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2020年1月31日 (金)

目青不動尊


雑学大学では元朝日新聞社記者の秋山紀勝氏の「最近の世相を斬る」の講義がありました。

まだまだ問題の原発、いまだ五里霧中の森友・加計問題、地球温暖化問題。

そして「桜を見る会」問題。現在の通常国会でもいまいちはぐらかされていて突っ込みが的を得ていないのじゃないか?
答弁から先、改善されないのがいつものこと。二階氏の「桜は散った」発言あり。
河井夫妻問題も巧妙だけど、呆れる。

どんどん借金を増やし続ける阿倍政権。国と地方を合わせての1100兆円の借金はどうなるのか?MMT(現代貨幣理論)という、国債などを無制限に認める理論があるそうだ。

IR問題。ギャンブル依存症が増加し、その家族を巻き込む悲劇が増えることが恐ろしい。昨日もニュースで報道されたが依存症の人が詐欺その他の悪いことをして借金の埋め合わせをしているという。そんな人が回りに増えたら困る。参加するのに積極的な都市も困りものだ。

山本太郎氏の消費税ゼロの話。夢のような話だけれども。トヨタなど80社くらい、1社に何百兆円の留保金があるそうでそれをあてにするらしい。

阿倍一強が続く原因。それはメディア操作と選挙資金を握る。
政党交付金、昨年は総額は317億7300万円。そのうち自民党は178億9400万円。国民一人当たり250円の負担だそう。自民党の党資金が200億という。これを彼は一手に握っていることになる。
又、マスコミの操作の仕方が上手なのだそうだ。孫子の兵法(数を2、3に分けて戦え)を地で行く。単独会見というわけだ。

終活、無葬社会、家族葬、墓仕舞いなどが話題になっている。
♪「千の風になって」の意味を聞いてちょっとなるほど!

火葬されてお墓の中に入るのは骨だけ。(人の体に含まれる細胞は約60兆個で、1個の細胞は1000兆個の素粒子からなる)
生物は、骨などを除けば、主に有機物から構成されている。ほとんどの有機物は、元素として炭素、水素、酸素、窒素(および硫黄、リン)から構成されている。これらの元素は高温でかつ十分に酸素を供給して焼却すると、完全燃焼して二酸化炭素や水蒸気などの気体となって散逸する。一方、体内に微量に含まれている無機質、特に金属元素(カリウム、カルシウム、マグネシウムなどの化合物類)は燃焼しても気体にはならず、固体として後に残る。これが灰である。(Wikiより)

講師によれば、骨と灰の成分を除いて火葬場の煙突から流れ出、千の風に乗って世界中を回って戻っては永遠に私たちの周りを回っているから親もそばにいるという。だから死ぬことは悲しくないというものでした。


●1月上旬の長瀞・宝登山のロウバイ

山に登る会もとりあえず今年いっぱいということで名称も「低山友の会」と変更し、回数も減らしてスタートしました。
1回目の宝登山は標高497mあるも、行きはロープウェイで行くという、低山中の低山となりました。2_20200131123501

ロウバイはまだ満開ではないが、いい匂いを漂わせ ている
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冬桜
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遠くの霞んでいる山が百名山の両神山。無理だけれど登りたいなあ!
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頂上にある宝登山神社奥宮
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●目青不動尊

友人とミッドタウンの酢重レストランで食事をして、世田谷の三軒茶屋、太子堂の教学院・目青不動尊に行ってきました。佐平次さんに教えていただいた所です。
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正確には天台宗・竹園山・最勝寺・教学院です。
五大不動の目白不動と目黒不動に以前に行っていますが目は見ていませんでした。
目青というので目が青いのかと思っていた私は勉強不足。目は青くなかったのです。
五色とは[目」にあるのではなく、江戸城の東西南北中央の五方角を色で示したもの。あと二色(赤と黄色)を見てからまた復習したいと思います。
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世田谷区、名木百選の「チシャノキ」がありました。5,6月頃花が咲き、9,10月頃実がなるそうだ。
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2020年1月28日 (火)

京街道(1)髭茶屋追分~伏見宿~淀宿(後編)

京都タワーに登った時、周囲が殆ど山で囲まれている中、南西の方角、大阪方面だけが1ヶ所山がなくて開いた場所がありました。
この街道はその方面に向かって川沿いに歩いているんだと実感しています。ここは各鉄道、高速道路なども全部通っています。
この日は蛙と河童に縁がありました。

◆髭茶屋追分~伏見の続き

墨染(すみぞめ)駅を越えて墨染(ぼくせん)寺へ。
境内には平安時代、藤原基経の死を悼み、歌人・上野(かんつけの)嶺雄が歌を献じると、桜が喪に服して墨染色になったという伝説のある墨染桜がある。今は4代目でまだ細木である。
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可愛い狸。
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左折すると欣浄(ごんじょう)寺がある。
深草少将邸宅跡だ。小野小町に求愛して「百夜通い」の願掛けで99日まで通ったのに、最後の夜に大雪のために凍死した。その小野小町と深草少将の供養塔があった。
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本堂には伏見の大仏と言われる大きな丈六の毘盧遮那仏がおわす。
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撞木町廓入口。この奥に大石内蔵助の廓跡と撞木町廓之碑がある。内蔵助はここで遊んでいたのか!
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●伏見宿(54番目)追分から11.2㎞、淀宿まで5.8㎞。本陣4軒、脇本陣2軒、旅籠39軒。(中山道にも太田宿と御嶽宿の間に小さな伏見宿がありました)

本成寺の地蔵堂には小野篁作と伝わる木造の痰切り地蔵がある。
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向かいは勝念寺。
門のところには天明義民柴屋伊兵衛墓所碑がある。伏見奉行の悪行を直訴しようとして捕まり獄死したそうだ。
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伏見はところどころにロウバイがあったが、このお寺のロウバイも満開だ。
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釜敷地蔵尊があって、地獄で釜ゆでにされ苦しむ人の身代わりとなり、幸福へとお導きしてくださるというお地蔵様。かましきさんと呼ばれている。開山貞安上人が織田信長公より賜ったと言われる。
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身代わりが代わりとなり蛙となったようだ。あちこち蛙だらけで楽しいお寺だ。一体いくつあるのでしょう
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松林院(寺田屋女将お登勢の墓がある)の向かいにある大黒寺の中へ。
西郷が建てた寺田屋殉難九烈士の墓がある。西郷の直筆という。
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平田靱負(ゆきえ)の墓もあった。薩摩藩が幕府に命じられた木曽川三川の分流工事の遅れの責任をとって自害した人物。東海道の桑名の海蔵寺に像があった。
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斜め向かいに伏見の産神の金札宮。謡曲「金札」で知られる。
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黄桜で知られる、カッパカントリーに寄る。カッパ資料館があって面白い。
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西岸寺。境内には油掛地蔵尊がある。油で光っている地蔵だ。山崎の商人が油を入れた桶を門前で転んでこぼし、残った油を地蔵に掛けて帰ると大長者になった事から、多くの人がまねて油を掛けて願掛けするようになったという。写真には撮れていなかった。
油掛の地名の由来となった。この伏見油掛から七条まで6.7kmを日本最初の路面電車(電気鉄道)が走った。電気鉄道事業発祥の地の記念碑が建つ。
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その前のお店は駿河屋で羊羹発祥の地だそうだ。羊羹を買ってもらう。

伏見口の戦い激戦地跡の所から入って、すぐ下が船着場だった船宿・寺田屋に寄る。400円。3年前に一人で来て写真をアップしているが、その時気が付かなかったのが、ここは今も宿泊が出来るということ。薩摩藩の定宿だったこと。そして竜馬が負傷し脱出したのを寺田屋事件と勘違いしていたことです。事件は大黒寺に墓があるが、急進派9人が斬合いで犠牲になったことでした。(以前は竜馬は池田屋事件で殺されたのに、寺田屋事件で殺されたと思っていたのですから)
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宇治川派流のみなと公園には龍馬とおりょう愛の旅路像があった。
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天武天皇を祀る金井戸神社(三栖神社御旅所)を通り過ぎ、宇治川に注ぎ込む濠川に架かる肥後橋を渡ると伏見宿はここで終わる。
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◆伏見~淀宿へ

十石船がある伏見みなと広場で、小倉山荘で買った餅まんじゅうを食べる。
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宇治川の土手に出る。左手に見えるのは三栖閘門だ。ここまではきれいだったのに、この後延々と土手沿いを歩くのだが、途中からゴミが散らかってとても汚い。あのきれいな木曽川と思わず比較してしまった。
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京都競馬場の前に「戊辰役激戦地跡碑」と「戊辰役東軍戦死者埋骨地碑」がある。今もお花が飾ってある。
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淀小橋旧址碑があり、ここで淀宿に入った。
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唐人雁木旧跡碑。朝鮮通信使が上陸した船着き場で通信使はここから輿などに乗り換え、陸路京都に向かった。
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京阪淀駅で東福寺まで行き、JR奈良線に乗り換え京都着。18:48発のぞみ~東京駅21:3着。帰宅は10時10分頃。寄り道が多く46548歩。

夕食は、穴子飯と海鮮ちらし寿司弁当。
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お土産の駿河屋の羊羹。虎屋のより美味しかった。
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2020年1月24日 (金)

京街道(1)髭茶屋追分~伏見宿~淀宿(前編)

1/16(木)に中山道木曽路はかなり寒そうなので、京街道を歩き始めました。ちなみに大阪からは「京街道」、京都からは「大坂街道」と呼ばれるが、地元で呼び習わされてるのは「京街道」ということばである。
東海道五十三次の延長で4宿を加え東海道五十七次です。

京街道は豊臣秀吉が伏見城築造のため淀川左岸に築かせた文禄堤が起源と言われる。
江戸時代東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見、淀、枚方、守口の4宿が設けられた。幕府は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、参勤交代の大名行列もこの道を通った。ただ、伏見から大阪に下る旅人は三十石船を利用し、宿には泊まらず、宿泊客は大坂からの上りの客だったそうだ。

のぞみ東京6:15発→京都8:26着。東海道線で山科へ、京阪に乗り換え、追分駅8:55着。

◆髭茶屋追分~伏見

駅を出ると、蓮如上人塚と追分道標がある懐かしい髭茶屋追分に出た。写真に写っていなかったが右側が京都三条大橋へ、左側がこれから歩く京街道伏見方面だ。昔この分かれ目に茶屋があったようだ。
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東海道や中山道と違って街道の標識は一つもないので、このあとマップの地蔵印がとても役に立つことになる。京都市に入っているわけだが、小さな地蔵堂にカラフルに塗られた地蔵が続くのです。
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街道の様子
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「牛尾山道」の道標。清水寺の奥の院の牛尾山法厳寺への道。
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木の切り株と「皇塚」(おおつか)と彫られた碑がある。大塚という地名の由来になったそうだ。ここに古墳があったそうだ。
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岩屋神社の鳥居がある。山科一の宮。奥の山にある巨大な陰岩と陽岩をご神体として、奥の院に祀られているそうだ。
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大宅一里塚跡は、京都市内で唯一残る一里塚だそうで、大きな榎は切り株になってしまっている。
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大宅廃寺跡の標柱(白鳳時代の寺の跡で、藤原鎌足が建立した山階寺であるとの説あり)を通り過ぎ、
歓喜光寺へ。本堂は淀君が二世(現世と来世)を幸せに過ごせるよう祈願して桃山時代に建立されたもの。無数の地蔵が並んでいた。
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京都で初めてのソース会社、オジカソースの工場。
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勧修寺(かじゅうじ)へ。地名は(かんしゅうじ)と読む。
勧修寺は醍醐天皇が、母の藤原胤子(たねこ)を弔うために創建したものだが、元は宇治郡の大領であった宮道弥益の邸宅跡という。入場料400円。入口への道は長い。修理中の本堂をはじめ、観音堂、書院、弁天堂などの建物が点在する。
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宸殿。江戸時代初期の御所の建物。1697年に明正天王から下賜された。
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手すりは曲げたのではなく、このまま切り出されたものとのこと。素晴らしい!
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ハイビャクシン(ぐじゃぐじゃした枝は全部1本の木で樹齢750年)。
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その右にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」という。
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88の霊石が埋められていて一周する八十八カ所巡りができるという四国八十八ヵ所巡りをやってみる。もう四国八十八ヵ所巡りは出来ないから。
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氷室池。庭は池を中心にした池泉庭園となっている。蓮池で夏は素晴らしいでしょう。
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ボケ
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明智光秀の胴塚に寄る。昨年歩き始めた追分から京都へ進んだとき、明智光秀の首塚を見た。
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昼食は京都でありながら、江戸前寿司であった。既にイカを食べた後に撮影。
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宮道(みやじ)神社。日本武尊と子の稚武王(わかたけのみこ)を祀っていて、二所明神とも言う。子孫と言われる勧修寺の邸宅跡の持ち主・宮道弥益(いやます)の娘・列子が藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁ぎ、生まれたのが宇多天皇女御、醍醐天皇生母となった胤子である。この列子の話が玉の輿第1号のようだ。この神社に弥益から列子、高藤、胤子まで合祀されている。宇多天皇と言えば世界遺産の仁和寺です。
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1㎞以上歩いていくと、醍醐天皇御母(胤子)小野陵がある。宮内庁の管轄で立派なお墓である。
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虫籠窓の古い家。
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着色したこんな地蔵も。
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JR奈良線の跨線橋を越え、京阪本線の手前の墨染駅の手前の藤森神社へ。伏見区の深草にある。菖蒲の節句発祥の地であり、紫陽花が有名だそうだ。
石造りの鳥居に後水尾天皇の筆による額がないのは近藤勇が外したそうだ。西国大名の参勤交代の道筋で、神社前を通る時、駕籠を下りて拝礼しなければいけなかったので、幕末の動乱時代、悠長なことは時代にそぐわないということで。
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蒙古塚。蒙古の大将の首が納められている。
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重要文化財の本殿は足利義教公(室町時代第6代将軍)が造営したと言われる。
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この街道も歴史上の様々な人物が出てきて興味深いです。

 

 

 

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2020年1月18日 (土)

あちらこちらへと

今日は積もらないけれども東京も初雪です。
ここ数回調子悪かったカメラが使うこと4年を前にして遂に壊れました。酷使しました。昨日は買い替えに吉祥寺まで出て行ったのですが、前のカメラ引き取りが3000円ということで、午後もう一度出直しということになり、自宅駅に戻りました。そこで55年目の結婚記念日(エメラルド婚)であったのでイタリアンレストランでワインで乾杯。次の60年はまずあり得ないでしょう。
午後カメラを持参すると、何と2万円引き!、ポイントもあったので前回よりずっと安く買えました。夜までずっとカメラと格闘し続けた一日でありました。

●鎌倉六国見山(147m)~葛原ヶ岡ハイキング~源氏山公園 約2万歩

まだぐずぐずしていて昨年12月中旬に戻ってしまいますが、台風の爪痕を鎌倉の山で見て、オーストラリアやアメリカの山火事、日本、フランスなどの洪水などを思い起こし、今年もどんな気象災害に襲われるかと身震いさせられています。欧州の人々は特に真剣に考えていますが、日本はまだまだ甘いのではないか、子孫はどうなってしまうのでしょうと考えながらも一歩も踏み出せず、やっぱり平和ボケの日本の片隅で真剣でない自分がいます。

北鎌倉駅で降り少し上がるともうこの展望です。

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登山口あたりの紅葉。
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六国見山は頂上からの展望がきかず、下の展望台から六国(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)を眺めるも、霞んで千葉県方面はよく見えず。
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頂上の標識はブロックで何故か麻雀のパイとサイコロの絵が。
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明月院に降り、線路を渡って、浄智寺へ。
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葛原ヶ岡ハイキングコースは倒木多数のため通行禁止。情報ではどうやら通れるということで行ってみたら1ヶ所大木が重なり合うように数本倒れていた。あの台風がいかに凄かったかを思い知らされた。
葛原岡神社の祭神・日野俊基の墓(後醍醐天皇の側近で元弘の乱でここで殺される)。
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源山公園の源頼朝像。
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●早稲田~神楽坂~市ヶ谷散歩(今年初の富士女子会)

地下鉄早稲田駅を降りるとはす向かいに「夏目漱石誕生の地碑」がある。1966年に建立で、近所に住んでいたけれど小学生だったのでまだなかった。
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私が卒業した早稲田小学校は以前載せたことがありますが、化粧直しをしてきれいになっていた。
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少し歩くと「漱石山房記念館」に到着。2017年9月オープン。漱石は晩年の9年間ここ早稲田南町で過ごした。書斎、客間などが再現され、テーマ展示がある。カフェでくつろいだ。
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右側に見える猫の墓は昭和28年12月9日に再興されたもので、小学校6年生だったので毎日見ながら通った。
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ここから自分が住んでいた場所はすぐ、通り過ぎて神楽坂に向かい、神楽坂駅の横の赤城神社へ。昔の面影はなく、建築家・隈研吾氏が監修した社殿が建つ。
赤城山麓の豪族、大胡彦太郎重治がここに移住した時に本国の赤城神社の分霊を祀った。縁結びの神様。若い人ばかり。
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筑土八幡 牛込の鎮守で1200年前の創建。江戸時代の鳥居や猿を刻んだ庚申塔があった。私の母がこの辺りで生まれ育った。
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神楽坂は面白いお店が沢山あって非常な賑わいを見せている。あちらこちらに引っ掛かりながら昼食に。お昼は「だいこんや」で揚げ赤目鯛のおろしかけセットを注文。
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毘沙門天善國寺は駒猿だ。水戸黄門、田安家、一橋家と縁がある。
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牛込橋を渡り、東京大神宮(東京のお伊勢さんと呼ばれる)に行ったがこれは縁結び神社で、若いカップルの数百メートルの大行列で引き返す。一般の人がおこなう神前結婚式を初めて行った神社だそうだ。

飯田橋から市谷までの外濠公園を歩く。途中市ヶ谷見附の所にある20数年勤務した校舎を見て、市ヶ谷駅近所で再びお茶を飲み解散する。係が私だったので自分に関係したところばかりを皆さんを引きずり回してしまいました。
街灯のテントウムシ、何か意味があるのでしょうか。
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●ブロ友新年会

今年10回目という新年会に昨年欠席で今年2度目、お仲間に入れていただきました。私が一番年上で全員70代の7人。日頃ブログでその活躍ぶりは存じ上げていましたが、本当に皆さん、好奇心は旺盛でたくさんの事に首を突っ込み、学習し、行動し、とてもお元気。ボランティア活動をされてる人も。ただただ、凄いなあと。
ブログを始めてから私も世界が広まって、世の中凄い人ばかりじゃないか。自分は一体何をやっているのかと嘆いている場合ではないと思いつつ、だんだんと老いに蝕まれて思うように行動できなくなっていくのを寂しく思っているときの新年会でありました。刺激を受けますね。私だったら関西でやると言われたらちょっと躊躇してしまうのにlilyさんは泊まり掛けでお出でになるその心意気を私も真似してみてもいいのではないかと思ったりもしました。
KITTEでの東京大学総合研究博物館+日本郵便の見学、丸ビル内の「グリル満天星」での洋食、そして上野国立博物館での「高御座」と「御帳台」の見学(30分くらいで入ることが出来ました)を銀河さんが企画してくださいました。もう10年もたったお一人でずっとお世話しているそうです。とても真似できない素晴らしい方です。既に全員の方が写真とともに感想を書かれていました。お世話になりありがとうございました。

トナカイ親子の剥製 tonaとして親近感が湧く。
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上野 アイスチューリップがきれい。
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「高御座」と「御帳台」
テレビで観たよりずっと装飾がきれいに見え、黒塗りの継壇や朱塗りの高欄の輝きも目を惹き、素晴らしい調度品を見ることが出来、百聞は一見に如かずでした。
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2020年1月15日 (水)

中山道11 大井宿~中津川宿(3)

◆大井~中津川の続き

上用水之碑がある上宿休憩所が午後のおやつ時間です。中津川は栗で有名な小布施と同じく栗のお菓子が多い。
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上宿の一里塚跡(85里目)。片側だけ昭和9年に3分の1の大きさで復元された。
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石仏群!
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身体が一つ、頭が二つの双頭一身道祖神は市指定文化財だそうだ。是より苗木道と彫られている。↓に書いた苗木藩があるのでしょう。「岐阜のマチュピチュ」「天空の城」の異名を持つ山城があるそうだ。
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「こでの木坂 左ひだみち」と刻まれた道標もあった。飛騨に行けるのか。
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駒場村の高札場跡。
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3基の文字が書かれた馬頭観音と南無阿弥陀仏碑。
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中津川を中津川橋で渡る。この橋が、広重の晴れの方の中津川のモデルの場所。絵の昔の橋は100m下流にあったそうだ。
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●中津川宿(45番目) 大井宿から9.8㎞、落合宿まで4.1㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒。

橋を渡って中津川宿に入ってきた。宿の長さは2.2㎞。

中津川宿に行くのを前にして島崎藤村の『夜明け前』を読みました。
この宿の2つ先の馬籠宿の17代続いた本陣・庄屋の当主・青山半蔵は藤村の父がモデルで、平田派の国学を学び、国学に陶酔した人であった。明治維新に強い希望を持つも、実際の維新文明開化は希望と全然違うもので、その上国学への世間の冷笑に次第に挫折し、運命は悲惨な過酷な状態へと誘われます。

中津川宿は国学門人の地であることが他の宿とは違う大きな特色だったそうだ。安政6年~明治3年まで平田門人が35人もいて、中津川宿の本陣当主や分家の当主は夜明け前のモデルになって登場する。門人たちは水戸浪人の天狗党の通過を助け、長州藩の藩論を変えた「中津川会議」での桂小五郎の藩主待ち伏せを助けたりする。(その潜んでいた家をこの日の最後に見学する)

国学をここで初めて意識しました。賀茂真淵や本居宣長が「万葉集」「古事記」を研究し、儒学や仏教の日本伝来以前の日本古代の姿に立ち返ることを主張した。平田篤胤は神道思想を深め、復古思想から攘夷思想に結びついていった。この復古神道主義が廃仏毀釈運動に発展したわけで、中津川の北、苗木藩は日本全国でも特に激しかったそうだ。寺院や仏像などの破棄が私には実にもったいなく残念に思われたが、こういう理由であり、またそれゆえ、寺院が特権喪失し、仏教界の反省に発展したのも、国学であったということを知りました(以上、風人社ウォークマップのコラムを参照した)。廃仏毀釈がなぜ起こったかも知らなかったのです。

はざま酒造。うだつのある古い造り酒屋で杉玉が下がる。5つある中津川の酒造の一つで「恵那山」が有名。酒造を見ると相方の娘は必ずつつつと寄っていく。
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枡形の角にうだつのあがる家は旧中川家。中津川市出身の日本画家・前田青邨の絵にも描かれているそうだ。映画「青い山脈」ロケに帳場が使われたとも書かれている。中津川宿は説明板がとてもきれいでわかりやすい。
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白木屋(横井家)にもうだつが。ここは無料休憩所になっている。中二階に四畳ほどの隠し部屋があるそうだ。
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十八屋(問屋)、天満屋、川上屋(栗きんとんなどの栗菓子)などの建物が続く。
十八屋には水戸天狗党の負傷者をかくまった隠し部屋があるそうだ。
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枡形を曲がる。本陣は宿の一番高い所にあり、水害からも守られ、大名などが宿泊する際、常に防御や退却方法が考えられ、枡形によって見通せないようにしていた。
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再現された用水。火災に備えて作られたものだが、明治天皇が来られたさいに、馬車が通れるように埋められてしまったという。
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うだつの上がる庄屋の家は旅籠も営んでいた。
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森家脇本陣跡は中山道歴史資料館になっている。奥には土蔵の中に展示があり、上段の間の再現があった。
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資料館で木曽五木を見た。木曽五木とは尾張藩によって伐採が禁止された木曽谷の木です。
ひのき、さわら、あすひ(あすなろ)、こうやまき、ねずこ。いずれも建材など色々な点で優れた樹木。
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向かいは本陣跡で今は駐車場だ。
よく水害を起こし四度も川の形が変わったという四ツ目川を渡る。恵那山がよく見える。
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桂小五郎隠れ家跡を見学。上記したように、京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、この「やけ山」に隠れていた。
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栗きんとんで有名な「すや」。ここも栗のお菓子屋さん。
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中津川駅へ向かう。途中新しいマンホール発見。恵那山と市の花サラサドウダンのデザイン。
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恵那山が描かれたマンホールの向こうに恵那山が見えた。
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駅でお土産を買い、4時49分発のワイドビューしなの19号に乗り松本駅に6時4分に着く。
ここで駅弁を買い、6時40分発のあずさ32号に乗って、立川駅で乗り換え、自宅到着は9時過ぎであった。約35000歩。

夕ご飯は安曇野釜めしと井筒ワイン
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お土産は栗きんとん2種類。1種類は帰り着くなり食べてしまって撮影できず。
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木曽路は雪に埋まった本格的な冬で歩くことが出来ず、中山道歩きは春になってからです。その間は別の街道歩きです。(完)

 

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2020年1月10日 (金)

中山道11 大井宿~中津川宿(2)

◆大井~中津川

馬頭観音がまだまだあります。
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恵那駅から明智駅まで約25㎞の明知鉄道の高架をくぐるが、ずいぶんと低く背の高い人はぶつかりそう。終点明智駅には明智光秀が生まれた明智城址があるようだ。乗りたくなる、にわか鉄女です。
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寺坂の上宿石仏群。中津川までのこの区間には石仏群が多いと聞く。左から3番目は痰切地蔵で風邪を引いたらこの地蔵様を拝めということで、風邪の大家なので撫でて拝む。(しかしその後また引いてしまった、涙)
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街道をちょっと脇道に入ると旅人の墓がある。中山道を旅する途中、大井宿で亡くなった人たち60余基を埋葬していて4人が女性。(旅人には圧倒的に男性が多かったということでしょうか?)
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また石塔群があり、一番右は3.6mもある背の高い長石塔だ。大井宿の長国寺和尚が村内安全を祈願し、延宝8年(1680)に建立したもの。かなり古い。
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蓮花寺坂を上ったところに明治天皇行在所碑がありその先に関戸一里塚跡(87里目)がある。
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甚平坂石仏群の近くに虵塚(蛇塚)がある。蛇とは!
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根津神社に上がっていくと本殿の後に宝篋印塔があるが、これは根津甚平のお墓だ。
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根津甚平とは、源頼朝の御家人で信州の人と言われ、鎌倉幕府に怪鳥(キジ)退治を命じられ、馬に乗り、勢子と犬と鷹を連れ、怪鳥を追い、この坂に追い詰めた。しかし甚平と馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で倒れ、怪鳥は消えた。里人はこの坂に馬と犬を葬ったのだそうだ。
犬塚と馬塚
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甚平坂のピークに甚平坂公園があるが、本来はここから御嶽山が見えるはずであるが、残念ながら見えず。広重の「大井宿」の絵はその(1)に掲げたマンホールでも見たが、雪景色のここ、甚平坂と遠くに御嶽山が描かれているのであった。
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岡瀬沢庚申塔。岡瀬沢では庚申講がとても盛んで、庚申の日に講元の家に集まり青面金剛の掛け軸をかけて、お茶飯と汁、漬物の夕食を食べて夜が明けるまで話をしていたのだそうだ。   
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岡瀬沢の常夜燈。左が静岡の秋葉山に通じる道と刻まれている。
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社宮司跡。おしゃもじ様などとも言う。検地で使用した縄や尺杖を祀る。檜の根元には金神と氏神が祀られている。
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広久手坂の標柱から下ると三面八臂の馬頭観音。大変珍しい。弘久手の「久手」という名前は湿気が多い土地ということ。小牧長久手の戦いの長久手もそうなのでしょうか?
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中津川市に入った。マンホール(中津川市の坂本地区)。シデコブシとハナノキが描かれる。
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リニアの町の看板があって、少し先の北にJR美乃坂本駅があり、そのあたりがリニア岐阜県駅予定地だそうだ。
お昼はお店がなく、ファミマがあるという下調べで、イートインに。ミートソース、海老とブロッコリーのサラダと飲み物の昼食。

秋葉道との分岐にまたまた常夜燈があり、その先の篠原茶本陣は明治天皇、和宮も休憩されたところ。
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長連寺薬師堂跡、白木改め番所跡、茄子川村の高札場跡、坂本観音堂を通り過ぎる。
またまた石造物や馬頭観音が並んでいた。
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三ツ家の一里塚跡(86里目)。塚は昭和35,6年ころまで残っていたそうだ。
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将監塚。二代目美濃代官を(1613~1631まで)務めた岡田将監善同(しょうげんよしあつ)の墓である。名古屋城築城の際、木曽材持出奉行として駐在していた。その子の善政は江戸城本丸用に木曽材1万本を伐出している。それほど木曽材は重要視され、高額資材だった。
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三面八臂の准胝観音(左)と一面六臂の馬頭観音(右)。このような石仏を眺めていると飽きない。自分ではとても彫れない。
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恵那山ちらちらと見えていたが、 ドーンと現れた。恵那山は岐阜県中津川市と長野県阿智村にまたがる、木曽山脈(中央アルプス)の最南端の標高2191mの山である。 日本百名山及び新・花の百名山に選定されているとのこと。花の咲く季節に登ってみたいなあ!
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指さし道標があった。「新国道美乃坂本駅ヲ経テ大井町ニ至ル」「旧国道大井町ニ至ル」と刻まれている。
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坂本神社八幡宮の大木に絡んでいる黄色い実は何でしょう?カラスウリより大きく初めて見る実だ。キカラスウリでした。ポージィさん、ありがとうございました。
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六地蔵石幢。石柱の六面にお地蔵様が刻まれていてとても珍しい。大林寺の入り口としてだけでなく、極楽往生や道中安全を願ったという。
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またいろいろな石造物を見て、中津川市の別のマンホールを発見。おいでん祭りで踊られる風流おどりと市の花のサラサドウダンが描かれている。
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もう一つも見つけた。市の花サラサドウダンだけのデザイン。
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また恵那山の風景。広重の69次の中津川宿の絵には2種類ある。「晴の中津川」と「雨の中津川」で雨の方は世界に6枚しかないと言われる。その雨の方の絵がこの辺りから描かれた風景という。
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(続く)

 

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2020年1月 6日 (月)

中山道11 大井宿~中津川宿(1)

まだ昨年のことなんです。
12/19(木)曇 大体、宿場の一区間だけ約11㎞でゆったりと歩いた。

いつもののぞみに乗り、前回の逆コースで名古屋からの中央本線で恵那駅に9時9分到着。
すぐに恵那市のマンホールを見つける。
真ん中は市章(太陽と飛翔する鳥。翼は6枚の羽で、合併した6つの市町村を表しているとか)、まわりには市の花ベニドウダンが描かれている。
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この日特に強く感じたことは、岐阜県の車のドライバーの事です。渡ろうとするのを察してどの車も必ず停まってくれるということ。私の住んでいるところで一番近い横断歩道では停まってくれる車は今まで20数年間殆どなしという酷さである。岐阜の人の温かい心がとても嬉しかった。

前回の大井宿の手前から宿に入るところまで

長島(おさしま)橋のところまで戻って街道歩きのスタートです。前方右が観音堂と常夜燈。
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観音堂の中
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中野村庄屋の家の壁は浸水防止壁だったそうで道の両側に手前に見えるような石があって厚板をはめ、氾濫した川からの浸水を防いだという。
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中山道広重美術館に寄る。「ニッポンのえんぎもの」という企画展をやっており、はじめてみる絵も何点もあった。
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駅近く、大井宿の近くまで来て五平餅のあまから屋に入って午前中のおやつ時間。ここの五平餅は丸く、味噌(ゴマとクルミ入り)ダレが美味しい。味噌をお土産に購入した。
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大井橋を渡る。欄干には中山道69次の浮世絵がはめこまれている。向こうに見える煙は王子マテリアの工場から。恵那には段ボール工場が多いそうだ。
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●大井宿 大湫宿から13.8㎞、中津川宿まで9.8㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。

橋を渡るといよいよ大井宿だ。全長710mの長さで、6ヶ所もの枡形がある。古くから良い水が湧き、多くの井戸があったことから大井の地名が付いたという。
恥ずかしながら、今頃になって旅籠と木賃宿の区別を認識した。食事が付くか付かないかであった。

白木製品の取り締まりを行ったという、白木番所跡を通り過ぎ、枡形のところに市神神社がある。この宿の町の大切な神社のようだ。
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次の枡形の角には旅館いち川がある。創業1624年ということで、角にあるため角屋と呼ばれていて、若山牧水や北原白秋も泊まったそうだ。今も外国人旅行者の宿泊が多いという。
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ここには大井宿のマンホールがあった。広重の雪の大井宿の絵のデザインだ。
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次の枡形の角を曲がると明治天皇行在所碑の立つ伊藤家跡(現在は岩井家)がある。明治天皇が明治13年に宿泊された際の使用された部屋、風呂場、便所は当時のまま残っている。外から見てもかなり古い。
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下問屋場跡(脇本陣の高木家跡でもある)を進み、こんな家もある。
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ひし屋資料館がある。古山家住宅を改修復元して200円で公開している。古山家は酒造と江戸時代中期以降、大井村の庄屋を務めた家柄。
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ビデオを見た後、ガイドさんに案内して頂き、部屋を広く使う工夫などいろいろなことを知って感心した。今回は欄間の美しさに惹かれる。
縦の線が7本、5本、3本と入った七五三の欄間、花頭窓の欄間には驚く。
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庭もいいし、蔵もあって展示室になっていた。
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5つ目の枡形の角に本陣跡。戦後の火災でほとんどが焼けてしまったとのこと。
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大井で昼食をとった際和宮が使用したという井戸もあった。水がよかったため、次の中津川宿で使用する水を運んだという。
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同じく本陣裏の内城稲荷は大井城の守護神。
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きのこも数種生えていたが、これは手触りがキクラゲのようです。
アラゲキクラゲだそうです。Sさま、ありがとうございました。

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6つ目の枡形の角には延寿院横薬師があり、ここが大井宿の江戸方見付だった。
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この少し先に復元高札場があった。
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2020年1月 3日 (金)

新年

明けましておめでとうございます。

はたせるかな、悲しいことに暮れの29日お昼ごろから発熱し、元旦まで鼻をかみかみおとなしく寝ていました。昨年とは比較にならないくらい楽でした。
昨日治って復帰し、恒例のお正月を子供たちと迎えたところです。
おせち料理も作らないで既製品を買いいろいろずるをして、便利な世の中、何とかなるものと実感しました。
このあとにすき焼きを。最初美味しそうと買った牛肉を前日試しに食べたら全く美味しくなく、当日最高級のを買ってきたという失敗もありました。
Syougatu
これで三が日、真っ青に晴れて東京の空がまたまた青くきれいになったと感動。そして私が生まれてこの方一番美しい空の色と思っていた、ロシアのスズダリの空の色を見ようと思ったら、何と写真やDVDにも残っていませんでした。

オキザリス・パーシーカラーも10年以上も経つと消え入りそうになってきました。
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本年もよろしくお願いいたします。

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