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2018年3月31日 (土)

皇居乾通りの桜

2/24から一般公開された今年の通り抜けに27日に友人と行って参りました。

まず銀座7丁目の島根・松江の郷土料理の店「皆美」にて<鯛めし御膳>で昼食です。
松江七代目藩主の茶人でもあった松平不眛公が汁かけご飯を好まれたことに由来し、明治21年創業のこのお店が御殿料理に仕上げたもの。
鯛のそぼろと玉子の黄身と白身、おろし大根、海苔、わさびをのせ特製のだしをそそいで頂く。年寄り向きの上品なお料理でした。

       10階のテーブルから見下ろすときれいなビルが並んでいます
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日比谷公園が意外と広いことに初めて気が付く。いつも噴水の所どまりでした。
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  随分たくさん並ぶらしい。午後1時過ぎは全然並ばずすんなり入れました。
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                      坂下門
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                     宮内庁庁舎
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                      富士見櫓
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                       局門
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                 門長屋(長屋門ではなかった)
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                       ベニシダレ
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                      道灌壕
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                       山吹
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                       乾壕
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                    エドヒガン
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                      ベニシダレ
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                       乾門
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                   和田倉噴水公園
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        家に帰ってからの夕日の空がこの日はとてもきれいでした
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2018年3月28日 (水)

東海道五十三次歩き17 平塚~大磯(3)

大磯宿(8番目の宿)の続き

・海水浴場 西湘バイパスをくぐった先に松本順先生謝恩碑と海水浴発祥の地の碑がある。初代軍医だった松本医師は健康増進を目的として日本で初めての海水浴場をここに作ったそうだ。
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・新島襄終焉の地もこの辺りだ
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・湘南発祥の地大磯の碑がある。大磯の海岸が中国の景勝地「瀟湘湖南」という湖に似ているからとか。裕次郎の葉山からサザンの茅ヶ崎が湘南のイメージだったのだが。
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鴫立庵 西行法師がこの沢や海岸で歌った「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の歌を偲び、江戸初期に崇雪が創建した。京都落柿舎、大津無名庵(義仲寺)とともに日本三大俳諧道場と呼ばれる。沢の上の橋を渡って門へ。
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                                円位堂の中の西行法師坐像
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                沢の奥の小高い丘には墓石や歌・句碑が目白押しだった
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島崎藤村旧宅 こじんまりしているが広い縁側は畳敷きである。藤村は住んで2年半、ここで亡くなる。
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・上方見附跡 大磯宿終わり
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大磯宿から二宮を経て国府津まで

・又立派な松並木が出現する
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・滄浪閣は伊藤博文の別邸。大磯プリンスホテルの別館だったが10年前に閉館したがまだ建物はある。親戚がここで結婚式を挙げた。
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・県立大磯城山公園 旧三井財閥別邸跡地。大きな公園で展望台からの景色を眺めただけにとどまった。道を挟んで反対側には旧吉田茂邸(外国からの貴賓を招くための)が火事のあと再建されたけれども時間がなくてパスした。
 展望台から富士山がかすかに見え、目を左に移すと箱根、伊豆、相模湾が一望できた。
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・本郷橋 不動川に架かるがこれは神奈川の橋100選だそうだ。100選ってこんなのまであるのですね。
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・江戸から17里
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・この日は道祖神だらけだった。馬頭の残っている観音様もあり、たくさん可愛いいのがあったけれど省略。
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・大磯町と二宮町のある中郡の二宮町に入るとじみなマンホールが目に入る
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・塩海橋で葛川を越えるが、二宮は古くから製塩が盛んで、これに由来する名前だそうだ。
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・二宮駅前の「ガラスのうさぎ」記念像 作者高木敏子は東京大空襲で母と妹たちを失い、焼け跡に父が営んでいたガラス工場で作ってくれたガラス細工のうさぎが歪んだ形で残っていた。そのあと疎開途中の二宮町で、父を眼の前で米軍の機銃掃射で亡くしたことを元に書かれたノンフィクション文学である。私も読みました。220万部を超えるベストセラー。
駅の向こうには菜の花で有名な吾妻山公園がある。
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・等覚院は藤棚で有名だそうだ。水子地蔵のお母さんに抱っこされた地蔵の子どもの他、足元にも可愛い子が二人いる。
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・日本橋から18番目の一里塚跡のあたりが大磯宿と小田原宿の間だ。梅沢の立場があって間の宿として、松屋本陣もあり大名など特権階級の人々が休憩した。
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・小田原市に入ったら又マンホール 富士山や小田原城と、どうやら女性を乗せた輦台を担ぐ人足さんがわかる。
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・浅間神社にも道祖神や庚申塔がたくさんあり、その中に天邪鬼を踏んでいる像が!
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・史跡車坂の標柱の所に、太田道灌、源実朝、阿仏尼の素晴らしい歌がありました。
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・緑と黄色に着色された不動尊が載った大山道標。藤沢の四ツ谷も不動尊であった。
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この前後道祖神などたくさん見て国府津駅に到着。帰りも茅ヶ崎から単線の相模線に乗り、橋本、八王子乗り換えで地元に。いつもの「庄や」にて遅い夕食を。若どりのジンギスカン炒め。じゃがいも明太チヂミ。お通しは肉豆腐。セロリの浅漬けなどを美味しくいただく。

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2018年3月25日 (日)

東海道五十三次歩き17 平塚~大磯(2)

平塚宿(7番目の宿) 
藤沢宿から13.7㎞。日本橋から約64.7㎞。宿の長さは1.1㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒。

平塚宿は昭和20年の大空襲によって殆ど焼けてしまって、今は脇本陣跡、高札場跡、本陣跡や問屋場跡の標柱や説明板を残すのみで面影は全くない。現在はこの通りが七夕祭りの会場である。

・江戸見附跡 石垣と竹矢来が再現されている
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・本陣跡
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・向かいに宝善院がある。なまこ壁が美しい!又エキゾチックで、いろいろな物を集めている面白いお寺だ。
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日本最初の鉄道レール、明治5年開通した新橋横浜間のレール。昭和43年東宮御所改修中に出てきて、御所の補強材に使われたらしい。
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埋め込まれた宮本武蔵ゆかりの瓦 東寺・観智院の桃山時代の瓦で武蔵がこの瓦の下で約1年半暮らしていた。観智院には武蔵筆の国宝の襖絵も残っている。
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他にバリ島の道祖神やネパールの僧正像やぼたもち地蔵、そして光悦垣も作られていた。
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・消防団の施設前に西組問屋場跡があり、施設のシャッターに広重五十三次「平塚・縄手道」が描かれていた。
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・平塚の塚 桓武天皇3代孫・高見王の娘がこの地で亡くなり棺が埋葬され、墓として塚が築かれ、ここが平らになったので付けられたのが平塚の謂われだそうだ。
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・平塚宿京方見附跡 後方に高麗山が見える。ここから大磯町となる。
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平塚宿から大磯宿までの間
・マンホールは大磯町の木「クロマツ」、町の花「サザンカ」、町の鳥「カモメ」と「大磯の海」がデザインされている。
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・花水橋からの高麗山 
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・橋を渡った左の善福寺には横穴古墳があった
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・高麗山の麓の高来(たかく)神社。江戸時代に高麗寺に属し、廃寺になって高麗神社となりさらに高来神社となった。
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昼食は化粧坂交差点近くの「たまや」でプレミアムセット・魚河岸定食煮魚系で、煮魚は銀むつ(メロ)の煮付で、味付けもなかなかのものであった。
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・化粧井戸 仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎祐成の恋人・虎御前が化粧坂のこの辺りに住み、この井戸の水を汲んで化粧したのでこの名がついたという。
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・大磯の松並木も立派だ
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・江戸から16番目の化粧坂の一里塚跡450x300_14
・広重五十三次「大磯・虎ヶ雨」も掲示されていた
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大磯宿(8番目の宿) 
平塚宿から2.9㎞。日本橋から約65.8㎞。宿の長さは約1.5㎞。本陣3軒、脇本陣なし、旅籠66軒。明治以後、歴代総理8人(伊藤博文、大隈重信、山県有朋、寺内正毅、西園寺公望、原敬、加藤高明、吉田茂)の屋敷が建てられ、この地は別荘地となった。

・大磯宿江戸見附跡 ここから大磯宿の始まり

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・延台寺 大磯駅の近くにある曽我十郎の想い人・虎御前が庵を結んだ寺。法虎庵曽我堂には虎御前の成長とともに大きくなり、十郎の身代わりになったという虎御石が包まれて安置されている。 
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            境内の虎池弁財天御神石と遊女の墓
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・小島本陣旧蹟
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・地福寺の島崎藤村と静子夫人の墓 細い柱の墓で意外な感じだ
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・明治24年の創業時のままの「新杵」で西行まんぢゅうを買う。虎子まんぢゅうは売り切れで残念。
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                        (つづく)

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2018年3月22日 (木)

東海道五十三次歩き17 平塚~大磯(1)

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茅ヶ崎の南湖の左富士は吉原の左富士とともに有名な個所。戸塚の手前にも微妙なのがありましたので全部で3ヶ所。晴れマークが出たこの日(3/15)、富士山が見られるかもしれないということでまた神奈川県に戻り茅ヶ崎から歩き始めました。あと楽しみは大磯の鴫立庵。道祖神が多い区間でもありました。JRの駅は、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮、国府津の区間です。20㎞ですがあちこちの寄り道で46973歩でした。

神奈川県は中学生からの故郷でもあり、東海道などもバスやその後は車でうろうろしていたので、知った風景だから何もなくてつまらない街道歩きになると思いきや、とんでもない。歴史的にも他にも知らないことが多いことがわかり、興味も尽きなくなってきています。
また、東海道から右側にたくさんの大山道が分岐していました。

茅ヶ崎から平塚宿までの間

・茅ヶ崎駅から北の東海道に突き当たった角の市役所に上野寛永寺の石灯籠が4つ並んでいる。茅ヶ崎のお寺などだけに随分たくさん寛永寺から石灯籠が移されたものだ。

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・東海道を200年見守った、茅ヶ崎地区で一番大きなクロマツが平成21年腐朽のため伐採され、モニュメントとして残された。こんな大きなのが、私が住んでいた頃はあったのに知らなかった。
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・湘南クッキーの自販機 藤沢から小田原あたりまであるらしい。娘にたくさんあるクッキーの中から「寄木細工」を買ってもらう。「湘南kids」「大磯の洗出」「湘南ビーチdeティータイム」などいろいろあった。
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・境内に石造物多数の第六天神社。六地蔵の頭がなくて顔を書いた石が地蔵の上に置かれているのが面白い。
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 三猿が刻まれた庚申塔や道祖神.。このあと、国府津までずっと道祖神を見る。
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・南湖の鳥居橋から少し霞んでいたが、左富士が見えた!!富士山はあとは小田原と箱根芦ノ湖からと再トライの美保の松原です。全く富士山に対する執念が我ながらあり過ぎと思う。
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 橋の先にある南湖の左富士之碑 一番右の工場の建物の左側にちょっとだけしか富士山が見えない
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・橋の右手には鶴嶺八幡宮の鳥居がある。神社は遠いのでパス。中学生の頃何度か行ったことあり。
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・神明神社にはかつて陰陽師の阿部清明の井戸があったが国道拡張でなくなり、今は碑が立っているのみ。
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・「でかまん」という店があり、1つ3500円という大きな饅頭を売っている。普通サイズは150円だそうだが、10時の開店前に通過する予定だったのであきらめていた。一目見たかったけれど。大きいのは一日何個売れるのかしら。
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・馬入川(相模川)のだいぶ手前に小出川があり、相模川橋脚跡がある。昔はこんな手前に相模川が流れていたのか。関東大震災のときに水田だったここから7本の鎌倉時代の橋脚が出てきて 今は保存のため埋められ、レプリカが置かれている。
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・日蓮宗の上国寺と信隆寺とお寺が続くが、どちらも室町時代の木造日蓮坐像がある。これは上国寺のもの。
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・スミレ この時期ハクモクレン、シデコブシ、河津桜などが見られた。
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・馬入橋のところから平塚市に入り、相模川はこの橋から下流で馬入川と名前が変わる。橋からの富士山がまたまた霞んではいるけれど大きく見えた。カメラのレンズにシミがあって富士山の写真ではいつも目立つので見苦しいです。
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・陸軍架橋記念碑 鎌倉時代には架けられていたのが、江戸時代、相模川も架橋が禁じられ、馬入の渡しには渡しが60ほどあった。明治の終わりに架橋。関東大震災で壊れ、陸軍が1か月半で橋を架けた記念碑が立っている。
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・丁髷塚とちょんまげ最中 昔寒川神社と平塚八幡宮の御輿を担ぐ若者たちが喧嘩をし、馬入村側が寒川の御輿を川に投げ入れたりで乱暴を働き、打首断罪の判決を受けた。代官太郎左衛門はその丁髷だけを切り落とし、打首に代え、その丁髷を埋めた。その手前にある弘栄堂でちょんまげ最中を買う。 
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・平塚のマンホールは七夕だ
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・江戸から15番目の馬入一里塚跡
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・平塚宿・江戸方見附手前の路地裏に「番町皿屋敷」で知られるお菊の塚がある。お菊は平塚宿役人・真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本・青山主膳の屋敷に奉公にあがったが、家宝の皿を割り手打ちにされた。平塚に戻った娘の骸を父は刑死人の例にならい墓を作らず、木を植えて墓標としたという。
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故郷ということもあって茅ヶ崎に力が入って長くなりました。

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2018年3月19日 (月)

『インド人の秘密』パヴァン・K・ヴァルマ著

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シキミ  丁度お彼岸の頃に咲き、仏壇や墓に供えたりする。公園に咲いていました。

暖かくなるまでは家で読書も多く、行き当たりばったり読書です。

『インド人の秘密』パヴァン・K・ヴァルマ著

本の中からちょっと抜粋。
不屈の精神ーいつも最悪を覚悟
普通であれば絶望してしまいそうな環境の中で、希望を見出していることに、本当に驚きます。極貧民でも敗北を認めません。貧困を美化するつもりは一切ありませんが、インド人は平然と、事態が少し悪いくらいでは幸運だ、と最悪を覚悟しているのです。厳しい状況があまりに長く続いたので、不屈の精神が培われたのでしょう。耐久力が身についています。人生に障害はつき物と考え、すぐ落ち込んだりはしません。無頓着に冷静にことを処理していきます。デリーのオートリキシャ(三輪のタクシー)の後ろにこんな標語を見つけました。「起きるときは起きる!」

モンゴル、トルコ、ヨーロッパの支配力とは異なり、領土を拡張する目的で軍による征服をしようとしたことは1度もない。
カースト制度、男尊女卑、インド人の消極性。
一方、どんな悪環境の下でも金儲けに専念できる性格 権力の誇示、ステイタスの重要視、結果が良ければ手段を選ばず、何をやっても正当化、長いものには巻かれろ、人間関係に距離を置く、ごますり・お世辞、妬み、服従心と敵対心、派閥主義、政治家堕落、優れたIT関連頭脳・数学・天文学と占い術、製薬、迷信、汎インド人、インドに住むムスリムとはあまり問題を起さない。

人口13.2億人、混沌とした複雑な内面を持つインドはなかなか理解しがたく、一筋縄ではいきません。



『精霊の民 アボリジニ』白石理恵著 世界人類問題叢書8

ヨーロッパ人は探検家が大変な努力を重ねて、大海や砂漠やジャングルを越えて、訪れたことのない地に到達すると、その地を発見したと表現した。
オーストラリアの場合、アボリジニがその地に誕生あるいは移住してき、昔からそこで社会を形成し、それぞれの宗教や文化や思想を発展させてきた事実を侮り、その民族の業績と能力を無視しようとする。そして既存の海岸沿いの集落を崩壊し殺戮し、あるいは白人の持ってきた伝染病で死亡させ、白人が増えるにしたがって人口を支えられなくなり、さらに襲撃し砂漠の方へ追いやり、害虫と同じ駆除すべき対象とした。そのためアボリジニの文化は壊され、人口は極端に減少し、砂漠地でさらに困窮した生活を強いられたようである。
平均寿命は1993年と古い統計ではあるが、男性は50代、女性は60代と低く、乳幼児死亡率は60%以上と書いてあった。
白豪主義の政策のもと、アボリジニは進化過程が白人のレベルに達していないと信じ、他の人種に対して非人間的な行為を犯し易くなった。その結果、はかり知しれない数のアボリジニーが悲しみと悔しさと怒りに満ちた人生を送った。

アボリジニから驚くことは、芸術の位置づけ。美術も音楽も演劇でも、この人々は日常茶飯事的に芸術性を発揮する。みんな子どものときから歌い手であり、踊り手であり、詩人であり、絵描きであるようにそだっていくのだ。
現代の私たちにとり、芸術の才能とは運よく素養を持って生まれた人が努力を重ねて習得する特殊技能だ。そして成功すると「芸術家」としてスポットライトを浴びる。いったいいつから私たちはこのように、本来は誰でもが持っている、心で感じたり表現したりする能力を「才能」と呼ぶようになり、才能が「ある人」と「才能がない人」に分かれてしまったのであろうか。世の中が便利になった分、私たちの感性が退化してしまった気がする・・・と書いてあってはっとしました。






 

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2018年3月14日 (水)

鎌倉17 大船駅東口~今泉(最終回)

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3/12 今回で鎌倉寺社巡りも最後になりました。大船駅東口のお寺を巡った後、鎌倉湖(散在ガ池)近くの神社や不動尊に廻って、全行程を終えました。
2015年の9月16日に鎌倉の小町からお詣りを始め、足かけ3年半にわたってしまった長い寺社巡りとなりました。
山折哲男監修・槇野修著『鎌倉の寺社122を歩く』には大変お世話になりました。横浜や藤沢も少し紹介されていたり、道筋から外れている所が廻れなくて105ヶ所ではありましたが、大仏をはじめ、仏様や格式ある建築、谷戸ややぐらの数々、歴史を行き交った人々のお墓、天然記念物の樹木やお花の数々、可愛い江ノ電、富士山の見える海、鎌倉野菜や海の幸の料理などを味わった、17回にわたる日帰りの旅でした。

99 常楽寺(大船) 臨済宗建長寺派
この辺りをもともと粟船という地名で、大船の地名はこれに由来する。
「御成敗式目」を制定した三代執権北条泰時の墓があり、鎌倉に禅林を隆盛させた宋僧の蘭渓道隆が住持をつとめた古刹である。その後道隆は建長寺の開山となる。

                 市指定有形文化財の山門

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                近世禅宗様仏殿(1691建立)
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               本尊阿弥陀物は修理中でした
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                 仏殿の裏の北条泰時の墓
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                 仏殿右手客殿前の和風庭園
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山門手前を左手の山道を行くと木曽義高の墓がある 
木曽義高は、木曽義仲の息子で、人質(頼朝と政子の娘・大姫の許婚)として鎌倉に送られていたが、義仲の死後殺された。僅か11,2歳であったという。
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                  これは泰時の娘・宮姫の墓
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           キランソウやヒメウズやキュウリグサが咲いていた
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100 多聞院(大船)真言宗大覚寺派 1469~87年創建 
風情のあるお寺。ここの御本尊も修理中であった。
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                    玉縄桜でしょうか
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                    ミツバツツジ
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101 熊野神社(大船)日本武尊が祀られる。多聞院に隣接。
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102 大長寺(岩瀬)浄土宗 
玉縄城主だった北条綱成により1548年(天文17)創建された。屋根などに三つ葉葵の紋があるのは、家康が当寺を篤く信仰したから。というのも開山の感誉存貞が芝増上寺の第10世であったからだ。
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       サルスベリの樹液は黄色で遠くから見るときのこのようだった
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                                           昼食はお寿司
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103 白山神社(今泉)
頼朝が鶴岡八幡宮の北にあたる当地に毘沙門堂を建立したのが始まり。
前にある注連縄が面白い。三つ編みが7~10くらい輪になっているのがたくさん連なって。
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                               境内にある子守神社の狛犬も可愛い
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104 金泉寺(今泉)かつての別当寺で神社に隣接している
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105 称名寺(今泉不動)(今泉)浄土宗 1693年に芝増上寺より山号寺号を与えられた。

                                 玉縄桜と札がかかっていて満開
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                                      六地蔵が迎えてくれる
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                 本堂を過ぎると不動堂へ
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              奥に三十六童子の石像が並んでいた
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                その上に大日如来石像がある450x300_27
                      三猿
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                      陰陽の滝
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                     サンシュユ
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                        (完)

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2018年3月11日 (日)

不動山(長瀞と寄居の間の山)

2/28 不動山(549.2m)標高差約300mに登ってきました。約3か月ぶり。
秩父鉄道の長瀞駅の寄居より一つ目の駅「野上駅」より登山開始。寄居駅からは3つ目で440円でスイカ等は使用できない。高くて不便という印象。
平均年齢が70代なので不動山だけとする。普通は寄居方面に向かって「雨乞山」「陣見山」と縦走するし、もしくは長瀞へと。
それは、ここから長瀞の宝登山に向かって長瀞アルプスへ連なり 総距離約4.5kmなのである。ちなみに日本にアルプスと名がつくのは50あるそうだ。

走り出した電車から秩父鉄道の駅に停まっていた電車を写す。ひどいボケ写真です。

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                          野上駅で降りると周りは山に囲まれていた
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    桑の木の冬姿 養蚕をまだやっているのか?他に理由があるのでしょうか?
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         空を見上げると突然黒い部分とそうでない部分に分かれていてびっくり
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            地図にもあるが、この辺りには長瀞射撃場やゴルフ場がある。
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                                       苔不動石尊登山口
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緑色の石に覆われた山で、三波石(さんばせき)の種類だと同行の方が教えてくださった。
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やがてこんな急登となった。ロープに頼ったり、這いつくばったりで、低山なのに本格的な登山らしくなる。
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苔不動尊に到着する。途中一人だけ下ってくる人に会ったがその人によると、1年に1回、2月28日に信者が登拝し、塔婆を立ててきて、他の人々は車道が近いので車で帰ったとのことであった。なるほど、塔婆は新しく「家内安全」や「無病息災」「交通安全」「闘病平癒」などと書かれ、H30.2.28が記されている。
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不動山の名の由来は、山頂南側直下に「苔不動」と呼ばれる不動明王を祀った霊場がある事による。苔不動は、この青石採石の遺構の一つで、片岩層を削りとった幅30メートルもの壁面に苔がはえ、それがあたかも不動明王の姿に見えたという。麓の洞昌院(長瀞秋の七草寺・萩寺)の奥ノ院である。

ここから少し登り車道に出て、また少し登ると不動山頂上、三等三角点があった。周りは雑木と藪で展望なし。
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雪がまだ残っている。下の道路の一分は一面の雪でアイスバーン状態。秩父は寒いのですね。
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                 少し下った所からの展望
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       シイタケなどの榾木を切っているところ。3人が働いていた。
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ダムかと思ったら、ゴルフ場の芝の農薬などで汚れた水などを浄化して流している所だそうだ。この日は流れていなかった。
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というわけで、いろいろ教えられ、おしゃべりも楽しく、とてもいい運動になって気持ち良かった登山でした。

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2018年3月 8日 (木)

『獄中記』佐藤優著

何故筆者が512日間も獄につながれていたのか?内容を全然知らないで来ていました。
それは国後島ディーゼル発電機供与事業に関して、積算価格を三井物産に漏洩するという行為に、直接、もしくは間接に関与したこと。
もう1件はテルアビブ大学主催国際学会への日本人学者などの派遣、ゴロデッキ―大学教授夫妻の訪日招聘に支援委員会の資金を支出したこと。つまり背任・偽計業務妨害という微罪容疑だ。これらに筆者は一切関与してなく、外務省の組織決定に従ったと。
佐藤氏は国策捜査の主要ターゲットではなかった。鈴木宗男氏が標的で、そこに行き着くために佐藤氏を捕まえることが必要だった。そして鈴木氏と佐藤氏が絡む刑事事件を作ることによって、従来の政官関係を断罪するというのが東京地検特捜部の策略だったと見た。
鈴木宗男氏は1991年のリトアニア訪問で杉原千畝の名誉回復に貢献した人だったことを知った。

小菅刑務所で著者は検察や東京拘置所に対しておもねるつもりはないが、皆仕事熱心で、公益に対するそれなりの信念をもっており、人間として尊敬できる人立ちだと書いている。看守たちも囚人心理の洞察に優れ、人間的優しさを持った好感を持てる人々であったと言っている。

512日間、公判など裁判の準備がそれこそ多いわけだが、著者の勉強、読書の内容には仰天の何物でもない。

この方は同志社大学院神学研究科を出、イギリスとロシアの大使館に勤務後、外務省の首席分析官として活躍。クリスチャン。
獄舎では1回に持ち込める本の数も数冊に制限されるが、最初はラテン語、ドイツ語、広辞苑の勉強から始まり、専門の域でしょうが哲学、聖書関係の書が多い。
マルクスは言うに及ばず、ヘーゲル、ユンゲル、ハーバーマス、ミル、ディルタイ、フロイト、チャーダーエフ等々きりがないのでやめておきますが、凄い著書を原書でも読んでいる。
ロシアのセルゲイ・アルチューノフ教授は40ヶ国語ができ最初に勉強したのは日本語やアイヌ語で日本に留学し、博士号を取り、世界の食文化、北方少数民族研究、コーカサス研究に打ち込む歩く百科事典でロシアやアメリカの大学教授でもある・・・というようなすごい人の話がたくさん出てくる。
日本人では『太平記」など他、多川俊映、高崎直道、武村牧男、横山紘一などなど、私が今後絶対に読まないような難解な本を次々読みこなしていく。

ある日の監獄の食事・夕食 ビーフカレー、シーフードサラダ(イカ、エビ、グリーンアスパラ)、福神漬、ヨーグルトドリンク。
元旦のメニュー 朝食:白米飯、大根味噌汁、イカ塩辛、芋きんとん
        昼食:餅、雑煮、焼きそば、メロン、牛乳
        夕食:白米飯、ビフテキ、コーン・人参・グリーンピース、タラコスパゲッティ、ベーコンクリームシチュウ、カフェオーレ
そして元旦の配給品 
 〇紅白まんじゅう
 〇折詰 カニクリームコロッケ、鶏唐揚げ、ミカン・パイン・チェリーの缶詰、野沢菜と大根の漬物、シイタケ煮付、竹の子煮付け、昆布煮付、豚肉角煮、塩鮭、ボタンエビ、数の子、羊羹、酢だこ、昆布佃煮、だてまき、紅白蒲鉾、豆きんとん、黒豆。
我が家よりずっと凄いではないですか!
そして2年目には空調の効いた独房だったので快適だったとか。1年目の夏暑く冬寒さに奮えていたのとは別天地。

佐藤氏は今次々本を出版されているが、獄中に60余冊のノートも取って勉強したことも反映されているようである。2002年5月から2003年10月までの拘留は自身の人生に有意義な時間をくれたようなことも書いている。獄中はとても居心地よく、もっと居たかったくらいだと。

またこの人の強さを知った1冊でもあった。紹介に寄れば、接見禁止のカフカ的不条理の中、外交官としての死を受け入れ、神との対話を続けながら世捨て人にならず、人を恨まず、嫉妬せず、裏切らず、責任転嫁せず、転向もせず、人間としての尊厳を保ちながら、国家公務員として国益の最大化をはかるにはいかにすべきか?この難題を哲学的ともいうべき問いに取り組んだ獄中ノートだ。

           最初出る葉が黄色い「カネノナルキ」を見ました
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2018年3月 5日 (月)

東海道五十三次歩き16 舞坂~新居(後編)

本日、前編で書いた浜松の新玉ねぎを売っていたので早速買って来て、生噛りしたところ甘味がありました。値段は3個で197円+税でした。サラダや煮たり焼いたり楽しみです。

◆舞坂から新居までの間 浜名湖を渡る。風が吹き渡って実に寒い。右手には自動車道の他、東海道線と新幹線があって、新幹線が数分おきにびゅんびゅんと飛んで行く。
これらがあるために右手奥の浜名湖が殆ど見えず、浜名湖競艇場さえも見えず、帰りの電車からわずかに浜名湖が見えたのでした。

・先ず弁天橋を渡る。橋を渡った先の右手にはJR弁天島駅がある。昔弁天島の辺りは白砂青松「天橋立」のような風景が広がっていたが、地震で砂洲が壊れてから洲崎の一部であった弁天は湖に取り残されて島になったそうだ。
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・弁天神社 江戸時代1709年に今切渡海安全のためにこの神社が建てられた。境内に「天の川 濱名の橋の十文字」という正岡子規の句碑があった。
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・弁天島シンボルタワー 鉄鋼製で高さ18mの鳥居で、1973年(昭和48)に舞坂町観光協会が建設した。潮干狩りの名所。
浜名湖ではアサリ、スズキ、黒鯛、鰻、穴子、シラスウナギなどいろいろな漁業が行われ、最多漁獲はスズキ。秋から冬にかけてはトラフグ、牡蠣の養殖も盛んで、隣の新居町で牡蠣剥き場を見た。
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・弁天島から新居の方を眺める
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・長かった浜松市が終わり、中浜名橋を渡ると湖西市に入る。この辺りは手筒花火が有名で、これは手筒花火のモニュメント。右手は新居町駅だ。
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・浜名橋には広重などの絵が数枚紹介されている
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●新居宿(31番目の宿)舞坂宿から5.9km 日本橋から約284㎞ 本陣3軒、脇本陣なし、旅籠26軒。

・新居関所 徳川幕府は江戸を守るため、全国に53ヶ所の関所を設けた。新居に関所が出来たのは1600年だ。地震や津波の被害を受けて移転を繰り返し、現在の場所になったのは1708年。今切れの渡しの渡船場業務もあり、新居関所は箱根関所と並ぶ東海道の重要地点だった。
現在の遺構は幕末1855年再建のもので、昭和46年解体修理を行い、江戸時代の関所で全国で唯一現存する建物だ。関所が廃止されたのは1869年(明治2)で約270年の役目を終えた。

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面番所 旅人を取り調べる役人が控えていた所。関所役人は番頭や給人まで併せて40人前後が交代で任務にあたっていた。
関所を通行するには「関所通行手形」が必要で、武士なら藩の担当役所が発行し、庶民なら自分が檀家になっている寺が出すほか。村長さんに相当する名主・庄屋が発行する。手数料は数百文。内容は氏名、生年、住所、宗派。
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あらため女 「入り鉄砲に出女」と言われ、江戸に持ち込まれる鉄砲や武器に目を光らせ、江戸から出る女性に対し特に厳しい調べを行った。女手形が必要だった。多くの女性がこの関所を避けて姫街道に行ったが、<女城主直虎>に出てきた気賀にも関所があった。
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                                                中庭
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渡船場跡 復元されたものであるが、今は周りは全部埋め立てられて面影はない。
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大御門 午前6時からから午後6時まで開けていた。屋根付きの高麗門。
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                                門のそばにある復元された高札場450x300_13
関所の隣のあと引き製菓で名物の「あと引き煎餅」を買う。瓦煎餅系である。固いけれども美味しい。
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・旅籠「紀伊国屋」は紀州藩の御用宿 昭和30年代まで旅館業を営んでいたという。
お雛様が飾ってあった。御殿飾りと言われるお雛様。とても豪華だ。
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                                                   庭 450x300_19
                           枕                           手筒花火
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                     客間
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・小松楼(大正期の芸者置屋)多い時で60~80人いたという。道に面する2階廊下の手摺りの角度に工夫が凝らされているという。道から見上げた時、きれいどころの姿が美しく見えるようにと。
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                     お雛様
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                       部屋
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・本陣の一つ、飯田武兵衛本陣跡。
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・東海道はここで直角に左に曲がる。その一つ向こうの通りが寺道である。手筒花火のお祭りをする諏訪神社や朝鮮通信使一行の無事を祈って奉納した関所稲荷が神宮寺にあったりする。
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・寄馬跡 宿場には常に100人の人足と100匹の馬が用意されてたが、足りない時は助郷制度で近在の村々から人馬を寄せ集めた、その溜まり場。
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・湖西市のマンホールは関所に松と波に千鳥
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・いさごやで「はまぐり」というお菓子を買う。蛤の形をしていて中に栗が入っている。
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             家康くん弁当が遂に浜松の駅で手に入る
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                    (終わり)

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2018年3月 2日 (金)

東海道五十三次歩き16 舞坂~新居(前編)

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◆高塚から舞坂までの間
昨年浜松駅から一駅の高塚駅まで歩いておいた。9時頃から浜名湖手前の舞坂宿と浜名湖を渡った先の新居宿に向かって歩きはじめる。この日は34351歩。
東海道線は高塚~舞坂~弁天島~新居町駅

・駅の近くに「麦飯長者跡」がある。高塚に五郎兵衛という長者がいて、明治維新の頃まで人の区別なく街道を行き交う人々に、湯茶を接待し、空腹の人には麦飯を食べさせていたので「麦飯長者」と言われるようになった。小野田の姓を許され、村役人、庄屋を努めたそうだ。偉い人がいたものです。
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   暖かなこちらはギョリュウバイやエリカなどの花がきれいに咲いている
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・常夜灯 秋葉常夜灯などこのあと街道筋には次から次へと現れて驚くほどの数だ。
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・篠原立場跡 街道の施設として本陣、脇本陣、旅籠屋、問屋場、そして高札場や一里塚や並木(松)などを多く見て来たわけですが、立場というのもあった。
立場というのは宿場と宿場の間の村の沿道に置かれ、人や馬が休息し、湯茶や簡単な食事を提供する施設。
ここの立場は立場本陣と言われ、大名など身分の高い人達が多く休憩した。明治天皇も明治元年に休憩されている。
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・66番目の一里塚や高札場跡(吉田藩はあちこちに高札場を設置していた)などを過ぎる頃、日本一早く出荷する「新玉ねぎ」の畑や、収穫されているのを見る。篠原地区は白玉ねぎの一大産地だそうだ。
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・稲荷神社・・・珍しい赤い両部鳥居がある。両部鳥居というのは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。厳島神社や熊野速玉大社が有名。
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・春日神社 舞坂駅のすぐ手前にある。春日大社と関係あるのか?拝殿前に狛犬ならぬ雄と雌の鹿が迎えてくれる。非常に珍しい。
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・舞坂駅の所から今までで一番立派な松並木が現れた。700mの間に340本あるという。
害虫駆除など維持が大変という。
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松並木の右側には十二支をかたどった石に其々の説明が彫られたレリーフがあり、左側には東海道五十三次のレリーフが品川から始まり京都三条まである。
      最後(京都側)にあった、亥の刻、横から見ると猪の形をしている
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                     品川宿
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              舞坂宿のはさすが1つだけ大きかった
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・浪小僧  網にかかった真っ黒い小僧を漁師たちは殺そうとしたが「助けてくれれば御恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったときは、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言ったので海に返すと、それ以来天候の変わり目に波の音がするようになったという。
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●舞坂宿(30番目の宿)浜松宿から8.8㎞ 日本橋から約278㎞ 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒。

・見付け石垣 舞坂宿の東側の道路の左右に残っている。江戸・京都方とか東・西方見付という言い方ではなく石垣で表されている。
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・家は古くないけれど、宿場らしい雰囲気の舞坂宿だ。舞坂一里塚跡のあたりから「ぶち海苔」と呼ばれる青と黒の海苔を混ぜたのや「しらす」の看板を出す魚屋が多くなる。
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・宝珠院に舞坂の海苔産業に貢献した森田屋彦之丞と大森三次郎の供養碑がある。
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舞坂宿の見学の前に浜名湖のそばの「つるや」といううなぎ屋で昼食にする。このうなぎは2段になっていてボリュームがあった。浜名湖の養殖鰻は最盛期の三分の一にまで減少したが、海苔、牡蠣、スッポンなどの養殖が盛んである。
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・舞坂宿脇本陣 東海道に唯一現存する脇本陣の遺構で天保9年(1838)建築の茗荷屋脇本陣の書院棟を復元したもの。大名用の上段の間を備えた見事な建物。
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       奥の上段の間から中庭、玄関の方を見る。厠。庭。台所。
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・一里塚と常夜灯
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・浜名湖はかつて閉じた淡水湖だったが、室町時代の大地震明応7年(1498)によって湖と海とを分けていた砂洲が流され、1里(約4㎞)の切り口が開き外界とつながった。そのためこの辺りを「今切」(いまぎれ)と呼ぶようになり、船で渡ることになったのが「今切の渡し」である。舞坂宿は渡船場として大いに賑わう。雁木(舞坂ではがんげと呼ぶ)と呼ばれる階段状の渡船場が3ヶ所あり北雁木だけが現存している。北雁木は大名や役人用、中雁木は武士用、南雁木は庶民と荷物用だった。
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                       (続く)

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