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2017年12月28日 (木)

世田谷一周区境ウォーキング第3回に参加

448x650_212/17(日)に使っている東海道歩きの地図の発行元・風人社が主催する「ホントに歩く 世田谷一周ぐるっと区境ウォーキング」の3回目に参加しました。1,2回目は他事と重なってパス。23区で世田谷区は社宅に住んでいた杉並区とその後移り住んだ武蔵野市と同じくらい住みたかった区であるが、結局終の棲家はその延長の中央線の区から大分はずれた西の方になってしまった。いざその憧れの世田谷区へとは言っても区境なのですが。

3回目は下高井戸~駒沢大学(14㎞)
ちらしの案内をそのまま写させていただくと・・・
駒場・駒沢・下馬…‥馬と共にあった世田谷の昔に思いを馳せる。三宿・池尻に明治期から増えた軍施設の名残を見る。駒沢はゴルフ発祥の地・・・とあります。

出発点は京王線下高井戸駅で正午に出発し明大前、代田橋駅あたりまでは線路に沿って杉並区の境を歩く。

    出発駅のそばにカラスミらしき食品が干してあって指をくわえて眺める
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    区境は甲州街道沿いで杉並区側に築地本願寺和田掘廟所がある
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               その隣は明治大学キャンパス
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京王線代田橋駅をくぐり線路と少し離れて玉川上水緑道と第2緑道を東へずっと歩く。(踏めなかったけれども駅へと曲がる先に杉並・渋谷・世田谷の三境集合地点がある)

ゆずり橋からの玉川上水。人口が増えて給水路が増え使われなくなった玉川上水が、1986年に20年ぶりに水を流すようになったそうだ。
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玉川上水から分水した水路が何本も出来、世田谷区内でも北沢用水(北沢川)、烏山用水(烏山川)などが農業用水として使われた。
区内では代田橋駅付近からゆずり橋までのほんの小区間が昔ながらの水路で、下流は概ね暗渠で緑道となっている。

世田谷区立の2000年公園があった。富士山プレートに経緯度・海抜が書いてあった。ここからは富士山は見えない。
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笹塚のそばでしたか、渋谷区と世田谷区の境の家で世田谷区側に住んでおられる渋谷さんの家が紹介されて笑いました。

三境集合地点 真ん中横断歩道の向こう側が目黒区、手前が渋谷区、右手が世田谷区。
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        目黒区の駒場通りの日本民芸館 以前来たことがある。
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目黒区立の駒場野公園で休憩(ここも以前来たことがある)
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ケンネル田圃 旧駒場農学校の実習田でドイツ人教師ケンネルが実習と研究したのにちなんでつけられた。今は筑波大付属駒場中学高等学校のもの。
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           駒場地蔵尊とあった(〆切地蔵とも言うのか?)
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       池尻の騎兵山に馬神碑があって人参が備えられていた
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騎兵山の反対側から上って行くと騎兵第一聯隊址があって、秋山吉古(司馬遼太郎の「坂の上の雲」がドラマと共に懐かしい)が建立した碑が建っている。
明治24年に陸軍騎兵大隊・乗馬学校が池尻に移転し、明治30年に現在の世田谷公園の辺り一帯に駒澤練兵場ができたということで、駒場の方から下馬・上馬・駒沢と実に広い地域が乗馬学校や練兵場であったことを知る。
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      北沢川緑道と烏山川緑道の合流点でここから目黒川緑道となる253x450_4
目黒川緑道は冬の今もお花が一杯で素晴らしかった。パピルスも植えられている。
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池尻大橋の高速をくぐると両区にまたがって陸上自衛隊三宿駐屯地がある。当時駒澤練兵場での急坂道訓練など過酷な訓練が行われたという。
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道標1766年(明和3)建立。西せたがや道、南ゆふてん寺道、北めぐろ道と書いてあるそうだ。
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芦毛塚の碑 1189年(文治5)、奥州藤原氏攻めで頼朝がここ蛇崩川を通った時、愛馬「葦毛」(碑では芦の字)が落ちて死亡。碑は昭和43年建立。
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この後、下馬地区の区境を歩き、世田谷区の地図で東側真ん中の尖った部分、富士エリア(富士山は見えなかった)を通り、九十九里浜のように地図ではカーブしている区境を歩いて田園都市線の駒沢大学駅へ5時頃到着。飲み会(懇親会)にも出席し、いろいろなエキスパートの方々と一緒に歩いていたのだと驚くやら感心するやらの会でありました。1月に第4回目の二子玉川までのも歩く予定です。

この1年もありがとうございました。来年もまたよろしく願いいたします。

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2017年12月26日 (火)

『鹿児島学』岩中祥史著

著者はこの本を書くために鹿児島県の全市、ほとんどの町村を訪れたそうだ。
本土の他、種子島・屋久島を経て、悪石島のあるトカラ列島、その先の奄美諸島の与論島まで普通の地図には収まらない長い県だ。
江戸時代には沖縄まで島津が治めていた。

鹿児島県で最大、最強のものは温泉で源泉の数が全国第2位(1位は大分県)で鹿児島市内の銭湯は殆ど源泉かけ流しだそうだ。
そして思い浮かべるのが桜島(この灰だけが悩みの種)。さらに指宿・霧島温泉、焼酎、黒豚、薩摩揚げ、豚の角煮、キビナゴ、サツマイモ、白熊(かき氷)、薩摩焼、大島紬。

薩摩と言えば、明治維新の原動力となった。歴史上の人物では西郷隆盛、大久保利通、島津の殿様たち、天璋院篤姫、陸軍の大山巌、海軍の東郷平八郎、伊東祐亨(すけゆき)、山本権兵衛、洋画家の藤島武二、東郷青児、歴史小説家の海音寺潮五郎。

産業は製造品は37位、農業産出額3位、畜産業の「豚」1位、「肉用牛」「鶏」2位、食料自給率(生産額ベース)は宮崎県に次いで2位。

日本一長い「海上国道」58号線があるのが面白い。沖縄本島を貫き、与論島や徳之島を飛び越し、奄美大島に58号線が現れ、次は種子島で最後が鹿児島港から700mの西郷隆盛の銅像が建つ中央公民館交差点までが58号線の全ルートだそうだ。

路面電車が走る都市は17あるが、鹿児島市のは架線柱があり、架線が少なくすっきりしている。軌道が敷設されている部分に芝が植えられている。世界でもまれだそうだが、ついこの間スペインバスク地方で見て写真も撮ってきたところだ。お洒落な感じで、気持ちを和ませ、電車から発生する熱や騒音大幅に減らし、ヒートアイランド現象を緩和する効果もあるそうだ。
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日の丸、君が代、軍艦マーチ、国産ビール、野球、那須塩原温泉、キヨスク、一橋大学。これら全てに薩摩が深く関わっていたとのこと。
それぞれ長い説明があるが、一度読んだだけでは頭に入らなかった。

一途で猪突猛進の鹿児島人。お墓参りは欠かさない篤い信仰心。
徹底して行われた廃仏毀釈でお寺が少ない県で47都道府県中44位。国宝、文化財が極端に少ない県。しかしパチンコ店は日本一多い。本土の県内のいろいろ個所の話。藩主の搾取で悲惨な島民だった奄美大島、世界遺産の屋久島、鉄砲伝来・宇宙センターの種子島など様々な角度から357頁にわたって紹介されていてなかなかに興味深い本でありました。

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2017年12月23日 (土)

荒川土手の岩淵水門と浮間公園へ

赤羽駅から東へアーケード街を抜けて荒川へ向かう。志茂ゆりのき公園辺りに差し掛かると四角い頭に丸い目が3つついたような水門(岩淵水門、通称青水門)が見えてきました。
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                            ゆりのき公園の紅葉はまだ健在(12/9)450x253_2
水門の目の前の川は新河岸川で水門の所で、隅田川と合流する。
南側にはスカイツリーが見える
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新河岸川も荒川の支流の一つ。荒川も全国の川、例えば木曽・長良・揖斐川のように反乱を繰り返し、埼玉県の農地や東京の下町の家々を洪水でめちゃめちゃにした。
そこでここの水門辺りから向こう側に荒川放水路(現在は荒川と呼ぶ)を掘り進め、隅田川と分岐して東京湾に注ぐ。(明治44年に着手、完成が昭和5年。約20年かかる)
この岩淵水門はこの日は真ん中だけ船が通れるようになっていた。大雨になると水門を閉じて荒川(放水路)の方へ流すそうだ。
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                      そばで見ると水がかなり汚い。扉の重さは214tだそうだ。450x253_6
         西の方は川口市のビル群。キューポラの街は大変身していた。450x253_7
左の赤い水門が旧岩淵水門で赤水門と言われる。大正時代に造られ、現在は使用してない。歴史的建造物として保存されている。
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                 半月がうっすらと見える
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               更にズームすると浅間山が見えた
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                  東に向くと筑波山
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           荒川・隅田川分岐点。水門は手前右手にある。
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                      荒川
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水門の近くに荒川治水資料館がある。ここで30分ばかりレクチャーを受ける。
明治43年8月11日~21日までの新聞の記事が掲載されていて、荒川が大溢れして、東京市中は「さながら阿鼻叫喚」「飢え、渇く」「チフス、コレラ発生」「餓死、死体が流れる」「収容所・孤立・苦難の日々」、あるいはボランティアのニュース、病人を背負う力士などの話が書かれていた。
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河川敷は整備され、マラソンコース(この日も行われていた)があり、遡っていくとゴルフ場や川に突き出したボードウォークがある。ただここに降りるとどぶの臭いがしてきて、まだまだ下水完備が行き届いていないし、東京湾のオリンピックもこの汚水では危ぶまれると感じた。
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荒川の源流は100名山で登りたくて果たせなかった、甲武信ヶ岳(2475m)で甲州、武州、信州の境にあるから付いた名。ここは武州には荒川、甲州には笛吹川(釜無川と合流して富士川となる…懐かしい!)、信州には千曲川(新潟県に入ると信濃川)の3つの川の源流だ。荒川は東京湾まで埼玉県をぐるっと回って東京湾まで173㎞。

ゴルフ場の左手が浮間公園だ。北区と板橋区の境界線上にある公園。ここは湿生植物によって水の浄化を目的に作られた公園だそうだ。
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             チワワとダックスフンドのあいの子。珍しい。
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                      バン
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           浮間ヶ池には鴨がたくさん キンクロハジロが多い
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帰りは赤羽から2駅先の浮間舟渡駅から乗る。約19000歩。
水辺は癒されます。

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2017年12月19日 (火)

東海道五十三次歩き14 神奈川~保土ヶ谷~戸塚(後編)

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●保土ヶ谷宿(4番目の宿)

松原商店街を抜けるとシルクロード天王町商店街に入る。
ここに保土ヶ谷宿江戸方見附跡があった。説明板に寄れば、見附は土盛をした土塁の上に矢来を組んだ構造で「土居」とも呼ばれていた。
保土ヶ谷宿上方見附跡まで約2㎞だ。

・橘樹神社 この辺りは天王町と呼ばれるのはこの神社が牛頭天王と呼ばれたから。裏に神田不動尊や古い庚申塔がある。
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商店街のお寿司屋さんが混んでいたので、ここでジョナサンに入ってサラダ、デザート、飲み物付きの水牛モッツァレラのマルゲリータの食事をした。

・帷子橋を渡り相鉄天王寺町駅をくぐると復元された帷子橋跡がある。帷子川は暴れ川で度々下流域に水害をもたらしたので、現在のようにまっすぐにしたとのこと。
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・香象院に大釜が2つ並んでいた。最大の寺子屋があったそうだ。450x253_5
この辺りから先が保土ヶ谷宿の中心である。左手はJR保土ヶ谷駅だ。

・助郷会所跡、問屋場跡を見逃し、高札場跡の標柱を見る
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・金沢横町と呼ばれる金沢・浦賀往還への出入り口の角に「かなざわ・かまくら道」など四基の道標がある。
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説明書にも紹介されているが、声をかけてくださって保土ヶ谷宿のマップをくださるお店のおじさんがいました。

・JRの線路を渡ると刈部家・保土ヶ谷本陣跡があり、現在も在住。通用門が現存する貴重な史跡だ。
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・脇本陣跡を通り過ぎると、旅籠屋(本金子屋)が当時の面影を残す(明治2年に建て替えられたものだそうだけれど)。
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・茶屋本陣跡の斜め前が、上方見附跡と8番目の一里塚跡。
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●戸塚宿との間
・外川神社 出羽三山の羽黒山の外川仙人大権現の分霊を祀っている
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・今井川、コガモを久しぶりに見た
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・樹源寺 紅葉と庭が美しい日蓮宗のお寺。本陣の刈部家が1628年に身延山久遠寺の末寺として開山した。
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・権太坂 家から駅に行く国分寺崖線の坂もきついけど、その3倍半くらいあったでしょうか。江戸からの初めての難所だったそうだ。
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      上りきったところで、大山と富士山がうっすらと見えた。感動もの。450x253_13
・栗山というお菓子屋さんで、後に見る地蔵の「おじぞうさんもなか」を買う。
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・投込塚の碑 権太坂で行き倒れた旅人や馬が投げ込まれた死体の骨が1961年宅地造成で発掘され、改葬され、ここに供養碑が建てられた。
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・境木立場跡の先に境木地蔵があった(お菓子のおじぞうさん最中になった)。鎌倉腰越に打ち上げられた地蔵を牛車で江戸に運ぶ途中ここで動かなくなったので、ここに祀ったと言われる。ここは武蔵国と相模国の国境で、境内の欅の木が目印になって境木という地名になったそうだ。
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・茶屋があって焼き餅が売られていた焼き餅坂下って行くと、9番目の品濃一里塚がある。神奈川県内で道の両側に昔のまま完全な姿で残るものである。右手は鬱蒼として塚の上にも大木が生えていた。一里塚ってかなり大きかったことが分かった。
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東戸塚駅前のオーロラシティにてタピオカドリンクを飲んで休憩。

・富士山と大山が再び見えるようになったが、国道1号線を渡ってから旧道から富士山が真正面に見えていたのが一瞬左富士が見えた。神奈川県ではあと、茅ヶ崎馬入川付近で見られるという。
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道路沿いには東海道線との間に、山崎製パン、ポーラ、ブリジストンの工場が続く。

・右手には王子神社。5時頃で境内は真っ暗。王子神社の祭神は護良親王(後醍醐天皇の皇子で建武の新政を成功させるも足利尊氏と対立し、その弟の直義によって殺害された)で、本殿の下には親王の首が葬られているという。少し離れた場所にある親王の首洗い井戸は見つからなかった。

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・斎藤家のレンガ造りの土蔵。英国人カーティスの使用人だった斎藤角次が日本人初のハム製造を始め、「鎌倉ハム」と言い、ここがその倉庫だったそうだ。
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●戸塚宿(5番目の宿)

戸塚宿の江戸方見付跡に到着。いよいよ戸塚宿。次の機会にしっかりみたい。253x450_2
10番目の吉田一里塚跡。日本橋から約40㎞。昔は一日でここまで歩いてきた!!我らは朝が遅いにしても3回目でもう真っ暗。
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下を見ると戸塚区のマンホールは駅伝選手が走っているもの450x384
戸塚駅近くの吉田大橋には広重の絵があった。橋の手前が鎌倉道と東海道の分岐点だったという。
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ラッシュ時に1時間に3分しか開かなかった「開かずの踏切」は大踏切デッキが出来て戸塚駅に到着できた。午後6時ごろ。

東海道線と中央線で地元に帰り、いつもの庄やで歩けたことに感謝して乾杯。ビール、お通しの肉豆腐の他、砂丘らっきょう、マグロとアボガドのわさび醤油、蟹詰めクリームフライ、鶏団子鍋。
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                (完)

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2017年12月15日 (金)

東海道五十三次歩き14 神奈川~保土ヶ谷~戸塚(前編)

11/29(水)今年最後の東海道歩きは、浜松の方ではなく神奈川県の方にしました。ゆっくり出発で東神奈川駅から歩き始めたのは10時20分。日の暮れが早くなって日没は午後4時半頃。最後は暗くなってペンライトで照らさなければならないほどです。37494歩。

大山街道歩きと同じく、今、東海道もずっと風人社のマップと説明書にお世話になっています。色々な本やマップがある中、一番わかりやすく、回りきれないほどいろいろな場所が紹介されている。

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●神奈川宿 (3番目の宿)

前回、宿の入り口を確認したが、その続きもお寺が多かった。そのお寺が幕末、外国の領事館や公使館になったことが東海道の最後の歴史となる。神奈川宿を見て、東京の埋め立て同様、横浜も随分埋立られていたことを知る。

・東神奈川駅を降り、少し南の京急線仲木戸駅(将軍が宿泊する神奈川御殿の警護する木戸があったとか)を抜けると、右手に立派なお寺・金蔵院がある。
平安末期の古刹。本堂前に家康「御手折梅」があったそうで、毎年1月に当院住職がこの梅の一枝を折って携えて登場するのがならわしだったという。
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・道沿いの松並木がいい
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・裏手は熊野神社は金蔵院の境内にあったが神仏分離で分かれた。御神木の大銀杏は名木古木で樹齢400年。この神社の狛犬が巨大であること、狐の像が多いなど面白い神社だ。
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・神奈川地区センターの中には神奈川宿のジオラマがあった。神奈川宿の目の前はすぐ海であったことが分かる。今は埋め立てられ見えないくらい遥かかなただ。
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センター裏の成佛寺はアメリカ人宣教師の宿舎になり、ローマ字で有名なヘボンもここに滞在した。

・線路の向こうが慶運寺でフランス領事館だったし、浦島伝説も伝わる。450x253_6
滝の川を滝の橋で渡るが橋の両側に本陣があったという。

・橋を渡った先が宗興寺でヘボンがここで診療所を開いた記念碑がある。その先にはイギリス領事館であった浄瀧寺があった。

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・洲崎大神の前が船着き場であった。頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して祀った事に始まる。この大神内の狛犬が面白い場所にあった。
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                  この日、出会った猫の顔!253x450_3
・普門寺(イギリス士官宿舎跡)の先に甚行寺(フランス公使館跡)の銀杏が見事だった
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・青木橋で京急、JRを越えるとき左手に横浜駅前のビル群がすぐそこに見えた。ジオラマや広重らの絵でもわかるように横浜駅はあの頃海の中だったのですね。
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・本覚寺 すぐ線路沿いの高台にある。
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臨済宗栄西の創建だが今は曹洞宗に。開港当時ハリスは立地条件の良いこの寺をアメリカ領事館に決めた。
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その時山門が白いペンキで塗られたそうで、これが日本初のペンキ塗装だそうだ。又、生麦事件で負傷したイギリス人が逃げ込んで、ヘボンの手当てをここで受けている。本覚寺の中には塗装業者合同慰霊碑があった
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・大綱金比羅神社に日本橋より7つ目の一里塚が置かれていた。なぜか境内に大きな天狗の木彫りの顔があってユーモアを誘う。
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・坂をさらに上がった所が湊を望む景勝地で多くの茶屋がならんでいて、今ある料亭田中屋に坂本龍馬の妻おりょうが、英語も話せて働いていたそうだ。
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・神奈川台関門跡 鶴見橋の関門同様、開港後の外国人殺傷増加に対応した。このあたりで神奈川宿は終わりのようだ。
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●保土ヶ谷宿までの間

・浅間神社
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神社のある山は「袖すり山」と呼ばれ、すぐ海が迫り、すれ違うのに袖を触れ合うほどだったことに因む。今は遠くにランドマークが見えるほど海が遠い。
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・追分八王子道(八王子から横浜で絹を運ぶシルクロードだった)と保土ヶ谷通り大山道と東海道の分岐点の追分の標柱
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・洪福寺松原商店街 この日はすいていたが日曜日は人でごった返すという、アメ横みたいな活気ある商店街が現れた。いろいろ買いたくなってしまったが、歩く旅では叶わない。
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                     (続く)

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2017年12月12日 (火)

嵐山光三郎著 『悪党芭蕉』

昔から芭蕉は幕府の隠密だったので歩くのも早かったと言われてるし、今テレビ時代劇で『隠密 奥の細道』をやっている。

題名に、「えっ、芭蕉って悪党だったの」とどのような悪党かと読んでみた。
芭蕉の周辺には危険な人物が多かった。其角や画家の英一蝶などは花街で遊び、大名や旗本の屋敷に出入りし、当主を吉原に誘ったりしてそれが桂昌院(綱吉母)の縁筋まで及び、スキャンダルとなったりし、一蝶は三宅島遠流、其角も流罪すれすれだった。罪人すれすれのところで成立した俳諧は危険な文学である。という意味で芭蕉を「悪党」としてしまったとのこと。
冒頭、芥川龍之介と正岡子規の芭蕉批判が書かれる。
芥川は「芭蕉は大山師だ」といった。実はこれは芥川の自己を投影した逆説的賛辞ではあるのだけれど、芭蕉を俳聖としてあがめることによって生じる文芸の衰弱を批判したというのである。

子規は「芭蕉の句の過半を悪句駄句である」といった。子規の論は感情的で未完成の域を出ないとしつつも、その主張は芭蕉を神格化する宗匠への批判であった。芭蕉の句を鑑賞するよりも、芭蕉の廟や碑を建てることに熱中する宗匠を風刺したのであるが。東海道にも小夜の中山など芭蕉句碑が結構あった。

ほとんどの芭蕉評伝は、芭蕉を最高指導者として芭蕉を中心にとらえている結果、芭蕉に離反した俳人を脱落者として断罪する。
しかし芭蕉は自らいうように、風狂の人であって聖人君子ではない。悪党の貫禄があり、いささかでも癇にさわると、虫けらのように見捨て、重用した人ほど切り捨てたくなる性分だ。
才ある人を育てながらも気分一つで嫌ってしまう。才が鼻につくと、もう気にいらない。それを知り抜いていたのが其角だったそうだ。
芭蕉はスキャンダルを抱えた人でもあった。妾とその3人の連れ子、甥という5人の扶養者を抱えていた。
自ら進んでスキャンダルに突入していく破滅志向があった。芭蕉には衆道がいて百日間の蜜月の旅をしたとも。死後出版された『笈の小文』がそうだ。
著者は知れば知るほど芭蕉の凄みが見えて、どうぶつかってもかなう相手ではないと結ぶ。そういうことだったのですね。

今、植木鉢42鉢を家に中に入れ(これだけで腰が2日くらい痛かった)、もう庭は荒涼としています。キクが2種とチェリーセージと千両の実だけが外で頑張って咲いているだけです。
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      蛇はダメだけど蜘蛛は大丈夫。ジョロウグモはお洒落な蜘蛛です。
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2017年12月 9日 (土)

現代アートの街ビルバオとスペイン・バスク周遊9日間(最終回)

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<7日目> 11月15日(水) 旅行のタイトルの現代アートが目立ち、美術館もある街・ビルバオに一日滞在する。この地図のビルバオの位置が違っていて海岸べりなのです。

まず朝もやの立ち込める街をアルチャンダ山展望台にバスで上がって眺める450x338
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グッゲンハイム美術館が見える。ワイナリーのそばのあのマルケス・デ・リスカルを設計したフランク・ゲーリー設計の美術館。ここから眺めるとよく似ている。4_450x338
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    バスク地方のポストは黄色い(スペインの他の地方は覚えていません)450x338_4
                   洒落たビルがある450x338_5

・グッゲンハイム美術館 外の作品とホールだけ撮影可能であった。日本でも現代美術はスルーしていて、中の作品は凄く感銘を受けたというほどではないけれど面白い。450x338_6
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1997年10月18日開館。建設費用1億ドルと作品購入費用5000万ドルはバスク自治州政府が負担。これらの代わりにグッケンハイム財団に美術館の運営、作品などの管理、財団が所有する作品の一部を回すことを提示した。この計画は成功し、政府が負担した投資額はわずか3年で回収できたそうだ。現代アートの街として大成功を収めたわけです。

外の作品
正面入り口のジェフ・ク-ンズ作「パピー」(1992年高さ12mの草花に覆われた子犬)。水は中で循環するようになっているとか。Photo
             巨大クモ「ママン」…六本木ヒルズにもあるPhoto_2
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中谷芙二子作「霧の彫刻」毎時霧が出る。丁度出ていたので出てない時の彫刻がわからない。(中谷宇吉郎の次女)450x338_8

・ビルバオ美術館
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1914年開館、2004年新館完成。約6000点作品所蔵。

旧館1階は主に宗教関係
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                   エル・グレコ「受胎告知」325x450
                  ムリーリョ「涙の聖ペテロ」338x450_2
                    スルバラン「聖母子」338x450_3
旧館2階はフランスやイタリアで美術を学んだバスク人芸術家による作品。勿論名前も作品も初めて。450x338_10
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新館2階は近代の芸術家など。ゴヤやピカソ、アルチンボルト、彫刻もあった。

昼食はサラダ(チキン、ベーコン、チーズにヨーグルトソース)、イベリコ豚グリル、コーヒープリン。

・午後は地下鉄で旧市街へ行き、教会など見学450x338_14
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       バル450x338_18
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<8日目> 11月16日(木)帰国 朝3時起きでビルバオからオランダ・アムステルダム・スキポール空港へ
アムステルダムでの待ち時間を利用して1時間のアムステルダム運河クルーズを楽しむ
2004年、5つ違いの夫と偶然同時に退職して初めて一緒に出掛けたオランダ・ベルギー。最初のアムステルダムで見学したアンネ・フランクの住んでいた家や、レンブラントの家を運河から眺めることが出来るとは思ってもみなかった。

アムステルダム中央駅(東京駅の姉妹駅) (日本では東京駅の丸の内側がきれいになった所。皇居まで道がまっすぐに伸びて東京の玄関にふさわしい)450x338_20
            運河クルーズから帰った時間をさしている450x338_21
運河クルーズ450x338_22
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<9日目>11月17日(金)の9:40に、前日14:30にKLMオランダ航空で出発した飛行機が成田に到着した。時差8時間。

秋、まだ緑がきれいなバスク地方、各都市では斬新なデザインの建物を多く見、歴史をチョット垣間見、食物も肉やサケ・マスだけのよその国と違って海鮮をたくさん楽しめました。
今回の添乗員さんも行き届いていて、随分お世話になり、美術や各名所のことをたくさん教えていただき、ここブログに記録することが出来ました。
バス移動で、総勢9人の気の良い人たちなので気疲れもゼロ、見学時間がそれほど多いわけでなく自由時間も多く(殆ど添乗員さんに付いて行って案内していただいたのだけれど)、ホテルも全部4つ星だったので快適に過ごせた思い出深い最後かそれに近い旅でした。(来年でパスポートも切れる)
長いこと読んでいただきありがとうございました。(完)

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2017年12月 6日 (水)

現代アートの街ビルバオとスペイン・バスク周遊9日間(5)

<6日目> 11月14(火) ビルバオへの途中・礼拝堂とゲルニカなど450x350
●サン・ファン・デ・ガステル・ガッチェ礼拝堂 最近のテレビで2回も見て是非行って礼拝堂の中を見てみたいと思っていたが、展望台で眺めるにとどまる。残念。450x338
ビルバオの北東約20㎞「スペインの最も美しい風景」と言われ、スペイン版万里の長城とも言われ、礼拝堂まで241段の階段が続いている。そして「世界のすごい階段7選」にも選ばれているのだそうだ。
サン・ファン(聖ファン)とは聖ヨハネ(洗礼者の方のヨハネ)のこと。ガステル=城(バスク語)ガッチェ=岩(バスク語)。礼拝堂が建ったのは9~10世紀。1886年に再建されたが、その後1978年に火事に遭い、2年後の1980年に再建されたのが現在の礼拝堂である。

               展望台に近づくと見えてきた礼拝堂 450x338_2
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          階段に2人見える 季節のせいか訪れる人が少ない 450x338_4
                 右の島が通称うさぎ島か450x338_5
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●ゲルニカ観光
ピカソの「ゲルニカ」…マドリッド、ソフィア王妃芸術センター所蔵

・レプリカの「ゲルニカ」450x338_11
バスク人の自由の象徴であった町が、1937年4月26日、スペイン内戦で右派フランコ将軍(反乱軍)を支援したドイツ軍(イタリア軍も)による空爆で罪のない一般市民1500人以上が亡くなり悲劇の町となった。世界で初めての一般市民に恐怖心を与える無差別爆撃であり、この延長線上に、第二次世界大戦のロンドン、ドレスデン、東京、重慶、そして広島、長崎への空爆があると言われる。
パリ万博の作品を制作していたピカソの耳に空爆のニュースが入ると5月1日からモチーフのスケッチに入り、6月4日頃「ゲルニカ」を完成させ7月12日に万博に出展。
フランコ将軍の死(1975年)後の1981年10月にニューヨークのMOMA美術館からスペインへ戻された。

・バスク議事堂と樫の木(オーク)
昔からバスクの人々は、樫の木の下で議会を行い、代々のビスカヤ伯は称号を受ける前に、木の下でバスクの法を守ることを誓ってきた。この誓いなしに領主として認められることはなく、19世紀まで続いた。町の議事堂として現在使われているが、バスク人の民主主義の象徴として大切な所。450x338_12
              4代目樫の木(3代目は病気で枯れる)338x450
              建物石に囲まれた2代目樫の木の幹2_338x450
                    議事堂の中と天井450x338_13
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                  樫の木のステンドグラス2_338x450_2
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・ サンタ・マリア教会338x450_5
・市庁舎広場のドン・テーリョ像(1366年町の創建者)338x450_6
・市場 毎週月曜日だけ開かれる。空爆でも残った。450x338_16
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昼食
ワイン、ミックスサラダ、牛カツレツ、チョコレートケーキ、珈琲紅茶 毎日のように昼間からワインを飲んでおりました。
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食後いよいよ最後のビルバオへ向かう

●ビスカヤ橋 2006年世界遺産
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19世紀末、鉄鋼と造船の重工業都市となったビルバオ。大型の船舶が航行できる橋の設計がエフッェルの弟子アルベルト・パラシオによりされた。
長さ164m、水面からの高さ45m。1893年の完成から内戦中に上部が壊され、通行不能となった4年間を除き、現在も使われ続ける世界最古の運搬橋。
橋を渡る。行きはエレベーターで上まで上がり、橋を歩き、帰りは車6台と300人が乗れるゴンドラでネルビオン川を往復した。ゴンドラは24時間運航で4セント、2分で到着。
                 
                      橋の上450x338_22
                     ゴンドラ450x338_23
                 橋の上からの景色450x338_24
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ビルバオでの夕食
ワイン、チキンケバヴサラダ、ソース2種のタラ料理、チョコクリームケーキ、珈琲紅茶
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(続く 次回で終わり)

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2017年12月 3日 (日)

現代アートの街ビルバオとスペイン・バスク周遊9日間(4)

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<5日目> 11月13(月) サン・セバスチャンと近郊

サン・セバスチャンはギブスコア県の県都。イベリア半島の付け根に位置し、フランスとの国境に近い。ビスケー湾に面し、さらに2つの山に狭まれたコンチャ湾に、弧を描くビーチがある。近年は、美食の町として世界中の注目を集めている。

・エドゥアルド・チリダ作「風の櫛XV」
サン・セバスチャン生まれ(1924~2002)の彫刻家の作品が海に面した遊歩道にある。
船の素材を用いて外側は錆びるが、内側は大丈夫。床に7つの穴、風や波により音が鳴るそうだが、わからなかったメッ ☆ヾ('・'*)  パリのユネスコビルに風の櫛Ⅳが1868年より設置されているという。450x338
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               この地層は約6億年前の褶曲地形450x338_4
・モンテ・イグルドの展望台から(コンチャ湾の西側の山からの眺め)450x338_5
               ズームでビーチや宮殿が見える450x338_6
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・旧市街へ向かう。 広場などは1813年のナポレオンとの戦いで焼失、1817年に再建され、昔行われていた闘牛の見学料で町を再建していった。
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                    ブレチャ市場450x338_10
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・美食の町の昼食はシーフードスープ(濃厚)、ヨーロッパヘダイ(タイ科)のソテー、チーズムース
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・近郊のアスペイティアのイグナチオ・デ・ロヨラの生家と聖堂見学

イグナチオ・デ・ロヨラは、イエズス会創始者の一人で初代総長。6人の同士の一人が同じバスク人のフランシスコ・ザビエルだ。2人は同じときに聖人に列せられた。ザビエルは中国へ上陸後、普及果たせず、すぐ帰らぬ人となった。
辺りの風景も素晴らしい。450x338_16
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生家の城館はロヨラの祖父の時代に築かれ、後に修道院として使われていた。今は博物館。450x338_18
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       博物館の中
                瀕死の運ばれるロヨラ像338x450
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        聖堂が隣接しているので見る450x338_26
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                   フランシスコ・ザビエルの像338x450_2
・夜はサン・セバスチャンのバルへ添乗員さんともう一人の方の4人で入る。
4人のピンチョス。私は発泡ワインを頼む。1軒で終わりにして帰る。
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                      (続く)

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