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2019年10月29日 (火)

八海山・苗場田代・奥只見湖遊覧で紅葉狩り

雨の合間、10月23,24日に行ってきました。
行きはMaxたにがわ号で上毛高原駅へ、帰りは越後湯沢駅からとき号に乗って帰ってきました。

23日(水)晴れ

●吹割の滝

まず2日間ツアー専用のバスで群馬県の吹割の滝へ。かつて2回ほど行ったことがあるが、今回は大雨による増水で滝の迫力満点。
今まで東洋のナイヤガラと言われても実感が湧かなかったのが、ミニミニのナイアガラをちょっぴり味わえました。
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浮島観世音堂に如意輪観音様がおられた。すっかり忘れていました。
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●八海山

新潟県南魚沼市にある越後三山(中の岳、越後駒ケ岳と八海山)として知られ、山頂の八ッ峰が象徴的です。1778ⅿ。
ロープウェイで山麓駅(標高376ⅿ)から山頂駅(標高1147ⅿ)まで5分で771mの標高差を登り、展望台で山頂の方や日本海(佐渡島が見えるというがどれだか判別できなかった)まで眺望を楽しむとともに、紅葉を眺める。今年は朝晩の気温差があまりなくて赤がちょっと茶色っぽくなっているようだ。パンフレットのあるような紅葉ほどではなかった。

ロープウェイから八ヶ峰が見えた。
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展望台からの八海山山頂方面。
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展望台から
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●大源太湖(標高550ⅿ)

正面に見えている、上越のマッターホルンと呼ばれる大源太山(1598ⅿ)の麓のダム湖。大源太川の砂防ダムで今補修工事中で残念ながらきれいでなく、紅葉もこの標高だとまだであった。
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苗場プリンスホテル泊。紅葉ツアーでバスが19台も来ていて夕食は早めの5時に行くよう指示される。バイキングでした。席を確保し行列についてお皿にめちゃめちゃに取ってそれからはゆっくりいただく。質はよく美味しかったので普段の倍ちかく食べたのでした。
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24日(木)曇り一瞬日が射す。

●苗場ドラゴンドラから田代ロープウェイ

あいにく曇りでゴンドラの中の窓がガスがかかったようになって残念な紅葉狩りでした。
しかし、苗場ドラゴンドラ(8人乗り)は苗場高原から田代高原をつなぐ、日本最長の5481ⅿの長さを誇る。上って下って、上って下って、上って平、上って平、上る。実に雄大な眺めでわくわくしながら25分間も乗っていました。
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二居湖
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苗場ドラゴンドラ山頂駅から田代ロープウェイへ移動。日本一の瞬間地上高230ⅿも絶景。91名乗りで10分。
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奥只見へ
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奥只見湖遊覧

外輪船ファンタジア号に乗る。19世紀のアメリカ・ミシシッピー川の貨物船をモチーフにしているとのこと。
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 銀山平(昔銀が採れた)から奥只見ダムまで50分近く乗っていたでしょうか。晴れていれば尾瀬の燧ケ岳が見えたはずだ。一瞬日が射して紅葉がきれいに見えたので由としましょう。
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奥只見ダムは昭和36年完成の、日本最大級の貯水量を(黒部ダムの3倍)を誇る巨大ダムです。
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越後湯沢の駅にて
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今日の食事は全部撮り忘れたが越後の山菜、きのこも十分に味わえたので良かった。今年の紅葉狩りはブナやナナカマド中心の越後、福島のを見ることが出来、おそらくこれにて終了か。満足しました。

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2019年10月25日 (金)

中山道6 美江寺~河渡宿~加納宿~六軒駅(後編)

加納宿(53番目の宿)河渡宿から5.9㎞、鵜沼宿まで16.8㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒。

加納宿は城下町で規模も大きいが(5番目に大きな宿場、美濃最大)、空襲で焼けてほとんど遺構は残っていない。
岐阜は和傘と提灯が特産である。それは加納藩が最初は松平氏だったが永井氏に変わり幕末には石高が減り、財政逼迫で傘の内職を武士に奨励したから。 今も全国の和傘の9割を生産している。

西番所跡。そばに「皇孫殿下御生誕記念碑」が。今の天皇です。
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加納は何度も大火に見舞われていたのか、秋葉神社が多くなる。地図で見ても九社もある。
街道らしい街並みとなり、岐阜駅前の通りを過ぎると道路が全面カラーとなってきれいな街道だ。この写真はかなり東に寄った専福寺辺りの街道の様子。
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加納天満宮。1445年、斎藤利家が沓井城(加納城の前身)を築城の際、守護神として勧請され、菅原道真を祀っている神社。
舞台の奥に見える拝殿が、戦災でこの加納宿で唯一残った建物だそうだ。
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本陣跡兼皇女和宮御泊所跡の標柱があり、和宮の歌碑もあった。「遠ざかる都としれば旅衣 一夜の宿もたちうかりけり」。中山道には和宮に関する碑が多く和歌を読むと切なくなる。
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行かなかったけれども、光国寺は初代加納藩主奧平信昌の正室・亀姫の建立。亀姫はと家康の長女で、母が築山御前だ。弟に秀忠、御三家がいる。

当分本陣跡兼明治天皇御小休所跡などの標柱を過ぎ、大手門跡の石碑を右折して、突き当りの加納城跡に寄る。家康が関ヶ原の戦いの直後に築城を命じた。城址までは岐阜大学付属小中校などが並んでいた。
石垣が残り、本丸跡は史跡公園になっている。
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高札場跡を通り過ぎ、先の四つ辻を右に曲がると側溝蓋に御鮨街道とある。岐阜町で作られたなれ寿司を江戸へと届ける街道だったそうだ。
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東番所跡で加納宿を出る。ここから次の鵜沼宿までは16.8㎞と非常に長いので今日は六軒駅までしか行かれなかった。
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加納~六軒駅

御鮨街道と中山道の分岐があり、力士鏡石が建てた道標・鏡岩がある。
江戸文政期の二代目鏡岩は土俵外での行いが悪かった。父の13回忌に改心して寺を建て、自分と同じ大きさの木像「ぶたれ坊」を作り、罪滅ぼしのつもりで旅人に棒でぶたせた。ぶった旅人にはお茶を振る舞ったことから 「茶所(ちゃじょ)」 という地名が生まれたそうだ。この後名鉄茶所駅を越える。
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立派なお屋敷は森邸である。
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岐阜城が見えている。
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伊勢街道との追分に追分地蔵があり、前に道標が立つ。半跏趺坐地蔵菩薩と般若心経を巻いた地蔵菩薩である。
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細畑の一里塚(105里目)がある。昭和27年に道の両側に復元され植えられた榎が大きくなっている。
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「明治水(目薬)」の庵看板の小木曽薬局。庵看板って初めて!!
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手力雄神社・・天照大神が隠れた岩戸を開けた天手力雄命が祭神で、火祭りが有名。狛犬が3対、常夜燈が5対もある。
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桜並木の続く境川を高田橋で渡る。すぐそこに名鉄の高田橋駅が見えており、丁度電車を撮ることができた。
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濃川排水路の橋の袂に、「中山道 間の宿 新加納」の標柱がたっており、ここから道は少々上り坂になり、ここから広大な各務原台地へ上がっていく。次の鵜沼宿まで長いために5つの立場が設けられており、ここもその一つだ。道の歩道部分はずっとカラーである。
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久しぶりに道祖神に会えた。
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善休寺は真宗大谷派で親鸞聖人像、蓮如上人像がある。
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手水石には葵のご紋があるが、これは尾張徳川家が各務野にて狩の折に宿所としたことから、特別に葵の紋を与えられたことによるそうだ。
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新加納の一里塚跡(104里目)を通り過ぎ、日吉神社による。
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ここで有名なのが、狛犬ならぬ狛蛙!(狛犬もいた)。狛鹿はどこかで2度ほど見たが、狛蛙は初めて。
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和菓子のだるま屋さんに寄って有名な豆大福を買う。後で6軒駅で食べた。
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新境川を渡る。堤に桜が千本以上植えられているそうだが、これは地元出身の歌舞伎役者市川百十郎が寄贈したものだそうで、百十郎桜と呼ばれているそうだ。春はきれいでしょう。
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市民公園はとても広く、まるでヨーロッパの公園のようだと話し合ったほどだ。岐阜大学の跡地もあった。
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各務原市のマンホールはいろいろあるようなのですが、見たのはラグビーボールのような形を同心円に並べたスリップ防止仕様の蓋で、市章が真ん中に入ったこれだけでした。 
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警察署の前に張りぼての恐竜ナッシーが。交通事故ナッシー(なし)という願いを込めたネーミングだそうだ。
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各務原の特産はキムチだそうだ。1999年に韓国の春川市と姉妹都市交流が始まったから。春川市は「冬のソナタ」のロケ地で冬ソナファンの聖地。
たまに爆音がするのは軍用機の音で航空自衛隊岐阜基地が街道の南側にあるから。

無人駅の六軒駅から名鉄に乗り、名鉄岐阜駅へ。
ここでこの日は嬉しいことがありました。岐阜にお住いのMさんがお忙しい中、駅で待っていてくださって3年ぶりにお会いしました。
そのままご一緒に名鉄名古屋線に乗り途中で下車されて行きました。その間15分足らずの短い御目文字でしたが、お風邪一つ引かずお元気にご活躍のご様子を確認し、私も頑張らねばと思ったことでした。
ご親戚の家の岐阜銘菓「登り鮎」を頂きました。家で賞味させていただきましたが美味しかったこと!ありがとうございました。
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名古屋駅で、漬物をつまみにビールを飲み、味噌煮込みうどんを久しぶりにいただく。
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いつものひかりに乗りいつも通り10時半頃家に着く。今日も約5万歩でした。次回から日の暮れも早く電車も不便になっていくので歩数は減ります。

      (完)

 

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2019年10月20日 (日)

中山道6 美江寺宿~河渡宿~加納宿~六軒駅(前編)

10/10(木) 2週間ぶりで、前回と同じ時間に出発し、名古屋から大垣へ、そこから樽見鉄道で美江寺へ9時頃到着した。この日も富士山がきれいに見えました。
既に歩いた街道の宿の名前の順番も忘れ、印象深い所だけしか頭に残っていないのですが、東海道を3往復もした人の話を聞いて、もう街道のすべてが頭に焼き付いたのではと思います。しかし1回だけでももういいやというというのに、6回も同じ道、500㎞近い道のりを歩くなんて狂気の沙汰としか思えないほどのことです。そこまで街道を愛し没頭できるという人も世の中にはいるので驚きです。


美江寺~河渡

樽見鉄道一両編成はカラフルでかわいらしい。お天気も良く10月というのに29度の予報で暑くなりそうだ。
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駅から街道に出たところに道標には「右岐阜加納二至ル 左北方谷汲二至ル」と読める。前回から度々谷汲道の名が出てくる。
この道の先には谷汲山華厳寺があり、西国観音霊場第三十三番札所で結願寺だそうだ。
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2週間前より稲穂がさらに重そうになっている。その向こう側に横一直線に見えるのはたくさんのビニールハウスで、サボテンが栽培されている。まさしく名高い濃尾平野の風景だ。
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サボテンはハウスごとに種類が違っていて、かなりいろいろな種類が栽培され、一体どの方面に出荷されるのだろうか?
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五六川を渡る。美江寺が江戸日本橋から56番目の宿場だから付いた名前の川。
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高札場跡、本田代官所跡と続く。
関ヶ原の戦い後、幕府は有力大名が出てこないよう10万石未満の小藩と幕府の直轄領に細分し、ここ本田代官所は1770年に大垣藩預けとなるまで続いた。徳川幕府も参勤交代をはじめ、随分いろいろ考えたから260年も続いたのですね。
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立派な本田地蔵堂(延命地蔵)があった。
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糸貫川を渡った先の高台に馬場地蔵堂がある。今回の台風では実にたくさんの川が氾濫したが、昔は堤防もダムもなく日常茶飯事で大変だったでしょう。糸貫川あたりもしばしば氾濫し、堤防が築かれ、板橋が架けられたそうで、代官はこの地域の治水に尽力し、田畑と農民を水害から救ったそうだ。
このお地蔵さんにも「右谷汲道」と彫られていて道標を兼ねている。前回の道中にもこうした石造が多かった。
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河渡宿(54番目の宿) 美江寺宿から4.7㎞、加納宿まで5.9㎞。本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠24軒。

瑞穂市から岐阜市に入り、慶応橋を渡ると河渡(ごうと)宿に入ってきた。
鵜と鮎の図柄が描かれた岐阜市のマンホールが目に入る。
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河渡は本陣1軒のみ(脇本陣なし)の美江寺宿と同じく小さな小さな宿だが、長良川が川留めになると賑わったので旅籠の数は美江寺宿よりずっと多い。
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河渡一里塚跡(107里目)と松下神社跡。
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河渡宿は土地が低く、雨や雪で泥沼化したので、代官松下内匠が宿全体を5尺ほど土盛をして以降は被害が減り、村人がこの功績に対し、神社と碑を立てた。

昔は堤防の上にあったという馬頭観音堂がある。観音堂には愛染明王が祀られる。真ん中の明王の頭に馬頭らしき姿が見える。岐阜市に入ってから馬頭観音が増える。昔馬を木曽の方からあるいは木曽に向かって使ったのであろうか。
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長良川を河渡橋で渡る。少し上流には小紅(おべに)の渡しがあり、県道なので無料で船で2分で渡ることができるそうだ。葛飾柴又みたいなのでしょうか。
揖斐川、木曽川と並んで有名な長良川は郡上市の大日ヶ岳が源流で、多くの支流を合わせて伊勢湾の流れ込む。橋から伊吹山が見え、揖斐川からも見えた金華山の岐阜城がさらに近づいてきた。
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鏡島(かしま)湊跡の説明板があった。鏡島湊は長良川を利用した舟運の湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄え、織田信長の祖父が鏡島に新町を作り、岐阜城の外港として整備し、関ヶ原合戦後は加納藩の支配となり、明治後半まで利用されていた場所だ。
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河渡~加納

鏡島城跡に石河駿河守光清が祀った倉稲魂稲荷神社がある。赤い鳥居が社殿まで並んでいる。
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観音寺の前には朝日縮緬碑がある。このあたりは江戸時代から丹後・長浜とともに三大縮緬の産地だった。特に鏡島地区では村中が機織りに従事していたという。
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乙津寺・・日本三躰厄除け弘法大師(京都東寺・川崎大師)のひとつ。お寺の境内にはたくさんの石仏などがある。   
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四国八十八所観音。
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昼食はデニーズ(お寿司屋さんが廃業していた)でシーザーサラダ、からすみスパゲティとドリンクバーつき
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多羅野(だらり)八幡神社。3つの神社が合祀されていて、左から秋葉神社、八幡神社、天満神社である。昔から「だらり餅」という餡餅が立場にあって1916年まで続いた。
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医王寺の馬頭観音。道標を兼ねた馬頭観音は岐阜だけのものか、この先木曽にもあるのか楽しみ。
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2019年10月14日 (月)

白丸ダム魚道

青梅線・古里(こり)駅~白丸駅ハイキングで白丸ダム魚道を見てきました。
以前は橋の上から川に築かれた魚道を見ただけでしたが今回はトンネル内のを見ることが出来ました。

古里駅に降り立つとこのあたり一帯の蚊の駆除だそうで各家全体を消毒しているのに出会い驚く。
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奥多摩はヒメツルソバの群生があちこちで見られるところだ。
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ついつい道祖神や燈籠に目がいってしまう。
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シロシキブは今秋初めて。
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多摩川を何度も渡っては川沿いの道を上ったり下ったり、結構な登山並みの運動になります。
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名前のわからない滝あり。
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展望台から。山間には結構家が多い。
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シライトソウかな? その他シュウカイドウ、キバナアキギリ、ツリフネソウ、シラヤマギク、イナカギクなどが次々と山道に現れて秋を満喫する。シライトソウでなくサラシナショウマでした。葉を見たらそうでした。shikamasonjinさま、ありがとうございました。
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コスモスもとてもきれいだ。
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年季が入ったようなサルノコシカケ 名前はコフキサルノコシカケ(またはオオミノコフキタケ)だそうです。shikamasonjinさま、いつもありがとうございます。
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大分ダムに近づいてきた。
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魚道(全部で約332ⅿ) 東京湾から79㎞も沢山の堰をのぼってこの魚道に辿り着き、ジグザグに次はトンネル部の魚道の中を遡り、落差30ⅿあるダムの上に行く。
この多摩川には、ヤマメ、アユ、ウグイをはじめ100種類近くにも及ぶ魚たちが生息し、川を上り下りしながら生活している。

明かり水路部魚道  一番奥で手前方面に曲がって続いているが木の陰で見えない。
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管理棟から螺旋階段を下りてトンネル部の魚道を見学する。
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ダムと調整池
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この店でビーフステーキ&ハンバーグセットを注文したのですが半分も食べられなかった(TωT)ウルウル
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白丸駅も無人駅。のんびりと電車を待つ。
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一日置いて国立能楽堂へ「能楽研修発表会」で舞囃子・狂言・能を堪能。我が頭には狂言しかわかりませんでした。
翌日はクラス会で14人中9人出席。5人の方はそれぞれに重い、軽い病気を抱え、私も来年無事に出席できるかなど思ってしまったことでした。
感心したのは姫路から日帰りで参加した友人は、子供が中学生の時ご主人を亡くし、3人の息子さんを育てながら75歳まで経理の仕事をし、退職後は歩く水泳とヨガ、オカリナ、パソコンのエクセル研修と、オカリナなど大変ながら楽しく過ごしている様子を披露してくださった。この2種類のスポーツは体に良いと言われ、調子よいとのこと。1年に1度、3時間半もワイワイとよくしゃべる私たちです。
その翌日が中山道歩き6回目でした。1日おいて土曜日から白馬に1泊の予定が入っていたのですが、台風でキャンセル、実は体力限界でほっとしているところです。

 

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2019年10月11日 (金)

中山道5 関ヶ原~垂井宿~赤坂宿~美江寺宿(3

◆赤坂~美江寺
赤坂宿を出ると
道標を兼ねた石造がこの後も見られるようになった。岐阜県に多いのでしょうか。これは加納薬師地蔵の道標
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 田んぼ用の用水路が至る所にあって、水がきれいだ。
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揖斐川まで七回り半の道標や三回り半の道標があって、そんなに曲がってないように見えるのがおかしい。
「右ぜんこうじ道 左谷汲山ごうどいび近道」と彫られている聖観世音菩薩の石仏が、はやり道標を兼ねているのが現れた。
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三回り半の手前に、珍しい素戔嗚社がある。1888念大垣輪中瀬古堤決壊で神府が竹藪に漂着し、鑑定をすると素戔嗚尊と判明し、この地に社殿を設けたそうだ。
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民家の塀で脇の水路の魚を狙っているサギ。上野動物園のハシビロコウを思い出す。
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柳瀬橋を渡った先の神明神社の前に柳原一里塚(109里目)解説板があるが違う所にあるらしい。昔と道がわずかに違うのか。

この日は丁度彼岸花の時期であちこちに咲いていたが、平野井川の土手には彼岸花がいっぱい。まだ蕾があって満開ではなかったがきれいだ。今年はこの地方も彼岸花が遅れているようだ。
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瑞穂市に入ったところに小簾紅園(おずこうえん)がある。和宮が呂久渡を利用したことによる記念碑建立のため整備された。
和宮御遺蹟碑の横に呂久渡船場跡碑が並んでいる。呂久の渡しは中山道を遮る呂久川(現揖斐川)を舟渡しでつなぐ渡し場だった。
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「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」という和宮が詠んだ句碑がある。周りを見回すと殆どもみじばかり。秋に来るときれいでしょう!
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呂久渡し場跡
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紅園の前にマンホール。旧巣南町のものと思われるマンホールはもみじがである。小簾紅園のもみじと関係し町の木だ。大垣市も神戸町もマンホールを見つけることができなかった。
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馬淵家の長屋門。呂久の渡しの船年寄・馬渕家の立派な屋敷だ。
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大きなお地蔵さんがいた。
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揖斐川を鷺田橋で渡る。名古屋の方の東海道で通った揖斐川は河口で長良川と合流して伊勢湾に流れ込む。
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橋の歩道から金華山も見えてきた。
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瑞穂市は富有柿発祥の地で、確かに柿の木が多い。まだ色づいていなくて存在がわからない。
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宿の石碑があるポケットパークを通る。
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犀川沿いに歩いているとカルガモがたくさんいた。
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美江寺宿(55番目の宿) 赤坂宿から8.7㎞、河渡宿まで4.7㎞。本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠11軒。

美江寺宿は和宮が小休憩したというがこじんまりした極めて小さな宿である。
宿に入ると美江寺千手観音が見られた。手が沢山彫られている。こういう観音様も久しぶりだ。
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観音様の横の新月橋から見た風景が広重の絵に描かれている。今も面影は残っている。
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本陣跡
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その先の枡形の角に庄屋の和田家は虫籠窓のある大きな町家である。
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かつて美江寺があったという美江神社には高札場が復元されていた。
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美江寺一里塚跡(108里目)の標柱
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樽見鉄道の美江寺の駅はかわいらしい。見つけられなかったくらいだ。駅からは金華山がさらに近くに見えていた。
来た電車はたった一両編成で、満席であった。
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駅コンコースできしめん。新幹線の中ではいっぱいやる。
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今日のお土産は栗入りきよめ餅。
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前回と同じのぞみより一つだけ多く、小田原に停車するひかりで、家到着はいつもの10時半頃でした。

私のブログはニフティーのココログですが、ここ半月以上もコメントの反映が出来ないという障害が生じています。私にはコメントのあることは受信できているのですが、それを見るのが遅くなった時にお返事が遅くなるという不都合が生じますが、ご容赦ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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2019年10月 5日 (土)

中山道5 関ヶ原~垂井宿~赤坂宿~美江寺宿(2)

垂井~赤坂

赤坂宿を出ると相川を相川橋で渡る。北側の山が美しい。ここは洪水があったため人足渡しだった。一方、朝鮮通信使や姫宮などが通る時には木橋がかけられたそうだ。
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橋を渡ったところにあるのが垂井追分道標。中山道と美濃路の追分である。美濃路は垂井と東海道熱田(宮宿)を結ぶ脇往還である。いつか歩くつもりでいる。中山道も本によっては木曽路までは美濃路と言っている。
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昼食は、今回は飲食店が見つからず、コンビニイートインで。名古屋名物のあんかけスパゲティを売っていた。東京には売っていない!ソーセージの赤が気になったけれど、美味しかった。
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大垣市・青野町に入る。青野一里塚跡(111里目)と大神宮常夜燈がある。
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教覚寺には青野藩主・稲葉正休の碑がある。稲葉正成(春日局の夫だった人)の子孫だが、江戸城内で大老を刺殺、自身も殺され、青野藩はお家断絶となった。
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寺の鐘楼台は石灰石で、フリズナ(有孔虫)の化石がある。珍しいというよりあまり化石を見る機会がないということです。たまには博物館に行かなければ。
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この辺りは見渡す限り田んぼで、稲穂が垂れて収穫も近そうだ。日本の秋の原風景。
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間の宿と思われる青墓宿が大谷川を渡った東詰めにあったらしい。廃寺の圓願寺には芦竹庵があった。
牛若丸が奥州へ落ちのびる途中、青墓の圓願時で休み、江州から杖にしてきた芦の杖を地面に突き刺し 「挿しおくも 形見となれや 後の世に源氏栄えば芦竹となれ」 の歌を詠んだという。その後、芦から芽が出て竹の葉になったとの伝説がある。
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照手姫の墓と言われる墓もあった(東海道の方にもあった)。墓の横の植物が芦竹かもしれない。照手姫水汲井戸まで残っていた。
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今日は古墳を2つも見た。その一つ、粉糠山古墳で墳丘長100ⅿの前方後円墳だが、今は墓地になっていた。青墓の遊女たちが捨てた粉糠が積ったものであるという。
写真では古墳の形が全くわからないが向こうに盛り上がっているのが円墳のようだ。
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2つ目はその先の昼飯町(ひるい)の昼飯大塚古墳。岐阜県最大の前方後円墳で150ⅿある。4世紀末の築造。
昼飯の由来は大坂の海から拾い上げられた善光寺如来という仏像が、善光寺へ運ばれていく途中、一行がこの地で昼飯を食べたからだそうだ。とても大きい!
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登って見ると四方が見渡せ美しい景色が広がっている。伊吹山の方を見る。
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目を北東の方に転じると石灰を掘っている山が見える。江戸時代からここでは良質な石灰石が採掘されて、今も工場がこの辺りに点在している。
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赤坂宿(56番目の宿) 垂井宿から5.2㎞、美江寺宿まで8.7㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒。
東海道にも赤坂宿があるので中山道のは美濃赤坂とも呼ばれる。

赤坂宿西の入り口に、赤坂宿御使者場跡と兜塚がある。
関ケ原合戦の前日、杭瀬川の戦いで戦死した東軍・中村隊の武将・野一色頼母の首と鎧兜を埋めた場所。
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赤坂は所郁太郎生誕地であり、お墓がある。所郁太郎とは、瀕死の重傷を受けた井上聞多(後の明治の元勲井上馨)を手術し畳針で縫いその一命を救ったという憂国の青年志士だった。初めて知った志士。
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脇本陣跡の斜め前にある和菓子屋さんの金生堂で栗きんとんわらび餅を買い、先にある本陣跡の公園で食べる。これは美味しい。
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1831年に建てられた谷汲道道標。19㎞北にある谷汲山に向かう道。道標や高札場の字がいつもなかなか読めない。江戸時代の庶民は凄いなんて思う。
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十六銀行はビルでなく宿場に馴染んだ建物で、静岡の問題になった銀行もそうだったことを思い出す。
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旧清水家住宅。1730年建築で大垣市指定文化財。土日は公開。昔米屋で2階は米を収納する広い部屋が残っているそうだ。
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おやつを食べた本陣跡は公園になっている。奥に小さく見える青い像は所郁太郎の像で、和宮が宿泊した記念碑もそばにある。
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赤坂本町駅跡があった。
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赤坂湊会館。赤坂警察署を復元したもので、これも土日に資料館として公開されている。
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赤坂湊跡。赤坂港はかつて桑名まで船が行っていて、近代は名古屋まで石灰を運ぶ船が往復したそうだ。鉄道ができて衰退。
今は港が復元されていて、大きな火の見櫓が立っている。
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続く

 

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2019年10月 3日 (木)

中山道5 関ヶ原~垂井宿~赤坂宿~美江寺宿(1)

9/26(木)、7/18以来2ヶ月ちょっとぶりに中山道歩きに出ました。果たして鈍った体でどうなるやら。涼しいと思われていたのに、30度近くの予報に。しかし秋の空気が下りている日だったので日陰は涼しく午後にはちょっと暑かったけれども、家に到着まで2リットルの水分の補給と塩分補給で熱中症を免れました。
この間、関ヶ原で大雨に遭い、垂井に向かって1㎞も歩いたのに引き返したので、また関ヶ原駅から同じ道を出発。この日は樽見鉄道の美江寺駅に到着するべく歩いたので、いきなり約50000歩ということになり、翌日筋肉痛になったのでした。今回も道中にまつわる話や伝説を初めて知ることが出来ました。


◆関ヶ原~垂井

いつもの4時半起床で、東京駅6:16ののぞみで名古屋へ、富士山は見えた!東海道線で関ヶ原の駅に降り立ち、9時過ぎから歩き始めた。
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桃配山の徳川家康最初の陣地。桃配山(ももくばり)は、壬申の乱の時に大海人皇子が陣を構え、村人に献上された桃を兵士に配り勝利したことにより命名されたのだそうだ。
家康はその故事にあやかりここに陣を敷いた。そばには石が2つあったが、家康が腰掛とテーブルに使ったそうだ。
桃配山。階段を登ったところに記念碑と石があった。
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中山道・野上村の野上の松並木。樹齢300年以上。台風や虫害で本数が減り、関ヶ原町が天然記念物に指定して保護している。野上は関ヶ原と垂井の間の宿。
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六部地蔵は初めて。
六部とは 六十六部 の略。全国の社寺を巡礼して修業している人とのことで、行脚中の行者がこの地で亡くなり、村人が祠を建ててお祀りしたという。「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」 とあった。
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山内一豊陣跡。西軍の毛利氏に備えた。
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真念寺に寄る。時は平安、野上宿の花子は、宿に泊まった吉田少将と契りを交わし、その形見に扇を受け取り、少将が忘れられず諸国を尋ね歩く。扇が縁で再会するというのが謡曲「班女」。花子は謡曲「墨田川」の梅若丸の母でもある。この班女の観音堂に病死した我が子の供養のために観音様を祀った。
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岐阜県に入ると滋賀県のようにお地蔵さんはあまり見かけなくなったが、ここにありました。喜ぶ。
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野上の七つ井戸があった。旅人の飲料水として貴重だったそうだ。つるべ式。
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おしゃもじ塚。平安時代の上野介・平忠常終焉の地。
平忠常(朝廷に反抗し安房の国司を殺害し捕えられた)は都に護送される途中病に罹り、何も口にすることができなくなり、野上の住民がしゃもじに食べ物を乗せて差し出すと一気に食べて息絶えた。住民が供養碑を立てて弔った。
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垂井一里塚。中山道で国指定史跡となっている一里塚はここと東京都の板橋だけだそうだ。関ヶ原の戦いで東軍についた浅野長政の嫡男幸長の陣跡でもある。
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すぐ隣にあるのが日守の茶所。
常盤御前の墓所にあった秋風庵が明治になって一里塚の隣に移され、中山道を通る人々の休み場所として、昭和の初めまで利用された。
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垂井町のマンホール発見!この先の相川沿いの桜並木と鯉のぼりがモチーフ。
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●垂井宿(57番目の宿)
関ヶ原から5.5㎞、赤坂宿まで5.3㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒。766mある。

垂井宿西の見付からの垂井宿
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この宿の家にも所々に屋号札がかけられている。煮物賣「大場屋」さんはお総菜を売っていたのか?
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本龍寺。とても立派なお寺!櫓のようなのを含めた山門は脇本陣から移築したもので、手前に最近復元された高札場があり道沿いには明治天皇垂井御休所の石柱がある。
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この寺の住職と親交があった芭蕉が1691年の冬滞在し、句碑がある。「作り木の 庭をいさめる しぐれ哉」。
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お寺の斜め向かいにあるのが、小林家住宅主家。油屋宇吉家から小林家が明治になって譲り受け、亀屋の屋号で旅籠を営んでいたそうだ。江戸末期の建物で防火対策が随所に残された貴重な建物で、国登録文化財。
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江戸時代そのままの間取りの旅籠の長浜屋。休日はお休み処として中が見られるそうで残念。
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美濃国一宮の南宮大社の大鳥居。高さは7.1㎞ある。常夜燈は1840年のもの。
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玉泉寺の脇に垂井の泉がある。今はない樹齢800年の大ケヤキの根元から水が湧出していた。垂井の地名の起源とされているこの泉、とても水がきれいで岐阜県名水50選に選ばれている。
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本陣跡の先の丹波屋の鬼瓦にWaterと書かれている。どんな意味があるのか?
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旅籠の亀丸屋。最近まで営業していたそうだ。この前は枡形になっている。
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紙屋塚。昔、紙漉き場があったとのことで、美濃紙発祥の地と言われるているそうである。
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ここで垂井宿・東見附を出る。

 

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