奥州街道5(最終回) 芦野宿~白坂宿~白河宿~女石追分(2)
今日はブログを始めて18年経ち、19年目を迎えました。今迄ありがとうございました。今後とも拙ブログを宜しくお願い致します。
=======================================
野路の秋を満喫しながら下野国那須町寄居・陸奥国白坂の領界に到達して、両方の明神様を拝んだあと、領界石(白河藩主・松平定信建立)を見逃して進む。
「衣替えの清水」が湧いていた。弘法大師が日照りで水がなかった時杖をさすと水が湧いて、身を清め衣替えをしたという。
白河市のマンホール。白河市の木(赤松)、花(梅)、鳥(ホオジロ)で中央が新市章のデザイン。
大垣藩士戦死之跡碑。戊辰戦役・白坂天王山の戦いで大垣藩士酒井元之丞重寛が奥羽越列藩同盟軍の襲撃で戦死。墓は白坂観音寺にある。
●白坂宿(9番目)芦野宿より12.1㎞、白河宿まで9.7㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒。
宿に入ると両側には古いのや新しいく作った昔の屋号がずらッと並んでいて何屋さんだったのだろうと想像したりする。こういう宿に入ると意気込みを感じて嬉しくなる。
観音寺(1408年創建)白坂宿本陣を勤めた白坂家の菩提寺。
観音堂
大平八郎の墓
会津藩士・田辺軍次は白河口の戦いで会津軍が敗れたのは白坂町取締りの大平八郎が官軍の道案内をしたと信じ込み、遺恨をはらすため惨殺、自分もその場で屠腹。田辺軍次の墓も白河宿で見る。
二本の大ケヤキの間に木製の鳥居がある!ケヤキが大きすぎるのか鳥居が小さいのか。白坂宿を出たようである。
金売吉次兄弟の墓。中央が吉次。1174年に群盗に襲われ殺害された。里人による室町時代頃の建立。恩義を感じてた義経もここに立ち寄り、近くに八幡宮を合祀したと伝えられる。
1時半にやっとラーメン屋さんに着いて白河醤油ラーメンを食べる。
●白河宿(10番目)白河藩10万石の城下町として発展した。白坂宿から9.7㎞。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒。
戊辰の役古戦場跡
ここは戊辰戦役白河口の激戦地。右の「戦死墓」は会津藩士の墓。左の会津藩主松平容保題字の「銷魂碑」は戦死者304名の名が刻まれている。
そばには大平八郎を殺した田辺軍次の墓や長州大垣藩士6名が葬られている。
背後の稲荷山に権兵衛稲荷神社がある。上って行かなかったが、ここにも「戊辰の碑」がある。傍らの「戊辰戦争白河口の戦い戦死者」の名盤には両軍戦死者全員の名が刻まれているそうだ。
皇徳寺。小原庄助の徳利型墓石がある。蒲生羅漢に絵を習い会津塗師久五郎と呼ばれた。
戒名「米汁呑了信士」。辞世の句「朝によし 昼になおよし晩によし 飯前飯後その間もよし」と墓石に刻まれている。
復元された小峰城が見えたが、後で白河駅からもよく見えた。
脇本陣柳家跡で新選組隊士斎藤一他106名が宿営した。
明治天皇白河行在所附御膳水碑もあった。
本陣芳賀家跡。明治天皇第1回東北巡幸の際の休息所。幕府役人の宿泊所にもなった。
大谷忠吉本店(白陽酒造)・歴史的風致形成建造物。
萩原朔太郎の妻・美津子の生家。3代目忠一郎は詩人でもあって萩原朔太郎に師事したので、その縁で忠一郎の妹・美津子が朔太郎と結婚した。(朔太郎の娘葉子の地獄のような家庭生活を葉子の作品で読んで知った)。追記:葉子は最初の妻の子で美津子が母ではないようだ。
白河は「だるま」で有名だそうだ。顔が「松竹梅」「鶴亀」で描かれているという。
お土産のだるまカステラを見てみるがなるほどというかわからないというか、でも面白い。

阿武隈川を渡る。那須連山の旭岳に源を発し、仙台湾に注ぐ。じっくり眺めるのは初めて!白河宿が終わる。
福島藩士十四人碑を見、仙台藩士戊辰戦没の碑のあるゴールの女石追分に16時22分着。万歳三唱。四街道を歩き終えた。
新白河駅に出て、那須塩原と同じ舞の華にて乾杯。突き出しのきんぴらごぼう、さんまの刺身、サラダ、豆腐煮物、ピザなど。ビールとグラスワインで。
新白河駅19時18分のやまびこ号に乗り、家には21時40分頃到着。約49000歩。
留守番さんへのいつもの娘のお土産は特別に、2つプレゼント。「嘉永餅」と「ころんっとだるまカステラ」。時々ラインで様子も確かめてもらった。私は付いて行くのがやっとなのでラインどころではないのです。
まだ留守番できるようで、私もやっとの思いですが歩けるようなので残りの中山道を地図が最後のが出来たら日本橋に到着したい。その時五街道完歩です。
(完)
| 固定リンク | 10










最近のコメント