石川英輔著『泉光院江戸旅日記』
石川英輔著『泉光院江戸旅日記』 春になったら、もう少しで終わる五街道歩きにカツを入れたいとまたまた江戸期の歩く達人の本を読んでしまいました。
泉光院野田成亮(しげすけ)は1812年10月18日に満56歳で佐土原(宮崎県同郡佐土原町)をお供の荷担ぎの平四郎と共に出発し、1818年12月4日に約6年2か月ぶりに帰宅する。そのとき62歳。その間、鹿児島から秋田本庄まで歩いた(足を踏み入れなかったのは青森、岩手、香川、徳島、高知の5県のみ)。
たまに渡し船を利用するほか全く乗り物に乗らなかった。非常に複雑な道筋を托鉢しながらなので実際に歩いた距離は2万キロ地球半周以上。この間、西国33ヶ所、坂東33カ所、秩父34ヶ所の合計100ヶ所百番札を納めた。
泉光院は仏教僧侶の乞食修行で殆ど托鉢しながら歩き、殆ど一日も欠かさず『日本九峰修行日記』を書いた。
安宮寺(山伏修験寺)の住職で、三大修験宗派の醍醐寺三宝院に属する真言系の当山派であり、直末寺で三宝院門跡に直属する高い地位の寺院であったので最高位の山伏であった。しかも島津家から27石の禄を受ける家臣でもあり、家中では武家としての扱いも受けていた。
武術は居合術、弓術に長じ、儒教の四書五経の素養もあり、山伏や一般人にも旅行中に教える。俳句好き、和歌や漢詩を作り、茶道にも通じ梵字も読み書き出来た。旅の中、加持、祈祷は本業、占いにも長じて旅行中頼まれるとすべてに応じていた。
山伏として、紀州大峰山の峰入修行36度、奥駈13度を行ったそうで、私はそう関係の本を一度読んだのでひっくり返りそうになった。
体が頑健で同行の平四郎は幾度か倒れて臥せったが、泉光院は一度お腹が痛くなっただけで、後は6年間病気もせず旅をし続けた。満79歳で亡くなったそうだ。
当時56歳から62歳までというと十分に老人であった。タンパク質など殆ど食べないで穀物と野菜だけの生活でよくこんな厳しい旅を続けたものだ。
あと驚いたのが殆ど田舎道を歩いたが、どんな貧しい人でも宿を貸してくれてご馳走にまでなっていて一度も野宿をしたことがないという事。
当時の日本辻浦浦までなんと人の優しかったこと。あるいは泥棒殺人の類は書かれていない。
ついつい今の日本と比較してしまったほどである。
街道歩きをしていて、私自身の年齢はかなりだけど、当時の年齢にすればちょっと上かと思うけれども、甘ちょろく歩いているかを認識させられた本でした。
しかも、私には何も芸がない事も思い知ったことでした。
この人が今生きていたなら、どんな旅をするのであろうかと想像するも殆ど具体的に浮かんでこないという時間的隔たりが大きい。
いつもヒヨドリに全部食べられて、もう既に蕾の出来かかった時点でやられて、慌てて袋をかぶせたものの、これでは咲いているところが見えない。
そこでわずかに残った蕾のある枝を切って部屋に入れたら1日で満開でした。いい香りに満ちています。背景がばっちい写真で失礼しました。
| 固定リンク | 11




最近のコメント