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2013年11月26日 (火)

この木なんの木

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夫が先日ハワイ・オアフ島のモラナルア・ガーデンで撮ってきた写真です。
日立のテレビコマーシャルで使われている「モンキーポッド」です。CMでは右の方に飛び出ているヤシのような木は見えません。

「この木なんの木 気になる木 名前も知らない木ですから ・・・・」で歌われていながらずっと知ろうとしなかった木でした。
熱帯アフリカ原産で、マメ科ネムノキ亜科。葉はネムノキのように、日の出とともに開き、午後になると閉じたりする。
別名「アメリカネムノキ」「レインツリー」「この木なんの木」とか「日立の樹」とも呼ばれているそうです。

この木が「日立の樹」のまわりにたくさんあったそうです。左右対称に大きく枝を広げ40mもあり、高さも25mあり、近くで見てもかなり大きいとか。

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今年エンジェルス・トランペットが6回くらい咲きましたが、今年最後の花が1週間ほど30個くらい咲いています。最初は黄色が濃かったですが、今は薄黄色でだんだん色が薄くなっていきます。420x280_2

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『謎解きはディナーのあとで』東川篤哉著がもう3まで出版されています。

富豪令嬢なのに刑事のお嬢様が、起こった事件の犯人がわからなくてイライラしたりする。家の慇懃な執事に話すと、執事はお嬢さんは「バカ」とか「あほ」とか罵詈雑言を吐きながら問題を解決するという話なのですが、この人物の取り合わせも面白くてテレビ映画でも観てしまいました。
事件の担当地域が、私の住んでいる周りなので親近感が湧いてしまうのですがね。
難しい本を読んだ後に読むのに最適、愉快な気分で読み進んでしまう本です。

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2013年11月23日 (土)

巻雲

22日(金)に江戸川の方へ行ってきました。

    そばの穭田(ひつじだ)、稲のひこばえの穭がかなり伸びていました。420x280
はるかかなたにチドリ類のケリがいました。飛んだところを写した方がいらして見せていただきましたが、白、灰色、黒のコントラストの美しい鳥です。一眼レフの威力を感じた一枚でした。Photo
美ヶ原以来の巻雲(筋雲)が晴れ渡った空に浮かんでいました。5000m以上の高さの空に。芸術だ!420x280_2
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  友人宅でいただいたお茶と練り切りの美味しかったこと!ご馳走さまでした。420x280_6
     栽培しているディルをいただいてきました(魚料理やサラダなどに)420x280_7
野田市にあるイタリアレストラン、コメ・スタでは野田の醤油の醪(もろみ)を使っているパスタやピザを選びました。ここしか味わえない。

                   マッシュルームスープ350x233
                醪入りドレッシングかけサラダ350x233_2
                       醪のピザ233x350
              醤油のベーコンピザ パスタは撮り忘れ350x233_3
    デザートは蓋付き容器に入っていてドライアイスの白煙が漂っています350x233_4
                       店内420x280_8
                  模様の描かれたフライパン420x280_9

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2013年11月21日 (木)

西川一三著『秘境西域八年の潜行』

こんな日本人がいたということで、西川一三氏のことを慕辺見行さんに教えていただき、その著書を図書館で借りました。
上下巻812頁、上下段の細かい字で、8年間に及ぶ全紀行、全生活の記録ですから読みでがあります。まだ別巻があるのですが未読です。
西川一三氏(1018~2008)は昭和11年に満鉄に入社し、昭和15年に脱サラして興亜義塾(外務省の支那西北地域に挺身する若人を養成する)で研究に没頭する。2年目は廟でラマ僧に混じって一蒙古人になり切る訓練をした。
東条総理から「西北支那に潜入し、支那辺境民族の友となり、永住せよ」の命令を受け、昭和17年から昭和25年の日本への帰国まで8年間も秘境に潜行し、6000㎞歩いた記録でもあるのです。

まず文章がしっかりしていて、風景描写などが美しいのに驚く。そして、過酷な旅の記録、広い各辺境の地の現状・実態、ラマ廟の克明な記録などぼんやりとしか知らなかった蒙古、青海、チベット、インドなどが洗いざらい語られている。
常に日本人とばれないようにすっかり蒙古人になりきっての8年間、もう大変・過酷という言葉では言い表せない。

水が極端に少ないこの地の人々の生活には驚く。この当時の様子でしょうが、一生に1度も風呂に入ることなく、トイレでも紙は使わずそのまま、食べ物の脂で汚れた手もそのまま衣服にこすりつけ、その手で燃料の牛糞をつかんでくべ、シラミやノミや南京虫のいる個所を掻く。自分の椀が2つあって、一つはお茶用、もう一つは主食用で、貸してくれる場合は中に唾を吐きかけて黒光りのする着物の裾か袖口で拭いてよそってくれる。食べ終わると椀も箸も洗わないで舐め、鍋も次の炊事の時に雑巾で拭いてそのまま使う。
衣服は汚れきってボロボロになった時に新しくするだけという。ほんの一例だが著者はすぐ汚いとも思わないで慣れてしまったそうだ。

まずは内蒙から寧夏、甘粛、青海、そしてチベットのラサまで、途中ラマ僧修行をしながらの厳しい旅だ。
野宿、自炊、殆ど茶と麦焦がしみたいな食べ物だけ。猛き部族や盗賊におびえ、川を渡るのも橋がないから大変だし、水のないゴビ砂漠などを彷徨い、5000m以上の高地で命を危険にさらし、寒さと吹雪の中の行進、ラクダを操ることの大変さ。

到着したラサで祖国敗戦の噂を聞き、ヒマラヤを越えてインドはカルカッタまで旅する。敗戦に自分の使命も終わりと落胆するのだ。その後生活をするためにヒマラヤ越えを数回して煙草などの密輸に携わり、ブータンも旅し、凍傷で歩けなくなってインドのシッキム(ヒマラヤの南側のネパ-ルとブータンに挟まれた地域)で乞食をする。癒えてラサに赴き、レポン寺で1年弟子になって修行。チベット最大の寺院の当時の組織や生態が克明に記されていて貴重な記録である。

その後、木村肥佐生に頼まれて出た、九死に一生を得た西康(チベット東部で四川省に接する)への旅はさらに凄い。その後乞食をしたシッキムのカーレンボンで1年間新聞記者をした。この間、チベット語のみならず、ヒンズー語、回教語もものにし、インド放浪・無銭旅行に出る。
汽車の只乗りと托鉢で、ブッダガヤ、サルナート、クシナガル、ルンビニなどの聖地を回り、ネパールに潜入してカトマンズ往復をしている。
パキスタン、アフガニスタン、イラン、イラクなども行く予定だったが危険で果たせなかった。
シッキムに帰還してからビルマ潜行の準備をしていたが、木村肥佐生がらみでインド政府に逮捕され、獄中生活を送り、日本に昭和25年5月31日に戻ったのです。獄中生活は屋根の下で寝られ、食べ物も与えられ、勉強も出来、天国だったとか。

こんな栄養もない食事、苦難の連続の旅と修行の8年間なのに、病気は熱病を2回しただけ、凍傷の時も医者に見せず、見かねた友人が医者に連れて行ってやっと治ったの如く、医者に頼らず何でも自力で治す人なのだ。
日本人としても稀な頑丈な身体に、何事にも挫けず、厳しい気象条件や不潔、単調な食事、飢えも全然平気、図太い精神で立ち向かい、人との和もうまく取り持つという、驚くべき人だ。それに加えて何より国からの使命を全うしようとする心、冒険心、学びたいというタフな精神が心の元気の原動力とみました。

                  <都立殿ヶ谷戸庭園>
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         近くの庭園の紅葉はまだでしたがツワブキが満開でした

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                                           白実の百両(唐橘)420x280_3
         サンザシの実(実が黒っぽいのでクロミサンザシか?)420x280_4
                      菊の盆栽展420x280_6
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2013年11月18日 (月)

日立製作所中央研究所庭園

春の桜と秋の紅葉の季節の2日だけ無料で開放している、国分寺にある研究所の庭園です。昨日11月第3日曜日に開放されました。
昭和17年に設立され東京ドームの約5倍の面積で、樹木が120種27000本、野鳥が約40種類(あまりの人出で驚いたのでしょう、カラスの鳴き声しか聞こえませんでした)。

渓谷をまたぐ橋を渡ると正面に、ケヤキで囲まれたアプローチの奥に研究所の建物があります。420x280
国分寺崖線(通称ハケ、立川から世田谷の等々力渓谷まで約25㎞続く河岸段丘)から湧水が出ています。
これが野川の源流の1つです。渇水期でも1分間に200リットルも湧き出ています。420x280_3
                                        すぐこんな小川になって420x280_4
                                       園内の大池に注ぎます420x280_5
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                     池には鯉やマガモ、そして白鳥のつがいがいました。420x280_7
                             池の水がこの水門から流れ出ています280x420
園内の他の小川と合流してここから野川になるのですが、すでにゴーゴーと滝のように水量が多いです。これが園内の隣の中央線の線路の下を通り、20㎞先の多摩川へと流れて行きます。私は毎日、野川に架かる橋を渡っています。420x280_8
                                木の実がいっぱい モチノキの実420x280_9
                                      マユミの実、大木であった。420x280_10
         カエデ科のベニシダレ、根元の太いこと!人間と比較してもかなり高い。420x280_11
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                                            カラスウリの実420x280_13
                                                   杉の花芽420x280_14

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2013年11月15日 (金)

死からあの世へどのような形で

年齢を重ねると、3人寄れば病気、5人寄ればお寺やお墓の話が聞こえます。一方戒名、布施の意味が若い人に伝わらなくなって知らない人も多いという。
私たちはあの世に葬られるときに、火葬、土葬、水葬などがあるが、日本は火葬が主流です。昨日のニュースでは両陛下の葬送方針が公表され土葬ではなく火葬と決まりました。

火葬には問題点があって、1200℃の高温のため大量の二酸化炭素を排出するのだそうだ。
そこでユネスコなどで推奨されるのがpromession(プロメッション)とresomation(レゾメーション)だ。
promession(フリーズドドライ)は-196℃の窒素に浸すと身体が粉末になり、肥料になりやがて6ヶ月から1年で土に返る。
resomation(バイオ火葬)ステンレスタンク内で水酸化カリウムを入れ、170℃にして2時間茹で圧力をかけると、骨と身に分離する。流すことも可能なものに変わるという。有害物質の排出の問題はなく、環境にやさしい第3の選択であり、火葬の約1/3のエネルギー消費量ですむ。

現在火葬で出た灰を木の下(樹木葬)や海に散布するのは許されているが、さらに法の整備が進めば、こうした死体処理がなされるようになって、地球温暖化が少しでも食い止められるようになっていくことでしょう。
燃焼という手段でなく化学薬品を使うということに抵抗を感じるということも、地球全体で考えて行ったときそれに慣れていくということでしょうか。

ユーモアを振りまいて逝く人って、死に臨んでも何て心に余裕のある人でしょう。
アインシュタインは遺影にあの有名な舌を出した写真を用意しました。そして墓はいらない、ニュージャージーの川に流して欲しいと遺言に残しました。
まだ観ていない砂田知昭氏の映画「エンディングノート」なんかもいいんじゃないでしょうか。
和田勉さんのお墓の名前には、生前楽しんでいた「変」に濁点を入れて「ベン」と洒落ている。
シニアにユーモアが大切だっていうことです。以上は小向敦子先生から教えていただいた一部です。

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不順な天候によるのか、今年は家の菊がしょぼしょぼで花数が少なく元気がない。
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2013年11月11日 (月)

絶望的な地球温暖化対策

先週の雑学大学は、言われて久しい、1950年に気付いた「地球温暖化」についてでした。

今日11日からポーランドのワルシャワでCOP19が開催されている。
COP3の京都議定書では「2012年まで、温室効果ガス排出量を1990年に比べて5%以上削減」という内容でした。
鳩山元総理が2009年国連気候変動サミットの開会式の挨拶で「1990年比で2020年までに25%温室効果ガスの削減を目指す」と表明。
どちらにしてもとても原発事故が追い打ちをかけたこともあって、無理なことがわかって見直しで「2020年までに05年比3.8%減」で固まったところです。

近年の異常気象では大きな災害がたくさん報告される。
フィリッピンを襲った台風30号の被害は1000万人近い罹災者の中に、もしかして1万人の命が奪われたらしいという放送が今日流れたばかり。
日本でも今までにない早い梅雨入り、早い梅雨明け、ゲリラ豪雨、竜巻発生、台風の土砂災害、猛暑日増加で熱中症増加など、来年からが思いやられるほどだ。
地球規模では海水上昇でポリネシア、インド洋の島々が沈没、バングラディッシュの海没、オランダ堤防の拡張などがさけばれる。長い地球の歴史で何度もあった異常だが、近年の気温上昇は著しく100年後は生きていける地域が減るとか。

この原因は95%の気象学者が「温暖化「と言うようになった。
温暖化の要因は太陽活動の変化などの自然要因はあるらしいが、人為的要因として
●炭酸ガス、フロン、メタン、水蒸気などによる温室効果
●森林破壊
●人口増加、70億

この対策としては、ここまで快適な豊かな生活を(していない人も世界には多いのだが)している私たちが、生活を後退させなければ解決できないのだ。
しかし誰一人昔の不便な生活は「いや」だと考える。
結論は「もう無駄をしないこと」だけのようだ。そして一人一人が地球を守る精神を持ち、同時に各自が災害から自分の身を守らねばならないということでした。

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近所に、直径8㎝くらい、長さ10㎝もありましょうか、ぶら下がっていました。何なのか見当がつきません。御存知でしたら教えてください。
gakiさまとmatsubaraさまに「キカラスウリ」と教えていただきました。有難うございました。
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2013年11月 8日 (金)

映画『ウェイバックー脱出6500㎞-』

ポーランド人のスラヴォミール・ラウイッツが書いた『脱出記 シベリアからインドまで歩いた男たち』をもとに映画化された。
主人公はソ連占領下のポーランドでスパイ容疑で逮捕され、尋問されるが、罪を認めなかったので妻をポーランドに残して、1940年にスターリン体制下のソ連の強制労働収容所へ送られる。
シベリアの収容所での過酷な環境で囚人が次々と死ぬ中を6人の仲間と脱獄し、シベリアからモンゴル、チベットを抜け途中亡くなった人、別れた人があって、3人だけインドに至るという話だ。
極寒のシベリアも南部になると虫の襲撃を受け、モンゴル平原、ゴビ砂漠では水や食べ物のないことに苦しみ、チペットでは再び寒さと高度に苦しんでの1年かけてのインド入りだった。
その旅程も6500㎞で大半がよく死なないで歩けたものとサバイバルぶりに驚嘆した。
しかし本を著したラウイッツは実際には1942年、ソ連によって釈放されていた。ところがイギリスに住むポーランド人ヴィトルド・グリンスキが、物語は事実であるが、ただしそれは彼の身に起きたことであると申し出たがこれも疑わしいとのこと。
大戦中にソ連を逃れようとして危険な旅を迫られたポーランド人がいたことは事実ということで、意思と運があればこんな凄まじい逃避行もあるのだと驚いた次第です。
サバイバル物はノンフィクッションでないと面白くないが、こんな事情を抱えたこの映画は本質的にはフィクションということで理解して鑑賞すれば、そこそこに見られる映画です。

東京駅八重洲口の南北のタワーを結ぶルーフ・グランが出来て、歩道には「インフィオラータ」が2つほどありました。
               ルーフ・グランがまるで帆のようです315x420
インフィオラータの花弁はバラが主なようですが、黒や青などは色つき砂で、秋っぽい色のデザインがなかなか素晴らしかった。315x420_2
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2013年11月 5日 (火)

ドイツ紀行10(最終回)ベルリン

川口マーン恵美著の『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』が帰国してみると本屋に山積みになっています。どんな内容なのでしょう。これは読んでみなくては。

Photoドイツの首都ベルリンは、人口約350万人で東京23区の1.5倍の面積。多くの公園や水路、湖をかかえているのでごみごみしていない。
歴史の渦に翻弄され続けたベルリンは1961年8月13日、一夜にして「壁」が築かれたが1989年11月9日、突然ベルリンの壁に穴が開いた。翌年東西の東西ドイツは再統一を果たし首都に返り咲いた。まだ建設中の場所が多い。

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                      東西の国境線420x280_3
チェックポイント・チャーリーは東西ベルリンの境界に設けられた3つの検問所の1つで、アメリカが管理していた。これは西側から見たポイントで写真はソ連兵。420x280_4
統一ドイツのブランデンブルク門 1788~91年にプロイセン王国の凱旋門として、アテネの神殿の門を手本に建てられた。420x280_5
門の上の勝利の女神と4頭立ての馬車カドリガは、1806年にプロイセンを破ったナポレオンがパリへ持って行ってしまったが、1814年にベルリンにもどったもの。420x280_6
ブランデンブルグ門の近くに「ユダヤ人犠牲者記念館」がある。虐殺されたユダヤ人に捧げられた記念碑で2711本のコンクリート製ブロックがある。420x280_7
           ベルリンは、菩提樹の黄葉真っ盛りできれいだった420x280_8
トラバントが走っていた。東ドイツが生産していた小型乗用車。歴史文化財として特別に許可を得た車両以外は走行できなくなっている。「ボール紙のボディの車」と呼ばれたが、基本材料は綿の繊維を使った繊維強化プラスチックだ。420x280_9
          ベルリン大聖堂 ホーエンツォレルン王家の墓所がある420x280_10
    フィルハーモニー 1963年完成。東京のサントリーホールの手本になった420x280_11

シュプレー川の中洲には5つの博物館が集まっている。その中のペルガモン博物館を見学。世界遺産である。
古代ギリシャのペルガモン(現トルコ・ペルガマ)の「ゼウスの大祭壇」(紀元前180~159年)420x280_12
               古代バビロニアの「イシュタール門」280x420
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最後にベルリン文化フォーラムの「絵画館」を訪ねる
ラファエロの聖母4点 これで代表的なラファエロの聖母を大体見ることができた420x280_14
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            ブリューゲルの「ネーデルランドのことわざ」420x280_18
フェルメール「真珠の首飾りの女」「紳士とワインを飲む女」も見ることができ、これで残るは、ミスで見られなかったニューヨークのフリック・コレクション3点だけになった。

今回のドイツ旅行の大きな目的がラファエロとフェルメールを見ることだったのですが、敗戦から大きく立ち上がって経済成長を遂げた、それも美しく町並みを揃えたドイツからいろいろ学ぶことができました。
残念ながら暮らしたわけではなく、観光客との擦れ違いが多いだけで、ドイツの人々との交流は殆どなかった。出会ったドイツ人は、アメリカ人やイタリア人のような陽気さやこぼれるような笑顔はないけれども、決して意地悪ではない大人の人々なのです。

今回同行の人ですごい人に出会いました。帰りの空港での待ち時間に見せていただいたノートです。
1冊のノートいっぱいに16日間の旅行記がもうまとめてあったことです。記念の入場券なども貼ってあって、あとは写真を貼るスペースがとってありました。何でも朝早く起きて前日のをまとめたとか。私の隣町に住んでいるこのご夫婦は、東海道を5回16日間で歩いたとか、都内の川を源流から歩いたとか、歩く達人なのでありました。御主人は公園の桜守で1年中世話をしているという。

長い長い紀行文を読んでいただいてありがとうございました。

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2013年11月 3日 (日)

ドイツ紀行9 マイセン、ドレスデン、ポツダム

Photo_2いよいよ旧東ドイツ地方ザクセンへ
ザクセンは発明王国だそうです。白磁器、機織り機、機関車、ミシン、たばこ製造機、ブラジャー、山岳ロープウェイ、屋内ボーリング場、フィルター付きたばこ、ティーパック、コースター、歯磨きテューブなど。


マイセン磁器工場
マイセン磁器のトレードマーク交差した青い剣。愛されているデザインが「玉ねぎ模様ツヴィーベルムスターZwiebelmuster」で玉ねぎに見える部分は実はザクロと桃を図案化したもので、元をたどると中国に行き着く。我が家にも戴いたのが1枚あるけれど高価なので、こわごわ年に数回しか登場しません。
マルコポーロが持ち帰った東洋の磁器に憧れたザクセン大公国王・アウグスト強王は、錬金術師ペドガーを幽閉し命じて白磁を作らせることに成功しました。その磁器工場がドレスデン郊外のマイセンにあります。憐れペドガーは磁器製造の秘密を守るため、一生幽閉されたまま、当時磁器工場が置かれていたアルブレヒト城で亡くなったのです。
ここの喫茶室でティータイム、マイセン陶磁器でお茶とクッキーをいただいたのですが…数人のカップとソーサーが欠けていたのだそうです。これって欠けても最後まで使う精神なのか、よくわかりません。日本では考えられません。カップは唇が切れる心配がありますもの。
                         見学用磁器工房で型作りや絵付けなどを見学

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        磁器博物館では圧倒されるような古今のマイセン磁器が展示されている
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ドレスデン
エルベ川沿いに商業都市として発展し、16世紀以後、ザクセン王国首都として栄えた。バロック様式の壮麗な宮殿や教会、貴族の館が立ち並んだ町は第2次世界大戦で60%が破壊された。ここはもうチェコとの国境まで約30㎞ほどです。
ドレスデンは世界遺産に登録されていたが、2009年に返上しました。市の中心地から約2㎞離れた地点に交通渋滞解消のため橋を架けようとしたところ、ユネスコから待ったが掛けられ、住民投票の結果、世界遺産より渋滞解消を選んだそうです。

                                 新市街から川越しに旧市街を望む
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                                       旧市街から新市街を望む
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よみがえったフラウエン教会 約17年かかって建てられたが、一夜にして廃墟になった。約10年かかって再建、2005年によみがえった。壁の黒い石が廃墟から拾われたもの。
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ドレスデン城の一角の城壁の長さ101mの「君主の行列」 1123年から1904年までのザクセン君主の騎馬像や、芸術家など93名がマイセン磁器のタイルに描かれている。タイルは2万5000枚使用しており、戦災を免れた。420x280_13
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                                              アウグスト強王420x280_15
ツヴィンガー宮殿 1732年にアウグスト強王の時代に建てられた。
ここの一部分にあるアルテ・マイスター絵画館で、フェルメールの「取り持ち女」「窓辺で手紙を読む女」とラファエロの「サン・シストの聖母」、ジョルジョーネの「眠れる美女」を見ることができました。420x280_16
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ゼンパーオペラ(ザクセン州立歌劇場)1816~26年にゼンパーにより建設されたヨーロッパ屈指のオペラハウス。420x280_18
           初代音楽監督だったウェーバーの像。その後任がワーグナーだった。280x420_4

ポツダム> ベルリンの隣町

サンスーシー宮殿 世界遺産

風車 宮殿の隣のこの風車は1700年代に、オランダから職人が来て作ったもので、元は粉ひき用だった。420x409
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プロイセン王のフリードリヒ大王(在位1740~86年)が夏の居城として建てたロココ様式の華麗な宮殿で、王は殆どこの宮殿で過ごしたそうだ。階段状のブドウ園の上に建てられている。420x280_20
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フリードリヒ大王と愛犬11匹の墓 南米からもたされたトマト、ナス同様ジャガイモもヨーロッパでは薄気味悪いと言って食用にされなかった。大王はジャガイモを奨励しドイツをジャガイモ王国にした。王の墓にはジャガイモが飾ってある。
大王の遺体はあちこち転々としたが東西統一を経た1991年に、大王はようやく生前の希望通りに愛する犬たちとともにここに眠りについた。420x280_22

ツェツィーリエンホフ宮殿 ポツダム会議の舞台で世界遺産
ホーエンツォレルン家の最後の皇太子がヴィルヘルムが家族とともに住んでいた。城には皇太子妃ツェツィーリアの名前が付けられ1917年に完成した。
第2位次世界大戦末期米・英・ソ連の首脳会談が開かれ、ドイツの戦後処理などが話し合われ、会議が開かれた部屋が当時のまま保存されている。420x280_23
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