良の地をあちこち見物し、伊勢へ。その後中山道木曽(九州との貧富の余りの凄さに驚いている)から善光寺へ向かい、そこから日光、江戸で遊び、甲州街道から秋葉街道(今でも大変な峠道のようだ)、三重県、京都で長い事遊び、大阪にも滞在し、瀬戸内海を帰っていく。
5ヶ月3200キロお買い物遊山紀行であった。
以前東北の三井夫人の豪遊の時も触れたような気もして重複して申し訳ないですが、あまり衣服、履物など恵まれてない時代に、その土地その土地で、素晴らしい歌を作っているのでそれを観賞しながらの、我々とは全然味の違うその昔の街道旅を味わえました。
女性でありながら一日に7里半、時には8里つまり30㎞も32kmも歩いてしまうのですからちょっと心も体も出来が違う。私たちは最大28㎞か。
豊かで心と体が丈夫ならこんな大変なことを人間はしてしまうということです。これは田辺聖子著『花ざかり 花の旅笠』で知りました。


昨日17日は阪神大震災から30年でした。あの恐怖をテレビで見て、そのあと、ニューヨークビルの倒壊、そして東日本大震災の大津波や原子力発電所の途方もない事故を見守ってきたわけです。
そんな中我が家では同じ日に結婚60年、すなわちダイヤモンド婚を迎えました。金婚式ではもう無理だと思っていたのですが、お陰様にてここまでずっと喋る相手がいて幸せなことでした。

お若いお隣のご夫婦から心のこもったお花を頂戴して感激で胸がいっぱいになった幸せ者です。半年前にちょっと雑談で喋ってしまったことを覚えていてくださったのです。

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2025年1月12日 (日)

メンサ

MENSA これは1946年、イギリスで創設された国際的なグループ。
テストを受けて全人口の上位2%IQ(知能指数)の持ち主と言う基準に達すればだれでも入れる。
中野信子さんもその一員だと著書に書いてありました。知らなかったのは私だけ?

以下はサイトの丸写しです。

メンサの会員数
今日、会員数は全世界100ヶ国以上で約134,000人。南極をのぞく世界全大陸の約40ヶ国に支部を置いています。 日本には、約4,700人(2019年12月現在)の会員がいます。
メンサ会員の年齢は4歳から94歳に亘っています。学歴においては、小学校卒から高校中退、あるいは、複数の博士号所持者などいろいろです。 会員の経済的な地位、職業の範囲もさまざまで、教授もいればトラックの運転手もいる、科学者や消防士、コンピューターのプログラマー、 農家、芸術家、軍人、音楽家、労働者、警察官、ペンキ職人といかにも多様です。 有名なメンサ会員、さまざまな賞の受賞者もいれば、名の知れないごく普通の会員もいます。
ほとんどの分野のSpecial Interest Group(SIG)があります。メンサは各分野毎に専門のSIGを提供します。 あなたは細菌学やシステム分析から始まり、シャーロックホームズや・スタートレックを見つける事もできます。 期待するものや予想外であるものが多数有ります。生化学・宇宙科学・経済学・ポーカー・ローラースケート・スキューバダイビング・UFO・魔法・パン作り・ ワイン醸造・漫画・銀細工・紋章学、意味論・エジプト学・養蜂・オートバイ・タップダンス・古典・野球・バスケットボール・フットボール・射撃・ ハンググライダー・スカイダイビング等々。


余談:↑に紋章学というのがありますが、早稲田の講座で「イギリスの絵画学」を受けていた時にイギリスの紋章学会に入って研究している女性がいまして驚いたものです。また当時教鞭をとれらていた長澤和俊教授にNHKでも盛んにやっていた「シルクロード」をパキスタン方面からフンザとかカイバル峠(細かい地図にも載っていなくてもう一度教授の本を読まなくてはわからない)などを通り、中国シルクロード入りをした話などの講義を受けたときに、受講生の女性も多く一緒にその旅をしたとか聞いて、井の中の蛙の私はこれまたびっくりしたものでした。これはメンサと関係ない話ですが、ラクダでシルクロードを40日間も回ったと言う女性に海外で出会ったのですが、その体力にも度肝を抜かれました。

今年は病人の関係で子供たちは玄関先でお年賀を置いて帰りました。現在ご馳走のなりつつあります。
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2024年12月31日 (火)

大晦日

「喜びの遊び」つまり~でなくてああ良かった、というパレアナの話を思い出して
『少女パレアナ』『パレアナの青春』を借りて読みました。内容は全部忘れていたけれども、いろいろあった今年なので、来年は何でも良かったの精神で行こうと思った次第です。今は入院してなくて家に居られてなんて幸せなんだろうと。自分自身も大小合わせて5回の入院生活は長かった25日が一番辛かったかも。
この程度の私ですからもし、もっと辛い深刻な病気で長い入院を強いられたら地獄。そう今は天国にいるようなものです。
当たり前ですが、もういろいろ気にしない、良い方に解釈して、助けを借りて何があっても大丈夫精神で行く。(決意だけはいつも立派なのだけれども)。
物価が上がって大変になってきたけれども、まだ自分で栽培しないでも食べ物をいっぱい売っていることに感謝しこの大晦日を迎えました。

今年も拙いブログをお読みいただいた皆様には心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
滞りがちなわがブログ、来年の10月にはブログ20周年を迎えられるように元気溌剌とまでいかなくても過ごしたいと願っているこの頃です。
どうぞ良いお年をお迎えください。


今年も咲いたオキザリス・パーシ-カラー(12/15)
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シャコバサボテンと最後のバラ(12/30)
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南米チリのアタカマ砂漠も全く雨が降らず、サボテンが死にかかっているそうで、異常気象はこんなところにもとテレビで見て心が痛みました。
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ユピアポア・コルムナアルバは延々と遠くまで死の墓場のように映っていました。一つだけ咲いていた花は実に美しい。
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コピアポア・デアルバータもそのうち同じ運命をたどると言われる。花がこれまたはかなく美しい。
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その花
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2024年12月23日 (月)

青梅街道2 東高円寺駅~上石神井駅

2回目は東高円寺の駅から12時45分より歩き始める。このためには昼食は11時からでした。
青梅街道は杉並区を通過中はずっと銀杏並木で、練馬区に入ると欅並木に変わる。一体何本の銀杏が植えられているのであろうか。丁度黄葉がきれいで今年は銀杏を満喫することが出来た。
銀杏の下の燈籠は一対あって、中野駅から妙法寺への参詣者の目印に建立されたそうだ。
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その 堀之内妙法寺(日蓮宗本山)は 「厄除祖師」として有名なので寄った。日蓮上人が法難に遭い伊豆に流されたとき、弟子の日朗上人が霊木に祖師の御影を刻んだものがこの寺に伝わったのが「厄除祖師」、11代将軍家斉、12代将軍家慶が立ち寄って休憩したので有名になったという。

仁王門をくぐり、祖師堂へ。文化8年(1811)建立。ここに祖師が安置されている
内部は金箔で覆われていてなかなかに豪華である。
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彫刻は、北斎が参考にしたと言われる波の伊八のものだそうだ。素晴らしい。
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鉄門。極彩色の鳳凰が上に。ジョサイア・コンドル(河鍋暁斎の弟子・イギリス人)が設計し明治11年建立。重要文化財。
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本堂(三軌堂)。日蓮聖人と釈迦如来が安置されている。
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日朝堂の中には日朝上人像が奉安されている。身延山第11世行学院で日蓮宗の代表的教学者。勉学で眼病を患い、回復後眼病の人々を救おうと大願を立てたという
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廿三夜堂。二十三夜塔は見てきたけれど、お堂は初めてだ。毎月23日に開帳される。
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浄行さま(浄行菩薩)、健康の守護神。これも初めて。
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有吉佐和子の碑。
このお寺の近くに住んでいて、境内を通って帰宅することも多かったそうだ。
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街道に戻る途中に日本橋越後屋の三井家の菩提寺・眞盛寺に寄る。
右が本殿(安永5年(1776))、左奥が客殿。客殿と庫裡は明治26年、細川侯爵邸として建てられたものを譲り受けて移築された。
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お地蔵様をはじめいろいろな石像がある。
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竹林もあり紅葉もきれいであった。
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街道に戻り、少し歩くと新高円寺の駅があり、その前の道を入っていくのが五日市街道で数年前に完歩した。
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街道は荻窪駅へ向かっているが、荻窪駅の手前で藤澤ビルの南側の道へとまわりこむと長屋門がある。
この長屋門は名主中田家のものだったが、藤澤家が取得してビルを建てる際に裏側に移築したのだそうだ。
その前には明治天皇荻窪御小休所の石碑がある。明治16年立ち寄られた。
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街道は地下道を通って北西側へ続き、太陽が左手に見えるようになる。少し進むと青梅街道と環八の交差点「四面道」だ。
昔、秋葉神社があり、この境内に高さ2mほどの常夜燈があった。下荻窪村・上荻窪村・天沼村・下井草村の四か村の境にあるから四面道と呼ばれるようになったという説と、常夜燈が四か村を照らすので四面燈と呼ばれ、それがやがて四面道となったという説があるらしい。
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しばらく歩くと荻窪警察署の斜め前に荻窪八幡神社がある。
寛平年間(889~897)の創建。永承6年(1051)に源頼義が奥州征伐の途中で戦勝祈願し、凱旋の時、神恩に感謝して厚く当社を祀ったと言われる。古いお話です。
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祓門からは神門が見える。くぐるとお祓いになるというので通ってみる。本日の大きな目的だ。
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拝殿
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道灌槙。文明9年(1477)太田道灌が石神井城を攻めるにあたって戦勝祈願した際、植樹したもの。
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ベンチで休憩。おやつは荻窪駅ルミネで買った苺大福。お土産はどら焼き。病人は餅が食べられないので、外に出たときの私のおやつは餅系の大福などを買ってもらう。
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続いて井草八幡宮。鳥居も大きいし境内が広い。元は春日社だったが、源頼朝が奥州遠征の際に戦勝祈願に立ち寄って以来八幡宮となった。
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参道も長く「二の的」という表示がある。流鏑馬が5年に一度行われるのだそうだ。隅田川で一度見たきりなので、鎌倉やここのも見てみたい。
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楼門
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頼朝公御手植の松。
奥州平定に成功した頼朝はお礼として雌雄2本の松を植えた。雌株は明治時代に枯死、雄株も昭和47年強風で折れてしまったそうで、現在のは2代目の松だそうだ。
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こちらが倒れてしまった松の根の一部。
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神門を通って拝殿へ。
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北参道を通って街道へ出るが、大きな燈籠があり、屋根は銅板葺で八畳分の広さがあるそうで驚く。
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その先で練馬区に入ると銀杏並木からケヤキ並木に変わった。
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最後に江戸向き地蔵を見る。享保14年(1729)のもの。
3体の地蔵の間に、文政9年(1826)に建立された三山百番供養塔(出羽三山・坂東/秩父/西国の百カ所)がある。
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上石神井駅に向かい、西武線乗り継ぎで地元駅へ。帰宅は5時半だった。約24000歩。

(完)

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2024年12月12日 (木)

青梅街道1追分~中野宿~東高円寺

五街道と姫街道、大山街道、五日市街道などを歩いてきたが今度は青梅街道へ。
往復の電車を除いて日暮れまで3時間なのでちょっとずつ進む。
青梅街道は甲州街道の脇往還として新宿から山梨県酒折まで130㎞。歩くのはそのうち青梅までの40㎞です。

新宿3丁目で降りて、老舗の追分だんごでおやつとお土産を買って、すぐそばのスタート地点(午後1時頃)へ。

スタート地点にある新宿元標。
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ここ追分が甲州街道と青梅街道の分岐点。甲州街道もここからだった。

新宿駅東口の広場に馬水槽がある。
19世紀にイギリスで馬に水を供給するために設置されたもので、明治36年にイギリスから贈られた。ライオンの口から水が出て、上では馬が水を飲み、下は犬猫が飲み、この裏は人間が水を飲んだ。
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東口から西口へつながる地下通路には宿の絵が描かれていた。中野宿から始まり、田無、小川、箱根ヶ崎、青梅宿の順。
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線路横の電車からも垣間見える思い出横丁を右に、左にモード学園やSOMPO美術館などの西口ビル群を見て進むと右側に常圓寺がある。
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日本銀行本店本館、東京駅丸の内庁舎などを手がけた建築家・辰野金吾のお墓があるそうだが、見つからなかった。

ここから見えた上部と途中が雪化粧したような、面白いビルは、東急歌舞伎町タワーだ。エンタメ関係も充実しているようだ。
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お隣にあるお寺が常泉院(浄行菩薩)に寄ってから、なだらかな成子坂を下っていくと少し先に成子天神がある。
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説明版によると、このあたりは江戸時代マクワウリの特産地だったそうで、この地域が鳴子坂(転じて成子)とよばれていたことから鳴子ウリと呼ばれたそうだ。
菅原道真公に縁がある。参道境内には拝殿はじめ七福神や力石などがある。
一番奥に結構高い立派な富士塚があった。頂上には浅間神社あがって、ここからも昔富士山が良く見えたことでしょう。
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道路の反対側には天保年間のものが再建された成子子育て地蔵尊があり、そばに小さなお地蔵さんがあって、右が延宝4年(1676)のものという。ビルの谷間にこのようなものが残されていることに感動。
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淀橋、下は神田川が流れる。
中野長者が財を地中に隠し、手伝った人を殺して橋から神田川に投げ込んだ。長者と橋を渡るときには見えた人が帰るときには見えなくなったことから「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。徳川家光が鷹狩りで通り、不吉でよくないということで京都の淀川に似ているからと「淀橋」と名づけたという。
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中野坂上の交差点から左に折れたところの公園に象小屋跡の説明板がある。
八代将軍吉宗に献上するためベトナムから連れてこられた象(姫街道の象鳴き坂を通った象)は、しばらく浜御殿で飼われていたが、中野村の源助という者に払い下げられ、このあたりに小屋を建てて飼育されていた。寛保2年(1742)に病死。牙の一部が宝仙寺に保存されているそうだ。
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街道の下は地下鉄丸の内線が走っている。中野坂上の駅を通り過ぎて右手にある象の牙を保存する宝仙寺に寄る。牙は見られなかった。
源義家が後三年の役を平定して京へ凱旋の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するため創建したお寺。仁王門、三重塔、本堂と立派な構え。境内には中野町役場跡碑もあった。
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三重塔手前の塚は石臼塚で使われなくなった石臼を供養したもので初めて見る珍しいもの。
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御影堂には弘法大師像が。
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四面に弘法大師が彫られたもの。22×4面だから88体。
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追分だんごで買った豆大福で休憩。
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お寺を出て右折したところにやままさ醤油醸造所のレンガ塀が残っていた。
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街道を少し進んで右手に少し入ると明徳稲荷神社があるがここの辺が中野宿の中心だったそうだ。

鍋屋横丁の交差点の手前に慈眼寺がある。
珍しいパゴダ風の塔がある。住職がタイで修行し、その縁で仏舎利を授かり納めるために建てたそうだ。
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本堂前には邪鬼らしきものが。
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このお寺には大変古い江戸元禄期の庚申塔など石仏群がずらりとある。
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下の部分に道標が刻まれた(写真に納まっていない)をかねた馬頭観音。
「左あふめ(青梅)道  右いぐさ(井草)道」と刻まれている。
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立派なざくろがなっている。
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鍋屋横丁は妙法寺への参道であり、鎌倉街道でもあった。
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北野神社(総本山は京都の北の天満宮)を通り過ぎ、東高円寺の駅を過ぎて、蚕糸の森公園(以前蚕糸試験場があった)を散策した。
柊の花
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スズカケノキと滝
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紅葉がきれいだった
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帰宅は5時すぎ。約17400歩。
途中で電話を入れながらも心配だった家人は無事5時間20分留守番出来てほっとしました。

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2024年12月 5日 (木)

老いとはどんなか?

ホトトギスはまだ咲き続ける
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マルバルコウソウが3本家に現れた。今日咲き終わりました。
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久坂部羊著『人はどう老いるか』ベストセラーと言うことで読みました。

この作者は医者でもあって、よくもこんなにすらすらと状況を書けるものと感心した作家です。
他の本『人はどう死ぬのか』『人はどう悩むのか』でもみんなこんな調子でわかりやすく、超高齢に向かう人の状態を鮮やかに描き出し、どうししたらよいかを問いける。ただただ頷くのでした。というのもこの順に自分が進んできたからです。
最近、『人生これからが~』とか『~歳からが一番充実して楽しい』という系の本が多く出回っています。それが該当するのは前期高齢者で、後期高齢・それも80歳を過ぎたあたりからは下記のようになって行くのです。
高齢者でない方は全然及びでないし関係ないので読む必要はないかと。

これは最初の方の部分ですが、私も途中まで該当するのが多くて共感し、的確にしかも鋭く並べていますので作者・久坂部羊先生へすみませんが・・丸写しします。

<自然な老化現象>
肉体的及び機能的な劣化が進む
・目が見えにくくなり、耳が遠くなり、物忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きが鈍くなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになる。
・他につまずく、コケる、落とす、引っかける、食べたものをこぼす、むせる、丸呑みする。
オシッコのチョロッともれ、頻尿、腹圧性尿失禁、切迫性尿失禁、溢流生尿失禁、混合型尿失禁、大便の失禁も生じます。
・見た目も劣化し、ハゲる、白髪(眉毛、睫毛、鼻毛、腋毛、陰毛も)、シワ、シミ、たるみ、イボ、肝斑、色素沈着、青あざもできやすくなる。
・根気もなくなり、好奇心もなくなり、社会に対する関心もなくまり、好きなこと、おもしろいことへの興味も失せる。

精神面での老化(若い人に嫌われるオンパレード)
・頑固になる、キレやすくなる、辛抱がなくなる、愚痴が増える、小言が増える、心配が増える、不安が増える、疑り深くなる、嫉妬が深くなる、自分を抑えられなくなる、待てなくなる、わがままになる。

更に
関節が痛くなり、あちこち痛くなり、手が震え、脚が震えて歩けなくなり、細かい字も書けなくなり、着替え・入浴・食事・排泄・洗顔・移動が出来なくなり最後は寝たきり。

<様々な病気>が襲いかかる
がん、うつ病、認知症、肺炎、心不全、脳血管障害・・・一般的なもの
パーキンソン病、脊柱管狭窄症、変形性膝関節症、リウマチ、膠原病、肺気腫、肝硬変、狭心症・・・苦しい病気
脊髄小脳変性症やALS(筋萎縮性側索硬化症)・・・難病

最後に
下手に老いて苦しんでいる人、油断している人、浮かれ情報に乗って現実を見ずに明るく気楽で前向きな言葉を信じた人・・
いつまでも元気にこだわるといずれ敗北の憂き目を見る。
老いれば機能が劣化する分、あくせくすることが減る。あくせくしても仕方ないし、それで得られることも大したものでないとわかる。そういう知恵が達観に通じる。


新聞川柳に載っていた。最近訃報をはがきなどで友人が二人逝ったのを知りました。それでこの句がしみじみとながら飛び込んできました。
「ああ死んで
いくんだなあと
分かる年」

 

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2024年11月29日 (金)

山手線一周(最終回)上野駅~東京駅

ほぼ半年ぶりになる山手線歩き、ちょっとした距離ですが午後の数時間を使ってゴールを目指しました。

上野駅
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噴水を通って国立博物館へ向かう。
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ユリノキの黄葉。
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平成館で「はにわ」展を見て、御徒町へ向かう。
アメ横を通るが、途中に河童に似た「賑わいの像」というのがある。
東北・上信越新幹線に東京の次の駅を上野駅にしてくださいと言う台東区民の願いが聞き入れられた記念だそうだ。
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御徒町駅。
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秋葉原の手前で、日本百貨店に寄って、買ってもらったのは「至高のどら焼き」と「栗饅頭」。甘いの大好きなのでありがたやー。餡子中毒の気味ありです。まあ、今迄よく糖尿病にならなかったなあと。
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秋葉原駅
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万世橋を渡る。
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らんぷに汽車。なかなか洒落ている。
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神田駅。
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ゴールを目前にして、丸善のカフェにて、白玉ぜんざいソフトを食べて休憩する。
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遂に東京駅にゴールしました。
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本日は不忍池とか湯島聖堂とかいろいろあったのですが、「はにわ」展を見てしまって、あとは駅名ばかり写真に撮っての駆け込みゴール的になってしまいました。しかも昨年の2月から始まって2年がかりになってしまい、9回もかかりましたが終わってホッとしました。
目黒あたりが一番時間がかかり、面白かったです。
約15000歩。(完)


補足:「はにわ」展の写真

ポスターには踊る埴輪と挂甲の武人の顔の部分と動物が写っている。
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大王の埴輪、2.5mもある大きな円筒形の埴輪。埴輪の原型は壺型だそうで円筒形になり人間型になったようだ。
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子持家型埴輪、中心の家(親)の周りに4つ小さな建物(子)を配している。
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顎髭の長い埴輪、今みたいな剃刀のない時代では髭を伸ばしていた人が多かっただろうと思われるけど、他の埴輪は髭があるようなないような。
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船型埴輪
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国宝 挂甲の武人とその仲間
同じ工房で作成された可能性のある5体の挂甲の武人が集結した。
この一体はアメリカ・シアトルから里帰りしたもの。
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元は赤や白で彩色されていたという。再現されたもの。
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力士、あの時代に力士がいたの!
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導水施設形埴輪。水を引いて聖水の儀礼または遺骸を洗浄した施設と考えられる。
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棺の埴輪
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動物たち、馬、牛、鹿、猪、犬、鳥、魚。
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水鳥埴輪。今でも水辺で見かけるように子供がのっている。
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埴輪と言えば人型や動物だけしか思い浮かばなかったのですが、元祖壺型から始まっていろいろな造形があってまた一つ勉強になりました。

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