中山道17 福島宿~宮ノ越宿(3)
福島宿を出た。
寄る時間がなかった、御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)。昭和2年12月に再建された洋風建築が左手に見える。
福島関所のマンホール。
黒川ダムを見、旧道に入ると経塚や芭蕉句碑があり、落ち葉一杯の街道を上っていく。
手習天神が見えてきた。
木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられている。
行かなかったが線路を挟んで反対側に義仲が元服前まで過ごした兼遠の屋敷跡や義仲元服松がある。義仲が2歳の頃から自分の子、兼光、兼平、巴とともに兄妹同様に育てた。
建物と同じ位高さの廿三夜塔。兎に角大きく今までで最高の高さかもしれない。岐阜県内では馬頭観音が多かったが、廿三夜塔が多くなった。
途中で折れ曲がっていて、下の支えも危なっかしい橋が見えてきた。無事渡れた。

旧日義村のマンホール。
朝日将軍木曾義仲が平家討伐の旗挙を行った地であることから義仲にちなんで「日義村」と命名され、義仲の家紋がササリンドウだったことによる。原野村と宮ノ越村と合併して日義村となり更に現在は木曽町となった。
明星岩公園から見える明星岩。多くの人が記録に残していると言われる。
林昌寺に寄る。ここには義仲育ての親。中原兼遠の墓がある。突き当りが本堂。
地蔵堂。
💛のが中原兼遠の墓。
街道に戻り、踏切を渡る。
●宮ノ越宿(36番目)木曽福島宿から7.1㎞、薮原宿まで7.6㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒。宿場の長さは約500mで道は広々としている。
下町会館のところにまたまた廿三夜塔や水神等の石碑があるが、ここが宮ノ越宿の京方見附である。
先を進むと明治天皇宮ノ越御膳水碑があった。明治13年、明治天皇中山道御巡幸のみぎり、旧本陣に小休みされた際、この井戸水をもってお茶を献上されたとのこと。
田中屋。旅籠屋田中忠右衛門と記された旅籠。4時をちょっと過ぎて入場できず。
脇本陣問屋跡を通りすぎた先に、本陣跡がある。
宮ノ越宿は明治16年の大火で90軒の家が燃えてしまい、本陣もほとんどが焼失したものの、客殿と土蔵のみが残り修復工事をして公開されている。これまた4時を過ぎてしまって見られず残念。
木曽福島に戻り、しなのに乗って松本に出てあずさに乗る。
今回の駅弁は「米豚のめし」でお米配合の餌をたべた米豚(味噌味と塩味)。美味しい豚でした。
帰宅は9時10分過ぎで約29500歩でした。街道歩きでは見学が多く歩数が少なく楽でした。
(完)
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コメント
tonaさん、こんにちは~♪
宮ノ越宿に入りましたね。
平家物語の現代語訳は読んだことがあるのですが、
中原兼遠のことはすっかり忘れていました。
今、木曽義仲の挙兵について書かれた巻六をさっと見たのですが、
義仲が2歳の頃から20年間養育をしたと書いてありました。
古い石碑も多いですね。古い石碑を見ていると、
タイムスリップしたような感覚になります。
ニシキギの紅葉は綺麗ですね。お隣にもありましたが、
何年か前に枯れたので、見られなくなくなりました。
木曽駒ケ岳が綺麗に写っていますね。
千畳敷カールには2度行きましたが、木曽駒にはとうとう登れませんでした。
この辺が中仙道の中間地点なのですね。
これからはだんだんと東京に近くなるので完歩が楽しみですね。
「米豚のめし」も美味しそうです。
投稿: hiro | 2021年12月 5日 (日) 14:44
★hiroさま
こんにちは♪
私も平家物語を高校の時に読みましたのにすっかり忘れていました。
20年間も養育されたのですね。巴御前も小さいときから一緒に遊んだり勉強したりとその様子が浮かんできました。
ニシキギも近所であまり見られなくなってきましたのでちょっとの間触ったりしていました。
木曽駒ヶ岳、こちら側からもいいですね。この反対側になる千畳敷カールは2度行きましたが、私も木曽駒ケ岳はとうとう登るチャンスを逃しました。hiroさんと同い年でしたらご一緒に登りたかったです。
やっと中間点ですが、和田峠の方はもっと交通的に難関です。電車と電車の間を中山道が通っているからです。景色が良いのではと楽しみなのですが。
お米を食べた豚肉は確かに臭みがなくて美味しかったです。
木曽義仲のことを早速調べて教えていただきありがとうございました。
投稿: tona | 2021年12月 5日 (日) 16:05
こんにちは。危なっかしい橋を良くお渡りになりましたね。次に増水があったら残っているでしょうか。中山道中間地点到達、おめでとうございます。健脚でいらっしゃいますね。
投稿: 多摩NTの住人 | 2021年12月 5日 (日) 16:36
中仙道に、こんな危ない橋や、こんな狭い部分もあるのですね。
昔の大名行列はどうやって通ったのだろう?と思ってしまいました。
皇女和宮も徳川家への降嫁のため、中仙道を通ったのですよね。
投稿: zooey | 2021年12月 5日 (日) 17:50
★多摩NTの住人さま
ありがとうございます。
順調にいかず、やっとです。足掛け3年になります。
中山道はところどころ、この間の増水で通れなかったのですね。
丁度その時は東京から出られなかったのですが、今歩いてみると道路が片側通行が数か所ありました。道路がえぐれているのです。
この橋はいつからこうなったのでしょう。恐る恐る渡りました。増水もしていなかったので良かったです。
投稿: tona | 2021年12月 5日 (日) 20:18
★zooeyさま ありがとうございます。
新しくできた道路で旧中山道は途切れてしまうのことが多いのですが、残っている街道にはこんな狭いところがあるのです。
和宮様やその他大名行列は通るのが大変だったでしょう、東海道よりここ木曽は狭かったのだなあと思いました。
投稿: tona | 2021年12月 5日 (日) 20:23
幼い義仲が遊んだ寺や道を歩いたのですね。
なにか不思議な感じがします。
投稿: 佐平次 | 2021年12月 6日 (月) 09:36
★佐平次さま
そうなのですね。
この神社や線路の向こうの家で遊んだり勉強もしたり武術に励んだりしたのですね。
1154年生まれで今から967年前頃から話ですね。若干31歳で亡くなったとは。
今は家や人もなく淋しい限りです。
投稿: tona | 2021年12月 6日 (月) 11:03
こんにちは
平安末期の頃から鎌倉時代にかけての、数々の物語にもなっている
歴史上の様々な事、考えてみたらほとんど知らないと気付きました。
木曽義仲も、名前だけはよく知っているのですが、どんな人生を
歩んだのか全く知らずに来てしまっていました。
たまたまその頃の時代を扱った過去の大河ドラマも観ていませんでしたし、
物語もほとんど読んだことがないのでした。
木曽義仲は源頼朝の従兄弟だったのですね(今さらですが^^;)。
頼朝は弟・義経だけではなく従兄弟も倒して鎌倉幕府を
開いたのですね。来年の大河ドラマ鎌倉殿の13人に登場しそうなので、
ドラマを楽しみながら、の時代のことももう少し学べたらなと
思っています。
狭く落ち葉たっぷりの道なども歩かれ、木曽義仲や、その周囲の
人々の生きた世界が身近に感じられるような気がされたのでは
ないかしらと思いながら拝見しました。
投稿: ポージィ | 2021年12月 6日 (月) 14:38
★ポージィさま
こんばんは。
私は実は鎌倉・室町時代が一番嫌いで、しかも詳しくないです。
個人的ですが頼朝が嫌いです。源を全部やっつけたこと。北条家が次々と家臣や御家人などを殺していったこと、室町の足利も好きじゃないのです。
でも来年の大河ドラマを見て少しは気持ちを切り替えたいところです。
木曽義仲は特異な育ち方をしていますので、余裕があったら本で読んでみたいです。
平家物語もほとんど忘れてしまいました。
狭くて落ち葉だらけの中山道は淋しい感じですが、昔を思い起こさせられました。
義仲の軍勢が京都で野蛮であったことが遠因で敗れたそうですから、京都のように木曽では教育がなされなかった。というのはこの京都とは違う田舎具合を見ましたら当然と言えましょうね。
ありがとうございました。
投稿: tona | 2021年12月 6日 (月) 16:52
こんばんは(^o^)/!
中山道歩き・木曽路・・・毎々楽しませていただいてます。
この辺りは鉄道かマイカーで通り過ぎただけで、かつてのメインストリートの様子を拝見し「寄り道すれば良かったなぁ」と、今さらながら思います。
もう冬なので、この先の藪原からの鳥居峠越えは来春になりそうですね。それまで楽しみはお預けにしておきますネ (^_^)ニコッ!
投稿: 慕辺未行 | 2021年12月 7日 (火) 23:50
★慕辺未行さま
おはようございます。
いつもいつもありがとうございます。
時々広い道路に出ますが、結構狭い道は初冬を迎え、落ち葉を踏みしめていくのがなかなか良いものです。
木曽駒ケ岳を木曽谷側から見て登らなかったのが悔やまれました。
薮原から鳥居峠は来春(まだコロナは大丈夫かしら)にします。結構なだらかな峠のようですが凍っているようですから。
投稿: tona | 2021年12月 8日 (水) 08:40
洋風建築の御料館を近くで眺めたあと
内部を見学したいところです。
見学する時間が無かったことは残念でしたね。
このような洋風建築は函館や神戸・北野で見てきました。
我が家の近くに郷土資料館があり、もともとは
貴族院議員であり東洋紡績社長であったかたの寄付により
地元の役場として建てられた(1921年)ものだったそうです。
マンホールの蓋が関所の図柄とはユニークですね。
名所なのでしょう。
木曽義仲の話は子どものころにどなたかの著作を読み
巴御前は覚えていますが記憶の彼方になっていた
兼光、兼平の名を思い出したところです。
勇猛な木曽義仲軍の活躍をその小説で知りました。
義経と戦った結果の敗戦により、テレビドラマでも敵役になっているようです。
中山道中間地点の道標に達し、“感激一入”とのこと
そうですよね~、
Saas-Feeの風が歩いていたらやったあ~~と叫ぶと思います。
あと半分、健康に気をつけながらお進みくださいね。
投稿: Saas-Feeの風 | 2021年12月 8日 (水) 21:35
★Saas-Feeの風さま
風見鶏の家など神戸で私も数軒回って見たことがあります。
横浜の港の見える丘公園にもたくさんありますね。
そうそう、函館にもありました。
中山道では近江八幡にもあったかしら。
そちらにも郷土資料館として残っているのですね。
木曽義仲さえも山育ちの礼儀をわきまえないものとして、結果として義経同様頼朝にやられてしまうという悲劇、巴御前などにも同情してしまいます。
昨年今年と進めなかったので、やっと半分です。嬉しかったですが、このあとコロナ事情によっては、東京に到着できるか、私の足と相談です。でも木曽と信濃路を歩ければ由とします。
お気遣いありがとうございます。
投稿: tona | 2021年12月 9日 (木) 09:19