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2024年12月31日 (火)

大晦日

「喜びの遊び」つまり~でなくてああ良かった、というパレアナの話を思い出して
『少女パレアナ』『パレアナの青春』を借りて読みました。内容は全部忘れていたけれども、いろいろあった今年なので、来年は何でも良かったの精神で行こうと思った次第です。今は入院してなくて家に居られてなんて幸せなんだろうと。自分自身も大小合わせて5回の入院生活は長かった25日が一番辛かったかも。
この程度の私ですからもし、もっと辛い深刻な病気で長い入院を強いられたら地獄。そう今は天国にいるようなものです。
当たり前ですが、もういろいろ気にしない、良い方に解釈して、助けを借りて何があっても大丈夫精神で行く。(決意だけはいつも立派なのだけれども)。
物価が上がって大変になってきたけれども、まだ自分で栽培しないでも食べ物をいっぱい売っていることに感謝しこの大晦日を迎えました。

今年も拙いブログをお読みいただいた皆様には心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
滞りがちなわがブログ、来年の10月にはブログ20周年を迎えられるように元気溌剌とまでいかなくても過ごしたいと願っているこの頃です。
どうぞ良いお年をお迎えください。


今年も咲いたオキザリス・パーシ-カラー(12/15)
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シャコバサボテンと最後のバラ(12/30)
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南米チリのアタカマ砂漠も全く雨が降らず、サボテンが死にかかっているそうで、異常気象はこんなところにもとテレビで見て心が痛みました。
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ユピアポア・コルムナアルバは延々と遠くまで死の墓場のように映っていました。一つだけ咲いていた花は実に美しい。
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コピアポア・デアルバータもそのうち同じ運命をたどると言われる。花がこれまたはかなく美しい。
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その花
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2024年12月23日 (月)

青梅街道2 東高円寺駅~上石神井駅

2回目は東高円寺の駅から12時45分より歩き始める。このためには昼食は11時からでした。
青梅街道は杉並区を通過中はずっと銀杏並木で、練馬区に入ると欅並木に変わる。一体何本の銀杏が植えられているのであろうか。丁度黄葉がきれいで今年は銀杏を満喫することが出来た。
銀杏の下の燈籠は一対あって、中野駅から妙法寺への参詣者の目印に建立されたそうだ。
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その 堀之内妙法寺(日蓮宗本山)は 「厄除祖師」として有名なので寄った。日蓮上人が法難に遭い伊豆に流されたとき、弟子の日朗上人が霊木に祖師の御影を刻んだものがこの寺に伝わったのが「厄除祖師」、11代将軍家斉、12代将軍家慶が立ち寄って休憩したので有名になったという。

仁王門をくぐり、祖師堂へ。文化8年(1811)建立。ここに祖師が安置されている
内部は金箔で覆われていてなかなかに豪華である。
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彫刻は、北斎が参考にしたと言われる波の伊八のものだそうだ。素晴らしい。
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鉄門。極彩色の鳳凰が上に。ジョサイア・コンドル(河鍋暁斎の弟子・イギリス人)が設計し明治11年建立。重要文化財。
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本堂(三軌堂)。日蓮聖人と釈迦如来が安置されている。
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日朝堂の中には日朝上人像が奉安されている。身延山第11世行学院で日蓮宗の代表的教学者。勉学で眼病を患い、回復後眼病の人々を救おうと大願を立てたという
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廿三夜堂。二十三夜塔は見てきたけれど、お堂は初めてだ。毎月23日に開帳される。
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浄行さま(浄行菩薩)、健康の守護神。これも初めて。
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有吉佐和子の碑。
このお寺の近くに住んでいて、境内を通って帰宅することも多かったそうだ。
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街道に戻る途中に日本橋越後屋の三井家の菩提寺・眞盛寺に寄る。
右が本殿(安永5年(1776))、左奥が客殿。客殿と庫裡は明治26年、細川侯爵邸として建てられたものを譲り受けて移築された。
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お地蔵様をはじめいろいろな石像がある。
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竹林もあり紅葉もきれいであった。
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街道に戻り、少し歩くと新高円寺の駅があり、その前の道を入っていくのが五日市街道で数年前に完歩した。
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街道は荻窪駅へ向かっているが、荻窪駅の手前で藤澤ビルの南側の道へとまわりこむと長屋門がある。
この長屋門は名主中田家のものだったが、藤澤家が取得してビルを建てる際に裏側に移築したのだそうだ。
その前には明治天皇荻窪御小休所の石碑がある。明治16年立ち寄られた。
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街道は地下道を通って北西側へ続き、太陽が左手に見えるようになる。少し進むと青梅街道と環八の交差点「四面道」だ。
昔、秋葉神社があり、この境内に高さ2mほどの常夜燈があった。下荻窪村・上荻窪村・天沼村・下井草村の四か村の境にあるから四面道と呼ばれるようになったという説と、常夜燈が四か村を照らすので四面燈と呼ばれ、それがやがて四面道となったという説があるらしい。
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しばらく歩くと荻窪警察署の斜め前に荻窪八幡神社がある。
寛平年間(889~897)の創建。永承6年(1051)に源頼義が奥州征伐の途中で戦勝祈願し、凱旋の時、神恩に感謝して厚く当社を祀ったと言われる。古いお話です。
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祓門からは神門が見える。くぐるとお祓いになるというので通ってみる。本日の大きな目的だ。
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拝殿
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道灌槙。文明9年(1477)太田道灌が石神井城を攻めるにあたって戦勝祈願した際、植樹したもの。
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ベンチで休憩。おやつは荻窪駅ルミネで買った苺大福。お土産はどら焼き。病人は餅が食べられないので、外に出たときの私のおやつは餅系の大福などを買ってもらう。
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続いて井草八幡宮。鳥居も大きいし境内が広い。元は春日社だったが、源頼朝が奥州遠征の際に戦勝祈願に立ち寄って以来八幡宮となった。
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参道も長く「二の的」という表示がある。流鏑馬が5年に一度行われるのだそうだ。隅田川で一度見たきりなので、鎌倉やここのも見てみたい。
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楼門
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頼朝公御手植の松。
奥州平定に成功した頼朝はお礼として雌雄2本の松を植えた。雌株は明治時代に枯死、雄株も昭和47年強風で折れてしまったそうで、現在のは2代目の松だそうだ。
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こちらが倒れてしまった松の根の一部。
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神門を通って拝殿へ。
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北参道を通って街道へ出るが、大きな燈籠があり、屋根は銅板葺で八畳分の広さがあるそうで驚く。
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その先で練馬区に入ると銀杏並木からケヤキ並木に変わった。
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最後に江戸向き地蔵を見る。享保14年(1729)のもの。
3体の地蔵の間に、文政9年(1826)に建立された三山百番供養塔(出羽三山・坂東/秩父/西国の百カ所)がある。
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上石神井駅に向かい、西武線乗り継ぎで地元駅へ。帰宅は5時半だった。約24000歩。

(完)

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2024年12月12日 (木)

青梅街道1追分~中野宿~東高円寺

五街道と姫街道、大山街道、五日市街道などを歩いてきたが今度は青梅街道へ。
往復の電車を除いて日暮れまで3時間なのでちょっとずつ進む。
青梅街道は甲州街道の脇往還として新宿から山梨県酒折まで130㎞。歩くのはそのうち青梅までの40㎞です。

新宿3丁目で降りて、老舗の追分だんごでおやつとお土産を買って、すぐそばのスタート地点(午後1時頃)へ。

スタート地点にある新宿元標。
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ここ追分が甲州街道と青梅街道の分岐点。甲州街道もここからだった。

新宿駅東口の広場に馬水槽がある。
19世紀にイギリスで馬に水を供給するために設置されたもので、明治36年にイギリスから贈られた。ライオンの口から水が出て、上では馬が水を飲み、下は犬猫が飲み、この裏は人間が水を飲んだ。
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東口から西口へつながる地下通路には宿の絵が描かれていた。中野宿から始まり、田無、小川、箱根ヶ崎、青梅宿の順。
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線路横の電車からも垣間見える思い出横丁を右に、左にモード学園やSOMPO美術館などの西口ビル群を見て進むと右側に常圓寺がある。
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日本銀行本店本館、東京駅丸の内庁舎などを手がけた建築家・辰野金吾のお墓があるそうだが、見つからなかった。

ここから見えた上部と途中が雪化粧したような、面白いビルは、東急歌舞伎町タワーだ。エンタメ関係も充実しているようだ。
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お隣にあるお寺が常泉院(浄行菩薩)に寄ってから、なだらかな成子坂を下っていくと少し先に成子天神がある。
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説明版によると、このあたりは江戸時代マクワウリの特産地だったそうで、この地域が鳴子坂(転じて成子)とよばれていたことから鳴子ウリと呼ばれたそうだ。
菅原道真公に縁がある。参道境内には拝殿はじめ七福神や力石などがある。
一番奥に結構高い立派な富士塚があった。頂上には浅間神社あがって、ここからも昔富士山が良く見えたことでしょう。
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道路の反対側には天保年間のものが再建された成子子育て地蔵尊があり、そばに小さなお地蔵さんがあって、右が延宝4年(1676)のものという。ビルの谷間にこのようなものが残されていることに感動。
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淀橋、下は神田川が流れる。
中野長者が財を地中に隠し、手伝った人を殺して橋から神田川に投げ込んだ。長者と橋を渡るときには見えた人が帰るときには見えなくなったことから「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。徳川家光が鷹狩りで通り、不吉でよくないということで京都の淀川に似ているからと「淀橋」と名づけたという。
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中野坂上の交差点から左に折れたところの公園に象小屋跡の説明板がある。
八代将軍吉宗に献上するためベトナムから連れてこられた象(姫街道の象鳴き坂を通った象)は、しばらく浜御殿で飼われていたが、中野村の源助という者に払い下げられ、このあたりに小屋を建てて飼育されていた。寛保2年(1742)に病死。牙の一部が宝仙寺に保存されているそうだ。
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街道の下は地下鉄丸の内線が走っている。中野坂上の駅を通り過ぎて右手にある象の牙を保存する宝仙寺に寄る。牙は見られなかった。
源義家が後三年の役を平定して京へ凱旋の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するため創建したお寺。仁王門、三重塔、本堂と立派な構え。境内には中野町役場跡碑もあった。
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三重塔手前の塚は石臼塚で使われなくなった石臼を供養したもので初めて見る珍しいもの。
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御影堂には弘法大師像が。
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四面に弘法大師が彫られたもの。22×4面だから88体。
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追分だんごで買った豆大福で休憩。
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お寺を出て右折したところにやままさ醤油醸造所のレンガ塀が残っていた。
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街道を少し進んで右手に少し入ると明徳稲荷神社があるがここの辺が中野宿の中心だったそうだ。

鍋屋横丁の交差点の手前に慈眼寺がある。
珍しいパゴダ風の塔がある。住職がタイで修行し、その縁で仏舎利を授かり納めるために建てたそうだ。
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本堂前には邪鬼らしきものが。
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このお寺には大変古い江戸元禄期の庚申塔など石仏群がずらりとある。
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下の部分に道標が刻まれた(写真に納まっていない)をかねた馬頭観音。
「左あふめ(青梅)道  右いぐさ(井草)道」と刻まれている。
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立派なざくろがなっている。
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鍋屋横丁は妙法寺への参道であり、鎌倉街道でもあった。
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北野神社(総本山は京都の北の天満宮)を通り過ぎ、東高円寺の駅を過ぎて、蚕糸の森公園(以前蚕糸試験場があった)を散策した。
柊の花
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スズカケノキと滝
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紅葉がきれいだった
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帰宅は5時すぎ。約17400歩。
途中で電話を入れながらも心配だった家人は無事5時間20分留守番出来てほっとしました。

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2024年12月 5日 (木)

老いとはどんなか?

ホトトギスはまだ咲き続ける
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マルバルコウソウが3本家に現れた。今日咲き終わりました。
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久坂部羊著『人はどう老いるか』ベストセラーと言うことで読みました。

この作者は医者でもあって、よくもこんなにすらすらと状況を書けるものと感心した作家です。
他の本『人はどう死ぬのか』『人はどう悩むのか』でもみんなこんな調子でわかりやすく、超高齢に向かう人の状態を鮮やかに描き出し、どうししたらよいかを問いける。ただただ頷くのでした。というのもこの順に自分が進んできたからです。
最近、『人生これからが~』とか『~歳からが一番充実して楽しい』という系の本が多く出回っています。それが該当するのは前期高齢者で、後期高齢・それも80歳を過ぎたあたりからは下記のようになって行くのです。
高齢者でない方は全然及びでないし関係ないので読む必要はないかと。

これは最初の方の部分ですが、私も途中まで該当するのが多くて共感し、的確にしかも鋭く並べていますので作者・久坂部羊先生へすみませんが・・丸写しします。

<自然な老化現象>
肉体的及び機能的な劣化が進む
・目が見えにくくなり、耳が遠くなり、物忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きが鈍くなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになる。
・他につまずく、コケる、落とす、引っかける、食べたものをこぼす、むせる、丸呑みする。
オシッコのチョロッともれ、頻尿、腹圧性尿失禁、切迫性尿失禁、溢流生尿失禁、混合型尿失禁、大便の失禁も生じます。
・見た目も劣化し、ハゲる、白髪(眉毛、睫毛、鼻毛、腋毛、陰毛も)、シワ、シミ、たるみ、イボ、肝斑、色素沈着、青あざもできやすくなる。
・根気もなくなり、好奇心もなくなり、社会に対する関心もなくまり、好きなこと、おもしろいことへの興味も失せる。

精神面での老化(若い人に嫌われるオンパレード)
・頑固になる、キレやすくなる、辛抱がなくなる、愚痴が増える、小言が増える、心配が増える、不安が増える、疑り深くなる、嫉妬が深くなる、自分を抑えられなくなる、待てなくなる、わがままになる。

更に
関節が痛くなり、あちこち痛くなり、手が震え、脚が震えて歩けなくなり、細かい字も書けなくなり、着替え・入浴・食事・排泄・洗顔・移動が出来なくなり最後は寝たきり。

<様々な病気>が襲いかかる
がん、うつ病、認知症、肺炎、心不全、脳血管障害・・・一般的なもの
パーキンソン病、脊柱管狭窄症、変形性膝関節症、リウマチ、膠原病、肺気腫、肝硬変、狭心症・・・苦しい病気
脊髄小脳変性症やALS(筋萎縮性側索硬化症)・・・難病

最後に
下手に老いて苦しんでいる人、油断している人、浮かれ情報に乗って現実を見ずに明るく気楽で前向きな言葉を信じた人・・
いつまでも元気にこだわるといずれ敗北の憂き目を見る。
老いれば機能が劣化する分、あくせくすることが減る。あくせくしても仕方ないし、それで得られることも大したものでないとわかる。そういう知恵が達観に通じる。


新聞川柳に載っていた。最近訃報をはがきなどで友人が二人逝ったのを知りました。それでこの句がしみじみとながら飛び込んできました。
「ああ死んで
いくんだなあと
分かる年」

 

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