2019年6月15日 (土)

津久井城山に登る

  津久井城山は戦国時代、山城でした。山頂が狭く、城主や家臣は山麓に住んだが、そこを「根小屋」と言って今も地名が残り、根小屋式山城というのだそうだ。
ここも秀吉の小田原城攻めに伴い落城したが、山中にその遺構が残っている。
築城は鎌倉時代の三浦氏の一族の津久井氏。16世紀に北条氏が整備し、城主は内藤氏だった。
それにしても秀吉の小田原攻めで、小田原を中心に北条氏関係の城が東京は八王子の方まで全部落城させられてしまった。ここの落城は1590年。
最近では、箱根から三島に抜ける山中城跡は凄かったし、河村城址、八王子城址などの山城の跡を見たが、空堀や土塁跡の数々、不便な山の上に築かれた曲輪跡などを見て、当時の様子が目に浮かぶようです。秀吉によってすべて破壊つくされた城址が栄枯盛衰を物語っています。
津久井湖は以前ずっと神奈川県に住んでいて、行こう行こうと言って一度も訪れられなかった所です。

この日の行程は橋本駅で降り、バスに乗り、「根小屋」に「北が」付いた「北根小屋」というバス停で下車。
そこからパークセンター、山頂、津久井観光センターへ下るという簡単なコース。
津久井城山は375mで標高差は242m。ワンちゃんと一緒に登れる山で桜の頃が一段と奇麗なようです。

諏訪神社
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津久井湖が見えてきた。これはダムが出来る前は相模川の流れで、敵の防御になるとともに船による運搬がなされていた。
対岸の山中には峯の薬師(武相四大薬師の一つ)があり、その奥の山が高尾山でさらに奥が八王子城になる。
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牢屋の沢 牢屋があったそうで水牢であった。
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ミズキのまだ青い実を間近に見る
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アザミ
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緑がきれい
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標識
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山頂曲輪跡
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山頂の立て札は見つからない。津久井湖が隙間から見えた。
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宝ヶ池 津久井城の水源  山城は水の確保が大変だったでしょう。ここは割合と湧き出て豊富だったようです。
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津久井観光センターに降りてきた。お花がきれいなところ。もう少し先に行くとルピナスがきれいとのことだがバスの時間もあったし、お買い物に店へ突進。キュウリなどを買って荷物を重くする。
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バス停前 道祖神からお地蔵さんまで揃っています。街道歩きで撮るのが癖になって。
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まずまずのお天気に緑と花と水と山の風景。それにかけがえのない友人たち。幸せな一日でした。

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2019年6月11日 (火)

中山道1草津~武佐(後編)

◆ 守山~鏡(間宿)
次の武佐宿まで13.8㎞と草津から武佐よりも倍以上の長い距離で鏡という間(あい)の宿があった。

稲妻型道路と言って守山宿の加宿・吉身は、街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっていたとのこと、今見られないのが残念だが、思うに歩きづらそうな感じだ。宿場の治安維持を図るための工夫だったらしく全国的にも珍しかったとのこと。

加宿の高札場跡を過ぎて野洲市に入り、野洲川を渡る。野洲川は大きな川で、朝鮮通信使などの場合を除き、橋は架けられず、徒渡しだったそうだ。三上山がきれいに見えた。
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まだまだ近江路、もうお地蔵さんだらけ。この先もたくさん見かけた。これもその一つで川を渡った先に並んでいた。個人宅にもかなり見られた。
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芭蕉句碑を撮影。「野洲川や 身は安からぬ さらしうす」・・野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす 「布晒」 を行っていて、冬に冷たい川に入って布をつくのは重労働だったという意味。風景が思い浮かぶようだ。
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野洲市のマンホールは旧野洲町から出土された銅鐸の模様。
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梅元老舗という和菓子屋でおやつとして三上山彩景という三上山の形をした蒸しパンのようなどら焼きを購入しもう少し先でいただく。
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唯心寺の屋根は茅葺きでなかなかいいものだ。このお寺を開基した唯心尼は処刑された住蓮坊を手厚く葬ったという。
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弘法大師作と伝わる背くらべ地蔵がある。当時は乳児がよく死んだため子を持つ親達が、小さい方の地蔵と子供の背丈を比べ我が子の発育を祈った。大きい方は、阿弥陀如来立像で背比べをしているわけではない。
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行事神社の鳥居にかかっている縄は勧請縄といって悪霊や疫病神が入ってこないよう縄を張って境を守る。紙垂が木の枯れ葉のようで実に面白い、珍しいしめ縄。枯れ葉が落ちていないのが不思議?何か仕掛けがあるのかな。
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この神社の横を流れる用水路は祇王井。平清盛の寵愛を受けた祇王が故郷の人々が干ばつで苦しんでいることを訴え、清盛が水路を造らせたとのことでこの名がついた・・と平家物語にあるとか。
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野洲市の2種類目のマンホールは市章と三上山、鉄橋、野洲川とアヤメ。
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こんな可愛い六地蔵もあった。
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宝樹寺には鎌倉時代の宝篋印塔がある。この寺で近江天保一揆の打ち合わせが行われたという。東海道側まで一揆は広がっていた。
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銅鐸出土地のあたりを過ぎ、国史跡大岩山古墳群の一つの桜生(さくらばさま)史跡公園の3つあるうちの甲山古墳(6世紀)・横穴式が街道沿いにある。中の石棺が大きい。
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子安地蔵堂には平安時代の地蔵があるが秘仏で見られず、天井川だった家棟(やのむね)川を無くして新家棟川を作ったのを渡る。滋賀県は天井川だらけでもあったのに感心する。渡ったところにある愛宕山常夜燈。静岡県や愛知県は火伏として秋葉常夜燈であった。
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不帰池(蛙不鳴池)。1185年、源義経が平家の大将・平宗盛とその子清宗を処刑した時、その首を洗った首洗い池と続いていて蛙が鳴かなくなったと言われた池だ。
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平家終焉の地、平宗盛・清宗胴塚
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◆鏡の宿(間宿)~武佐

竜王町に入ると、道に駅・竜王かがみの里がある。
向かいに義経元服の池とその碑があった。
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隣の鏡神社の参道には、義経が元服後参拝した折に烏帽子をかけたとされる烏帽子掛け松があった(明治6年の台風で倒れたため切断したまま残されている)。神社の本殿は室町時代のもので重文。
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間宿として、旅籠の跡や本陣跡などの案内板が続く。本陣には皇女和宮も休息した。
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源義経宿泊の館跡。このあたりは義経関係が多い。
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こんな愛宕常夜燈もあった。
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竜王町のマンホールは町の木「松」と町の花「コバノミツバツツジ」が描かれている。
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間の宿を抜けると遥かかなたまで田んぼが広がる。近江盆地の最も広い平地部で 耕地の約90%が水田で、他にメロン、ぶどうなどを栽培しているそうだ。
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「みなくち道」「是よりいせみち」の道標があってまたまた、東海道(水口)や伊勢につながっている道が出てきた。
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川縁の石造物。
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日野川を渡ると近江八幡市に入った。
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水田と麦畑の中を行く。今まさに麦秋だ。
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高札場跡の向かいに八幡社がある。
源義家が奥州遠征の途中、愛馬が熱病にかかりここで休ませたところたちまち回復したので、応神天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願して造ったとの伝承がある重文の社である。
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遠くに住蓮坊古墳が見えた。その母が自害した場所を通ったが、住連坊は安楽坊と同じく法然上人の弟子で後鳥羽上皇の溺愛する女官を、上皇の留守中に出家させたために死罪になった。安楽坊は京都で住連坊はこの地で。二人の墓があるのがこの古墳だ。
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武佐宿に入ってすぐ住友グループの育ての親・伊庭貞剛邸跡がある。公園になっていて、武佐竜胆が飾られていた。武佐で発見された竜胆のようだ。
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近江鉄道の無人駅・武佐駅に到着。
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近江八幡駅でJR琵琶湖線に乗り換え、米原で新幹線「ひかり」に乗る。名古屋を過ぎると小田原に停まるだけで21:10に東京駅到着。家には10時半頃着く。47081歩で最初から良く歩いたものです。
米原で買ったお弁当は牛肉弁当。
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2019年6月 6日 (木)

中山道1 草津~武佐(前編)

また歩くことになりました。よろしかったとき、お付き合いをくださいませ。

5/30(木) 今日から中山道69次を京都側から歩きます。マップは風人社のです。丁寧な説明と絶対に迷わない地図。
中山道は江戸から京都まで約526.3㎞なので東海道の492㎞より34.3㎞長いことになります。
しかし69番目の大津宿と68番目の草津宿は重なり、草津追分から歩くので、18.6km少なくなり、15.7km東海道より長く歩くだけで、1回分くらいの距離です。が交通が不便、山あり谷あり、ストック持参で出かける日もありそうです。人によっては90歳越えても歩いている方がいらっしゃるそうで、果たして私は挫折してしまうかは神のみぞ知るです。

いつもの6:16ののぞみに乗り京都(京都は今朝が最後、帰りは米原から)で乗り換えて草津へ。草津駅から歩き始めたのが9時10分。

◆草津~守山

いざ草津追分の道標を再び見てトンネル(旧草津川隧道)をくぐって出発!中山道はしばらく近江路を行く。
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トンネルの上は草津川跡地公園となっていて、ここから京都へ向かう東海道・中山道の草津宿が見えたが、高層ビルが両側に多く建っている宿だ。
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覚善寺の前の街道の分岐点の道標。明治時代に移転していたらしい。
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伊砂砂神社。檜皮葺の本殿は重文で高く評価されている神社。
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まだ滋賀県なので飛び出し坊やが多く、栗東市に入ってからもスヌーピーなど面白いのが続く。
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綣(へそ)という変わった名前の集落に入る。綣は巻子など糸巻きに関係するらしい。
佛眼寺地蔵堂の綿被り地蔵。大雨で河川が氾濫し、上流から流れてきた一体の地蔵尊を拾い上げ、「冷たい水に漬かって、さぞかし寒かっただろう」 と頭から綿をかぶせて祀り、綿被り地蔵の名がついたと伝わるが、綿は水を吸って地蔵を傷めるということで今はかぶっていない。
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大宝神社 大宝年間(701~4)創建の古い神社で疫病の神・牛頭天王(茅の輪くぐりの習俗はこの牛頭天王に由来する)を信仰。
8社ある境内社の中の1つ、追来神社は1283年建立で重文。
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「へそ=綣」が出てくる芭蕉句碑がある。「へそむらの 麦まだ青し 春の暮」。
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守山市に入るとマンホールが目に入る。
 ゲンジボタル、琵琶湖大橋、空から見た琵琶湖に浮かぶたくさんの矢印(えりと呼ばれる定置網の一種で、琵琶湖独特の漁法)が描かれているそうだが、1地番下の草みたいのがわからない。ドローンで湖の上の矢印が見られたら最高。
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十王寺焔魔堂。焔魔堂町の由来になったお寺。開基は小野篁で閻魔大王など十王を彫った。十王とは人が亡くなって冥府で死者を前世の善悪業因により中有(初七日から3周忌の間)裁くことにより来世の生所が定まる裁きを行う10人の王様。ダンテの『神曲』を思い出す。
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重蓮坊母公墓標石
法然、親鸞の浄土教が発展していくなかで、旧勢力から弾圧がなされた「承元の法難」に関係した重蓮坊が近江八幡で打ち首になったとの報を聞いた母が、悲しんでこの地の池に身を投じて亡くなったという。
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今宿一里塚(128番目)中山道の一里塚は草津まで129ある。滋賀県で唯一原型をとどめる一里塚。南側だけしか残らず、榎は二代目。
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本像寺 朝鮮通信使が宿泊した時、本陣として使用された寺。
ここには江戸時代の奇石収集家で「石の長者」と呼ばれた、木内石亭の墓があり、いろいろな石もあった。
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●守山宿(67番目の宿)草津宿から5.9㎞、次の武佐宿まで13.8㎞。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒。宿は400mしかない。

守山宿に土橋を渡って入る。
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「かたた屋」で昼食。かたた屋は旧旅籠の堅田屋で旅籠の面影を残している。中の雰囲気もとても良い。
昼食に注文したのは鶏ひつまぶし。鶏肉は炙り焼きで、まずはそのままで、次に薬味をつけて(柚子胡椒が美味しい)、最後に鶏がらスープをかけていただく。
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東門院 仁王門 ご本尊は十一面観音だ。重文の不動明王坐像(平安時代)は見損なったが多くの文化財を保有する。
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東門院五重塔は鎌倉時代のもので重文。左は宝塔、右は宝篋印塔。
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  本陣跡と井戸跡
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天満宮の裏に源内塚がある。平治の乱に敗れた源頼朝が東国に敗走する途中、源内兵衛真弘らが襲いかかったが、頼朝は髭切りと呼ばれる名刀で源内を一刀両断にしたという。
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うの家は、元首相の宇野宗佑氏の実家。レストランのようだった。
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すぐ先に「すぐいしべ道」の道標。ここから東海道のあの石部宿までつながっているのだ。距離的にはとても近い。分かれたばかりだから。
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続く

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2019年6月 3日 (月)

北斎『神奈川沖浪裏』のルーツの宮彫師「波の伊八」の世界へ

「北斎ゆかりの地めぐり」の3回シリーズのバスツアーがありまして
① 江戸編が生まれ育った浅草から両国(これは行けるので参加せず)
② 房総編が今回参加したもの。
③ 信州編は昨年参加して渋温泉・小布施に行ってきました。

行元寺の宮彫師・初代「波の伊八」こと、武志伊八郎信由(1751~1824)が彫った「波に宝珠」が北斎の「神奈川沖浪裏」のルーツと言われている。
そっくりです。(パンフレットより)宝珠が北斎では富士山になっています。
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しかしこの二人に面識があったという話はない。
ところが、江戸後期に活躍した堤等琳がいて、伊八に紹介されて飯縄寺の天井画「龍」を描いている。
等琳は北斎の師であった。
又、行元寺に同じく等琳の弟子で北斎と一緒に学んだ仲の五楽院等髄が杉戸絵の「土岐の鷹」を描いている。
北斎もそんな関係であったのか、房総を2度も訪れているという。
そんなことがあって「波に宝珠」を北斎が見た可能性があり「神奈川沖浪裏」に影響を与えたのではないかと言われているのだそうです。

そんな初代伊八~5代伊八の作品の一部を鴨川市郷土資料館でまず説明を受けました。
4代伊八と5代伊八は葛飾の柴又帝釈天での彫刻を請け負ったという。5代が昭和29年に亡くなって180年間の伊八は終わりを告げた。

かくして北斎に影響を与えたのではないかと言われる初代・波の伊八の彫刻を中心に房総を回りました。

●鴨川のここ生誕地の大塚台屋敷跡は今は何も残っていない
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一族の墓地と初代伊八夫妻の墓
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●鏡忍寺 日蓮宗 (鴨川市)

立派な山門をくぐると大きな槙の木がある。日蓮が浄土宗の一団に襲われた時、この槙に鬼子母神が現れて救ったという。
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祖師堂には伊八作の力士像が二体(外壁にはレプリカが飾られていた)と七福神の彫刻が欄間に彫られていた。
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●行元寺(ぎょうがんじ)天台宗 (いすみ市荻原)堂内は撮影禁止

このお寺に伊八作「波に宝珠」と北斎の仲間の等髄作「土岐の鷹」があったのです。
ご住職の不幸があったようです。
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本堂に向かう坂道には説明板がずらりと並んでいた。
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山門
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本堂
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●飯縄寺 天台宗 (いすみ市太東崎灯台下)堂内撮影禁止。伊八作品と北斎らの師・等琳の天井画の墨絵「龍」があるお寺。
808年開山。当初は満蔵寺と称していたが、鎌倉時代に戸隠の飯縄大権現を勧請し、飯縄寺と改めた。天海上人と縁が深く、江戸初期には上野寛永寺直轄寺院になった。
東叡山御直末の碑
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仁王門(市指定文化財)寺内で一番古い建物で室町様式の藁葺き屋根。
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鐘楼(市指定文化財)1846年建立。4面に花鳥風月、唐獅子の彫刻が施されている。
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本堂(県指定文化財)外側の彫刻が素晴らしい。
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この地には源義経が奥州に向かう途中に立ち寄ったそうだ。このためか、本堂の欄間に初代伊八による「天狗と牛若丸」が彫刻され、他に「波と飛竜」と等琳の「龍」が見られた。パンフレットより。
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2019年5月26日 (日)

東海道35(最終回) 大津~三条大橋


5/23(木)いつもの6時過ぎののぞみに乗り、京都から山科、そこで京阪に乗り換え前回の大谷駅に到着して9時頃から歩き始める。お天気も良く、途中富士山も見えた。京都の気温は午後30度。

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◆大津(大谷駅)~三条大橋

広重の「大津 走井茶店」の絵には店の前の井戸から勢いよく水が吹き出ている。茶店は明治初期まで続いたが、日本画家・橋本関雪の別荘となった後、月心寺になった。
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髭茶屋追分
東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点。追分で大津絵が生まれ、大津算盤も当地で日本人向けに改良され全国に広まった。
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閑栖寺には車道が再現されていた。車道は京と大津間に敷かれ、京に向かって右側で車幅は約2.7mで、人馬道より15~30㎝低くなっていた。その様子を描いた絵が飾られていた。
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井筒八ツ橋本舗で工場内を見学し、「夕子」の製造過程を見、お茶と一緒にご馳走になる。販売用お菓子だけでなく、大津絵や大津算盤、縫い針の展示説明もされている。
大津絵は寛永年間、ここ大谷・追分付近で町絵師が素朴な仏画を描いて旅人に売ったのが始まり。鳥子紙に泥絵具で描く。藤娘は良縁、鬼の念仏は子供の夜泣き止めと護符として庶民信仰と結びついて流布した。
八ツ橋や生八つ橋入りどら焼きの「三笠」を買って、三笠は午後のおやつにする。
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京都市に入ると「徳林庵」があり、京都に入る際の厄除け寺。
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京都に入ってもお地蔵様や飛び出し坊やが続く
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京都のマンホール 古都京都にちなんで「御所車」をモチーフとしたデザインで雨の時に滑り止めとしての機能もあるとのこと。
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天智天皇陵はこの奥の方にある
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街道が狭いが昔はこんなところが多かったのでしょう。
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かなり長い日ノ岡峠を越えると車石の広場に出る。
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何も残ってい居ない粟田口の刑場跡後を過ぎると広い蹴上浄水場に至り、ここはツツジの名所らしい。
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粟田神社の本殿と御神馬は立派だ。元禄時代の様式らしい。ここから平安神宮の赤い大鳥居がすぐ目の下に見えた。
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「おふく」にて昼食。京都らしい「にしんそば」を食べる。
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坂本龍馬・お龍の結婚式場跡
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三条白川橋道標は京都最古の道標
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明智光秀の塚 家来が自刃した光秀の首を切り落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたという。
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12:35 三条大橋に到着!!
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橋の欄干の柱頭には12の擬宝珠がある。川床も見え、比叡山も見えた。
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弥次喜多さんの銅像
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日本初の駅伝のスタート地点でもある。1917年(大正6)4/27午後2時スタート、上野不忍池の博覧会場に4/29午前11時34分到着。45時間30分強。23区間。約508㎞だったそうだ。
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思えば2年1ヶ月前の2017年4月20日に沼津から歩き始めて途中で日本橋に戻っては歩き、全492㎞を歩き終えました。
1回目の処は既に一度歩いて重なったので、結局日帰りで全34回、1414189歩。1回の平均は41594歩でした。寄り道が多かったので単純計算より大幅に歩数が増えました。
広重の絵と比較してもその面影は殆どないですが、たくさんの資料館で当時の様子を見て、往時の旅人のことを想像しながら只々電車などのない大変な旅を想いました。今は往復、電車やバスを使い、しかも何十日(早い人は15日だった)も続けて歩くわけでなく、当時の名物のご飯の一部やおやつを味わっただけで、飲み物は水だけでなく好きなのを飲み放題で贅沢な旅人でありました。
しかし、城、街道の建築、信仰、名勝、歴史、地理、神社仏閣、現代の鉄道などなど、もう思い出せないほど色々なことを学ぶこともできました。毎回何か楽しみや驚きがあり苦痛はなかったです。一番心に残った風景は薩埵峠の富士山でしょうか。仕事で忙しい娘が、食事処から名物の売店まで調べ、電車の切符まで買っておいてくれ、マップ片手に引率してくれたのでカメラだけ持って説明を聞き後についていくご気楽な旅であり、娘に感謝です。私の力ではとても一人で歩けませんでした。


<おまけ>
◆二条城、三十三間堂、京都タワー 街道歩きとは関係ないが、時間が余ったので3ヶ所を周りました。聞きしに勝る外国人の多さに改めて驚く。

・二条城(世界遺産)1603年に家康によって、京都の守護と上洛の際の宿泊所として建てられた。宿泊は家康、秀忠、家光、家茂(14代)、慶喜の5人のみ。御幸は1626年の後水尾天皇とその中宮・和子(秀忠の娘)。その際、狩野派の障壁画が新たに描かれたという。

東南隅櫓
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唐門(重文)、二の丸御殿(国宝)では狩野派の障壁画(レプリカ)を堪能し、後で展示収蔵館で「牡丹と梅」の原画を見る。
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二の丸庭園(特別名勝)、清流園(豪商・角倉家の屋敷跡から譲り受ける)
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・三十三間堂 中央の中尊と左右各500体、合計1001体の国宝「十一面千手千眼観世音」は全部顔が違っていて壮観。同じく国宝「雷神と風神像」、国宝「二十八部衆像」も素晴らしく玉眼で生きているようでため息が出る。高校の時以来で感動する。
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 ・京都タワー いつも外観だけだったので登ってみた。京都が大阪方面の一角だけ少し空いているが、ぐるっと山に囲まれた盆地であることがよくわかった。
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・京都駅大階段と反対側
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階段途中のカントリーハウス英國屋にてお茶
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夕食は弁当の「皐月の彩」
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お土産は京賀茂名物の「おやき」
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家には午後10時半前に到着。36266歩でした。完歩まで長いお付き合いに感謝します。次は予定通り、中山道を草津から東京に向かって進むことにします。また気が向きましたらお付き合いくださいませ。長くなって失礼しました。

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2019年5月20日 (月)

松田山登山と小仏城山登山の連チャン

●松田山(標高510m)
5/11(土)バスで小田急新松田駅から20分の田代向(たしろむかい)バス停で降りる。
その寄(やどろぎ)地区から松田山山頂を経て東名から見える、河津桜と菜の花が美しい西平畑公園を結ぶ「松田山みどりの風自然歩道」8㎞のトレッキングです。標高差は239mと低いのですが、累計標高差、上りが538m、下りが716mと上り下りが激しく大変運動になりました。
ストックを忘れたのが痛恨の極みでしたが、登山靴を履いていったのが救いでした。

中津川に架かる田代橋から向こうに見える尾根を縦走です。
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面白いオブジェのある家がある。
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はるか下に渡った橋が見えてきた。 
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ヤマフジ花盛り 
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山頂手前の展望台から雲をかぶった富士山が見えた。
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どら焼きを持ってきた人が羨ましい。
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頂上到着。低くても嬉しいものだ。 
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オオデマリとモミジのツーショット 
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最明寺史跡公園の池には鴨、。カキツバタとツツジが目に鮮やか。
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パラグライダー、気持ちよさそう!
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西平畑公園に着くとふるさと鉄道(ポッポ鉄道)が走ってきた。実物の1/6の大きさのミニ列車。全長1.1㎞。鉄橋や踏切、トンネル、スイッチバック2箇所、坂道やカーブもあるそうで、大人も凄く嬉しそうだ。
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松田駅の方を見ながら下山、ハーブ館でお茶して帰路に就く。25327歩。登山は昨年の2/28以来で1年2ヶ月半ぶりでした。
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●小仏城山(標高670.3m)
翌日5/12(日)、大丈夫かと危ぶみながら、高尾山の隣の小仏城山に登山に参加する。登山クラブがトレッキングクラブに改名して再開された(高齢化する一方のメンバーなので)。普通高尾山や景信山とセットだが、この山だけで高尾山登山のようなものでしかも混んでいなくて気持ち良く楽な山歩きでした。
高尾駅からのバスで日影で下車。帰路は小仏峠の駐車場方面に下山。そこからバスで高尾駅へ。

キンラン、コゴメウツギ、ツルニンジン、ジュウニヒトエ、アラゲカワラタケに似たキノコなどを見ながら登ると視界が開けてくる。
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頂上到着
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四等三角点 
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下山始めると相模湖が霞んで見えてきた。
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低い山ながら無事2日間の登山を終えて今回は足がつることもなく大満足でありました。16828歩。
足や腰を痛くしないで歩けるようにするため、体操をたった2,3分、遠赤外線をあてること10分と、甚だ不真面目な日常ですが、毎日欠かさないことがいいのだと言い聞かせています。

 

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2019年5月16日 (木)

東海道34 瀬田~大津宿(3)

●大津宿(53番目の宿)の続きです。<三井寺と逢坂の関蝉丸神社見学>

辻の札から寄り道して三井寺へ。

途中に琵琶湖疏水がある。
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三井寺到着。園城寺(三井寺)は天台寺門宗総本山。始まりは天智、弘文、天武天皇の勅願による。開祖は智証大師円珍和尚で母は弘法大師の姪。

立派な仁王門だこと(重文)。徳川家康より寄進される。
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釈迦堂(重文)
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近江八景「三井の晩鐘」。日本三銘鐘(あと2つは平等院・高雄神護寺)の一つ。数回来ているが覚えていたのはこれだけであった。
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金堂(本堂・国宝)は秀吉の北政所により再建された。本尊は弥勒仏(秘仏)。特別公開で内陣の大日如来や不動明王などの他、円空仏も見られた。
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閼伽井屋を見てから、霊鐘堂で弁慶の引き摺り鐘を見る(重文)。
藤原秀郷が三上山の百足退治のお礼に琵琶湖の龍神からいただいた鐘を寄進したと伝えられているが、その後弁慶が奪って比叡山に引き摺りあげたところ、イノーイノー(帰りたい)と響いたので、谷底に投げ捨ててしまった。そういえば延暦寺には力持ちの弁慶が渡り廊下をてんびん棒にして、2つのお堂をかついだという伝説から「弁慶のにない堂」というのもありましたっけ。
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弁慶の汁鍋。鐘を奪った際に置いていった大鍋というがその大きいこと。
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一切経蔵(重文)の内部の、一切経を収める回転式の八角輪蔵。
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三重の塔(重文) 家康により寄進された。
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微妙寺の十一面観音(重文・平安初期・湖国十一面観音霊場第一番札所)は見られない。
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地蔵様 
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毘沙門堂(重文)は鮮やかに彩色されている。
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西国十四番札所観音堂(県指定文化財)へと上がっていく。
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更に上の展望台に上がってみると、すっかり晴れて琵琶湖が一望できたのです。素晴らしい眺めです。三井寺から琵琶湖が望めることすら知りませんでした。
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大津そろばんの碑(大津はそろばん発祥の地)  
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東海道に戻る途中の長等神社内の馬神神社には、競争馬の名前が書かれた木札が貼ってあった。
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このあたりのお寺の多さにも驚きさすが日本一を感じる。大津宿も草津宿同様、宿場の解説板は殆どなく、ただこの本陣跡だけあった。
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この後、京阪京津線の大谷駅までの間に三つの蝉丸神社(平安時代、逢坂峠の守護神として建立され、後に蝉丸が合祀された)があり、その間に弘法大師堂や逢坂山関址の碑、大津絵販売の地碑などがある。

「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の歌で有名な蝉丸。逢坂の関に庵をむすび、往来の人を見てこの歌を詠んだという。
平安時代の歌人であった盲目で琵琶の名手だった蝉丸は、歌舞・音曲の神として、また眼病の人々の神として祀られている。能や人形浄瑠璃にも『蝉丸』がある。
逢坂の関は平安時代、山城国と近江国の国境となっていた関だったが、平安後期には形骸化され形を失ったという。
逢坂の関を詠んだ歌がもう一首、百人一首にある。清少納言「夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」

・関蝉丸神社下社 
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蝉丸型の時雨燈籠(重文)がある。鎌倉時代のもので貴重な燈籠だそうだ。
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・関蝉丸神社上社 
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弘法大師堂 
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逢坂の坂  
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逢坂山関址の碑と常夜燈があった。
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大津絵販売の地ハン六の碑。逢坂山付近の名物は、この大津絵と算盤と縫い針と走井餅だった。
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・蝉丸神社分社。
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2列になった車石。草が生えてわかりづらいが、牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が京都・大津間に敷設されていたという。
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京阪の大谷駅に到着すると、かわいらしい、コルクのオブジェがいろいろ並んでいた。
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大津絵もあった。
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この駅は日本の普通鉄道駅でもっとも傾斜のある駅であり、ベンチの脚の長さが左右で違っている!腰掛けながら反対のホームのベンチを見る。
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入ってきた京阪電車は碓氷峠並みの66.7%の勾配を下りてきたのだった。又辻の札あたりは併用軌道を走っていた。
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この日のお弁当は「京のおばんざい弁当」 お土産は生八つ橋でした。
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前回と同じのぞみに乗り帰宅は10時半頃。43800歩。いよいよ次回にゴールの三条大橋に到着予定です。

 

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2019年5月13日 (月)

東海道34 瀬田~大津宿(2)

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◆瀬田~大津宿の続き

琵琶湖に面する膳所城跡公園に寄る途中で雨が降ってきた。
 
膳所城は琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城であり、日本三大湖城の一つであった。現在の跡は陸続きとなっている。
関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌1601年東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせ膳所城は江戸城、大坂城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第1号(以前書いて繰り返しですが)である。縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎に計画させた。湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれたそうだが、今は何も残っていない。家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われる。

入口大手門(疑似再建された)の内側から 
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わずかに残った石垣
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近江大橋 向こう側の東詰で事故が起こったのですね。
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石鹿地蔵。 
織田信長が比叡山を焼き討ちにしたとき、内にあった石地蔵を全部ひきずり降ろし、坂本城の礎石にした。その後、大津城(秀吉)、膳所城(家康)の基礎としてこれらの石地蔵が使われてきた。約60体が祀られている。
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膳所神社に寄る。この門も旧膳所城の本丸大手門で重文だ。前回の篠津神社のが北大手門で、後、行かなかったけれど鞭崎神社(南大手門)も重文だ。
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縁心寺は膳所城主の菩提寺で立派な墓がずらりと並んでいる。城主は戸田氏に始まり次々と変わり本多氏で終わった。
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和田神社の鳥居の向こうの表門は膳所藩の藩校 「遵義堂(じゅんきどう)」 の門を移築したもの。膳所城は大きかったので門がそれだけ多かったのでしょう。膳所城=門とインプットされてしまった。 
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この神社の銀杏は、護送中の石田三成がつながれたと言われている。 
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石坐(いわい)神は式内社で立派だ。御祭神は天智天皇と弘文天皇。
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角に膳所城北総門跡の碑があって随分歩いたけれど、ここまで膳所城があったということだ。
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笑っているような地蔵 
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●大津宿(53番目の宿)草津宿から14.4km 日本橋から約484㎞ 宿の長さは4㎞以上もあるらしい。53次の中でトップの長さだ。 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒。1番最後の宿に来た。
大津の地名は大きな港(津)に由来し、物資を中継する重要港であった。

義仲寺に到着。雨止む。大津宿はこの先小舟入常夜燈あたりから追分まであるそうだ。
義仲寺は木曽義仲の墓所があるのが寺名の由来であり、芭蕉の墓もある。
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まずは資料館を見て、朝日堂(本堂)を覗く。義仲は朝日将軍と呼ばれたからか?本尊は聖観世音菩薩で、義仲公・義高公(鎌倉に人質として小さい頃から行っていた)父子を祀っている。
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巴塚。巴御前の供養塔。義仲亡き後鎌倉に捕らえられ、和田義盛の妻になり、義盛戦死後尼僧となり90歳で木曽で亡くなったという。 義仲の側室、山吹御前の塚もこの境内にあった。
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木曽義仲のお墓。義仲はここ粟津で戦死した。
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松尾芭蕉のお墓。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、義仲寺の無名庵に3ヶ月も滞在したこともあり、生前から義仲の隣に葬って欲しいと遺言していたという。何故義仲だったのでしょう。
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翁堂。芭蕉翁座像があり、左右の壁上には36俳人の画像が掲げられる。 
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天井は伊藤若冲の四季花卉の図。
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巴地蔵堂。巴御前を追福するため石彫地蔵尊を祀る。
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平野神社は蹴鞠の神様を祀る神社。
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滋賀県庁はなかなか風情のある建物だ。
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華階寺の山門前には俵藤太矢根地蔵月見の石がある。境内には、俵藤太(藤原秀郷)が三上山でムカデを退冶した大矢の根(鏃)で彫ったという地蔵尊が祀られているそうだが、中に入ることができない。
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街道らしい街並み  
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大津魚忠は国の登録有形文化財だ。
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あの大津事件が起きた場所に露国皇太子遭難地碑があった。
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札の辻にやってきて、大津市道路元標を見る。
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三井寺力餅本家で、力餅をいただく。元気が出ました。
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続く

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2019年5月 8日 (水)

東海道34 瀬田~大津宿(1)

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4/25(木)曇り一時雨の予報だったけれど、いつもの東京6:16発→京都8:26着で東海道線に乗り換え、8時50分過ぎに瀬田駅到着。9時5分から歩き始める。土山宿の時より2時間近くも早くなった。


◆瀬田~大津宿

大津市のマンホール・・とても賑やかな模様。施行から100年目の大津市の景観をモチーフに、市の花「エイザンスミレ」、市の木「ヤマザクラ」と市の鳥「ユリカモメ」、花火大会の花火、外輪船のミシガン、琵琶湖大橋、左下にワンちゃんと盛りだくさんです。
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野神社舊跡の碑。ここに大江千里(ちりんさん)が住んでいた。平安時代前期の歌人で三十六歌仙の一人。百人一首23番「月見れば千々に物こそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど」
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飛び出し坊やの「くまモン」は目立ちます。
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この日も地蔵様がどんどん出てきたが、これは口紅をさした地蔵様。
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西行屋敷があったというところで左折して、東海道は右折するが寄り道して近江国庁跡の遺構を見にまっすぐ進む。
8,9世紀頃建てられていたらしい。全国68ケ所に設置された役所の一つで1300年前から800年前まで存続した。暖かくなってきたので久しぶりに猫を午前中から見る。
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東海道に戻ると石屋さんのネコの像が面白い。
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建部大社(式内社)に寄り道。近江国一宮で立派だ。本殿は日本武尊を祀る。
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鎌倉時代の重文・石灯籠。
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特別天然記念物・菊花石  
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天然記念物・さざれ石 
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左右に8つの神社も鎮座する。 
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いよいよ三大名橋の瀬田の唐橋(いろいろな説があるがあと2つは錦帯橋、眼鏡橋)にやってきた。近江八景の「瀬田の夕照」で有名で古典文学に多く出てくる。
琵琶湖には約460本の河川が流入している。しかし流出は人工の琵琶湖疎水を除くとこの南端の瀬田川1本だけだ。洪水になると琵琶湖の水位が下がらずこの周辺は浸水被害に悩まされた地域だそうだ。
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下を見ると唐橋の構図の敷石が。
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唐橋の袂には橋守地蔵尊がある。撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から出現された石仏だそうだ。室町末期の作。
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その奥に龍王宮秀郷社。瀬田の唐橋を渡ろうとした藤原秀郷(俵藤太)が瀬田川の龍に三上山の大百足退治を依頼されたそうで、その秀郷公を祀る神社。
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お隣の雲住寺は秀郷公の子孫が供養のために建立したお寺で、秀郷に倒された百足の供養堂がある。百足が見える。
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橋の東詰には地蔵堂があったが、これまたカラフルなこと。
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いよいよ橋を渡って振り返る。擬宝珠が印象的。
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西側の方に橋を移動すると中之島があった。中之島より東側を大橋、西側を小橋という。
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橋を渡った左側の古い家は油屋だ。  
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唐橋前駅横の踏切を渡り右折、石山駅に到着するとデッキの上に芭蕉像があった。芭蕉は42歳で『野ざらし紀行』の旅行途中大津に滞在し、門弟が集まって湖南蕉門が形成された。以来大津が気に入った芭蕉は義仲寺に借住まいし、その後幻住庵に4ヶ月滞在した。51歳で旅先の大阪で1694年に亡くなった際は遺言で義仲寺に埋葬された。
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駅の北口に出て、今井兼平のお墓に寄り道。兼平は巴御前の兄で木曽義仲の家臣。義仲が討たれたあと、口に刀をふくんで馬から飛び降り自害したという。なんて壮絶な死に方でしょう。
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東海道へと戻るが112里目の粟津一里塚があったらしいが、何もなく、この日は次からも一里塚跡など説明板も石柱もなかった。

ほっとするお地蔵様。
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膳所城勢多口総門跡
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若宮八幡宮の再建されつつある膳所城の犬走り門を通り過ぎて篠津神社に寄る。
篠津神社の門は膳所城北大手門で重要文化財とのこと。一体膳所城にはいくつ門があったのであろうか。今まで移築されたものばかり随分見てきた。
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お昼は「つる家」というお寿司やさんに入りすし盛り合わせセット。太巻き、かっぱ、はも、鱒、いか、まぐろ、海老、とろろこんぶ。菜の花のからしあえに、お吸い物(桜の花、うど、山椒ほか)。デザートのフルーツ。とても美味しいお寿司屋さんで今までのお昼では最高級の一つである。
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続く

 

 

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2019年5月 5日 (日)

塩船観音寺のつつじと大井戸公園ぼたん園

10連休も残すところ1日とちょっと。一年中お休みだけれど、お休み気分に浸って、つつじの花見、障子貼りをしたり、美術館に行ったり、お休みだからこそじっくり難しいと言われる本をと『薔薇の名前・上』を読みました。理解できないところもあったけれども、この後下巻を借りて読んでみようと思います。
ショーン・コネリの映画を忘れているのでもう一度観たいものです。今ローマ法王庁でも問題になっているようなことが、古来修道院でもあったし、キリスト教も法王庁と教会と各修道院と様々な派に分かれ熾烈な争いになっているのは、現代とこれまた全く変わらない。しかし修道士といえどもラテン語の勉強に始まって、その奥深い宗教に関する勉学はその理論が理解できないほど難しい。そして彼らに課せられたのは瞑想だけでなく(以前見た『大いなる沈黙へ』が迫力あった)、役割分担があって衣食住に関する仕事は作ることから始まり、また写本や聖櫃作りなど身をすり減らす仕事があるのを知りました。


つつじがすり鉢型に咲いて有名な青梅市の「塩船観音寺」に行ったのは4月29日でした。河辺駅からぐるっと歩いてぼたん園に寄ったりしてまた河辺駅へ。

つつじは15年前と変わらず見事に咲いていました。本堂もどこもみな行列。ぼけ封じ薬師如来には殊の外丁寧にお祈りしてきました。
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田んぼの蓮華を見るのは久しぶり。
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藤橋城址公園 全国では3万も城があったそうで、こうした知らない城址も次々出てくるものです。
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川越街道一里塚の榎 街道も5街道くらいしか頭になかったけれども、全国には一体いくつあったのでしょう?
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大井戸公園ボタン園
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青梅新町の大井戸(東京都指定史跡)  まいまいず井戸の一つ
大井戸とは水の得にくい武蔵野台地に構築されたもので、これは最大級。東西約22m、」南北約33m、深さ7mの擂鉢部と周囲の盛り土からなる。戦国時代から江戸時代初めに造られ、古青梅街道と秩父道の交差する位置にあり道行く人馬の水供給の役割があった。
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旧吉野家住宅(1855年)(東京都指定有形文化財)
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女子会だったので、河辺駅近くで「あんみつ」で疲れを癒しました。
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5月2日に咲いていた近くの都立公園のユリノキの花
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