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2015年9月28日 (月)

高幡不動尊(高幡山明王院金剛寺)

700x646真言宗のお寺で関東三大不動の一つです。後の二つは、成田山新勝寺、玉嶹山總願寺(ぎょくとうさんそうがんじ)。
その他  多摩八十八か所霊場 八十八番札所
    関東三十六不動霊場 九番札所
     武相不動霊場 二十八番札所
    東国花の寺百か寺霊場 八番札所
    高幡山内八十八か所霊場 
    日野七福神(弁財天)       と札所もたくさんの寺です。

このお寺には彼岸花が8万株あるのだそうですが、秋分の日(23日)に出かけたのですが、失敗!
一つはもう枯れ始めていたこと、2つ目は相方が坂が上れなくて、きっとずっと先にあるであろう群生地を見ずしてお供して下りてしまったことでした。次の機会を楽しみにします。

不動尊の門にたどり着く前に「Cafe De Dango」という店がありました。前まで行ってメニューや説明を読むと、どうやらお団子とコーヒーはとても相性がよくて美味しいとのこと。
うーむ、お団子には日本茶の常識をくつがえす。お団子とコーヒーの味を頭の中で混ぜ合わせるも、美味しいとも何ともぴんと来ないので、入るのはやめました。450x300
              室町時代の重文の仁王門をくぐります450x300_2
その奥には不動堂、奥殿が続き左手には平安時代初期の様式の美しい五重塔があります。300x450_2
        五重塔の先には大師堂があり、大師像も外にあります。700x467_450x300
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                  これは「にこにこ地蔵」です300x450_4
                    参道の突き当りの山門300x450_5
さて問題の彼岸花は裏山不動ヶ丘の道筋や、山内八十八ヶ所の弘法大師像のそばに一輪、一輪と植えられているのですがもう萎んだり枯れています。300x450_6
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六番にはまだ咲いていました。一つ一つどうやら四国のお寺と対応しているようなのだ。6_299x450
一番 ご丁寧に八十八番まで全部写した方のブログを拝見したら、帽子やよだれかけが変わっていてどなたかが新調するようだ。1_450x300
五番 大師様のお顔を一体一体違うので、見ているだけでも楽しい。五百羅漢を見るようだ。5_300x450
                      木の実450x300_4
                     弁天池と弁天堂450x300_5
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2015年9月24日 (木)

捨てた、捨てた!残るはノートとアルバム

昨年までの10年間の美術館・国内旅行・海外旅行の一部・山関係のチラシ、パンフレットを、又早稲田大学講座、雑学大学講座のレジメなどをすべて捨てた、捨てた。頭に入ってないから心惹かれたけれども、2度とじっくり見て勉強しなおすという気持ちや時間がないのでもうあきらめた。

525x750_2これは日本旅行からもらったノートに2001年5月1日から2005年6月10日まで、新聞にあった記事『花おりおり』文は湯浅浩史氏である。花によっては謂われ、構造、文学、用途特徴など多岐にわたって解説がなされ、実に興味深い記事。ノートがちょうど終わった時点で貼るのをやめているので、その後どうなったのかがわからない。しかし今読んでみると勉強になることが多く、これは捨てないことにする。




本箱にまだノートがいくらか残っていて、見たら、家計簿が昭和51年から今までのがあって、結婚した昭和40年から10年間は捨てたらしい。また料理ノートも途中抜けながらもあって、見たら同じような献立がよく見られて進歩は途中までで、その後はマンネリ化している。
音楽鑑賞ノートと映画鑑賞ノートと読書ノートがあって、読書のノートには中学1年生のときしか感想は書いてないけれども、『アミエルの日記』『雨月物語』『長崎の鐘』、デェケンズ、ドーデ―、シャーロット・ブロンテ、ストー夫人、ジョルジュ・サンド、シートン、シェクスピア、ロマン・ローラン、藤村、芥川龍之介、鴎外など2,3日で読んでいるので、いつ勉強したのだろう?あと大学の古ノートが4冊あった。一部を除いてこれから全部捨てるつもり。300x450_2
本箱にはもう数えてもそんなになく110冊くらい。問題はアルバム。すでに書いたように夫は全部捨てた。私はまだ全部残っているが遺影用写真だけは更新して、そのうちね。
あと音楽テープとCD、これはたくさんあってもう一度聴いてからいいのだけ残してバイバイです。
衣類はスーツは喪服を残して捨てた。1年の半分は木綿が好きなので、山登り以外は化繊は着ない。なるべく捨てる。化粧は殆どしないので化粧品はあまりない。アクセサリーは随分捨てたけれども、値段の張るものは捨てられなく、かといって家の中で外国の夫人方みたいにするのがいやだから、眺めるだけでむなしい。

来年後期高齢を迎えるが、突然友の死を知ったりして、最近どんなに物やお金に執着しても、突然死んでも、あるいは長患いで伏せては、そうしたものを一緒に持って行ってあの世で楽しむということはありえないわけであると深く悟り、思い出ばかりに浸っているという時間も結構ないということにも気づかされたというわけで、捨てて整理することに熱心になったわけです。
食器や調理器具もかなり捨てました。お人形類だけは捨てるのはよくないそうで人形供養してからそこでということでかなりあちこちに残っています。

賢い方はもうずっと前に気付いていますよね

寒川駅で降りて茅ヶ崎のはずれにあるお寺の墓地への道、常緑ヤマボウシが咲いていました。
葉が常緑で花は6月から11月まで咲くそうで、ここではちょうど咲き始めていました。中国原産のミズキ科、ミズキ属。

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今年はエンジェルストランペットは例年だと数回咲いているのに、初めてなのです。植物のお花の咲き方がいろいろでそういう意味で変な年でした。

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2015年9月20日 (日)

鎌倉1・小町の寺社

652x700四国巡礼はあまりに遠く体力も及ばないので、訳あって鎌倉の寺社を巡ることにしました。鎌倉三十三観音霊場があるのですが、山折哲雄監修・槙野修著『鎌倉の寺社122を歩く』にしました。
私の鎌倉巡り(その1)は、鎌倉駅東域の小町大路の左右に点在する寺社で1時間半で回れます。

鎌倉時代と室町時代には疎く、歴史的には一番興味を持っていない時代なのに、宗教活動やお寺はたくさん建って鎌倉と京都では歴史を辿れる。
せめて鎌倉時代だけでも少しは勉強出来たらといいと期待しているのです。

         鎌倉駅からすぐの小町通りは魅力的なお店が並んで、混雑している450x316
                     小町通りの突き当りを右に曲がると左手が鶴岡八幡宮450x300
                                          お囃子が出ていた450x300_2
1.宝戒寺
八幡宮の前の道の金沢海道は左に曲がり、右に曲がるのが小町大路、突き当りが「萩の寺」と呼ばれる宝戒寺だ。拝観料100円。
                           参道の敷石が巨大な八角形の一枚岩である300x450
                        萩や木で覆い尽くされ、本堂全体が良く見えない。450x300_3
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ここは執権北条義時以来の執権の屋敷地跡だったところで、幕府が滅びた後に後醍醐天皇が足利尊氏に命じて北条一族の霊を弔うため執権屋敷跡に創建した。
天台宗、本尊は地蔵菩薩
鎌倉江の島七福神(毘沙門天)
鎌倉観音霊場第二番
鎌倉地蔵尊霊場第一番

本堂で、御本尊地蔵菩薩様と七福神の毘沙門天様にお祈りしてきました。
観音霊場としての観音様は秘仏の歓喜天らしく、立派な扉の中におわします。300x450_3
                                                  鐘楼450x300_5
                                                彼岸花450x300_6
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                                                     地蔵300x450_4

2.東勝寺跡と切腹やぐら
幕府滅亡時(1333年)、北条高時と一族郎党は、北条氏代々の墓のあるこの寺で自刃した。その数870余人といわれる。
                   東勝寺橋からの滑川450x300_2_2
                      東勝寺跡450x300_10
     切腹やぐら 高時の墓とされる石塔が多くの卒塔婆に囲まれている。450x300_11
3.妙隆寺
日蓮宗
鎌倉江の島七福神(寿老人)
自分の生爪を一日に一指ずつ十指をはがしてここで修業した日親は、厳しさゆえ焼け鍋を頭からかぶせられる迫害を受けたので「鍋かむりの日親」と呼ばれた話が有名なのだとか。450x300_12
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4.日蓮上人辻説法跡
この小町大路一帯は日蓮が説法を行った主要な場所で、日蓮宗のお寺が多い。大きな石碑と腰掛石が残る。450x300_13
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5.蛭子神社
明治の神仏分離令で一村一鎮守によりできた。祭神は大国主神。450x300_15
6.大巧寺(だいぎょうじ)
真言宗から日蓮宗に改宗した寺。安産祈願の寺。450x300_16
                     格天井が美しい450x300_17
野花の美しく咲くお寺でもある。シュウメイギク、ハギ、ワレモコウ、オトコエシ、コシキブ、アマギノクサキなど。450x300_18
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7.本覚寺
日蓮宗。
鎌倉江の島七福神(夷)
                      夷尊堂450x300_24
                  門は立派。本堂は修理中。450x300_25
日蓮が佐渡に配流されたのち、鎌倉に帰り滞在したところで、ここから身延山へ旅立った。身延山へなかなかお参りに行けない人達のため、日蓮の遺骨を分け、当寺におさめた。日蓮分骨堂である。本覚寺を「東身延」という。450x300_26

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2015年9月17日 (木)

北斎と鴻山

銀色夏生さんの『つれづれノート1』の中に次のような文がある。
「苦手な人は好きなことをしてない人です。そういう人ってグチッぽいからです」…本当にそれは多くは当てはまるかもしれない。「嫌い」と言わず「苦手」というところがこの著者の言葉の使い方が上手いなあと感ずる部分である。
詩人、随筆家、写真家の作者のごく若いころの作品で初めてであるが、この1冊だけでも私から見れば、ちょっと風変わりな人で、面白い行動者に見える。今年、もう『つれづれノート』は28冊目が出たそうで、現在50歳半ばまでどのような世界を泳いできたのであろうか、興味深い人としてちょっと注目です。

兼好法師の『徒然草』に、「友に持ちたくないもの」として「体が丈夫で病気のない者」が挙げられている。
これに共感している人が小谷野敦氏『軟弱者の言い分』で冒頭に挙げている。
小谷野氏は反禁煙の主張をしたり、法廷闘争や法廷トラブルを15,6も抱えている人で、かなり本を読むのも躊躇したが、軟弱者としての共通点があるので(でも闘争のことを聞いたり、本を読んでみると軟弱者では闘争できないし、書けないと思った)、結構惹きこまれている。

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諏訪春雄著『北斎の謎を解く』から…
小布施の豪農商・儒学者・浮世絵師で北斎の門人である高井鴻山の人となりと、葛飾北斎を温かい気持ちで歌った漢詩の口語訳が素晴らしいので引用させていただきました。
鴻山は小布施に北斎を招き、長逗留させて作品をたくさん描かせている。小布施に行くと栗のお菓子だけでなく、北斎や鴻山の作品が見られて、もう一度行きたいところです。

鴻山1.豪放磊落であって小さなことにこだわらない人である。
   2.学術技芸に精進している人である。
   3.節操を高く持っている人である。
   4.人情に厚い人である。
   5.平素は質素倹約を重んじているが、必要なときは千金も惜しまない人である。

鴻山が北斎を歌った漢詩の口語訳

来るときは招きによらず、去るときも別れを告げない。
行くも来るも自分の意思のままで、他人の拘束を受けることはない。
自在の変化を手中にし、心の欲するところに、生者死者が出現し、鳥獣も群がる。
画道はすでに抜きん出て、富貴をも座して待つことが出来るが、
七度は上に浮かび、また、八度は下に沈む。なぜ窮乏の身となるか。
あなたは見るであろう、冷たい冬を迎える者は、またよく盛りの夏を迎える者であることを。
冷冬も盛夏もみずから選んで世間にかかわらない。
先生の心の大らかさはまことに計り知れず、
人の熱意によらずわれわれのためにだけにわれのことをする。
落ち着いた顔が笑いを含んでいる観音の面、
風にさかまく波濤は岩にくだけて魚や竜が舞っている。
筆力は年が老いるに従ってますます強く、
巨大な障壁画にも気がみなぎり、みなぎった気は雲霞を貫く。
紙本絹本の絵の需要の多さもいとうことがない。
ただ一幅の唐代太宗の故事の絵が、絵の具の乾かぬままに残されている。

なぜ窮乏の身となるか?金銭無頓着だったことと、男子孫が放蕩していて、年取ってからもずっとお金をせびるので逃げ回っていたという話が伝わる。北斎は老荘思想と道教に傾倒していたそうで、絵にも影響があるそうだ。

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2015年9月14日 (月)

青梅の丘陵歩き

昨日は、今はない青梅吉野梅郷の近くの丘陵の、初秋を感じながらのハイキングでした。8年来の山仲間、北・南アルプスのいくつかを登った日は遠く過ぎ去って、高齢化が進み、今では山仲間でなく、丘仲間になっています。後ろから来た元気な男性たちはアッという間に、木立のかなたに消えてしまうという、例えるなら亀のような歩みの我々である。
しかし少しの体の鍛錬と、登山路の花、山の上での景色と食事の楽しみ、そして何より高齢者にとっての会話仲間の存在がありがたい。病気になって参加できなくなったらもうそこで終わりという関係ではあるが、結構いろいろ変化に富んだ話が聞けるものだ。

要害山(414m)と青梅市を見晴らす自然の展望台2ヵ所に登りました。
天狗岩(380m)…天狗の鼻のような形に岩だらけの展望台が飛び出している。
赤ぼっこ(409m)…赤い土でできた木製の棒と言った意味でしょうか?やはり細長い展望台が伸びていました。
             要害山は何の見晴らしもないものでした450x300
植物に詳しい先生は居なくて、自分で勝手に名前を書いています。間違えていましたら教えてくださいね。キノコだけはさっぱりわかりません。
8月下旬からの雨続きのせいか?山の中はいたるところキノコだらけ。こんなにたくさんの種類のきのこを見たのは初めてです。これはそ0.1%にも満たないキノコです。
shikamasonjinさまに名前を教えていただきました。ありがとうございました。

                トマトみたいな色・・・タマゴタケ 450x300_2
                 タマゴタケ(可食・美味)450x300_7
               ヒイロタケ或いはシュタケ(不食)450x300_8
        これは大きい。直径18㎝くらいか。アカヤマドリ(可食・美味)450x300_9
    これは米粒みたいに小さい。センボンイチメガサ或いはナラタケ(モドキ)450x300_10
そしてノブキの花が至る所に咲いていました。花後の果実は腺毛から粘液出して引っ付き虫になるというのだが、まだ付かれたことがない。そのような時期に歩いた時は注意したい。300x450
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                  竹林の竹が一部枯れていた300x450_2
                  最後のヘビイチゴか?450x300_12
                 コウゾリナか、茎も葉も痛い。450x300_13
                      遠くにクサギ450x300_14
                      ボタンヅル450x300_15
                     ツリガネニンジン450x300_16
                        ツルボ300x450_3
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                      天狗岩に到着300x450_4
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赤ぼっこに到着 二等三角点にタッチ。ここからは天狗岩は見えないがすぐそば。300x450_6
オレンジ色の服装の青年はちゃんとコッヘルやガスカートリッジを持参していて、ラーメンや熱いコーヒーを楽しんでいたようだ。一人では歩く気になれないこのハイキングコースを青年はほかに何を楽しんでいるのか?450x300_17
キアゲハが私たちが食事をしている間中30分もアザミの蜜を吸い続けていた。
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                      ホトトギス450x300_18
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               モミジバハグマはまだ開いていない450x300_20
                      タマアジサイ450x300_21
                    キバナノアキギリ450x300_22
                      ガンクビソウ450x300_23
馬頭観音 安永3年7月7日 1774年か。結構古い。馬がこのあたりでも大事にされたのであろうか。300x450_7

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2015年9月10日 (木)

ボルドー展

国立西洋美術館でやっている「ボルドー展ー美と陶酔の都へー」に行ってきました。

2009年にボルドーに泊まって半日観光した所ですが、それほど印象に残った観光名所はありませんでした。
フランス南西部のビスケー湾から地図で見ると、驚くほどに奥深く入った港町で、ガロンヌ河の流れに沿って三日月の形に発展したので「月の港ボルドー」として歴史地区とともに世界遺産に登録されていた所だったのです。

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本展覧会はボルドーが誇る6つの文化施設からのコレクション204点を、先史時代から現代にいたるまでの数万年におよぶスケールで展示とのことです。

プロローグの25000年前ごろの「角を持つヴィーナス」はマルタ島のと同じように女性の特にお腹が大きくて、多産をイメージしたヴィーナスとなっています。ボルドーの近くにはラスコーを始めとする旧石器時代の洞窟群があるのです。

                     角を持つヴィーナス3_600x332_235x278

<Ⅰ古代のボルドー>では博物館からの、矛槍に始まって、小像、化粧道具、ワイン用アンフォラなど展示されている。もう古くからワイン製造とそれを輸出していたことが伺われる。
        ボルドーワインの産地、近くのサンテミリオンワイン蔵(2009年)450x338_2
<Ⅱ中世から近世>にはモンテーニュの肖像画やイタリアのベルニーニ作の胸像などが出てくる。これは素晴らしい。
ボルドーは文学思想界の偉大な「3M」を輩出している。彼らのノートなどが見られる。
「モンテーニュ」16世紀 哲学者、『随想録』
「モンテスキュー」18世紀 『法の精神』
「モーリャック」20世紀ノーベル文学賞授賞

<Ⅲ18世紀>では工芸品や磁器の他、ちらしに掲げられた、ボルドー港を描いた、ピエール・ラクール等の絵画が並ぶ。600x565
<Ⅳフランス革命からロマン主義>
19世紀、ボルドーは海運業が衰退したが、ナポレオンの時代の1801年にボルドー美術館が設立され、町の美術活動に新たな展開を促します
ゴヤがスペインから逃れてこの地で永眠したので「闘牛」など数枚の絵が残る。この頃私は知らないがたくさんの画家が輩出したようでそれぞれに見応えありです。

またドラクロワの「ライオン狩り」が町の宝としてボルドー美術館に所蔵される。・・ドラクロワは父親がジロンド県知事を務めた関係でボルドーで幼年期を過ごし、街には今も父と兄の墓が残る。この作品は1855年のパリ万博のために政府の注文で制作され、展覧会終了後、ボルドー美術館へ送られたのだそうです。
        
ライオン狩り(火災で画面上部を失ったが、ルドンが模写しているのでそれによって完全な構図がわかる)600x356
<Ⅴボルドーの肖像ー都市、芸術、ワイン>
ルドンの作品が並ぶ。幻想の世界を描き続けたルドンはボルドー生まれです。
その他ワインに関連する作品や資料が展示されます。

フランスの一つの町の歴史と芸術を紹介したちょっと変わった珍しい美術展でした。

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2015年9月 7日 (月)

三溪園

Photo1昨日は晴れて、横浜本牧の三溪園に遊んできました。2時間かけてボランティアガイドさんに説明を受けながらの散策は、大変有意義な楽しいときでした。

製糸・生糸産業で財を成した原家、原三溪の義祖父(奥さんの祖父)が手に入れた約5万坪の土地に、三溪は日本庭園を造った。三溪は岐阜出身の入り婿さんだった。
本牧の海岸から山を成す地形には海岸から三の谷、二の谷、一の谷があって土地は三の渓谷にあったので、本名は富太郎だが「三溪」と名乗った由。園内で一番高い展望台に上ってびっくり。眼下には本牧埠頭などのある海が見え、湾岸道路があり、車の騒音が凄い。ところが展望台を少し降りると、その騒音は全く聞こえなくなり、谷(渓谷)というのは山に遮断されて、実に静かな所であると、初めて知ったのです。

その庭園に、維持が困難になった旧東明寺三重塔をはじめとする歴史的建造物を17棟(うち10棟は重要文化財)を京都や鎌倉から集め、庭の自然と調和させた。素晴らしい景観である。
三溪は実業家としてだけでなく、美術、文学、茶の湯を愛し、芸術家を援助してパリなどに留学させたり、自身も絵を描いたり、茶室を移築したり、建てたりして、近代日本文化の一端を育んだ人だった。自身は無駄や贅沢をしないで人に惜しみなく援助の手を差し伸べた人であったという。三溪の孫たちは維持できなくなり、切り売りして儲けるという話にも耳を貸さないで、横浜市に寄付したそうで、お蔭で今日私たちがこの名勝を鑑賞できることになった。
2007年には国の名勝に指定され、庭全体も文化財として位置付けられた。

正門を抜けると、左手すぐ池越しに三重塔が見え、右手にはハス、睡蓮の池が続く。池が終わった所の右手が内苑、左手が外苑。450x300
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<内苑>
京都東山の西方寺の築医門を潜ると内苑の建造物が次々と現れる。この門は東大の赤門と同じ造り。450x300_3
紀州藩の数寄屋風書院造の別荘・臨春閣は雁行型(桂の離宮にもありました)をしていて素敵な佇まいだ。450x300_4
           中を覗いてみた障子の桟が同じものがないのに驚く450x300_5
           瓢箪文手水鉢 秀吉が愛用し後年藤堂高虎に賜った450x300_6
旧天瑞寺寿塔覆堂 大徳寺に秀吉が母の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)を納めるための建築300x450_2
迦陵頻伽の彫刻が見られる。上半身が人で、下半身が鳥というのを恥ずかしながら初めて知りました。鳥の脚が見える。450x300_7
               巨木に巨大なきのこが張り付いていた。
タバコウロコタケ科ツリバリサルノコシカケ shikamasonjinさま、ありがとうございました。300x450_3
  聴秋閣 二条城内の徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築。2階は2畳しかない。450x300_8
               春草廬 織田有楽の作といわれる茶室450x300_9

<外苑>
                   松風閣(展望台)から450x300_10
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旧燈明寺三重塔 木津川の廃寺(燈明寺)の塔で、関東地方にある木造の塔では室町時代のもので最古。300x450_4
合掌造り・旧矢箆原家住宅(やのはらけ) 白川郷にあったもので現存する合掌造りでは最大級の民家。黒光りした柱が立派で、寺院に用いられる火灯窓、式台玄関がある。矢箆原家は飛騨の三長者の一人とも言われた。450x300_12
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           旧東慶寺仏殿 鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の仏殿450x300_14
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梅や紅葉が多いのでその季節はさぞや美しいことでしょう。

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2015年9月 3日 (木)

反ユダヤ思想の形成(なぜ嫌われたか)

大澤武男著『ユダヤ人とローマ帝国』
ユダヤ人(ヘブライ人、イスラエル人)はなぜ昔から嫌われ、移住先のパレスチナを追われ、ディアラスポラユダヤとして(ユダヤの民としてのさまざまな場所へと移り住んだユダヤ人とその子孫の共同体をさす)亡国と放浪の民として生き続けてきたのか?ちなみにローマ時代の統計によると、ユダヤ人は多産だったそうだ。800万人で帝国の10%をしめていた。
著書から抜粋させていただくと、

簡単に言えば、他に同化せず、自らの伝統、習慣、信仰を守り通そうとする民だったから。
ユダヤ人はヤハヴェ神を唯一絶対の神とする独自宗教と、それに基づく立法の厳格な遵守、そして強固な選民意識ゆえ他民族と相容れず、それゆえ、誤解や理解不足も手伝って、古代ローマ社会において、しばしば反感や嫌悪感の対象とされ、非難、攻撃を受けてきた。
またユダヤ民族が割礼を受けていない者とともに生きることを極度に嫌い、それを避けるということ。割礼を施すことが、逆にギリシャ、ローマを始めとする民族に嫌悪感をもたらした。ギリシャ人はそれだけでなく、ユダヤ人の閉鎖性を手厳しく非難し、その反感と憎しみはローマ人とは全然異にしていた。

こうした内部要因に加え、ローマ帝政期になるとユダヤ人は反乱や蜂起を繰り返したために、向う見ずな民、頑固で妥協性のない民族という、政治的な外部要因としての反ユダヤ思想が重なり、新たな反ユダヤ人観が生まれる。そして、キリスト教の登場で、ユダヤ人には「キリスト殺し」という烙印が押される。これ以来、キリスト教的反ユダヤ思想が中世、近代、現代まで続くことになる。20世紀にナチよってなされた想像を絶するユダヤ人の悲劇は、まだまだ記憶に新しい。

バビロン捕囚を経て、ユダヤ人を根絶させようという思想がヘレニズム時代にも皆殺し計画となって実行されようとしたがこれには勝利した。その後パレスチナのユダ王国も滅び、亡国の民となったが、シオニズム運動を経て、1948年にパレスチナの地に建国、新たにパレスチナ人やアラブ諸国と間にパレスチナ問題を抱えることになった。

ユダヤ人は21世紀の今も戒律が厳しく、他に同化しようとしないのか。アメリカに住むユダヤ人はどうなのか。イスラエルのあの凄さは宗教に起因してるのか、などいろいろ疑問が湧いてくる。

婿さんが京都出張で買ってきてくれた土産物。
「おたべ」より小さくてかわいい「こたべ」
すぐき漬けとちりめん山椒は、夏のご飯のおとも。食欲増大です。しば漬けを買うと野菜が必ず中国産ですが、このすぐき漬けは国産でした。
その数日前は小田原の鈴廣の面白い蒲鉾を買ってきてくれたところでした。
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