« ブログ友の混声合唱団コンサート | トップページ | 中山道3 高宮~鳥居本宿~番場宿~醒井宿(前編) »

2019年7月 7日 (日)

『江戸の街道をゆく』展 於江戸東京博物館

6月の半ばで終わってしまった展覧会『江戸の街道をゆく~将軍と姫君の旅路~』ですが、ラッシーママさんに開催されていることを教えていただき、慌てて終わる間際に行ってきました。私が街道を歩いているので親切にお知らせくださったのです。

Photo_20190707213401
珍しく写真撮影可でした。
まずは徳川家康像から。
典型的な東照大権現の姿だそうで、それは御簾の上がった宮殿内に繧繝縁(うんげんべり)の上畳に座す黒袍の束帯姿で、手前に狛犬が配されるというもの。お雛様で見る繧繝縁は皇族だけに使われるが、高僧、摂関や将軍などの臣下でも、「准后」(准三宮)という称号が与えられると用いることが出来たそうだ。
Photo_20190707213201

「諸家家格儀礼書留」には武家社会の職制や身分に係る様々な規則・法令が記され、参勤交代では家格によって乗り物の仕様が定められていたそうだ。この駕籠を見てもどこが違うかあまりよくわからなかったが、こんなところまでよく決めたものです!
Photo_20190707213301

加賀藩の道中が図面に描かれ、親知らずの所は急な山越えをしていたのがわかる。
4_20190707213401

西国大名は参勤交代時、海路も利用し、船が使用されたが、各藩は船を区別するため、船尾には独自の意匠の船印を掲げ、帆や船体に覆う船幕には家紋を付けた。
5_20190707213501

そして、鞍や鐙、陣笠、刀筒など梨子地のものが多く贅沢な品々で大名の威厳が伝わってきます。
6_20190707213601

7_20190707213601

8_20190707213701

9_20190707213701

12代将軍家慶と楽宮(さざのみや)の婚約が内定し、翌年享和4年(1804)に京を出発し、中山道を経由して江戸へ向かった。
「楽宮下校絵巻」が展示され、華麗なる婚礼行列が描かれる。
楽宮は直接的には描かれず、「朱傘」と「御」の字で象徴的に示したそうだ。
12_20190707213801

13代将軍家定の御台所となった天璋院篤姫や14代将軍家茂の正室となった皇女和宮親子内親王の輿入れの話は有名で、和宮の場合は3万人、行列50㎞で沿道の警備に29藩が動員されたという。そのお道具の一部も展示されていたが、まさしくお雛様のお道具のと同じ。

これは島津家のゆかりの女乗物
10_20190707213801
篤姫の貝合道具 夫婦和合の象徴とされ、婚礼行事では先頭に定められ、婚家に運ばれると「貝桶渡し」が行われた。
13_20190707213901

和宮の耳盥 蒔絵で何もかも豪華賢覧です。耳盥とは左右に耳状の取っ手のついた小形のたらい。鉄漿(お歯黒)の際、口を漱ぐのに用いたそうだ。
14_20190707213901

11_20190707214001

輿入れ行列に関して、多くの職人の道具つくりの現場の様子、長い道中を運んでいく人々の疲れた様子、それを迎え入れる各藩や本陣、脇本陣、旅籠の煩雑極める用意、支度の様子が目に浮かぶようです。

一方将軍の将軍家光の日光社参や将軍家茂の東海道上洛絵図の他、広重でない浮世絵師の東海道五十三次、末広五十三次の絵が50近く並ぶ。

徳川の権威の誇示のため将軍御台所の京都親王家・公家・皇室よりの下向行列、参勤交代、最初と最後5将軍の上洛の旅道中がわかった展覧会でした。
東海道歩きでもっぱら庶民の旅に思いを馳せていただけに、別の一面を見た思いです。(本陣の大名の宿泊した部屋を数回見学したのみ)

庶民より贅沢な旅とはいえ、駕籠に乗るにも楽ではなさそうです。そして旅の長い時間は庶民と同様だし、大名の場合は「毬と殿様」の歌にあるように、毛槍をふりふり歩いて庶民より歩みがのろかったのではないかと、なんだか気の毒になるのです。
今の時代に生まれて良かったというとんでもない感想を持った展覧会でした。

|

« ブログ友の混声合唱団コンサート | トップページ | 中山道3 高宮~鳥居本宿~番場宿~醒井宿(前編) »

コメント

ママさんのお知らせで、行かれたんですね。意識の高いtonaさんならではです。
ご覧になった詳細を再確認されて、ますます知識が深まりますね。
おかしな考えかもしれませんが・・・
今、文化財の古民家や嫁入り道具が重宝されますね。
見てもあまり感動しないのです。歴史の知識も無いからどうしようもないですね。
凄い田舎だったので、しきたりが古く家も藁屋根で育ちました。
屋号は神戸屋(かんどや)で謂れがあるらしいけど、今は本家というだけ。
百姓だから豪華とはいかないけど、嫁入り道具もそれなりに歴史がありました。
蔵には傷だらけの長持ちもあり、器類も蓋の裏に徳川時代の銘が書かれてます。
お墓は鎌倉時代のが残っていて、お詣りの度に花を供えます。
博物館などは癒されるけど、それだけなんです。探求心を教わりたくなりました。

投稿: だんだん | 2019年7月 8日 (月) 14:01

こんにちは
 
東海道、中山道と街道歩きを続けられているtonaさんに
ぴったりの展覧会ですね。
仰るように、街道を歩いたのは庶民だけでなく参勤交代や
お輿入れの行列もまた。
西国大名の参勤交代では船も使われたこと、その船の様子など、
初めて知りました。江戸から遠いほど旅費も時間もかさんで、
外様大名は遠い地に置かれたのですよね。それでも船は許されて
いたと知って、少しほっともしました。
お輿入れの際のお道具には、雛人形のお道具が実際にも
おなじように使われていたというのが、今も心の中に残る
少女のロマンをくすぐられる気がします。
それにしても、駕籠に座って運ばれていくだけの旅も、
何とも退屈そうですね。車窓からの景色がよく見えるわけでも
ありませんし、窮屈そうですし。

投稿: ポージィ | 2019年7月 8日 (月) 15:01

★だんだんさま

お陰様で丁度良い時に道中の違う面からの展覧会が開催されたものです。
いろいろなことがわかって面白い展覧会でした。
仰るように古民家や昔のお道具が脚光を浴びるようになりました。
藁屋根などを見ると写真撮ったりします。お蔵のある家には貴重な古文書の他にお道具がいっぱい詰まっています。
普通の藁屋根の家はたくさん知っていますよ。
疎開先で農家の方と親しくなってお世話になりました。分けていただいたお米や野菜の美味しかったこと。今でもご飯の匂いでいい香りがするのはそのころの薪で炊いた匂いです。
お蔵があるのですか。徳川時代の長持ちや器があるなんて!
お墓が鎌倉時代とは!東海道でも鎌倉時代のものはあまり見かけなかったくらい、鎌倉時代というのは古くなります。凄いですね。
家制度がなくなり、一代で終わる現在、断捨離とか言っていずれ全部捨てるのも考え物なんですが、しかし品物に歴史がありません。仕方ないことですね。
あいがとうございました。

投稿: tona | 2019年7月 8日 (月) 20:16

★ポージィさま

こんばんは。
お陰様で違った角度からの街道を勉強させていただきました。
参勤交代だけでなく、輿入れの大行列を話には聞いていましたが絵図で見ますと、本当に先頭が宿に到着しても最後尾はいくつか後の宿なのですね。50㎞とは驚きました。なんてお金や人手がかかったのでしょう。やはり貧富の差が感じられます。
仰るように、船が外様大名のような遠い藩が使用許可されていたということをこれで知りました。船が貧弱で果たしてひっくり返らなかったのかと思ってしまいました。

私はひな祭りはひな壇5段でしたので、道具は少し大きくいろいろあったように覚えています。それが本当に皇族のひな壇であり、お道具と同じだったとは。輿入れ道中に運ばれて江戸まで行ったなんて思いもしませんでした。

そう言われてみますと駕籠には窓からお姫様が
外を覗きながら揺られていくということがなかったですね。窮屈で、結構揺れたのではないでしょうか。楽ではなかったのではと思いました。お世話を受けても大変な旅でしたね。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年7月 8日 (月) 20:31

こんにちは。興味深い展示ですね。間に合って良かったですね。こういうのはいろいろ行きたいのですが、サラリーマンはなかなか時間が取れず今は我慢です。

投稿: 多摩NTの住人 | 2019年7月 9日 (火) 08:31

tonaさん、おはようございます♪
街道歩きをされているtonaさんにはまたとない展覧会でしたね。
参勤交代に携わる人々にとっては長い道中、大変なことも多かったでしょうが、
一年おきに往復する華美な大名行列を見られる庶民にとっては
一大イベントのようで、大いなる楽しみの一つだったかもしれませんね。

加賀藩の山越えも大変そうだし、西国大名による海路での道中は
お天気によっては危険と隣り合わせで、怖い思いもしたでしょうね。
天璋院篤姫や皇女和宮親子内親王の婚礼行列はお道具だけでも相当な数、
長い道中を運んでいく人々の疲れも、想像を絶するものだったでしょう。
お姫様もずっと駕籠に乗ったままでは退屈で疲れそう。
たまには駕籠から降りて、自分の足で歩きたかったかもしれません。
私も今の時代に生まれて良かったと思いました。

投稿: hiro | 2019年7月 9日 (火) 09:59

この展覧会に行ってらしたのですね。
私がこの展覧会に行ってみようと思ったのも、tonaさんの東海道歩きの記事を読んでたから
そんな私でも興味深い事が沢山で、東海道を歩いたtonaさんなら色んな意味で見て納得する所が沢山あるだろうとお知らせしました。

中でも凄かったのは篤姫に関する物で、お輿入れから持って来た品々
島津藩はこの輿入れにどれ位お金を使ったのだろう・・・などと余計な事を考えてしまったり
庶民には計り知れない苦労もあったのでしょうが、皆さんも仰ってますが籠に揺られて1日は辛いものがあるでしょう。

私は今でも思いますが由緒ある家に生まれなくて良かったと
自由がありますものね、決して負け惜しみではないですよ。

投稿: ラッシーママ | 2019年7月 9日 (火) 14:03

天璋院篤姫や皇女和宮親子内親王の婚礼行列、
3万人に50㎞とはエラいことですねえ。
都心から50㎞というと、神奈川だったら平塚の辺りのようです。
そこまで行列が続いていたとは。
私はそれだけで感じ入ってしまいました。

投稿: zooey | 2019年7月 9日 (火) 16:10

★多摩NTの住人さま

こんにちは。
その通りですね。お勤めしていますとお休みはお掃除や家事の日でした。
休みには旅行なんて考えもしませんでした。
その代わり今はずっと遊び続けています。
ところが今度は体力がなくなって次第に出かけるのが減ってきましたのが残念ですが、欲張ってもいいことないですから相応に動きます。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年7月 9日 (火) 16:42

★hiroさん、こんにちは♪

そうなのです。この頃ぼんやりしていて美術展の方もおろそかになって気が付きませんでした。新聞を見れば一覧表があるのに見るのも怠って。
庶民は覗き見も許されなかったそうですが、土下座すれば見られたのでしょうか。そこのところがはっきりしませんでした。

加賀藩の親知らずの所、地図にはっきり書いてあって、さぞかし大変だったろうと想像しました。
天候と相談で、川を渡るのも山越えも今と違ってとても大変だったでしょう。
皇女や公家の娘や公家の養女(篤姫)の下向はそれはそれは贅沢な輿入れ道具を運ぶ人々の多さには驚きを禁じえません。
駕籠の中のお姫様、その通りですね。乗るのも一苦労だったと思われます。時には歩きたかったでしょうね。でも高貴な方は顔を見せられなかったのでしょう。お気の毒。
今の私たち、幸せですね。感謝の心を失ってはいけませんね。
ありがとうございました。


投稿: tona | 2019年7月 9日 (火) 16:54

★ラッシーママさま

教えていただきありがとうございました。
お陰様で色々なことを知り大満足でした。
大河ドラマの篤姫ではあの支度を手配したのは、西郷隆盛でしたね。
島津藩はあの大変な時期に大散財だったわけですね。庶民の暮らしは大変だったことはドラマの中でも見ました。
駕籠に乗ったことはありませんが、歩くより苦痛であるように思えます。

仰るように、普通の家に生まれて良かったですね。美智子上皇后さまや雅子皇后さまなどなどどんなにかご苦労の多い日々でしょうね。

投稿: tona | 2019年7月 9日 (火) 19:09

★zooeyさま

確かに東京駅から私の実家茅ヶ崎から平塚あたりになりますね。学生当時電車で1時間もかかっていました。そんな長い距離の行列、想像するだけでも信じられない長さですね。
全部必要な物と人だったのでしょうか。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年7月 9日 (火) 19:18

 昔は徹底した上下格式社会。厳しい決まりがあったのですね。
徳川幕府は権力を維持するため地方大名の江戸への参勤交代を命ずる。遠いところの大名は時間もかかる

し、金もかかる。遠い道のりをたくさんの従者を引き連れ、歩いて江戸を目指す。
歩く従者も、籠に乗る大名も大変だったろうとその苦労がわかります。船旅は別ですけど。
大名家にとっては死活に関係する一大行事だったのですね。
これも天下の将軍家徳k川の権力のなせる技。頭がいい。

 徳川家へ下降する姫君たちも、その格式を誇示するために、あらゆる贅を尽したのですね。
今では到底考えられない苦労があったと思います。

郷の家でも表座敷に繋がる中門、表玄関と、下玄関があり、来訪者の格式によって
決められていたそうです。
当然のこととして、来る人もその時代はちゃんとわきまえていたのですね。ああ今考えたら肩が凝る。

投稿: 夢閑人 | 2019年7月 9日 (火) 20:33

★夢閑人さま

駕籠など乗り物までその家格に応じて決まりがあったり、船のように家紋を一杯つけたりで、以前書きましたが、全国何百の家紋を中央の警備の旗本などは覚えていないといけなかったそうで、格式社会の厳しさが垣間見えました。
参勤交代も将軍上洛も花嫁下向も随分とお金がかかり、その他の苦労も大変なものがあったでしょう。
まことに徳川家康は凄い人の一言です。二代秀忠もなかなか後継ぎとしてはよくやったそうですが、支えるか家老職や参勤交代などみな初代二代あたりが考え確立させ幕府の基礎を作ったのですからね。
篤姫は将軍のみ台所(継室)になるまでも大変で、なってからも将軍家定が病弱、その後嫁の和宮との確執や和解、大奥取り仕切り、幕末へ向けての幕府崩壊寸前など苦労の連続で、お金や食べ物に不自由しなくても、幸せな人生とは言い難かったです。
お里は日本でも一番遠い方で、結構風習が残っていたとか。なるほど玄関も2つあって区別されていたのですね。女性は勇ましくも大変なことでした。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年7月10日 (水) 08:47

東海道は岐阜を通りませんので中山道を
通った皇女和宮に関するイベントが
今ても大垣で開かれています。

江戸はどの街道も起点ですからいろいろ
展示品も集まり楽しめますね。

投稿: matsubara | 2019年7月10日 (水) 16:00

★matsubaraさま

お忙しい中コメントありがとうございます。
中山道は岐阜県・美濃路も横断ですが結構長く歩きますね。
和宮も大変な旅をされたわけですが、3回もなのですね。
次回はいよいよ関ヶ原方面まで行きますので岐阜県に入ります。その後は暑いので9月末となます。
展覧会はあり過ぎて逃してしまうことが多いです。贅沢なことを言って罰が当たりますね。

投稿: tona | 2019年7月10日 (水) 20:49

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ブログ友の混声合唱団コンサート | トップページ | 中山道3 高宮~鳥居本宿~番場宿~醒井宿(前編) »