2021年5月 8日 (土)

高水三山+馬仏山

4/13、前々日の4/11に低山2座に登っているので「大丈夫かな」と思いながら登ってきた高水三山。青梅から先の軍畑駅に降り立って、三山を縦走し、2つ先の御岳駅へ向かって下山です。
以前、山の会で行ったときは2座で終わっています。三山はつまり初めてです。
6時前の電車に乗ったら7時過ぎに到着。

途中不動堂や地蔵堂を通り過ぎると高源寺がある。
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獅子岩がそれらしく見える!
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40分も歩いてやっと登山口に到着した。高水山山頂まで400mの高低差。頑張ろう!
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この山には何合目という石柱が立っている。
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ミヤマシキミが咲いている。
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頂上近くに常福院がある。まあ、彫刻の立派なこと!
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鐘楼もある。
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ここの狛犬は超可愛い。
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地蔵堂
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高水山頂上759m。
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岩茸石山頂上793m。
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この山は見晴らしがよいので、おやつを食べる。
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惣岳山へ向かう。
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そうです。ここは以前挫折した「関東ふれあいの道」の一部でこのあと数回見ます。
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「惣岳山迂回路」という看板があったので、惣岳山へ直登しちゃおうと横着な考えを起こして伐採された急な山を行くと・・・
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なんと馬仏山の山頂(723m)に行ってしまい戻ったがお陰でもう一つの、まあ何の変哲もない山であったが登ることが出来た。
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登り口にはヒントの馬供養塔があったのでした。
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惣岳山へと向かうが全然迂回路でない。しかし最後が厳しく岩を這い、急な道を登って、到着!756m。
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山頂には青渭神社がある。
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彫刻が素晴らしい。
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おやつをまた食べ、いよいよ御岳山駅へ向かう。下る一方と喜んで下り始めると涙!また急な登り道が見え、それが何度もなのだ。
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鉄塔をいくつか通り過ぎて、やっと下山できた。
慈恩寺があって地蔵と、一石六地蔵があったのである。
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昼食場所の玉川屋に到着。1時半すぎだった。玉川屋は茅葺き屋根で目立つ。大正4年創業とのことだ。
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ここのお蕎麦はとても美味しい!蕎麦は美味しい、まずいがはっきり分かれる。
頼んだのは肉南蛮とそばビール。そばビールは初めて。少し苦め。
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青梅のマンホール発見。市の花・梅に、市の鳥・ウグイス。
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橋からの多摩川の眺め。
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約28000歩でした。心配したほどのことはなく大丈夫な登山でした。

追記:この日の縦走で駅から駅まで会った人はたった一人でした。最後の下りで。大記録!

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<最近の本に関して>

①ダンテ(1265~1321)  『神曲』1307~1321 キリスト教の死後の世界観が語られる。

②ボッカチオ(1313~1375) 『デカメロン』 1349~1351  1348年ペストの時別荘に10人の男女が逃れてその間に一人ずつ話をして過ごす。

③チョーサー(1343年頃 - 1400年 『カンタベリー物語』はボッカッチョ『デカメロン』の影響を受けた作品で、カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼者たちが語るという体裁の説話集
『新曲』と『デカメロン』は丁度パンデミックが始まった辺りに読んだので、忘れもしませんが、ヨーロッパ三大古典の『カンタベリー物語』をやっと読むことが出来ました。何とパンデミックには関係ありませんがデカメロンと同じ形式なのですね。

まあ、現在で言えば、傾向が違うので、なんていうことのない3冊ではありましたが、高校時代から読みたかったのがやっと今完結です。

お陰様で大体のヨーロッパを巡ることができて、歴史、建築、美術、絵画、地理などをとっても限りなく広がって行くはずの読書でしたが、まだ世界の歴史16巻中12巻までです。後4巻を今年中に(500頁もあって小さな字で)という呑気な構えでおります。遅くなったのは図書館の本の浮気が大きかったからです。
今挫折しかかっているのが『ユダヤの起源』と『ケルトの水脈』で購入して1年も投げ出しています。長いようで先が短くなった人生、上手く読んで満足して行かなくては。

実は街道関係の寺社や石造物についても勉強を始めたところが、なかなか複雑怪奇で頭に入らないという所が実情です。

 

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2021年5月 2日 (日)

網代弁天山と網代城山(あきるの市)

ブログ友のラッシーママさんから1昨年いただいたジャーマンアイリス(アヤメ科)がやっと咲きました。思い描いていたのと違ってきれいな紫色の濃い花で全部で7つも花をつけました。もう一株は来年か。一日に何度も見てしまう。ありがとうございました。
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今年初めて知った木の花。
近所の家で撮影させていただいた台湾ドウダンツツジ(ツツジ科)。
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この家にはナンジャモンジャの木(モクセイ科)が最近植えられて今年開花している。大きくなるのが楽しみですが。
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同じく近所の家で今年植えたマウンテン・ウィッチ・オルダー(マンサク科)。白花マンサクに似る。
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網代弁天山と網代城山(あきるの市)

4/11(日)に低山友の会有志で歩いてきました。

JR五日市線武蔵増戸駅→網代弁天山(292m)→網代城山(331m)→JR五日市線武蔵五日市駅

川を渡って網代弁天山へ。
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見えにくいですが釣り糸が長いウラシマソウ。
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ニリンソウの群落。
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この山にはアオダモの花があちこちに咲いていました。(トネリコに似ているのでどちらかはわからない)
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山ツツジもあちこちに。
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ミツバツツジ。
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弁天山頂上。
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網代城山が見えている。アップダウンが激しいこの山へ向かう。
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頂上に到着。見晴らし悪し。
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シュンラン。
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五日市の町が見えてきた。
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スミレ。
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チゴユリ。
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春の山はいろいろな花が咲き若葉が芽を吹き、心に沁みました。
約13400歩で、足腰の鍛錬に丁度良い歩きでした。

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2021年4月26日 (月)

甲州街道7 上鳥沢宿~阿弥陀海道宿(3)

●下初狩宿(20番目) 本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠12軒。中初狩宿との合宿で、問屋業務は月の内16日から晦日まで勤めた。

100.1kmの標識を見る。甲州街道は213kmなので半分まであと約6.5㎞だ。思えば東海道が514㎞だったので東海道の方が300㎞も長かったわけで良く歩いたものだと思う。

奥脇本陣跡。山本周五郎生誕之地に碑がある。『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』‎『‎さぶ』を思い出す。
山本周五郎は奥脇本陣の御堂屋敷の長屋で生まれ、その後寒場沢の土石流で長屋は流失し家族を失ったのだそうだ。
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斜め前のもう一つの脇本陣跡。
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下初狩中と刻まれた廿三夜塔と明治40年(1907)建立の常夜燈があった。
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向こうが初狩駅という位置にある宮川橋は一目富士の名所だ。富士山の頭が見えるそうだ。この日は晴れていたのに残念ながらそこだけ雲だらけ。白い富士山が見えなかった。中央線車窓(初狩駅西端)では一番近くに見える富士山という。
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国登録有形文化財の今池家(旧医院)。
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●中初狩宿(20番目) 本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠25軒。下初狩と合宿で、問屋業務は月の内朔日から15日までを勤めた。

芭蕉碑「山賊のおとがいとずる葎かな」。芭蕉は、あの八百屋お七の振袖火事(1682年)で焼け出され、初狩に住む姉を頼ってこの地に半年間暮らしたそうだ。
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小林本陣跡。勿論ここにも明治天皇御小休遺跡の碑がある。
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石仏石塔群。馬頭観音、至音塔(調べたが?)、南無阿弥陀仏名号碑、正徳元年(1711)の地蔵尊、、安永7年(1778)建立の秋葉毎夜燈。
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花桃がきれいだ。
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御舟石碑。親鸞聖人が船形の石に座って説法を行った。この石自体は明治40年の水害で流失してしまっているとのことだ。
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●白野宿(21番目) 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒。阿弥陀海道宿と黒野田宿と三宿で一宿とし、問屋業務は月の内23日からも晦日まで勤めた。

街道らしい風景。本陣跡、脇本陣跡は標識なし。
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モミジ。1年中赤い品種らしい。
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宝林寺に寄る。永正6年(1509)の開基。
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小さく地蔵が見えるがその下に一石六地蔵があった!
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境内の花桃。
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子神社。白野宿の鎮守で、境内の大杉は名木、ここから大鹿峠に向かう裏街道があった。大杉が見当たらなかった。
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鬼の立石に寄ってみる。
大月桃太郎伝説めぐりの一つで、岩殿山の赤鬼が桃太郎一行に投げつけた右手の石の杖が力余ってここに飛んできたらしい。岩殿山から一駅半ある。
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萬霊塔。いけるもの総てを供養する。
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稲村神社には一つの根から三本の幹がはえ、上で枝分かれして4本になっている大きな杉があった。
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しだれ桜がきれいだ。
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神社の前には親鸞聖人念仏供養塚がある。親鸞聖人が毒蛇になった娘を成仏させたというところ。毒蛇済度旧跡碑やいろいろな石仏も並んでいる。
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葦ヶ池碑は、毒蛇となった娘が棲みついたところという。葦草が群生し、低地であったため葦ヶ窪の地名の由来となった。
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車の通れない旧笹子橋を渡って笹一酒造に寄る。次に寄った笹子餅屋さんは売り切れ。


●阿弥陀海道宿(21番目)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒、問屋1軒。白野宿と黒野田宿の三宿で1宿とし、問屋業務は月の内16日から22日だった。

この宿には何も残っていなが、笹子隧道記念碑がある。明治29年から35年にかけて造られ、全長1656mは当時東洋一の鉄道トンネルだった。
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もう笹子駅前だった。今回は山本周五郎の出身地だったことや芭蕉が半年住んだことを知った旅でした。
16時8分の電車に乗車、高尾駅で乗り換えて地元到着は17時40分。イタリアンのお店で紅、白のワインで乾杯。ピザやマリネ等々で夕食。帰宅は19時30分頃。
約44000歩、歩きました。次回は笹子トンネルの上の笹子峠を越えるのですが、いつ行けるようになるのでしょう。木曽も恋しいです。

(完)

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2021年4月21日 (水)

甲州街道7 上鳥沢宿~阿弥陀海道宿(2)

●駒橋宿(17番目)問屋1軒、旅籠4軒と小さい宿。強瀬、岩殿への桂川の渡船場があったそうだ。次の大月宿までも1.1㎞しかない。

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厄王大権現。境内には祇園社と「平和祈願の石」が祀られる。背後は岩殿山だ。
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桃太郎の桃。厄王山奥の院の風化された桃石を模して設置したと書かれていた。新しい。
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枝垂桜も丁度満開。
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寛政5年(1793)建立の秋葉山常夜燈と、隣の丸石道祖神。丸石が乗っているのは甲州独特だそうだ。
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旅籠橿屋跡。
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寄り道した大月の総鎮守、三嶋神社。昔、境内には大槻(おおつき)と呼ばれるケヤキがあり、これが大月という地名の由来になったそうだ。
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●大月宿(18番目)本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠2軒。富士街道との追分があり富士講の人々で賑わったという。

大月駅に富士急行のラッピング電車が止まっていた。娘に寄れば、私の全く知らない『NARUTO-ナルト- 疾風伝』だそうだ。何故ここにというのもわからない。
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ここも溝口本陣跡に明治天皇御召喚所趾碑がある。
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少し先に進んで大月橋の袂に富士山道追分道標がある。文久2年(1862)建立の道標で「右甲州道中 左ふじミち」並びに津島牛頭天王社、馬頭観音、文政13年(1830)建立の常夜燈が並ぶ。
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進むと桂川の支流、笹子川が見えてきた。笹子山に源を発する。
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●下咲花宿(19番目)
上花咲宿と合宿で本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒。問屋業務は月のうち下15日を勤めた。

下花咲の一里塚跡(24里目)だ。
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天保4年(1842)建立の芭蕉句碑。「しばらくは花の上なる月夜かな」・・芭蕉の句はとても分かりやすい。
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馬頭観音等がたくさん並んでいて周りにはスミレが咲いていた。
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星野本陣跡。星野家は本陣を勤め、庄屋、問屋、名主を兼ねた旧家で大きな立派な建物だ。
建物の前に大きな「本陣」と彫られた石碑と、「明治天皇花咲御小休所」の碑がある。
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昼食は本陣の隣の藍屋で鴨南蛮そばを食べる。
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藍屋の隣の稲村神社。大同2年(807)創建の神社で、下花咲村の鎮守。永代総代は下花咲宿本陣を勤めた星野家。
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丸石道祖神があった!
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川の向こうに見えるのはNEC山梨の大月工場で中央自動車道からも良く見える。
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●上花咲宿(19番目)
下花咲宿から600m。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠13軒。上15日の問屋業務を勤めた。

花咲という地名の由来だが、昔、桜の大木があって枝葉が広がり、花が咲くと旅人が木陰に憩い、枝を折ってかざしたところから「花折」と呼び、これが地名となったという説や笹子川が桂川に合流する地で、両側に挟まれた「端の崎」にあるところからという説もあるという。

上花咲のバス停のそばに明治27年(1894)建立の廿三夜塔がある。甲州街道にも廿三夜塔が多い。
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尾曽後峠の標識。鎌倉街道口とのこと。ここにも鎌倉街道がありました。
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ちょっと寄り道して川を渡って善福寺へ。山門が立派なお寺だ。
「毒蛇になった葦ヶ窪の小俣氏の娘が親鸞聖人に済度され成仏した」というお話に関連するお寺で、毒蛇済度の名号石と毒蛇の鱗とされるものが伝えられる。見当たらなかった。
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真木橋を渡ったすぐ先にある親鸞上人太布名号碑を通り過ぎ、真木諏訪神社に寄る。真木村の産土神。
拝殿。
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本殿は文化10年(1827)再建で、見事な彫刻が施されている。八王子の藤兵衛によるもの。
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第七甲州街道踏切を渡ると、聖護院道興歌碑があった。文化3年(1806)建立の歌碑。室町時代の僧侶で関白近衛房嗣の子。最後に甲斐を巡った時の歌。
「今はとてかすみをわけてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」。下初狩宿へと入る。
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  (続く)

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2021年4月16日 (金)

甲州街道7 上鳥沢宿~阿弥陀海道宿(1)

4/7(水)今回は鳥沢駅下車(7時36分着)で10の宿を通って笹子駅に16時頃到着しました。

 上鳥沢宿~猿橋宿~駒橋宿~大月宿~下花咲宿~上花咲宿~下初狩宿~中初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿
合宿(間宿)が甲州街道にはたくさんあって、私は自分勝手に宿場の数を合宿の宿継(次)の数32次で数えています。宿数は実際には45宿で32次というわけです。
本や人に寄って数え方が随分違う甲州街道ですので。

今回の合宿は前回最後の下鳥沢宿と上鳥沢宿、下花咲・上花咲宿、下初狩・中初狩宿、白野・阿弥陀海道・黒野田宿。黒野田宿は次回の最初に寄ります。

中央本線は鳥沢駅➡猿橋駅➡大月駅➡初狩駅➡笹子駅までの間を歩いた。

●上鳥沢宿(15番目)毎月下15日の問屋業務を勤めた。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠13軒。鳥沢駅を出るとすぐ上鳥沢宿。

鳥沢駅は可愛い一軒家みたい。見える自販機は「大月桃太郎伝説」と名付けられていて、桃太郎伝説が説明されていた。
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昔むかし、おばあさんが「桂川」で洗濯をしていると、どんぶらこどんぶらこと大きな桃が「ももくら山」の麓から流れてきて、「鶴島」にて成長した桃太郎は、「岩殿山」に住む悪い鬼の退治に出かけることに。道中、腰に付けたきび団子をあげ、「犬目」でイヌを「鳥沢」でキジを、「猿橋」 でサルを家来にし、鬼を征伐したそうな。岩殿山の鬼の住処の洞窟、鬼の地で染まる子神神社の赤土、「鬼の石杖」が「石動」の地に突き刺さり現存するという。
岡山県が桃太郎伝説の地と思っていたがこちらの方が早く言われていたとか。ももくら山(百蔵山)もあるし、犬(目)と鳥(沢)と猿(橋)を家来にした地名がある。

鳥沢についてはこんな話もある。西に猿橋宿があり、東に犬目宿がある。十二支にちなんでその間は鳥(酉)で小西村を鳥沢村に改名したという(1669年)。

旅籠叶屋跡か?明治20年の建築で、甲府商人定宿世話方であった。
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井上本陣跡・・明治天皇駐地蹕碑がある。
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西ノ宮神社の社殿は朱塗りで境内に石仏石塔が祀られる。
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一石六地蔵もあった(最近気に入っている)
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道は旧道へと入ると岩殿山(634m)が見えてきた。若いころ登ったが岩が凄かったことしか覚えていない。
一番奥の右側の山がハバイマ丸(1752m)、一番左のとがった山が滝子山(1590.3m)‥登りたかった山!
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奥の山は娘に貸してもらった山村正光著『車窓の山旅 中央線から見える山』でわかった。甲州街道を歩いていると周りが山だらけで、特徴のある山の名前がわかったらどんなにか楽しいだろうと、探して買ってきたという1冊です。
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宮谷橋を渡るとき、植物の間に煉瓦作りの橋梁が見えたが、これは八ツ沢発電所第3号水路橋とのこと。第1号は猿橋のそばに併行してある。
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七面大明神のある小さな稲荷神社を通り過ぎ、国の名勝・猿橋に到着する。2度目である。

橋の北詰にある芭蕉句碑。「うき我を淋しがらせよかんこ鳥」。
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猿橋を渡る。
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南詰にもある芭蕉句碑。「枯れ枝に鵜とまりけり秋の暮」。明治天皇御召喚所碑もあった。以前来た時は橋脚の事だけに目を奪われ、街道歩きをしてから句碑なども目に留まるようになった。また猿橋が甲州街道とはこの日まで知らなかった。
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八ツ沢発電所施設の第1号水路橋。重要文化財。
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下から橋の構造を見る。猿橋は橋脚を使わず、両岸から張り出した四層のはね木で橋を支える。
日本三大奇矯の一つ(他は錦帯橋、木曽の桟)で、現在の橋は嘉永4年(1851)の図面を元に昭和59年に復元された。
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展望台からの桂川と大きな岩。
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●猿橋宿(16番目)本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠10軒。比較的大きな宿で芝居小屋などもあったそうだ。
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円行寺の参道口に明治18年建立の南無妙法蓮華経題目碑。文久2年(1862)建立の廿三夜塔、道祖神などがある。
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三嶋神社。ここ殿上村の産土神。きれいな神輿があった。
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猿橋駅を過ぎたあたりに青面金剛王庚申塔。手前は風化した馬頭観音。
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阿弥陀寺の参道口にある殿上の一里塚(23里目)で、塚木は桃だったという。いかにも山梨らしい。
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岩殿山がだいぶ近づいてきた。634mの東京スカイツリーと同じで、新潟の弥彦山や坂戸山もそうだった。その他にまだ3山もあるそうだ。
岩殿山には小山田氏が鎌倉末に山城を築き、最後の城主信茂は武田二十四将の一人で武田勝頼を裏切り信長に処刑された。
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駒橋発電所送水管。
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2週間前と違って今度は八重桜が満開だった。
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第五甲州街道の踏切を渡って駒橋宿に入る
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   (続く)

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2021年4月12日 (月)

センセーション・シーカー

稲垣和豊著『知的巨人たちの晩年』

ダーウィンはビーグル号の冒険から帰った後は死ぬまでずっと健康が優れず父親の葬儀にも参列できないほどであった。
このような悲惨な健康状態の中で『種の起源』をはじめとする膨大な著作をものにしたのもその精神力の強靭さであった。
その病気の正体が亡くなった後わかったのだが、中南米の風土病として知られていたシャーガス病であった。1909年に明らかにされたが、クルーズ・トリパノソーマという原虫の感染によるものである。あきらかにビーグル号の航海時に感染したのだ。
この人に関連してセンセーション・シーカーを知りました。

センセーション・シーカー(感覚刺激追求者)とは。
①スリルと冒険の追求。スポーツや高速ドライブといった危険をはらんだ行動によって感覚刺激を受けるのである。
②経験の追求。あまり一般的でないライフスタイルをとったり、旅行や芸術活動といった新しい経験をすることによって、感覚刺激を追求するのである。
③脱抑制。飲酒や宴会や異性交友によって社会生活における行動の抑制を取り去る。と表現が小難しいが、平たく言えば、羽目をはずしたがる、ということであろうか。
④退屈さに対する過度の反応。単調で変化のない状況を嫌がり、そのような状況に置かれると、落ち着かなるのである。

ただしこれら4つの要因な個別に現れるものではなく、相互に関連しあっており、センセーション・シーカーの性格的な特徴を4つの側面から表しているにすぎない。

脳の中で、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンと言った一種のホルモンが神経情報の伝達のために使われている。これらの物質はアミノ酸が分解して生成され、その構造の中に窒素が1つ含まれるので、モノアミンと呼ばれる。これがさらに酸化して分解するはたらきをするのが、モノアミン・オキシダーゼ=MAO(マオ)と呼ぶ。MAO活性と行動の衝動性との関係を調べたところ、MAOの低い人(ドーパミンなどの神経伝達物質のアンバランスが起こりやすい傾向の人)では83%が衝動的に行動すると答えた。活性の高い人は8%に過ぎなかった。
フンボルトやダーウィン、ウォーレスと言った人はじっとしているのが嫌いだという性格だ。
日本でこのような性格の人に、南方熊楠がいて、生前の奇行の数々は有名だ。稀代の変人と呼ばれている。

この人たちは成功したセンセーション・シーカーだが、反面、実際に危険に遭遇する機会も多く、挫折したり、破滅したり犯罪者になったり、早逝したりする可能性も少なくないのである。早逝の天才画家、古賀春江の人生がハチャメチャにうつる。

内向性、外向性という分類もある。
カントやファーブルは内向の人の代表格。時には真面目、時には偏屈と呼ばれる。

「頭は使えば使うほどよくなる」がその反対だと悪くなる。
そのためには適度な刺激を脳に与えてやらねばならぬ。そのためのにもっとも簡単で効果的な方法は歩くことである。足の裏のツボが歩くことによって継続的に刺激され、その刺激が脳に伝えられる。
また、歩くことは「生命の力の脳」といわれる脳幹を刺激し、全身の器官、別けても大脳を活発にする。
・・という記事にも接したが、歩いても頭を使ってないから私は全然歩きの効用がないわけです。

 


お隣で庭に植えたアオダモが3年目でやっと花が咲いたとのことで写真を撮らせていただきました。
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ドローンが飛んでいるのを初めて見ました。最初クマバチがぶんぶん唸っているのかと外を覗くとドローンでした。
家の前の小さな畑とその先の柿畑の上です。練習をしているのか?結構長く飛んでいました。
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2021年4月 9日 (金)

甲州街道6 関野宿~上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~下鳥沢宿(3)

野尻宿から犬目宿に向かう。

荻野の一里塚跡(20里目)の木柱を過ぎるとまた花がきれいな景色の中を進む。
今日は藤野の駅を降りて樹木の間を歩いた時からずっとウグイスの鳴き声の大射撃。ある時はすぐそばで大音声で鳴いているのに姿が見えない。(後日家の近くで遂にウグイスを見る。生涯で2度目)
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この細い坂道を登っていくが、右に見えるのが矢坪坂の古戦場跡解説板である。
武田軍の家臣・小山田勢が北条氏綱(早雲の子)の軍勢を迎え撃って敗退した場所である。
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武甕槌神社の鳥居前を通過(両部鳥居)、道は林の中へ上がっていく。
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こんなところにも庚申塔。
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この先は「座頭転がし」と呼ばれる場所。先行していた者の声を頼りに直進した盲人たちがあやまって谷底に転落してしまったという場所だ。数日前に「瞽女」について読んでいたのでとても痛ましい話として心にしみた。
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山道を降り、舗装道路に出て犬目宿に入る。
●犬目宿(14番目の宿)本陣2軒、問屋1軒、旅籠15軒。宿並は昭和45年の大火で6割が焼失してしまった。

尾張殿様定宿跡。米山家。
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尾張のお殿様が犬目宿の本陣でなく、富士山が眺められ眺望がよかったのでこちらに宿泊した。名古屋から西の殿様は東海道混雑時、調整するため甲州街道も利用した。

犬目の兵助の墓。天保四年(1833)以来凶作が続き、同七年(1836)犬目の竹七と兵助が指導し、一揆を起こす。鎮圧後竹七は捕らえられ牢死したが平助は維新後まで逃げ切ったとか。
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お墓を見て振り向くとなんと富士山の下の方が少し見えた。曇り日だったのに嬉しい!
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犬目宿の様子。
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犬目の兵助の生家跡を通り過ぎ、「明治天皇御小休所址」碑があるのが笹屋本陣跡である。
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岡部本陣跡のところで道は右折、宝勝寺に寄る。
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葛飾北斎「富嶽三十六景甲州犬目峠」や歌川広重「不二三十六景犬目峠の富士」をこのあたりから描いたというお寺である。
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可愛い阿吽の席があって、
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ここから富士山がほんの少しだけ見えた。富士山も随分近くに見えるようになったものです。
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犬目宿を出て下鳥沢宿へ向かう。

白馬に跨がった不動明王。1803年建立。
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恋塚の一里塚。南塚が残っている。21里目。
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何故か聖徳太子塔(弘化2年(1845)建立)があり、10ⅿ位の石畳を過ぎると大月市に入った。
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くまモンにトトロ。
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かかし?芸術家が住んでいるのか?
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せっかく上ったのに、もう降りる一方である。
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竹藪の中にあるお地蔵様。
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坂下橋にある素朴な石仏石塔群。
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大月のマンホールを発見。猿橋、市の花のやまゆり、市の木の八重桜、雲に浮かぶ富士山、桂川の鮎が描かれている。
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●下鳥沢宿(15番目の宿) 本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠11軒。ここの宿も明治39年の大火で焼失してしまったので何も残っていない。
 下鳥沢宿は上鳥沢宿との合宿。前半問屋業務を務めた。
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福地八幡神社(村社だった)。
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鳥沢の一里塚跡は木柱のみだった。
鳥沢駅到着は4時過ぎ。4時21分に特快東京行き乗れたので1時間後に地元駅に到着。

この日は寿司居酒屋にて夕食。
生ビール、白ワイン、しめさばユッケ、しらすのシーザーサラダ、うなぎの柳川風、とろたく巻。

約45500歩。最近ちょっと坂を上る訓練したのと涼しい季節で、あまり疲れなかった。このことを神に感謝です。もうちょっと暑くなるとバテバテになってしまう。

  (完)

自分の事を考えますと、人の歩いた道はわからず想像するだけです。自分で歩いて自己満足しているへたな街道歩き記をお読みいただいて、時には素敵なご指摘を頂き、考えもつかない感想を頂いたりして、本当に有難うございます。まだ歩き続けますので、懲りずに読み飛ばしてでも覗いていただけると嬉しいです。

 

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2021年4月 4日 (日)

甲州街道6 関野宿~上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~下鳥沢宿(2)

●鶴川宿(12番目の宿) 陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠8軒。

渡った鶴川は、甲州街道唯一の川越しの河川で川留になると賑わったそうだ。
広重は「鶴川の流れましかけ 橋を渡りて鶴川の駅 此川水増時留るという 絶景かな」と評している。 

鶴川宿碑のところに東屋があり、ここで休憩してさっき買った酒まんじゅうを食べる。餡と鮭を半分ずつ。鮭のまんじゅうは初めてだがとても美味しいのにびっくり。
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鶴川神社は旧鶴川村の鎮守。一番天辺までの階段を見たらぞっとしたが登ってみたら「駒つなぎ石」があっただけ。
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鶴川宿の風景。本陣跡も脇本陣跡もわからない。
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問屋跡の加藤家。
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真っすぐな宿場を突き当たると鶴川宿は終わる。
桜の美しい風景が続く。
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大椚一里塚跡(19里目)。
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桃など花盛り。
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元気なオキナグサ。
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寛政12年(1800)建立の立派な廿三夜塔。
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大椚宿発祥の地の木柱。大椚宿は間の宿だった。
文政2年(1819)建立の念仏供養塔と安永6年(1777)建立の秋葉山常夜燈が残っている。
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ヤドリギ。
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大椚観音堂。
中には大日如来座像と千手観音菩薩坐像。
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中央自動車道がすぐそばに見えてきた。談合坂まで1kmとある。
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さらに進むと芭蕉句碑が。「古池や かわず飛び込む 水の音」。これは3度目か。
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その隣に長峰砦跡碑がある。信玄が甲斐国の東口を北条の侵略から防衛するため築いたもの。
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●野田尻宿(13番目の宿)本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠9軒。宿並は明治19年の大火で焼失してしまった。
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宿の風景。
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宮田本陣跡は明治天皇御小休止碑が建っている。
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犬嶋神社。野田尻宿の鎮守で鳥居は金属製だそうだ。今は使われない古びた神楽殿が残っていた。
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見えてきた西光寺の見学を後回しにして、談合坂サービスエリアに一般道から入る。キノコのほうとうを頼んだが量が多くて半分しか食べられなかった。
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西光寺。臨済宗のこの辺りの総本山。地蔵の数が多い。
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本堂と庭の一部。庭もなかなか立派であった。
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住職が蛙好きだそうで境内の至る所に色々な蛙がいて、楽しい!日光街道にも蛙の多い寺があったけれども。
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(続く)

 

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2021年3月31日 (水)

甲州街道6 関野宿~上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~下鳥沢宿(1)

3/25(木)緊急事態宣言解除になっていたので、街道歩きを再開しました。まだ中山道は遠くて無理そうで、近い甲州街道へ。この日は曇りでした。
6時39分に乗り、藤野駅に7時20分着で7時半から歩き始める。この日は桜や桃が満開で特に談合坂辺りはまさに桃源郷のようでした。
この6つの宿の区間はJR中央本線の藤野・上野原・四方津・梁川・鳥沢駅の間になります。

前回の最後に撮影した緑のラブレターのそばは桜が満開。
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歩き始めるとすぐイノシシが出るという看板が。
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関野宿(10番目の宿)
 相模国の西端の宿で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒。明治から昭和の3度の火災で何も残っていない。関野本陣跡の説明板のみ。
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増珠寺。参道口に関野宿講中と刻まれた庚申塔(左 1781年)と追手風喜太郎が建立した「安昌久全信士」碑(1829年)がある。
追手風喜太郎は、大関になり、引退後も相撲界の発展に寄与したお相撲さんだそうだ。
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階段を上がっていくと本堂があり、お地蔵さんがたくさんいたが、一つの石に横並びに六地蔵が彫られているのが珍しい。
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このあたりには新しい標柱がいくつか立っていてこれは「甲州古道坂の上」。後方のウルトラマンが大きなマスクをしていた。
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こんな道を上野原宿に向かって行く。アップダウンが激しくなってきた。
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相模川が緑色だ。
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ミミガタテンナンショウ
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境沢橋が相模国と甲斐国の国境(神奈川県と山梨県の県境)で境沢橋を渡ってからUターンして上野原市に進むのだったが・・
間違えて直進して境川橋を渡ったため、桂川を見る事が出来た。山中湖から流れ出てきた桂川は反対側で相模川となる。
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諏訪関(番所)跡。武田家が設置した「甲斐二十四関」のひとつで、明治2年廃止。その後渋沢栄一の別荘になったが移転。
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慈眼寺。ここには愚痴聞地蔵尊がある。大きな耳に手を当てて一所懸命聞いてくださっている。思いっきり愚痴る。
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続いてのお寺は船守寺。船守り弥三郎の碑がある。
この地の出身である弥三郎は伊東で漁師になり、日蓮聖人を「まな板岩の流罪」から救い出した。1955年、伊東市蓮慶寺から弥三郎の遺骨を分骨し、ここに祀った。
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諏訪神社。「稲妻に悟らぬ人のとふとさよ」と、甲州街道にも芭蕉句碑があるのでした。
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旧甲州街道碑。
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ここで上野原のマンホール発見。桂川の鮎と市の木である山もみじがデザインされている。鮎釣りが盛んのようだ。
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疱瘡神社到着。
万治4年(1661)創建。水疱瘡や皮膚病に御利益のある神社だ。他の街道でも見かけた疱瘡神社。
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神社の裏手には塚場の一里塚が。今はないが塚木はモミの木だったそうで、江戸から18里目。
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●上野原宿(11番目の宿) 本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、旅籠20軒。ここも明治と昭和の大火で宿並は焼失してしまった。
四方崖高く、この崖の上の曠野であるところから「上の原」の地名になった。
上野原の名物は酒まんじゅうとのことで、高嶋屋酒饅頭店にておやつとおみやげに買い求めた。
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上野原宿本陣は門のみ残る。明治天皇の行在所となった。
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山でのイメージのウグイスカグラが通り道にたくさんの花をつけて咲いていた。
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文政10年(1827)建立の六十六部達成の記念碑、大乗妙典廻国供養塔。法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。 室町時代に始まるという。 (仏像を入れた厨子を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者のことも言う)。
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木食白道上人加持水井碑。文政10年(1827)建立の井戸跡碑である。原集落に井戸がなく、不自由だったのを上人が加持を行い井戸を掘り当てた。
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鶴川宿へ向かう。
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鶴川を鶴川橋で渡ると向こうは鶴川宿である。
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(続く)

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2021年3月28日 (日)

吉田智彦著『信念』東浦奈良男~一万日連続登山への挑戦

近所に咲いていたタイワンドウダンツツジ。普通のドウダンツツジとちょっと花の形が違うような気がします。葉も大きい。
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リキュウバイ。国立劇場で見て以来です。
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吉田智彦著『信念』東浦奈良男~一万日連続登山への挑戦

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東浦奈良男さん、知りませんでした。
1925年1月9日生まれで86歳で2011年12月6日に亡くなった方です。伊勢在住だった方。

1984年に60歳を前にして定年退職をし、翌日10月26日からずっと毎日欠かさず2011年6月25日まで9738日間、山に登り続けました。
退職以前に登った山の数は2194回で通算11932回です。生涯で富士山に登った回数は368回。最後は2008年の83歳です。
若き頃は休みの度にアルプスなど登り、子供を小さいときから登山させ(辛かったけれども子供たちは後に体が丈夫で辛抱強くなったと感謝)ていたが、奥さんはどこにも行かず、工場で働いていたので自分ばかりお金を使って登山は申し訳ないとやめたとか。お酒も煙草もたしなまず定年まで一心に働いた。その翌日からずっと欠かさず9738日登山を続けた・・その信念・・いかなる理由でと著者は時に一緒に登り、続けていた登山日記を借りることが出来、探ろうとする。山が好き、富士山が好きが答えか?
富士山登山は、近くの登山を終えて夜行に乗り、富士山登山後帰宅、翌日また近くの山に登る。一日も休まないわけ。
夏になると富士山に登る体力作りのための登山でもあったわけですが、何故一日も休まず登れたのか。病気などしなかったのか?
これが何回かピンチがあったのです。奥さんは80歳近くから具合が悪くなってしまって入院。近くに住む二人の娘さんと名古屋の息子さんが力を貸すのです。

70歳ころ風邪をこじらせて倒れて救急車を呼んでも頑として乗らず、結局3人の子供が山への送り迎えをして、自然治癒力に頼って治る。その後、いつも山道を切り開きながらなので、大きな石を脚に落とし怪我をするが、1ヶ月で治す。次は2000年5月交通事故。大の医者嫌いでこれも自然治癒力で治し、8月の富士山登山を果たす。
2009年84歳の時には自転車に乗っていて、車の風圧で倒れ、救急車で運ばれ、切れた頭を縫って帰宅。翌日からも娘たちの車の送迎でまだ登り続けるのです。

また驚くのが一日2食(最後の方は一日1食)で登山でもお昼を食べず、お水も持って行かない。山に水があるときはそれを飲んでいた。
医者嫌いはかなりのもので、奥さんが水頭症で、子供たちは入院させたいのに、山に登りながら自分で世話し、ヘルパーを頼んだりしていたのが子供たちが、父親が山に行っている間に入院させたという。その奥さんはどんな時も「山に行っておいで」と送り出したという。奥さんへの愛は深い。登る目的の一つになっているようだ。

登れなくなってから救急車で病院に入れるまでの子供たちの苦労は大変なものだった。意識朦朧の状態で拒否が出来なくなるまで頑として医療を拒む奈良男さん。
本の写真を見てまた驚く。すべて廃品利用の山スタイル、大好きな読書の本の数、仙人のような自炊生活。眼鏡が・・フレームと全く合わないサイズのレンズをテープで留めて使っている。ケチなのではなく結構お金に執着がない人だったようです。父親を挟んだ娘さんたちの顔の表情が素晴らしい!

 

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