2回目は東高円寺の駅から12時45分より歩き始める。このためには昼食は11時からでした。
青梅街道は杉並区を通過中はずっと銀杏並木で、練馬区に入ると欅並木に変わる。一体何本の銀杏が植えられているのであろうか。丁度黄葉がきれいで今年は銀杏を満喫することが出来た。
銀杏の下の燈籠は一対あって、中野駅から妙法寺への参詣者の目印に建立されたそうだ。
その 堀之内妙法寺(日蓮宗本山)は 「厄除祖師」として有名なので寄った。日蓮上人が法難に遭い伊豆に流されたとき、弟子の日朗上人が霊木に祖師の御影を刻んだものがこの寺に伝わったのが「厄除祖師」、11代将軍家斉、12代将軍家慶が立ち寄って休憩したので有名になったという。
仁王門をくぐり、祖師堂へ。文化8年(1811)建立。ここに祖師が安置されている
内部は金箔で覆われていてなかなかに豪華である。
彫刻は、北斎が参考にしたと言われる波の伊八のものだそうだ。素晴らしい。
鉄門。極彩色の鳳凰が上に。ジョサイア・コンドル(河鍋暁斎の弟子・イギリス人)が設計し明治11年建立。重要文化財。
本堂(三軌堂)。日蓮聖人と釈迦如来が安置されている。
日朝堂の中には日朝上人像が奉安されている。身延山第11世行学院で日蓮宗の代表的教学者。勉学で眼病を患い、回復後眼病の人々を救おうと大願を立てたという
廿三夜堂。二十三夜塔は見てきたけれど、お堂は初めてだ。毎月23日に開帳される。
浄行さま(浄行菩薩)、健康の守護神。これも初めて。
有吉佐和子の碑。
このお寺の近くに住んでいて、境内を通って帰宅することも多かったそうだ。
街道に戻る途中に日本橋越後屋の三井家の菩提寺・眞盛寺に寄る。
右が本殿(安永5年(1776))、左奥が客殿。客殿と庫裡は明治26年、細川侯爵邸として建てられたものを譲り受けて移築された。
お地蔵様をはじめいろいろな石像がある。
竹林もあり紅葉もきれいであった。
街道に戻り、少し歩くと新高円寺の駅があり、その前の道を入っていくのが五日市街道で数年前に完歩した。
街道は荻窪駅へ向かっているが、荻窪駅の手前で藤澤ビルの南側の道へとまわりこむと長屋門がある。
この長屋門は名主中田家のものだったが、藤澤家が取得してビルを建てる際に裏側に移築したのだそうだ。
その前には明治天皇荻窪御小休所の石碑がある。明治16年立ち寄られた。
街道は地下道を通って北西側へ続き、太陽が左手に見えるようになる。少し進むと青梅街道と環八の交差点「四面道」だ。
昔、秋葉神社があり、この境内に高さ2mほどの常夜燈があった。下荻窪村・上荻窪村・天沼村・下井草村の四か村の境にあるから四面道と呼ばれるようになったという説と、常夜燈が四か村を照らすので四面燈と呼ばれ、それがやがて四面道となったという説があるらしい。
しばらく歩くと荻窪警察署の斜め前に荻窪八幡神社がある。
寛平年間(889~897)の創建。永承6年(1051)に源頼義が奥州征伐の途中で戦勝祈願し、凱旋の時、神恩に感謝して厚く当社を祀ったと言われる。古いお話です。
祓門からは神門が見える。くぐるとお祓いになるというので通ってみる。本日の大きな目的だ。
拝殿
道灌槙。文明9年(1477)太田道灌が石神井城を攻めるにあたって戦勝祈願した際、植樹したもの。
ベンチで休憩。おやつは荻窪駅ルミネで買った苺大福。お土産はどら焼き。病人は餅が食べられないので、外に出たときの私のおやつは餅系の大福などを買ってもらう。
続いて井草八幡宮。鳥居も大きいし境内が広い。元は春日社だったが、源頼朝が奥州遠征の際に戦勝祈願に立ち寄って以来八幡宮となった。
参道も長く「二の的」という表示がある。流鏑馬が5年に一度行われるのだそうだ。隅田川で一度見たきりなので、鎌倉やここのも見てみたい。
楼門
頼朝公御手植の松。
奥州平定に成功した頼朝はお礼として雌雄2本の松を植えた。雌株は明治時代に枯死、雄株も昭和47年強風で折れてしまったそうで、現在のは2代目の松だそうだ。
こちらが倒れてしまった松の根の一部。
神門を通って拝殿へ。
北参道を通って街道へ出るが、大きな燈籠があり、屋根は銅板葺で八畳分の広さがあるそうで驚く。
その先で練馬区に入ると銀杏並木からケヤキ並木に変わった。
最後に江戸向き地蔵を見る。享保14年(1729)のもの。
3体の地蔵の間に、文政9年(1826)に建立された三山百番供養塔(出羽三山・坂東/秩父/西国の百カ所)がある。
上石神井駅に向かい、西武線乗り継ぎで地元駅へ。帰宅は5時半だった。約24000歩。
(完)
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