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2019年10月 3日 (木)

中山道5 関ヶ原~垂井宿~赤坂宿~美江寺宿(1)

9/26(木)、7/18以来2ヶ月ちょっとぶりに中山道歩きに出ました。果たして鈍った体でどうなるやら。涼しいと思われていたのに、30度近くの予報に。しかし秋の空気が下りている日だったので日陰は涼しく午後にはちょっと暑かったけれども、家に到着まで2リットルの水分の補給と塩分補給で熱中症を免れました。
この間、関ヶ原で大雨に遭い、垂井に向かって1㎞も歩いたのに引き返したので、また関ヶ原駅から同じ道を出発。この日は樽見鉄道の美江寺駅に到着するべく歩いたので、いきなり約50000歩ということになり、翌日筋肉痛になったのでした。今回も道中にまつわる話や伝説を初めて知ることが出来ました。


◆関ヶ原~垂井

いつもの4時半起床で、東京駅6:16ののぞみで名古屋へ、富士山は見えた!東海道線で関ヶ原の駅に降り立ち、9時過ぎから歩き始めた。
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桃配山の徳川家康最初の陣地。桃配山(ももくばり)は、壬申の乱の時に大海人皇子が陣を構え、村人に献上された桃を兵士に配り勝利したことにより命名されたのだそうだ。
家康はその故事にあやかりここに陣を敷いた。そばには石が2つあったが、家康が腰掛とテーブルに使ったそうだ。
桃配山。階段を登ったところに記念碑と石があった。
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中山道・野上村の野上の松並木。樹齢300年以上。台風や虫害で本数が減り、関ヶ原町が天然記念物に指定して保護している。野上は関ヶ原と垂井の間の宿。
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六部地蔵は初めて。
六部とは 六十六部 の略。全国の社寺を巡礼して修業している人とのことで、行脚中の行者がこの地で亡くなり、村人が祠を建ててお祀りしたという。「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」 とあった。
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山内一豊陣跡。西軍の毛利氏に備えた。
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真念寺に寄る。時は平安、野上宿の花子は、宿に泊まった吉田少将と契りを交わし、その形見に扇を受け取り、少将が忘れられず諸国を尋ね歩く。扇が縁で再会するというのが謡曲「班女」。花子は謡曲「墨田川」の梅若丸の母でもある。この班女の観音堂に病死した我が子の供養のために観音様を祀った。
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岐阜県に入ると滋賀県のようにお地蔵さんはあまり見かけなくなったが、ここにありました。喜ぶ。
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野上の七つ井戸があった。旅人の飲料水として貴重だったそうだ。つるべ式。
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おしゃもじ塚。平安時代の上野介・平忠常終焉の地。
平忠常(朝廷に反抗し安房の国司を殺害し捕えられた)は都に護送される途中病に罹り、何も口にすることができなくなり、野上の住民がしゃもじに食べ物を乗せて差し出すと一気に食べて息絶えた。住民が供養碑を立てて弔った。
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垂井一里塚。中山道で国指定史跡となっている一里塚はここと東京都の板橋だけだそうだ。関ヶ原の戦いで東軍についた浅野長政の嫡男幸長の陣跡でもある。
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すぐ隣にあるのが日守の茶所。
常盤御前の墓所にあった秋風庵が明治になって一里塚の隣に移され、中山道を通る人々の休み場所として、昭和の初めまで利用された。
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垂井町のマンホール発見!この先の相川沿いの桜並木と鯉のぼりがモチーフ。
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●垂井宿(57番目の宿)
関ヶ原から5.5㎞、赤坂宿まで5.3㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒。766mある。

垂井宿西の見付からの垂井宿
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この宿の家にも所々に屋号札がかけられている。煮物賣「大場屋」さんはお総菜を売っていたのか?
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本龍寺。とても立派なお寺!櫓のようなのを含めた山門は脇本陣から移築したもので、手前に最近復元された高札場があり道沿いには明治天皇垂井御休所の石柱がある。
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この寺の住職と親交があった芭蕉が1691年の冬滞在し、句碑がある。「作り木の 庭をいさめる しぐれ哉」。
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お寺の斜め向かいにあるのが、小林家住宅主家。油屋宇吉家から小林家が明治になって譲り受け、亀屋の屋号で旅籠を営んでいたそうだ。江戸末期の建物で防火対策が随所に残された貴重な建物で、国登録文化財。
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江戸時代そのままの間取りの旅籠の長浜屋。休日はお休み処として中が見られるそうで残念。
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美濃国一宮の南宮大社の大鳥居。高さは7.1㎞ある。常夜燈は1840年のもの。
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玉泉寺の脇に垂井の泉がある。今はない樹齢800年の大ケヤキの根元から水が湧出していた。垂井の地名の起源とされているこの泉、とても水がきれいで岐阜県名水50選に選ばれている。
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本陣跡の先の丹波屋の鬼瓦にWaterと書かれている。どんな意味があるのか?
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旅籠の亀丸屋。最近まで営業していたそうだ。この前は枡形になっている。
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紙屋塚。昔、紙漉き場があったとのことで、美濃紙発祥の地と言われるているそうである。
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ここで垂井宿・東見附を出る。

 

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コメント

こんにちは
 
ついに中山道の街道歩き再開でいらっしゃいますか。
真夏の暑い間やめていらっしゃったのに、再開のこの日も
かなり暑い一日となったのですね。けれど秋の爽やかな
暑さだったとのことでせめてもでした。秋晴れの気持ちよい
空の下の街道歩き再開。でも、な‥なんと50000歩ですか!?
脚が文字通り棒のようになりそうです。頑張られましたねぇ。
 
さて、関ヶ原~垂井ですね。
関ヶ原の駅はこぢんまりとした駅ですね。頭の中で勝手に
想像していた駅はもう少し大きいものでした。
天下分け目の合戦場となった関ヶ原には家康の利用した
石も残されているのですね。桃配山に陣を敷いたのには
そのような理由があったのですね。
国の行く末を左右するトップの人たちから、庶民の人たちまで、
さまざまな縁や言い伝え、建造物等々、たくさんのものが
残されていて、ひとつひとつ再現ドラマを見たいような
気持ちになります。
垂井の泉の水は、お写真で見ても澄んで綺麗なことが分かります。
こういう水があるからこそ、和紙産業発祥の地となった
のでしょうね。
丹波屋さんの鬼瓦のWaterの文字とその周りの水しぶきか
波のようなモチーフも、垂井の水と関係あるのかしら???

投稿: ポージィ | 2019年10月 3日 (木) 16:28

★ポージィさま

こんばんは。
美江寺に着かないと電車の駅がないのです。
それで必死にあちこち見ながらも歩きました。
お花撮影は遅れるのなるべくでやめました。
米原は違いますが、関ヶ原の駅のような駅が殆どです。JRですから大きい方で最後に乗る駅は私鉄で一両で駅も待合室みたいのがぽつんでした。
壬申の乱と関ヶ原の合戦は家康の演技担ぎが桃配山にあって、随分かかわりあっていることを知りました。
伝説には中国の班女の名前まで付けて、それが謡曲や能・狂言まで広がっているのが一つの石碑や説明板でわかります。

そうそう、和紙はお水が関係したのでしたね。

まあ!
>鬼瓦のWaterとその周りのしぶき(全然気が付きませんでした)、周りの水しぶきか波のようなモチーフも、垂井の水と関係あるのかしら???・・・・
ホント、そうですよ。すっきりしました。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年10月 3日 (木) 20:33

いきなり大海人皇子、能『国栖』に出てくる彼は子方、幼い子供ですが、気品がありました。
垂井なども仕事の領域でしたが、歩いたこともない、無駄な人生を後悔しています。

投稿: 佐平次 | 2019年10月 4日 (金) 10:59

こんにちは。関ヶ原の合戦の各陣地を実際にこの足で歩いてみたいものです。電話が無かった時代に山の上から状況を読み判断を下す大将の気持ちを感じてみたいですね。垂井付近の東海道線は勾配がきつく、以前は勾配の緩い別線がありました。今も別線は残っていますが乗降客用の新垂井駅は無くなりました。

投稿: 多摩NTの住人 | 2019年10月 4日 (金) 13:05

★佐平次さま

『国栖』大海人皇子ですか。観てみたいです。来週は『乱』などを観ます。
垂井はお仕事関係でご存じでしたか。私は全く初めてですが関ヶ原とともに記憶に暫く残ると思います。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年10月 4日 (金) 15:20

★多摩NTの住人さま

こんにちは。
石田三成が指揮した山や小早川秀秋の松尾山は歩いてもすぐですね。今回はこの合戦の探検はやめましたが、見てみたいですよね。
この間乗ったのに勾配のこと気が付きませんでした。
中山道もこの先の木曽路や、その前の木曽に近づくと峠がたくさんあるようです。登山をかじっているので峠越えはまだできると思います。
自転車ではきついことでしょう。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年10月 4日 (金) 15:28

鬼瓦には,魔除けの厄除けの鬼面以外に,
火災除けの御守りとして,漢字の「水」を使っているものがありますね。
「water」はちょっとしゃれてみたのでしょうか。
それよりもなぜ「松華」なのでしょうか。

投稿: gaki | 2019年10月 4日 (金) 17:57

★gakiさま

そうなのですか。
ありがとうござます。
鬼瓦の意味、魔除け、厄除け、火災除けと3つ、新しく覚えました。
火除けと言えばこの辺りから秋葉山常夜燈がまた出てきました。
丹波屋と松華との関係?丹波屋さんは松井家が営む料理屋としかわかりませんでした。

投稿: tona | 2019年10月 4日 (金) 21:24

tonaさん、こんばんは~♪
中山道の街道歩きを再開されたのですね。
まだ暑い日もありますが、これからは歩きやすい季節になり、
街道歩きもピッチが上がりますね。
いきなり約50000歩も歩かれたとは驚きましたが、ご健脚で羨ましく思います。

徳川家康最初の陣地や山内一豊陣跡、
関ケ原には今もたくさんの陣跡が残っており
歴史好きにはたまらない場所でしょうね。
六部地蔵のようなお地蔵さん、初めてみました。
お顔には目も鼻も口もないのですね。
昔の街道沿いの街路樹は松並木や杉並木の他に、
旅人がお腹が空いたとき、もいで食べられるよう柿や梨が
植えられていたと聞いたことがあります。
野上の七つ井戸もそうですが、旅人に対して優しい思いやりがありますね。
昔の面影を残す建物も多く、歩くのが楽しくなりますね。

投稿: hiro | 2019年10月 5日 (土) 22:45

★hiroさま

おはようございます♪
関ヶ原の駅から垂井の方に向かって歩いて、こんなところに家康最初の陣地があるとは。そして他にも山内や浅野の陣地が続いていて関ヶ原も広いなあと感じました。戦争のイメージはつかめませんでしたが。
この日は駅がない関係でいきなり5万歩で、しかも2ヶ月も長距離を歩いてなくて心配でしたが、まだ頑張れました。
六十六部という言葉も初めてで、知らないことが多いことを実感しました。最近のテレビで比叡山をやっていましたが近江の地に地蔵が多いことをやっていて納得でした。もう岐阜県に入りましたが、まだ少し地蔵を見る事が出来ました。
当時今と違うわけですから行き倒れが多いというのもわかりますね。
そうした旅人に優しい木陰、井戸の他果物の木まで植えられていたのですね!
垂井、次の赤坂も昔の面影の建物が多かったです。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2019年10月 6日 (日) 08:14

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