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2019年4月30日 (火)

東海道33 石部~草津宿~瀬田(後編)

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●草津宿(52番目の宿) 石部宿から11.7km 日本橋から約468㎞ 宿の長さ約1.5㎞くらい 本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒。

うばがもちを買ってからそのまま南へ歩き、草津川を渡ると渡った先に横田常夜燈道標がある(1816年建立)。ここが草津宿の東の入り口。江戸時代は橋がなかった。右金勝寺志がらき道、左東海道いせ道と書かれている。
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横町地蔵尊。これは黒く縁取りされて描かれる。滋賀県草津もまた地蔵尊が多く、彩色されたり、化粧されたりしているのが多くて、こちら関東では見られない。
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わーい!遂に中山道と東海道の分岐の追分に到着です。東海道歩きが終わったら、まずはここから中山道を歩こうということになった。先日来京都に到着できるかさえおぼつかなかったのに、人間の欲望はきりがなくふくらんでいくものである。距離は東海道492km、中山道534kmで42km(江戸時代の男性の1日分、私たちなら2日分)長い。またまた3年かかれば大台に乗ってしまうではないか。果たして膝が痛くならないか、家族も元気でいられるかなど心配も尽きないのではありますが、なるようにしかならない、ちょっとでも出来ればそれもいいさという感慨にふけった追分であります。

追分の道標は1816年建立。
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道標の反対側には高札場が再現され、延命地蔵尊がある。
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右側から歩いてきたわけだが、T字路になった右側の草津川隧道をくぐっていくと中山道。
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左折すると草津宿の中心部へ続く旧東海道。今までの宿では気が付かなかったのか、あるいはなかったのか。草津宿に来て、道路沿いに高層ビルが建っているのに(茶色のビルや足場がかかって青いシートの所)遭遇し旧東海道に似つかわしくないと感じる。しかし考えてみると日本橋出発は旧東街道という感じでなくビル群の連続だから都会に出てきたということか。
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明治4年創業当時使用していたものと同じ型の郵便ポスト(書状集箱)で、今も利用できる。
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右側に、東海道には本陣は2軒(二川宿)しか現存しないが、国指定史蹟・田中七左衛門本陣が見えてきた。撮影禁止箇所があった。
敷地1305坪、建坪486坪、部屋数30余室の最大級の本陣である。浅野内匠頭・吉良上野介・シーボルト・皇女和宮・徳川慶喜など泊まったとあった。土蔵が4棟もあった。
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上段の間の雪隠
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湯殿も広いが冬は寒そう。タイルがあったわけでないから板敷きで中央に排水用の溝が作られているのが見える。
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脇本陣仙台屋跡は今はベーカリー&カフェとなっている。
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真教寺の梵鐘は戦争で供出されてしまい、コンクリート製だ。
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寺の前の笑っているようなお地蔵様
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草津宿街道交流館に寄った。草津宿の模型、旅籠再現や情報コーナーの他、「旅する画僧 金谷展」を開催していた。近江が生んだ奇才(草津出身)で名を「横井金谷」といい、文人画ほかいろいろなジャンルの絵があり、与謝蕪村の影響を大きく受けた画家。初めて知った画家で実に素晴らしい作品であった。
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太田酒造。太田道灌が祖先で、6代目が家光の命で草津に移住し、日本酒「道潅」などを製造。娘は酒造メーカーがあると入り、いつもリュックの中は4,5本の酒がごろごろしている。荷物の重い街道歩きはこたえるでしょうに、私より速いスピードですたすたと前を行く。
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八百久店舗兼主屋は格子窓と虫籠窓があり、国の登録有形文化財となっている。
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日吉神社の屋根には阿吽の猿がいる。初めて見る。
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立木神社(767年創祀)は狛犬ならぬ狛鹿でこれはどこかで見たことがある。この神社も立派で、滋賀県の東海道沿いには立派な神社が多い。
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神社の先の黒門跡が草津宿の西の入り口でこれで草津宿見学が終わった。問屋場跡とか本・脇陣跡などいろいろな説明板がないのでうろうろしてしまった。
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 ◆草津~瀬田

稲荷神社や120里目の野路一里塚跡を通り過ぎる。

草津名物のアオバナのマンホール 
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国指定重要文化財の本殿のある新宮神社へ。創始730年の古い神社。
鳥居を入ったところに実にカラフルなお地蔵様が。
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街道の先に今度はリアルなお顔の子守地蔵様が。カブトムシを捕まえようとして大名行列を横切ろうとした親子が手打ちにあったことを悼んで村人たちが祀った地蔵だそうだ。
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広重の諸国六玉川の一であった「近江野路の玉川」は萩の名所で「萩の玉川」とも呼ばれかつては清水が湧いていた。
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このあたりあちこちに池があるようだが、これは弁天池。参道橋でつながった島に弁財天が祀られる。
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立場跡
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飛び出し坊やは雀であった。
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長沢川の桜は散ってしまっていたが、さぞ奇麗だったことでしょう。
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121里目の一里塚跡を過ぎ瀬田駅の近くの道標。京都まであと5里余り、江戸まで120里余りとあります。瀬田駅から京都へ。
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今日の夕ご飯は「てまり寿司」
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前回と同じ新幹線、18:56京都発→21:13東京着。22:30頃帰宅。39164歩でした。

 

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2019年4月27日 (土)

東海道33 石部~草津宿~瀬田(前編)

4/18(木)に全回と同じ新幹線6:16発、京都に8:26着。草津で草津線に乗り換えて、石部駅着9:40着。45分過ぎに歩き始める。
今日も富士山も見えてのご機嫌の出発気分。
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◆石部~草津宿
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石部駅前の公園には説明板があり、ポケットパークである。ここは石部宿の西なので西縄手というが、説明によると縄手とは立場から立場の道のことを言うという。普通は田の中のあぜ道、あるいは真っすぐな長い道のことを言うのだが。
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草津線に沿って行くと栗東市に入る。
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右手に近江富士の三上山(432m)がよく見える。藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残る山だ。 
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徳生寺には鎌倉時代の宝篋印塔がある。塔身や基壇には彫りこみがあり大和の影響が伺われるということだが、宝篋印塔のについても不勉強でまだまだです。
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この地蔵の持ち主の人によると、信長が安土城の土台にしようとしたのを救い出したものだそうで、そんな地蔵様がたくさんいるとのこと。
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この近辺は野洲川ダムから引かれた水路がたくさんあって、水がとてもきれい。三上山の美しい姿を再度撮影。
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栗東市のマンホールは、市の花キンセンカと市の木のカイヅカイブキ、市の鳥メジロが描かれている。
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六地蔵尊村に入り、木造地蔵菩薩立像を見る。行基が全国に安置した六躯のうちの一つという。平安時代になります。
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古い立派な家は重文で、旧和中散本舗(大角家)である。和中散は家康が腹痛をおこしたとき献上され、すぐに治ったことから直々付けられた名前という。ケンペルやシーボルトも立ち寄り薬を求めたそうだ。奥にある庭は小堀遠州作で国の指定名勝だが事前申し込み制だ。
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向かいは大角家住宅隠居所で、本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物だ。
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六地蔵一里塚。118里目。
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このあたりの家々にも屋号札が掛けられている。今も営業するふとん店があったが「綿屋」の屋号札がかかっている。
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国の有形登録文化財に指定されている里内呉服店。
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同じく国の有形登録文化財の手原醤油店。
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手原稲荷神社到着。この東海道歩きでは、唯一お昼を食べる飲食店が見つからなかった処で、家でお弁当を作って持ってきた。
明治天皇御小休所碑と「手ハラベンチ」という手の形をした石があった。どうも座ってはいけない感じだ。
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この神社の奥になぜかSLが置いてあった。かつて奈良線、草津線を走っていたD51だ。手原駅開業50周年記念に町に貸与されたらしい。
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菜飯と豆腐田楽を出していた「すずめ茶屋跡地」。雀をあしらった「目印雀」の紋を使用していた。
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県道を越えると堤が見えてきた。葉山川の調整池の上鈎池(かみまがりいけ)で土手を登ったところにある。
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土手に九代将軍足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地碑がある。幕府に反抗する六角高頼を討伐する為この地に着陣したが、連日酒宴、遊興にふけり、25歳でこの地で病没し、鈎の陣も終焉を迎えた。
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善性寺は、シーボルトが寄った寺だそうだ。植物学者として知られている僧恵教のもとを訪ね、シーボルトにとっては珍しいスイレン、ウド、モクタチバナ、カエデなどを見物したと日記に記す。
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この日もお地蔵様をたくさん写してきたが、このあたりでまた1枚。
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目川の瓢箪を軒先にぶら下げ展示販売している。ここは明治期まで瓢箪の名産地だった。
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119里目の一里塚を過ぎ、かたつむ邸で一休み。民家が提供してくださっているのか、ありがたい。
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田楽発祥の碑と領界石(従是西膳所領)。目川地区には3軒の田楽茶屋「旧伊勢屋跡」と「古志ま屋跡」と「京いせや跡」が石碑として残っている。
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次回寄り道する膳所城跡の大手門が移築されている。膳所城は天下普請第一号の徳川家の城である。
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10年ほど前に建てられたという、領界石(従是東膳所領)の先に史跡老牛馬養生所趾碑がある。
庄屋の岸岡長右衛門が、老廃牛馬の打ちはぎの様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎをすることを止めるよう呼びかけ、天保12年(1841)4月老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立し、県下の老牛馬を広く収容したという。心優しい庄屋さんがいたのです。
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その先で栗東市から草津市へと入った。この日3つめの市。
うばがもちやで、家康や芭蕉も食べたという「うばがもち」を買う。伊勢の「赤福」や三嶋大社の「福太郎餅」を思いおこす味で美味しい。
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続く

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2019年4月22日 (月)

田辺聖子著『姥ざかり花の旅笠ー小田宅子「東路日記」』

  芥川賞受賞者で文化勲章受章の著者。さすが文章も上手く嫌味もなく凄い癖もなくて楽しく読んだ。以前紀行文と「新源氏物語』を読んで以来。今街道歩きをしているので私が生まれたちょうど100年前に旅した女性の日記が私を偶然に呼んでくれた。
小田宅子(いえこ)は俳優・故高倉健さんの5代前のご先祖様。福岡県の現中間市在住の宅子さんは53歳の天保12年(1841)に女の友人3人と3人の男性の従者を連れてお伊勢参りに出る。
高倉健さんが持っていた『東路日記』をわかりやすく読めるようにということで回りまわって田辺聖子さんの手でこの解説本が出たとう経緯がある。
当時イザベラ・バードが旅した東北の奥地と違って、当時としては豊かな筑前の商家のお内儀で、子育てを終えてから和歌を学び、古典教養にも溢れ、その日記には有名な和歌集に載っているような、素晴らしい和歌が行く先々で詠まれているし、古典からの知識が次々飛び出てくる。田辺さん曰く「女性文化の暗黒の時代と思われていた江戸の世で、それも天ざかる鄙の地、商賈の家の女たちに、こんなみやびな文化が息づいていたとは」と。読んでみて江戸時代のイメージがちょっと違った。

歩いた距離は800里(3200km)、5ヶ月の旅であった。一日に7里半や8里歩くことが多い。その健脚ぶりは30km~32km。もうひっくり返りそうな距離。
故郷を出て、時々瀬戸内海の島々に出ながら山陽道を、四国も金毘羅山へお参り。その後のざっと歩いた道は奈良街道、吉野金剛峯寺、伊勢参り。ここでやめるつもりが善光寺へということになり、北上して岐阜から中山道を通って善光寺へ。その後日光へ。日光街道から江戸へ。江戸では歌舞伎、能、狂言などに入り浸り、そのほか見物。東海道を戸塚あたりまで、そこから江の島へ。藤沢の遊行寺へ。ここで箱根と新居の関抜けをするため、遠回り。それが厚木あたりから北上して甲州街道へ。諏訪から高遠へ。そして最も困難な信州・静岡県の北遠の境の青崩峠から秋葉山信仰の地へ、三河の鳳来寺山、豊川稲荷、熱田神宮、佐屋街道を経て関が原へ。中山道で京都に出て長らく滞在し、お寺や芝居見物したり夜遅くの講話まで精力的にこなし、船で大阪に出て、そこでも同じように滞在した後、瀬戸内海を船で行き、九州に着いたというもの。最初若い従者が具合悪くなっただけで、あとは全員病気もせず歩き通した。苦しかったのは雨の日や、峠で泊まるところもなかなかなく、食べるものも干し飯を初めて経験したことなどで、あまり困ったことなどは書いてないらしく歌で感動を表現しているのが素晴らしい。
かかったお金を今に換算すると一人分、5ヶ月で1263000円。それに従者の分がかかっている。
当時為替手形や両替商発行の預かり手形、振手形(今日の小切手)などがあったそうで、路銀入れとして、大金は胴巻きに、中程度は財布に入れ、首から吊るし懐にしまう。小銭は巾着、早道、煙草入れ、胴乱などにしまった。お土産は飛脚便で送る。
宅子さんはその後、夫や弟、息子に先立たれるが、孫息子に優しくされて、82歳まで歌を友として過ごしたようである。
またまた江戸時代の旅の様子がわかったのと、素晴らしい歌の数々、実に面白い本でありました。私も50代初めだったらこんなに元気であったろうか。歩けたであろうか?やはり当時の信仰心の成せる技でもあると思うのです。

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今の庭。毎年全然変わり映えせず、むしろ多年草だけになって植木鉢がだいぶ減りました。腰痛を悪化させないように残念ながら鉢を減らし続けています。

モッコウバラ
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ナルコユリ
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シラユキゲシ
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シャガ
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ツリガネズイセン
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ミヤコワスレ
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フロックス&ビオラ
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アップルゼラニウム
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2019年4月19日 (金)

東海道32 水口宿~石部宿(後編)

  ブログを投稿しているココログがメンテナンスをした結果、前回は縦長の写真が横になったりなどいろいろアクシデント続きで閉口しました。
懲りてなるべく縦長の写真は撮らないと決めていたが、それがなかなか街道写真では難しく、もうココログはいい加減に直ったのではないのと勝手に解釈して撮り続けたら、1回の街道歩きで200枚近くも調子に乗って撮っておりました。呆れたものです。おまけに7から10に代わり、パソコンも新しくなり、やり方に慣れなくて困ったものです。

水口宿から~石部宿の続き

長い長い縄手が終わって大きなクスやカヤの根元で休んだ続きです。
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泉川を渡った先に114里目の泉の一里塚跡がある
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野洲川が見えなくなって久しいが、東海道13の渡しの一つの横田の渡しにやってきた。今は渡しはなくなって、この先、湖南市に入ってから横田橋で野洲川を渡ることになる。

冠木門が見え、大きな常夜燈が現れる。
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横田の渡しの常夜燈(1822年)は旅人の目印として重要な役割を果たす。万人講中の寄進によって建てられてもので、10.5mの高さがあり、道中でも最大級。
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野洲川ははるか鈴鹿山脈から流れてくるが、今は水が少ないのかもしれない。
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橋を渡った突き当りはJR三雲駅で、左折して少し川の上流に戻ると対岸のこちらにも常夜燈がある。水口側より50年も古いそうで、以前は200m上流に建っていたそうだ。湖南市に入ってから案内板は石部宿として説明されている。
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その先に新海道の道標がある(三雲から別れて伊勢・伊賀へ続く杣海道)。
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さらに登っていくと天保義民之碑がある。大徳寺にあったのは供養塔でこれは慰霊碑だ。
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萬里小路藤房卿墓所を通り過ぎると3つ古い道標が建っている。「立志神社」「萬里小路藤房卿古跡」「田川ぶどう道」だ。藤房郷は後醍醐天皇の側近で、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣とのこと。また知らなかった人が出てきた。
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三雲踏切で線路を渡ると、左の山に大きな岩・八丈岩が見えてきた。猿飛佐助の修行の場とも言われ、落ちそうで落ちない大きな岩で、、受験生が合格祈願に訪れるという。さらに上には「三雲城跡」があるとのこと。
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またお地蔵様。造花だが飲み物やローソク立て、線香立てまで揃っている。
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こうした「おもてなし処」が他にもあって、いい所です!
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第一の天井川の「大沙川隧道」が見えてきた
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登ってみたが水は流れていなかった
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樹高26mで樹齢750年の弘法杉があって、弘法大師に由来するらしい。
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夏見の115里目の一里塚を過ぎると、二つめの天井川「由良谷川隧道」が見える。天井川をやめて下に通す工事中だった。
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3つめの隧道「家棟川隧道」の扁額の説明板では1979年になくなったそうだ。
「うつくしの松自生地」は国指定天然記念物で写真によれば樹形が美しい。残念ながら見に行かれなかったが、松の好きな方にはお薦め。

高木陣屋跡の説明版を通り過ぎ、八島地蔵堂を小さな隙間から覗いてみる。良弁僧正が彫られたという約400年前の地蔵様。
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石部宿(51番目の宿)水口宿から13.7km 日本橋から約457km 本陣2軒、脇本陣なし、旅籠32軒。

東見附跡に到着
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吉姫神社 
入口左にお地蔵様、顔が白く塗られて描かれている 
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とても格式高そうで、一の鳥居のあと二の鳥居があり、幣殿、本殿と続く。かまどの跡もありその一つに羽釜がのっていた。
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湖南市のマンホール  市の花「サツキ」と「東海道石部宿歴史民俗資料館」がデザインされている。
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石部城跡の石垣が100m南に残っているそうだが、織田氏にやられ石部氏が城主だったのはたった40年間だった。ここは高札場跡でもあった。
石部宿には殆ど何も残っていないが、金属製の説明版でいろいろ説明されている。安眠米倉庫の説明板もあった。向かいには問屋場跡の説明板あり。ここはポケットパークになっている。
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三大寺本陣跡の先におやすみ処の「いしべ宿駅」があり4時過ぎていたので閉まっていた。囲炉裏もあるとのこと。そのすぐ先に2軒目の小島本陣跡がある。脇に明治天皇聖跡碑も立つ。
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真明寺には芭蕉が「野ざらし紀行」の中で石部宿を詠んだ句碑が立つ。
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枡形の角に田楽茶屋がある。広重が描いた「目川の里」の田楽茶屋を再現したものだ。
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石部宿の東の端にあった吉姫神社の対になる神社で、造りはそっくりの西の端の吉御子神社へ寄る。
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谷口長栄堂で銘菓「石部太鼓」(最中)を買う。
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117里目の一里塚跡があり、そこはもう西見附跡だ。
街道の正面に近江富士の三上山が見えていた。
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JR石部駅に到着。京都駅には6時過ぎに着き。18:56の新幹線に乗り込み、この日は「京都牛タン弁当」が夕食。昼も夜も偏ったおかずだが、まあ一日くらいいいでしょう。
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東京駅21:13着で10時半帰宅。39600歩でした。
距離的にはあと2回で京都に着きそうですが、三井寺など色々寄りたいのであと3回にし、最終日は京都のどこかに寄ろうと計画しています。

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2019年4月15日 (月)

東海道32 水口宿~石部宿(前編)

滋賀県は日本一お寺の多い県だそうで、東海道沿いにも実にお寺が多かった。今まで京都が一番多いと思っていたが、大きな有名寺が多いからそう思い込んでいたわけです。
土山はお茶でしたが、水口の名産はかんぴょうで、広重の絵にも剥いて干しているところが描かれます。ただし、現在は栃木県が全国の98%を占めるが、そのルーツが水口ということだ。それというのも、水口城主だった鳥居忠英が下野の壬生城主に転封となり水口からユウガオの種子を取り寄せ、栽培させたからである。
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4/2(火)前回と同じ電車に乗り、貴生川に着き、前回最後に乗った近江鉄道は待ち合わせが長いのでやめ、前回と同じ土山方面に行くバスに乗り新水口のバス停に下りたのが10:17で前回より30分早く歩き始めた。
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水口宿(50番目の宿)の続き

前回は三筋のうち中の道を通ったが今回はバスを降りて、前回の大岡寺の前を過ぎて北の道を歩く。
水口小学校内の旧水口図書館は、メンソレータムの近江兄弟社を興したヴォーリズ設計の建物。近江八幡にたくさん建築物があるようで行ってみたい。
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地蔵堂があって数えてみたら37体もあった 
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家康と関係の深い大徳寺に寄る。寺紋は徳川家の定紋の立ち葵である。
家康の腰掛石。関ヶ原の戦い上洛のおりに使用した石だそうだ。
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甲賀騒動義民を弔う五輪塔。
天保13年(1842)幕府の検地に反対した甲賀野洲粟田の農民一万余人は一揆を起こした。指導者11名は江戸に送られ処刑された。
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やがて三筋の道は合流する。ここにもまたからくり時計がある。
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「いしばし」の奥が近江鉄道の水口石橋駅で前回帰りに乗った駅、振出しに戻る。
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甲賀市ひとまち街道交流館では曳山を見せていただいた。4/20のお祭りでは、たくさんある曳山のうち交替で数台しか出ない。
それは、ひき手が減少しているからだそうだ。ちなみに曳山は地方によっては呼び方が違って屋台や山車とも言う。
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まだまだ続く、ちょんまげや忍者の飛び出し坊や 
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4/2まだ桜は1分咲きにもなっていなかったが彼岸桜は満開だった
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水口城址へ 
復元された櫓が資料館になっている。家光上洛時の1回のために二条城を模した豪華な御殿が築かれた。その後城番が管理する「番城」となり、賤ケ岳七本槍の加藤嘉明の孫の明友が入場。3代目が鳥居忠英であとはまた12代まで加藤家であった。3代目が栃木にかんぴょうを伝えたわけである。
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資料館にはかんぴょう細工が飾ってあった
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昼食は谷野食堂でうどんを食べたが撮り忘れ、午後の部を歩き始めると、角に浮世絵師の国芳が錦絵の題にとっている水口石(力石)がある。
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百軒長屋跡を過ぎると真徳寺の表門が。水口城の家臣の長屋門を移築したもの。
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五十鈴神社の鳥居のしめ縄には絵馬が3つかかっていて珍しい。
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この神社の角に113里目の一里塚跡がある。ここが水口宿の西見附だ。
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◆水口宿から~石部宿
 
西見附を出るとどこまでもまっすぐな道が続いているが、北脇縄手という。縄手(畷)とは田の中の道の意味だそうだ。今はないが昔は両側の土手にずっと松並木が続いていたそうで旅人が木陰で旅の疲れを癒した。地図で見ると2.5kmくらい真っすぐだ。麦畑になっていた。
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途中には地蔵があり、お花が飾られ、屋根がついているものや、水路に張り出しているのもある。
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柏木公民館の前に櫓のモニュメントがあって小窓を開けると、広重の五十三次の絵のかんぴょうを剥いて干している人形が回転していて、絵を描く広重もいる
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長い縄手が終わったあたりにある泉福寺には、国の重要文化財の延命地蔵尊があるが勿論見られない。その代わり大樹のクスとカヤがある。見えるのはクス。(生命会社にもこの名が使われるようになった)。東海道でもどれだけ大樹を見たことか!私のずっと後の年代まで見続けるのですね。頑張って生きててという気持ちです。
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ここにも数えきれないほどの地蔵様。滋賀県の東海道=地蔵様とインプットされた。
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続く

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2019年4月11日 (木)

今年の桜は秦野・弘法山  土山宿の花結び

4/6(土)に秦野駅で降り、弘法山縦走をして鶴巻温泉駅まで7.1kmを(富士山裾野一周したメンバー5人で富士女子会と名付け時々歩いているのですが)歩きました。
浅間山、権現山、弘法山の3つの山一帯を弘法山公園と呼び県立自然公園に指定されている。さらに進むと吾妻山へ続き、そこから鶴巻温泉へ下山するルートです。
登山口からはいきなりの急登であった。
 
ウグイスカグラやホタルカズラなどが咲いていた
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浅間山に到着。桜が満開で大山も見える。
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花のトンネルを行くとすぐ権現山(243m)に着く
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展望台より箱根の二子山も見えたが、霞んで富士山は見えなかった。
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弘法山(235m)へ
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弘法山は弘法大師が山の上で修業したといわれ、山の開祖は奈良時代の行基で、日向薬師などの開祖として知られる。
鐘楼は造られた110年後の1867年に再建されたもの
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可愛い仏像が祀られて 
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最後の吾妻山へは20分後に到着した。吾妻神社の碑があった。
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下山し鶴巻温泉駅前でお茶。久しぶりのサバランが美味しかった。
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土山宿の伝馬館に「花結び」が飾られていました。
古代人は結び目に神の心が宿るものとして信仰の対象として尊んだとか。

髪や帯、装束、家具、調度品、兜、刀剣にいたるまで様々な飾り結びが施されてきた。
現代でも茶道、香道の袋結び、神社、仏閣、僧侶の袈裟、祭礼の山や鉾、能装束の飾りや被布の胸飾りなどの結びに伝統の流れが見られる。
ことに花結びは糸やひもをいろいろな花の形に結んだもので、新橋結び・梅結び・あやめ結び・菊結びなどがあり、女性の奥ゆかしく機知にとんだ教養として発達し、今日まで受け継がれてきた。
結びの典雅さは日本文化の美しさを知ることにつながると説明されていました。
我が家に何かあると探したら「お守り」がありました。お祝いののし袋も蝦までついたのはさすがに今は使うことがなくなりました。。


以下は伝馬館に飾られていた花結びです。御殿まりもどうやって作るのか?と感心しますが、この複雑な結びも、また大きな1枚の紙で複雑なものを折りあげる折り紙など、まだまだ数え上げたらきりがないほど日本の伝統芸に感心するばかりです。

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2019年4月 7日 (日)

東海道31 土山宿~水口宿(後編)

 
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土山宿~水口宿 

人影は殆どなく、たまに人に会うとお辞儀をしてくださったり、話しかけてくださったり、ちらしをくださったりととても親切な人が多い。そして次の宿もそうだったが小さな休憩所が多く、ありがたかった。

野洲川に架かる歌声橋を渡る。野洲川はこの後、水口、石部と東海道に沿って近くなったり遠くなったりと続いているが、石部を過ぎたあたりから離れて琵琶湖へと注いでいる。
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土山はお茶の名所で、昨年買って飲んだが、静岡茶や狭山茶と違って、京都の宇治茶に近い味であった。地理的に近いのは関係ないでしょうけど。「あいの土山雨が降る」の馬子唄にあるように雨模様の天気や霧も多く出てお茶の栽培に適しているのだそうだ。
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垂水頓宮跡 斎王の宿所に充てられた頓宮の跡で、伊勢まで5ヶ所のうち検証されたのはここのみ。というのも毎回斎宮が宿泊された後に壊してしまったそうだから。
斎王とは歴代天皇が即位するごとに名代として伊勢神宮に奉仕するために遣わされた未婚の内親王。平安初期から鎌倉中期まで約380年間に31人の斎王が宿泊された。ちなみに天武天皇から後醍醐天皇まで約660年間に74人の斎王が占いで選ばれた。
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桜は咲いていないけれど、目を下に移せば春の花が鮮やかに輝いている。
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瀧樹(たぎ)神社は国の選択文化財のケンケト踊りなどのあるお祭りが有名な神社 
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山門が立派な地安寺。後水尾法皇に縁のあるお寺で、御影堂には法皇の位牌と像があるとのこと(見られない)。菊の御紋が彫られていた。
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犬小屋の中はぬいぐるみのワンちゃんであった 
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111里目の一里塚 
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その先は反野畷。土山の道と同じ舗装が続く。
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花園神社脇の小学校隣の公園には小学生の作品?の彫刻のベンチがなかなかに心温まる。
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大野公民館の前に鴨長明がこのあたりから見える布引山を詠んだ歌碑がある。長明はこの後訪れた大岡寺で出家したそうだ。
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酒造場の前には飛び出し坊やが「初桜」と書いたお酒を酒樽の前で持っているのが可笑しい。樽の右隅には狸の置物があるが、どこの家にも置いてある。この辺りは信楽焼の里が近いということを知った。
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この地で有名な俳人・三好赤甫の碑 
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お地蔵さんが多いが顔がわからなくなっている 
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甲賀市水口に入る
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112里目の復元された、今在家一里塚跡。榎が植えられている。
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虫篭窓のある連子格子の家 
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宝善寺の横から八坂神社の参道へと入っていく 
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そこから、岩上不動明王を経て岩神社へ至り公園になっていて、野洲川の清流と鈴鹿山脈を見渡せるとのことだったが、見つからず断念する。

地蔵堂や地蔵祠が多い 
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水口宿(50番目の宿)土山宿から10.6km 日本橋から約444km 宿の長さ約2.7km。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。

水口宿の冠木門のある東見附跡 
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脇本陣跡、本陣跡を過ぎ高札場跡の三筋の町に着き、まず左へ、次に右側の真ん中の道を歩く。 
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来月あるお祭りの曳山蔵がちらほら見られる 
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一味屋で忍術最中を買う 
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鴨長明が出家を決意した大岡寺。おびんづる様が見える。
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曳山のからくり人形のあるからくり時計台があって人形が動いていた
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無人駅の近江鉄道の水口石橋駅に到着したので水口宿はまだ全部見学出来なかったが、続きは次回にしてここから帰路に就く。 
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京都駅で買った駅弁は「ゆばちりめん弁当」
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31回目の東海道歩きも無事歩くことができ、京都も近づいて完歩の夢が実現しそうな感じになって嬉しい日でありました。

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2019年4月 3日 (水)

東海道31 土山宿~水口宿(前編)

3/28(木)約半年ぶりに東海道の続きを歩きました。東京都心では桜が満開になろうとしていたこの日、滋賀県甲賀市は10度以下でおまけに強風が吹いて真冬の寒さでした。勿論桜は蕾がまだ固く一輪も咲いていません。

この日は道中で東京から最も遠い往復になりました。今までなら日帰りは不可能だったのですが、バスが通るようになったので日帰りが出来ました。バスも近江鉄道も1時間に1~2本という不便なところでありましたが。
4時半起床で、5時7分の中央線に乗り、6時16分の「のぞみ」で京都へ、京都から草津経由で貴生川へ。貴生川から終点の土山の田村神社前の道の駅に10時37分到着。ここが土山宿の出発点となる。16時半頃には次の宿の水口宿の一部を歩き終わり、水口石橋駅から近江鉄道が出ているので、それで貴生川へ出て京都直通の草津線で京都へ。京都発19:07→21:23東京着。家には22:45分頃到着。36676歩。歩いていた時間は約6時間弱で、乗り物に乗っていた時間は約2倍の11時間でした。

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土山宿(49番目の宿)坂下宿から9.8km 日本橋から約430.3㎞ 宿の長さ約1.8㎞くらい 本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠44軒。 土山は近世を通じて幕領で代官が支配していた。
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土山宿の東海道はこの色でずっと舗装されていてわかりやすい
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今も住んでいる家々には昔の屋号がかかっている。また44軒あった旅籠のうち30以上も旅籠跡として石柱を建てていて、殆ど面影は残していないけれども、土山宿はかなり力を入れていて、こういう宿を歩くのは楽しい。  
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小さな地蔵堂があるがこのあたりの地蔵には顔が描いてあり、とてもカラフルだ。 
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上島鬼貫の句碑 東の芭蕉、西の鬼貫と言われた俳人。
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滋賀県が発祥の地と言われる「飛び出し坊や」が一杯並んでいて、忍者やおばあさんや猿などの動物まであった。
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扇谷伝承文化館はお休みであった 
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  一里塚跡 110里目
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可愛い来見川(くるみがわ)の橋は切り絵作家の絵がはめ込まれている。
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 森白仙終焉の地・井筒屋跡。 森鴎外の祖父は津和野藩の典医で、藩主が国へ帰るとき病で帰れず、養生後遅れて帰るもこの地で亡くなりこの地に埋葬された。明治33年、鴎外がこの先の常明寺に改葬、その後白仙の妻と娘(鴎外の母)の遺骨もここに葬られたが、昭和28年鴎外の眠る津和野に移葬され、ここに供養碑だけが残された。
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鴎外の泊まった平野屋を過ぎ、うかい屋で昼食。鴨南蛮を食べる。
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二階屋本陣跡や問屋場跡を過ぎ、東海道伝馬館に着く。
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1階には土山宿の宿場の模型があり、また今は花結びの作品がずらり並んで、日本の文化の美しさに感動する。別の日に紹介したく思います。
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2階には東海道の名物のレプリカが陳列され、この中で買ったり昼食に食べたりしたのがあって懐かしく旅の楽しみの一つだった。餅や団子が多い。
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蔵には大名行列が100体の京人形で再現されている。加賀藩の屏風絵が参考にされているが、家紋はここの本陣をよく使った細川家のもの。
本陣の人が土下座をして迎えている。
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馬子や問屋場も再現されていた 
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伝馬館のお隣は問屋宅跡で今まで問屋場跡はあったけれども「宅」は初めてで立派だ。
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ここを通った林羅山の漢詩は説明版を読むとなかなかに味わい深い 
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寄り道して平成万人灯を見に行く。 高さ9.33mで自然石の石灯籠では日本一。
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街道に戻ると大黒屋公園内には大黒屋本陣跡、土山宿問屋場跡、高札場跡、明治天皇聖蹟(明治13年、ここに宿泊された)がある。向かい側には陣屋跡(勘定奉行の配下の代官が在住した屋敷)もあった。
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大黒橋も切り絵があり屋根付きで立派。ここ土山にしかないかもしれない。 
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森白仙の供養碑のある常明寺に至る。供養碑は見つからなかった。
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それから10分くらい歩いて東海道は国道と交わり、土山宿が終わり色付き舗装もここでいったん途切れる。31

続く

 

 

 

 

 

 

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