2020年1月24日 (金)

京街道(1)髭茶屋追分~伏見宿~淀宿(前編)

1/16(木)に中山道木曽路はかなり寒そうなので、京街道を歩き始めました。ちなみに大阪からは「京街道」、京都からは「大坂街道」と呼ばれるが、地元で呼び習わされてるのは「京街道」ということばである。
東海道五十三次の延長で4宿を加え東海道五十七次です。

京街道は豊臣秀吉が伏見城築造のため淀川左岸に築かせた文禄堤が起源と言われる。
江戸時代東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見、淀、枚方、守口の4宿が設けられた。幕府は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、参勤交代の大名行列もこの道を通った。ただ、伏見から大阪に下る旅人は三十石船を利用し、宿には泊まらず、宿泊客は大坂からの上りの客だったそうだ。

のぞみ東京6:15発→京都8:26着。東海道線で山科へ、京阪に乗り換え、追分駅8:55着。

◆髭茶屋追分~伏見

駅を出ると、蓮如上人塚と追分道標がある懐かしい髭茶屋追分に出た。写真に写っていなかったが右側が京都三条大橋へ、左側がこれから歩く京街道伏見方面だ。昔この分かれ目に茶屋があったようだ。
1_20200124084101

東海道や中山道と違って街道の標識は一つもないので、このあとマップの地蔵印がとても役に立つことになる。京都市に入っているわけだが、小さな地蔵堂にカラフルに塗られた地蔵が続くのです。
2_20200124084201

街道の様子
3_20200124084401

「牛尾山道」の道標。清水寺の奥の院の牛尾山法厳寺への道。
4_20200124084401

木の切り株と「皇塚」(おおつか)と彫られた碑がある。大塚という地名の由来になったそうだ。ここに古墳があったそうだ。
5_20200124084501

岩屋神社の鳥居がある。山科一の宮。奥の山にある巨大な陰岩と陽岩をご神体として、奥の院に祀られているそうだ。
6_20200124084501

大宅一里塚跡は、京都市内で唯一残る一里塚だそうで、大きな榎は切り株になってしまっている。
7_20200124084601

大宅廃寺跡の標柱(白鳳時代の寺の跡で、藤原鎌足が建立した山階寺であるとの説あり)を通り過ぎ、
歓喜光寺へ。本堂は淀君が二世(現世と来世)を幸せに過ごせるよう祈願して桃山時代に建立されたもの。無数の地蔵が並んでいた。
8_20200124084601
9_20200124084701

京都で初めてのソース会社、オジカソースの工場。
10_20200124084701

勧修寺(かじゅうじ)へ。地名は(かんしゅうじ)と読む。
勧修寺は醍醐天皇が、母の藤原胤子(たねこ)を弔うために創建したものだが、元は宇治郡の大領であった宮道弥益の邸宅跡という。入場料400円。入口への道は長い。修理中の本堂をはじめ、観音堂、書院、弁天堂などの建物が点在する。
11_20200124084901
宸殿。江戸時代初期の御所の建物。1697年に明正天王から下賜された。
12_20200124084901
手すりは曲げたのではなく、このまま切り出されたものとのこと。素晴らしい!
13_20200124085001
ハイビャクシン(ぐじゃぐじゃした枝は全部1本の木で樹齢750年)。
14_20200124085001
その右にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」という。
14_20200124085101
88の霊石が埋められていて一周する八十八カ所巡りができるという四国八十八ヵ所巡りをやってみる。もう四国八十八ヵ所巡りは出来ないから。
15_20200124085201
氷室池。庭は池を中心にした池泉庭園となっている。蓮池で夏は素晴らしいでしょう。
16_20200124085201
ボケ
17boke

明智光秀の胴塚に寄る。昨年歩き始めた追分から京都へ進んだとき、明智光秀の首塚を見た。
18_20200124085301

昼食は京都でありながら、江戸前寿司であった。既にイカを食べた後に撮影。
19_20200124085401

宮道(みやじ)神社。日本武尊と子の稚武王(わかたけのみこ)を祀っていて、二所明神とも言う。子孫と言われる勧修寺の邸宅跡の持ち主・宮道弥益(いやます)の娘・列子が藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁ぎ、生まれたのが宇多天皇女御、醍醐天皇生母となった胤子である。この列子の話が玉の輿第1号のようだ。この神社に弥益から列子、高藤、胤子まで合祀されている。宇多天皇と言えば世界遺産の仁和寺です。
20_20200124085501

1㎞以上歩いていくと、醍醐天皇御母(胤子)小野陵がある。宮内庁の管轄で立派なお墓である。
21_20200124085601

虫籠窓の古い家。
22_20200124085601

着色したこんな地蔵も。
23_20200124085701

JR奈良線の跨線橋を越え、京阪本線の手前の墨染駅の手前の藤森神社へ。伏見区の深草にある。菖蒲の節句発祥の地であり、紫陽花が有名だそうだ。
石造りの鳥居に後水尾天皇の筆による額がないのは近藤勇が外したそうだ。西国大名の参勤交代の道筋で、神社前を通る時、駕籠を下りて拝礼しなければいけなかったので、幕末の動乱時代、悠長なことは時代にそぐわないということで。
Photo_20200124090001
蒙古塚。蒙古の大将の首が納められている。
24_20200124090101
重要文化財の本殿は足利義教公(室町時代第6代将軍)が造営したと言われる。
25_20200124090101

この街道も歴史上の様々な人物が出てきて興味深いです。

 

 

 

| | コメント (20)

2020年1月18日 (土)

あちらこちらへと

今日は積もらないけれども東京も初雪です。
ここ数回調子悪かったカメラが使うこと4年を前にして遂に壊れました。酷使しました。昨日は買い替えに吉祥寺まで出て行ったのですが、前のカメラ引き取りが3000円ということで、午後もう一度出直しということになり、自宅駅に戻りました。そこで55年目の結婚記念日(エメラルド婚)であったのでイタリアンレストランでワインで乾杯。次の60年はまずあり得ないでしょう。
午後カメラを持参すると、何と2万円引き!、ポイントもあったので前回よりずっと安く買えました。夜までずっとカメラと格闘し続けた一日でありました。

●鎌倉六国見山(147m)~葛原ヶ岡ハイキング~源氏山公園 約2万歩

まだぐずぐずしていて昨年12月中旬に戻ってしまいますが、台風の爪痕を鎌倉の山で見て、オーストラリアやアメリカの山火事、日本、フランスなどの洪水などを思い起こし、今年もどんな気象災害に襲われるかと身震いさせられています。欧州の人々は特に真剣に考えていますが、日本はまだまだ甘いのではないか、子孫はどうなってしまうのでしょうと考えながらも一歩も踏み出せず、やっぱり平和ボケの日本の片隅で真剣でない自分がいます。

北鎌倉駅で降り少し上がるともうこの展望です。

1_20200118160301

登山口あたりの紅葉。
2_20200118160301

六国見山は頂上からの展望がきかず、下の展望台から六国(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)を眺めるも、霞んで千葉県方面はよく見えず。
3_20200118160401

頂上の標識はブロックで何故か麻雀のパイとサイコロの絵が。
4_20200118160401

明月院に降り、線路を渡って、浄智寺へ。
5_20200118160401

葛原ヶ岡ハイキングコースは倒木多数のため通行禁止。情報ではどうやら通れるということで行ってみたら1ヶ所大木が重なり合うように数本倒れていた。あの台風がいかに凄かったかを思い知らされた。
葛原岡神社の祭神・日野俊基の墓(後醍醐天皇の側近で元弘の乱でここで殺される)。
6_20200118160501

源山公園の源頼朝像。
7_20200118160501

 

●早稲田~神楽坂~市ヶ谷散歩(今年初の富士女子会)

地下鉄早稲田駅を降りるとはす向かいに「夏目漱石誕生の地碑」がある。1966年に建立で、近所に住んでいたけれど小学生だったのでまだなかった。
8_20200118160601

私が卒業した早稲田小学校は以前載せたことがありますが、化粧直しをしてきれいになっていた。
9_20200118160601

少し歩くと「漱石山房記念館」に到着。2017年9月オープン。漱石は晩年の9年間ここ早稲田南町で過ごした。書斎、客間などが再現され、テーマ展示がある。カフェでくつろいだ。
10_20200118160701
12_20200118160701

右側に見える猫の墓は昭和28年12月9日に再興されたもので、小学校6年生だったので毎日見ながら通った。
11_20200118160701

ここから自分が住んでいた場所はすぐ、通り過ぎて神楽坂に向かい、神楽坂駅の横の赤城神社へ。昔の面影はなく、建築家・隈研吾氏が監修した社殿が建つ。
赤城山麓の豪族、大胡彦太郎重治がここに移住した時に本国の赤城神社の分霊を祀った。縁結びの神様。若い人ばかり。
13_20200118160801

筑土八幡 牛込の鎮守で1200年前の創建。江戸時代の鳥居や猿を刻んだ庚申塔があった。私の母がこの辺りで生まれ育った。
14_20200118160801
15_20200118222101

神楽坂は面白いお店が沢山あって非常な賑わいを見せている。あちらこちらに引っ掛かりながら昼食に。お昼は「だいこんや」で揚げ赤目鯛のおろしかけセットを注文。
Syokuzi_20200118161001

毘沙門天善國寺は駒猿だ。水戸黄門、田安家、一橋家と縁がある。
16_20200118161101

牛込橋を渡り、東京大神宮(東京のお伊勢さんと呼ばれる)に行ったがこれは縁結び神社で、若いカップルの数百メートルの大行列で引き返す。一般の人がおこなう神前結婚式を初めて行った神社だそうだ。

飯田橋から市谷までの外濠公園を歩く。途中市ヶ谷見附の所にある20数年勤務した校舎を見て、市ヶ谷駅近所で再びお茶を飲み解散する。係が私だったので自分に関係したところばかりを皆さんを引きずり回してしまいました。
街灯のテントウムシ、何か意味があるのでしょうか。
17_20200118161101

●ブロ友新年会

今年10回目という新年会に昨年欠席で今年2度目、お仲間に入れていただきました。私が一番年上で全員70代の7人。日頃ブログでその活躍ぶりは存じ上げていましたが、本当に皆さん、好奇心は旺盛でたくさんの事に首を突っ込み、学習し、行動し、とてもお元気。ボランティア活動をされてる人も。ただただ、凄いなあと。
ブログを始めてから私も世界が広まって、世の中凄い人ばかりじゃないか。自分は一体何をやっているのかと嘆いている場合ではないと思いつつ、だんだんと老いに蝕まれて思うように行動できなくなっていくのを寂しく思っているときの新年会でありました。刺激を受けますね。私だったら関西でやると言われたらちょっと躊躇してしまうのにlilyさんは泊まり掛けでお出でになるその心意気を私も真似してみてもいいのではないかと思ったりもしました。
KITTEでの東京大学総合研究博物館+日本郵便の見学、丸ビル内の「グリル満天星」での洋食、そして上野国立博物館での「高御座」と「御帳台」の見学(30分くらいで入ることが出来ました)を銀河さんが企画してくださいました。もう10年もたったお一人でずっとお世話しているそうです。とても真似できない素晴らしい方です。既に全員の方が写真とともに感想を書かれていました。お世話になりありがとうございました。

トナカイ親子の剥製 tonaとして親近感が湧く。
18_20200118161201

上野 アイスチューリップがきれい。
19_20200118161301
20_20200118161301

「高御座」と「御帳台」
テレビで観たよりずっと装飾がきれいに見え、黒塗りの継壇や朱塗りの高欄の輝きも目を惹き、素晴らしい調度品を見ることが出来、百聞は一見に如かずでした。
21_20200118161301

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (22)

2020年1月15日 (水)

中山道11 大井宿~中津川宿(3)

◆大井~中津川の続き

上用水之碑がある上宿休憩所が午後のおやつ時間です。中津川は栗で有名な小布施と同じく栗のお菓子が多い。
1_20200115090601

上宿の一里塚跡(85里目)。片側だけ昭和9年に3分の1の大きさで復元された。
2_20200115090801

石仏群!
3_20200115090801

身体が一つ、頭が二つの双頭一身道祖神は市指定文化財だそうだ。是より苗木道と彫られている。↓に書いた苗木藩があるのでしょう。「岐阜のマチュピチュ」「天空の城」の異名を持つ山城があるそうだ。
4_20200115090901

「こでの木坂 左ひだみち」と刻まれた道標もあった。飛騨に行けるのか。
5_20200115090901

駒場村の高札場跡。
6_20200115091001

3基の文字が書かれた馬頭観音と南無阿弥陀仏碑。
7_20200115091001

中津川を中津川橋で渡る。この橋が、広重の晴れの方の中津川のモデルの場所。絵の昔の橋は100m下流にあったそうだ。
8_20200115091101


●中津川宿(45番目) 大井宿から9.8㎞、落合宿まで4.1㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒。

橋を渡って中津川宿に入ってきた。宿の長さは2.2㎞。

中津川宿に行くのを前にして島崎藤村の『夜明け前』を読みました。
この宿の2つ先の馬籠宿の17代続いた本陣・庄屋の当主・青山半蔵は藤村の父がモデルで、平田派の国学を学び、国学に陶酔した人であった。明治維新に強い希望を持つも、実際の維新文明開化は希望と全然違うもので、その上国学への世間の冷笑に次第に挫折し、運命は悲惨な過酷な状態へと誘われます。

中津川宿は国学門人の地であることが他の宿とは違う大きな特色だったそうだ。安政6年~明治3年まで平田門人が35人もいて、中津川宿の本陣当主や分家の当主は夜明け前のモデルになって登場する。門人たちは水戸浪人の天狗党の通過を助け、長州藩の藩論を変えた「中津川会議」での桂小五郎の藩主待ち伏せを助けたりする。(その潜んでいた家をこの日の最後に見学する)

国学をここで初めて意識しました。賀茂真淵や本居宣長が「万葉集」「古事記」を研究し、儒学や仏教の日本伝来以前の日本古代の姿に立ち返ることを主張した。平田篤胤は神道思想を深め、復古思想から攘夷思想に結びついていった。この復古神道主義が廃仏毀釈運動に発展したわけで、中津川の北、苗木藩は日本全国でも特に激しかったそうだ。寺院や仏像などの破棄が私には実にもったいなく残念に思われたが、こういう理由であり、またそれゆえ、寺院が特権喪失し、仏教界の反省に発展したのも、国学であったということを知りました(以上、風人社ウォークマップのコラムを参照した)。廃仏毀釈がなぜ起こったかも知らなかったのです。

はざま酒造。うだつのある古い造り酒屋で杉玉が下がる。5つある中津川の酒造の一つで「恵那山」が有名。酒造を見ると相方の娘は必ずつつつと寄っていく。
9_20200115091101

枡形の角にうだつのあがる家は旧中川家。中津川市出身の日本画家・前田青邨の絵にも描かれているそうだ。映画「青い山脈」ロケに帳場が使われたとも書かれている。中津川宿は説明板がとてもきれいでわかりやすい。
10_20200115091501

白木屋(横井家)にもうだつが。ここは無料休憩所になっている。中二階に四畳ほどの隠し部屋があるそうだ。
11_20200115091601

十八屋(問屋)、天満屋、川上屋(栗きんとんなどの栗菓子)などの建物が続く。
十八屋には水戸天狗党の負傷者をかくまった隠し部屋があるそうだ。
12_20200115091701

枡形を曲がる。本陣は宿の一番高い所にあり、水害からも守られ、大名などが宿泊する際、常に防御や退却方法が考えられ、枡形によって見通せないようにしていた。
13_20200115091701

再現された用水。火災に備えて作られたものだが、明治天皇が来られたさいに、馬車が通れるように埋められてしまったという。
14_20200115091801

うだつの上がる庄屋の家は旅籠も営んでいた。
15_20200115091801

森家脇本陣跡は中山道歴史資料館になっている。奥には土蔵の中に展示があり、上段の間の再現があった。
17_20200115091901
16_20200115092001

資料館で木曽五木を見た。木曽五木とは尾張藩によって伐採が禁止された木曽谷の木です。
ひのき、さわら、あすひ(あすなろ)、こうやまき、ねずこ。いずれも建材など色々な点で優れた樹木。
18_20200115092001

向かいは本陣跡で今は駐車場だ。
よく水害を起こし四度も川の形が変わったという四ツ目川を渡る。恵那山がよく見える。
19_20200115092101

桂小五郎隠れ家跡を見学。上記したように、京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、この「やけ山」に隠れていた。
20_20200115092101

栗きんとんで有名な「すや」。ここも栗のお菓子屋さん。
21_20200115092201

中津川駅へ向かう。途中新しいマンホール発見。恵那山と市の花サラサドウダンのデザイン。
22_20200115092201

恵那山が描かれたマンホールの向こうに恵那山が見えた。
23_20200115092301

駅でお土産を買い、4時49分発のワイドビューしなの19号に乗り松本駅に6時4分に着く。
ここで駅弁を買い、6時40分発のあずさ32号に乗って、立川駅で乗り換え、自宅到着は9時過ぎであった。約35000歩。

夕ご飯は安曇野釜めしと井筒ワイン
24_20200115092401
 
お土産は栗きんとん2種類。1種類は帰り着くなり食べてしまって撮影できず。
25_20200115092501

木曽路は雪に埋まった本格的な冬で歩くことが出来ず、中山道歩きは春になってからです。その間は別の街道歩きです。(完)

 

| | コメント (14)

2020年1月10日 (金)

中山道11 大井宿~中津川宿(2)

◆大井~中津川

馬頭観音がまだまだあります。
1_20200110194701

恵那駅から明智駅まで約25㎞の明知鉄道の高架をくぐるが、ずいぶんと低く背の高い人はぶつかりそう。終点明智駅には明智光秀が生まれた明智城址があるようだ。乗りたくなる、にわか鉄女です。
2_20200110194701

寺坂の上宿石仏群。中津川までのこの区間には石仏群が多いと聞く。左から3番目は痰切地蔵で風邪を引いたらこの地蔵様を拝めということで、風邪の大家なので撫でて拝む。(しかしその後また引いてしまった、涙)
3_20200110194801

街道をちょっと脇道に入ると旅人の墓がある。中山道を旅する途中、大井宿で亡くなった人たち60余基を埋葬していて4人が女性。(旅人には圧倒的に男性が多かったということでしょうか?)
4_20200110194901

また石塔群があり、一番右は3.6mもある背の高い長石塔だ。大井宿の長国寺和尚が村内安全を祈願し、延宝8年(1680)に建立したもの。かなり古い。
5_20200110194901

蓮花寺坂を上ったところに明治天皇行在所碑がありその先に関戸一里塚跡(87里目)がある。
6_20200110195001

甚平坂石仏群の近くに虵塚(蛇塚)がある。蛇とは!
7_20200110195001

根津神社に上がっていくと本殿の後に宝篋印塔があるが、これは根津甚平のお墓だ。
8_20200110195101
9_20200110195101
根津甚平とは、源頼朝の御家人で信州の人と言われ、鎌倉幕府に怪鳥(キジ)退治を命じられ、馬に乗り、勢子と犬と鷹を連れ、怪鳥を追い、この坂に追い詰めた。しかし甚平と馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で倒れ、怪鳥は消えた。里人はこの坂に馬と犬を葬ったのだそうだ。
犬塚と馬塚
10_20200110195101
11_20200110195201

甚平坂のピークに甚平坂公園があるが、本来はここから御嶽山が見えるはずであるが、残念ながら見えず。広重の「大井宿」の絵はその(1)に掲げたマンホールでも見たが、雪景色のここ、甚平坂と遠くに御嶽山が描かれているのであった。
13_20200110195201

岡瀬沢庚申塔。岡瀬沢では庚申講がとても盛んで、庚申の日に講元の家に集まり青面金剛の掛け軸をかけて、お茶飯と汁、漬物の夕食を食べて夜が明けるまで話をしていたのだそうだ。   
12_20200110195301

岡瀬沢の常夜燈。左が静岡の秋葉山に通じる道と刻まれている。
14_20200110195301

社宮司跡。おしゃもじ様などとも言う。検地で使用した縄や尺杖を祀る。檜の根元には金神と氏神が祀られている。
15_20200110195401

広久手坂の標柱から下ると三面八臂の馬頭観音。大変珍しい。弘久手の「久手」という名前は湿気が多い土地ということ。小牧長久手の戦いの長久手もそうなのでしょうか?
16_20200110195401

中津川市に入った。マンホール(中津川市の坂本地区)。シデコブシとハナノキが描かれる。
17_20200110195501

リニアの町の看板があって、少し先の北にJR美乃坂本駅があり、そのあたりがリニア岐阜県駅予定地だそうだ。
お昼はお店がなく、ファミマがあるという下調べで、イートインに。ミートソース、海老とブロッコリーのサラダと飲み物の昼食。

秋葉道との分岐にまたまた常夜燈があり、その先の篠原茶本陣は明治天皇、和宮も休憩されたところ。
18_20200110195601

長連寺薬師堂跡、白木改め番所跡、茄子川村の高札場跡、坂本観音堂を通り過ぎる。
またまた石造物や馬頭観音が並んでいた。
19_20200110195601
20_20200110195701

三ツ家の一里塚跡(86里目)。塚は昭和35,6年ころまで残っていたそうだ。
21_20200110195701

将監塚。二代目美濃代官を(1613~1631まで)務めた岡田将監善同(しょうげんよしあつ)の墓である。名古屋城築城の際、木曽材持出奉行として駐在していた。その子の善政は江戸城本丸用に木曽材1万本を伐出している。それほど木曽材は重要視され、高額資材だった。
22_20200110195801

三面八臂の准胝観音(左)と一面六臂の馬頭観音(右)。このような石仏を眺めていると飽きない。自分ではとても彫れない。
232

恵那山ちらちらと見えていたが、 ドーンと現れた。恵那山は岐阜県中津川市と長野県阿智村にまたがる、木曽山脈(中央アルプス)の最南端の標高2191mの山である。 日本百名山及び新・花の百名山に選定されているとのこと。花の咲く季節に登ってみたいなあ!
24_20200110195901

指さし道標があった。「新国道美乃坂本駅ヲ経テ大井町ニ至ル」「旧国道大井町ニ至ル」と刻まれている。
25_20200110200001

坂本神社八幡宮の大木に絡んでいる黄色い実は何でしょう?カラスウリより大きく初めて見る実だ。キカラスウリでした。ポージィさん、ありがとうございました。
26_20200110200101

六地蔵石幢。石柱の六面にお地蔵様が刻まれていてとても珍しい。大林寺の入り口としてだけでなく、極楽往生や道中安全を願ったという。
27_20200110200101

またいろいろな石造物を見て、中津川市の別のマンホールを発見。おいでん祭りで踊られる風流おどりと市の花のサラサドウダンが描かれている。
28_20200110200201
もう一つも見つけた。市の花サラサドウダンだけのデザイン。
29_20200110200301

また恵那山の風景。広重の69次の中津川宿の絵には2種類ある。「晴の中津川」と「雨の中津川」で雨の方は世界に6枚しかないと言われる。その雨の方の絵がこの辺りから描かれた風景という。
30_20200110200301

(続く)

 

| | コメント (16)

2020年1月 6日 (月)

中山道11 大井宿~中津川宿(1)

まだ昨年のことなんです。
12/19(木)曇 大体、宿場の一区間だけ約11㎞でゆったりと歩いた。

いつもののぞみに乗り、前回の逆コースで名古屋からの中央本線で恵那駅に9時9分到着。
すぐに恵那市のマンホールを見つける。
真ん中は市章(太陽と飛翔する鳥。翼は6枚の羽で、合併した6つの市町村を表しているとか)、まわりには市の花ベニドウダンが描かれている。
1_20200106212001

この日特に強く感じたことは、岐阜県の車のドライバーの事です。渡ろうとするのを察してどの車も必ず停まってくれるということ。私の住んでいるところで一番近い横断歩道では停まってくれる車は今まで20数年間殆どなしという酷さである。岐阜の人の温かい心がとても嬉しかった。

前回の大井宿の手前から宿に入るところまで

長島(おさしま)橋のところまで戻って街道歩きのスタートです。前方右が観音堂と常夜燈。
2_20200106212201
観音堂の中
3_20200106212201

中野村庄屋の家の壁は浸水防止壁だったそうで道の両側に手前に見えるような石があって厚板をはめ、氾濫した川からの浸水を防いだという。
4_20200106212301

中山道広重美術館に寄る。「ニッポンのえんぎもの」という企画展をやっており、はじめてみる絵も何点もあった。
5_20200106212401

駅近く、大井宿の近くまで来て五平餅のあまから屋に入って午前中のおやつ時間。ここの五平餅は丸く、味噌(ゴマとクルミ入り)ダレが美味しい。味噌をお土産に購入した。
6_20200106212401

大井橋を渡る。欄干には中山道69次の浮世絵がはめこまれている。向こうに見える煙は王子マテリアの工場から。恵那には段ボール工場が多いそうだ。
7_20200106212501


●大井宿 大湫宿から13.8㎞、中津川宿まで9.8㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。

橋を渡るといよいよ大井宿だ。全長710mの長さで、6ヶ所もの枡形がある。古くから良い水が湧き、多くの井戸があったことから大井の地名が付いたという。
恥ずかしながら、今頃になって旅籠と木賃宿の区別を認識した。食事が付くか付かないかであった。

白木製品の取り締まりを行ったという、白木番所跡を通り過ぎ、枡形のところに市神神社がある。この宿の町の大切な神社のようだ。
8_20200106212701

次の枡形の角には旅館いち川がある。創業1624年ということで、角にあるため角屋と呼ばれていて、若山牧水や北原白秋も泊まったそうだ。今も外国人旅行者の宿泊が多いという。
9_20200106212701

ここには大井宿のマンホールがあった。広重の雪の大井宿の絵のデザインだ。
10_20200106212801

次の枡形の角を曲がると明治天皇行在所碑の立つ伊藤家跡(現在は岩井家)がある。明治天皇が明治13年に宿泊された際の使用された部屋、風呂場、便所は当時のまま残っている。外から見てもかなり古い。
11_20200106212801

下問屋場跡(脇本陣の高木家跡でもある)を進み、こんな家もある。
12_20200106212801

ひし屋資料館がある。古山家住宅を改修復元して200円で公開している。古山家は酒造と江戸時代中期以降、大井村の庄屋を務めた家柄。
13_20200106212901
ビデオを見た後、ガイドさんに案内して頂き、部屋を広く使う工夫などいろいろなことを知って感心した。今回は欄間の美しさに惹かれる。
縦の線が7本、5本、3本と入った七五三の欄間、花頭窓の欄間には驚く。
14_20200106213001

15_20200106213001
164
17_20200106213101
庭もいいし、蔵もあって展示室になっていた。
18_20200106213201
19_20200106213201

5つ目の枡形の角に本陣跡。戦後の火災でほとんどが焼けてしまったとのこと。
20_20200106213301

大井で昼食をとった際和宮が使用したという井戸もあった。水がよかったため、次の中津川宿で使用する水を運んだという。
21_20200106213401
同じく本陣裏の内城稲荷は大井城の守護神。
22_20200106213401

きのこも数種生えていたが、これは手触りがキクラゲのようです。
アラゲキクラゲだそうです。Sさま、ありがとうございました。

23_20200108095601

6つ目の枡形の角には延寿院横薬師があり、ここが大井宿の江戸方見付だった。
24_20200106213501 

この少し先に復元高札場があった。
25_20200106213601

 

 

 

| | コメント (24)

2020年1月 3日 (金)

新年

明けましておめでとうございます。

はたせるかな、悲しいことに暮れの29日お昼ごろから発熱し、元旦まで鼻をかみかみおとなしく寝ていました。昨年とは比較にならないくらい楽でした。
昨日治って復帰し、恒例のお正月を子供たちと迎えたところです。
おせち料理も作らないで既製品を買いいろいろずるをして、便利な世の中、何とかなるものと実感しました。
このあとにすき焼きを。最初美味しそうと買った牛肉を前日試しに食べたら全く美味しくなく、当日最高級のを買ってきたという失敗もありました。
Syougatu
これで三が日、真っ青に晴れて東京の空がまたまた青くきれいになったと感動。そして私が生まれてこの方一番美しい空の色と思っていた、ロシアのスズダリの空の色を見ようと思ったら、何と写真やDVDにも残っていませんでした。

オキザリス・パーシーカラーも10年以上も経つと消え入りそうになってきました。
Photo_20200103111101

本年もよろしくお願いいたします。

|

2019年12月31日 (火)

年の終りに

今年もあと数時間で終わりです。
この1年も街道歩きばかりのブログになってしまいましたが、いつも読んでいただき有難うございました。
来年もよろしくお願いいたします。
良いお年をお迎えください。

この寒さの中で咲いているアサリナです。
524

|

2019年12月27日 (金)

お元気な恩師

我が恩師、4年間我々18人(後に19人)クラスの担任でもあった教授は、今年103歳で、一人暮らし(姪御さんなどが時々お手伝い)をされておられる。
目標は来年のオリンピックを見る事とお茶を研究されてきたので108歳(茶寿)まで元気に生きることだそうです。
今でも頭脳明晰で、テレビのクイズ番組をご覧になっていて、殆ど当ててしまわれるそうです。それがどんなに凄いことか!
クイズ番組を見ていなかったけれど、試しに2つの番組を見てみたら、なんと全然答えられない。わかるのはほんの少し。ショックでした。
私自身はいかに物を知らないでここまで来たかです。物忘れもひどいし。体を動かし、頭も使い、考え、この先生のように歩けなくなってもボケないように勉強もしなくては。
そういえば、小4で数学検定1級合格の男の子。
小4で英検1級合格、小6で数学検定準1級に合格した女の子にはもうびっくりです!

 


「大楠山」

11月下旬、三浦半島・横須賀市にある大楠山(241m)に逗子側から登りました。横須賀側は台風で途中通行が困難で登れないとのこと。
バスの終点は地球環境戦略研究機関でした。どんな研究がなされているのか。関係ないですが、このあと12月に入ってから、COP25で日本が化石賞を2つももらったことを思い出してしまいました。
1_20191227132201

大楠山は2.1㎞先。少し行くと展望台のある大楠山が見えてきました。
2_20191227132201

ススキが山道を彩る。
3_20191227132301 

アザミもまだまだ咲き誇る。
4_20191227132301

ウルシ科ハゼノキ(又はヤマハゼ)の紅葉がきれい。
Photo_20191227132401

この頂上は神奈川景勝50選です。
550

伊豆大島が見えます。
6_20191227132501

逗子の前田橋バス停方面に降りる。皇帝ダリアに囲まれた芝生地。
7_20191227132601

少し降りたところに上皇上皇后両陛下御光臨記念植樹の石碑と右の木・愛子さまお誕生記念樹とありました。葉山御用邸から近いので登られたのでしょう。
8_20191227132701

91
10_20191227132701
標高差200m弱登ったのでしょうか。約17000歩でとても快い運動になりました。


「鐘撞堂山」

12月上旬。埼玉県北部の寄居町に鐘撞堂山(330m)がある。登って見たら本当に鐘撞堂がありました。
真下に鉢形城跡が見えるし、周囲は展望がきいて見晴らしがよいので、戦国時代、敵の襲来を鉢形城へ鐘を撞いて知らせた見張り場だったそうです。

寄居駅前
1_20191227132801

少し進むと鐘撞堂山が見えます。電線だらけで汚い画像ですが全山紅葉です。
2_20191227132801

シイタケ栽培の所を通る。
3_20191227133001

大正池 大正天皇御即位記念として出来た用水池のようです。
4_20191227133001

ゆっくり寄り道しながらの2時間で頂上に到着。鐘撞堂があり、鳴らしてみました。当時は下まで聞こえたのでしょうか?
5_20191227133001
Photo_20191227133101
Photo_20191227133102
Photo_20191227133201
Photo_20191227133202

約23500歩でこれまたよい運動になりました。

 

 

 

| | コメント (18)

2019年12月24日 (火)

中山道10 細久手宿~大湫宿~大井宿(後編)

●大湫宿の続き

和宮人形があって中央が和宮。
1_20191224111601

コミュニティセンター到着。ここにも飲食店はなく作ってきた弁当をここで食べさせていただく。寒い日でストーブをつけていただく。
お昼を食べたあとは向かいの丸森邸(旧商家、旅籠の他塩の専売も行った)を見学する。ここでは梅茶をふるまわれ身も心も暖まる。
2_20191224111701
3_20191224111701

旧旅籠三浦屋(登録有形文化財)。
5_20191224111801

本陣跡は、旧大湫小学校(昨年取り壊された)にあった。その脇には皇女和宮御歌碑がある。
「遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も たちうかりけり」
「思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは」
6_20191224111801

宿の端の高台にある宗昌寺は宿の大火を免れて控え本陣に利用されたそうだ。
鐘楼の横に六地蔵尊が並んでいる。
7_20191224111801
ここからも大湫宿がよく見えた。
8_20191224111901


◆大湫~大井 (十三峠を行く・・上ったり下ったり)

宿を出るとそこは十三峠の西入り口だ。たくさんの坂の名前が出てくる。「ヶ根」と付くのは丘陵の尾根筋をいうらしい。
道中が長いので「~立場」や「~茶屋」の跡のなんと多いこと。所々に馬頭観音、庚申様、高札場、本陣跡、代官屋敷跡などを両側に見るのである。人馬が難渋した峠だったわけだ。
尾根筋の坂を下ると現れるのは谷戸(沢)で水田が入り込んでいる風景が展開したり、広い沢筋や扇状地形に宿や集落が現れるという区間なのである。
9_20191224112001

早速、「ヶ根」の付く童子ヶ根碑が現れる。
10_20191224112101

山之神坂を通り、次は八丁坂(しゃれこ坂)で観音碑(中央)がある。
11_20191224112101

石灰帯を通り過ぎて(近くに養豚場あり)、清水で尻を冷やしているように見えることから呼ばれた尻冷やし地蔵を通り過ぎると阿波屋の茶屋跡のところに、三十三所観音石窟がある。三十三体もの馬頭観音がおさめられている。大手運送業者や助郷に係る近隣の村々からの寄進で、石柱に名が記される。
12_20191224112201

曽根松坂の先に、大きなゴルフ場があってゴルフカートが中山道を横切る。
びあいと坂を上り、巡礼水があるが今は水がなくただの穴。昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏を唱えたら水が湧き出して命が助かったそうだ。

権現山一里塚(90里)。ここもまた左右現存している。
13_20191224112201

樫ノ木坂は石畳。87m続く。
14_20191224112301

吾郎坂、炭焼立場跡、鞍骨坂、権現坂、出茶屋跡など次々と坂、立場跡、茶屋跡が出てきて全部立て札を撮影した。書いていてもどこだったかわからないくらい同じような景色の街道が続いていく。主なのだけを記していこう。
弘法大師像や馬頭様を見ると景色が開ける。谷戸だ。
15_20191224112301

中山道の石碑で瑞浪市から恵那市に入った。

下座切場跡の標柱。中山道を行く役人を地元の代官が裃をつけて土下座して迎えた場所。
瑞浪市の白の標柱から恵那市に入ると茶色の標柱に代わる。
16_20191224112401

6つも標柱などを見て、坂を登り、峠を越え、坂を幾つか下ると開けたところが、間の宿の深萱立場(ふかがやたてば)である。
17_20191224112401

山形屋(祖先は代官)跡、本陣跡(加納家)を通り過ぎると復元された高札場(藤村高札)がある。
18_20191224112501

また山に入ると、茶屋が沢山出てくる。ばばが茶屋、馬茶屋、うばが茶屋、びやいと茶屋(枇杷湯糖を売っていた)、平六茶屋などはいいとしても、よごれ茶屋という名は、どうしてつけられたのか?
叩くと音が鳴るちんちん石とか、牡丹に似たぼたん岩などもあった。

紅坂一里塚(89里)。両塚が残る。高さは北塚は2.2m、南塚は3.2mだそうだ。
19_20191224112701

妻の神という小さな祠。命名がなかなか。道祖神の一種で夫婦和合、子宝の神などで塞ノ神とも言われる。
20_20191224112701

かくれ神坂を下るとまた開けた。
21_20191224112801

殿様街道なんていうのがあって標柱が立っており、竹折高札場跡を通り過ぎ、みだれ川をみだれ橋で渡る(急流で飛脚たちが出資して架けたという)。
その先に首なし地蔵がある。2体のうち大きい方に首がない。地蔵前で昼寝をしていた二人連れの中間が起きると一人の首がなかった。怒った中間が地蔵に「黙って見ているとは何事」と地蔵の首を刀で斬り落としてしまったという。
22_20191224112801

姫御殿跡。山中にはお姫様行列の時などには仮御殿を建てて休息をすることがあったという。当時は眺望もよかったらしい。
23_20191224112901

槙ヶ根追分に来た。名古屋を経て、伊勢へ行く下街道との分岐。
ここに伊勢神宮遥拝所があって、伊勢に行けない人は、ここで手をあわせ遙拝したそうである。
24_20191224112901

槙ヶ根立場跡もあって茶屋が昔は9軒もあったそうだ。その先に西行の森桜百選の園があり春の桜を想像する。
ここから雲のかかった恵那山をズーム。
25_20191224113001

槙ヶ根一里塚(88里)。ここも両塚が残っている。
26_20191224113001

西行塚(左奥のが供養塔の五輪塔)。そばに西行の歌碑、西行を偲ぶ芭蕉の句碑もある。
西行は諸国行脚の途中、この地に竹林庵を結び3年暮らした言われ、自分の死期を悟った西行は自分が死んだら遺骸をここに埋葬するよう頼み、亡くなると村人たちはここに埋葬して五輪塔を建てたそうだ。実際は大阪の南河内郡河南町の弘川寺で入寂したというが。
27_20191224113101

またまた東屋からは恵那山が見える。雲がかかっているがうっすら雪が被っているように見える。美しい!
28_20191224113101

西行坂を下って十三峠の東入口にたどり着く。実際はおまけ7つついて二十峠か。西から東へだったのでとても楽だった。(坂の長さや勾配で)
約13㎞くらい峠を歩いたことになる。大湫宿の前は琵琶峠を歩き今日はよく歩いたと自画自賛。

西行硯水を通るが今は水はない。西行句碑、奚花坊句碑などもあった。
29_20191224113201

中央本線恵那駅に到着。5時過ぎの電車で名古屋へ向かう。
P1040185-2

名古屋駅で今日はイタリアン。赤ワインにラスパドゥーチーズのピザと、名古屋コーチン卵と熟成ベーコンのカルボナーラ。
Photo_20191224113601
Photo_20191224113701

お土産は中津川市周辺の銘菓「からすみ」でういろうに似た味わい。
Photo_20191224113702

いつものひかりに乗って10時半帰宅。40548歩。

| | コメント (14)

2019年12月18日 (水)

中山道10  細久手宿~大湫宿~大井宿(前編)

12/5(木) 静岡県側の富士山は大分白くなっていた。7時頃。
1_20191218091201

前回と同じく瑞浪駅からタクシーで細久手宿へ。大湫宿方へ向かって歩き始めたのが9時半。
前回ここから西へ歩き始め到着した御嶽宿から、今日ここから歩く大湫宿、大井宿は鉄道から離れ、バス便もなく宿泊施設は降り立った細久手宿の大黒屋1軒しかなく、街道歩きには難所と言われる。タクシーが使えたのでこの間を2回に分けて日帰りで歩くことが出来ました。

◆細久手~大湫

三国見晴らし台の馬頭観音。珍しく馬がはっきりとした観音様。この日も馬頭観音をたくさん見た。
2_20191218091401

奥之田一里塚(92里)が見えてきた。北塚も南塚も塚の上に木はないがほぼ完全な形で残る。高さ4m、直径12mで塚の周りをぐるっと回ることが出来るようになっている。
岐阜県には31ケ所の一里塚が築かれたそうだ。そのうち瑞浪市には4ケ所あって既に見た鴨巣、ここ奥之田、琵琶峠の八瀬沢、権現山と連続した4ケ所が当時のまま残っているのは全国的に稀だそうだ。開発されて道路が出来るということがなかったためでしょう。逆に昔の儘という感じで行き交う人も今日ではなく淋しい。
3_20191218091501

南垣外ハナノキ自生地の標柱。検索してみるとハナノキは春には真っ赤な花が咲き、秋は真っ赤な紅葉になるそうだが、500m南あるとのこと。見頃でしょうに残念。
4_20191218091501

弁財天の池が見えてきた。太田南畝の『壬戌紀行』に「左の方に小さき池あり。杜若生ひ茂れり。池の中に弁財天の宮あり」 とある池だ。小島には石祠がある。
5_20191218091601

今回も熊出没注意の看板!怖そうな熊の顔。娘がカウベルを装着。
6_20191218091701

焼坂の馬頭様(1807年)
いやはや前回もだが今回も馬頭観音だらけ。瑞浪市の中山道沿い(14㎞)には実に12基あるという。
7_20191218091901

天神前の天神辻の地蔵。
8_20191218091901

一つ屋茶屋跡(一軒の茶屋があった)を通り過ぎた先には国際犬訓練所があり、犬の吠え声がする。この建物前後辺りには養鶏所や養豚所がある。なるほどここなら人家もなく、大きな鳴き声や家畜の臭いもOK。この後何ヶ所も石灰帯が出てきた。

廻国塔は全国66ヶ国巡礼達成の祈念碑である(1777年)。こんな時代に全国66ケ所巡礼とは凄い!
9_20191218092001

今まで山の中の道のちょっとした坂を登ったり下ったりしてきたが開けた風景となる。
10_20191218092001

句が三首刻まれた琵琶峠西上り口碑から山道へ入る。
11_20191218092201  

ほどなく730mある石畳が出てくるが、この石畳はとても歩きやすい。
13_20191218092501     

珍しい小さなキノコ。
 12_20191218092601
 
ツルリンドウの実があちらこちらになっていた。
14_20191218092601

途中に八瀬沢一里塚(91里)。両塚とも現存。
15_20191218092701

少し登ると標高538mの琵琶峠に到着。美濃中山道の最高地点だそうだ。馬頭観音もあった。 
16_20191218092801
Photo_20191218092801   

琵琶峠東入口も観音様に挟まれ、出ると二つ岩と呼ばれる巨岩がある。向こうの方が烏帽子岩、手前のが母衣岩という名前。
17_20191218093001


●大湫宿(51番目)
細久手宿から5.9㎞、大井宿まで13.8㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒。和宮が宿泊した。
今日は直線距離だけでほぼ20㎞歩いたことになる。

馬頭観音をいくつか見て復元された高札場のある大湫宿に入ってきた。
18_20191218093101

観音堂に上る。
19_20191218093101
20_20191218093201
大湫宿が一望できる。
21_20191218093201

街並み。
22_20191218093301

山車庫。
23_20191218093301

神明神社の大杉は雷で縮んだが40mの高さがあり、幹の立派なこと!大湫宿に過ぎたるもの2つと言われたのは、この杉と観音様だそうだ。
24_20191218093401

この宿も屋号札があちらこちらにかかっている。
25_20191218093401

脇本陣。人が住んでいるようだ。
26_20191218093501

向かいの家は2階の窓が印象的な趣のある家だ。
28_20191218093501

問屋場跡。

29_20191218093501

 

 

 

| | コメント (26)

«角幡唯介著『極夜行』