« 2020年1月 | トップページ

2020年2月15日 (土)

伊予ヶ岳の岩峰をよじ登る

千葉県・伊予ヶ岳(336.6m)。低いけれども千葉県で唯一「岳」が付く山。高く険しい奇岩がそびえ立つ。
山名の由来は、阿波斎部氏の故郷の四国の最高峰石鎚山、別名「伊予の大岳」から来ているそうだ。

新宿からさざ波1号に乗って南房総市の岩井に着く。
11_20200215101401

バスから双耳峰の伊予ヶ岳が見え、右側に奇岩が見える。
2_20200215101401

麓の天神社から見える。ズームしてみる。わー、登れるのかしら?
3_20200215101501
4_20200215101601

台風の爪痕が痛ましい。電車からはブルーシートで覆われた屋根が多く、ビニールハウスも壊れているのを見かけた。
5_20200215101601

1月終わりというのにスミレが咲いていた。
6_20200215101701

いよいよ鎖とロープを頼って登る。怖い!(年齢のせい)。どうやら頂上へたどり着く。景色が素晴らしい。
Photo_20200215101701
7_20200215101701
8_20200215101801
9_20200215102001

双耳峰の山は有名な富山。倒木が多く危険で今は登山禁止だそうだ。
10_20200215102001

伊予ヶ岳の双耳峰のもう一つにも登る。こちらは楽勝。
11_20200215102101

久しぶりに登山気分を味わいました。こんな山はこれが最後かな。

 


『東海道和算道中』佐藤健一著 北邑一惠編集協力
先日、日光街道の日本橋・福徳神社で「算額」を見たので借りてきた本です。
前書きに寄ると、江戸時代後期には町人の中には趣味の習い事や旅を楽しむ人が多くなった。
当時、江戸の人が楽しんでいた「日用数学程度の和算」と旅の楽しさをコラボさせた内容だ。
息子たちにそれぞれ家督を譲って、隠居的生活をする50過ぎの幼馴染の3人が江戸から京都まで18日間で東海道を歩く旅物語。
3人とは瓦版屋と数学塾と漢学塾の経営者である。
昼間歩きながら和算の問題を数学塾のともさんが出して、夜、宿で解くというもの。問題は鶴亀算のような、小学生の頃やったようなのもあり、ついつい方程式で解いてしまうし、わからないのもたくさんありました。
懐かしい53宿が次々出てきて、静岡県の一部と四日市を過ぎて鈴鹿峠辺りまで頭から抜けているのでがっくりでした。

『格安エアラインで世界一周』下川祐治著
2009年にLCCを乗り継いで写真家などと3人で世界一周しているのだが、着いた先では観光に何も興味ない著者たち。途中で次の格安航空券をパソコンで一日中籠ってゲットする。窮屈な何もサービスがない機内で有料のあまり美味しくなさそうな食事をして、寝たり、機内誌を読んでいるだけ。最後のアメリカ~日本だけはこの頃LCCはなかったそうで極楽気分を味わったとか。費用は約22万。食事や宿泊費の明細、何日かかったは不明だ。
内田百閒の『阿房列車』と同じではないか!! 本当に変わった丈夫な人がいるものだ。

 

| | コメント (22)

2020年2月11日 (火)

日光街道1 日本橋~千住宿(3)

千住大橋を渡る。文禄3年(1594)に家康が隅田川に最初に架けた橋(現在の橋は昭和2年)。
1_20200211211601

歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれている。北斎もここから富嶽三十六景の1枚を描いている。いよいよ千住宿だ。
広重の絵。
2_20200211211701
北斎の絵。
3_20200211211701

◆千住宿(1番目)日本橋から8.8km 、草加まで9.7㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒。

千住大橋公園の奥から階段を降りると橋詰テラスで、与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」が描かれる。芭蕉は深川から舟でここ千住に着いた。
4_20200211211701

河番付と橋番付がおもしろい。大関ー河は東・加茂川、西・大井川で東西対決になっていない? 橋は東が岡崎矢?橋(?は矧で今は作、「やはぎがわ」でしたポージィさんありがとうございます)、西・岩國錦帯橋。ここで浅草で買った人形焼きを食べる。
5_20200211211801
6_20200211211801

奥の細道矢立初めの地碑。奥の細道へここから旅立つ際に、矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠んだ。
7_20200211211901

奥に橋戸稲荷神社が。本殿は寺社建築では珍しい土蔵造りだ。ここは狛狐だ。
8_20200211211901
8_20200211212001
本殿扉の内側には伊豆長八のこて絵があるそうだが、レプリカが展示されていた。年2回の公開のうち1回目は2日後の2月3日。とても残念。
9_20200211212001

矢立初の芭蕉像。ここから千住宿の細い道へ入っていく。
10_20200211212101

元やっちゃ場南詰の解説板。青物問屋が軒を連ね「やっちゃい」のセリ声が響いていた。日本橋にもあったとか。
11_20200211212101

このあと、次々と屋号札が出てくる。これを見るとその宿の力の入れ具合がわかって歩くのもキョロキョロです。
12_20200211212201

千住宿歴史プチテラス(元地漉紙問屋横山家から寄贈された土蔵をギャラリーとして使用)はもう閉まっていたので見学できなかった。これも残念。ここにも芭蕉の句碑が。千住に入ったら芭蕉の碑や関係するものが多い。
その斜め前の街道町並み絵図。
13_20200211212801

「旧日光道中」「是より西へ大師道」と刻まれた道標。西新井大師への道標。
14_20200211212901

河原稲荷神社の狛犬は足立区最大だそうだ。
15_20200211212901
16_20200211213001

屋号札や、解説板が軒並みである。
18_20200211213101
 
源長寺。脇本陣を兼ねたお寺で、将軍鷹狩りの際に「御膳所」となった。
19_20200211213101

千住の一里塚跡。町の中にあったため一対でなく片側だけに立てられた。
20_20200211213201

千住宿問屋場・貫目改所跡を通り過ぎ、森鴎外の旧居跡を見に行ったが工事中だった。鴎外の父がここで医院を開いていて、鴎外も大学卒業後から結婚するまで住んでいたそうだ。
21_20200211213201

金蔵寺には、天保8年(1837)に起こった大飢饉の餓死者を供養する無縁塔がある。
22_20200211213301

商店街は1.7㎞もあるそうで長い!
23_20200211213401

千住宿本陣跡の解説板を見て、千住本氷川神社へ。芭蕉の句碑「春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅」がある。
24_20200211213401
旧社殿。横に「ラジオ体操発祥の地」の碑が見える。他にも候補があるらしい。
25_20200211213401

千住宿にちなんだタイルが3種類埋め込まれている。その一つ。
26_20200211213501

北千住駅より、常磐線・上野東京ラインで東京駅に出て、中央線に乗り継ぎ、国分寺には6時過ぎに到着。坐和民で打ち上げ、8時過ぎに帰宅。約36000歩。
人形焼きのお土産。
27_20200211213601
この続きはいつになるかわかりませんが、読んでいただきありがとうございます。

(完)

 

| | コメント (16)

2020年2月 8日 (土)

日光街道1 日本橋~千住宿(2)

◆浅草から千住へ

浅草寺の横から出ると街道に戻り、姥ヶ池跡がある。明治24年まで大きな池があった。
このあたりに娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死んだ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人が姥ヶ池と呼んだという。鬼子母神みたいな話である。
1_20200208162001

助六歌碑もあった。助六を演じた九世・市川團十郎の歌を刻んだ碑だ。
2_20200208162001

江戸猿若町市村座跡碑。老中水野忠邦の天保の改革で、江戸市中にあった芝居小屋が猿若町に集められた。
3_20200208162001

待乳山聖天に寄り道。入り口に池波正太郎生誕の地の碑もある。
左下に見えるのはお供えの大根売り場である。
4_20200208162101
大根と巾着の印。大根は身体健全、夫婦和合、巾着は財福の功徳を表わしたものとされる。
5_20200208162101
歓喜天地蔵は数度の火災に遭い、その尊容をとどめていない、子育て地蔵。
6_20200208162201
築地塀は江戸時代の名残をとどめる唯一の文化財。広重の錦絵に描かれている。
7_20200208162301

山谷堀公園には猪牙(ちょき)舟の浮世絵があった。江戸時代、市中の水路に使われていた、船首が細長くとがった屋根のない舟。語源は舟の形が猪の牙に似ているからなど諸説ある。山谷堀をこの舟に乗って吉原へ遊びに行くのは大変贅沢であったと。
8_20200208162301

今戸神社にも寄る。沖田総司終焉碑があり、今戸焼発祥、招き猫発祥の地。
源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、京都の石清水八幡(行ってきました)を勧請したのが始まりと云われている。
9_20200208162401
新選組の沖田総司は幕末の御典医・松本良順の看病を受けたがここで亡くなった。
10_20200208162501
招き猫発祥の地と言われ(豪徳寺かと思っていた)、猫があちこちに。そして干支のネズミの前に本物の白猫が!
11_20200208162601

春慶院には高尾太夫の墓があった。
仙台藩主伊達綱宗の意に沿わなかったため惨殺された、新吉原の名妓二代目高尾太夫である。
12_20200208162601

東禅寺。江戸六地蔵の一つがある。
宝永から享保にかけて江戸市中の6箇所に造立された、丈六の銅像地蔵菩薩坐像。六街道にあり、旧東海道(品川寺)、東禅寺(奥州街道・日光街道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(旧中山道)、霊厳寺(水戸街道)、千葉街道のは現存しない。見たのは東海道・品川寺のとここの2つだけある。
13_20200208162701

駿馬塚。義家が陸奥へ向かう際、此の地で愛馬 「青海原」 が絶命し、これを葬った所。
14_20200208162701

泪橋(小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをしたという)交差点を通り過ぎ、南千住駅高架を通り過ぎたところに、小塚原刑場跡がある。南の鈴ヶ森刑場跡(旧東海道)に対する北の小塚原刑場跡である。
ここにある大きな首切地蔵は、刑死者を弔うため造立された。
15_20200208162801

すぐ先の回向院では杉田玄白らが刑死者の腑分けに立ち会い「解体新書」を著わした縁から観臓記念碑もあった。
ここに吉田松陰のお墓がある。
16_20200208162801
鼠小僧、高橋お伝、腕の喜三郎の墓も。
17_20200208162901

円通寺。
坂上田村麻呂が創建した曹洞宗の寺。金ぴかの観音様が目立つ。
18_20200208162901
彰義隊士の墓がある。寛永寺の彰義隊士の遺体を見たこの寺の和尚が、遺骸を火葬にして葬った。
19_20200208163001
これが縁で寛永寺の弾痕が残っている黒門がここに移されたという。
20_20200208163101
四十八首塚、七重の塔、三代将軍家光鷹見の松もある。
21_20200208163201

素戔嗚神社。石神信仰の神社。
小塚の中の奇岩を 「瑞光石」 と言い、この小塚から 「小塚原」 の地名由来となった小塚「瑞光石」がある。
24_20200208163301
松尾芭蕉の碑。「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」。
22_20200208163301
23_20200208163401
大銀杏のまわりにも絵馬がたくさんかけられている。
25_20200208163501
三種類の庚申塔。左から如意輪観音が刻まれた庚申塔、聖観音が刻まれた庚申塔、青金剛と刻まれた庚申塔。
26_20200208163501

(続く)

| | コメント (16)

2020年2月 4日 (火)

日光街道1 日本橋~千住宿(1)

ちょっと空いた土曜日にまだ早起きしないでも良い区間、日本橋から10時半に日光街道を歩きも始めました。中山道も京街道も途中なのですが。
都内はビルばかりで、その中の緑の一角が寺社であって、この街道沿いにもちょっと入るだけでたくさんあるのです。そしてその寺社には歴史上の人物がかかわっていて、道の寄り道だけでなく、歴史の寄り道も多く奥深いです。

◆日本橋から浅草

「日本橋」という橋の字は徳川慶喜が書いた。この橋は東海道の歩きはじめであり、中山道でここに戻ってくる。
1_20200204202501

すぐ横道に入ると福徳神社があってここは福徳村であった。家康、続いて秀忠が参詣している。太田道灌とも縁が深いという。
算額があって、ちらしももらってきた。結構難しい!5問目は解答を募集している。
2_20200204202601

小津和紙店の前に、和紙の原料となる木、コウゾ、カジ、ミツマタ、ガンピが植えられていた。
3_20200204202701

於竹大日如来井戸跡。大伝馬町馬込家の下女「お竹」は大日如来の化身で、五代将軍綱吉の母・桂昌院の信仰が篤かった。お竹さんは誠心誠実で、一粒の米、一切れの野菜も粗末にせず貧困者に施したそうで、勝手元からいつも後光が射していたという。以前も見ていて書いたような気がします。この話を聞くと困った人を助けなければという気持ちになります。
4_20200204202701

身延別院の油かけ大黒天神は、伏見の油かけ町出身の名優長谷川一夫の夫人の夢に、伏見の油かけ地蔵(前回見てきた)ならぬ油かけ天神が出てきて、この別院に相談して出来たという。
5_20200204202801

十思(じっし)公園は、伝馬町牢屋敷跡で、石町(こくちょう)時の鐘がある。この鐘を合図に処刑が行われた。
6_20200204202801
吉田松陰はここで処刑された。吉田松陰終焉の地の碑。
7_20200204202901
隣に大安楽寺があり、ここは江戸伝馬町所刑場跡で、刑死者を供養する「延命地蔵尊」がある。
7_20200204202902

横山町問屋街を歩く。神田川を浅草橋で渡る。以前、外堀歩きをしたとき、橋の手前の郡代屋敷跡を見、橋を渡った所の浅草見附跡を撮影し、神田川は船に乗ってくぐった懐かしい場所。
8_20200204203001

昼食はこの辺りのお寿司屋さんで前回と同じ握りずし。
9_20200204203001

銀杏岡八幡神社や蔵前の総鎮守の須賀神社を通り過ぎ、
第六天榊神社に寄る。浅草文庫跡碑があるが、明治7年創立の公立図書館跡だそうだ。
10_20200204203101

首尾の松跡。吉原帰りの客がここで前夜の首尾を語り合ったという。
11_20200204203101

向かい側には木の間に浅草御蔵跡が見えた。この付近に徳川幕府の米蔵があり、蔵前という地名の由来となったという。
12_20200204203201

古典落語ゆかりの神社=蔵前神社。綱吉公が、江戸城鬼門除けの守護神として山城国(京都)男山の石清水八幡宮(次回行く予定)を勧請したのが始まり。
「元犬」「阿武松」という古典落語の舞台の地。
13_20200204203201
歌川国安錦絵「力持」の技芸の奉納を描いたもの。
14_20200204203301

諏訪神社。諏訪大社の分霊を勧請した。
15_20200204203301

バンダイの本社があった。
16_20200204203301

道路を挟んで駒形どぜう。もう何十年も食べていなくて・・・食べたい!
17_20200204203401

お馴染みの景色。左が浅草駒形堂。
18_20200204203401
浅草寺駒形堂。浅草寺の観音像が隅田川から示現した霊地だった。
19_20200204203501

新型コロナウィルス問題で激減したというが雷門はすごい人の波。仲見世も動きがままならず、本堂も行列。年間3000万人が参拝するという。
20_20200204203501
三社祭で有名な浅草神社。
21_20200204203601
猿の次郎君が芸を終わったところ。お利巧で可愛い!
22_20200204203601

浅草寺内をいつもと違ったところを見学。
初めて見た夫婦狛犬。
23_20200204203701
旧仁王門礎石(東京大空襲で焼失)
24_20200204203801
弁天堂。
25_20200204203901
浅草寺時の鐘。綱吉の命により改鋳され、江戸の市中9ヶ所で時を告げていた鐘の一つだ。
26_20200204203901
1687年の二尊仏。右・観音菩薩。左・勢至菩薩。
27_20200204204001

 

| | コメント (24)

« 2020年1月 | トップページ