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2020年2月28日 (金)

京街道(2)淀宿~枚方宿(3)

◆枚方宿へ(続き)

大阪府の枚方市に入ってきた。

久修園院。行基が開いた真言律宗のお寺で奈良西大寺の別格本山。大阪夏の陣で大半が焼け落ちた。宗覚律師(多彩な才能の持ち主)が元禄時代に作ったという天球儀と地球儀が保存されているとのことだが見られない。
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楠葉台場跡史跡公園。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が最終的に集結した場所で、津藩の寝返りで大阪に落ち延びて行った。
「戊辰役橋本砲台場跡」は京都府側の橋本から大阪側のここに移された来たもの。
楠葉(くずは)は駅名など樟葉(くずは)となっている。
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本来の街道に合流すると、枚方市のマンホールが出てきた。デザインは、枚方市の花である菊と、広重の浮世絵にも描かれた淀川を下る三十石船だ。
枚方は大菊人形展が開催されていたが今はなくなってしまったそうだ。
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長福寺。このような参道もある。道標を兼ねた供養塔がある。こんな奥に道標があるとは!
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両脇のお地蔵様たちがとても小さくてかわいい。大阪のお地蔵様、第一号。
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掃除小僧さんではなくて、木魚を枕に寝てしまった小僧さん。ねずみが様子を見ているのか。
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旧京街道の標柱が珍しい。京街道では街道を案内する標柱も、看板も殆ど見かけない。
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樟葉駅のそばのくずはモール(ショッピングモール)で休憩。おやつは走井餅老舗で買った鳩もなかで、自分であんこを詰めて食べるタイプなので、皮がぱりぱりしている。
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大阪のお地蔵様第二号、第三号。伏見の化粧地蔵様とは違うが、滋賀県や岐阜県でもお地蔵様、いろいろ見ましたが同じかな!
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船橋川を渡った先に、地蔵堂、戊辰戦争の供養塔、八幡宮の道標がある。この向かいあたりに一里塚があったらしいが見えず。
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牧野駅まで京阪に沿った道を歩き、ここで寄り道して牧野公園に。
阿弖流為母禮(アテルイモレ)の首塚がある。東北の蝦夷が朝廷の支配を拒否して戦争になり、802年に蝦夷は降伏する。首長と副将を伴って帰京した坂上田村麻呂がこの地で蝦夷の首長阿弖流為と副将母禮を処刑した地だそうだ。坂上田村麻呂は強く助命を嘆願したそうだが。
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その奥にある片埜神社。第11代垂仁天皇の頃に建速須佐之男命を祀ったのがはじまりで、その後、豊臣秀吉が大阪城の鬼門を守る神として庇護した。
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赤鬼のお面があった。絵馬にも赤鬼が描かれている。鬼は片埜神社の象徴・守り神とされた。
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本殿は慶長2年、豊臣秀吉の命で片桐且元が再興したもので、重要文化財。
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街道に戻る。クサフジが目を惹き、カラスウリの実の色はくすんでいた。
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街道の左右に京都と大阪と刻まれた常夜燈があり、ここに片埜神社の一の鳥居があったそうだ。手前にあるのが壊れた残骸か。
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國道第二号路線の道標。終点の高麗橋まで六里とある。まだまだ!
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ここを左に入った、京阪御殿山駅に近い所に渚の院跡がある。
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文徳天皇の第一皇子、惟喬親王は権力争いに破れ、ここに別荘を建て隠遁した。同じく権力争いに破れた在原業平と親交があったという。渚の院跡には観音寺が建立されたものの、神仏分離で廃寺となっている。梵鐘が残るのみだ。
業平はここで「世の中に耐えて櫻のなかりせば 春の心はのどけからまし」と詠む。
紀貫之は土佐から京に帰る途中で渚院の梅のことを『土佐日記』に記している。

天之川集会所の前の地蔵堂。一里塚なのに跡もなかった。
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天の川を鵲橋で渡る。
淀川に合流する天野川は、川の流れが美しく、古くから天上の銀河とみなされ、平安貴族の憧れの歌どころであった。天の川のかささぎの群れが集まって橋となり、牽牛と織姫との橋渡しをするという七夕伝説にちなんでかささぎ橋と呼ばれるようになったという。枚方市、近隣の交野市とともに七夕伝説にまつわる名所が多いという。
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いよいよ枚方宿に入ってきた。道路が着色されている。
東見附跡。石柱があった。
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問屋役人の家。
小野平右衛門(屋号=八幡屋)で、江戸中期より、村年寄りと問屋役人を勤めた。出格子や虫籠窓が見られる幕末の建物だそうだ。
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枚方市駅に到着。京阪で東福寺へ、JRに乗り換え京都へ。

今回のお弁当は、京都舞妓はん弁当。(デザートのお団子と生八つ橋まで入っていた)。
お土産は柴漬け。
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東京着は21時3分。帰宅は10時10分。約46000歩。(完)


「干瓢を買ったわよ」と娘からラインが入って、はて?東海道のどこかで聞いたような。思い出せない。
品物を見て水口宿の広重の絵に出ていた干瓢でありました。太巻きずしにして食べましょう。栃木以外の干瓢は初めて。水口から栃木に伝わった干瓢は栃木が全国シェアの98%を占めるから貴重な水口の干瓢です。
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2020年2月23日 (日)

京街道(2)淀宿~枚方宿(2)

八幡市に関係する名物や人物の説明板があって、ショウケースに写真や食品サンプルと一緒に説明されていた。
・飛行機の二宮忠八のこと。
松花堂弁当の発祥の地であること。1637年に茶室の松花堂を建てたこの地の社僧の松花堂昭乗は詩歌、書画、茶道を極めた人物。農家が種子入れに使っていた木製の四つ切り箱を改良し、茶会で使う物入れとしていた。それを昭和初期に、料亭「吉兆」の創始者が懐石料理の弁当に応用したのが「松花堂弁当」の始まりという。
・八幡市は竹の名産地で、八幡の竹がエジソンが発明した白熱電灯の発光体のフィラメントに使用された。駅前と石清水八幡内にエジソン記念碑がある。
八幡巻きの発祥地。その昔は守口同様、ごぼうの特産地だったので、そのごぼうをウナギやドジョウで巻いたものが八幡巻き。以前はレパートリーの中にあった献立の一つだ。
源氏巻き ここ八幡宮が源氏の氏神であったので作られたお菓子。赤い羊羹は平氏の旗、白い餡は源氏の旗を表し、切り口が紅白でめでたい席のお菓子となった。
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石清水八幡宮は源氏の祖、源義家が八幡太郎義家と名乗り、元服した地である。武運長久の神として清和源氏をはじめ全国の武士が尊敬を寄せてきた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが社殿修復や寄進を行った。

◆石清水八幡宮

八幡宮の上院へはケーブル、昨年リニューアルされたピカピカの「こがね号」と「あかね号」のうち行きはこがね、帰りはあかねであった。3分で着いた。200円。
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竹林。エジソンのフィラメントにこの地の竹が使われたと思うと!
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南総門から入ると社殿が見える。本殿二棟は現存最古最大の八幡造で、幣殿・舞殿・楼門・廻廊などにより構成された十棟と棟札三枚が国宝に指定されている。
すべて丹漆塗。名工による、いたずら猿、ブドウ、リス、かまきりなどの極彩色彫刻や信長寄進の黄金の雨樋などは時間が合わなくて見られなかった。
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実に鮮やかな丹漆。鳩も見える。
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ご神木の「楠」。楠木正成が必勝を祈願して1334年に奉納したと伝えられる。樹齢700年。
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西総門。北と東の総門とともに重要文化財。囲まれている塀は信長塀で社殿を囲んでいる。信長が1580年に寄進。瓦と土を重ねているために耐火性、耐久性に優れている。
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水若宮社。この他の摂社四社とともに重要文化財。
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鬼門封じ。鬼門を封じるため、本殿の石垣が斜めに切り取られている。
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おがたまの木。「招霊の木」とも書かれ古くから霊力の宿る木として多くの神社に植えられているそうだ。
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 一円玉の表に描かれているのがこの木の葉だそうだ。見てみると葉の形は似ている。こちらが一円の裏かと思っていた。
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その下にアオジがいた。
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三の鳥居まで灯篭が並ぶ。
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鳥居の手前を右に入るとエジソン記念碑があった。背景には竹林が。
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ボーイスカウト像がなぜあるのか?
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ケーブル山上駅から近い男山展望台からの眺めはなかなかだ。
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谷崎潤一郎の文学碑。「蘆刈抄」は淀川の中州が舞台で男山が出てくるのだそうだ。
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◆枚方宿へ

ケーブルを下りて街道歩きを再開したところで、八幡市のマンホールが。市の花のさつきだ。
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木津川沿いの堤防の下の道を歩いていくと二宮忠八飛行器工作所跡に説明板があり、ここで飛行機の製造を試みたと書かれている。
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柳谷わたし場道標。対岸の山崎と橋本、京街道と西国街道を結ぶ重要な渡し。
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旧道に入った橋本は昭和33年まで遊郭として賑わったそうで、古い街道の面影を残している。
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小金川樋門・・この辺りが府境(京都府と大阪府の境)、つまり八幡市と枚方市の境のようだ。
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(続く)

 

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2020年2月19日 (水)

京街道(2)淀宿~枚方宿(1)

 いつもののぞみが関ヶ原にかかると雪景色であった。
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京都で近鉄に乗り換え、さらに丹波橋で京阪に乗り換え、前回の終わり、淀駅着9時3分。
お天気は曇り、時々晴れ間が見えるのに、ずっと積もらなくて道路が濡れない雪やあられ。天気雨ならぬ天気雪という状態で寒かった。


●淀宿(55番目)伏見宿から5.8㎞、枚方宿まで14.3㎞。本陣0軒、脇本陣0軒、旅籠16軒。

前回の終りは淀宿の東の見附に入ったところでした。淀宿は東海道では本陣、脇本陣が両方ともない唯一の小規模な宿場である。
宿自体も戊辰戦争の激戦地だったため、殆ど遺構が残っていない。

駅前には水車のモニュメントがある。
淀には場所と時代が違う3つの淀城があったそうだ。戦国時代のが淀古城。次に秀吉が造り側室の茶々に与えた淀城。3つ目が徳川秀忠の命で築城された淀城。
秀忠は、元和5年(1619)伏見城の廃城に伴い、寛永2年(1625)松平定綱に命じて淀城を築城。周囲に二重三重の濠を廻らし、直径8mもある水車が城の西南と北の二か所に取り付けられていたとうことである。
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高架下に三宅安兵衛(京都の呉服商として一代をなした人物)が建てた道標がある。この裏側に東一口(いもあらい)と書かれた、安養寺に参詣者を導くための道標がある。「いもあらい」とは何て難しい読み方!
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淀城址公園の一角の、與杼(よど)神社。桂川右岸に水上運輸の守護神が祀られていたものが、河川敷の拡幅工事でここに移転してきている。
拝殿は重要文化財。
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稲葉神社。春日局が寄進した稲葉正成を祀る神社。正成の子孫が淀藩主となった。
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淀城址公園には3つ目の淀城の石垣が残っている。街道沿いで見た(レプリカか?)「唐人雁木跡碑」、「淀小橋旧址碑」、「淀城故址碑」もあった。
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駅を越えて右折、少しいった角に大専寺があり、戊辰戦争の東軍戦死者埋骨地碑があった。
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枡形になっている道を歩き、孫橋を渡り淀宿は終わりだ。


◆淀~石清水八幡宮へ

宿を出ると、長円寺があり鳥羽伏見の戦いの時に幕府軍の野戦病院となったところだ。「鳥羽伏見の戦い 幕府軍野戦病院の地碑」や榎本武揚書の「戊辰役東軍戦死者の碑」がある。
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しだれ梅がきれい。桜の蕾も随分と膨らんでいた。
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穀物の貯蔵庫である浜納屋。
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向かいは木田醤油店で1855年創業。今は先代が亡くなって営業していない。
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街道。晴れているが雪がチラついているのです。
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涼森神社に寄り道。菅原道真が太宰府に向かう途中に寄り、鈴を献上したという。
ここに戦国時代には美豆城が築かれたという石碑が立っている。
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淀川三川合流地点に向かう。宇治川から木津川までかかっている御幸橋に到着。宇治川を渡り、次の木津川との間に「さくらであい館」があり、展望台がある。
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まず宇治川を渡る。
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展望台
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展望台から。琵琶湖から流れ出る宇治川が右。三重県から流れ出る木津川が左。京都府北部から流れ出る桂川は宇治川の奥の山の麓あたりで見えない。この三つの川が前方で合流し、淀川へと合流する。
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木津川。
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橋を渡り終わって八幡市に入った。目の前の男山に石清水八幡宮が。
石清水八幡宮は伊勢神宮とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つなのだ。
平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮から勧請された。
本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。
上院(山上)と下院(山麓)に分かれる。

まず下院の頓宮殿へ。
一の鳥居(八幡鳥居の形式)。扁額の「八」の文字が鳩だ。鳩は八幡神の使いとされる。この後本殿他色々な場所で鳩を見る。
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頓宮殿。
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安居(あんご)橋を渡る。太鼓橋。
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飛行神社。ライト兄弟に先んじて飛行機の開発にあたった二宮忠八が創建した神社。ライト兄弟が人類初飛行に成功すると制作をやめたそうだ。航空殉難者の霊を祀る。
F104戦闘機のエンジン。
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大阪湾から漁網にかかり揚げられた零式戦闘機のプロペラ。
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頓宮前まで戻り、やわた走井餅老舗で昼食。さっきまでのお天気が吹雪に変わり、食事がすむとまた止んだ。
頼んだのは、走井うどんと赤飯膳。走井餅付。殆ど炭水化物で歩くのには最適。
東海道を歩いているときに大津で走井餅発祥の地があったが、本家は廃業して、こちらに引き継がれたらしい。
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2020年2月15日 (土)

伊予ヶ岳の岩峰をよじ登る

千葉県・伊予ヶ岳(336.6m)。低いけれども千葉県で唯一「岳」が付く山。高く険しい奇岩がそびえ立つ。
山名の由来は、阿波斎部氏の故郷の四国の最高峰石鎚山、別名「伊予の大岳」から来ているそうだ。

新宿からさざ波1号に乗って南房総市の岩井に着く。
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バスから双耳峰の伊予ヶ岳が見え、右側に奇岩が見える。
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麓の天神社から見える。ズームしてみる。わー、登れるのかしら?
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台風の爪痕が痛ましい。電車からはブルーシートで覆われた屋根が多く、ビニールハウスも壊れているのを見かけた。
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1月終わりというのにスミレが咲いていた。
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いよいよ鎖とロープを頼って登る。怖い!(年齢のせい)。どうやら頂上へたどり着く。景色が素晴らしい。
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双耳峰の山は有名な富山。倒木が多く危険で今は登山禁止だそうだ。
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伊予ヶ岳の双耳峰のもう一つにも登る。こちらは楽勝。
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久しぶりに登山気分を味わいました。こんな山はこれが最後かな。

 


『東海道和算道中』佐藤健一著 北邑一惠編集協力
先日、日光街道の日本橋・福徳神社で「算額」を見たので借りてきた本です。
前書きに寄ると、江戸時代後期には町人の中には趣味の習い事や旅を楽しむ人が多くなった。
当時、江戸の人が楽しんでいた「日用数学程度の和算」と旅の楽しさをコラボさせた内容だ。
息子たちにそれぞれ家督を譲って、隠居的生活をする50過ぎの幼馴染の3人が江戸から京都まで18日間で東海道を歩く旅物語。
3人とは瓦版屋と数学塾と漢学塾の経営者である。
昼間歩きながら和算の問題を数学塾のともさんが出して、夜、宿で解くというもの。問題は鶴亀算のような、小学生の頃やったようなのもあり、ついつい方程式で解いてしまうし、わからないのもたくさんありました。
懐かしい53宿が次々出てきて、静岡県の一部と四日市を過ぎて鈴鹿峠辺りまで頭から抜けているのでがっくりでした。

『格安エアラインで世界一周』下川祐治著
2009年にLCCを乗り継いで写真家などと3人で世界一周しているのだが、着いた先では観光に何も興味ない著者たち。途中で次の格安航空券をパソコンで一日中籠ってゲットする。窮屈な何もサービスがない機内で有料のあまり美味しくなさそうな食事をして、寝たり、機内誌を読んでいるだけ。最後のアメリカ~日本だけはこの頃LCCはなかったそうで極楽気分を味わったとか。費用は約22万。食事や宿泊費の明細、何日かかったは不明だ。
内田百閒の『阿房列車』と同じではないか!! 本当に変わった丈夫な人がいるものだ。

 

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2020年2月11日 (火)

日光街道1 日本橋~千住宿(3)

千住大橋を渡る。文禄3年(1594)に家康が隅田川に最初に架けた橋(現在の橋は昭和2年)。
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歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれている。北斎もここから富嶽三十六景の1枚を描いている。いよいよ千住宿だ。
広重の絵。
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北斎の絵。
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◆千住宿(1番目)日本橋から8.8km 、草加まで9.7㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒。

千住大橋公園の奥から階段を降りると橋詰テラスで、与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」が描かれる。芭蕉は深川から舟でここ千住に着いた。
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河番付と橋番付がおもしろい。大関ー河は東・加茂川、西・大井川で東西対決になっていない? 橋は東が岡崎矢?橋(?は矧で今は作、「やはぎがわ」でしたポージィさんありがとうございます)、西・岩國錦帯橋。ここで浅草で買った人形焼きを食べる。
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奥の細道矢立初めの地碑。奥の細道へここから旅立つ際に、矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠んだ。
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奥に橋戸稲荷神社が。本殿は寺社建築では珍しい土蔵造りだ。ここは狛狐だ。
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本殿扉の内側には伊豆長八のこて絵があるそうだが、レプリカが展示されていた。年2回の公開のうち1回目は2日後の2月3日。とても残念。
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矢立初の芭蕉像。ここから千住宿の細い道へ入っていく。
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元やっちゃ場南詰の解説板。青物問屋が軒を連ね「やっちゃい」のセリ声が響いていた。日本橋にもあったとか。
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このあと、次々と屋号札が出てくる。これを見るとその宿の力の入れ具合がわかって歩くのもキョロキョロです。
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千住宿歴史プチテラス(元地漉紙問屋横山家から寄贈された土蔵をギャラリーとして使用)はもう閉まっていたので見学できなかった。これも残念。ここにも芭蕉の句碑が。千住に入ったら芭蕉の碑や関係するものが多い。
その斜め前の街道町並み絵図。
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「旧日光道中」「是より西へ大師道」と刻まれた道標。西新井大師への道標。
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河原稲荷神社の狛犬は足立区最大だそうだ。
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屋号札や、解説板が軒並みである。
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源長寺。脇本陣を兼ねたお寺で、将軍鷹狩りの際に「御膳所」となった。
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千住の一里塚跡。町の中にあったため一対でなく片側だけに立てられた。
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千住宿問屋場・貫目改所跡を通り過ぎ、森鴎外の旧居跡を見に行ったが工事中だった。鴎外の父がここで医院を開いていて、鴎外も大学卒業後から結婚するまで住んでいたそうだ。
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金蔵寺には、天保8年(1837)に起こった大飢饉の餓死者を供養する無縁塔がある。
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商店街は1.7㎞もあるそうで長い!
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千住宿本陣跡の解説板を見て、千住本氷川神社へ。芭蕉の句碑「春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅」がある。
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旧社殿。横に「ラジオ体操発祥の地」の碑が見える。他にも候補があるらしい。
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千住宿にちなんだタイルが3種類埋め込まれている。その一つ。
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北千住駅より、常磐線・上野東京ラインで東京駅に出て、中央線に乗り継ぎ、国分寺には6時過ぎに到着。坐和民で打ち上げ、8時過ぎに帰宅。約36000歩。
人形焼きのお土産。
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この続きはいつになるかわかりませんが、読んでいただきありがとうございます。

(完)

 

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2020年2月 8日 (土)

日光街道1 日本橋~千住宿(2)

◆浅草から千住へ

浅草寺の横から出ると街道に戻り、姥ヶ池跡がある。明治24年まで大きな池があった。
このあたりに娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死んだ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人が姥ヶ池と呼んだという。鬼子母神みたいな話である。
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助六歌碑もあった。助六を演じた九世・市川團十郎の歌を刻んだ碑だ。
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江戸猿若町市村座跡碑。老中水野忠邦の天保の改革で、江戸市中にあった芝居小屋が猿若町に集められた。
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待乳山聖天に寄り道。入り口に池波正太郎生誕の地の碑もある。
左下に見えるのはお供えの大根売り場である。
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大根と巾着の印。大根は身体健全、夫婦和合、巾着は財福の功徳を表わしたものとされる。
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歓喜天地蔵は数度の火災に遭い、その尊容をとどめていない、子育て地蔵。
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築地塀は江戸時代の名残をとどめる唯一の文化財。広重の錦絵に描かれている。
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山谷堀公園には猪牙(ちょき)舟の浮世絵があった。江戸時代、市中の水路に使われていた、船首が細長くとがった屋根のない舟。語源は舟の形が猪の牙に似ているからなど諸説ある。山谷堀をこの舟に乗って吉原へ遊びに行くのは大変贅沢であったと。
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今戸神社にも寄る。沖田総司終焉碑があり、今戸焼発祥、招き猫発祥の地。
源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、京都の石清水八幡(行ってきました)を勧請したのが始まりと云われている。
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新選組の沖田総司は幕末の御典医・松本良順の看病を受けたがここで亡くなった。
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招き猫発祥の地と言われ(豪徳寺かと思っていた)、猫があちこちに。そして干支のネズミの前に本物の白猫が!
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春慶院には高尾太夫の墓があった。
仙台藩主伊達綱宗の意に沿わなかったため惨殺された、新吉原の名妓二代目高尾太夫である。
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東禅寺。江戸六地蔵の一つがある。
宝永から享保にかけて江戸市中の6箇所に造立された、丈六の銅像地蔵菩薩坐像。六街道にあり、旧東海道(品川寺)、東禅寺(奥州街道・日光街道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(旧中山道)、霊厳寺(水戸街道)、千葉街道のは現存しない。見たのは東海道・品川寺のとここの2つだけある。
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駿馬塚。義家が陸奥へ向かう際、此の地で愛馬 「青海原」 が絶命し、これを葬った所。
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泪橋(小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをしたという)交差点を通り過ぎ、南千住駅高架を通り過ぎたところに、小塚原刑場跡がある。南の鈴ヶ森刑場跡(旧東海道)に対する北の小塚原刑場跡である。
ここにある大きな首切地蔵は、刑死者を弔うため造立された。
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すぐ先の回向院では杉田玄白らが刑死者の腑分けに立ち会い「解体新書」を著わした縁から観臓記念碑もあった。
ここに吉田松陰のお墓がある。
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鼠小僧、高橋お伝、腕の喜三郎の墓も。
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円通寺。
坂上田村麻呂が創建した曹洞宗の寺。金ぴかの観音様が目立つ。
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彰義隊士の墓がある。寛永寺の彰義隊士の遺体を見たこの寺の和尚が、遺骸を火葬にして葬った。
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これが縁で寛永寺の弾痕が残っている黒門がここに移されたという。
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四十八首塚、七重の塔、三代将軍家光鷹見の松もある。
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素戔嗚神社。石神信仰の神社。
小塚の中の奇岩を 「瑞光石」 と言い、この小塚から 「小塚原」 の地名由来となった小塚「瑞光石」がある。
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松尾芭蕉の碑。「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」。
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大銀杏のまわりにも絵馬がたくさんかけられている。
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三種類の庚申塔。左から如意輪観音が刻まれた庚申塔、聖観音が刻まれた庚申塔、青金剛と刻まれた庚申塔。
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(続く)

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2020年2月 4日 (火)

日光街道1 日本橋~千住宿(1)

ちょっと空いた土曜日にまだ早起きしないでも良い区間、日本橋から10時半に日光街道を歩きも始めました。中山道も京街道も途中なのですが。
都内はビルばかりで、その中の緑の一角が寺社であって、この街道沿いにもちょっと入るだけでたくさんあるのです。そしてその寺社には歴史上の人物がかかわっていて、道の寄り道だけでなく、歴史の寄り道も多く奥深いです。

◆日本橋から浅草

「日本橋」という橋の字は徳川慶喜が書いた。この橋は東海道の歩きはじめであり、中山道でここに戻ってくる。
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すぐ横道に入ると福徳神社があってここは福徳村であった。家康、続いて秀忠が参詣している。太田道灌とも縁が深いという。
算額があって、ちらしももらってきた。結構難しい!5問目は解答を募集している。
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小津和紙店の前に、和紙の原料となる木、コウゾ、カジ、ミツマタ、ガンピが植えられていた。
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於竹大日如来井戸跡。大伝馬町馬込家の下女「お竹」は大日如来の化身で、五代将軍綱吉の母・桂昌院の信仰が篤かった。お竹さんは誠心誠実で、一粒の米、一切れの野菜も粗末にせず貧困者に施したそうで、勝手元からいつも後光が射していたという。以前も見ていて書いたような気がします。この話を聞くと困った人を助けなければという気持ちになります。
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身延別院の油かけ大黒天神は、伏見の油かけ町出身の名優長谷川一夫の夫人の夢に、伏見の油かけ地蔵(前回見てきた)ならぬ油かけ天神が出てきて、この別院に相談して出来たという。
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十思(じっし)公園は、伝馬町牢屋敷跡で、石町(こくちょう)時の鐘がある。この鐘を合図に処刑が行われた。
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吉田松陰はここで処刑された。吉田松陰終焉の地の碑。
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隣に大安楽寺があり、ここは江戸伝馬町所刑場跡で、刑死者を供養する「延命地蔵尊」がある。
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横山町問屋街を歩く。神田川を浅草橋で渡る。以前、外堀歩きをしたとき、橋の手前の郡代屋敷跡を見、橋を渡った所の浅草見附跡を撮影し、神田川は船に乗ってくぐった懐かしい場所。
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昼食はこの辺りのお寿司屋さんで前回と同じ握りずし。
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銀杏岡八幡神社や蔵前の総鎮守の須賀神社を通り過ぎ、
第六天榊神社に寄る。浅草文庫跡碑があるが、明治7年創立の公立図書館跡だそうだ。
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首尾の松跡。吉原帰りの客がここで前夜の首尾を語り合ったという。
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向かい側には木の間に浅草御蔵跡が見えた。この付近に徳川幕府の米蔵があり、蔵前という地名の由来となったという。
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古典落語ゆかりの神社=蔵前神社。綱吉公が、江戸城鬼門除けの守護神として山城国(京都)男山の石清水八幡宮(次回行く予定)を勧請したのが始まり。
「元犬」「阿武松」という古典落語の舞台の地。
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歌川国安錦絵「力持」の技芸の奉納を描いたもの。
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諏訪神社。諏訪大社の分霊を勧請した。
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バンダイの本社があった。
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道路を挟んで駒形どぜう。もう何十年も食べていなくて・・・食べたい!
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お馴染みの景色。左が浅草駒形堂。
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浅草寺駒形堂。浅草寺の観音像が隅田川から示現した霊地だった。
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新型コロナウィルス問題で激減したというが雷門はすごい人の波。仲見世も動きがままならず、本堂も行列。年間3000万人が参拝するという。
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三社祭で有名な浅草神社。
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猿の次郎君が芸を終わったところ。お利巧で可愛い!
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浅草寺内をいつもと違ったところを見学。
初めて見た夫婦狛犬。
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旧仁王門礎石(東京大空襲で焼失)
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弁天堂。
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浅草寺時の鐘。綱吉の命により改鋳され、江戸の市中9ヶ所で時を告げていた鐘の一つだ。
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1687年の二尊仏。右・観音菩薩。左・勢至菩薩。
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