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2020年8月29日 (土)

甲州街道3 柴崎~布田五ヶ宿~府中宿~矢川(2)

昼食は洋食のクリスマス亭へ。
入り口で検温。娘は36度2分で通過。私は何と!34度。おかしいということで2回目を計るもまた34度。検温のおじさんも驚く。後にも先にもこんな低い人はいないみたい。自分でも歩いてきたのに体温が上がって大丈夫だろうかと心配していたのに、逆に棺桶に足を突っ込んでいるような感じでびっくりであった。
さて、ここで頼んだのは洋食屋だけど和風オムライス。サラダの後にゆっくりと出てくる。ご飯と卵を混ぜてオムライスにしたもので、和風なのでケチャップはなく、ハーブが入っているようでちょっと微妙で面白い味。その後紅茶でしめくくる。
帰りに検温のおじさんに送られて、血圧を例に挙げて体温の低さを慰められる。
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街道に戻ると黒塀の立派な旧家があった。このあたりは上石原の宿で、布田5ヶ宿の一番甲州寄りの宿。
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飛田給薬師堂。行人塚(仏道を修行する行者)がある。 仙台藩御殿医であった松前意仙は諸国遍歴の末に貞享3(1686)年石造瑠璃光薬師如来立像を彫り上げ、墓穴を掘り、自ら入定し成仏したという。いわゆる即身仏か。昔から凄い人がいるものです。
お堂の中には彫ったという像があるそうだが見ることは出来なかった。
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飛田給という地名は、古代、武蔵野を往来する旅人の飢えや病を救う施設「非田給」がこの地にあったことに由来するそうである。京王線に駅もある。

観音院。享保3(1718)年建立の庚申塔、宝永7(1710)年建立の地蔵尊、文政4(1821)年建立の馬頭観音などが並んでいた。
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お隣の神明社の入り口には下染屋の解説板があったが、調布(てづくりぬの)を染めた村だそうである。調布の謂れだ。

左に飛田給駅、右に味の素スタジアムを見て過ぎると府中市に入った。
マンホール発見!市の鳥ヒバリである。
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別のマンホールは市の木ケヤキである。
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さらに別の場所で見つけた市の花・梅のマンホール。
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カラーのマンホールはヒバリの親子と梅の花。さすがお金持ちの府中市はマンホールまでいろいろある。
Karamannhoru

中央線・武蔵境駅から是政までの西武多摩川線の線路を越えたときに白糸台駅が見えていた。

不動尊前交差点のところにある石仏は、交安観世音菩薩像。(交通安全の観音様か?)
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染屋不動尊には今度は上染屋の解説板があり53戸の村だったそうだ。
ご本尊の金剛阿弥陀如来立像は、新田義貞の鎌倉攻めの際の陣中の守護仏だったそうだが、見ることはできない。
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常久の一里塚跡(7里目)がある。常久という村の名は名主の名に由来するということだ。
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やがて京王線東府中駅の付近で江戸時代初期の甲州街道と合流、八幡宿の説明板がある。府中市のは石で出来た立派な説明板だ。

ちょっと寄り道して武蔵国府八幡宮へ。聖武天皇の時代、国分寺同様、一国一社の八幡宮として創建されたもの。鬱蒼とした森の中にある小さな八幡宮だ。
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ここで街道には戻らず、府中競馬正門駅の方へ向かった。
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中央高速からしか見ていなかったが、こちら側から見ても大きい!
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駅前には黄金の馬アハルテケ。大胆で忍耐強く、流麗な走りを見せる馬術用の品種。
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競馬場の近くの普門寺へ。ご本尊の薬師如来は目の神様として親しまれているとのことで、絵馬には「め め」と書かれ、裏に願い事を書く。
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府中宿:布田五ヶ宿から7.6㎞、日野宿まで9.3㎞。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒、問屋3軒。新宿、番場宿、本宿でかつての府中宿は形成されていたそうだ。
「新宿(しんしゅく)」の標石。
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大通りのところにケヤキ並木馬場寄進碑。向こうに京王線・府中駅がある。
もとは源頼義、義家親子が奥州安倍一族を平定し、戦勝のお礼に苗木千本を大国魂神社(古代からあった)に寄進した。その後、並木両側の部分を馬場として家康が寄進したのだそうだ。現在、そんなことでこのケヤキ並木道路はとても広い。
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大国魂神社。くらやみ祭りが有名。家から近いのに祭りは見たものの、神社の境内に一度も入ったことがなかった。
武蔵國総社で武蔵國の鎮守。将軍家より武蔵國最大の五百万石の朱印地を賜った。
神社入り口の御神木が大きい。
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長い参道を行く。
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境内の宮乃咩(みやのめ)神社にはたくさんの穴の開いた柄杓が奉納されている。頼朝の妻政子が安産の祈願をしたと伝えられ、願いが叶うとお礼に底の抜けた柄杓を納めるのだそうだ。
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疫病退散としてからす団扇が売られている。(今年はコロナで不定期)
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随神門、中雀門を通ると拝殿に至る。
中雀門の前の狛犬は苔で覆われている。
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拝殿。
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本殿。
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境内には摂社、末社も多く立派な神社であった。
(続く)

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2020年8月24日 (月)

楊逸著『我が敵「習近平」』、 トム・バージェス著『喰い尽くされるアフリカ』

楊逸著『我が敵「習近平」』

著者・楊逸(ヤン・イー)は2008年、日本語を母国語としない作家として初めて『時が滲む朝』で芥川賞を受賞した人。日本に帰化している。
この本を書くきっかけになったのは、新型コロナウィルス、文化大革命による下放、天安門広場事件のようです。

今まで、中国の様々な人民のニュース、谷崎光の20冊に余る本やブログで、もうなんでもありの中国。その人民の何にでも驚かない強さ、賢さ、狡さ、羞恥心のなさ、何でも沢山食べ、良くしゃべり、人の迷惑など一切考えずgoing my way。行動もハチャメチャ、どんな事故があっても殆ど死なない・・兎に角体も心も強靭。
これはこれまでの数千年の歴史によるとされる。・・・ということは日本はやはり島国根性を持っているものの温室の中育ちか。

又、外国に出て行ってチャイナタウンを作り、全世界を制覇。特に米英欧の優秀な大学生になり大学院まで卒業し、スパイとなる。チベット、ウイグル、最近はとうとう香港弾圧まで。一帯一路計画で世界支配。お金を投資して港を作る、道路、鉄道を作る。雇用は現地人は殆どなく中国人を使う。しかし多くの国は借金を返せない。すると漢人を住まわせ、自分のものとして占領する。乗っ取っられたウイグル人は牢に入れられ臓器提供させられている。
今、一帯一路政策で借金が返せなくなって破綻寸前の国はがイラン、イタリア、スリランカ、セーシェル、べネズエラアだ。アフリカについては下記の次の本で。
ということでずっとみてきた中国。

それが、楊さんのこの本で、アッと驚く。
武漢ウイルスは中国が世界に仕掛けた「戦争」という。ウイルスは実は!アメリカが暴露していますが。
WHOのテドロスの事務局長の驚くべき発言と事実。
全世界がマスクや防護服を必要としたときには手に入らなかったのは、そのかなり前に想定して、中国が全世界からマスク等を全部買い占めてたからだそうで、我々が必要になってからアマゾンなど通じて粗悪品を含めてもの凄い高値で売ったわけ。自分の所で流行を終了させたあとにね。深慮遠謀というか、開いた口が塞がらなかった。
武漢ウイルスの中国の本当の内情は?
郭文貴が暴露した中国の「恥部」にもただただ驚くばかり。

筆者の日本に来てからの生活が凄い。一日15時間(夕方5時から翌朝8時まで)働いて、小田急東海大前から歌舞伎町の日本語学校へ通う。寝ながら授業を聞いてでも1年で「日本語能力試験一級」を取り、しかもヒヤリングは満点だったそう。数年してお茶の水女子大学に入学した。これまた高校クラスの知識が必要だから日本人だって大変なのに。
そんな大変な生活も、いじめも多少のことは気にならず、図太い神経の持ち主と自分で言っています。
中国の下放の暮らしの方がよっぽど辛かったそうです。その中国の辛い暮らしでも病気をしなかったのですから、からだも頑丈とのこと。今の中国人もみなそうだと思われます。


トム・バージェス著『喰い尽くされるアフリカ~欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日~』

アフリカ54か国のうち、エチオピア、ソマリア、ケニア、モロッコ、マダガスカル、ウガンダ、他の小国等々資源を持っていな国もある。が石油を始め、ダイヤモンド、アルミニウム、天然ガス、金、プラチナ、銅、ウランなどが豊富にある国が多い。ところが沢山持っている国ほど国民は貧しい。
楊さんの本にあるように、中国国有企業の民営化がものすごいスピードで進んだ時代にその大な資産を引き継いだのが共産党の高級官僚だった。これが中国が汚職・不正国家となる原点だった。官僚と業者の癒着が常態化し、腐敗と汚職を急増殖させた。
その中国がアフリカの経済を発展させると言って、かつて欧米によって略奪されたアフリカの資源開発を進めている。
例えばエネルギーを輸出するために作られた交通インフラは建設費の三割が賄賂に消えるから、手抜き工事で橋や道路はすぐ壊れるそうだ。
その道路も安価な中国製品が大量に流入するルートとなり、現地の工業はすっかりすたれてしまった(現地人は失業してしまった)。
各国の天然資源の略奪システムは独立後の支配者(多くの職員や関係者がいる)に引き継がれ、中国や欧米の企業は新しい支配者に協力しながら略奪の分け前を手にしている。その上、天然資源関連の産業は国内に雇用を生まないため、国民は大変な貧困状態にある。国の独裁者と中国・欧米の資源略奪者によってアフリカの殆ど国が資源があったがために国民が貧しくなってしまう・・何て救いようのないアフリカ。
例えばアフリカでも天然ガスや石油が豊富なナイジェリアは信じられないほど裕福のはずだ。だが、国民は極度の貧困にあえぎ、若者の失業率は高まり続け、若者たちの怒りや悲しみ、絶望感が充満し、職がない若者の有力な就職先の過激派組織・ボスハラムを生んだ。
その富はニューヨーク、香港、ロンドンへと繋がっていたのである。
欧米が手を引いた国にも、その後中国が巧妙な手でどんどん、表題にあるように乗っ取っていくのだ。
14億の国民が美味し食べ物をたくさん食べ尽くし、豊かな生活をし、世界をまたにかけて旅して、学んでいくことは良いが、その手段は狡猾を極め、この本の題名になる喰い尽くす中国のようなのだ。

この2冊は繋がっている。

 


国分寺崖線は多摩川が削って出来た地形で、私のいる前後30㎞も続いています。崖線の下側に住む私たちは中央線に乗るために坂を登らなければなりません。
今、崖の上の小鳥の森にいますが、崖下(国分寺という寺からお鷹に道が続く)から15ⅿの高さがあります。
越してきたころはいい環境だなんて喜んでいたのですが、年取ってみると結構坂がきつくて、もっと年が行くと果たして?ところがバスが近くを通っているので重い荷物を抱えた日や酷暑の日にはシルバーパスが利用出来て大喜びです。
この崖線は武蔵小金井の所も美術館があったりして楽しめます。

崖下にはお寺が。
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2020年8月18日 (火)

甲州街道3 柴崎~布田五ヶ宿~府中宿~矢川(1)

  感染者が増えて都外に出られなくなった7/14(火)、都内の甲州街道を少々の雨の中を歩く。この後、感染者が急激に増え、また梅雨明けからの猛暑で、秋前の歩きはこの日が最後になりました。あれから1ヶ月以上たつけれど、乗り物に全然乗っていません。
バスで府中駅まで行き、京王線で柴崎まで。9時20分から歩き始める。

野川を馬橋で渡り、国領宿に入ってきた。
国領宿は布田五ヶ宿(3つ目の宿)の一つで、五宿は東から国領・下布田・上布田・下石原・上石原と続く。現在の調布市にある。
布田五ヶ宿は間の宿の色彩が強く、本陣、脇本陣はなく、旅籠9軒。問屋業務は月の内、1日から6日までは上石原宿、7日より12日までは下石原宿、13日から18日までは上布田宿、19日から24日までは下布田宿、25日から晦日までは国領宿が勤めた。
高井戸宿から6.1㎞、府中宿まで7.6㎞。

稲荷神社や古い庚申塔を見て、常性寺に着く。成田不動尊を勧請して中興したといい、以来、「調布不動尊」と称されている。
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石仏、石造物が境内にたくさんあり、あちらこちらに竹筒の一輪挿しにいろいろな種類のお花が飾ってあるのです。なんて素敵なお寺でしょう!
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これまた面白い灯籠と石仏群
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小橋馬頭観音塔。 街道の小橋の馬捨て場にあったもの。馬頭観音の像を彫った供養塔は、市内でも珍しく、また商人を含む多数の村民が造立した貴重な像塔とのこと。
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地蔵堂には一願地蔵尊が祀られている(周囲のも全部地蔵様)。
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ご本尊は薬師如来。
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一石六地蔵もあった。持ち物がよくわかる。
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斜め向かいの圓福寺には、天明5(1785)年の顔も崩れてわからない地蔵尊があり、他に六地蔵も並んでいた。甲州街道はずっと地蔵が多かった!この後はどうでしょう。
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上布田宿あたりの街道
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蓮慶寺。
徳川家光より御朱印地を賜り、以後歴代将軍の菩提を弔う御朱印寺として赤門と住職の乗駕が許されたお寺。
赤門が保存されていた。
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三つ葉葵が目を惹く門も立派。
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天神通り商店街に入っていく。このあたりに水木しげるが住んでいたので、ゲゲゲの鬼太郎の妖怪がたくさんいる。深大寺まで行くとお店がある。
鬼太郎。
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ねずみ男。
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一反木綿とねこ娘。
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塗り壁。あのアニメの歌が頭の中でぐるぐる回る。
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商店街を抜けた先に布多天神社がある。以前深大寺から歩いて来てお参りしたことがある。
延長5(927)年の創建で、この地の長者が布多天神のお告げにより木綿織りを習得し、この布を朝廷に献上したそうだ。
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茅の輪くぐりをしてみた。(心身を清め、無病息災や厄除け、家内安全を願う)。
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街道に戻り、先に進むと小島の一里塚跡があった。植えられていた樹齢200年の榎は危険防止のため昭和40年頃伐採された。
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常演寺の門前には嘉永3(1850)年建立の常夜燈と地蔵の祠があった。
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西光寺。ここも徳川家光より御朱印地を賜った御朱印寺だ。
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仁王門の脇には近藤勇の座像があった。近藤勇はこの上石原宿の上石原村に生まれた。
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この仁王門は、市内で唯一残る仁王門だそうだ。上には鐘楼もある。
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  ご本尊は木造大日如来座像。
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(続く)

 

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2020年8月13日 (木)

谷村志穂著『移植医たち』

日本では移植の問題はかなり遅れていました。
諸外国とはまた考え方が違っていたりずれたりしていて、ここ医学界でも官僚的閉塞感が否めず、前進には陰にやはり人知れぬ苦労をした医者の存在があるわけです。
この本は、入念な取材をもとに書かれた小説ですが、殆ど実在した人物たちを彷彿とさせるものです。
移植先進国アメリカの有名な移植医が来日して講演したときに感銘を受けた男女3人の医師が渡米して8年間の長きにわたって過酷な現場で移植技術を磨いていくもの。
その後も日本の現実は厳しい。日本へ帰って移植治療を始めようとすれども、古い閉鎖的な日本の医学界にはなかなか受け入れられず、想像を絶する困難の連続であった。
大変さはコロナ治療の現場とはまた違ってはいるものの、日本の外国には見られない、コロナ治療で私たちを助けてくれる方たちを差別する非常に意地の悪い人々が多いと聞くと、上から下まで何も根本的には変わらない意地悪さがあるではないかと思うのです。
福島産の農産物を敬遠した人々、福島から来たと言って虐める人々のことも浮かんできます。検査をしているのだから大丈夫と買ってあげればいいのに。家を失って、行くところがなくなった人を助けるのが当然なのに、転校してきたその子供たちを虐めること、こんなことが社会の隅々まではびこっています。

話は元に戻って、移植医たちはメンタルが強いですね。もしかして虐めるということは弱さの一面かしら。打たれ強くならなければ難局を克服できない。
移植と言えば2年に一度の健康保険証の差し替えで、必ず移植を希望するか云々の項目があります。来年80才になろうとしているくたびれた臓器を希望する人はまずいないと思うのに、何故かいつも臓器提供を希望するに〇をつけます。ちょっと使えるとしたら肝臓、膵臓くらいでしょうか。

 

ナミアゲハ この夏初めて撮れた蝶々
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ハグロトンボ
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可愛い蜘蛛の巣
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キツネノカミソリが満開
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ホトトギス
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2020年8月 7日 (金)

日光街道5 粕壁宿~杉戸宿~幸手宿(後編)

    
●杉戸宿(5番目の宿)
粕壁宿から6.6㎞、幸手宿まで5.8㎞。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒。宿内には1843年には1663人住んでいたそうだ。
街道の現在
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宿入り口の東福寺。東福寺は元和9(1623)年創建。
ご本尊の不動明王がボケながらも写すことができた。脇侍の 矜羯羅童子(こんがらどうじ)・・向かって右、と制吒迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えている。
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神明神社の先に明治天皇御小休所址。題字は西郷従徳による。西郷従道の次男として生まれ西郷隆盛の甥にあたる人。明治天皇はあちこち巡視されて驚く。
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本陣跡。
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杉戸宿の鎮守・愛宕神社には何故か?1830年建立の聖徳太子碑がある。
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ちょっと街道から離れた大落古利根川沿いにある冨士浅間神社へ富士塚を見に行く。立派な富士塚でこの中に芭蕉の句碑が隠されているというが見つからない。
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街道に戻ったところは枡形で、そのにある角穀跡。米穀問屋だった小島定右衛門邸。大落古利根川を利用して米を運んだという。
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宝性院。このお寺は、永禄3(1560)年、幸手城主一色義直が、安産と子供の成長を願って安産不動明王を祀ったことに始まる立派なお寺だ。 
山門脇に3種類の江戸時代の庚申塔がある。傘つきもある。
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不動堂の軒下に十六体の獅子が彫られているのだが、たった一つだけ毬を持っているというのでぐるりと回って・・見つけました。以前もどこかでこんなことがあったような・・・夢でも見ているのか、思い出せない。
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日光街道で最大級の大きな馬頭観音。横には日光街道が刻まれていた。
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なかなかいい感じのスリムな六地蔵。
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すぐ先にあるのが渡辺勘左衛門邸。質屋を営み、たくさんの小作人をかかえていたそうだ。
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国道に合流する手前あたりで杉戸宿を出た。


◆杉戸~幸手

大島稲荷神社(恭検舎)に寄る。
心学者、大島有隣が心学(石田梅岩を始めとする学問で神道、仏教、儒教の教えを日常生活に合わせた倫理)を村民に教えた場所である。天明5(1785)年創建。
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茨島一里塚(11里目)の説明板を通り過ぎ、いよいよ幸手市に入った。
上高野村道路元標を通り過ぎ、石井酒造の「初緑」を娘は関口酒造の「杉戸宿」に続き購入。リュックが重そうだね。

ここで道は90度曲がり、またまた太子堂があって聖徳太子像を見る。聖徳太子は仏教の父と呼ばれたことから、仏教の盛んな地域でこのような像を見ることが出来るのであろうか。
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神宮寺。
源頼朝が藤原泰衡を討伐するため奥州へ向かう折、この地で鷹狩りをした。鷹が逃げて薬師堂の大樹にとまったまま動かなくなり、薬師如来に祈ったところ戻ったといわれている。討伐の帰陣後、頼朝は七堂伽藍の寺院建立を命じ、山号を鷹尾山と名付けた。
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●幸手宿(6番目の宿) 杉戸宿から5.8㎞、栗橋宿まで8.3㎞。本陣1軒、旅籠27軒。1843年当時の人口は3937人。

倉松川を志手橋を渡り、幸手宿に入ってきた。
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日光御成街道(将軍が日光社参の際に使用された街道)と日光街道(奥州街道)の合流点に位置する宿場町として栄えていた。鎌倉時代は奥州と鎌倉を結ぶ鎌倉街道中道の要所であった。室町時代には古河公方の重臣・一色氏の領地となる。 千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模であったという。

神明神社。ここは「たにし不動尊」で、眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益が得られるという。たにしの絵馬は大変珍しいというが不動尊も絵馬も見られなかった。
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ここにも几号水準点があった。
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旅館「あさよろず」は文政2(1819)年創業。板垣退助、伊藤博文が泊まったというが、今は建物が新しくなっている。
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本陣知久家跡は現在は鰻屋さんになっている。知久家は、本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家で、昔は1000坪もあったという。明治天皇も東北巡幸のおり、宿泊された。
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街道が右に折れる角に幸手一里塚の碑。12里目。
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古民家の造りが面白い。医者の看板があった。

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石太菓子店(文久年間創業)、銘菓塩がまのお土産を買ってもらう。
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幸手宿はまだ見残したところがあるので次回に回し帰路に就く。

日光線・スカイツリーライン直行に乗れ、武蔵野線、中央線を乗り継ぎ、家到着は6時15分頃であった。37375歩。

(完)

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