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2016年3月10日 (木)

『大河紀行 荒川 ~秩父山地から東京湾まで~』 伊佐九三四郎著

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この写真は昨年行った秩父三峰山付近の三十槌の氷柱(2016.2.7)の写真です。川面に氷柱が写っています。3_450x300
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こちらはWikiからお借りした長瀞の写真。(以前宝登山に行ったときのこたつ船乗船の写真は見当たらず)252x380

どちらも荒川だったのですね。大昔長瀞に行ったときちらっと荒川という言葉がインプットされていたのですが、すっかり欠如、全く恥ずかしい限りです。

『大河紀行 荒川 ~秩父山地から東京湾まで~』を上梓された伊佐九三四郎氏の講義を雑大で聞いてまいりました。
氏は五年もかけて流域を歩いてルポし本にまとめたのが2012年で、現在83歳とは思えない若さです。ビデオを交えて体験を語ってくださいました。
体験を聞き、本を読み、本当なら源流は無理としても、河口まで私も歩きたいところだが、何せ女の独り歩きは危険、男性が1人で登山などをされているのを横目で羨ましく、この時ばかりは男であったら良かったと思うのです。それはさておき。、

深田久弥の『日本百名山』にあげられる奥秩父「甲武信ヶ岳」標高2475mは甲州、武州、信州三国にまたがる。山頂直下から甲斐は笛吹川・富士川、武蔵は真の沢・入川・荒川、信濃は千曲川・信濃川の三川が太平洋と日本海側に注いでいるという稀有な山です。以前甲武信ヶ岳をテレビで見た時のこの事の驚き、是非登ってみたいと思ったが、時すでに遅し、今ではガイドを雇ってならもしかして実現可能かと、遥かなる夢を抱く身となり果てる。
この三川の中の「荒川」には途中だけでなく河口にもいろいろな物語があったので有名。

荒川の最初の1滴が出る地点を「荒川源流点」といい(地図を拡大して参照してください)、真の沢を通って8㎞以上も下流に「荒川基点の碑」があるのです。このあと暫く入川といい、三十槌の所では立派な荒川となっている。羽生まで行く秩父鉄道がずっと熊谷まで寄りそっている。
秩父は地図で見ても広く、林家たい平が自慢しているように秩父には夜祭を始め、祭りが多く、三峰信仰を中心に、路傍の信仰も篤く、ダム湖も点在する。
山城も多く、戦国争乱にも遭い、行楽地ともなり、秩父34ヵ所の巡礼地としても賑わうようになった。秩父事件の地ともなった。
長瀞の手前、皆野では俳人金子兜太の父が「秩父音頭」を復活させ、医者の弟が秩父音頭コンクール審査委員長である。

長くなるので途中は割愛して河口へ。
江戸時代、家康が幕府を開いたころは、利根川と荒川の反乱おびただしく、川の方向を変えている。
明治に入って1910年(明治43)に源流の集中豪雨で隅田川、新河岸川、綾瀬が決壊し、南足立郡、北豊島群、南葛飾郡、東京下町市街地を泥流が民家の屋根まで覆いつくした。浸水家屋27万戸、被災者150万人に及んだ。そこでなされたのが荒川下流の大規模な改修工事。現代のような権利意識が強い時代では到底無理な事業。当時でも96%の買収契約が済んだが、24名の強硬派で困難を極めた。大正2年開始、通水式が大正13年、全ての工事完了が昭和5年のことだった。これが荒川放水路である。現在は「荒川」に名前が変更された。本来の隅田川は川口市あたりの岩淵水門で分かれ、荒川の支流になった。ともに東京湾に、荒川は葛西臨海公園の所へ出る。

神奈川県と東京都の境目は多摩川、千葉県と東京の県境を流れてきているのは江戸川で河口の東京と千葉県の境目は旧江戸川が流れているというわけである。
利根川は遠く千葉県と茨城県の境目に流れが変わって坂東太郎の名前でその大河ぶりを誇っている。

ヨーロッパ、ドナウ川やライン川の堤防のない川を美しいと愛でていた私、日本は山多く渓流多く、川の氾濫にどれほど苦しめられきたかの歴史であり、治水に成功することが何よりの国と認識を新たにしたのでした。

先日行った越谷の梅園の所の川、中川は地図で見たら利根川の支流で、平井辺りで荒川に並行し、河口で合流していたのでした。

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コメント

>ヨーロッパ、ドナウ川やライン川の堤防のない川を美しいと愛でていた

そうなのですよね。
向うでは海岸線も、防波堤も何もない所もあります。
見た目は綺麗ですけれど
あれは氾濫や津波の恐れがないからこそ、できることなのですよね。

投稿: zooey | 2016年3月10日 (木) 17:49

★zooeyさま

日本みたいにやたら山が多く、集中豪雨があるとすぐ洪水、防波堤を築いても昨年はまた洪水がありましたね。
恐ろしい洪水の歴史でコンクリートで囲まれた川しか眺められないのは仕方ないことだったのですね。
この頃ドナウでも時々溢れますが、ドイツ、ドレスデンで見たのは数メートルもあって驚いたのですが、現地の人はそれでも決して驚かず、防波堤を築きません。考え方の違いも感じられました。

投稿: tona | 2016年3月10日 (木) 18:43

利根川を坂東太郎と言うのは
短歌でよく使います。
筑紫次郎も・・・

上京する時多摩川を渡るといつも
いよいよ東京と言うことで
下車準備します。

投稿: matsubara | 2016年3月11日 (金) 08:57

★matsubaraさま

暴れ川として四国三郎(吉野川)もありますね。これは見てないと思ったら、大歩危小歩危の所の川が吉野川だったのですね。
神奈川は多摩川、相模川、酒匂川と単純なのですが、静岡県は順番がさっぱりで、愛知県の方も木曽川、長良川、揖斐川とどのようになっているかわかりません。荒川近辺もとても複雑でした。

投稿: tona | 2016年3月11日 (金) 09:22

講義を受けていると、未知への期待でドキドキするものですね。
tonaさんの勉強熱心にも、頭が下がります。
甲武信ヶ岳から出た荒川は、秩父の真ん中を通っていると教えて貰いました。
たまたま秩父事件を知りたくて通った縁で、所以のある所を回りました。
事件の核心に触れる音楽堂から、荒川が真下に見えますね。
東京湾へ注ぐまでに洪水で一面水没など、昔は大変だったろうと思います。

三十槌の氷柱は近年有名になりましたね。見たいですよ。

投稿: だんだん | 2016年3月11日 (金) 18:13

★だんだんさま ありがとうございます。

はい、その通りです。
何の役にも立たない私の学びですが、殆ど自己満足で終わっているのが実情です。機会を与えてくれる今の日本の社会に感謝です。
秩父事件を勉強されていらっしゃいましたね。ですから私が読んだ所をだんだんさんは歩かれていらっしゃいますね。
あのあたりでも随分歩くところがありそうです。
現在でさえ、昨年のように洪水があったのですから、荒川放水路を造るに至った事情を知り、さぞや大変だったと想像されます。

三十槌の氷柱は感動しました。車でお出かけになれば近いでしょうね。あの日駐車場は空いていました。

投稿: tona | 2016年3月11日 (金) 19:35

こんにちは。すごい氷柱ですね。迫力十分です。荒川の歴史はとても興味深いです。ブルトーザーの建機などが無い時代に良くあれだけの工事ができたものだと思います。

投稿: 多摩NTの住人 | 2016年3月13日 (日) 17:13

★多摩NTの住人さま

ここの氷柱は素晴らしかったです。
仰るようにあんな大きな荒川放水路をどのように掘削していったのでしょうか。青山士というパナマ運河に携わった方が関わったということですね。
これがなかったら、今の東京はなかったのですね。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2016年3月13日 (日) 19:03

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