« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »

2014年2月27日 (木)

スタンダード・プードル

六本木ヒルズでスタンダード・プードルを初めて見ました。
今まで小さなトイ、ミニチュアプードルしか見たことがなかったので、こんな大きなプードルがいるとはと見入ってしまいました。420x315
420x315_2
サイトによると、体は大きくてもプードルらしい繊細さ、デリケートさ、神経の細かさをいい意味でもっていて、非常に頭も良く、能力の高い犬種で、カナダ、アメリカ、ニュージーランドでは盲導犬として使われているものもおり、まさに「才色兼備」という言葉がもっとも似合う犬のひとつです。
このワンちゃんはしつけが行き届き、利口で、飼い主さんが「ご挨拶しなさい」と言うと、なんと私の方へ寄ってきて、撫でるようにとくるっと背を向けたではありませんか。
とても清潔で、柔らかくふわふわでいつまでも触っていたいほど気持ちの良いこと。でも毛は伸びるでしょうし、入浴やトリミングなど手入れが大変そうです。

                     蜘蛛のオブジェ420x315_3
                脚の下から東京タワーが見えた420x315_4

毛利庭園にはまだ宇宙メダカについて説明板がありました。2003年に宇宙から帰還したメダカの子孫がまだこの毛利池にいるのでしょうか。今は冬眠中か姿は見えません。
この毛利庭園は毛利元就の孫、秀元の上屋敷のものです。まわりをヒルズやテレビ朝日などに囲まれたオアシスです。
               ハートマークのオブジェが池の中に1_420x315
420x315_5
420x315_6
315x420
420x315_7


410x580580x494森アーツセンターギャラリーでは「ラファエル前派」展が開かれています。
英国テート美術館からラファエル前派と周辺の画家の有名な国宝級の作品72点が来日、実に素晴らしい見応えのある展覧会です。
1848年からたった5年間だったが、ラファエロ以前の初期ルネッサンス芸術の立ち返ろうと「ラファエル前派兄弟団」が結成された。
中心画家がミレイ、ハント、ロセッティだった。このあとのアーツ・クラフツ運動のモリスやその友人のバーン=ジョーンズらの後ろ盾になったのが、美術評論家のジョン・ラスキンだ。

ミレイの代表作「オフィーリア」 モデルはロセッティの妻になるシダル
ロセッティは恋多き人で、モリスの奥さんや他の愛人が複数いて、妻のシダルはそのために神経を病んで薬の過剰服用で亡くなる。自身も絵を描き2枚ほどきている。
その亡き妻に捧げたのが「ベアタ・ベアトリクス」チラシ2枚目下段左。
そして三角関係のモリスの妻を描いたのが、ちらしの一面の「プロセルピナ」
この2枚が違う人物なのにそっくりで驚く。兄弟団の絵は官能的な女性像を想像し美の追求をしている。
総じて、彼らは戸外で写生し、自然もありのままに表し、鮮やかな色彩を用いた。このことが見ていてため息が出るほどの作品なのです。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2014年2月24日 (月)

心和む:小倉遊亀「径」

380x305
「径」(みち)、昭和41年の作品。なんともいえない淡いソフトなタッチの絵。心が和みます。
この絵の4年後くらいに、犬は従えないけれども、私と娘がこんな服装で手をつないで歩いていたのを思い出させてくれます。
娘の髪形もこのわかめちゃんカットに近かったですが傘はさしてなくて帽子でした。
前期『世紀の日本画』展の一番最後に展示されていました。
小倉遊亀は上村松園に次いで女性画家として二人目の文化勲章受賞者。国語の先生のかたわら、安田靫彦に師事し、35歳で院展に入選を果たす。42歳の時に、31歳年上の小倉鉄樹と結婚した。養子とその子供(孫)の介護を受けて105歳で亡くなる。かなりユニークな人生でした。
158x262
最初の方に展示されているのが、その安田靫彦の「飛鳥の春の額田王」です。
歴史画の大家の作品で、こんなだったのでしょうと往時を想像します。
<茜さす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る> 
歴代二人の天皇を虜にするほどの美貌の持ち主で才媛でもあった。現代だったらどなたが当てはまるでしょう。安田靫彦の最高傑作です!

453x640
640x577_3

東京都美術館に行ったのが第3水曜日で、この日高齢者はタダです。仕事を早退して、一緒に行った中年の娘がとても若く見えるほどで、90%以上は高齢者だったようで混みこみでした。お金を出して見に来た若い人が少々気の毒でした。
日本美術院再興100年記念ということで前期62点、後期59点と全部入れ替わり、名作が豪華絢爛に展示されます。

狩野芳崖、橋本雅邦、菱田春草、横山大観、下村観山、安田靫彦、小林古径、前田青邨、平櫛田中、奥村土牛、小倉遊亀、速水御舟、平山郁夫 他などで見応えあり、後期も楽しみな美術展です。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2014年2月21日 (金)

江戸東京たてもの園

都立小金井公園内には江戸時代から昭和初期までの、30棟の復元建造物が建ち並んでいます。

江戸東京たてもの園は、1993年(平成5年)3月28日に開園した野外博物館です。現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目指しています。
建物の内部ではその時代の生活用品などがを展示され、それぞれの時代の生活や商いの様子などが再現されていました。
小学生がたくさん勉強に来ていて、ボランティアガイドの説明に聞き入り、担任から渡されたプリントに熱心に調べて書き込みをしていました。彼らは一体ここで何を学べたのでしょう。
私には殆どの生活用品は目新しいものではないが、小学生は凡そ見たことがなくて大いに好奇心を満たせたのではないか。そして以前の生活に思いを馳せたのではないでしょうか。
昔の建築の、その柱の太さ、釘を使わないで建て、いつまでも地震にも耐えて立ち続ける姿に感動を覚えます。大正の家を紹介できませんでしたが、大正モダニズムといって、モダンな瀟洒な住宅の中は明るく便利で快適な空間で、材質もしっかりしたものでした。

旧自証院霊屋(おたまや)1652年(慶安5年)尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振りの方(三代将軍家光の側室)を供養するために建立した霊屋。420x280
たてもの園では次に古い江戸時代中期の多摩川沿いにあった茅葺の農家420x280_2
    農家の中の囲炉裏で温まるようにと言葉をかけられた。煙に燻された。420x280_3
      江戸時代後期の名主の家。式台付き玄関に格式が見られる。420x280_5
                      フクジュソウ360x240
デ・ラランデ邸 明治43年頃ラランデによって3階建てとして増築された。デ・ラランデは昨年見た神戸の風見鶏の館(トーマス邸)を設計した人。420x280_6
建築の内部を見ながら、この中のレストランで食事をした。メニューはカレーライスとハヤシライスだけなのでカレーラシスにしたところ、とても美味しかった。420x280_7
三井八郎右衛門邸 明治時代 襖などは円山派の絵が描かれ、絹蔵と称される蔵は扉からして凄い厚さだ。豪商の豊かさが伝わってくる。420x280_8
420x280_9
420x280_10
高橋是清邸 明治時代 昭和11年の2.26事件の現場となった。周囲殆どガラス戸で明治のガラスは少々波打っている。420x279
420x280_11
前川國男邸 東京都美術館や都文化会館などを設計した建築家の自邸。昭和17年。外観は切り妻屋根の和風で、中は洋風の居間と書斎と寝室だけの実にシンプルな間取りであり、カーテンでなく障子。すべて作り付け。明るい家だ。420x280_12
420x280_13

最後は下町の風情を楽しむ商家や銭湯や居酒屋のゾーンです

銭湯「子宝湯」昭和4年 唐破風の屋根。湯船の背景はやはり富士山の絵です。小学生の頃通っていた銭湯と全く同じ構造でした。420x280_14
420x280_15
420x280_16
420x280_17
                居酒屋の中 1856年(安政3年)420x280_18
420x280_19
                    醤油店 昭和8年420x280_20
          文具店(昭和2年)生花店(昭和2年)荒物屋(昭和初期)420x280_21
                      荒物屋の中280x420
                    乾物屋(昭和3年)280x420_2
                  本物そっくりに作ってある420x280_23
化粧品屋(昭和3年)イオニア式の柱で当時としてはモダンだった。池之端の不忍通りに面してあった。280x420_3
          都電7500形(昭和37年) 椅子の奥行きがなく浅い7500_420x280
                   万世橋交番(明治後期)420x280_24

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2014年2月17日 (月)

佐野洋子著『シズコさん』

佐野洋子さんって、まるで男のような、竹を割ったようなさばさばした性格と物言いと、好き嫌いがはっきりしていて、全部さらけ出ししまうような正直さに驚く。
どうしてこんな女性がいるのか!育てた母親ってどんな人だったのか?

この本のタイトルのシズコさんこそ佐野さんの母親である。
幼いころ手をつなごうとしたら拒否されて以来、母親が嫌いになって、年取ってからも母親の体に触れるのもいやで出来なかった。
その後子供には過酷な水汲みなどの労働を息つく暇なくさせられたなど母親に対するうらみつらみを書きつづけるのである。
そしてそのお母さんは誰に対しても「ごめんなさい」「ありがとう」を、言わない人だったのだ。またその母に知恵遅れの弟妹がいたのだが、両親共々面倒を見たのは妹さんだった。つまり佐野さんの叔母さんである。シズコさんはその世話をしないだけでなく、その家に近づこうとさえしなかった人だった。
そんなひどい母親でありながら、料理、縫い物、整理整頓、夜などの不意の客の世話や応対など家事については有能で、しかも他人に親切で優しく、地域の人や友人にも好かれて頼りにされた。
50歳くらいで逝った夫亡きあとは、働いて子供たちを学校へやり、家まで建ててしまったと言う強者だ。老後旅行したりいろいろな趣味に没頭したり優雅に過ごしていたが、同居した嫁(この人がものすごい悪妻)に自ら建てた家を追い出され、佐野さんと2年・同居後、佐野さんは高額の施設に入れる。
そこで呆けていく母親に佐野さんの心は氷解し、母親に「ごめんね」と言い「母さん、呆けてくれてありがとう」、「自責の念から解放された」「生きていて良かった、こんな日が来るとは思わなかった」と泣くのである。

実はこの頃佐野さんは癌に侵されていたのである。母が亡くなって自分も4年後に亡くなる。
『役に立たない日々』に癌発生から転移、残された日々が一部に語られる。悲劇でありながらとてもおかしいのだ。
その中に
<私はがんがストレスになっていないのね。昔から死ぬことが全然怖くない。目の前で家族がごろごろ死んでいったのを見たから。望んでも望まなくてもそうなっていくってわかっていたから。自分の死はわからないじゃん。たぶん命って、自分のものじゃなくて、周りの人のためのものだと思う>
とあって普通の人と大分違う人生観も、彼女の性格とそれを培った環境、母親が一部糸を引いているのかもしれない。
余命二年と言われたら、十数年間苦しめられていたうつ病が殆ど消えたのだそうだ。佐野さんのような文章を書く方がうつ病と不安神経症に苦しめられていたなんて知りませんでした。

           もう実感がなくなりましたが14日(金)の梅たち
 

420x315
420x315_2
420x315_3
420x315_4
420x315_5
420x315_6




| | コメント (14) | トラックバック (0)

2014年2月13日 (木)

徐福伝説について

徐福研究一筋17年という方々の講義を聴きました。神奈川県の徐福研究会の会長さんと会員の方です。

徐福は司馬遷の『史記』の記述に存在する。これが徐福伝説の始まりで、中国には徐福の故郷や出港地などのゆかりの地があるそうだ。そして日本には徐福が到達したところや、訪れたところなどの伝説がある。
記述の内容は:方士(神仙、医療、保健、摂生の技を持つ)である徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、平原広沢(広い平野と湿地)を得て、王となり戻らなかった。・・・とある。
しかし徐福は、不老不死の薬を取りに行ったのではなく、始皇帝の圧政から逃れるための亡命であったという説もあるという。種を持って、多くの若者を連れて行ったのは新天地の開拓が目的であったと。

紹介された徐福伝承の場所は23か所。
有名なのが和歌山県新宮市、三重県熊野市、佐賀市、福岡県八女市、京都府の伊根町、富士吉田市、東京都北区王子、男鹿半島、青森県小泊など。

新宮市の新宮駅近くの徐福公園内には、紀州藩によって江戸初期に建立された徐福の墓がある。平成になってから中国風門や徐福像が建設された。伝説では徐福の永住地であり、農業技術、漁法、捕鯨、製紙など多くの技術を伝えたと言われる。

熊野市・波田須地区には徐福の宮がある。徐福の船がここに流れ着いたとされる。

佐賀市各地に上陸地、お手洗いの井戸、お手植えの神木などの伝説が残される。

これら伝説地の多くが修験道の寺院と関わりがあり聖地である。
徐福の神仙思想は道教の基盤である。修験道は道教からも大きな影響を受けており、したがって徐福と修験道が関連付けられるというわけだ。
徐福が東渡したのは紀元前210年頃である。日本では卑弥呼の時代から400年以上も前であり、古事記、日本書紀が書かれた時代から900年以上も前で文献には残らない。
徐福が本当に日本に来たかどうかは、歴史的には確認できていない。

伝説地では行政も加わって、伝説の継承、街おこしに活動している。各地の徐福会でも交流がなされ、中国とも徐福を通じて厳しい関係にある日中間の友好促進に役立てて行こうと考えているそうです。
以上いただいた資料からの抜粋ですが、17年間もずっと徐福を愛し、研究を続け、各地と交流し、中国での国際徐福フォーラムに参加して研究発表したり、ゆかりの地に赴いているようです。
私自身は新宮や熊野の地の伝説しか知らなかったですが、ずっと研究を続けている方々の熱意にただただ感嘆するばかりでした。

          ...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

江戸東京博物館の「広重五拾三次」展では五十三次の名前を知らない所が結構ありました。
「鞠子 名物茶店」もその一つ。名物茶店のとろろ汁が美味しいそうで、今もあるなら食べてみたいと思いました。
300x210
鞠子は東海道五十三次の20番目の宿場で、丸子とも書く。現在の静岡県静岡市駿河区丸子。東海道中でもっとも小さい宿場だとか。

| | コメント (16) | トラックバック (0)

2014年2月10日 (月)

川口マーン惠美著『住んでみたドイツ8勝2敗で日本の勝ち』

著者は冒頭いきなり尖閣諸島に上陸した様子を綴り、ドイツとフランスにおけるアルザスの奪い合いの話へ進み領土問題の核心に入る。つまり領土問題は実効支配をしたものが勝つ。現在は軍事力の後ろ盾がなければ発言権を失うであろうという要をドイツは承知していると。
日本人は論理を構築できず、論文が書けない。討論で自分の意見が言えない。これらが出来ることは世界の常識であり、グローバル化した世界と競争するにもかかせないことで日本の教育の内容に欠けている重要事項だ。もう一つ英語が出来ない。大学に入ってまで英語を教えるのは日本だけ。
ドイツは反原発の勢いが盛んになったころ、日本の福島事故があったため、2011年6月には脱原発の法律が成立したのだ。しかしドイツの様々な事情によって、矛盾も多く、カバーする再生可能エネルギーに切り替える道が遠く困難を極めることがかなりのページをさいて語られる。

病気のとき有給を使う日本人を信じられないドイツ人は、一方休暇そのものがストレスの原因になっているという。
閉店時間法と言う法律があるドイツでは日曜祝日は店を開けてはならない。週38時間と労働時間は短く賃金は高い。一分でも余計に決して働かない。一分でも超えればとても腹を立てる。閉店間際に入れば、あからさまに嫌そうな顔をする。私がホテルでまさに経験したことで、納得です。閉店10分前の電話には絶対に出ない。時間内に仕事をこなそうと皆が焦って不機嫌だそうだ。
ドイツの教員は、授業をする時間数に沿って給与体系が定められている。家に帰ってまでも採点には不満を感じる教員。給食もなく、放課後のクラブ活動は一切なし。夏休みなど休みは誰も登校しない。

一番驚いたのはドイツの鉄道。サービス皆無。事故を起こしても、放送は一切なし。勿論お詫びなし。車内で長時間待たされた挙句に下車させられ、そのあとの案内一切なし。その他いろいろ読んでいるとドイツの鉄道は悪い方の世界一だ。何だか信じられない。
ギリシャやイタリアなどユーロの揺らぎはドイツにとっても大変な問題だ。ドイツ人が絶対しない仕事、失業しても、生活保護をもらってもしない、それはゴミ収集だ。EUからの移住者が増え、出稼ぎ労働者は帰国しない。賃金崩壊や失業の問題、犯罪など抱える問題が多くなった。

宅配が全国くまなく走り、それも2時間単位の配達時間指定はドイツ人もびっくりらしい。どんなところにも自販機が並び、コンビニが24時間営業している。駅や電車や公衆トイレは清潔だし、今はまだ暴動も起きないし、テロとも無縁だ。こんなことも奇跡のようなことだと筆者は言う。

8勝がどれで、2敗がどれとは著者は言っていません。聞いていた話もありますが、内情にはびっくりすることが多く、通りすがりの旅行者にはわかろうはずもない。やはり住んでみた著者の貴重な体験は、私たち平和ボケの日本人にありがたさを教えてくれ、世界に組していくための示唆を与えてくれる本でした。

           エゴノキの老木は何だかとても苦労したみたい
280x420_200x300


| | コメント (12) | トラックバック (0)

2014年2月 7日 (金)

冬牡丹

美術展に行った帰りに修復が終わった東照宮と冬牡丹を見てきました。

もう3度目になるというのに、冬牡丹と寒牡丹の違いをまた忘れています。なんとも情けない。
また繰り返しになりますが、

冬牡丹:春咲き品種(優性遺伝子)を温室で促成栽培して冬に咲かせたもの。葉っぱが豊富にあり、茎が若く青い。寿命は1年だそうだ。

寒牡丹:春と冬に咲くという二季咲きの劣性遺伝子しか持っていなくて毎年確実に春と冬(初冬)の二季咲きです。茎や枝は黒く、葉が殆どなく、寿命は30年。

冬に咲く本物の寒牡丹は奈良の石光寺に行くとたくさん咲いているようです。

420x315
315x420
315x420_2
315x420_4
420x315_2
222x167222x167_2

420x315_3
上野東照宮は1651年建築の国指定重要文化財です。
唐門も社殿も金色でピカピカ、社殿は黄金殿とも呼ばれている。
                        唐門420x315_4
420x315_5
                        社殿420x315_6
420x315_7
420x315_8
透塀(すきべい)向こう側が透けて見えるのでこう呼ばれる。東西南北がこの塀で囲まれている。420x315_9
上段に野山の生き物と植物、下段には海川の生き物が約90種250枚彫られていて、なかなか可愛い。
222x167_3222x167_4

222x167_6222x167_7


589x600行った美術展は東京国立博物館で開催中の「クリーブランド美術館展」です。クリーブランドはアメリカ、オハイオ州エリー湖畔にある。
GHQのの美術顧問で東洋美術研究者のシャーマン・リーが収集した日本美術コレクション40点が里帰りした。
鎌倉時代の国宝級の仏像、南北朝時代の絵巻、室町時代の山水図や花鳥風月図屏風、俵屋宗達、渡辺崋山、河鍋暁斎など数は少ないけれども、楽しめる美術展でした。
河鍋暁斎「地獄太夫図」の着物が凄い。地獄太夫とは室町時代の遊女で、自らの境遇を前世の報いと思い、地獄が描かれた着物を好み、この絵の着物にも地獄が描かれていて、とても忘れられない1枚です。
ベルト・モリゾ、モネ、ピカソ、アンリ・ルソーが1枚ずつ来ています。

 

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2014年2月 4日 (火)

立川:ひだりうま でん助

十数年前、一切れだけ食べさせてもらった「馬刺し」がとろけるように美味しかったことが、最近しきりに思い出されて、もう一度味わってみたいと叫んだところ、娘夫婦が連れていってくれました。
立川にある「ひだりうま でん助」という居酒屋です。馬料理とおでんがウリです。400x300
馬刺しは世界遺産になった和食のひとつとか。
                   まずはビールで乾杯400x300_2
               馬揚棒ギョーザ 棒状の揚げ餃子400x300_3
  馬サラミシーザーサラダ 馬サラミが普通のサラミと違って臭みが感じられた400x300_4
馬刺し4点盛り(霜降り、赤身、首、たてがみ)・・・懐かしい馬刺しの味!美味しい。今回はちょっと噛み切れなかったのが残念。400x300_5
         桜鍋 このけとばし(赤身)は柔らかくて美味しかった400x300_6
            しめのうどん もちもちしたうどんであった400x300_7

熊本や会津や長野が有名なので、名産地の桜肉と思いきや、調べたら今は殆ど輸入されているのだ。豪州、アルゼンチン、ブラジル、カナダ、アメリカですって。
Wikipediaによれば栄養価が凄い。

牛豚鶏などの畜種より、低カロリー、低脂肪、低コレステロール、低飽和脂肪酸、高たんぱく質。
たんぱく質が多いだけではなく、アミノ酸が20種類程と豊富。
ミネラルは牛肉や豚肉の3倍のカルシウム、鉄分(ヘム鉄)はほうれん草・ひじきより多く、豚肉の4倍・鶏肉の10倍。
多種のビタミン類が豚肉の3倍、牛肉の20倍。ビタミンB12は牛肉の6倍、ビタミンB1も牛肉の4倍、ビタミンAやビタミンEも多い。

本当は馬のあのおとなしい、優しい悲しげな目がいつも心に引っかかって、牛、豚、鶏とは違い、そのお肉をいただいちゃうなんてと言う思いが強いのですが、とても美味しかったです。

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2014年2月 1日 (土)

「大浮世絵展」江戸東京博物館

354x500国際浮世絵学会創立50周年を記念して開催されている。
教科書に出てくる作品がずらり、それも国内だけでなく大英博物館、シカゴ美術館、ベルリン国立アジア美術館、ギメ東洋美術館から厳選された傑作が340選。
1月から3月2日まで1週間ごとに8回にわたって展示が入れ替えられ、私は第3期138点を見てきました。
浮世絵の生まれる前から終焉まで代表的な作品の流れで、その歴史がよくわかるように展示される。

広辞苑によると浮世絵とは・・・江戸時代に発達した民衆的な風俗画の一様式で、肉筆画もあったが、特に版画において独自の美をひらいた・・・とある。
浮世絵は、版元・絵師・彫師・摺師によって作られた芸術品としての性格と、当時の社会風俗の画像資料としての性格があり、報道性があったのです。

1.浮世絵前夜 浮世絵が生まれる前は初期肉筆風俗画といって遊楽の姿を描いた屏風や美人図であった。

2.浮世絵誕生、初期浮世絵(最初は黒一色だったのが、次はそこに上から色を数種塗ったものだった)。始まりは寛文年間(1661~1674)であった。

①黒摺絵・・黒一色の版画:菱川師宣

                 菱川師宣「戯れへのいざない」350x262
②丹絵(たんえ)・・黒摺絵の画面の必要部分に赤い鉛丹を彩色した:鳥居清信
 紅絵、漆絵・・紅花から製した紅を主とし、黄色、橙色、褐色を用いた。漆絵は膠の多い黒を塗ったので漆のような光沢がある絵:奥村政信
③紅摺絵・・紅を主色に緑か青か黄を加えた2色か3色摺誕生:絵師は上記の人々や鳥居派が制作

3.錦絵・・多色摺の浮世絵版画誕生

①初期・・鈴木春信 美人画
     勝川春章 役者絵・大首絵
②黄金期 美人画、役者絵、武者絵、風景画、名所絵、戯画、風俗画、風刺画、娯楽画
      鳥居清長
          喜多川歌麿
     東洲斎写楽
           歌川豊国 渓斎英泉
     葛飾北斎
      歌川広重
           歌川国芳

      喜多川歌麿「当時三美人」 冨本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ 249x350

③浮世絵終焉から新たなステージへ(明治30年代後半には浮世絵250年の歴史の終焉を迎えた)
     月岡芳年(国芳門下)、落合芳幾
     小林清親
     橋口五葉(夏目漱石の挿絵)
     河鍋暁斎
         伊東深水(朝丘雪路の父)
     川瀬巴水

以上たくさんの浮世絵師の中から何回かの美術展で見て、自分の知っている人だけを羅列しました。
明治初期、陶磁器の輸出の梱包に使われた浮世絵が、欧米人に喜ばれ、その芸術性は高く評価され多くの画家に影響を与えました。それが契機になって多くの作品がどんどん海外に出て行きました。それは第2次世界大戦後も続き、先日行ったクリーブランド美術館蔵の日本美術品も戦後に収集され、里帰り展が開かれています。こうした日本美術収集は現在もなお続いているのです。
西洋絵画にはない画面構成や彫摺の高度な技術(毛の生え際は1ミリ間に5本の細線を彫分けるというから驚く)、絵の内容、和紙などの浮世絵芸術が他の江戸絵画と並んで優れている所以でしょう。
日本国民が率先して大切にし、親しんでいかなけばならないと思いました。

           江戸東京博物館に行ったときは「ちゃんこ鍋」です

420x315


      

| | コメント (10) | トラックバック (0)

« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »