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2020年10月31日 (土)

日光街道8 間々田宿~小山宿(2)

間々田~小山

千駄塚古墳(円墳)へ。古墳の上に浅間神社があるが東日本大震災の被害を受けてブルーシートで覆われていた。
直径7ⅿ、高さ10ⅿの6世紀のものと言われる古墳。
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娘が買った「若盛」の西堀酒造の長屋門。国登録有形文化財に指定されている。
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その先に一の鳥居から200ⅿ入ったところに安房神社がある。年1回「岩戸開き」の神楽が奉納される。
平安時代の延喜式に記されている古い神社で、創建は崇神年代(紀元前97-30)という。
平安時代末期、平将門と戦った藤原秀郷が戦勝祈願したと云われており、小山氏や古河公方の信仰が篤く、足利政氏、小山高朝らの古文書を所蔵しているそうだ。
市の天然記念物であるモミ群落の自然林の中に社殿がある。
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神楽殿。
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水神社。
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両部鳥居。
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街道に戻って、青信号で渡っていると、突然右前方から右折してきた男性高齢者運転の車が突っ込んできてぶつかりそうになった。車は急停車しこちらは飛びのいたが、娘が足を痛めて引きずって歩かねばならなくなった。まあ、命に別条がなくてほっとした。まさかわが身に及ぶとは。これは初めての経験だけれども青信号の横断歩道も油断ならないものだ。轢かれないでお陰様で今日も生きています!


●小山宿(12番目)本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒。

小山市では日本の行く末を決定づけた2つの出来事が起きている。
①鎌倉幕府誕生の礎となる野木宮の合戦。
②小山評定

石鳥居(1803年)の建つ天満宮のこのあたりが小山宿の江戸口である。寺社をたくさん巡る。江戸以前の随分古いのが存在しているから驚く。外国(欧州)に行っても教会が多いことに驚くが、日本もどこに行っても寺社が多くて、本日も寺社巡りの街道歩きでした。
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裏の小さな公園で痛んだ足の手当をし、午前中蛸屋で買ったたこ壺もなかを食べる。
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持宝寺。
宝亀3年(772)、弓削道鏡の開基。享保13年(1728)八代将軍徳川吉宗が、日光社参の際、休息所としたお寺である。歴代将軍が休憩した小山御殿が取り壊されていたからである。
山門は鐘楼門。この日は鐘楼門が多かった。
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若松脇本陣跡。唐破風の玄関が残っている。
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須賀神社。
天慶3年(940)、将門の乱を平定した藤原秀郷公が京都の八坂神社を勧請した。
石田三成との決戦を決意した家康はここで戦勝を祈願した。その後。家康から51余石の社領を寄進された。
木曽檜造りの随神門の向こうに拝殿が見える。向拝が唐破風になっている。
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右が小山朝政之碑、左が小山義政之碑。
小山朝政初代小山城主政光の子で、頼朝の信頼厚い有力御家人だった人物、
義政は朝政の孫で、足利氏満の制止を無視して宇都宮基綱と合戦し、最終的に追い詰められて自害(1382年)した人物。
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妙建寺。
日蓮宗六老僧の一人の日頂聖人の弟子・日念が1334年に開いた。本堂の格天井には百人一首が描かれているとのこと。
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宮本愛宕神社
1379年小山義政が山城国愛宕郡から勧請した。その時植えられたケヤキは24ⅿもあって立派だ。
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市役所前にあるのが小山評定跡碑。
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小山御殿広場。
小山御殿は徳川将軍家が日光社参の際の休憩・宿泊所として作られた。この南が実際に小山評定が開かれた地と言われている。
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城山公園。
思川をのぞむ高台にある公園で、祇園城(城守りの神として祇園社をまつったことからこの名が付いた)の跡地である。
小山氏の本拠地で、小山氏が追放された(1576年滅亡)あとに北条氏照により拡張されたものの、北条氏滅亡後は、江戸幕府の重臣本多正純が城主となった。しかし正純も宇都宮に転封となり、廃城となっている。
思川。
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二の丸跡。堀や曲輪跡も残っていた。
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天翁院。小山氏の菩提寺で墓もある。
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興法寺。小山氏代々の祈願所。
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色々な石塔が勢ぞろい!
左から、大乗妙典千部供養塔、二十三夜塔、弘化4年(1847)の馬頭観音、寛政9年(1797)の十九夜塔、寛延元年(1748)の庚申塔、享保10年(1725)の一面六臂の青面金剛の庚申塔、庚申塔(三猿あり)。
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愛宕神社へ。
貞応2年(1223)小山城主小山朝政が門守護の鎮守として山城国(京都)の愛宕の神を勧請した。狛犬は天明5年(1785)のもので市内最古とのこと
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最後に寄ったお寺は光照寺。
境内には慶応4年(1868)、戊辰戦争の小山での戦いで戦死した笠間藩士海老原清右衛門の墓や、一遍上人の像があった。
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旧八百忠の商家と石蔵を利用した、小山市まちの駅思季彩館。
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4時半すぎの東北本線に乗り、浦和、南浦和、西国分寺で乗り換え、国分寺着は6時20分過ぎ。地元の居酒屋さんで打ち上げでした。35926歩。

 (完)

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2020年10月27日 (火)

日光街道8 間々田宿~小山宿(1)

10/7(水)前回の帰りのルートで間々田に8時42分到着。曇り。

●間々田宿(11番目)日光街道の真ん中の宿。本陣・脇本陣各1軒、旅籠50軒。

まず小山市博物館へ。東京だけでなく殆どの地域で写真を撮ることは禁じられている。
入口の竜頭蛇体のジャガマイタが練り歩くというお祭りの蛇体の模型があった。
小山の旧石器時代から近現代までの歴史を多方面から実物や模型や複製品で紹介していた。乙女河岸の模型が目を惹き、その繁盛ぶりがわかる。
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その隣に乙女かわらの里公園がある。奈良時代、日本三戒壇の1つであった下野薬師寺に瓦を供給した瓦窯跡。日本三戒壇は筑紫の観世音寺、奈良東大寺と、ここ下野薬師寺に設置された僧侶の資格を授ける寺の事。(「英雄たちの選択」で最初に授けた鑑真をやっていた)。下野薬師寺はこの先の自治医大駅の方にある。
粘土採掘坑跡(粘土を採った跡でもあり、一時的に溜めておいた場所)。
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4基の平窯跡。隣あう2基一対で操業され、次々と瓦の焼成が行われるようになっていた。工房跡も同じように再現されていた。
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まだまだ彼岸花が咲いていて木の間から思川の土手が見える。
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公園の向かいにある泉龍寺乙女不動尊は、赤い山門(鐘楼門1720年建立)がある、庭中、秋の花で彩られた花の寺である。秋の花ってこんなにあったのだっけと思わせる庭だ。不動堂と本堂がある。
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門の左手門に不動明王の大きな剣がある(不動堂にも剣が飾られているそう)。そういえば不動明王は、普通は利剣と羂索を持っている。
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疫病に悩む庶民の苦しみを救うため、本尊に祈ったところ、この地に清らかな泉が湧き出でて、病がたちどころに平癒したところから泉龍寺と言うようになったという。延命の泉。
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庭。
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小山市立車屋美術館(体温測定・今日は35度、この間よりはまし)
小川家住宅の米蔵を、美術館として改装し、主屋(おもや)・庭園なども一般公開し、2009年(平成21年)4月に開館。国登録有形文化財。
思川の河川舟運を利用して肥料問屋を営んでおり、明治の終わり頃、物資の輸送が水路から陸路になったことに伴い、乙女河岸からこの場所へと移転した。
近代和風建築の木造二階建てだが、階に上がると洋風な装飾の洋室があって1階とはまた違った趣だった。肥料問屋とはいいながら立派でチラシには写真が載っているがここに出す余裕がないのがいつも残念だ。
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日本橋と日光の中間地点。榎の大木があるので「間の榎」世呼ばれていたのが「逢いの榎」と呼ばれ、縁結びの木として信仰されるようになったという。台風で倒れて現在は2代目で小さい。
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斜め向かいが龍昌寺。奥に本堂、左には屋根だけ寝起不動堂が見える。
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徳川家光が亡くなり、遺骨を日光へ運ぶ途中、このお寺に骸の安置所が設けられたとのことで、大猷院殿贈正一位大相國公尊儀霊棺御一泊之碑と徳川家光公御尊骸一夜宿棺の碑があった。徳川家の威光が伝わる場所だ。
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  不動堂(延享2年(1745)建立)に寝起不動尊がある。
不動明王を運んでいた衰弱した模庵和尚がここで寝込むが、枕元に現れた不動明王の力で元気になり床払い出来たところから「寝起不動尊」と呼ばれた。
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宝暦2年(1752)の木堂不動尊と嘉永5年(1852)の十九夜塔。向こうに刈り込んだキンモクセイが見えるが、10/7は小山までどこにいってもキンモクセイが香ってきた。東京より少し遅い。
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間々田ひも(甲冑や刀の下げ紐として用いられた)のお店を通り過ぎた。その先に問屋場跡、本陣跡の説明板があった。
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間々田八幡宮に寄る。間々田八幡宮は天平年間(729-49)の創建。ジャガマイタ祭りが行われるところ。
拝殿。本殿と同様、享和年間に焼失。嘉永四年(1851年)に再建された。日光東照宮の改修を手がけた職人達による見事な彫刻が見られる。
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この辺りの狛犬はこんな感じでとても可愛い!
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弁天池もありご神木も夫婦岩も立派。
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参道を下って行く途中で、いくつか石造物がありこれは文政9年の出羽三山供養塔。出羽三山とは月山、羽黒山、湯殿山で、江戸後期各地で供養塔が造られたという。
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池のほとりに芭蕉句碑もあった。
「古池や 蛙飛こむ 水の音」。芭蕉は旅の二日目に間々田宿に宿泊していはいるが?小布施にもあったしこの道中にももう一つあった。
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広い境内には、ロケもあったという土俵や力石や頼朝手植えの松三代目など揃っていてとても立派な八幡宮だ。

間々田八幡公園。
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浄光院。鐘楼門の山門が立派だ。初出の泉龍寺にそっくりだ。
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出るとそこは日光街道で間々田宿の日光口だ。

昼食は和食屋が定休日でラーメン店で、味玉醤油ラーメンを食した。あちこちの街道歩きで初めてのラーメンでした。
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(続く)

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2020年10月21日 (水)

中東の安泰の王国と国なき民族

一畳しかない山野草コーナーは今年はホトトギスが占領。
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遠藤晴男著『オマーン見聞録~知られざる日本との文化交流~』

アフリカのモロッコ、中東のサウジアラビア、オマーン、バーレーン、ヨルダンなどの王国は政情が安定している。
同じ立憲君主国の首長国のカタール、クェート、アラブ首長国連邦などもそうである。
ところが共和国のイラク、シリア、レバノン、アフガニスタン、パキスタンなどは内戦の連続の所も多く悲惨である。

オマーンですが、国土は日本の四分の三。国土の約3%が平野、約15%が山岳部、残り約82%が不毛の砂漠だ。
山岳地帯は海から殆どが1800ⅿもそそり立ち、高いのが標高3760ⅿで北欧のフィヨルドそのもので「アラビアのノルウェー」と呼ばれているそうだ。
人の住む首都マスカット地方は、4~10月まで夏期で、暑い時期は最高気温45度前後、最低気温30度。11月から下がり始め、12月から2月は最高27度、最低14度で日本の秋のような気候が続き、「半分天国、半分地獄」と言われているという。

この国も部族や宗教の争いなど紆余曲折を経て、1940年生まれの現カブース国王が、父王の保守的専制的統治に対してクーデターを起こして国を統治し、あのブータンのように国民が幸せと呼ぶ国にまで発展させたそうだ。
カブース国王が即位した1970年には学校が3校、病院も小さいのが一つ、舗装道路は10㎞のみであったっという。それが今(2007年)には学校が1260校、舗装道路は2万㎞を超え、病院も整備された。GDP(国内総生産)も一人当たり16000ドルに達した。
国王は毎年国内を巡幸される。国民の大歓迎を受けるそうだ。
1967年以来石油が生産され石油依存型経済に転換した。親日国で文化交流、スポーツも盛んということだ。日本庭園も出来ているとか。
他の王国がどのような政治を行っているかを全然知らないけれど、王国は安定しているということ。特に今のオマーンの国王は素晴らしい。もう80歳になられるのかな。結婚されていないので、今後この国はどうなるのかはわからないが。
後日NHKの『海のシルクロード』でオマーンの一部を見る事が出来ました。

 


福島利之著『クルド人 国なき民族の年代記』

世界唯一の国を持たないクルド人が主に住むのは、トルコ南東部からシリア北部、イラク北部、イラン北西部にまたがる国境が複雑に交わる山岳地帯。「クルディスタンと呼ばれる。広さは52万平方キロでフランス国土に匹敵する。推定人口は3000万人。中東ではアラブ人、トルコ人、ペルシャ人に次ぐ。少数民族ではない。
固有の風習や文化、歴史、独自の言語を持ち、民族とされるだけの要件を十分満たす。

なぜクルド人が国を持てなかったのか?
第1次世界大戦中に西欧列強がオスマン帝国を分割するために引いた国境線による。その国境線は、連合国の英国、フランスにロシアを交えて1916年に秘密裏に結ばれた「サイクス・ピコ協定」を基ににしている。英国とフランスは、イラクやシリア、ヨルダンなどの国を誕生させて支配圏域を決める一方、クルド民族を存在しないとして扱った。国境線は、クルド人の居住地域であるクルディスタンの真ん中を割くように引かれた。
クルド人の存在が無視されたのは、20世紀初頭に「民族」を基本とする国家が続々と誕生した際、「民族自決」の波に乗り遅れたから。その原因はいくつかある。
山岳地帯に、谷ごとに分かれて暮らしてきたクルド人の社会には、近代になっても部族意識が強く残り、「クルド民族」としてのまとまりに欠けていた。
クルド語の標準語を確立できていないことも。
この苦境を脱するため、クルド人の部落や政党は、欧米の大国や隣国の地域大国にすり寄っては裏切られることを繰り返してきた。国際社会に真の友はいない。「山の他に 友はなし」ということわざが残る。
すさまじいイラクの弾圧、トルコとの小競り合いなど今までたくさんのクルド紛争を耳にしてきたけれど、よくわからなかったことがちょっと、最初の部分の解説で呑み込めた1冊だ。
国がない民と言われたユダヤ人はイスラエルを強引に建国したがこれがまた世界の火種になっている。

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2020年10月18日 (日)

日光街道7 古河宿~野木宿~間々田宿(3)

◆野木~間々田

田畑の合間に栗畑もある。今年は家の近所でもそうだが、虫にやられないで立派な栗が多い。娘は酒屋さんでお酒を買って栗をたくさんもらっていた。
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塚の上にある愛宕神社。村境にあって悪霊の侵入を防ぐという塞の神と火伏せの神を併せ持っている。
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愛宕大権現
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神社のすぐ北側に観音堂のところに廿三夜塔(文政2年(1819))があった。初めてだ。
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友沼八幡神社。
源頼義が鎮守府将軍に任命され、その子八幡太郎義家を伴い阿部頼時、貞任父子討伐のとき、八幡神社を勧請したといわれる。
江戸時代、将軍が江戸を出発し、二泊目になる古河城を朝出て、最初に小休止をした場所である。
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神社の斜め前にあるお寺が法音寺で友沼八幡神社はこの寺の支配下にあった。1395年の創建の古刹。
仁王門には金属製の立派な金剛力士像があった。
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安永9年(1780)建立の芭蕉句碑がある。「野ざらし紀行」で詠んだ「道ばたの むくげは馬に 喰はれけり」。芭蕉は間々田宿に宿泊したそうだ。
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本堂。
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庚申塔・十九夜塔・大黒天供養塔・光明真言供養塔などの石造物。(光明真言は大日如来に導きを願う言葉だそうです)
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 幹の下が空洞になってしまったタラヨウの木。葉に字を書くことが出来る。
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ここでおやつタイム。さっきは暑くてアイスクリームを食べたけれども、今度はエネルギー補給。古河で買った古河八萬石最中。古河藩は8万石だったのか。
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小山市に入る。
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乙女の一里塚(18里目)。ケヤキの根元に鳥居があって、石の祠が祀られている。
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すぐ先に若宮八幡宮。
神仏習合の名残で神社に大日如来座像(1709年鋳造)がある。江戸湯島の渡戸久兵衛が父母の供養のため故郷に建立した。
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屋根付きの明治22年(1889)の如意輪観音が刻まれた十九夜塔。他だったら四角い建物の中にお地蔵様なのに、小山近辺は十九夜塔が地蔵尊の代わりの様相だ。
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真っ赤な彼岸花の中に縁の白いのが一輪混じって咲いていた。
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小山市のマンホールは馬が3頭。この市にはたくさん馬がいるのか? 市の説明によると、
からんだつる草に足をとられることなく、 奔走する馬に未来に向かって意欲を燃やす若者を重ねた。 3頭の馬の勢いよく振りあげた尻尾で囲んだ円は、生命の源・太陽を形取り、動物、植物ともに共存できる都市環境を象徴しているのだそうだ。ふーん、小山市の理念がマンホールまで現れてなかなかである。
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彼岸花が咲いている佛光寺。ニ代将軍徳川秀忠から十石の寺領を賜ったという。
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お寺の向かいに鳥居があるのが乙女八幡宮。
この鳥居は元禄16年(1703)の石造の鳥居。島木を持つ明神鳥居形式。
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拝殿。狛犬は文化10年(1813)のもので200年以上もたっている。
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最後に思川に設けられた河岸(船着場)の一つ、乙女河岸跡に向かう。
乙女河岸は慶長5年(1600)、家康が会津上杉討伐から石田三成討伐へと一転させた天下分け目の軍議 「小山評定」 が行われた場所。この会津討伐に際して、軍勢や武器・兵糧の陸揚げ地になっており、また軍議後一転して上方へ向かうため、諸将を従えた家康が船で江戸へ向かった地でもある。そして、日光東照宮造営の際には、御用船で運ばれた資材はここで陸揚げされたそうである。

田んぼの左前方が思川の土手。
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彼岸花が満開。
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思川。向こうの山はなんでしょう?
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土手。
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この石柱は、黒田長政が東照宮に寄進した鳥居の一部との伝えられているそうで、昭和54年頃、河川改修の際に引き上げられもの。
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ここでこの日の街道歩きは終了、間々田駅に向かう。

東北本線・間々田駅5時9分~大宮~武蔵浦和~西国分寺で乗り換え国分寺着は6時42分着。

今日はお魚がおいしい居酒屋さんで打ち上げ!43213歩でした。
 (完)

殆ど忘れるのですが今年は思い出しました。15年前の今日、ブログを恐る恐る始めました。読んでいただいた方々には感謝申し上げます。今日から16年目のスタートを切ります。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

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2020年10月14日 (水)

日光街道7 古河宿~野木宿~間々田宿(2)

●古河宿(8番目の宿)の続き。この後は十九夜塔が路や寺社にたくさん出てくる。

立派な旧家。
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日光道中古河宿道標。街道の枡形にあたる角の常夜燈を兼ねた文久元年(1861)の道標。「左 日光道」「右 江戸道」と彫られたのがしっかり見える。
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ご本尊が不動明王である神宮寺に寄る。その後よこまち柳通りに古河宿は続く。
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まもなく登録有形文化財の武蔵屋本店(鰻屋)に到着。
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今年初めての鰻。ミニうな重が丁度良く、美味しかった。
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武蔵屋さんの斜め前にあるのが提灯竿もみ祭り発祥の地碑。
江戸時代の古河藩領であった栃木県野木町の野木神社に伝えられる神事 「七郷めぐり」 に付随した行事に由来しているという祭りで、長い竹竿の先に提灯をつけ、大勢でもみ合いながら提灯の火を消し合うものだという。

ふと思い出した・・ドイツ旅行で一緒になった50代の男性が日本中のお祭りを追いかけてかなり見たと言っていたが、これも見たのであろうか。東海道にも知らないお祭りがあった。あれから7年、もうあらかた見尽くしたかしらと思う。世界の方の祭りもあの時はミュンヘンのオクトーバーフェストを楽しみに行ったのだと思われる。一つのことにかける情熱の凄さ、万難を排して収入を得る仕事と祭りを両立させていることに感動というよりその強さに驚いたものだ。
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土井利勝が古河城の鬼門除けとした徳星寺の入り口も十九夜塔がずらり。
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創業160年の小澤糀店と荒物店。
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蔵造りの家屋も立派だ。
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本成寺を先に見学。赤い山門だ。奥のお堂も赤い。
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古河藩主5代土井利益の生母、法清院殿(22歳でなくなっている)の墓がある。立派なお墓だ。・・・今年は墓マイラーではないが随分たくさんの墓を見たものだ。過去最高!・・・
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正麟寺の本堂。
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鷹見泉石のお墓がここにある。
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ほどなく、古河宿を出る。こちらにも行灯のモニュメントがあった。古河宿は本当に見所が多かった。
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◆古河~野木

塩滑地蔵菩薩。病気や怪我をした庶民が、塩を体の具合が悪い部分に塗ると回復する。ご利益を授かった人はお礼に塩を奉納する。甲州街道でも2度ほど見かけた。
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栃木県野木町に入る。

野木神社はかなり遠いが行ってみる。仁徳天皇時代(313-99)に建立され、坂上田村麻呂が延暦21年(802)に参詣し勝どきを上げたといわれる。坂上田村麻呂といえば鈴鹿峠を下ったところ田村神社があった。
拝殿。
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野生のフクロウが棲んでいるそうで、5~6月には雛も見られるとのこと。夜行性なので見られなかった。野木町の鳥だそうだ。
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御神木の公孫樹のなんと大きいこと!坂上田村麻呂が蝦夷討伐に成功した凱旋の途中、野木神社に奉埴したといわれる。
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街道に戻り、ほどなく国道4号に合流すると筑波山が見える。
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●野木宿(10番目)本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場4か所、旅籠25軒。

野木宿に入ってきた。案内板が残るだけである。
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街道には人はいない。ノーマスクで歩けた。
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野木町のマンホール。町の花ひまわりのデザイン。
別のデザインのマンホール。ひまわり+町の木のエンジュが描かれている。いずれも町の鳥・フクロウは描かれていない。
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満願寺。門前には元治元年(1864)の十九夜塔があり、この辺りこそ十九夜塔だらけだ。弘法大師御影堂の中の小さな弘法大師を覗き見できた。
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野木宿道標。「是より大平山道」 と刻まれている。思川の渡しを越えて、日光例幣使道の栃木宿太平山神社に至る道だ。
一般的に道標は道案内だけでなく、村への悪疫侵入を防ぐ道祖神的な信仰も込められていた
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そのすぐ先に観音堂がある。嘉永3年(1850)の十九夜塔。
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文化12年(1815)の普門品供養塔・宝篋印塔・馬頭観音などお馴染みの石造群を見る。この辺りで野木宿も終わりか。
普門品 とは お経のことで 念仏供養塔。宝篋印塔は墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。
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  (続く)




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2020年10月 9日 (金)

日光街道7 古河宿~野木宿~間々田宿(1)

  9/30(水)に2週間ぶりに古河へ向かう。駅到着は8:43で見所一杯の古河宿を時間をたくさんとってじっくり見て回り、野木宿を見、間々田宿の入り口に辿り着いた。

●古河宿(8番目の宿)本陣・脇本陣各1軒、旅籠31軒。古河藩が管理していたのが古河三宿(中田・古河・野木)である。因みに野木は栃木県。

古河宿は東西南北?に碁盤の面のように広い道路が走り、舗装も洒落ているし、歩道も煉瓦が敷かれたところが多く、通りに面した家々のきれいで立派なこと。
この後にじっくり見た「古河歴史博物館」で歴史を見てちょっと納得できた。

まず鎌倉幕府が倒れ、足利尊氏は京都室町に幕府を開いたので、今まで幕府のあった鎌倉には「鎌倉府」を置いた。それを鎌倉公方(関東公方とも)という。(1336年)
1454年の享徳の乱で山内上杉憲忠を暗殺した足利成氏(尊氏の血脈)は1455年に鎌倉を出て古河にはいり、ここを根拠としたので子孫5代(1583年)まで古河公方と呼ばれる。ここで足利の古河公方は自然消滅する。
成氏の移座により、古河は第二の鎌倉・新たな東国の都となった。鎌倉から多くの奉公衆やその他の家臣、僧侶・文化人が移住してきた。経済・医療・技術・宗教・文化面でも東国の最先端地に成長した。この後いくつか回る寺社で足利氏が持ち込んだ文化を知る手がかりになるとのことだ。

その後徳川家康の家臣小笠原から始まって、松平、小笠原、奥平、永井の藩主の後、1633年に土井利勝が(家康、秀忠、光秀に仕え、幕府の老中・大老となる)古河藩主となった。1681年まで5代の土井家。その後堀田、松平を経て、1762年、土井利里から7代続いて廃藩置県まで108年10ヶ月、古河藩を治めた。

前回の最後の地点の原町口木戸跡から宿場の見学を始めるのだが、途中の八幡神社に参拝。初代古河公方足利成氏が鶴岡八幡宮を勧請、寛永19年(1642)に藩主土井利勝が古河城の鬼門よけとしてこの地に移したものという。
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古河宿の江戸からの入り口・原町口木戸跡。前回の最後にも載せた写真です。
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宿のあちらこちらに、ソーラーシステムの付いた行灯に説明が書かれいるのにも驚く。
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古河城御茶屋口門跡。
古河藩主土井利勝が第三代将軍徳川家光の参詣の際、茶屋を置いたことに始まると云われ、日光社参の際、徳川将軍家はここから古河城に入城したそうである。
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ここから街道を離れ、鷹見泉石記念館へ。泉石最晩年の住まい。
チラシより渡辺崋山「鷹見泉石像」。この絵はトーハクにあり、国宝。古河藩の家老で優秀な家臣であった人とは知らなかった。
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鷹見泉石は藩主土井利位の家老として仕えた。利位が大阪城代であった折り、大塩平八郎の乱で鎮圧にあたった。優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集をした人物。雪の研究で有名な利位の『雪華図説』の刊行をたすけ、晩年、自らも日本初の『新訳和蘭国全図』を出版している。大黒屋光太夫と関係し、間宮林蔵、近藤重蔵、渡辺崋山や蘭学者とも交流があった。
立派な長屋門。
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屋根は藁葺きで趣のある家だ。
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竹林と彼岸花
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隣に奥原晴湖(明治時代を代表する女流画家)の画室「繍水草堂」があった。
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ぐるっと回って裏手の長谷観音へ。
大和、鎌倉、古河の本尊は同じクスノキから作られたと言われる日本三大長谷観音の一つ。足利成氏公により、明応2年(1493)に古河城の鬼門除けとして建立された。
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ご本尊は十一面観世音菩薩です。
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戻って泉石記念館の前にある古河歴史博物館に寄る。ここは旧古河城出城跡で、堀が復興されている。
ここで、古河公方や藩主のこと、泉石関係のこと、河鍋暁斎の出身地であることを知った。古河宿のジオラマや例の船橋の模型も見た。また土井利位の雪華図説を知っていたが、ここの城主だったわけです。
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鷹見泉石生誕之地の碑
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お休み処坂長。江戸時代から続く商家の建物を喫茶や食事処に活用している国の登録有形文化財である。
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福法寺の山門は、旧古河城二の丸御殿の入口にあった乾門(いぬいもん)を移築したものだ。
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ここで街道に戻ってから駅近くの西光寺に寄る。古河大仏と呼ばれる阿弥陀如来坐像がある。昭和54年に再建した2代目とのことである。初代は第二次世界大戦時に供出されてなくなった。
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街道に戻り、高札場や本陣跡の辺りを歩いてからまた寄り道。
篆刻美術館。旧平野家表蔵棟・裏蔵棟である。酒類卸売業を営んできた平野家の石蔵として大谷石を用いて大正9年に建てられたもの。
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すぐ近くに永井路子旧宅がある。
本人への聞き取り調査をもとに修復を行い、住居の一部を再現している。永井路子が子どもの頃住んでいた家である。古河市と鎌倉市の名誉市民。
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少し先に正定寺がある。古河城主土井利勝が寛永10年(1633)創建したお寺。
この赤門は安永4年(1775)、8代目の土井利里が建立した。
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利勝公像。
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永井寺。
寛永3年(1626)、土井利勝の前の藩主、永井直勝が創建したお寺。永井直勝は小牧・長久手の戦いで豊臣方の池田恒興を討ち取った武将である。
境内には如意輪観音がのる十九夜供養塔がある。
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雀神社。貞観年間(859~877)に出雲大社から勧請したという。現在の社殿は古河城主・松平康長が1605年に造営した。名前の由来は地名の雀が原の由。
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(続く)

 

 

 

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2020年10月 5日 (月)

初めての薄黄木犀(ウスギモクセイ)

お彼岸の9/22にお鷹の道を歩いて
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武蔵国分寺公園に正門から入ると、初めての花に出会いました。
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ウスギモクセイ(薄黄木犀)が満開です。モクセイ科。雌雄異株の常緑低木。24年も住んでいるのに気が付かなかったなんて!雌雄どちらなのか、雌花とすると春になるとダークブルーの実がなるという。キンモクセイと同じ香りです。
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キンモクセイ(金木犀)は遅れる事1週間半、家のも10/3に満開になりました。今年は遅い。
ギンモクセイ(銀木製)も以前見たが、最近は淋しくも見かけない。
ヒイラギモクセイはヒイラギとギンモクセイの雑種で、ギンモクセイよりさらに葉のギザギザが大きい。 花の形状は全部同じです。ヒイラギだけは花の形が違う。

 

9/27の昭和記念公園ではダリアがきれいでした。
その他、コスモスや柿、蕎麦の花、ヒャクニチソウ、コブシの実、ユウガオの実、ナンバンギセルなど秋をたっぷり味わえました。
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蕎麦
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百日草
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コブシの実
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ユウガオの実
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ナンバンギセル
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