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2021年3月31日 (水)

甲州街道6 関野宿~上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~下鳥沢宿(1)

3/25(木)緊急事態宣言解除になっていたので、街道歩きを再開しました。まだ中山道は遠くて無理そうで、近い甲州街道へ。この日は曇りでした。
6時39分に乗り、藤野駅に7時20分着で7時半から歩き始める。この日は桜や桃が満開で特に談合坂辺りはまさに桃源郷のようでした。
この6つの宿の区間はJR中央本線の藤野・上野原・四方津・梁川・鳥沢駅の間になります。

前回の最後に撮影した緑のラブレターのそばは桜が満開。
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歩き始めるとすぐイノシシが出るという看板が。
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関野宿(10番目の宿)
 相模国の西端の宿で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒。明治から昭和の3度の火災で何も残っていない。関野本陣跡の説明板のみ。
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増珠寺。参道口に関野宿講中と刻まれた庚申塔(左 1781年)と追手風喜太郎が建立した「安昌久全信士」碑(1829年)がある。
追手風喜太郎は、大関になり、引退後も相撲界の発展に寄与したお相撲さんだそうだ。
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階段を上がっていくと本堂があり、お地蔵さんがたくさんいたが、一つの石に横並びに六地蔵が彫られているのが珍しい。
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このあたりには新しい標柱がいくつか立っていてこれは「甲州古道坂の上」。後方のウルトラマンが大きなマスクをしていた。
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こんな道を上野原宿に向かって行く。アップダウンが激しくなってきた。
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相模川が緑色だ。
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ミミガタテンナンショウ
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境沢橋が相模国と甲斐国の国境(神奈川県と山梨県の県境)で境沢橋を渡ってからUターンして上野原市に進むのだったが・・
間違えて直進して境川橋を渡ったため、桂川を見る事が出来た。山中湖から流れ出てきた桂川は反対側で相模川となる。
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諏訪関(番所)跡。武田家が設置した「甲斐二十四関」のひとつで、明治2年廃止。その後渋沢栄一の別荘になったが移転。
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慈眼寺。ここには愚痴聞地蔵尊がある。大きな耳に手を当てて一所懸命聞いてくださっている。思いっきり愚痴る。
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続いてのお寺は船守寺。船守り弥三郎の碑がある。
この地の出身である弥三郎は伊東で漁師になり、日蓮聖人を「まな板岩の流罪」から救い出した。1955年、伊東市蓮慶寺から弥三郎の遺骨を分骨し、ここに祀った。
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諏訪神社。「稲妻に悟らぬ人のとふとさよ」と、甲州街道にも芭蕉句碑があるのでした。
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旧甲州街道碑。
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ここで上野原のマンホール発見。桂川の鮎と市の木である山もみじがデザインされている。鮎釣りが盛んのようだ。
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疱瘡神社到着。
万治4年(1661)創建。水疱瘡や皮膚病に御利益のある神社だ。他の街道でも見かけた疱瘡神社。
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神社の裏手には塚場の一里塚が。今はないが塚木はモミの木だったそうで、江戸から18里目。
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●上野原宿(11番目の宿) 本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、旅籠20軒。ここも明治と昭和の大火で宿並は焼失してしまった。
四方崖高く、この崖の上の曠野であるところから「上の原」の地名になった。
上野原の名物は酒まんじゅうとのことで、高嶋屋酒饅頭店にておやつとおみやげに買い求めた。
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上野原宿本陣は門のみ残る。明治天皇の行在所となった。
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山でのイメージのウグイスカグラが通り道にたくさんの花をつけて咲いていた。
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文政10年(1827)建立の六十六部達成の記念碑、大乗妙典廻国供養塔。法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。 室町時代に始まるという。 (仏像を入れた厨子を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者のことも言う)。
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木食白道上人加持水井碑。文政10年(1827)建立の井戸跡碑である。原集落に井戸がなく、不自由だったのを上人が加持を行い井戸を掘り当てた。
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鶴川宿へ向かう。
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鶴川を鶴川橋で渡ると向こうは鶴川宿である。
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(続く)

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2021年3月28日 (日)

吉田智彦著『信念』東浦奈良男~一万日連続登山への挑戦

近所に咲いていたタイワンドウダンツツジ。普通のドウダンツツジとちょっと花の形が違うような気がします。葉も大きい。
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リキュウバイ。国立劇場で見て以来です。
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吉田智彦著『信念』東浦奈良男~一万日連続登山への挑戦

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東浦奈良男さん、知りませんでした。
1925年1月9日生まれで86歳で2011年12月6日に亡くなった方です。伊勢在住だった方。

1984年に60歳を前にして定年退職をし、翌日10月26日からずっと毎日欠かさず2011年6月25日まで9738日間、山に登り続けました。
退職以前に登った山の数は2194回で通算11932回です。生涯で富士山に登った回数は368回。最後は2008年の83歳です。
若き頃は休みの度にアルプスなど登り、子供を小さいときから登山させ(辛かったけれども子供たちは後に体が丈夫で辛抱強くなったと感謝)ていたが、奥さんはどこにも行かず、工場で働いていたので自分ばかりお金を使って登山は申し訳ないとやめたとか。お酒も煙草もたしなまず定年まで一心に働いた。その翌日からずっと欠かさず9738日登山を続けた・・その信念・・いかなる理由でと著者は時に一緒に登り、続けていた登山日記を借りることが出来、探ろうとする。山が好き、富士山が好きが答えか?
富士山登山は、近くの登山を終えて夜行に乗り、富士山登山後帰宅、翌日また近くの山に登る。一日も休まないわけ。
夏になると富士山に登る体力作りのための登山でもあったわけですが、何故一日も休まず登れたのか。病気などしなかったのか?
これが何回かピンチがあったのです。奥さんは80歳近くから具合が悪くなってしまって入院。近くに住む二人の娘さんと名古屋の息子さんが力を貸すのです。

70歳ころ風邪をこじらせて倒れて救急車を呼んでも頑として乗らず、結局3人の子供が山への送り迎えをして、自然治癒力に頼って治る。その後、いつも山道を切り開きながらなので、大きな石を脚に落とし怪我をするが、1ヶ月で治す。次は2000年5月交通事故。大の医者嫌いでこれも自然治癒力で治し、8月の富士山登山を果たす。
2009年84歳の時には自転車に乗っていて、車の風圧で倒れ、救急車で運ばれ、切れた頭を縫って帰宅。翌日からも娘たちの車の送迎でまだ登り続けるのです。

また驚くのが一日2食(最後の方は一日1食)で登山でもお昼を食べず、お水も持って行かない。山に水があるときはそれを飲んでいた。
医者嫌いはかなりのもので、奥さんが水頭症で、子供たちは入院させたいのに、山に登りながら自分で世話し、ヘルパーを頼んだりしていたのが子供たちが、父親が山に行っている間に入院させたという。その奥さんはどんな時も「山に行っておいで」と送り出したという。奥さんへの愛は深い。登る目的の一つになっているようだ。

登れなくなってから救急車で病院に入れるまでの子供たちの苦労は大変なものだった。意識朦朧の状態で拒否が出来なくなるまで頑として医療を拒む奈良男さん。
本の写真を見てまた驚く。すべて廃品利用の山スタイル、大好きな読書の本の数、仙人のような自炊生活。眼鏡が・・フレームと全く合わないサイズのレンズをテープで留めて使っている。ケチなのではなく結構お金に執着がない人だったようです。父親を挟んだ娘さんたちの顔の表情が素晴らしい!

 

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2021年3月21日 (日)

池上本門寺と池上梅園

2/25 池上の梅園が見ごろと聞いて、池上本門寺にお参りしてから、梅を鑑賞してきました。
五反田から東急池上線に乗るのは初めてです。途中洗足池駅等を通り過ぎ、20分くらいで池上駅に到着。

●池上本門寺

本門寺の総門と階段が見えてきた。
総門は元禄年間(1688~1704年)の建立。扁額は本阿弥光悦の筆に寄るものだそうだ。
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総門手前や本門寺周辺には、禅宗の塔頭に相当する、日蓮の直弟子のお寺である中道院(梅が終わっていた)や池上七福神の福禄寿の本成院、妙見堂や養源寺など23寺がある。
養源寺がなかなか良いお寺だった。池上本門寺歴代住職の隠居所となり、八代将軍吉宗が鷹狩りの際には御膳所となっていたところ。池上七福神の恵比寿さまのお寺。
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1282年、日蓮聖人は身延山を出て、湯治のために常陸へ向かう途中この地で亡くなった。日蓮に帰依していた池上宗仲が屋敷の一部を寄進して出来たのが池上本門寺だ。

加藤清正の寄進の96段の石段(此経難持坂)を上ると、北村声望作の大きな日蓮説法像がある。
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仁王門。元国宝であったが空襲で焼失、再建されたもの。
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大堂。これも空襲で焼け、高さ27mの鉄筋コンクリート造で再建されている。堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置する。
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経蔵。ここは空襲で焼かれず、いい感じの建物だ。1784年建立。
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五重塔。1607年秀忠が悪性の疱瘡になった際、乳母が平癒を祈願、無事回復したので建立。関東最古の五重塔で国の重要文化財。初層の蟇股には十二支の彫刻がある。
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寄り道した墓所に力道山の立派なお墓があった。
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本殿。昭和44年再建。本師(釈尊)のおわします殿堂。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高いそうだが趣に欠ける。
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多宝塔。国の重要文化財。日蓮の荼毘所跡に1828年上棟、2年後に竣工された。日蓮大聖人御所持の水晶念珠を奉安している。宝塔形式の木造塔婆は少なく、その中で最大規模を誇る本格的な宝塔だそうだ。
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●大坊本行寺  

日蓮聖人の入滅後、池上宗仲公が日朗の弟子・日澄に日蓮聖人が泊まられていた館を寄進しお寺とした。

赤門越しに本堂が見える。
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御硯井戸。日蓮聖人が到着した翌日この井戸の水で墨をすり、礼状をしたためられたという。
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旅着堂や御灰骨堂等を覗いて、ご臨終の間へ。日蓮聖人が亡くなった部屋の後に建てられたお堂。
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中に入ると部屋から素晴らしい裏のお庭が見える。
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●池上梅園

実相寺を見て、池上梅園に到着した。以前は北半分は伊東深水の自宅兼アトリエだった。南半分は料亭経営者小倉氏の別邸だったもの。
早咲きの梅は終わってしまっているけれど、遅咲きを含めまだまだ見頃。

丘陵の斜面をうまく利用している。
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茶室(聴雨庵)は政治家藤山愛一郎から寄贈され移築されたもの。
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珍しい垣根があった。京都にも色々あったことを思い出す。
鎧垣
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腰高麗蓑袖垣
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沼津袖垣
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古郷の錦。
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甲州梅。後ろは薬医門。
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梅園には30種類の梅があるそうだが、この座論梅は初めて。
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屋敷の前には池もある。
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思いのまま。
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曙枝垂。
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まだまだ初めての名前の梅があり、素敵な梅園でした。

門前の池田屋のクズ餅がお土産でした。
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2021年3月15日 (月)

東村山・八国山と史跡巡り

2/16午後だけ有休をとった娘について行って、電車で10分の東村山駅から近い、八国山とその周りの史跡巡りに出かけました。
新田義貞が戦った地の一つです。また鎌倉古街道が通っていてこの辺りに宿があったそうです。もう一つ、国宝建築物を見る。

まずは駅前の和菓子店・餅萬でおやつとお土産にお饅頭とどら焼きを買ってもらう。
「だいじょぶだァ」が小倉餡。「だっふんだァ」はウグイス餡。それぞれどら焼きと饅頭がある。
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駅からは鎌倉街道の一部を進み八国山の方へ。残念ながらこの日は立派な建物の「東村山ふるさと歴史館」はお休み。
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早速マンホールを発見。東村山市のマンホールは村山貯水池の取水塔だ。
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徳蔵寺。臨済宗・大徳寺派。元和(1615~1623)頃開山。武蔵野三十三観音7番で、狭山12番。
境内から中世の文化財である板碑、宝篋印塔(鎌倉時代の供養塔)などが発掘されている。

本堂
本尊は白衣観世音菩薩は見えなかったが、写真では非常に立派。
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永春庵のご本尊は聖観世音菩薩。
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校倉造の板碑保存館を見学する。200円。
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1階の展示には石器、土器、国分寺瓦、古銭、埴輪などが展示される。
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2階に上がると驚くほどの板碑(死者の追善供養のためにたてた石製の卒塔婆)があった。約170基。日光街道等でポツンとたっている板碑を目にしては喜んだが、それがこの辺りからこんなに出土したとは!
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国指定重要文化財の「元弘の板碑」から。写真は光って見えにくいですが。
説明によれば、小島法師が著したといわれる『太平記』(1370年頃完成)の記述されている新田義貞の鎌倉攻めを裏付けるように、元弘3年(1333)5月15日と18日の合戦の場所と新田の3人の戦士の名前が刻まれていて、戦史を実証している板碑として有名だそうだ。
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宝篋印塔と五輪塔(供養塔)
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宝篋印塔には関東形式と関西形式がある。板塔婆の両側の切り刻みが五輪塔が原形になっているとのこと。これから気をつけて見てみよう。
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八国山緑地に向かう。麓に久米川古戦場跡の碑がある。
新田義貞の軍勢は小手指ヶ原(所沢市)で一戦交えた後に久米川へと戦場を移し、ここで第二戦が行われ、この後分倍河原などで三戦交え稲村ケ崎に着き幕府を倒した。
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八国山緑地を歩く。小鳥の鳴く、殆ど平坦な散歩道となっている。
東西約1.5km、南北約300ⅿの都立公園。園内には標高89.4 mの八国山がある。かつて上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の8つの国を望むことができたことに由来する。
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少し進んだところに将軍塚がある。新田義貞が本陣を置いていた。富士塚とも古墳とも言われている。
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この道の左側にはあおぞら広場、ほっこり広場、ころころ広場、ひだまり広場と広場がたくさんあって、そこのベンチで先ほどのおやつを食べる。美味しい!

ふたつ池(下池)。上池は枯れて見る影もなし。ため池として周囲の水田に水を供給していた。
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北山公園はハナショウブやハスで有名だが、今は梅が数本咲いていた。
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公園を出たところで、違う種類のツツジのマンホールを発見。
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次に向かったのは正福寺都内では唯一の木造の国宝建造物がある。都内でもう一つの国宝西洋建築が迎賓館だ。
鎌倉時代中期の創建。北条時宗が鷹狩りにきた際に大病にかかり、夢の中でお地蔵様が差し出した丸薬を飲んだところ治ったことから、お地蔵様の供養のため開創したと伝えられている。
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貞和の板碑。1349年。完全な形をとどめるものとしては都内最大級とのこと。
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国宝千体地蔵堂。屋根はこけら葺。反り返っているのも特徴的だ。花頭窓、桟唐戸や、軒下等が美しい。2度目だけれども、美しい建物だ。
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木彫りの地蔵が沢山納められていた。知的障害者が彫った地蔵をここで買って、願いを込めて奉納したもの。
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本堂。
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駅への途中にある出世弁財天女宮。
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駅前の東村山停車場の碑。
停車場の碑は1894年、川越と甲武鉄道の国分寺を結ぶ川越鉄道が一部開通し、東村山に工事用仮設駅が造られた。全線開通後仮設駅は撤去されることとなったものの、住民運動により東村山停車場がつくられた。停車場開設の尽力を記念し、1897年に建立された石碑だそうだ。
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2021年3月 9日 (火)

いわゆる食事をしない人

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         ヒマラヤユキノシタ

毎日平凡に生きていても時々びっくりすることが多くあります。

私だけが知らなかったことかもしれませんが、先日テレビに若者が登場。
その方がしている食事というのが三食とも、1ℓ近い液体を飲むだけなのです。つまり食事を作って食べるという観念がなし。
その理由がとにかく忙しく、又情熱を傾けていることがあって食事をする暇がないということです。
体を鍛えるために朝、ジムに行って運動をしているのは欠かさないとのこと。
あらあら、飲んでいるだけで噛む方の歯や唾液が入らないことに問題はないのか?胃が消化する力はどうなるのか。腸の吸収は問題なさそうだけれども。病気はしないのか。
忙しくて食事をする暇がないだけでなく、注ぐことのできる仕事や情熱を傾けるものがあり、食事をする暇が惜しいらしい。
で、そんな飲み物があるのかと調べてみたらありました。値段は書いてないからわかりませんが・・。365日これを飲むだけの生活をしている人がいるのです。
お酒が飲みたくならないのか、苺や桃が食べたいとか、ケーキや饅頭が食べたいとか、お寿司やピザが食べたとか思わないのですね。

サイトより
栄養と時間を与えてくれる新たな食事
「忙しい毎日を送る中でも、コミュニケーションとしての食事は大切です。でも、そうは言っていられないときってありますよね。手軽で健康的、そんな食事ができればいいですが、難しいのが現状です。私たちの『完全食COMP』は、そのような悩みを解決するために生まれました」
そう語るのは、株式会社コンプ代表取締役CEOであり、COMPを開発した鈴木優太氏。COMPとは、人の健康に欠かせない必須栄養素を全て取ることができる、いわゆる「完全食」と呼ばれる食品のこと。パウダー、ドリンク、グミタイプがあり、飲むだけで“食事”が完了してしまうという画期的な食品だ。

食欲がなかったり、胃腸系疾患の場合、これを飲むだけで寝ていたいと思いますが。それに人生の最終段階になって自分ではどうにも食事を作るのが億劫になった時にいいですね。

 

 

8人のライン仲間でする新年会を、昨年と今年は出来ませんでした。そこでGさんのお声がけとお世話で、ZOOMで2月に、お名残り惜しく3月3日3時にも行いました。
2月はお酒やお茶で乾杯。3月はお雛様の日ですから私はお雛様を模した和菓子をそばに置いて皆さんにお会いしました。
ZOOMは1回が40分、2回ともそれだけでは足らずもう40分追加です。

昨年は数えるほどしか人と会わず、今年に入ってからは話をするのは夫と子供たちとだけ。買い物しても店員と話をしません。
それでZOOMで7人の方のお顔を拝見しながらべらべらとお話したり聞いたりすることの心地よさ。これが電話だと声だけですものね。
人と話をすることを忘れたような日常。小さい時からずっとしゃべり続けてきた身、話をしない生活の不自然さを感じたことでした。
でも、このような時に1人で過ごされている方は家の中に相手になる人もいないということ。ライン仲間や親せきや友人にもいます。外に行って話す相手まで奪われて本当にお気の毒と思い至りました。
また続きもやることになりましたが、お世話くださる方々に感謝です。自分でもできるようにならなければです。

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2021年3月 4日 (木)

松姫古道~八王子城跡~武蔵野陵墓地

松姫ゆかりの信松院を尋ねた1週間後の今から1か月前、松姫が出家したお寺の心源院から八王子城址に至る松姫古道(心源院歴史古道)なる山道が、登山マップにあったので登ってみました。
この山道は松姫の師匠の卜山(ぼくさん)禅師が、その弟子になった八王子城主北条氏照に会いに行った道だそうだ。名前がついているので松姫も歩いたのであろうか?
北条氏照とは、八王子城主で、後北条第3代氏康の三男で兄氏政が第4代、甥氏直が第5代。4代5代で北条は小田原征伐で秀吉に滅ぼされる。氏政・氏照兄弟が切腹。5代氏直は正室が家康の娘であったため助命される。

高尾駅からバスに乗り、川原宿大橋停留所で下車。心源院にすぐ到着。
心源院は、松姫が剃髪し信松尼の法名を賜ったお寺である。
入り口を入ってすぐのところに八王子千人同心・小谷田子寅の碑があった。天文学、医学に明るく、民衆い慕われた人物だった。
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鐘楼と本堂。
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本堂の奥の登山口。
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霜柱も長く植物も霜で真っ白。
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ホオジロがいた。小鳥の声が多く、関東ふれあいの道・小鳥のみちよりたくさんいるように思えた。
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ネンドタケか?  ヒイロタケでした。shikamasonjinさま、いつもありがとうございます
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15分くらい登ると眺望が開ける。
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2018年秋の台風の時の倒木。鎌倉の山にもあったし、千葉県のまだ修復出来てない屋根を思い出す。
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向山北砦(標高286ⅿ)到着後、大六天(315ⅿ)へ行くと筑波山がうっすらと見えた。
大六天の説明・・昔ここにお堂があり、江戸時代に流行った第六の神(世の平穏と男女のめぐりあいを担当している)を信仰する宗教だったころからこの地名になったという。
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三叉峠到着後八王子城址本丸跡へ向かう。
柵門跡に着き、高丸を通り、九合目の石標を過ぎると眼下が開けた。
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階段を上って八王子神社に到着。氏照が城の守護人とした「八王子権現」が祀られている。
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本丸跡に到着(標高446ⅿ)。登山口から約2時間半。
城の中心で最も重要な曲輪だが広くはない。山城には天守閣はなかった。曲輪とは土塁などで囲んで作られた平らな場所。小宮曲輪や松木曲輪を通って来た。
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頂上から高尾山がそばに。
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遠くには江の島らしきものが見えた。
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要害地区から氏照の館があった居館地区に降りてきた。
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八王子のマンホールカラー版。
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氏照の館の御主殿跡へ。以前も来ている。そのとき本丸に登っていなかった。
古道を歩いて行くと城山川にかかる木製の曳橋があらわれる(復元)。昔は敵が攻めてくると橋を壊し侵入を塞いだとのこと。
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兎に角石垣が凄い。
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御主殿跡
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すぐそばの根小屋地区(城下町に当たる地区)のガイダンス施設にも寄る。
八王子城のジオラマ。
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北条氏照及び家臣の墓に寄る。150段の階段を上った先にあった。
氏照の家臣であった中山家範の孫の中山信治が氏照の100回忌に際し、供養塔を造立したもので、両脇に中山家範と信治の墓がある。
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背後にはたくさんの石造物があった。
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美山通りに出て高尾駅方面へと向かい、山田うどんでの昼食は鍋焼きちゃんぽん風うどん。
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最後に武蔵野陵墓地に歩いて向かう。
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多摩陵は大正天皇の御陵、その東隣の多摩東陵が貞明皇后の御陵、武蔵野陵は昭和天皇の御陵、武蔵野東陵が香淳皇后の御陵である。
多摩陵。
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多摩東陵。
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武蔵野陵。
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武蔵野東陵。
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ちょうどマンサクの花が満開だった。
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この間歩いた甲州街道を歩いて高尾駅へ。
地元に帰ってまたまた餡蜜を。約28000歩。
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