姫街道4 気賀宿~自動車学校前駅(2)
三方原救貧院跡の石柱。
明治10年に、気賀林(豪商)が生活困窮者や入植した士族のために設立した救済施設。
間口八間、奥行き三間半の木造平屋建て瓦葺きの建物で、最大四家族ほどを収容。米麦、味噌、醤油、薪炭等を支給し救済したという。日本福祉施設の先駆けをなすもので、日本赤十字の前身の博愛社よりも早かった。
三方原台地は浜松市北西部の洪積台地で、南北15㎞、東西10㎞で粘土質の赤土で江戸時代から不毛の原野だった。本格的に開墾が始ったのは明治になってからだった。
本乗寺に寄る。あの有名な家康の負けた三方ヶ原の戦いの戦死者を祀った精鎮塚がある。前回の権七商店のそばからこの寺に移された。今年は姫街道にも家康に関係するところには「家康公ゆかりの地」というのぼり幟がたてられていた。
三方原神社へ。
祭神は家康で、秀忠、家光も合祀されている。浜松城内で祀られていた東照宮が移された。
境内には不動明王像があり「右はま松道 左いけ田道」と彫られている。
他に気賀林の碑をはじめ、扶持米倉庫跡、三方原小学校発祥の碑、第18代徳川恒孝公お手植えの松、四勇士の碑(三方原に陸軍の飛行場があって重爆撃機がエンジン故障で墜落して4人が亡くなる)などがある。ほか、、、
三方原開拓の碑(製茶場が明治35年不振で閉鎖。7人の地元名士が購入し、住民に分割し荒廃から守った功績の碑)。
神社を出たところのある気賀林(三富翁)の碑。特産のい草等の取引で財をなした豪商。明治2年、三方原開拓係となり、士族800戸の三方原入植の受入事業を完遂。明治6年からは茶園の開拓に専念、百里園長として百ヘクタールの茶園の育成と製茶工場の経営を成功させた。その後、三方原救貧院の創設をはじめ、福祉・教育・社寺への寄付等、地域行政に大きく貢献した人物だ。この人無くして三方原のお茶はなかったわけで各地域にこうした立派な人が昔はいたのです。
三方原追分。真ん中に「奥山半僧坊大権現へ三里廿九丁」の里程標と慶応4年(1868)の道標がある。浜松道ではなく、見付に向かう。
三方原台地から二重坂を下ると浜松市域の姫街道最古の道標で、天保3年(1832)がある。
このあたりから宇藤坂を下って行く。槙の垣根が続く立派な御屋敷が多い。静岡県は東海道側もこちら側も槇の垣根が多く豊かな感じ。昔の不毛の三方原台地が嘘のようだ。
坂の途中で左折すると俊光霊社がある。坂上田村麻呂の子俊光が武勇の守護神として祀られていたが、明治40年、このあと行った有玉神社に合祀された。
街道に戻って、さらに宇藤坂を下ると、富士山が見えた!!新幹線の浜松あたりでは見そこなっていた。
このあたりから半僧坊里程石(丁石))をずっと見ていくことになる。
明治14年に奥山方広寺で大火があったが、半僧坊本殿は焼失を免れ、半僧坊への信仰が高まって参拝者が急増。参詣者道案内のため、多くの里程石が設置された。
浜松には自衛隊の航空基地があって、次々と航空機が到着している。
最後に、有玉神社に寄り道する。
坂上田村麻呂の子俊光将軍社など11社が合祀される。
俊光将軍社。
八幡大菩薩。見にくいけれど、菩薩様がなぜか割烹着を着ている!
家康が大阪の役から帰陣する際、戦場で乗った馬を寄進したことから、流鏑馬が行われるようになったと書かれる。結構方々で流鏑馬が行われているのですね。
街道に戻り、自動車学校前駅に到着。
初めて乗る遠州鉄道は赤い電車だった。
今回はしらす弁当。一日に必要なカルシウムの2分の1の量を摂取出来ると書いてあった。
おみやげは、まるたま製茶のお茶と焙じ茶葛餅、わさび入りしらすパイ。
東京には6時18分着。帰宅は7時前だった。約35700歩。次回はゴール予定です。
(姫街道第4回終わり)
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コメント
いつも駅弁が楽しみですね。
私は歩けないので、駅弁は生協に注文
しています。実感はあまりありません。
しかし、美味しいことは美味しいですので
そのうちブログにもアップしたいです。
三方ヶ原は家康が信玄に惨敗しましたね。
正確には織田と徳川との連合軍が武田に
破れました。
あのみじめな自画像を思い出しますね。
それにしましても3万歩を超えられるとは
素晴らしいです。
おみやげのお菓子も美味しそう。
投稿: matsubara | 2023年3月 6日 (月) 16:00
★matsubaraさま
そういえば、時々駅弁が近くでも売られるようになりました。以前は新宿の京王百貨店で毎年1月にやっていますので全国のを見て回りました。
家で食べても美味しいですよね。
そうです。織田との連合軍でありながら武田に敗れ、あの情けない顔の絵を描かせたという、有名な話付きの合戦でした。その舞台の端っこを歩いてきました。
焙じ茶葛餅は初めてでしたので美味しかったです。
ありがとうございました。
投稿: tona | 2023年3月 6日 (月) 16:58
気賀林という人商売に長けていただけでなく
先の江川永脩がなしえなかった三方原に茶園を根付かせたり
明治の初めに救貧院という福祉施設まで作った
凄い人なのですね。
>坂上田村麻呂の子が守護神としてまつられて
親子共に武勇に優れていたんですねぇ。
この辺りで活躍したのでしょうか。
ほうじ茶葛餅珍しいですね、
以前金沢でほうじ茶ソフトを食べたことがあります。
投稿: ビオラ | 2023年3月 6日 (月) 20:50
★ビオラさま
こんにちは。
静岡県は実家が神奈川県で隣の県なのに伊豆を少し知っているだけで、東海道歩きでも海べりの方をかなり長く歩いていましたので何も知らなかったに等しいです。
ビオラさんに講義を受けないと・・・
というわけで先日三方原にお茶という事を教えていただき、今回とてもよくわかりました。
気賀林というとんでもない人がいらしたのですね。江川さんが失敗した茶を浪人武士に荒地から立派に産地にしたとは驚きです。
福祉では赤十字より早かったのですよ。
大体、坂上田村麻呂の子供が一緒に行動したという事さえ知りませんでした。この地で何をしたのか?ただただ東北に行って活躍したことしか。
ほうじ茶葛餅はお茶を買ったお茶屋さんで買いました。とても美味しいのです.
ほうじ茶ソフトも食べてみたいです。
ありがとうございました。
投稿: tona | 2023年3月 7日 (火) 09:14
お疲れ様でした。やはり富士山が見えると嬉しいですね。うなぎパイは知っていますがしらすパイは知りませんでした。
投稿: 多摩NTの住人 | 2023年3月 7日 (火) 11:48
こんにちは
三方ヶ原は家康が信玄に惨敗した戦場として名前がよく知られて
いますが、父の口からもよく聞いた覚えがあるのです。
戦国時代の話ではなく… 自衛隊絡みだったのかな??
元自衛官と言えど父は陸上自衛隊だったのですけれども。
身を入れて聞いていなかったのでしょうね。申し訳ないことしました。
三方ヶ原は戦場になったことくらいしか知りませんでしたが、
長く不毛の地でもあったのですね。それが明治時代に、
維新で職を失った徳川家武士だった士族とその家族を
わざわざその不毛の地に入植・開拓させたというのは
旧徳川家の力を削ぐためだったのでしょうか。
それとも三方ヶ原をぜひとも開拓すべきという思いが
あったのかしら?分かりませんが、やはり三方ヶ原で人々は
貧困等にあえいでいたのですね。そして気賀林という豪商が
福祉施設の先駆けの施設を作り救済を行い、茶園の事業も
成功させ様々行政・福祉党に寄与したとは徳の高い方が
いらしたことに感動するやら感心するやらでした。
小学生のころ家にあった伝記シリーズには登場しなかったのか、
完璧に忘れてしまったのか、知らずにいました。
三方ヶ原の合戦で惨敗した家康ですが、その後も武田氏に
三河を攻められながらも、結局は天下統一を成し遂げる
ことになるのは運命の不思議を感じます。
投稿: ポージィ | 2023年3月 7日 (火) 16:08
★多摩NTの住人さま
富士山を見た日は気分が浮かれます。好きなのです。
街道と新幹線から見えたので嬉しかったです。
うなぎパイもあの細長いのではなくもっと小さくなったり、餡が入っていたり変わっていました。しらすパイは初めてですが、しらすが入っていると書いてあり、それらしきものが見えますが味には感じられませんでした。
ありがとうございました。
投稿: tona | 2023年3月 7日 (火) 16:22
★ポージィさま
お父様の貴重なお話をたくさん聞きそこなったのは残念でしたが、でも小さい頃なら致し方ないですね。
私も後悔先に立たずで随分聞きそこなったことがあります。私の父の職業もかなり前ポージィさん他お友達が2、3人の時に書きましたが、ポージィさんのお父様のご職業がわかりまして、大変なお仕事をされていたのだと感じ入りました。
幕府が倒壊して行き所が亡くなった武士をお世話したのではないでしょうか。
突然会社が潰れるのと同じで、路頭に迷った人々を、この木賀林さんは助けたのですから凄い方だったと感動しますね。
全国の水田を見、手入された植林を見、また不毛の土地を開拓した先人には頭が下がります。それに引き換え、私はそうしたことを一切していないうちに老人になって何だか申し訳ない気持ちになりました。
家康の一生のうちでも初期の一向一揆や三方ヶ原の戦いが姫街道当たりに存在したことで、大河ドラマも扱っていることですし、桶狭間や関ヶ原や大阪城も通ったりしましたので、まるきっり無駄ではなかったと思いました。というのもいつもボーとしているからです。
ご感想、コメントをありがとうございました。
投稿: tona | 2023年3月 7日 (火) 16:41
今、NHK日曜日の大河ドラマ「どうする家康」を放映してますが、あの家康の凄い絵が三方ヶ原の戦いの時や
他にも負け戦で逃げる時に、馬上でオシッコをちびってしまったなどと話しは聴いてますが
天下統一を成し遂げたのですから、最初は常人から偉人になって行ったのでしょうね。
三方原救貧院跡の石柱は、気賀林が生活困窮者に設立した救済施設で
日本福祉施設の先駆けをなすもので、他にも色々と功績をあげた凄い人だったのですね。
tonaさんの記事で毎回、沢山の事を教えて貰っています。
何時も読み逃げばかりで申し訳ありません。
投稿: ラッシーママ | 2023年3月 7日 (火) 20:45
★ラッシーママさま
おはようございます。
いつも読み逃げなんてとんでもないです。コメントいつもありがとうございます。
大河ドラマと合わせますと、晩年の家康らしくない初期のあの気の小ささ、泣いてばかりの家康がまさにこの時期に当てはまるのですね。
あの絵はとても忘れられません。今の自分を見るようで、時には忍びなくなります。
気賀林さんは三方原では忘れてはならない人ですね。今はしっかり覚えましたが、またすぐ忘れます。嫌だなあと思ってももう頭に沁みつかないから仕方ないです。
ママさんの若さではそんなことはないですね。又私が特別のようなのです。友人と比べても。
投稿: tona | 2023年3月 8日 (水) 08:36
相変わらずよく歩かれますね。
私はやっと6千歩くらい歩けるようになりました。
しらす弁当がうまそうです。
投稿: 佐平次 | 2023年3月 8日 (水) 09:53
★佐平次さま ありがとうございます。
普段駅周辺往復が4000歩ですので、私より歩いていらっしゃいます。
普通に歩けるだけで幸せですね。
東海道の時も静岡県ではしらすばかり食べていたような気がします。
美味しいです。
投稿: tona | 2023年3月 8日 (水) 13:12