中山道21 塩尻駅~塩尻宿~下諏訪宿(3)
<下諏訪宿プラス諏訪大社下社春宮と万治の石仏>
道祖神。諏訪では建物、石造物が4本の御柱に囲まれているのが見られる。
すぐ先右手に魁(さきがけ)塚がある。維新政府軍の先駆けとして相楽総三と7人の同志の墓。
東山道軍先鋒の赤報隊8人は偽官軍の冤罪で慶応4年斬首されたが、のちに名誉は回復された。
下諏訪宿に入る。右手突き当りは下諏訪駅だ。
●下諏訪宿(29番目)。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒。
諏訪大社下社の門前町として古くから栄え、和田峠と塩尻峠、甲州街道との追分を控え、上諏訪から続く中山道随一の温泉場として賑わった。
宿場街道資料館に寄る(入場無料)。
中の様子。
当時の食事の様子。高齢家族の我が家と同じです。
和宮様の行列の様子。最後が通るのが3日後とか。よく細かく書いたものだ。
約1ヶ月前(4/22)に着いた下諏訪宿 甲州道中・中山道合流之地の碑である。懐かしいのでまた写真を。
今日のお土産は、すぐ右側の塩羊羹の店・新鶴本店の塩羊羹。他の塩羊羹と違って美味しい。
岩波本陣。和宮、明治天皇の小休所となったそうだ。大半が残って残ているそうだが開いていなかった。
本陣の前は脇本陣だったが今は旅館まるやとなっている。
本陣の先の和泉式部伝説が伝わる来迎寺に寄る。
下諏訪の湯屋別当方にかねという娘が奉公しており、日頃道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えするやさしい子だった。ある日別当の妻が火箸でかねの額を打ち据えて傷から血が流れ、痛みに耐えかねたかねが、お地蔵様に祈り仰ぐとお地蔵様の額から血が流れ、かねの傷は無くなったという。都から訪れた大江雅致がこの話を聞き養女にし、都で書道や歌道を学び宮中に仕え、後に和泉守橘道貞と結婚し、歌人和泉式部となった。「あらざらむ この世の他の思い出に 今ひとたびの逢ふこともがな」の歌碑があった。
かねの像。
銕焼(かねやき)地蔵尊。
御作田(みさくだ)社。
下社の御作田祭(御田植神事)が行われる。植えられて1ヶ月で収穫するという、御作田の早稲として諏訪七不思議の一つにあげられているそうである。3帖ほどの神田が見えた。
慈雲寺へ。織田信長と豊臣秀吉に仕えた日野根高吉(高島藩初代藩主)の供養塔や梵鐘があるそうだ。
長い階段を上がる。
国道をまたいでその向こうに参道が続き並木と苔が美しい。
街道に戻り少し先に進むと、「左諏訪宮 右中山道」と刻まれた道標がある。街道は今回はここまで。
諏訪大社下社春宮と万治の石仏に寄る。
春宮にすぐ着く。
神楽殿の左右に御柱が2本と、目を凝らすと奥の2本も見える。
一之御柱。今年は寅年。真新しい!
幣拝殿と片拝殿。秋宮と同じだ。
浮島社経由で万治の石仏へ。
万治の石仏。ユーモラスなお顔!
1660年(万治3年)に造られた石仏。高さ2.6m、幅3.8m、奥行き3.7mの安山岩をそのまま胴体とし、その上に高さ約65㎝の仏頭を載せた石仏である
3回まわって願い事をするように書いてあったのでしてみる。
後ろ姿。
岡本太郎がこんな面白いものは見たことはないと絶賛し全国紙に掲載したので観光名所になった。岡本太郎の揮毫「万治の石仏」を彫った石碑があった。
諏訪市出身の小説家・新田次郎も万治の石仏を賞賛しており、同仏像はイースター島の石人の頭部が日本へもたらされたと想定して小説『万治の石仏』を書いている。
駅に向かう。
下社最古の建造物、春宮下馬橋。春宮参拝の際は、ここで下乗下馬しなくてはならなかった。
御土産は塩羊羹と、ワカサギの佃煮。夕食はス-パーで買ったのをあずさの車内で。
帰宅は9時過ぎだった。約43400歩。
(完)
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