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2015年10月29日 (木)

『放浪の聖画家ピロスマニ』はらだたけひで著

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はて、ピロスマニってどなた?
「百万本のバラ」で歌われた貧しい画家は、ピロスマニがモデルだ。日本では加藤登紀子さんが訳詞して歌い広く知られている。
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何とも惹きつけられる表紙の絵。中を開けてみると251頁のうち半分近くは彼の代表作が完全収録されているという贅沢な本。
アンリ・ルソ-と似ているようで、めくるうちに全然違う、不思議な世界が広がる。
ニコ・ピロスマニは19世紀半ばから20世紀初頭にかけて黒海の東、コーカサス山脈の南にあるグルジアで放浪の人生を送った、1000点以上の絵を描いたと言われる孤高の画家だ。
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首都トリビシに国立美術館、生まれた村には記念館があり、肖像は紙幣になり、絵は貨幣に使われ、街には複製やモニュメントを多く見かけるという。1978年にはグルジア映画『ピロスマニ』が作者が勤める岩波ホールで公開されたそうな。
グルジアの服装をまとった人々、美しい自然や大地、動物、生活の様子、その背景の描写、色遣いなど深い味わいがあって、何度みても見飽きない作品だ。
是非どこかでご覧になってください。
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早くして父母や兄を失い、よその人の保護のもと、独学で絵を描く。働き始めても1年とは続かずさすらいの人生へと向かう。いろいろな挿話が語られるが、最後の半年はわずかな金もなく、ワインの貯蔵に使っていた暗く冷たい、寒風すさぶ穴倉の中で、野良犬のように過ごしていたという。最期は数日間病のため床に横たわったまま水も飲んでない彼を、近くの靴職人が見つけて、病院に運ぶ。その一日半後に亡くなって共同墓地に埋葬されたそうだ。
今国民的画家となって世界にも知られるようになった画家、つい存命中、1枚しか売れなかったゴッホと比べてみたりしました。

マユハケオモト(眉刷毛万年青):ヒガンバナ科 南アフリカ原産
今は使わない眉の刷毛、むしろ床屋さんで見た髭剃りの時に使う刷毛にそっくりです。近所で初めて見かけました。450x378

毎日のようにカマキリが庭で動き回っています。障子の外の網戸に張り付いて動かず。450x300
さし芽で根付いた、七色変化のチャールストンは何も変化せずに真紅のビロードのようです。450x300_2

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2015年10月26日 (月)

富士山すそ野一周ウォーキング14

2_650x56210/22(木)晴  すそ野ウォーク第14回は「精進湖民宿村から富岳風穴」18380歩。 第11回から13回までは暑さなどで飛ばしてしまって、まだ歩いていないので、田貫湖から突然精進湖にまで飛んでしまいました。

この日は精進湖自然研究路と青木が原樹海(東海自然歩道)を歩きました。
このあたりについても、富士山の爆発に関係しています。800年に爆発したころ、富士山の西山麓と三坂山塊の間に周囲23㎞の湖「セの海」があって、現在の長尾山付近の爆発で大量の溶岩を流出し、セの海を分断して本栖湖が出来、864年の爆発で残ったセの海の大半を埋め、残った所が西湖と精進湖となり、本栖湖の方もさらに縮少したのだそうだ。この三湖の湖面の標高は約900mと一緒で、地下水系が繋がっていると推測されている。

                精進湖自然研究路を歩いていく450x300
ベニタケがところどころに。有毒なのとそうでないのとあるそうで、食べない方が良いとガイド先生。450x300_2
                    精進湖に到着450x300_3
  精進湖を奥に進んで絶景ポイントへ。晴れているのに富士山が見えなかった。450x300_4
   かすかに富士山の裾野と上の方が見えたけれどこの写真では無理ですね450x300_5
              ここはかの有名な上九一色村でした300x450
    精進湖を見ながら昼食。創作和食で誠意がこもっていて美味しかった。450x300_6
               ウズラの卵をドングリに作っていた450x300_7
             マリーゴールド 高原の花の色はきれいだ450x300_8
いよいよ青木が原樹海へ
標高900~1400mの溶岩台地は数百年の間に苔が生え、草が育ち、保水力が出て樹木が生育出来る森林地帯となった。その木が倒れて腐り、土となり、幼木の栄養となりサイクルを繰り返して緑の森となった。高い所から見ると海のようで「青木が原樹海」と呼ばれるようになった。
青木が原の溶岩は玄武岩で鉄分を含んでいるので、樹海内では磁石が利かないと言われのはこのためだが、溶岩から1m以上離れれば問題ないそうだ。
「自殺の名所」となったのは松本清張の『波の塔』が昭和48年にTVドラマで放送された影響だ。450x300_9
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       途中で落雷かで曲がった場所からまた上に逞しく生えていった450x300_10
樹海の秋はカエデが多い中、一番多いのが黄葉したハート形のヒトツバカエデ(マルバカエデ)だ。こんな形の葉でカエデとは! 450x300_12
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タカノツメ(ウコギ科)の葉は3枚の小葉でたくさん落ちていた。小葉が5枚が同じウコギ科のコシアブラで春の山菜として愛されている。見上げるとあちこちに見えた。450x300_15
                    ボタンヅルの実450x300
                   センニンソウの実450x300_2
                   ミヤマシキミの実450x300_16
                    ツルリンドウの実350x238
                    ツルアリドオシの実350x233
            押し寄せるマグマがそのまま固まった溶岩棚450x300_17
到着した富岳風穴は次回に中に入るとのことでこの日のウォークは終わりました。

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2015年10月22日 (木)

忍者と隠密

見たいと思っている忍者屋敷にもまだ行かれず、映画でしか見られない忍者や隠密ってどのような関係があるのかとか、実際の活動の内容はどうなのかを気になっていました。
また、「猿飛佐助」「霧隠才蔵」「白戸三平の忍者漫画」「風太郎忍法帖」など有名な創作は名前ばかりで読んでいないので、実際「忍者」って何なのか。目的とか組織とか仕事の内容などを知りたく、図書館から借りてきました。

山北篤著『図解 忍者』

忍者といえば、伊賀、甲賀。黒ずくめの出で立ちで、屋根の上まで飛び上がったり、いろいろな道具を使いまわして相手をダウンさせる・・・時々横目で時代劇を見ながらそんなイメージを抱いてきました。

戦国の世、「忍者」という言葉はなくて「忍び」とか「嗅ぎ」とか「乱破」など名前は様々だったが、後年になってまとめて「忍び」「忍びの者」と呼ぶようになった。
それは徳川幕府お抱えの伊賀の者たちが「忍び」であったからだそうだ。
忍者という言葉が一般的になったのは第二次世界大戦後の山田風太郎の本以後のことらしい。
その任務は情報収集、敵への情報を遮断する防諜、いろいろな術を使って人を堕とす謀略、部隊同士の戦い以外の焼き討ちなどのような不正規戦など。

情報収集には密書など読めなくてはならず、忍者には教養が必要。最大の顧客は京都だ。京都で失脚した人の亡命先。山岳地帯で少人数の兵法が発達ということで伊賀・甲賀に忍者が生まれた。
しかし戦国が終わると、忍者の必要性が薄れてしまう。次第に忍者の技術が失われ、継承も困難になり、伊賀者は間者として残った。

元忍者が盗賊になってしまった有名人が5人くらいあげられるが、中で最も有名なのが釜ゆでの刑に処せられた石川五右衛門だ。
忍者の仕事が平和な江戸時代に変質していったのが隠密。
松尾芭蕉が歩く速さとか、俳諧仲間の所でなく特定の所に十数日滞在、旅費などいろいろな観点から見ると、隠密と疑われる余地が存在する。
吉宗の御庭番も隠密。本当は剣豪だがそれをフィクションで暗殺集団や隠密にされたのが柳生一族。
樺太探検で間宮海峡を発見した間宮林蔵はシーボルト事件にかかわり合うことになる幕府の調査官で、隠密とうわさされた。
幕末の討幕派には江戸市中の治安悪化狙いで乱破を使い盗賊まがいの行動をした。

他に忍者装束を始め、忍びの道具がたくさん紹介され、その使い方とともに実に多くの術が紹介され、それが結構難しく、また如何にコンパクトに携帯するかなどその工夫に驚嘆させられた。手品師のようでもあり、秘伝書もあって、戦国時代にこんな人々が活躍していたかと思うと楽しくなる。
現代の考えられないような機械器具、情報術を駆使した「007」など始めとするスパイとも一面共通する部分あるようなないような。

                                       お隣に生えたかぼちゃ?1011_338x450

                                   葉に斑が入ったカンナは初めてです45_300x450_2


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2015年10月18日 (日)

マリー・ローランサン展 府中市美術館

お陰様でブログも10年間、今日から11年目に入ります。見ていただいた皆様に感謝申し上げます。
いろいろなことがあった10年間でしたが、ブログを通して随分いろいろなことを教えていただきました。ありがとうございました。
何事もどんどん忘れていくけれども、行きっぱなし、やりっぱなしでなくて、一応振り返ってみることがとても勉強になっています。
勉強するのは若かりし頃と違って好きでもなくなったのですが、スカスカ頭にいろいろな知識が入ってくるととても嬉しくなります。
平均寿命まで十数年ですが、健康でいられるのは数年といったところでしょうか。とはいえ、今は少々がたついてきて、何時死が来てもおかしくない。一日一日を無駄に過ごさないで有意義に送りたいと思うのです。断捨離だの遺言ノートに記すなどをやったところで、また新たに出発、といっても一向に変わり映えしませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

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1週間前、お隣の市、府中市の文化祭ということで、府中市美術館で開催中の『マリー・ローランサン』展が無料でした。無料というと飛びついてしまうケチな私です。
いつもそこそこにすいている美術館なのですが、さすが入場制限していました。この美術館は、いつも画家の略年譜や説明の細かいチラシを別に作り親切です。ほかに工作部門があったり、今回は学芸員のスライドレクチャーがあって興味深かったです。
茅野市蓼科高原にあったマリー・ローランサン美術館は2011年に閉鎖され、その後は貸出展などで公開されている。今回は1点を除いた70点全てこの美術館のものです。
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マリー・ローランサン(1883~1956)といえば、ポスターに紹介されている、ピンクと青のパステルカラーで描いた少女の絵を思い起こします。20世紀のパリで活躍した画家。
私生児として生まれる。ブラックやピカソと出会い、詩人アポリネールの恋人となるも別れ、ドイツの男爵と結婚し、スペインで亡命生活を送るが、パリに戻り結婚生活も7年で終わり離婚する。とまあ年譜によれば72年の生涯を終えるまで波乱万丈の人生を送った。

自画像に始まり、風景画や静物画エッチングなどまずまず普通であった(1904~1909頃)450x192
ピカソらとの出会いにより、抽象化されていく。しかし、ちらしの「ピアニスト」のような作品でローランサンらしいキュビズムだ。(1910年代前半)380x450
1910年代後半から1920年代に「ロ-ランサンスタイル」が誕生。
輪郭線がなくなり、鼻がなく、淡いパステルカラーへ
                       「接吻」300x380
                      「三美神」327x400
ローランサンはその後、バレエの衣装をデザインしたり、舞台美術を手がける。
                      「鳩と花」400x330
1930年から最晩年までは顔には鼻が描かれ、少し作風が変化したようにも感じるけれども色彩などはあまり変わっていないように思える。
                    「三人の若い女」400x297
鉛筆とクレヨンで描かれた「馬に乗っている四歳のマルセル」と「マティナルトコケット」の犬の絵が普通でとても可愛い。450x364
解説に本展覧会では「かわいい造形の探究」に捧げられたローランサンの画家人生を辿る・・とありました。

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2015年10月15日 (木)

東京湾「猿島」と記念艦「三笠」

猿島は、東京湾に浮かぶ無人島であり、湾内最大の自然島でもあり、行ってきました。この島も日蓮上人に関係しています。

前々回のブログで、1253年に日蓮上人が安房鴨川小湊を追われて、鎌倉の松葉ヶ谷の草庵に落ち着いたという場に行きました。
その日蓮上人が安房から船に乗って鎌倉へ渡る途中に嵐に遭い、船の進む方向さえ分からなくなった時、どこからともなく一匹の白猿が現れ、船の舳先に立ち島へ案内したという言い伝えから、「猿島」という名がついたとされる。

島内からは縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土している。幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年(弘化4年)に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。
要塞跡も残されていて、国の史跡に指定されている。仮面ライダーの撮影地でもある。

三笠から乗船すると8分位で猿島に到着。往復乗車券は1300円で島(猿島公園)へ入園料は200円。450x300
横須賀の町とその背後には三浦半島の山々が見える。横須賀の町を歩いて整然として道路も綺麗で驚きました。基地の入り口も見えました。450x300_2
                                            要塞や弾薬庫跡450x300_3
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                               海岸へ降りていくと日蓮洞窟があるPhoto
                         薄暗い洞窟内はボケボケ写真では良く見えない450x300_5
                                                 海岸450x300_6
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             浜辺の植物はこういうときしか見られない450x300_10
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三笠港まで戻って、記念艦「三笠」内をボランティアガイドさんに案内していただく。東郷平八郎の銅像が前に安置されている。450x300_12
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艦内は外観より倍以上の広さに思える。大砲やマストのある甲板上は1回壊された部分。450x300_14
                 船員はハンモックで休んだ450x300_15
                  碇は5000㎏もあるという450x300_16
船首に日章旗、船尾に旭日旗、中央マスト右舷にZ旗。Z旗を東郷司令官がマストに掲げ「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」と号令を全軍に伝えて奮戦し、日本海海戦で大勝利を収めた。450x300_17
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                   菊花紋章(花弁は16枚)300x450_2
絵画 東郷平八郎はずっとここで指揮しこの場を離れなかったという。白い布地で作った弾除けは皆のハンモックで作ったものという。
東郷さんは身長が153㎝だったそうで等身大の絵画や残された軍服が展示されている。450x300_19
階級の高い軍人さんの中に皇太子妃雅子さまの母上の二人の祖父がいらして全体写真に載っていました。

この三笠公園内に「めだかの学校」の歌碑があるが、作詞家の茶木滋も作曲者の中田喜直もここには関係ないようである。450x300_20

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2015年10月12日 (月)

「伊豆の長八」展 吉祥寺美術館

424x600伊豆の長八とは入江長八(1815~1889)で、伊豆松崎出身の、東京で活躍した左官で、鏝絵(漆喰壁の鏝を使った浮彫に彩色を施した絵)で有名な人です。以前伊豆の松崎にある長八美術館に行ったことがあります。
そのすご技で建築・調度・塗額などに傑作を多く残したが、松崎では保存が進められているのに、東京では失われていってしまったそうだ。今年生誕200年で、長八美術館や個人蔵49点が吉祥寺美術館に集められた。入場料100円ですが、シルバーは無料です。

館内には漆喰(消石灰と糊と繊維が原料)の作り方の説明もあり、左官用の鏝の他、絵に使う小さなのまで様々な種類の鏝が展示されている。
漆喰原料の糊とは:海草のりで保水効果があり作業性が向上するし、粘土調整効果もある。
繊維がなぜ混ぜられるか:収縮防止や補強(つなぎ)効果を与えるのだそうで、麻に類する繊維が当時使われたらしい。

左官屋さんが鏝で壁を塗っているのは昔何回も見たことがあって、でこぼこしないように塗るのはすごく難しそうで、ケーキの側面のデコレーションのときもきれいに仕上げるのは大変です。
こんな道具であの素晴らしい絵が描けるのかと感心しました。 ここで違うことなのに、何故かレオナルド・ダ・ヴィンチらが漆喰を塗り、乾かないうちに顔料を塗っていくというフレスコ画を思い出してしまいました。

<塗額の鏝絵>
「秋江帰帆」「二見浦」「湖上観月の図」や「富嶽」など景色が描かれたのが素晴らしい。絵に目を近づけるとごく小さな凹凸があって、それが立体感をも出しているわけですが、その上にきれいに彩色されていて、鏝で描かれたとは驚きです。何という技能の持ち主なのでしょう。
        富嶽 (HPより)480x279
<塑像>
ちらしの「上総屋万次郎像」はまるで生きているみたい。「神功皇后像」などは神懸かっている。476x600
<掛け軸> とても鏝で描いたとは見えない。

<特殊作品> 印籠とか花瓶、屏風など実にいろいろ表現豊かな作品にしている、

<ランプ掛け> 龍と鷲の2作品
ちらしの「龍」をトリミングしてみると凄さがわかる。彫刻ではないのですから。
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<建築装飾>
土壁に施された作品5点、伊豆の長八美術館に保管されているもの。

というわけで、器用な日本人に、こんな人がいたという誇りを感じた展覧会でした。

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2015年10月 8日 (木)

鎌倉2・大町の寺社

600x600鎌倉寺社巡りの2回目は前回の小町に続く大町界隈で、日蓮宗のお寺が多い。
前回最後の本覚寺前の甘いもの処「谷口屋」の前を前回と合わせて5回も通ったので、帰りに甘い物の誘惑に負けて「あんみつ」を頂きました。
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8.妙本寺 日蓮宗
比企一族の居館があったことに由来する比企ヶ谷(ひきがやつ)の奥に建つ。全回の最初の宝戒寺は北条氏の館跡であったが、そこからは近い。
ここで鎌倉時代最初の源氏が滅びるまでの歴史を知ることができたのです。すっかり忘れていました。

武蔵国比企郡の豪族比企遠宗の妻・比企禅尼が子の比企能員を介して頼朝の乳母となり、能員は頼朝の側近、能員の娘は2代将軍頼家の妻になり、一幡を生む。公暁は異母弟といわれる。
頼家が重病に陥った時、北条時政と比企氏が争い、能員は謀殺され、一族及び一幡は自刃する。頼家もその後毒殺されたとも言われる。残った公暁が今度は3代将軍実朝を殺して、自分も殺され、源氏はここで絶える。
この比企一族の屋敷跡に妙本寺が創建された。開山(寺院の開創者)は日蓮とも、日蓮の弟子の日朗ともいう。開基(創建に際して経済的支持を与えた者)は比企能員の末子・比企大学三郎能本である。

        立派な総門を潜ると左手には本堂に続く方丈門がある300x450
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まっすぐ階段を上っていくと二天門があり祖師堂が見える。祖師堂の中の日蓮像は、日蓮存命中に日法が彫ったもので、ここ妙本寺と身延久遠寺と池上本門寺の三体を一本の木から造像したものという。300x450_2
        祖師堂の右側には比企一族の墓、左手には日蓮銅像。450x300_2
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                       本堂450x300_3

9.常栄寺(ぼたもちでら)
常栄寺が建つ地に住んでいた有髪の尼(座敷の尼ともいう)が日蓮が佐渡に流されるとき、騾馬に乗せられ、市中引き回しされていたときに、日蓮に胡麻のぼたもちを捧げた。450x300_4
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   香りのよいジンジャーの花が一面に咲く。キューバ、ニカラグアの国花。450x300_6

10.八雲神社
新羅(しんら)三郎義光が後三年の役に向かう途中、鎌倉に入ると悪疫がはやっており、それを防ぐため、京都の祇園社を勧請したという(1081~84頃)。450x300_7
後に子孫の佐竹氏の霊祠を合祀した。佐竹氏は後秋田県角館に入った。
ここで平安時代の前九年の役、後三年の役の勉強が出来ました。
頼朝の5代も遡って源頼義の子に3人の息子がおり

源義家=八幡太郎義家(石清水八幡宮で元服)
源義綱=賀茂二郎義綱(上賀茂神社で元服)
源義光=新羅三郎義光(三井寺北院の新羅善神堂で元服)

11.教恩寺 八雲神社から西にある一遍上人の時宗の寺450x300_8
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12.別願寺 八雲神社の南側にある時宗の寺で本堂もない。ただ市指定有形文化財・石造宝塔があるのみである。300x450_4

13.上行寺 別願寺と大町大路を挟んだ南側の日蓮宗の寺。

              門の裏側の上にある左甚五郎の彫刻450x300_10
        癌よけにご利益のある瘡守稲荷神社はお参りする人が多いPhoto

14.安養院 鎌倉と坂東三十三観音霊場3番札所 拝観料100円
北条政子が夫頼朝の菩提を弔うために開いたのが始まり。安養院は政子の法号。450x300_11
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                  政子の墓と伝えられる450x300_14
宝篋印塔 関東様式で鎌倉に現存するもっとも古い塔(1308年)浄土宗・尊観上人の墓300x450_5

15.大宝寺 日蓮宗
八雲神社の新羅三郎義光が後三年の役の後、居を構えたところで、子孫の佐竹氏が寺を建立、廃寺、再建されたという。
背後の山を佐竹山という。450x300_15

16、妙法寺 日蓮宗 拝観料300円
日蓮が1253年に千葉県安房で改宗した後、禅や念仏を邪宗と攻撃したので、迫害を受けて鎌倉のここ、松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵に入った。また同じことをして伊豆に配流され、鎌倉に戻った後もここにとどまったという。
後醍醐天皇の第3子大塔宮・護良親王の御遺子・日叡上人が1253年に再興した寺。山頂に御両親のお墓を建て、ご自身のお墓もある。

  仁王門 朱塗りなのは徳川11代将軍家斉がよくお参りに来られたからだそうだ450x300_16
              法華堂 本尊は除厄祖師で日叡上人作450x300_17
           日蓮上人が1271年までおられた松葉ヶ谷御草庵跡450x300_18
                    大塔宮護良親王御墓300x450_6
                     日叡上人御墓450x300_19
          入り口そばの花、タカサゴフヨウと教えられました。450x300_20
×安国論寺 日蓮が『立正安国論』を起草したという寺は何故か閉まっていました。450x300_22
×本興寺 見るのを忘れました。

大変長くなって失礼しました。

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2015年10月 5日 (月)

極限

スティーヴン・キャラハン著『大西洋漂流76日間』によると、
海難事故の遭難者はどれくらいの漂流に耐えられるか。その答えは海難者の90%は、海難から僅か3日以内死んでしまうという。
食物と水をとらない場合でも、人間はもう少し長い間、生きられる。
問題は精神力で、76日間の孤独と恐怖に耐え、もろい救命イカダで飢えと渇き(手製モリで魚を獲り、手製の蒸留器で飲み水確保)に苦しみ、体重は20㎏も減って暑い太陽を浴びながら瀕死の状態から生還した著者の強靭な精神は、尋常のものではない。・・・本文は悲惨さがあまり感じられないユーモアと、洗練された美しい文章で綴られているのが秀逸と思う。

エピローグで著者が語っている言葉の中で感動的な一部分を引用させていただく。
「飢えと渇きを経験し、決定的な欠乏状態と絶望的な心理状態を直接経験したことで、この地球上でつねにそうした状況に置かれている数百万人の人々の苦しみが、理解できるようになったことである。今回の遭難によって、わたしは敗北感と、絶え間ない恐怖というものを味わった。だが危機に圧倒されるのではなく、そこからなにかを学びとっていくという姿勢を身につけた」
飢えと渇きを経験していないだけでも、そのような状態に置かれた人の本当の苦しみは一生理解できない私です。

Hon_200x300食物と水をとらないで何日生きられるか?1週間以内でしょうね。
修験道の荒行・大峯千日回峰行を成し遂げた大阿闍梨・塩沼亮潤師は2000年に四無行を満行されました。

四無行とは、断食、断水、不眠、不臥を九日間続ける修行です。 四無行は大変危険な行で、無事生きて行を終える確率が50%といわれています。

ちなみに「大峯千日回峰行」とは、奈良県吉野山にある金峯山寺蔵王堂(354m)から24㎞先にある山上ヶ岳(1719m)頂上にある大峯山寺本堂まで、標高差1355mある山道を往復48㎞、1000日間歩き続ける修行です。年間4ヵ月を行の期間と定めるので、9年の歳月がかかります。1999年に満行されました。

塩沼師は八千枚大護供をもされていますが、それは100日間五穀(米、大麦、小麦、小豆、大豆)と塩を断つ前行の後、24時間一昼夜飲まず、食べず、寝ず、横にならずで八千枚の護摩を焚き続ける行を2006年に満行されました。

1000年に二人しかできなかった荒行で、どんな理由があって、どのように挑んで、心のうちにどのようなことを達成できたのかは塩沼亮潤・板橋興宗共著『大峯千日回峰行』で知りました。

今日、ノーベル医学・生理学賞に輝いた大村智氏の研究されたことが何億という人を助けたとう。お祝いの言葉を述べられた山中伸弥氏も、これからご自身も苦しむ何億の人々を助けられるように研究していきたいというようなお話をされていました。
このように世の中はどんどん研究など進んでいき、また便利な快適な生活ができるようになっていくのに、それとは反比例して無残な戦争や殺戮が行われて、ますます人類が不幸になっていくような感じのこの頃です。

                今頃スミダノハナビが咲きました
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2015年10月 1日 (木)

富士山2合目のお花畑と河口湖遊覧


今年もあと3ヶ月になりました。長いようでいて、やはりあっという間に過ぎ去りました。

昨日9月30日には、富士山すそ野ウォークではなくて、歩かない方の(歩くのをこのところ怠けています)、「ぐりんぱ」と河口湖遊覧に行って参りました。
Hバスに40人ぐらいでしたが、びっくりしたのが我々入れて6人だけ高齢者、あとは全員若者だったということです。今までは平均年齢60代後半だったのですが今日は30歳くらいか。
若者の言葉の「めちゃ~」とか私たちと使い方が反対の意味の「やばい」などのシャワーを浴びて、違う世界を歩いてきたような感じでした。4人組でもおばちゃん4人組よりは静かだったなあ。

行きは東名、ガイド嬢の、例えば、大和トンネル付近には道路上にやたら橋が多いのは、厚木基地があるため、夜など高速道を滑走路と間違えないようにあるとかのいろいろな話を居眠りしないでちゃんと聞いていたのですが、有意義な話も一夜経ってみればすべて忘れたのが悲しい。
そういえば、ドイツのアウトバーンや韓国の高速道路は有事には滑走路になると聞いて驚いたことがありましたっけ。

「ぐりんぱ」は富士サファリパークより上っていった富士山2合目の遊園地です。遊園地の方はこの日は休みで子供がいなかった。2_450x300
                       入口450x300
                 18万株のコスモス畑と富士山450x300_2
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              今日は宝永山爆発の火口がくっきり見える450x300_4
4千株のサンパチェンス畑と富士山(サンパチェンスは、インパチェンス属の種間雑種としてサカタのタネが開発した、日差しに強い花)450x300_5
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                   2万株のダリアと富士山  450x300_10
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                      ウルトラマン450x300_20
                   ススキと富士山450x300_19
次は自衛隊演習場を通り過ぎ、籠坂峠のトンネルをくぐって、東富士五湖道路を通り河口湖へ。
昼食は山中なのに「海の家」という店で、刺身とみそ汁だけのお食事でした。添乗員さんが店の意味を聞いたところ、オーナーは山の中だから海のものをでんと出し、清水港にある姉妹店は「海山」と名付けて山の食事を出すという変わったお店でした。お刺身の切り身が大きかったのと野菜が少なかったのが残念。450x300_21

河口湖ではアンソレイユ号で20分の遊覧です。
雪は被っていないけれども、ばっちり美しい富士山の姿と美しい秋の雲を堪能できました。450x300_22
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次はブドウ狩りです。御坂トンネルを抜けて甲府盆地へ。
シャインマスカットと巨峰の試食をし、シャインマスカットをお土産に1房だけ切って良いということで青いビニールの被ったのを探しました。450x300_27
夫は1㎏、私は700gで300gも差が出てしまいました。皮ごと食べられて甘くて美味しい。
右が1kg450x300_28
最後にマンズワインへ寄り、工場を見学後、試飲し、娘にお土産の辛口赤ワインを買いました。日本のワインも結構美味しくなりました。450x300_29
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                  カベルネ・ソーヴィニオン450x300_31
                     シャルドネ450x300_32
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富士山2合目

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