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2016年9月 1日 (木)

見沼通船掘

700x539治水に関しては遠くはナイル川(治水しないで洪水させて肥沃な土地にしたようだ)や日本では江戸時代頃のたとえば、木曽川・揖斐川・長良川の困難な事業を今まで聞いてきました。
埼玉県の「見沼たんぼ」と言えば、人と自然(多くの植物、昆虫、野鳥)が共生するところとして有名です。

昨日8/31はたんぼは見られなかったがたんぼが出来た一環の見沼通船掘見学とその歴史を聞いてきました。
東浦和の駅で降りたこの地は地図で確認すると大きな見沼の一番南側の端に位置します。

大昔海の底であったこの地が、縄文時代に海が後退し、江戸湾と分離して無数の沼・湿地であったそうな。
江戸初期から荒川と利根川がくっついていて江戸湾に流れ込んでいたのを利根川は東遷させ銚子へ、荒川は西遷させたが、下流域の洪水が減ったものの農業用水が足りなくなった。
そこで小さい2つの川の最も狭い部分をせき止めて見沼溜井を造った。
吉宗時代この溜井に田んぼを作ってコメの増産を図ろうして、干拓が行われ、農業用水確保として、利根川から約60kmに渡って用水が引かれ、 見沼たんぼの 西縁( にしべり)と 東縁 (ひがしべり) の台地に沿って水路が掘削され、農業用水が供給されました。これが 見沼代用水です。

見沼通船掘は、農業用水として利用されただけでなく、この地域の村々の米や産物を江戸に運び、江戸から物資を輸送するため、東西の見沼代用水路(農業用水路)と芝川(排水路)を繋いだ運河。高低差が3mあるので、東西とも2ヵ所ずつの閘門式運河を採用。これはパナマ運河より180年も早く採用されたものでわが国でも最も古い部類に相当する。パナマやスエズ運河は見ていないけれども、スコットランドやポーランドで見、また実際に潮来で乗って体験したので、こんなことがあんな昔に考えられて使われていることに今更ながら感心したり、治水潅漑で何の苦労もなく美味しいご飯を食べているのも、昔の人々の努力の上に今の農業を背負っている人の力のおかげだと感謝して食べます。
今は使われなくなっているが、国指定史跡で、土木技術と産業発達を知る上で貴重とされている。

      地図の見沼通船掘公園・・市民の力で竹林公園が整備されている700x467_460x307
二股に分かれたアオギリは子供が増えると言って植えられたと家の人が言っていた307x460
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       見沼干拓によってこの地に住み着いた人々が勧請した稲荷社460x307_2
   鈴木家住宅の一部 鈴木家住宅は見沼通船の船割業務を担っていた役宅460x307_3
             当時の艜(ひらた)船が保存されていた460x278
  地図にある水神社 河川輸送に携わる人たちが水難防止を祈願して祀ったもの307x460_2
                        閘門307x460_3
←通船の仕組700x467_2

                 猫を見かけるのは久しぶり400x267
       木曽路の富士塚 この富士塚には何合目という表示はなかった460x307_4
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             昼食 デザートは大豆のムースの抹茶でした460x307_6
大間木氷川神社 武蔵国一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構(1667年)。場所は地図参照460x307_7
大きなサルノコシカケ  サルノコシカケ科・コフキサルノコシカケ(オオミノコフキタケ)と教えていただきました。shikamasonjinさま、ありがとうございました。460x307_8
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見性院の墓(清泰寺)大間木神社のそばにある。
見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けた。秀忠の第4子として生まれた幸松丸・後の会津23万石の祖となり、兄家光を助け幕政に参画した保科正之の養母となって育てた人である。この地は見性院の采地だったのでここにお墓がある。
          門とお墓 入れなかったのでどれかがわからなかった。460x307_10
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                    ミソハギの畑460x307
   クサギの花 花は良い匂いがすると聞いていたが、その通り、良い香りがした。460x307_2
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10人の見学者に4人の男女2名ずつのボランティアガイドさんが付いてくださって、オカリナを吹いて富士塚で富士山の歌を歌ったり、「見沼通船掘舟唄」を聞かせてくださったり、家で取れたというミニトマトや漬けたばかりの小梅をご馳走してくださったり、郷土に愛着を持った方たちに感動しました。

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コメント

地元を愛する人に導かれてぶらぶら歩き、最高でしたね。

投稿: 佐平次 | 2016年9月 2日 (金) 09:42

★佐平次さま

ありがとうございます。
本当にそのとおりです。
自分が地元では何もしていないのをちょっと肩身狭く思ったほどでした。

投稿: tona | 2016年9月 2日 (金) 09:54

こんにちは
 
「貝沼」という地名だけは、ご訪問している埼玉県在住の方の
ブログに時折り登場して知っていましたが、こういう場所・歴史の
ある地だったとは初めて知りました。
江戸時代に利根川・荒川といった大きな河川の川筋を変え、
60キロにも渡る用水を引き… 現代でも大工事の土木工事を
ほとんど人力だけでやってのけたのだと思うと、またまた驚きと感嘆で
いっぱいになりました。そうして、田んぼができ収穫があがれば
稲荷神社を祀り豊穣を感謝祈願したのですね。
tonaさんが仰るとおり、昔の方々のこうした努力と、
現在農業を担ってくれている方々のおかげで、今の私たちの
豊かな暮らしがあるのだとしみじみ思います。
 
クサギの花の芳香、嗅がれましたか。良い香りですよね。
私は久しくご無沙汰です。
 

投稿: ポージィ | 2016年9月 2日 (金) 10:18

tonaさま
広葉樹(シラカシ?)の幹に出ている立派なサルノコシカケ科のきのこはコフキサルノコシカケ(一説にはオオミノコフキタケ)とお見受けいたしました。発生してから数年経つ老菌で傘が多層になっていて貫禄十分ですね。高所?だったにも関わらず、写真が良く撮れていることに感心します。

投稿: shikamasonjin | 2016年9月 2日 (金) 10:42

見沼通船堀 とは初めて聞きました。

江戸時代以前、または初期、江戸は巨大な湿地であり、
用水を整備して農業用水を確保、交通として水運を確保。
そして飲み水は上水として用水を掘りました。
まさに土木工事無くして、今に続く関東の繁栄はなかったですね。

ここまでは知っていたのですが、
東京湾から見れば奥の方の見沼でも、
知恵を凝縮した堀が作られていたとは!!
ボランティアガイドさんたちの詳しい説明と、
あたたかな歓迎ぶりに感激の一日でしたね。
楽しそうな散策です。

規模は小さいですが、わが稲城市にも、大丸用水という江戸時代の用水が張り巡らされています。

投稿: ☆銀河☆ | 2016年9月 2日 (金) 11:56

私、tonaさんの記事を読むまで「見沼たんぼ」と言う場所を初めて知りました。
見沼通船堀は色々の用途に利用され、今のような便利な現代になったのも
沢山の方々の努力の結果ですね。

10人の見学者に4人のボランティアの方々の説明があったりで
楽しい1日になりましたね。

投稿: ラッシーママ | 2016年9月 2日 (金) 12:50

受けられている講座の、実踏か何かですか?
踏み込んだことが無い分野でして・・・
下手な感想は言えませんので、ごめんなさい。
治水の行き届いた現場は、見たことありますが。
詳しく説明受けて、勉強になりましたね。

内容に興味は湧きました♪
自分の方向性は、昔の水戦争や耕作地の土壌を知りたいですね~

投稿: だんだん | 2016年9月 2日 (金) 14:30

★ポージィさま ありがとうございます。

見沼はとても広い地域ですが、開発が進んでだんだん狭まり、トラスト運動もあるそうです。
野鳥だけでも139種類も観測されているそうです。
家康がみんなの嫌がる江戸湾の湿地帯を今日の首都圏の元に造り変えたのですから、偉大でした。
何も機械がない時代に人力だけでよくやれたものとただただ感心します。
そして稲荷神社や水神社を農民たちが作って感謝したのですね。
時々は一日に2食はご飯にしなくてはと思ったのです。というのも、お弁当がなくなってから家での食事は、パンと麺と米という具合に粉食の方が多いではありませんか。

今年はクサギに会えたのがこれで2回目、花を引き寄せて嗅ぎました。クサギという名前を変更してあげたい感じです。

投稿: tona | 2016年9月 2日 (金) 14:48

★shikamasonjinさま

このサルノコシカケは私が今まで見た中で一番大きかったです。
木はカシノキということは葉でわかりましたがシラカシだったのですね。
サルノコシカケにもちゃんと名前が付いているのですね。追加させていただきます。
いつも教えていただきありがとうございます。

投稿: tona | 2016年9月 2日 (金) 14:53

★☆銀河☆さま ありがとうございます。

おっしゃるように、100万都市(当時世界的にも珍しく多い人口)の江戸を支える基盤である治水は初代家康の緻密な工事計画の上に成り立ったのですね。
湿地だったからそれだけいろいろな苦労も多かったわけです。
大昔の湿地帯が江戸と見沼とに分かれていたらしく、吉宗時代に江戸の食糧確保の一環として、見沼の干拓が始まったのですね。干拓すれば次は農業用水の確保ですね。
こうして日本全国お米がとれるようになった陰には、江戸時代の人々が基礎を築いたことにあるわけで驚きを禁じ得ません。

国分寺の駅ビルの上階から南を見ますと、稲城の山々が見えます。大丸用水があるそうで、通ったときには見たいものです。

投稿: tona | 2016年9月 2日 (金) 15:06

★ラッシーママさま ありがとうございます。

私は聞いてはいたのですが、浦和に降り立つのは久しぶりです。
高校の時浦和高校とわが高校が訪問しあい、運動会をしていましたので、その時一度浦和に行きました。見沼の一角には盆栽村もあるようなのです。
今までにない贅沢なボランティアさんの数、そしてボランテキアさんにご馳走までしていただいたのも初めてで恐れ入りました。私はとても案内ボランティアになれない。年齢を10年若くしないと出来ないと悟りました。

投稿: tona | 2016年9月 2日 (金) 15:13

★だんだんさま ありがとうございます。

花を見る同好会ですが、どこか行ったついでにちょこっと咲いている花を見るように変わりました。その花さえ名前を忘れてばかりです。
時々ボランテキアガイドさんが付いてくれるのがありますと、とてもよく理解できますね。
以前野火止用水を歩いたときは自分だけだったので、ただ歩いただけで由来も何も勉強してなかったし、帰ってきてからもそのままでした。

耕作地の土壌!とは。私の頭には浮かびもしませんでした。知ったら面白そうですね。

投稿: tona | 2016年9月 2日 (金) 15:27

江戸時代にもう閘門が江戸にあったのですね。
たいしたものです。
東海地方は木曽三川で多くの被害があり、薩摩藩に
助けられたのですが、結局大した効果はなくて
最終的にはオランダのデレーケの指導で改修が
なされたのですが・・・
デレーケは各地で活躍しました。

江戸では自力で改修がなされたとは素晴らしいです。

投稿: matsubara | 2016年9月 2日 (金) 16:05

★matsubaraさま

家康が江戸に入った頃は埼玉県まで湿地帯だったのですね。初めて知って驚きました。
あの3つの川は木曽三川っていうのですね。
江戸時代から被害の様子をあちこちで読みました。
オランダのデレーケですか。後で調べてみようと思います
教えていただきありがとうございました。

投稿: tona | 2016年9月 2日 (金) 19:32

こんにちは。見沼散歩は面白そうですね。仲間たちと時々歩く会をやっていますが、候補のひとつにしてみます。クサギの花は良い匂いですよね。

投稿: 多摩NTの住人 | 2016年9月 4日 (日) 15:09

★多摩NTの住人さま

コメントありがとうございます。
見沼は広くて、ここ東浦和はほんの一部です。お仲間と素敵な散歩をされてくださいね。
かねてからクサギの花の匂いが良いことを聞いていましたので、初めてで嬉しかったです。

投稿: tona | 2016年9月 4日 (日) 16:10

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