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2020年9月29日 (火)

日光街道6 幸手宿~栗橋宿~中田宿~古河宿(後編)

●栗橋宿(7番目の宿)全部で21宿あるのでやっと三分の一です。埼玉県最後の宿場。本陣1、脇本陣2、旅籠25軒。
近くの利根川を挟んだ中田宿とは合宿で、宿場業務を協力しあった。
日光街道唯一の関所もあったところだ。(見逃す)

焙烙地蔵 関所破りで火あぶりにされた者たちを供養するために地蔵尊を祀ったという。直接、使う火を当てて使う焙烙を奉納して願掛けする、その焙烙が地蔵と共に置かれていた。
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栗橋宿を開拓した名士が眠るお寺を3つ見学。

顕正寺。下総国栗橋村より村民を引き連れ、開墾した池田鴨之介の墓がある。本陣役を務めた。
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境内にはくりはし八福神の毘沙門天と三面六臂の馬頭観世音も。
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向かいの浄信寺。
名主・梅澤太郎右衛門の墓がわからなかった。この人は徳川秀忠公日光東照宮社参の折、流出しかかった船橋を命がけで守り、褒美と共に名字・帯刀をを許された。
船橋というのは将軍の日光社参の時の臨時の橋。川幅いっぱいに高瀬舟を並べ、頑丈な虎綱で川岸から固定する。次に船の上に板と砂を敷いて橋としたもの。

隣の深廣寺。
南無阿弥陀仏と刻まれた六角名号塔が21基ある。二代住職単信上人が20基建立、九代住職法信上人が1基建立したという。
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本堂内陣ではご本尊阿弥陀如来を拝見出来た。
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栗橋宿の今の街道。栗橋の駅からは東武日光線を離れ、JR東北本線沿いとなるので一駅区間が長くなって駅に辿り着くのが大変になってくる。
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栗橋駅の近くに静御前のお墓があるので往復約2㎞を歩く。
静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日に此の地で亡くなり、侍女の琴柱がこの地にあった寺に埋葬したと伝わる。
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まさか静御前がこんなところで亡くなっていたとは。
義経招魂碑もあった。
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街道に戻って、栗橋宿の総鎮守の八坂神社に寄る。
御神輿が立派だ。
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ここは狛犬でなくて、狛鯉で初めて!!
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坂東太郎・利根川を利根川橋で渡るが、長くて10分以上もかかった。途中から茨木県・古河市に入る。橋からは東北本線が走っているのが見えた。
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●中田宿(8番目の宿)本陣1、脇本陣1、旅籠6。

川を渡って、中田関所跡(その後関所は対岸の栗橋宿へと移った)と中田宿の説明板を通り過ぎる。

鶴峯八幡宮。1181年に源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりという。
拝殿。狛犬たちはマスクをしている。
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そして日光街道旅の神に無事旅が出来るようにお詣りする。
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鶴峯八幡宮のお隣の光了寺。
文化14年(1817)の芭蕉句碑「いかめしき 音やあられの ひのき笠」がある。
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東北本線の踏切を渡ると、約4㎞の中田の松原がある。
寛永7年(1630)古河城主永井尚政が植えた松並木だったが、戦時中伐採されてしまう。今の松は平成6年に植えられたのでまだ小さい。
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すぐ先に石仏群があり、青面金剛庚申塔や馬頭観世音供養塔と共に天明5年(1785)の十九夜念仏供養を発見。本日は3つ目で十九夜塔・・気違いになっている。
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田んぼに積みわら。モネの絵を思い出す。
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ちょっと遠かったけれども古河公方公園へ。駐車場の広さに圧倒される、きれいな公園だ。
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とここで転ぶ。何も段差がないところで。顔面左を打ったので、最初は紫➡青➡緑➡黄色と変色しやっとみられる顔になった。以前転んだのは大山街道関係を歩いているときで、この時は何も被害なし。骨折していなかったので良かったとつくづく思った。気をつけよう。娘が上手く転んだと言ってくれた。
御所沼。
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古河公方館址の碑。鎌倉公方足利成氏が享徳4年(1455)に移り住んだところである。その後、足利氏は古河公方と呼ばれることになった。
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残念ながら、遅くなってしまったので民家園は閉まるところで、入園できなかった。
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古河市のマンホールは渡良瀬遊水地花火大会・・・谷中湖(渡良瀬遊水地)の中之島から打ち上げた花火を、渡良瀬川の三国橋越しに見た風景が描かれている。この花火大会は2005年で終わってしまっているとか。
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街道に戻る。
古河の一里塚(再現)は古河第二高等学校の校庭内にあるため、見ずらい。(16里目)
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古河宿に入ってきた。原町口木戸跡。宿内は次回に見学することにする。
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6時過ぎに東北本線古河駅から乗り、浦和で京浜東北線に乗り換え、南浦和で武蔵野線、西国分寺で中央線に乗り換えて国分寺に7時半過ぎに到着。。
いつもの庄屋で乾杯兼反省会。45858歩。転んだ上、足がつりました。2ヶ月のブランクは怖い。

 (完)いつも読んでいただき有難うございます。

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2020年9月25日 (金)

日光街道6 幸手宿~栗橋宿~中田宿~古河宿(前編)

9/16(水)に再び約2ヶ月ぶりに東京都外に出ても良いということで日光街道へ。頭の中を甲州街道から日光街道に切り替えるのが大変。曇り(ちょっと雨)のち晴れ。
前回のゴールの幸手駅に10時頃到着する。

●幸手宿(6番目の宿)
前回はメインストリートの本陣跡や一里塚跡などを見ているので、街道から入ったところの見学をして街道へ出る。
鎌倉公方である足利氏がこの地方に入って古河公方になったが、この幸手あたりが古河公方の重臣・一色氏の領地になり、館を構えたところだ。
一色氏ゆかりの神社が駅そばの一色稲荷神社だ。写真では見にくいが鳥居の扁額の「正一位」の文字が格式の高い神社であることを示す。
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一色氏の館の鬼門に位置していたという天神神社を通り過ぎ、満福寺を見て、幸宮神社へ。
本殿は文久3(1863)年に再建された、総欅の流れ造りで、幸手宿の総鎮守。毎年夏まつりの先陣を切る神社だそうだ。
壁面の浮彫が素晴らしい。埼玉県以来、東京葛飾の帝釈天にあるような彫刻が時々見受けらる。
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幸手市のマンホールは桜。権現堂堤の桜が有名だからか。
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雷電神社は幸手の最も古い神社で、裏手に瘤神社、疣権現、疱瘡宮と皮膚病関係の神様がいまして、人々がひっそりと裏手で拝んでいた姿が浮かんでくる。
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聖福寺。家光の休憩所(御殿所)であり、他天皇の例幣使や歴代将軍が18回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、左甚五郎の彫刻も保存されている。
中には入れないが、菊の御紋の入った勅使門(唐門)を見ることが出来た。中は幼稚園の遊び場の様だ。
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続いてすぐそばの、読み方が同じ正福寺(しょうふくじ)へ。
天明3年(1783)の浅間山噴火が原因の飢饉の際に、幸手町の有志が難民を救済したことを讃える顕彰碑の義賑窮餓之碑がある。
権現堂河岸と日光道を示す道標も寺に入った所にあり、その向こうの石仏群が沢山あって目を惹く。
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幸手から栗橋

幸手宿を出て11時、次の食事処は2時間先なので、おかずが乏しいけど軽く月見とろろうどんを。武蔵のうどん風で麺が美味しい。
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ここから街道に沿った権現堤を歩く。権現堂川の水防のために江戸時代以前に造られた堤。春は桜と菜の花、初夏は紫陽花、秋は彼岸花の咲く広い堤。
丁度黄色の彼岸花が咲いていた。ショウキズイセン(鍾馗水仙)と呼ばれる。gakiさま、有難うございました。
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順礼供養塔と順礼供養之碑(日本画家結城素明による母子の姿が刻まれる)。
その話というのが、享和2年(1802)、利根川が決壊、土手の修復をしようとしたが激しい濁流で工事を進めることができず、通りかかった順礼母子が見かねて、自ら濁流に身を投じ工事を無事完成させたという悲しいもの。
Hi
歩いて行くと山羊がいた。ヤクシマヤギとのことで公園の草を食べるお役目があるそうだ。田んぼの合鴨みたい。
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権現堂川用水記念碑もあった。堤の終わりには、行幸堤之碑がある。
明治9年、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労を感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜された。人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたそうである。またまた明治天皇です。
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桜の季節はさぞかしと思う堤を降り、街道に復帰し、中川を行幸橋で渡り、旧道に入っていく。

「右つくば道」、「左日光道」 と刻まれている道標。安永4年(1775)建立。
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その先の古い感じのお店は吉羽屋酒店。
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田んぼの中を進む。もうほとんど収穫が終わっていて台風に遭わなくて今年も収穫できてよかった。向こうを走るは東武日光線。
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雷電神社。外国府間村の鎮守で300年ほど前に創建。不審火全焼で平成13年に再建された。
弘化2年(1845)の如意輪観音を刻んだ十九夜塔。
前回、二十六夜塔を見たが、十九夜塔は初めて。
月待塔は十三夜から二十六夜塔まであるらしいが、十九夜塔は山形、福島、茨城、群馬、埼玉、千葉などにあるとのこと。如意輪観音が刻まれているのが一般的なようだ(この日はこの後も2度見ることになる)。
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久喜市に入ると真光寺がある。
墓地の片隅にあったのが、またまた文政8年(1873)建立の如意輪観音像十九夜供養塔。雷電にもあったが青面金剛庚申塔も一緒に並んでいる。
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お寺の前にあるのが、小右衛門一里塚。13里目。隣に移設再建された弁財天堂が並んでいる。幸手宿と栗橋宿の中間にあり、榎があって多くの旅人が休憩したと思われる。
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権現堂川の歩道に降りた。川の色が今までと違った緑色だ。
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ツクツクボウシがまだまだ鳴いていた。普通は9月上旬までだ。実はツクツクボウシの姿を見たのは初めてなのです。意外と小さいので驚いたが3㎝くらい。なんでも八丈島ではほぼツクツクボウシしかいないそうでこのセミの天国なのだそうだ。いつか八丈島に行って見たいが、このことを知るには夏に行かなくてはならないか。暑いかな。
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再び街道旧道に戻ると川通神社がある。
一石六地蔵などが並んでいた。

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大きな木に絡みついたセンニンソウ
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タカサブロウ(キク科)がびっしり。
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彼岸花
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会津見送稲荷。
参勤交代の先遣隊となった会津藩士が、洪水で困っていると白髪の老人が現れ、道案内をしてくれた。後日老人が白い狐に乗った荼吉尼天(だきにてん)の化身とわかり堂宇を建てたという。堂の中には狐がたくさん見える。
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久喜市に入る・・・栗橋のマンホール発見。八坂神社の大祭「天王様」の大御輿が描かれている。関東三大神輿の一つだそうです。
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県道60号線に合流して栗橋宿に入ってきた。

  (続く)

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2020年9月20日 (日)

やまと尼寺精進日記

奈良の音羽山「観音寺」のお料理上手の尼さん住職(後藤密榮さん)と折り紙上手の副住職(佐佐木慈瞳さん)とお手伝い(まっちゃん)の3人といろいろな野菜果物を差し入れする麓の堂上潤子さんたちが繰り広げる生活模様。
檀家を持たないお寺だそう。お寺の周囲の景色、田園風景、里山の風景が美しい。
境内にはお花をいっぱい咲かせ、200種類もの野菜や山菜や木の実などを世話し、麓のたくさんの友人たちからの差し入れがあり、遠方からもいろいろなものが届く。
これらの品々を全部使いきって、面倒な過程もいとわず、様々な精進料理が作られるのである。
1年を通してお寺の行事や七夕、月見など四季の行事に大勢の子供や大人を招いて、全部山や畑の食材で、手作りのご馳走をふるまう。
都会のお料理とは違うその創作料理には毎回目を奪われる。
前回は3年前の再放送だが、七草とお団子とご馳走のお月見が主題。もう都会では味わえない風情に見とれるばかり。アユ釣りと、そのアユを炭火で焼くのに感動し、ポポーというバナナみたいな果物を初めて見る。食べたいなあ。
こうした周囲の人々との持ちつ持たれつの間柄や自然の恵みを余すことなくいただく料理のレシピ付き本の2冊目が出ているのですね。
都会ではもう自然を相手にすること、周りの人々とのこんな温かな交流は、趣味の会以外はゼロとなって久しくなった。
ただただ羨ましく見るのではなく、その陰にはなんでもそうですが、大変なことも一杯ある事を見逃さないようにしたい。
小さい頃、少しは見た私にはただただ懐かしく拝見することも多いが、多くの子供たちに日本の良さをこの番組から汲み取って欲しい・・と思うのはもう無理な話でしょうか。
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2020年9月14日 (月)

「哲学堂公園」と「散歩かふぇちゃらぽこ」

西武新宿線の新井薬師駅前から北に向かうと辿り着く哲学堂公園は東京都の名勝に指定されている。ここは2度目です。
東洋大学の創立者である井上円了は自らの考えを具現化した空間としての哲学堂を建立したのだそうです。

まず正門の哲理門。右側に天狗、左側に幽霊がいます。それぞれ物質の世界と精神の世界の不思議を表しているとか。
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三学亭 日本的な三道の研究家を称えている。
平田篤胤(神道)、釈凝然(仏教)、林羅山(儒教)。
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四聖堂
東洋哲学の中から中国哲学の孔子とインド哲学の釈迦。西洋哲学の中から古代哲学のソクラテスと近世哲学のカントを奉崇。
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六賢台 東洋の賢人6人が祭られる。
日本の聖徳太子と菅原道真、中国の荘子と朱子、インドの龍樹と迦毘羅。
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ここにまつられた聖賢に接することによって、人々に精神修養を促すことを目的としたのです。

絶対城 かつての読書堂で万物の書物を読み尽くせば対立するものがない絶対の境地に達する。
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これらを合わせて庭内に七十七場が整備され、下っていくと妙正寺川沿いの道に出て、狸燈、主観亭など色々な場があり、さくらの広場や梅林から最後に菖蒲池に誘われる。ミソハギが咲いていた。
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哲学を学ぶ力のない私は学生時代に全然理解できなくて物理化学と並ぶ、成績の悪い科目でした。
哲学をこんな形にして親しみやすく公園にした井上円了という方もなかなかです。
京都には哲学の道があり、ドイツのハイデルベルクにもありました。学生が思索にふける哲学の道、洋の東西を問わないということでしょうか。
園を出てから野球場の反対側にある蓮華寺で井上円了の墓に詣でました。
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バスで中野駅に出て、歩いて青梅街道の東高円寺へ。
東高円寺駅の裏の蚕糸の森公園でサンゴジュの実を見つけた。まさしくサンゴの色です!
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滝が涼しそう。
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駅から5分のところの「散歩かふぇ・ちゃらぽこ」へ。
看板猫の有名なたね君が迎えに出てくれました。そばに来てくつろいでいます。可愛くて可愛くて。別れるのが辛いほどでした。
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毎日出勤しているとは限らないということで本当にラッキーでした。

いただいたのはスープ、サラダ、コーヒー付きのオムライス。これがまたとても美味しいのです。
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2020年9月 9日 (水)

新田次郎著『銀嶺の人』

ちょっと驚いたことが。7月下旬のことです。
F女子会(富士女子会)の一人の方が(この方と私も同姓で最初紛らわしかったのですが)、地方紙に私と同じ市に住み、同姓同名(字も全く同じ)、年齢も同じ人が載っていて、掲載されている写真が違うので違うらしいと分かった・・・と知らせてくださった。昭和記念公園で取材を受けている方であった。住所は駅を挟んで向こう側らしい。
そこまで同じ人がいるかと!
そうしたら6日後にもう一人のF女子会の人から、豊洲の江戸東京写真展に来ているけれど、ここでは記帳する方式で、住所、氏名を記入するのですが、ひとり前の人が私と同じ市で名前も同じだったので、びっくりしてラインに。その時、私はそこに行っていたわけでなく家にいたので、新聞に載っていたあの人と判明。私と同じ名前のこの方、同年齢なのになかなかの行動派であちらこちらに出かけ精力的に学んでいるようです。私はもうすでに今日までずっと引きこもりでしたからね。



新田次郎著『銀嶺の人』

マッターホルン、アイガー、グランドジョラスと、女性で初めてヨーロッパ三大北壁に挑む医師の淑子、片や鎌倉彫の彫刻家の美佐子、仕事を持った二人が岸壁登攀に青春をかけていく。二人の出会いから、三人の男性クライマーに魅入られて、ついに初の女性隊によるマッターホルン北壁登攀に成功。小説の最後が幸せながら明暗が分かれる。
このモデルひょとするとはあの二人か、検索するそうで作者もあとがきに書いている高橋(旧姓今井)通子さんと若山美子さんであった。
岸壁登攀は単なる登山とは大違い。垂直の岸壁を登るその技術をこの本でたっぷりと味わった。それはそれは大変なものだ。一度に登れるわけでないので、その間、何泊も垂直の岸壁にビバークし、食事や水を作り、寝る。そしてまた足場を作って登攀。予想も難しい難技術、事前の淑子さんの医師の仕事が終わって家での鍛錬ぶりには開いた口が塞がらない状態。医師の仕事をしながら長期に休んで外国へ登攀に行く大変さなどがひしひしと伝わってきます。
鎌倉彫の方も実に本職は大変なのですね。
私は家族の転勤でやむなく止めた経緯のある鎌倉彫ですが、彫るだけだから、塗りの行程を知らず、稚拙な彫が塗によって実にきれいになって自分が彫ったとは思えないものになっているのは塗師のこんなテクニックや苦労があったのだと思い知った次第です。そして使っても使ってもその美しい艶はそのまま輝いているのです。

そこでモデルとなった今井通子さんの『私の北壁・マッターホルン』『私の北壁・続』を読んでみました。
小説と違って、マッターホルンの相棒・若山美子さんのことは殆ど具体的に書いてないので小説の方でどんな人なのかわかるというものです。
実際に少人数とはいえ、出発するまでの資金調達、物資調達、送り出し、現地受け取り、それもさることながら実際の北壁2日近くの格闘は凄いもので、こんな大変なことが出来れば地上では何でもできるのではとさえ思ってしまう。また田部井さんのエベレスト登頂記にも書いてあるように人との和、これは相手が男と言えども大変なことなのである。田部井さんの場合は女性15人だったので、副隊長として凄く苦労したことが書かれている。人はどうしてこんな大変なことにあえて挑むのかと再度思った次第。それをも上回る壮大な魅力があるに違いない。

塗師によって化けちゃった私の作品。2度目の掲載でお目汚しですが。
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2020年9月 4日 (金)

甲州街道3 柴崎~布田五ヶ宿~府中宿~矢川(3)

大國魂神社を出て少し行くと、街道の向こう側に亀田屋がある。おみやげに鮎の里(中に求肥とあんこがはいった和菓子)を買ってもらう。岐阜でいただいた「登り鮎」に似ている。
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向かいは高札場。高札はかかっていないが、江戸後期から末期の高札場である。鎌倉街道と甲州街道と川越街道が交差するので札の辻と呼ばれた。武蔵府中の中心として栄えた。この裏手に大國魂神社の御旅所があるとのこと。
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番場宿の説明板の前を通る。府中三宿の真ん中の宿であり、脇本陣があったそうだ。
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アニメ「ちはやふる」のマンホールが!ちはやふるって府中が舞台だそうだ。
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髙安寺に寄る。藤原秀郷の館跡に足利尊氏が鎮護国家の安国寺として再建したもの。
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立派な山門を抜け、仁王門。
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たくさんの水子地蔵、時を告げる鐘を見て、武蔵国府中領の最初の代官となった高林吉利の墓に着く。
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本堂の奥の方には秀郷稲荷大明神がある。
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下に下っていくと弁慶硯の井戸があった。鎌倉入りを許されなかった源義経のため、弁慶が赦免祈願と般若経をしたためたという。こんなところでとは驚く。
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このあと街道に戻っても弁慶坂、弁慶橋の標石を見る。
坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれていたので呼ばれた棒屋の坂を下りると、旧本宿村の名主を勤めた内藤家の冠木門が現れた。この門は府中宿矢島本陣の表門を移築したものだそうだ。
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本宿にやって来た。新宿、番場宿、そして本宿。秋葉大権現常夜燈がある。往古の甲州街道は水田地帯を通っていたが、17世紀に出来た現街道は台地であるため、火事が頻繁に起こり、寛政(1792)年火伏せのための秋葉大権現を祀ったのだそうだ。
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5月のGWに本宿の熊野神社とその隣の古墳を訪れた。その時甲州街道を歩くとやがてここを通るのだなあと思ったのだが、こんなに早く来るとは思わなかった。
またもや熊野神社と国内最大・最古の上円下方墳です。
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今度も古墳の石室は見られなかったが、資料館は開いていたので古墳内の説明や装飾品を見る。
7世紀後半(飛鳥時代)の鞘尻金具は七曜紋で鉄地銀象嵌なのである。
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府中と別れ、国立市・谷保へ。
獅子宿があったらしく、説明板に寄れば、天暦元(947)年、村上天皇より獅子三基が下賜され、谷保天満宮に獅子舞が奉納された。地名はこの獅子舞に由来。

そして藥医門の旧家。本田家は下谷保村の名主で幕府の馬医者を勤めていたとのことで、馬に乗ったままくぐれる門なので門の高さが普通より高い。
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その先の秋葉山常夜燈・文久3(1863)年建立を通り過ぎ、関屋かなどこ跡の説明板を見る。関家は鋳物三家のひとつであった。

谷保天満宮に着いた。突き当りの階段を下りていく。
湯島天神、亀戸天神と並び関東三天神のひとつ。菅原道真が大宰府に流罪になると、三男の道武はこの地に配流された。道真の死後、父の像を彫り、これを祀ったのが天満宮の始まりだが、像が出来が良くないところから「野暮天(谷保)」の語源となった。全然知りませんでした。
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鶏が威嚇してくる。熱田神宮や奈良・天理市の石神神社で見たのよりは気性が荒々しい。
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拝殿。牛はつるつる、狛犬には苔が。
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本殿。
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常盤の清水。
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サルノコシカケ、色々な色がまざりあっていた。ヒイロタケ、カイガラタケ(ハカワラタケ)とのことです。shikamasonjinさま、ありがとうございました。
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南養寺。小堀遠州流の枯山水庭園が素敵な、臨済宗建長寺派のお寺。
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庚申塔などに赤い帽子が被せられている。
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梵鐘は安永6(1777)年関家(関家かなどこ跡を通った)が鋳造したもの。
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庭園。
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参道入り口にある古い常夜や、千手観音供養を見てJR矢川駅へ。立川で中央線に乗り継ぎ6時ごろ帰宅。39495歩。
あれから約2ヶ月も出掛けていなくて、歩きらしい歩きなしで脚力が衰えたのではないかが心配です。
(完)

 

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