« レ・ミゼラブル | トップページ | 亀戸天神社と香取神社の梅 »

2013年3月 2日 (土)

江戸時代の時刻

意味も解さずに歌っていた「お江戸日本橋」の一番は
  お江戸日本橋 七つ立ち
  初のぼり
  行列そろえて
  アレワイサノサ
  コチャ 高輪 
  夜あけて 提灯消す
  コチャエ コチャエ

とありますが、七つの刻に旅人(上方から連れてこられた奉公人が20歳まで真面目に勤めあげた時に、帰省休暇を貰って旅立つ)が数人行列をなして、江戸を発ち、高輪辺りで夜が明けたので提灯を消した、という内容でした。
「七つ」というのが何時頃か?季節によって違うが冬場なら4時~6時。
当時、日の出と日没を基準としてその間をそれぞれ六等分するから季節によって時刻が異なる。
暮れ六つ、明け六つはかろうじて知っていたのですが、九つから四つまでに分けられて三~一はないのも理由があるらしい。
「草木も眠る丑三つ時」の三つは丑の刻を4つに分けた3番目だから2時から2時半となるわけです。
今のように時計、時刻によってある時は分刻みで行動する私たちと違って、時計のない生活を送っていた人々ってどうだったのでしょう。

Photo_2この昔の時刻は「浅野内匠頭の最期」の講義で教えていただいた。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)に浅野内匠頭が殿中刃傷沙汰に及んだのは、巳の下刻(午前11時40分頃)だったが午の下刻(午後1時50分頃)には奏者番の一関藩主田村右京太夫の芝愛宕下の屋敷にお預けが決まった。
すぐ屋敷に戻った藩主は綱籠などの仕度をし、75人連れて八つ半頃(午後3時頃)には内匠頭を迎えに行った。その間屋敷での蟄居場所のトイレを作ったり、一汁五菜の食事などを用意をさせるべく手配している。
一行が屋敷に到着してから、おっつけ幕府の役人も到着して、六つ(午後6時)過ぎに切腹。
以上を「田村家御年代記」で原文で読んでいったのですが、幕府の難しい式次第に則って、田村右京太夫が短時間に事細かに配慮し用意していった過程が書かれている。
田村右京太夫が外様であったことや、この日非番だったのに残っていたことや、優秀だったことで白羽の矢が立ったようだ。
短時間でのぬかりない仕度は誰にでも出来ることでなく、かなり仕事の出来る人物だった。朝廷も幕府も仕来たりは実に大変だったのだ。

|

« レ・ミゼラブル | トップページ | 亀戸天神社と香取神社の梅 »

コメント

今も有職故実に通じた能吏がけっこういますね^^。
どうでもいいようなしきたり。
田村某とはちがう前例主義です。

投稿: 佐平次 | 2013年3月 3日 (日) 08:14

★佐平次さま

今の宮内庁もそうでしょう。

橋下市長も年頭に前例主義を改めるように職員に訓示したのですね。
前例主義はお役所に顕著。有職故実に通じた能吏の顔を拝見したいです。

投稿: tona | 2013年3月 3日 (日) 08:39

こんにちは
お江戸日本橋はなにげなく歌ってました
江戸の時刻があったのですね
いろいろ勉強になりました

投稿: たなちゃん | 2013年3月 3日 (日) 17:51

★たなちゃんさま

おはようございます。
そろそろ暖かくなってくるころですね。
私も今まで全然意味も知らないで聞いたり歌ったり(コーラスで)していました。
時刻を知るといろいろ内容が細かくわかって楽しいです。

投稿: tona | 2013年3月 4日 (月) 08:20

おはようございます
「お江戸日本橋」の一番の歌詞は私も覚えていました。
七つ という数字が時刻を表すとは思ってましたが現代の何時ころとは
考えたこともありませんでした(^^;)
歌の内容もそういう意味だったとは。夜も明けない朝早くに発って、
その様子からも勤勉さがうかがえるようです。
浅野内匠頭の身柄を引き受けた方も有能な方だったのですね。
 
日本にも西洋式の時計もずっと昔にもたらされてはいたものの、
今のように使われるようになったのはかなり遅くなってからですよね。
江戸時代の時代小説など読むと、お寺の鐘が庶民の時計の役目を
果たしていますね。でも、その鐘をつく時刻はどうやって割り出して
いたんでしょ。
 

投稿: ポージィ | 2013年3月 4日 (月) 09:05

★ポージィさま

ありがとうございます。
わらべ歌や童謡の歌詞の中には難しいものがありますね。
「ずいずいずっころばし」も意味が通らないで歌っていました。これもそうです。
あの頃は時間については大雑把ではあったのですね。
江戸時代の旅人も交通手段が籠か歩くしかなかったので、日が暮れるまでの時間を大切にとても朝早かったです。
『天地明察』では暦を扱っていて時刻はどうでしたか?もう忘れました。
日の出、日の入りが基準だったようで、鐘もそれから割り出した時刻に従ったのでしょうか。冬など夜の時間が非常に長かったのですね。
それにしても鐘が鳴ってからでは遅いというときはいつも前もって仕度というのが常套だったのでしょうね。そしてのんびりと生活している人も多かったのでしょうか。

投稿: tona | 2013年3月 4日 (月) 15:36

江戸時代の時刻,大変面白く読ませていただきました。
それで触発されて調べてみました。

江戸城内では時計係がいて,和時計で時をはかって,城内に触れていたようです。また,江戸市中には10カ所ほどの「時の鐘」があったようです。恐らくはここでも和時計をもとに時の告知をしたのかもしれません。
以下をご参照下さい。
  http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho223.htm

また,和時計については以下が参考になりました。
  http://ammo.jp/monthly/0212/06.html

投稿: gaki | 2013年3月 4日 (月) 19:09

八つ時に頂くのは今でいうおやつのことですね。それくらいの知識しかないです。お江戸日本橋は小学校で習った記憶があります。
それにしても色々と面白い事を良くご存じですね。

投稿: macchanny | 2013年3月 4日 (月) 19:45

★gakiさま

時の鐘のこと、また和時計について調べていただきありがとうございました。
大変参考になりました。
器用な日本人が和時計を作ってしまったことにも感心しましたが、24節季で変えていかねばならないのが大変だったわけですね。思いもよりませんでした。
「江戸時代の時刻と時の鐘」についてはもう1度ゆっくり拝見します。大変興味深いです。
江戸市中の数か所で鐘が鳴って市民は生活していたなんて、江戸物を読みながら考えたことがありませんでした。

投稿: tona | 2013年3月 4日 (月) 21:43

★macchannyさま

おやつ(御八つ)、そうでしたね!
八つ時に食べることからですね。

江戸の時刻は雑学大学で教えていただきました。
知らないことだらけで、学ぶのも楽しいです。
ただ難しいことがさっぱり頭に入らなくて困ったものです。

投稿: tona | 2013年3月 4日 (月) 21:48

丑三つ時が子供の時からの
謎でしたが、後に古文の時間に
教わりました。

七つ立ちは、深い意味があるのですね。
長男がこういうことに詳しくて
教えてくれたことがあります。

高校生の頃でしたでしょうか。
今は2/29の閏年が決められて
いますが、江戸時代は、大の月
小の月を適当に決めて、大とか
のマークを吊り下げていたようですね。

投稿: matsubara | 2013年3月 4日 (月) 22:43

★matsubaraさま

こちらにもお疲れのところをありがとうございました。
古文の時間に時刻の事を習った覚えがありませんで初めてです。今まで知らなかったのが恥ずかしいくらいです。
「初のぼり」の意味も初めて知って当時の奉公の厳しさを物語っていますね。
江戸時代の暦も不便だったようですが人々は慣れて平気だったのですね。

投稿: tona | 2013年3月 5日 (火) 08:33

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/146506/56873507

この記事へのトラックバック一覧です: 江戸時代の時刻:

« レ・ミゼラブル | トップページ | 亀戸天神社と香取神社の梅 »