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2019年2月24日 (日)

外濠を歩く(完)

外濠巡りも、「のの字」の最後の御茶ノ水駅から秋葉原、浅草橋駅まで総武線の二駅分で寄り道しないでさっさと歩くと30分もかからない距離でしたのでまず御茶ノ水で寄り道、最後は浅草橋から本所吾妻橋まで都営浅草線に乗って行き、あんみつとお茶でくつろぎ、「たばこと塩の博物館」に寄りました。

最初の寄り道は、ニコライ堂(東京復活大聖堂)で午後1時から開く。中は撮影できない。入場料300円でローソクを貰い灯す。設計はミハイル・シチュールポフと有名なジョサイア・コンドル。ロシアの聖ニコライによって1884~1891年に建てられた日本正教会。関東大震災で崩壊したが復興された。ビザンチン様式。中にはイコンが飾られ、ルーマニア、ブルガリア、セビリアの聖堂を思い出す。
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聖橋からの眺め。  運良ければ5本の電車が見られる。濠や神田川の水もあまりきれいとは言えない。
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「現在お濠の水質浄化作戦が行われている。
お濠の水の汚さ、気になっていたのですが、内濠には浄化施設が造られ、生態系のバランスを見ながら進められている。
この間歩いた市ヶ谷から飯田橋までの外濠は内濠の様に流れを作ることが出来ず、4半世紀、浚渫が繰り返されている。今回は来年のオリンピックに合わせて一番汚い市ヶ谷濠から初めている。今までの様な悪臭を防ぐため送泥管で二駅先水道橋方面まで送り、小石川の所で土運船へ、これが曳船に曳かれ、東京湾最後の埋め立て地の「新海面処分場」へ行くそうだ」

湯島聖堂に寄り道。
徳川綱吉が建てた孔子廟で、後に幕府直轄の昌平坂学問所となった。昌平は孔子の生まれた地名。

         入徳門 1704年建造の関東大震災で水屋と共に残った門

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                再建された大成殿(孔子廟)
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屋根には鯱のようなものと西洋の雨樋の役目のガーゴイルみたいのが乗っている
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                       孔子様像
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楷樹 枝や葉が整然としているので楷書の語源になった木。孔子の墓所に植えられ、今まで植えつがれてきていて、これは大正4年に種を持ち帰って苗に仕立てたのが最初だそうだ。ネットで見るとなるほど整然とした葉で紅葉し赤い実もできる。その様子を見てみたいものだ。
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昌平橋 古い!
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10_314x450旧万世橋駅の遺構を見る  

総武線からこんな所が見えるはずなのですね 
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                     万世橋
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                レンガ高架は万世橋駅遺構
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柳森神社 船に乗った時も見えて印象に残っている
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橋を渡って柳森神社に入ってみる。柳森神社は富士浅間神社を合殿、合祀した。富士講に関わりがあり富士塚も築かれた。
富士講関係石碑群 富士講が廃れて富士塚が破却されたため石碑を集めた。その富士塚も都内と周辺にはまだ50ほど残っていわれるが、本を買って私が行ったのはたったの6ヶ所にすぎない。
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おたぬきさん福寿神 由来は5代将軍の御生母桂昌院様は八百屋の娘だったが、春日局に見込まれ、家光の側室となった。他を抜いて玉の輿の乗った院の幸運にあやかりたいと、こぞってお狸さまを崇拝したことよる。
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                   狸像
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                     お稲荷さんか
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              力石がたくさん。名前が入っている。
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                 柳森神社に分かれを告げる
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神社の前の通りは岩本町の服飾関連の問屋街だ。江戸時代には土塁が築かれ柳が植えられていたので柳森土手と呼ばれていた。

進むと学校の敷地に、近くで出土した江戸城外濠の石垣石が置いてある。
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その先に「郡代屋敷跡」関東の天領を治める郡代の役所があった
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浅草橋を過ぎたあたりに浅草見附跡がある
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「江戸城には内郭・外郭それぞれに見附(城門と橋)が「三十六見附」設置されていた。各見附には大名あるいは大身の旗本が門番として配置され、基本的には二家十日交代で担当した。
門番の仕事は
① 門の開閉と通行者の確認
② 門内外の掃除や空間の管理
③ 将軍や外交使節が出入りする儀礼の場の維持
④ 火災発生時の防火
大変な思いと出費で参勤交代でやってきた諸国大名にも、江戸でも濠が完成した後はこんな仕事があったのだと認識しました」

神田川の最後の橋、柳橋に到着。
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             柳橋から神田川を。反対側はもう隅田川。
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          隅田川に架かる両国橋からスカイツリーの方を見る
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これで外濠を一周しました。意外に面白かった。

317x450上記のように「たばこと酒の博物館」で『江戸の園芸熱』展を見てきました。
桜や菊や朝顔など花をいろいろ品種改良したりしたことは聞いていましたが、家の軒先などに鉢植えなどが飾られ楽しんだようです。又、花に関係する名所が数多くあり、そこで花を愛でる人々が多くの浮世絵に描かれた。植物に関するものが207点も展示されている。歌川広重、国芳、国貞、豊国、渓斎英泉、鳥居清長など錚々たる浮世絵師の絵が勢ぞろい。それに女性の着物の柄の美しさ、種類の多さにも驚いたものです。

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打ち上げは地元の庄やでビールとワインで乾杯(肉豆腐、ホタルイカの沖漬け、海鮮サラダ、じゃがいもチヂミ)。16383歩でした。

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2019年2月18日 (月)

氷室椿庭園

『江戸人の老い』氏家幹人著で意外な事実を知りました。

鈴木儀三治と言う人が越後国魚沼郡にいた。先祖は上杉謙信に仕えた武士。家業は質屋。
父が早く引退したので20才ころから家業をゆだねられ良く働いたという。そして親孝行をし、両親は満ち足りた晩年を過ごして往生を遂げた。
ところが、老後、几帳面で潔癖症でしかも物を捨てない性分。後を継いだのが婿で、仕事のやり方ばかりか、婿の生活態度まで世話を焼いて口うるさかった。親戚にまで愚痴をこぼし、自分が中風にかかった時も娘からさえも復讐の言葉を浴びせられたほどの人だったという。自分の家だけでなく他人の家の揉め事まで口出しして、逆に批判を浴びることもすくなくなかった。
結婚遍歴は6人。5番目までは3番目の妻だけは死別であとの4人は離婚。娘も先に亡くなり、翌年家を出て分家の家に居を移し、その翌年享年73才で中風の再発で亡くなったという。その前に7万字にも及ぶ遺書を書いていた。それは婿養子に対する不満であり、そんな家族と最晩年を過ごさなければならないわが身の悲哀をこぼす言葉だったという。
この人こそ名著『北越雪譜』の著者として知られる鈴木牧之である。うーん、驚きました。
この本を以前読んで、雪国の事をこんなに詳しく著した人、凄い著者だと感じた。当時ベストセラーで第1版が700冊だったそうだ。
遺書を書かなかったら家族と当時の廻りの人々しか知らなかった。本からは人が全然見えてこないわけです。

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見舞いのついでに茅ヶ崎の「氷室椿庭園」に行ってきました。まだちょっと早かったのですが、それでも幾種類か咲いていました。
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サイトによると、三井不動産の元副社長である氷室 捷爾・花子さんご夫妻の庭園が、茅ヶ崎市へ寄贈され、平成3年10月に開園した。
広さ約2,800平方メートルの庭園には、椿や松、バラなど1,300本におよぶ庭木類が植えられています。 椿の種類は200種以上におよび、なかでも「氷室雪月花」は、白や淡桃色の地に紅色の絞りが入った美しい品種です・・・とあります。

氷室雪月花・・丁度満開でした

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氷室椿庭園内にある「旧氷室家住宅主屋」は、昨年11月に国の登録有形文化財に登録されたようです。これは昭和10年に建てられた旧氷室家住宅主屋が、昭和期の都市近郊における別荘開発の様相を伝える建造物として評価されたものです。
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今咲いている椿・・少々満開を過ぎたものありですが・・以前来ているのに名前を何も憶えていません。

      紅ろう月               中部西海波
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      紅侘助                 蝦夷錦
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     サンダイヤル              おおにじ
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     日の丸                  迦陵頻
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      すきや侘助              明石潟
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      大黒天                 出羽大輪
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      春日影                 応縁寺
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2019年2月14日 (木)

温室に逃げ込んだ新宿御苑

有権者権利放棄で悪政にと書いてあったのも頷けるが、国会中継をちょろっと見て質の劣った(失礼)大臣初め、今の政治家も一体何なのよと情けない毎日。
国家予算を膨らますばっかりで、何でも自分の時は金を使って良い政治をしているかに見せかけ、自分の私利私欲だけに国会議員になっている。
どなたが身を削って、無駄をなくして、オリンピック(税金でどうやらすごい賄賂を贈った模様)よりも、もっともっと国内の困った事態にお金を使って、さらに国家の借金を、次代に押しつけていくということに気が付いて、政治をやってくださらないものか。皆無かな。
今は総選挙のために国会をやっているようなもの。いろいろ出来上がった仕組みも悪いのですね。嘘をつく。隠ぺいする。悪いことを平気で言ったりしたりする方もいて、これが選ばれし政治家か。
何でも某国に日本が乗っ取られると言う本も出てきている。回りはスパイだらけとも。ああ、情けない。

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まだ梅も咲いてない新宿御苑に足慣らしに行ってきました。
天気予報当たらず、曇天の10度以下の寒い日、殆どを温室の中におりました。

現在の見どころは、ソシンロウバイと寒桜、水仙で、この時期何回も見ている景色は変わらず、殺風景とした冬枯れを賑わしています。
入園者の大半が外国人であることにも驚きました。それも西欧人が多かったからです。

                      ロウバイ
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                      水仙
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                 梅の開花はまだこんな程度
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                   ハクセキレイ4態
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                       ツバキ
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                   クリスマスローズ
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十月桜 マメザクラとエドヒガンの交雑種。八重。秋と春2回咲く。いざ桜を見ると、四季桜、子福桜、冬桜などとごちゃごちゃになってしまいます。
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寒桜 晩冬から早春に咲く桜。オオシマザクラとヒカンザクラの自然交配種といわれる。上野の大寒桜は咲いているかしら。
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                     ジャノメエリカ
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温室と温室前から見た新宿ビル群 温室に入るとあまりに暖かいのでカメラが曇って暫く撮影できず霧の中の花となってしまった。
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ここの温室は明治8年(1875)に無加温式で建てられ、ブドウ、スグリなどだったが、明治26年(1893)に加温式になりメロン、パイナップルなど栽培。
大正から昭和初めにかけて洋ランの交配に力を入れ、○○・シンジュクを多数輩出した。

                  ションボレリア・シンジュク
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第2次世界大戦でほとんど失われたが、昭和26年から一般公開され、昭和33年、当時として東洋一の大温室完成、その後増改築を重ねたが、平成24年全面建て替えを行ったのが現在のもの。熱帯の植物中心に約2700種。絶滅危惧種の種子の保存もしているそうだ。沖縄だけでなく、小笠原の植物、乾燥地の植物も展示されている。何度来ても飽きない。

                      
エピスシア・クプレアータ  orangepekoさんありがとうございました。12_450x300
                    熱帯スイレン
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パフィオペディルム類 原種はワシントン条約で取引が規制されている
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                    ムニンタツナミソウ
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      ディホーン・スピヌロスム 白いソテツの実がかなり大きかった
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        キンシャチとセントポーリアは好きなので毎回載せてしまう
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             サルオガセモドキ(パイナップル科ですって)
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2019年2月 9日 (土)

右側通行か左側通行か

カランコエ
最後に咲いたバラの蕾を部屋に入れたら、花弁が4枚開きました。
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『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』によれば  (全16冊中やっと現在4冊目、気が遠くなる)

●右側通行か左側通行か
中世ヨーロッパの旅行者は道のどちら側を歩いていたか?ちなみに中世ヨーロッパとは5~15世紀と言われる。
当時貴族、商人、その他の旅人も、武装し、刀や槍を持って旅行した。道中でいつ盗賊や敵に出くわすかわからない。前からやってくる者に襲われた場合、道のどちら側にいた方が有利か。武器は右手に持つ関係上、敵を自分の右側に回した方が好都合である。敵がどこから来るかわからないが、少なくとも前方の相手を警戒しつつ歩くには左側通行がこの当時の交通の原則であった。
これに対して右側通行はと言うと、通行人が武器として銃を持つようになったとき。銃は銃身を左の小脇に抱えて携行するからとっさの場合に身を左にひねられるような歩き方、つまり道路の右側を歩いて、前方からの敵を左に迎え撃つということである。
しかしヨーロッパ諸国では銃が発達し普及するのは近世で国家の統一がなされ、国王による治安維持もよく行われるようになっていたから、旅人は銃を携える必要はなく武器携行を禁ずる場合が多かった。そのため必ずしも左側通行から右側通行に変わったわけではないが、イギリスでは現在も右側通行を守っている。現在は全て人間でなく車であるが。

これに反し、イギリス植民地時代のアメリカの辺境開拓者は、いつインディアンその他の敵に遭遇するかわからなかったから、常に銃を持ち右側通行を厳守した。これがアメリカでの右側通行のはじまりである。イギリスが支配していた国以外は殆どアメリカ方式となった。

日本は刀で往来した歴史があり、戦後とり入れられたアメリカ方式でなく左側通行となったがそれは歩く人でなく車だ。人は右側通行(交通安全のため)・・・昭和24年から。
人は右といっても心臓が左にあるせいとも言われるが、私個人は左側を歩いたほうが安定します。

●中世年代記のどれにも、どの年にも、地震、台風、洪水、落雷、疫病、飢饉などが記されていない年はない。台風はヨーロッパには来ないし、一部を除いて地震もなかったが、疫病の話は多い。疫病、飢饉に関しては少なくとも今の日本では切実な問題ではないが、地震、台風、洪水による被害が年々増加している。

264x450●中世の赤ちゃん
赤ん坊が生まれると産湯につかわせ、産着を着せるのだがこれが凄い。赤ん坊は腕を曲げた状態なのに、これを無理やり伸ばして横腹にぴったりつけ、身体全体を何枚かの布でぐるぐると巻き、さらに上から小さな帯できつく縛り上げてしまう。赤ん坊は手足を全く動かせず、自由を束縛されるから発育に悪いばかりでなく、衛生、栄養状態の不完全と相まって、乳幼児の死亡率が高かった一因となる。何度か絵画で見たことがあるが、何故こんなことをしたのであろうか?魔女裁判とかその他、今日理解に苦しむことが多かったこの中世と言う時代もまた、多くの悲惨な人々の万華鏡のような時代でもあったことを痛感します。

山形豪著『ライオンはとてつもなく不味い』

306x450著者は南アフリカのボツワナでライオンの干し肉を食べたそうだ。それが、それまで食べた野生動物のキリン、カバ、シマウマ、ダチョウ、ワニなどと比べてマズかったそうだ。
干し肉とはいえ、生臭く、猛烈に筋っぽかったとか。ライオンは筋肉の塊のような生き物で、野生環境では贅肉を蓄える余裕もなどないから硬いのだ。
ここで植村直己氏の、特異な製法と強烈な異臭で知られているアザラシの漬物と言われるキビヤックが、大好物だったという話を思い出しています。

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2019年2月 4日 (月)

壁面緑化

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こうした壁面緑化は東海道歩きでは、東京駅近くと戸塚辺りで見かけたが、我が駅の北口が開発されて高層マンション下層部の一部に施されました。
すぐ近くで見られたので観察したところ、まるでブロックのようで用土とは言い難い固そうな所へ様々な植物が植えられ、チューブが配管されているのが見え、完全自動灌水対応のようです。もうすぐ1年になろうとしていて、メンテナンスを見かけたことがないのでわからないけれども、ずっと植物は枯れずきれいに保たれています。
他の形式の様々な壁面緑化もヒートアイランド抑制効果があり、環境保全にも役立っている。

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昨年12/26の家のソシンロウバイの花と蕾。ヒヨドリがやってきて蕾を食べ始めたので透明ビニールを被せたところ、今年はまだ15も蕾が残っていたので全部開花させ、ビニール越しで見栄えが良くなかったけれど、良い香りが楽しめました。昨日ビニール袋を取り去ったところ、緑の葉は落ち、匂いもなく、開いた花びらに皺が寄っていました。

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色川大吉著の『フーテン老人世界遊び歩記』『フーテン老人ふたたび 私の世界辺境周遊記』を続けて読みました。

日本近代史、自由民権思想史の大学教授で現在93歳で東京経済大学名誉教授。
兎に角、片方の肺の半分がないから、チベットなどに何回も行く中、高山病で殆ど死にかけていらっしゃる。
そのチベットや玄奘三蔵の歩いた世界で最も過酷なシルクロードや当時入国が大変だった中央アジアや、ラダック、ブータン、4度も行ったアフガニスタン、パキスタン、アンデス越えをしたり、怖かった中央アメリカ、パタゴニア、メキシコ、キューバ、ニューカレドニア等々普通の人が当時いかなかった大変な所へパック旅行は殆どなしで個人や友人と歩き回る。
89歳でまた10年のパスポートを入手されたとか。

旅行記もいろいろですが、この先生の旅行記は面白く、文学的で、また途中で出合った凄い人々の話も興味深い。
黒沼ユリ子は知っていたけど、メキシコの画家、フリーダ・カーロを知らなかったです。何でも6歳のときに急性灰白隨炎になり、18歳のときに交通事故で17か所の骨折と28個のコルセットをし、30回手術。最後は足の壊疽で半分切断。それなのに絵を描き、政治活動もし、旦那の浮気に泣き、自身もイサム・ノグチやロシアの革命家のトロッキーなどと浮名を流すのです。旦那とは離婚し、1年で再度結婚。47歳で死去。著者は絵よりも寝室やアトリエに胸打たれたそうだ。

以前慕辺未行さんに紹介されていて読んだ『秘境西域八年の潜行』の著者西川一三氏に会われたそうだ。帰国後、本を上梓したと後どうされていたか?
・・・帰国後、謙虚な生き方をつらぬく。自分のしたことを誇らず、故郷盛岡にかえり、過去を消して一事業者としてつつましく生きた。高齢にもかかわらず働き詰めに働き、「人間は死ぬまで仕事をしなければならない」「自分のことは自分でしなければならない」「人間最後まで一人で生きてゆく気概がなければ」・・・
と自戒されていたそうだ。ご家族がいらしたけれど。89歳で亡くなるまで元旦以外はずっと働き通した人の信念であった。WIkiに寄れば故郷は山口、福岡のようだ。

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