中山道(最終回)北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋
夫が小康状態の時、是非踏破しなさいと逆に励まされて、34回目で最後になる中山道を歩いてきました。これで五街道を制覇することが出来ました。
京都から約534㎞、しかし東海道と重なるので途中草津から日本橋まででしたが距離もあり、色々な不都合が重なって、本来ならばもうとっくにゴールしていました。何しろ歩き始めは2019年6月6日でしたから約5年間かかったわけです。しかし5街道の中では山や峠あり、木曽などの川や遠くのアルプスの山々を眺め、森林や林の中を通り抜け、畑を花や垣根を愛で、あるいは色々な歴史に触れて神社仏閣にもお詣りして、昔歩いた人々の苦労に思いを馳せた歩きでした。
前回到着した北浦和駅から6時半に歩き始めた。
駅前に浦和レッズのレディア君がいて撫でる。
浦和宿に入ったようです。
●浦和宿(3番目)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒。
浦和宿二・七市場跡の立て札と鳥居が見える慈恵稲荷神社の所にやってきた。
二と七の付く日、月に6回市が開かれ大変賑わったそうだ。
リアルな石像、話かけられているみたい。
浦和宿本陣跡、隣には明治天皇行在所趾。
代々星野家が勤め、加賀前田家の宿泊所であり、皇女和宮も昼食をとった。
縣社延喜式内調神社。
初穂米をここの倉庫に搬入する妨げになるため、鳥居と門が取り払われたとのこと。
狛兎で中にも兎の石像が多い。
兎が関係するのか、秩父の兎田ワイナリーから奉納されている。
お助け井戸・・元関屋(材木商後米穀商)が関東大震災や東京大空襲で逃げてきた人々の喉を潤してあげた井戸。
焼米坂という妙な名前の坂に出会い、辻一里塚跡碑を過ぎて蕨宿へ。
●蕨宿(2番目)本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠23軒。
この宿はとても力を入れている!
京都側の木戸口。
蕨市のマンホール。蕨市の花・サツキをふんだんにあしらっている。
昔の行列の様子が絵で再現されている。
歩道の両側には中山道59次の渓斎英泉および歌川広重により描かれた浮世絵木版画のタイルが続く。
大津から日本橋まで70枚。
蕨もあるけど、所々に特製が。
戸田市に入りマンホールを。レガッタと上に市の木モクセイ、下に市の花サクラソウをデザインした。
東京都の板橋に入る。目の前に坂が。日本橋を出発して江戸を出ようとする最初の難所の坂が清水坂だったそうだ。この後のいろいろな峠を歩いてきた身にはどうっていうことのない坂だった。
志村一里塚 中山道の3番目の一里塚で、都内でもあり、2基一対現存するのは全国的にも貴重。山の中でも随分見てきてはいるが整備され立派である。国の史跡に指定。
●板橋宿(1番目)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠54軒。平尾宿、仲宿、上宿からなる。旅人は板橋宿から出発する人が多かったので賑わったそうだ。
縁切榎がある。昔は男女の悪縁を切りたい、断酒を願って訪れたが、今は難病との縁切りや良縁を結ぶなどの信仰に変わったようだ。この日も4,5人の女性が何かを買って祈っていた。
板橋宿の商店街を抜け、次は巣鴨商店街に入ったが前回の山手線歩きで、高岩寺のとげぬき地蔵や真性寺の江戸六地蔵尊は見ているのでパスし、ひたすら日本橋に向けて歩く。
西巣鴨、滝野川辺りは「種屋通り」と呼ばれ、種子屋が多く軒を連ね、日本の農業を支えてきたとか。
途中大円寺には八百屋お七に関するほうろく地蔵があった。火事の際、地蔵はこのほうろくを頭にかぶって焦熱の苦しみを受けたとか。
長い長い東大に隣接する歩道を赤門前まで歩くと、そのあとすぐ神田明神があった。湯島の聖堂なども以前見たので省略して。
境内の隅の2度目に会う「あかりちゃん」に会ってから日本橋に16時46分に到着しました。
一日で歩こうと思い立ったので寄り道は少かったですが、約54500歩でした。
長い長い五街道歩きを読んでいただきありがとうございました。
(完) 追記:もうすぐパソコンが壊れそうです。スマホを使いこなしていないので不便です。
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