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2013年3月23日 (土)

食べ物あれこれ

毎日のように、テレビではどこかでお料理や食べ物の話をやっています。
地方の美味しそうな野菜や肉、海辺の魚介類には思わずその地に行ってみたい気持ちになります。

一方日本人はここまでやるかというくらいに奇想天外な料理やお菓子を考える天才といってもいいくらい。
先日の 
    いなりずしの天ぷら
    いなりずしのハンバーガー

    カップヌードルのおにぎり
    チキンラーメンのおにぎり

どんな味だか想像出来るような出来ないような、唸ってしまいました。

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かんきつ類を食べてそのままの手で、あるいは良く洗わないでリモコンを操作すると表面が溶けている可能性があるらしい。
かんきつ類の外皮にはリモネンという成分が含まれ、これがポリスチレンというスチロール系のプラスチック樹脂を溶かしてしまうから。パソコンやプリンターのプラスチック部分も御用心。

茶碗蒸しにマイタケを入れる人はいないと思いますが、入れると卵が固まらずどろどろになってしまう。マイタケの中にタンパク質分解酵素が含まれ卵のタンパク質が固まらなくなってしまう。

あらら、あの美味しいアンコウですが、生殖期のオスはメスを見つけると接近して腹部にぺったりとはりつき、次第に皮膚を癒着させ、メスと同化していく。やがては血管もメスと共有し、メスから栄養を貰って生き続けるというから驚きます。

チョコレートとガムを一緒に食べるとどうなるか?ガムが溶けはじめなくなってしまうという。それはチョコレートに含まれる油脂成分ガムペースをトロトロにしてしまうから。試してみたいけれどもガムを買ったことがない。

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      ~26日から4月2日までアメリカ東海岸へ出かけてきます~                 

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                    1週間前の近所の花

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2013年3月21日 (木)

上野の花と絵画と

例年より10日以上も早いという都心の桜は、もう満開寸前です。
絵を見に行った上野も沢山の人が鑑賞していました。

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         1本だけオオカンザクラ(大寒桜)のピンク色がきれいでしたPhoto_2
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               はずれにはヨウコウ(陽光)も満開ですPhoto_5
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仏頭だけの上野大仏は何故か合格大仏としてお参りされるらしく、新しい絵馬が吊るされています。皆さん合格したのかなあ。
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                  東叡山寛永寺の清水観音堂Photo_11
               観音堂から不忍池の弁財天が良く見えるPhoto_12   
                   西郷さんが見降ろしているPhoto_13

西洋美術館の『ラファエロ』展
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あまりにも有名な画家の自画像がいきなり最初の展示でした。女性に大変もてたというイケメンです。ちらしの一番下左から2番目の「友人のいる自画像」の後ろ側の画家は髭も生やしていてかなりふけちゃっています。

1483年にウルビーノで生れた、ルネサンスの三大巨匠ラファエロは8歳で母を失い11歳で父を失ったという。画家の父に学んだというが11歳からどのように暮らしていったのだろう。
最初フィレンツェで、次にローマのバチカンの教皇の元で1520年に37歳の若さで亡くなるまで活躍したのです。
名のある美術館でフェルメールの作品とラファエロの聖母子を探すのが好きですが、パラティーナ美術館では貸し出し中で見られなかった「大公の聖母子」がやってきました。
数ある聖母子の絵の中で背景が唯一黒という「大公の聖母」のお顔が静謐で荘厳、優しく美しく穏やかで慈愛に溢れ、とても素晴らしいと思う。トスカーナ大公のハプスブルク家のフェルディナント3世が所蔵し、公務で出向する際は勿論、私的な旅行のときでさえ、片時も手放すことはなかったというほど、この作品を賞賛していたのでこの名が付いたという。
レオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けたぼかし技法で暗い背景に浮かび上がる聖母子は本当に忘れられない1枚です。

今回は巨匠の作品は油彩・素描など20点展示され、肖像画や神話にもとずく絵画、バチカンでの大作の解説などを楽しめました。

都美術館『エル・グレコ』展
Photo_17 スペイン三大画家のエル・グレコは一度見たら忘れられない絵を描いた。
頭は小さいのに、その縦に細長くデフォルメされた胴や手足やうるうるの瞳、曲がりくねった手足、青赤黄の鮮烈な色使いや、光と陰を駆使した独特の衣装がとても印象的。
全く独創的な画家だ。1541年にクレタ島に生まれたギリシャ人でイコン画家であったが、ベネツィアやローマで活躍したのち、スペインで宮廷画家になるべく大志を抱いたが叶わずトレドで一生を終える。
彼の画風はスペインで受け入れられ人気画家であった。30代半ばから73歳で亡くなるまで居を構えたトレドだった。しかしすっかり忘れ去られ、ピカソやセザンヌによって再評価された。
いつも展覧会で学ぶのは、自分が知っている画風だけを思い描いて見に行くわけですが、当然ながら若い頃からいろいろな画風で描いて最後に到達しているその辺りの絵をこの画家の絵と決めているということだ。
展示されている初期の肖像画と聖人像は素晴らしい。肖像画「白貂の毛皮をまとう貴婦人」は美しい婦人が描かれ、グレコの作品とはとても思えない。
聖人や枢機卿の肖像も力強い。
一方画家は借金をしてまで立派な家を建て返済に追われたとか、大きな収入が見込める祭壇画や祭壇衝立を積極的に受注したり、材料費や職人の人件費を賄うために借金をしていたという意外な一面も持っていたというから面白い。

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2013年3月18日 (月)

新島襄・八重にちなんで賑わう安中宿

  中山道・安中宿は安中藩の安中城があった所。川の向こうには浅間山と妙義山が見えて景色が良い。
上杉配下の安中藩は武田に敗れ、武田が家康に破れて廃城になった。関ヶ原勝利後に佐和山に移った井伊直政の死後、家康は直政の二男を彦根城に、病弱の長男を安中藩主とし、井伊氏の別家として存続させたわけです。
その後藩主が交代するが、新島家は安中藩士だったので、新島襄は安中藩江戸屋敷で生まれ育ち、函館からアメリカに密航した。
10年後に日本に帰るが、その時は廃藩置県で江戸藩邸が解体され、安中に戻った引き揚げ藩士たち、新島襄の両親らは安中の家屋に移り住んでいたので、そこへ寄ったわけだ。たった3週間しかいなくて京都に同志社大学設立やらで行き、両親も京都に呼び寄せた。安中滞在中にはキリスト教の伝道に勤めた。
だから安中は新島家の両親の旧宅なのです。
昨日は日曜日だったのでこの旧宅は人で賑わっていました。TVの影響は凄い。

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安中藩は殖産産業として百万株の漆の苗木を植えたが、洪水や野火で失われて成功しなかったというその記念碑が家の裏手にあった。Photo_2
安中は日本マラソンの発祥の地 
安政の遠足(とおあし)の碑が城跡に立っている。遠足とはマラソンの事で安政2年(1855)に藩主の板倉勝明が、藩士の心身鍛錬のために始めたそうだ。ここから碓氷峠の熊野権現まで約29kmを走るのだが、今でも5月に実施されている。
記念碑の中央に穴があいていてゴールの碓氷峠を指している。Photo_3
熊野神社 安中城築城時の鬼門の守護神として建てられたが始まり。樹齢千年以上の欅が見もの、本殿の彫刻が秀逸だった。Photo_5
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         大泉寺には初代の病弱の井伊直勝の母と側室の墓があるPhoto_9
旧碓氷郡役所 明治11年(1878)では新島襄・八重展が開かれ資料とともにいろいろなことを知った。Photo_10
安中教会(新島襄記念会堂)大正8年(1919)に大谷石造の建物は外観がゴシック様式で、日本人が建てた最初の教会という。Photo_11
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                    旧安中藩郡奉行役宅Photo_13
龍昌寺 群馬名所百選108の鐘がある。このお寺は新島襄の函館行きに一役買った山田三川の墓がある。
108の鐘を撞くと御仏や祖先の声を聞くことができるということで、全部鳴らしてみました。Photo_14
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            便覧舎跡 日本最初の図書館の1つ。蔵造り。Photo_16
有田屋 図書館を建てた湯浅氏の有田屋は図書館の向かいにあって、八重さんが生涯に4回訪れた安中の宿泊したお宅。Photo_17
                 ほぼ満開の秋間梅林に寄りましたPhoto_18
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2013年3月15日 (金)

小豆島と鳴門(2)

                              島の北側(岡山県寄り)にあるホテルからの景色Photo
Photo_2翌日10日は最初に「二十四の瞳」の岬の分教場と映画村を訪れました。
小豆島は牛の形に似ていると言われる。左側(西)が頭で、映画村などは後ろ足の上げた右足部分にある。フェリーが到着した島で一番賑やかな草壁本町の対岸に当たる。
大石先生が怪我をして子どもたちがお見舞いに泣きながら歩いた町の方までは随分あります。
田ノ浦に分教場がありました。部屋が3つしかない可愛い分校です。私が疎開していた時の分校に外も中もそっくり。(昭和46年廃校)Photo_3 
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映画は高峰秀子が2010年に亡くなった時にTVで再度観たばかりですが懐かしいPhoto_8
岬の分教場の600m先の岬のくびれた所に二十四の瞳映画村があります。敷地の両側は海で、再映画化された「二十四の瞳」のロケセットを保存公開している。民家や分教場そっくりの校舎、ボンネットバスや古井戸などの他ミニシアター松竹座や壷井栄文学館がある。
文学館には壷井栄の生原稿や愛用品もあり、また壷井栄の作品紹介で、映画化された作品の多さに驚きました。Photo_9
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オリーブ園にて
明治42年に3か所で植えられたオリーブはこの小豆島だけに根付いて、日本一のオリーブ産地となった。
                                                     その原木Photo_12
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午後は高松港に戻り、バスの中で屋島の戦いや何故香川県はうどん県になったのかとか、世界の水族館を変えたという日プラの会社を左に見て、やがて徳島鳴門に到着し、鳴門海峡のうずしお観測船に乗りました。
鳴門と淡路島の間の鳴門海峡は約1300mしかなく、月の引力による潮の干満によって瀬戸内海側と紀伊水道側とに潮位の差が生じ、それが早い潮流となり複雑な海底の地形ともあいまって渦潮が出来るという。
渦潮はまことに小さかったのですが、一応出来つつあるのが見られました。凄く揺れるのかと思っていたらあまり揺れなかったです。
                       大鳴門橋Photo_16
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夜ホテルで、1時間15分コースのイタリアンの後、阿波踊り見物と踊り方のレクチャーを受けました。思ったより簡単ですが、短時間で上手くはなれません。Photo_21
11日はホテル並びに展望台から鳴門海峡見物です
                 
                  橋の下の白波は潮位の差2
                    鳴門ワカメの養殖Photo_22
               淡路島には風力発電が設置されているPhoto_23
淡路島の昼食には、刺身のシャブシャブや鳴門ワカメ、明石蛸のちらしずし、イカナゴの釘煮など美味しかったです。Photo_24
最後は淡路島の「あわじ花さじき」へ。
兵庫県営の無料の施設。丘陵(標高298~235m)に花が植えられ、明石海峡、大阪湾が見える。 Photo_25
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4つの旅行社やいろいろなレベル(低い方)を試していますが、今回はプレミアムというのを選んでみました。ホテルと食事は最高ですが、午後3時にホテル到着とか、朝11時出発とかでまことにのんびりしていて、もうちょっと観光して欲しいなどとアンケートに書いてしまうほどでした。これはもうやめます。


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2013年3月12日 (火)

小豆島と鳴門(1)

小豆島と鳴門、淡路島をちょっぴり回ってきました。
9日、おりたった高松空港から高松港へ、そこからフェリーで小豆島へ瀬戸内海を渡ったのですが霞んでいて、春霞みと思いきや、それだけでなくガイドさんの話では黄砂とのことでお天気は良いのに遠くの島影がありません。
この翌日東京では煙霧で凄いことになったのでしたが、東日本大震災の時に鳥取にいた時同様、鳴門に向かっていて煙霧を知ったのは夜でした。いつも大変な時にいない私です。

              高松港から屋島もぼやーっとこんな感じでしたPhoto
      電車を乗せたタンカーが船に牽かれている。一体何処へ行くのだろう。Photo_2
小豆島らしき島が見えてきた。瀬戸内海には3000も島があるそうで、重なり合っていたりする。四国も中国地方も見えるはずだが、煙っていて残念だ。
そんな島々の中で淡路島(兵庫県)が瀬戸内海で一番大きく、小豆島(香川県)は二番目の大きさ。島で頑張っている人が約31000人。「二十四の瞳」とオリーブとソーメンで有名。古代には「あずきしま」と呼ばれ、その後中世までは「しょうずしま」と呼ばれたそうだ。Photo_3
まずは日本三大渓谷美と称されるという寒霞渓から。今は紅葉でもなく新緑の芽生えもなく、花もなくこれだけはとても残念な景勝地でした。
ここの星ヶ城山817mが瀬戸内海の島で一番高いそうだ。Photo_5
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次は天使の散歩道(エンジェルロード)へ
海岸から3つの島がポンポンポンと連なっていて、潮の干満によって道が現れたり消えたりする。モン・サン・ミシェルや江の島のようです。
展望台から道がつながった第一の島と第三の島が見え、第二の島は隠れて見えない。

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           カップルのハート形の絵馬が木にもぶら下がっていたPhoto_11
                   展望台下から第一の島へPhoto_12
                     第一の島を回り込むPhoto_13
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穴をくぐると第二の島ヘの道が。着いてみると第二の島は切り立っていて回り込むことが出来なかった。第三への道を見ることが出来なくてとても残念。Photo_15
                       振り返るとPhoto_16
翌朝遠くから3つの島が離れて浮かんでいるのを見ることが出来ました。

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2013年3月 7日 (木)

映画「ライフ・オブ・パイ」

映画では、初めて眼鏡をかけて3Dを観賞です。
こちらに迫ってきて、トビウオが飛び出してきて、その立体感、臨場感が圧倒的です。
実際にそこに立って旅行している気分ながら、帰宅してからひどく疲れた感じでした。

海で転覆して漂流する話は今までたくさんあるものの、虎と一対一で227日も漂流するなんて小説でしかあり得ない。
パイが次々と工夫するそのサバイバル方法は驚くようなことばかり。タダ1人で漂流するのでなく、相手が自分の命を取るような大きなベンガルトラだからおまけの恐怖心はただならぬものがある。
しかし少年は餓えや渇きや恐怖と闘っていくうちに、虎が一緒にいるから自分も生きていけることに気づき生き抜こうとするのだ。それにしても227日はあまりにも長い。
しかし意外な結末に、私のトーンは一挙に落ちてしまったのが普通の観賞者と違う点かもしれない。
そして、いろいろな不自然さ(特に救命ボートの中、例えば虎のし尿や食いちらした様子がなくきれいすぎとか、筏や様々な道具を何処から調達したか・・船の中がいつもきれいで何もなかったから)とか、あり得ないミーアキャットの不思議な島などが気になった。
とはいえ、荒れた海と凪いだ海、トビウオやイルカの群れ、深夜の海のクラゲとクジラと美しい映像はとても神秘的だった。

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2013年3月 5日 (火)

亀戸天神社と香取神社の梅

とても寒かった冬にやっと別れを告げられ、気が付くと梅があちこちに咲き誇り、ほのかな香りを漂わせています。古人は薫風馥郁として鼻を穿つと記している。
学問の神様・菅原道真を祀り、梅と藤で有名な亀戸天神社の梅が今日は丁度満開でした。

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                     5歳の菅原道真像Photo_8
塩原太助奉納の石灯籠 太助は両国で薪炭商を営み辛苦して豪商となったPhoto_9

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亀戸天神からほど近い所に香取神社があります。江戸時代に隣接地に小村井梅園が作られ梅の名所として将軍家の御成りもあったという。

                   広重もここを描いていたPhoto_10
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ソラマチ30階、スカイツリーの目の前の席で食事 前菜の他は撮り忘れ。美味しいフレンチに夢中で。Photo_16
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2013年3月 2日 (土)

江戸時代の時刻

意味も解さずに歌っていた「お江戸日本橋」の一番は
  お江戸日本橋 七つ立ち
  初のぼり
  行列そろえて
  アレワイサノサ
  コチャ 高輪 
  夜あけて 提灯消す
  コチャエ コチャエ

とありますが、七つの刻に旅人(上方から連れてこられた奉公人が20歳まで真面目に勤めあげた時に、帰省休暇を貰って旅立つ)が数人行列をなして、江戸を発ち、高輪辺りで夜が明けたので提灯を消した、という内容でした。
「七つ」というのが何時頃か?季節によって違うが冬場なら4時~6時。
当時、日の出と日没を基準としてその間をそれぞれ六等分するから季節によって時刻が異なる。
暮れ六つ、明け六つはかろうじて知っていたのですが、九つから四つまでに分けられて三~一はないのも理由があるらしい。
「草木も眠る丑三つ時」の三つは丑の刻を4つに分けた3番目だから2時から2時半となるわけです。
今のように時計、時刻によってある時は分刻みで行動する私たちと違って、時計のない生活を送っていた人々ってどうだったのでしょう。

Photo_2この昔の時刻は「浅野内匠頭の最期」の講義で教えていただいた。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)に浅野内匠頭が殿中刃傷沙汰に及んだのは、巳の下刻(午前11時40分頃)だったが午の下刻(午後1時50分頃)には奏者番の一関藩主田村右京太夫の芝愛宕下の屋敷にお預けが決まった。
すぐ屋敷に戻った藩主は綱籠などの仕度をし、75人連れて八つ半頃(午後3時頃)には内匠頭を迎えに行った。その間屋敷での蟄居場所のトイレを作ったり、一汁五菜の食事などを用意をさせるべく手配している。
一行が屋敷に到着してから、おっつけ幕府の役人も到着して、六つ(午後6時)過ぎに切腹。
以上を「田村家御年代記」で原文で読んでいったのですが、幕府の難しい式次第に則って、田村右京太夫が短時間に事細かに配慮し用意していった過程が書かれている。
田村右京太夫が外様であったことや、この日非番だったのに残っていたことや、優秀だったことで白羽の矢が立ったようだ。
短時間でのぬかりない仕度は誰にでも出来ることでなく、かなり仕事の出来る人物だった。朝廷も幕府も仕来たりは実に大変だったのだ。

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