2018年6月18日 (月)

国史跡・八王子城跡

先日、北条氏が造った城として小田原城と山中城を見てきました。残る北条氏の八王子城と鉢形城、合わせて4城とも日本100名城に入っています。
その八王子城跡に行ってきました。これで100名城の32の城・城跡を見たことになります。100名城めぐりをしているわけでなく偶然です。一方日本の滝100選はたった12滝にとどまります。

北条5代 早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直 
   
三代氏康の三男で、四代氏政の弟である氏照が建てた山城。ちなみに鉢形城城主が氏照の弟・氏邦だ。
氏照は八王子城の少し東北にある滝山城(以前訪れたが堀も深く土塁も高く広大で立派ですが、平面的な広がり大きく、各廓の高低差が少なく籠城に向かない)の城主・大石定久の養子となり大石源三を名乗ったが、北条氏照に改名。
1582年頃(織田信長没)から八王子城の築城を始める。江戸時代の城は、平地に造られ、立派な天守閣があるが、戦国時代の城は山の地形を生かして築かれ、天守閣もなかった。
1586年頃、ここに移り1590年、氏照は兄と共に秀吉の小田原城攻めで小田原城にいた。八王子城は秀吉軍の中の前田利家・上杉景勝軍に攻め込まれ、一日で落城した。
一方の山中城は秀吉軍の豊臣秀次軍により半日で落城したのでした。

                              八角形の屋根のガイダンス施設の中

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4_450x355_3マンホール蓋3種、3兄弟の順に、城を守る方向に設置している。
①小田原市:小田原城主・北条氏政「酒匂川」
②八王子市:八王子城主・北条氏照「車人形」 
③寄居町:北条氏邦「キジ、カタクリ、ヤマザクラ」 ③しか見つからなかった。


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御主殿の滝 落城時に御主殿にいた北条方の武将や婦女子らが、滝の上で自刃して次々に身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったという。
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曳橋 当時、城山川に簡単な木橋をかけ、その橋を壊すことで敵の侵入を防いだ。
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石垣 虎口 
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                        石垣 城山山中から産出する砂岩で出来ている
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                                               御主殿跡 
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御主殿庭園跡 池も配されていたという
この御主殿からは接合したら2436点の個体になった遺物が見つかった。お茶をひくための茶うすや中国製の皿、そしてベネチアで生産されたレースガラス器があった。日本国内での出土は八王子城のみという。
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本丸と頂上目指して登山開始  アザミやユキノシタが咲いていた
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                      九合目
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       少し先からの展望 スカイツリーや西武ドームなども見えた
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                      頂上
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        八王子神社 城の守護神「八王子権現」が祀られている
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八王子城本丸跡 標高460m 本丸が頂上と書かれた石標より高い所にあった?
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       八王子城跡入口手前に北条氏照及び家臣墓がある
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                  グミの実が美味しそう
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戦国武将の生活の意外な一面を見た八王子城でした。

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2018年6月14日 (木)

東海道五十三次歩き24 美合~岡崎宿~新安城(後編)

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●岡崎宿の続き

・いよいよ岡崎公園の中の岡崎城へ27_450x300
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                                    龍神神社の前のご神馬
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  天守閣(昭和34年復興)  手前右は亀の台座の上に家康公の遺訓碑が。
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家康は1542年にここで生まれ6歳で織田信秀の人質、8歳で今川義元の人質に、19歳の時の桶狭間の戦いにて義元戦死でここに戻る(1560)。10年後1570年に嫡男信康を城主とし、自分は浜松へ。秀吉によって家康が関東に移されると、二十七曲を造った秀吉の家臣・田中吉政が城主。江戸時代になってからは岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏と家格の高い譜代大名が城主となったと説明されていた。他、武具や城下町の産業(鋳物・刀鍛冶、石工道具、三河花火、矢作川舟運、八丁味噌など)やジオラマが展示されていた。
                                      5階展望台からの景色
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石垣めぐりのマップに寄れば、岡崎城跡には見えないものも合わせて23種類の石垣が紹介されている。岡崎産の花崗岩が使われている。
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またまた芭蕉句碑を見、家康公の銅像、花時計、二の丸の跡の能楽堂、東照公産湯の井戸などを見学した。
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・城から八丁ある八帖町、八丁味噌発祥の地だ。「い」から始まった標柱の最後に見た「れ」は1枚板で草履も絵で描いてあった。
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カクキュー(1664年創業)とまるや(1337年創業)がある。

まずカクキューの方で「味噌煮込みうどん」の昼食をとる。白い大きな食品は「たま麩」だそうだ。八丁味噌(豆味噌)の味が少々鹹いけど、汗をかく歩きには塩分補給になった。
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                  自販機が八丁味噌色
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まるやで工場内見学
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高さ2m、重さ700㎏の木桶に約6トンの味噌が入れられ、その上に3トンの重石が円錐状に積み上げられる。一人前に積めるようになるには10年かかるそうだ。八丁味噌が欧米、オーストラリアやニュージーランドに輸出されているそうだ。
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カクキューとまるやに挟まれた旧道を進み矢作橋(東海道三大大橋)を渡る。江戸時代9回も架け替えられたとか。広重の岡崎宿の絵に描かれている橋だ。
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渡った先に蜂須賀小六と日吉丸の出合之像がある。秀吉は出世前はこんなところにいたのだ。この辺りで岡崎宿とお別れ。
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◆岡崎宿から新安城駅まで

・家康の長男信康の肖像画や遺品があるという勝蓮寺は見られないのでパス。弥五謄神社(やごとう神社)を通り過ぎ、誓願寺十王堂を覗く。この寺は浄瑠璃姫と義経にまつわる伝説があるらしい。
                    十王堂の中

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・竊樹神社(ひそこ)という字も読みも難しい神社を過ぎ、薬王寺の手前に「三河国薬王寺刀匠鍛刀造趾碑」がある。室町後期から薬王寺派の刀鍛冶集団が住んでいたそうだ。
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安城市に入って松並木が続く。松の根元にはマツバギクがずっと植えられキラキラ輝いている。
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         暑いので夕方近くならないと見られない猫、癒される。
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・東高根用水祈念碑や予科練の碑( 第一岡崎海軍航空隊跡)、一里塚跡(83番目)を過ぎた所で安城市のマンホールがあった。安城市発祥の三河万歳の扇と鼓。
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・永安寺 助郷役を宿場から命じられたとき、村の窮状を訴えて免除を願い出た庄屋・柴田助太夫は1677年に死罪になった。その恩に感謝し村の人々が彼の旧宅跡に草庵を建立、のちに寺として整えられた。その頃からある雲竜の松で推定350年。枝張りが東西17.9m、南北24.7mで、高さ1.5mの所から雲を得て昇ろうとする竜のようでこの名が付いた。何て大きな立派な松なのでしょう!
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                三十三所観音もあった
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明治川神社交差点に立つのは明治用水記念碑。矢作川から水を引き、西三河を灌漑するための用水路で、この一帯は「日本のデンマーク」と言われる農業地帯となったそうだ。

                また松並木で涼しく感じる
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・扁額が落ちてしまっている青麻神社は道端に石造物がごろごろとあるだけだが、明治初期に活躍した力士、濱碇(はまいかり)の像が目立つ。
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ここを左に曲がって新安城駅へ。豊橋からひかりに乗れる時間帯だったが、金曜日で混んでいる模様で、先に出るこだまに乗車したが2時間10分もかかって東京駅に到着。家には10時過ぎの到着になった。
お弁当もほとんど売り切れだったが、買えたのはおかずがなくてわびしい助六寿司だった。が美味しかった。
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2018年6月11日 (月)

東海道五十三次歩き24 美合~岡崎宿~新安城(前編)

5/25(金) 先の戦争の大空襲で往時の面影が殆どない岡崎宿だけれどもいろいろ力を入れている。その岡崎宿と岡崎城、八丁味噌の発祥地で営業を続けている2つの老舗の見学を中心に歩きました。暑くなり、1年ぶりのアイスクリーム日和でした。40662歩。
新幹線の殺傷事件の犯人が岡崎の人と聞いてびっくり。
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◆美合駅から岡崎宿まで

・プローディアが咲いていた。庭に咲かせておられるブログ友Sさまに教えていただきました。ありがとうございました。
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・地蔵寺 名前の通り、いろいろなお地蔵さまに会える。六地蔵、聖観音菩薩、子育地蔵尊、抱き地蔵、水をかけると心もきれいになる水掛地蔵尊などなど。それに愛知県に入ってから知って気になる、鯖大師や三面馬頭観音にも会えた。
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・河原で馬がくつろいでいる。4月に行われる家康行列のための馬だという。
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・岡崎市のまたまた別バージョンのマンホール。岡崎城と乙川の五万石船である。
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・大岡越前守忠相の西大平藩陣屋跡・・大岡忠相は将軍吉宗の口添えでこの岡崎の領地を加増され、72歳のときに1万石の大名になった。町奉行から大名になったのは大岡忠相のみである。大岡家は江戸に常駐する定府大名で、家臣の多くは江戸に住んでいて、この陣屋に詰めていたのはわずか十数人だったそうだ。廃藩置県まで7代にわたって治めた。私の故郷茅ヶ崎にも領地があって、墓所は茅ヶ崎だし、大岡祭も4月に開かれていた。
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陣屋内に大岡稲荷神社がある。大岡越前守はここの領地に近い豊川稲荷を信仰していたので、社殿を建立した。
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・ここからすぐ近くに常夜灯と地蔵堂があって、地蔵尊や三面六臂の馬頭観音が並んでいる。
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・大平一里塚(80里)向かい側に立派な一里塚が残っているが、片方のみで手前側はなくなってしまっていた。国指定の文化財だ。
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・大平松並木
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●岡崎宿(38番目の宿)藤川宿から6.7㎞。宿の長さは約4.5㎞位か、とても長い。日本橋から約335.9㎞。本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。

・いよいよ岡崎城下の入り口、冠木門と二十七曲(まがり)の説明板があった。手元の風人社の地図で曲りをなぞってみると確かに27回曲がっている。

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宿の枡形は参勤交代の大名の鉢合わせを防止するために設けられた。城下町の枡形は外敵からの防衛のためだった。岡崎は宿と城下町を兼ねるが主なる目的は外的防御のためだった。
この大改革を行ったのが、家康が関東移封後岡崎城主となった田中吉政だった。

・複雑に曲がるが、角ごとにこんな標柱が立っているので迷わず行ける、というか私は娘の後にくっついて行っただけだが。標柱の上に草履がのっているのが面白い。
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・初めての角を曲がると根石原観音堂がある。この辺りに住む90歳に近いと思われるおばあさんが観音堂のリーフレットをくださった。何でも毎日お詣りしていた御主人がピンコロで昨年亡くなったのはこの観音様のお蔭だったと。あやかりたく通りがかりの者だけどお詣りした。
家康が初陣の時祈願し軍功を上げた。本尊は行基作の観世音菩薩。
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・宿の中心の伝馬町の通りの両側に10ずつ20も街道にちなんだ石造物が並ぶ。なかなか可愛いので全部写真を撮ってしまう。お茶壺道中、朝鮮通信使、助郷、飯盛女、田中吉政、人馬継立、三度飛脚、塩座、御馳走屋敷、籠田惣門、旅篭屋、市隠亭、一里塚、往来手形、作法触れ、あわ雪茶屋、矢作橋、二十七曲、駒牽朱印、本陣・脇本陣。
この説明を読んでいると、当時の宿場での特に大名や偉い人に対しての接待がいかに大変かがよくわかった。

お茶壺道中・・宇治茶を幕府に献上するお茶奉行をもてなすための負担が大きく各宿場から恐れられていたとか。
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                      朝鮮通信使
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          御馳走屋敷 岡崎藩の迎賓館的役割を持った屋敷
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          籠田惣門 東海道から城郭内に入る門の一つ
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作法触れ 行列が来ると町奉行から、前日から下肥をまくなとか、手桶・帚・提灯を出しておくこと、通行に際しては土下座をすることなど指示され御馳走触れも出され、出迎え支度が大変だった。
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・岡崎信用金庫資料館(日本や世界の貨幣の歴史や展示があるそうだ) 最初は岡崎銀行本店だった。国の有形文化財。
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・東総門跡
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・又曲がって田中吉政像(二十七曲を造った岡崎城主)
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・また何度か曲がって大林寺へ 
戦国時代の松平氏の岡崎城の守りの拠点となった寺
家康の祖父・松平清康と夫人春姫の墓、家康の父・広忠の墓がある。
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・向かいには唐弓弦(とうゆみづる)という看板のかかった家があった。かつての岡崎は三河木綿の特産地だった。唐弓弦とは江戸時代に使用されていた綿をうつ道具でこれを扱っていた店だ。
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・曲がった所に白山神社があって、唐弓弦と取引があった大阪の問屋が奉納した石灯籠が残る。
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2018年6月 7日 (木)

本&神代植物公園温室

最近の読書から

『ウニはすごい ばったもすごい』本川達雄著

『ざんねんないきもの事典』と続編を読んで、この本はウニやばったの面白いことや凄いことが一杯書いてあるのではと飛びついたでしたが・・・。
何気に見ている水族館(海や川)の生物たちから進化した生物、大半が水生物に費やされているが、最後のほんの少し、脊椎動物にきてちょっとわかり、あとは非常に難しく80%は理解できないというお粗末さでありました。
ただ次のことは初めて知ったことです。軟体動物の螺旋に接したら、きっと美しいなあと見入ることになるでしょう。
対数螺旋はデカルト螺旋ともいい、軟体動物の螺旋が巻きながら、巻いている間隔が広がって行くこと。その広がり方が一巻きごとの間隔が、前の巻の増加分に定数をかけたものになっている。つまり、巻の間隔が一定の比率で増加している。
一方蚊取り線香では巻の間隔は増加せず一定で、このような螺旋はアルキメデスの螺旋という。

『誰も知らなかったインドの秘密』パヴァン・K・ヴァルマ著 ますますわからなくなったインド人の思考やパワー。混沌のインドとはよく言ったものだ。

『職人を泣かせて建てた300年住める家』荻原博子著 あの経済に詳しい評論家の荻原さん、そこまでやるかという粘っこさに、もうたまげたというのが実感。

『漁師の肉は腐らない』小泉武夫著 実話の小説か。マタギのような生活のその知恵の面白さよ。


神代植物公園の温室は新装なってから混んでいたりして入っていなかったが4月末に深大寺に行ったときに初めて寄りました。季節がかなり戻ります。
新宿御苑や東京都薬用植物園とはまた一味違っていて好きになりました。たくさん展示されていた中からほんのちょっと。この他いろいろなランやベコニアやスイレンなどのコーナーもあります。
                ピンポンノキ(アオギリ科)
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                火の鳥(日本で作出された)
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                ナンヨウザクラ(トウダイグサ科)
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アリストロキア・サルバドレンシス(ウマノスズクサ科)映画スターウォーズの「ダース・ベーダー」に似た花
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                  ヒスイカズラ(マメ科)
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                 ミッキーマウスの木(オクナ科)
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                 モンキーオーキッド(ラン)
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面白いサボテン

キソウテンガイ ナミビアからアンゴラの砂漠に。葉が2枚で途中で裂けたりし、長さ2m以上、幅1m以上になることもある。雌雄異株。
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                   碧瑠璃鸞鳳玉綴化
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                     恩塚鸞鳳玉
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                      アザラシ
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                    白殊丸綴化
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外ではサクラソウ展をやっていて江戸時代の作出品が出ていました。
シャクヤクの他、バラもちらほら、そしてシャクナゲ園も満開でした。
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2018年6月 5日 (火)

東海道五十三次歩き23 国府~御油宿・赤坂宿・藤川宿~美合(後編)

◆赤坂宿藤川宿の間の続き・・本宿(間宿)

・岡崎市に入る。徳川家康が生まれた所!
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・岡崎市に入ってすぐ、本宿村の説明板があり、冠木門がある。本宿は赤坂宿と藤川宿の中間にあり、立場であり、旅人の休息場としても繁盛した。
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・岡崎市のマンホールは岡崎城と矢作橋がデザインされている
岡崎市の別バージョンのマンホール。岡崎城は同じだが桜と三河花火のデザイン。30_450x428
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・名鉄電車が数種類あって時々東海道の脇を走り抜ける。われら亀の歩みに対して早いなあ!
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・左手に大きな法蔵寺がある。常夜灯は文政11年のもの。
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これは御草紙掛松。幼少期の家康はこの寺で手習いしその紙を干したという松で、現在の松は四代目だそうだ。
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立派な鐘楼門をくぐった左には行基が植えたと言われるイヌマキと家康公お手植えのヤマザクラがあり、六角堂を見て少し上がったところに近藤勇の首塚がある。板橋で処刑され、京都で晒された首を同士が盗み、近藤が敬慕していた和尚の転任先のこのお寺に埋葬したという。体は三鷹のお寺に埋葬されている。
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家康の長女亀姫、異母兄弟忠政、三方ヶ原合戦で死んだ者たちの墓もある。
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            東照宮(江戸初期からあるそうだ)もあった
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・本宿一里塚跡(78里目)を見て進むと。長屋門が見えてきた。医師の宇津野龍碩氏邸跡である。蘭方医で当時としては画期的な種痘を施したそうだ。
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・名電山中駅を過ぎた先で跨線橋を渡ると、興円寺があり、ここでまたまた馬頭観音(これは三面六臂)に出会う。
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                    小さな不動明王も!
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・電車からも良く見える標高106mの小山に山中八幡宮がある
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三河一向一揆に破れ逃げてきた家康が隠れたという狭い洞窟(鳩ヶ窟)がある。洞窟から鳩が出てきたため、人がいるところに鳩がいるわけはないと追っ手が通りすぎ、家康は助かったという。
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●藤川宿(37番目の宿)赤坂宿から8.8㎞。宿の長さは1.4㎞位か。日本橋から約328.2㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒。
規模が小さかったので二川宿同様、加宿村が求められ山中郷の市場村を東に移転させたそうだ。

・旧道に入ると、藤沢宿の入り口の東棒鼻があった。 広重が藤川宿の絵に描いている通りに再現されていた。宿の出入り口には見附とか木戸とか棒鼻や江戸方・京方入口などといろいろな呼び方があるものだ。
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・藤川といえば、むらさき麦で有名だそうだ。むらさき麦の畑があった。300年前の芭蕉の句「ここも三河 むらさき麦のかきつばた」にも謳われたように藤川にはむらさき麦が栽培されていたが、戦後作られなくなって幻の麦となっていたのが栽培されるようになった。5月中旬から下旬にかけて紫色に実る。むらさき麦を使った鬼まんじゅうや麺類などが、後に寄った藤川駅そばの道の駅・藤沢宿で売られている。
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・格子造りの家がぽつぽつと残る。旧街道らしい雰囲気でなかなか良い。
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・明星院には見られなかったが、片目不動尊がある。 家康に放たれた矢を見知らぬ武士が身代わりとなって受け、片目をつぶしたままいなくなった。のちに明星院を訪れたところ、祀られていた不動尊がそのときの武士にそっくりで片目が潰れていたという。その後大名たちの崇敬も高く、東海道上下向の際には立ち寄り武運を祈ったという。
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・称名寺には三十三所観音菩薩があり、馬頭観音の他、十一面観音がたくさんあった。
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・公園になっている森川家本陣跡には高札場が再現され、ここにもむらさき麦が栽培されていた。
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・お隣は橘屋脇本陣跡。 門は享保4年に建てられたもので、中の建物は無人の藤川宿資料館になっている。ジオラマや宿の説明があった。
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・西棒鼻
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◆藤川宿から美合駅まで

・藤川駅の所に大きな家康の像があった
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・西棒鼻の斜め向かいに十王堂がある。ここに上に書いたむらさき麦の芭蕉句碑があってこの近辺で一番大きい句碑だそうだ。なるほど巨大だ。
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・藤川宿の一里塚跡(79里目)を過ぎ、吉良道を過ぎると藤川の松並木が現れる。1㎞の間に90本。
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・この日最後に阿弥陀寺で、しつっこいようだがまた三面馬頭観音を写して大満足。
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・美合駅に到着し豊橋に戻り、駅弁「吉田伝説」を買って、前回同様ひかりに乗って、家に9時半頃到着いたしました。
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2018年6月 2日 (土)

東海道五十三次歩き23 国府~御油宿・赤坂宿・藤川宿~美合(前編)

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5/17に豊橋まで新幹線、それから前回乗車駅の国府で降りるともう御油宿はすぐです。そして御油宿と赤坂宿は東海道の宿駅間距離では最も短く1.7㎞しかない。その次の藤川宿までは8.8㎞で、これまた藤川駅は丁度いい電車がないので次の駅・美合まで歩きました。41623歩でした。この三宿には資料館がそれぞれあり、前後の宿、吉田と岡崎では城が資料館になっていていろいろ学べるようになっていました。資料館に行くたびに思う事:古文書がスラスラ読めたらどんなによかったか!以前カルチャーセンターで学んだ古文書講座は半年で挫折で、今古文書に見入っても何も読めない。
またこの区間では三面六臂または(八臂)の馬頭観音をいくつか見付けて、新たな石像を知って悦に入りました。

◆国府から御油宿までの間

・国府観音 この日は人形供養の日で、すでにたくさんの人形が運び込まれていた
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                                    西国三十三所観音菩薩像
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おびんずるさまは十六羅漢の第一の仏様で釈迦の直弟子だったのが、酒で破門され、その後修行して医者の家に生まれたので体を治す仏様になった・・・ということを初めて知る。
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・大社神社のこの長い石垣はすぐ近く田沼陣屋のものが移築されたそうだ。収賄で有名な田沼意次といえばチャンバラ劇「剣客商売」に娘とともに出てくる。この劇ではいい人。
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がましん(我が家の方は多摩信)蒲郡信用金庫のガマが可愛い
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・一里塚(76里目)を通り過ぎると、姫街道の追分がある。見付宿から浜名湖の北を回ってここに辿り着く。何時か歩いてみたいとは思っている。
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●御油宿(35番目の宿)吉田宿から10.3㎞。宿の長さも短いようだ。日本橋から約316.5㎞。本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠62軒。

・御油橋を渡った所から御油宿だ

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・高札場跡のはす向かいに、花・ベルツの実家があった。
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スモークツリー
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・問屋場跡を過ぎると御油松並木資料館がある。入口に樹齢380年の家康が最初に植えたと言われる大きな松の切株がある。中には御油宿の復元模型や広重の浮世絵版画、近世交通文書や旅装束などが展示されていた。
ちなみに御油の広重の絵は「旅人留女」で旅人を強引に宿へ引っ張りこもうとする留女の姿が描かれ、凄い力だったとか、可笑しみを誘う。「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、何のよしみに江戸通い」と当時の俗謡が飯盛り女が多かったことを物語る。
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・鈴木本陣跡の先には東林寺があり、飯盛り女や留女など遊女の墓がある。見つからなかったが。
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この辺りには軒並みにツバメの巣があり可愛い子供たちが親の帰りを首を長くして待っている
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・御油宿の東海道
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・御油の松並木は国の天然記念物で、1604年奉行の大久保長安によって植樹された。次の赤坂宿まで600mに渡って300本並んでいる。
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ここで「黒松」という松ぼっくり型最中を買って食べる
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●赤坂宿(36番目の宿)御油宿から1.7㎞。宿の長さは約1㎞。日本橋から約318.3㎞。本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠62軒。

・東見附跡を過ぎるとすぐ関川神社に「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」の芭蕉句碑が立つ。夏の夜は短くすぐ明けてしまうことを、御油・赤坂間の距離の短さとかけた句。

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・問屋場跡に再現された高札場
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・浄泉寺には広重の赤坂宿の絵に描かれるソテツがある。左側には観音菩薩像群が。
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    後ほど見た豊川市のマンホールにはこの広重の絵が描かれていた
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・よらまいかん 無料の休憩所は江戸時代をイメージしている
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・隣の音羽生涯会館には赤坂宿場資料室があって、鍵であけてもらってここも見学。名物は草鞋だったそうだ。飯盛り女の身売り証文などもある。25歳まで生きられた人は殆どいなかったという。
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西見附跡を見て赤坂宿は終わる。次は元宿を経て藤川宿へと歩く。

◆赤坂宿から藤川宿の間

・杉森八幡神社 左は樹齢1000年の根が1本の夫婦楠・・大きい!右は年1回歌舞伎の公演が行われる舞台で、公演の際には小屋がけと呼ばれる竹のドーム屋根がついた伝統的な観客席が造られるのだそうだ。

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・毘沙門天標柱や一里山庚申道などを過ぎて本日の昼食へ。豊川市だけれども豊橋市で有名なヤマサちくわの音羽インター店で「ちくわうどんのいなり付き」。関西味のうどんつゆで北九州で慣れていたので美味しく食べられる。
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・一里塚(77里)を過ぎ、名電長沢駅付近の長沢城跡(東西三河の境目にあり、中世において戦略上重要な位置にあった)も見学せず。
「長沢の三尊種子板碑」県下最古の在銘板碑は正安2年(1300年)であり、梵字の石材工芸品である。板碑なのに石材?種子?謎だらけの宿題を背負わされた石碑となった。
https://kotobank.jp/word/板碑-31140

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・田んぼ 田植えは終わっているが、まだ堰が止められていない田圃。この近くには小学生が田植えした田圃があってめちゃめちゃに植えられていたのが微笑ましかった。
覗いてみるとオタマジャクシがたくさん見えた。
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・古い格子の家も多い
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・観音堂跡の三面の馬頭観音!
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2018年5月29日 (火)

三陸応援企画の「絆」で結ぶ三陸海岸絶景の旅(後編)

<2日目>午後から

宮古市の浄土ヶ浜 
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宮沢賢治の歌碑「うるはしの 海のビロード昆布らは 寂光のはまに敷かれひかりぬ」1917年(大正6年)7月賢治21歳
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40分間乗った浄土ヶ浜周遊の遊覧船から
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宮古市田老で語り部から当時の様子などを、残された津波遺構の「たろう観光ホテル」で聞く。このホテルの社長が襲ってくる津波を6階から撮影しながら、ここから人々に早く逃げるように叫んでいたという。そのビデオを見せていただく。ホテルは2階までは鉄骨だけになっている。田老はマグネチュード9.0、最大波高16m、死者行方不明者181人(うち行方不明41人)、罹災戸数1691戸、漁船流出855隻。
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                  昭和の防潮堤
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田老の三王岩
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           2日目の夕食 このホテルはバイキングでした
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                     3日目の朝食
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<3日目>晴

三陸鉄道・南リアス線の吉浜駅から恋し浜駅まで乗る
                 吉浜駅と途中の景色
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             恋し浜駅の自販機とポストはピンク
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大船渡市末崎半島の東南端6㎞を碁石海岸という。(天然記念物指定)三陸ジオパークのジオサイトとなっている。
穴通磯(あなとおしいそ)は3つの洞門を持つ奇岩で小型観光船で穴をくぐることが出来るそうだ
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左の雷岩と乱曝谷 雷にも似た音がするので「残したい日本の音風景百選」に選ばれている
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          中央左が女島・男島、右下が海馬島(とどしま)
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陸前高田市の奇跡の一本松
350年以上の松、7万本もあった松のうちたった1本だけ残ったが、それもついに枯死し、幹の部分を貼り付けて残し、葉はレプリカで1億円以上かかったそうだ。
何故これだけが残ったかは28mもあって上の方の枝があり引っかかって流されなかったことと、写真でも見える後ろの建物があったお蔭だそうだ。こうした形で残すことにいろいろな意見もあったようですが、残ったたった7万分の1本の奇跡の象徴として多くの人々の記憶の中に刻み込まれることでしょう。また残った松ぼっくりから新しい苗も育っているそうです。
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                    残った松の根
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この山を削り取ってかさ上げした
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今回はたくさん買った土産であるが、面白いネーミングのお菓子は我が家用。「ぶすのこぶ」、やはり餡菓子です。すぐ口に入ってしまって、包み紙も見ないでなくなり、どこで買った銘菓かわからなくなってしまった ( ̄▽ ̄;)!!ガーン
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2018年5月27日 (日)

三陸応援企画の「絆」で結ぶ三陸海岸絶景の旅(前編)

初めて三陸海岸(岩手県のみ)に2泊3日でツアーで,久慈から陸前高田、大船渡まで行ってきました。リアス式海岸の絶景と震災から7年の傷跡と復興状態の説明を受けながら見てきました。当時の惨状は殆ど消えていて、海岸線は巨大な防波堤が続き、今まだ造り続けけられています。山を削って土地のかさ上げが終わった所へ移転し、もう仮設住宅には殆ど住んでいないそうです。
義捐金を赤十字を通じて出しただけで、現地へのボランティアにも行かず、どちらかというと福島のプラス原発事故の方に心が向いていました。
こうした企画の旅行に4年前に参加した人が協力したとして自分の名前が刻まれていると写真に撮っていました。
兎に角原発だけでなく、津波の恐ろしさを目のあたりに見せてくれた東日本大震災と同じような地震が東京にも近いうちに来るというし、南海トラフ地震も、そして富士山大爆発の事も伝えられて、日本の人口の多くが密集していることを考えても災害の大きさは計り知れない。人口が多すぎて助けてもらえない可能性が大です。
いろいろな戦争を体験した人たちはもう多くが亡くなったか、体が弱ったりで、その知恵さえも聞くことが出来ません。対処すべき手段も乏しく、今の準備では数日も持ちこたえられない。結構、この点に関してだけ能天気で自分が生きている間は起らないのではと高を括っているところがあります。いろいろ考えさせられ反省させられもしました。
東北太平洋側沿岸の人々はよく頑張った。福島の人は帰還解除になっても町や村が死んでしまって、お気の毒という言葉しか出ません。
行っているときに市場の中のホタテコーナーは貝毒発生で発売中止。ホタテの養殖がせっかく軌道に乗ったのにまたまた生活の手段を奪われて。

<1日目>快晴

             盛岡駅に着くと岩手山が出迎えてくれる

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             琥珀で有名な久慈に向かっている
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               久慈の秋祭りの山車は素晴らしい
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3つの店で買い物をし、あまちゃんハウスを見学し、この日の観光が始まったのは、久慈駅から普代駅まで三陸鉄道北アリス線に乗り込んだ午後3時過ぎです。
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車内では海女ガイドの案内で色々な説明受けつつ40分があっという間に過ぎました。
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                     車窓からの景色
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             漁港(サッパ船でしょうか)も復活しています
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景勝地の北山崎
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一番遠くに薄く見えるのが、本州最東端の魹ヶ崎(とどがさき)。やませが来はじめたようだ。9_450x300
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                 番屋が新しくなっていた
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番屋の上の方の津波到達点 いろいろな所で聞くと津波の高さは10数mから30数mと幅があったのです。あの恐ろしい津波の映像が何時も目に浮かびますが、こんなところまで水が襲ってくるのを、実際に立ってみると身震いします。
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                       海岸
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                       夕食
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朝食 夕食もそうですがいつもの倍くらい食べているような感じです
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<2日目>快晴

宿のすぐそばの龍泉洞へ 気温15℃、洞内気温10℃ 日本三大鍾乳洞のひとつというが、つい秋芳洞と比較して感動が少なかった。
                      地底湖
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                     地蔵岩
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                  龍泉洞入り口付近
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                       昼食
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2018年5月23日 (水)

東海道五十三次歩き22 二川宿~吉田宿~国府(後編)

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●吉田宿の続き

・吉田城の跡地・豊橋公園に入り、吉田城跡へ向かう。
吉田城は1505年に築城されたが、今川、武田、徳川のあと1590年池田輝政が入封し、関ケ原の戦いの後は次々と城主が変わった。明治に廃城後は地震火事で焼失。現在は昭和29年再建の鉄櫓があり中の資料室が無料で見られ、歴史や町の紹介、浮世絵などが展示されている。
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                                  城から豊川を望む景色が美しい
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                                              石垣の残り
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            金柑丸跡に弥健神社があり、大きな神武天皇像が立っている。
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・公園を出て、国指定の重要文化財ハリストス正教会の建物を見る。大正2年の建物。
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・隣の安久美神戸神明社は鬼祭(国重要無形民俗文化財・2/10,11)で有名。赤鬼の迫力あること。宮司さんが照明を付けて見せてくれました。
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・日進院には100体の満願石仏がある。どれも欲張って成就したく、食欲増進にも気が引かれるけれども、健康と呆け封じの石仏に祈りました。
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・二川宿にもあったが、この辺りにも普通の家に手筒花火が置かれている。
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・西総門(復元されたもの)。ここで吉田宿が終わる。
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◆吉田宿から国府までの間

・芭蕉句碑を通り過ぎ、湊明明社に入ると奥には弁天神社がある。池があると美しい。

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・豊橋を渡る
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・豊川稲荷遥拝所(この日の到達点国府から4つ目の終点にあるが、行かれなかったのでここで遥拝)
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・聖眼寺の芭蕉句碑、芭蕉がここで詠んだという。ここは家康が吉田城を攻略した際、本陣を置いた寺。
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・下地一里塚(74里目)を通り過ぎると昔の家をしばしば見かける。まだ住んでいる家も多い。住むには不便でしょうが見る側にとっては風情があってなぜか懐かしい。
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・瓜郷遺跡 弥生時代中期から古墳時代前期の集落の跡だそうで、国指定史跡だ。農耕、漁労、狩猟が行われていたとう。竪穴住居が復元されている。中学生頃登呂遺跡に神奈川県から遠足に行ったことを思い出した。
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         チガヤと思われるが、今年はチガヤも早いです。
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・豊川市に入り豊川放水路を渡る。
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兎足(うたり)神社へ。ここは徐福伝説でも有名だ。
今はない「子だが橋」と兎足神社にまつわる話が伝わる。千年前、兎足人社には人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にした。ある年、ある父母が見た最初の女性が我が子であった。とても迷ったが「子だが止むを得ん」とわが子を生贄にして神に奉った。そこから「子だが橋」と名が付けられたという。
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・明光寺には、また八十八カ所巡りがあった。この間の所ではお団子が全部に供えられていた。三面の馬頭観音発見するのがこの辺りの楽しみになった。ここでも発見。
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・伊奈村立場茶屋(俗称:茶屋本陣跡)。吉田宿と御油宿の中間にあたりに立場が設けられた。このあたりの地名を茶屋という。
芭蕉の句碑と鳥巣の句碑がある。このあたりは芭蕉の句碑が多い。芭蕉ファンにとってはたまらない処でしょう。
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・迦具土神社、伊奈一里塚跡(75里目)を通り過ぎ、速須佐之男神社へ。何故か二宮金次郎の像があった。
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・ 半僧坊大権現の小社がのった石柱が珍しい。 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が開いた静岡県浜松市にある方広寺が半僧坊の本元。『厄難消除・海上等交通の安全・火災消除・諸願満足の権現様』として信仰を集めている。鎌倉建長寺の鎮守にもなっている。
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名鉄国府駅へと向かう。豊橋行きの特急が来てきて、7分間で今日一日歩いた所を通過して豊橋に到着。
豊橋には殆ど停車しないひかりに乗れそうだったので慌てて売り切れ続出の残りのお弁当を買い乗車したら座れた。稲荷弁当と娘のおかずのある弁当と分けあって食べる。
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2018年5月18日 (金)

東海道五十三次歩き22 二川宿~吉田宿~国府(前編)

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5/10(木)この日新幹線で豊橋まで行き、東海道線で一駅前の二川駅に戻りました。遠くなって国分寺5:33の電車です。
二川宿から吉田宿(豊橋)を経て、ここからは東海道線と離れ、東海道は名鉄線沿いとなるので、名鉄の駅の伊奈駅、小田渕駅、国府(こう)駅まで歩いて、国府駅から豊橋駅に戻り、たまたま殆ど豊橋には停まらない新幹線ひかりに乗れたので、東京駅には比較的早く到着。中央線が人身事故ですんなり乗れなかったのが残念でありましたが、午後に10時前には帰り着きました。48439歩。階段870段。

◆二川宿から吉田宿までの間

岩屋観音を見るために岩屋山古道の方を歩いて岩屋緑地に入り観音様と展望台に登ってから、東海道へと降りて行った。

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・小淵志ち銅像 群馬県生まれの志ちが伊勢へ向かう途中、二川に立ち寄り、ここの玉繭から製糸法に成功し、工場を創業。昭和初期には二川・豊橋はは全国生産の半数を占めたという。この方は富岡製糸場で技術を学んだのであろうか?
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・岩屋観音は730年に行基がこの地を訪れたとき、千手観音像を刻んで岩穴に安置したことに始まる。
聖観音立像は岩屋山山頂に1754年建立された。昭和19年(1944)、戦争で金属供出され、戦後昭和25年に再建された。

      鯖弘法大師像  有名な大師と鯖のお話。左手に鯖を持ったお姿。
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                     石像群
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                     岩屋観音堂
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              登って行くといろいろな石像が現れる
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              観音への道は険しく鎖を伝って登って行く
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                      岩屋観音253x450
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            向こうの山に展望台があり、この後登った。
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・展望台への階段は256段。観音様の所と同じ展望を楽しむ。
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                東海道に戻るとブラシノキが満開
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・面影のない飯村一里塚を過ぎ、しばらく行くと疝気の神様を祭る白山神社がある。
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・河原地蔵尊 一番左側の石像は三面の馬頭観音ようだ
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・寿泉寺の立派な門と三重塔
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・東三河にも立派な秋葉山常夜灯がある
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●吉田宿(34番目の宿)二川宿から6.1㎞、日本橋から約304㎞、宿の長さ約2㎞位か、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒。
 吉田が豊橋に改称したのは明治維新で吉田藩が消滅した明治2年。しかし鍛冶町、呉服町、札木町など町名がいくつか残っている。吉田宿は豊橋市のほぼ中心部にあたる。空襲でやられてここも江戸時代の遺構は殆ど残っていない。

・東総門跡(模型)が吉田宿の東の入口。江戸時代には番所があって午前6時から午後10時まで通行できた。
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・城下町特有の曲尺手(かねんて)。鉤型に左折、右折を繰り返している。
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・マンホール 公会堂、市電、市の花のツツジがデザインされている豊橋市の別バージョン。
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・札木 市電の駅 この辺りが宿の中心であった
1925年(大正14)以来走る路面電車には色々な広告がデザインされ5台くらい見たであろうか。
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・問屋場跡の道路の先には本陣跡の碑が建つ
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・きく宗 文政年間(1818~30)創業の老舗で「菜飯田楽」一筋の店。
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こんがり焼いた自家製豆腐に秘伝の味噌を塗った田楽と、茹でた大根の葉をご飯に混ぜた菜飯、お吸い物、漬物と、あとで黍団子が出てきた。味噌は豆味噌で、ここ豊橋・東三河は東西食文化の境界と言われる。鰻も関東風の「背開き」「蒸し」と関西風の「腹開き」「焼き」が共存しているそうだ。
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若松園 井上靖の『しろばんば』に出てくる和菓子屋。それは黄色いゼリーでとても高価である。バラ売り無しであきらめる。
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・手筒花火発祥の地という吉田神社(明治時代は百花園という花畑と料亭があった)に寄り、横断歩道の上から吉田大橋を見る。
  吉田大橋は広重の絵では豊川橋となっている。橋上には大名行列が描かれ、豊川東岸の吉田城には足場が組まれ普請の様子が描かれている。幕府の直轄橋で矢作橋(愛知県岡崎市)と瀬田の唐橋(滋賀県大津市)とともに東海道三大橋のひとつ。
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この後、いよいよ吉田城へ

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