青梅街道3 上石神井~田無宿~花小金井
上石神井駅到着12時半、45分に街道に出てスタート。(もう2週間前の1月14日のことです)
青梅街道には街道の説明(江戸城の壁材である石灰を運ぶ道として開かれた)と道しるべの石碑がところどころに立っていた。
このあたりから、古の人々が掘った用水、上水があちらこちらに見られるようになる。
多摩川上水から分岐した千川上水。
お地蔵さんが多い青梅街道であるが、「関のかんかん地蔵」なるものがあり石で叩けば願いが叶うとのことで叩かれた石の部分が細くなって修繕されていた。願い事の多い私は「お願いします」と街道歩きの時によく神頼みする。
下野谷遺跡(平成27年国史跡に指定)に寄る。
この遺跡は石神井川沿いの縄文時代中期の環状集落。今は公園としてきれいに整備されている。
竪穴式住居跡(復元)。
ぼこぼこしているのはお墓だそうだ。ここで大きめの塩大福をご馳走になって前進。
西東京市(田無と保谷が統合された)に入ると真っ赤な大きな鳥居が。
昭和4年、伏見稲荷大神の分霊を奉迎して創建された東伏見稲荷神社だ。
京都とは比較にならないが結構たくさんの鳥居が並ぶ。
拝殿には澤乃井のお酒がたくさん奉納されている。青梅から近いからでしょう。
拝殿裏の境内社は20も並んでいてそれぞれに丁寧にお参りしている若者あり。
初めて知るのがいくつか
佐田彦大神(方針決定の守護神)
田中大神(権太夫。勧善懲悪を司る神)
旧保谷市マンホールで、市の花サザンカと市の鳥シジュウカラがデザインされている。
先ほどから大きな石柱の庚申塔や弘法大師供養塔をいくつか見てきたが、これは六角地蔵石幢である。「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養したのだそうだ。
柳沢(やぎさわ)庚申塔があった。道標を兼ねた庚申塔である。享保8年(1723)の建立。型式は、梵字、ニ鶏、三猿、青面金剛、邪鬼が揃えられた角柱塔である。「是より左ハあうめみち 是より右ハはんのふみち」と書かれている。
その先の交差点が青梅街道(左)と秩父道との追分でここから田無宿だ。
すぐに田無神社がある。初詣客で賑わっている。
式台構えの玄関である国登録有形文化財の参集殿を左に見、石神井川に流れていた田無用水のあとを見、拝殿に至る。
彫刻は立派であるが、内部の本殿は天才彫刻師の島村俊表が手がけたそうだが、見ることはできない。
茅の輪か
神社には5つの龍がいる。黒龍、青龍、撫龍、白龍、赤龍。
これは楠木正成像で奥が青龍。正成の子孫が保谷に移り住んだそうだ。
「田無神社と五木寛之」という説明板があった。大学に合格後上京していたものの、お金がなかったのでしょう、この神社の床下で暮らしたそうだ。知らなかった。
続いて総持寺に向かう。手前にいろいろな柄の西東京市のマンホール、市の木(ケヤキ)、市の木(金木犀)、市の花(田無ツツジ)、市の木(ハクウンボク)、市の花(沈丁花)。
これはハクウンボク
総持寺仁王門。仁王像が大きい。裏には広目天と多聞天が。正面が本堂。
大きなケヤキは、本堂の完成(嘉永3年(1850))を記念して植栽されたものの1本だそうだ。全部入らない。
妙見堂。安政6年(1859)に制作された田無村名主、下田半兵衛の木像が納められているが見られず。
半兵衛は田無神社を再建し、養老畑を以って老人を助け、現代の福祉行政の先駆といわれる名主だったそうだ。
水仙が咲いていた。
お寺の斜め向こうの路地を入ると下田半兵衛の家がある。安政4年(1857)建築で、旧田無市最古の民家。
反対側に稗倉が現存している。
半兵衛は幕府に願い出て飢饉に備える五百石入りの備蓄庫を自費で建設したもの。現存の稗蔵は文久3年(1863)に建て替えられたもの。
用水跡は「やすらぎのこみち」や「ふれあいのこみち」になっている。
小平市に入る。
花小金井駅に向かう途中で最後に円成院に寄る。
開基した矢沢大堅は武州多摩郡上谷保村(現国立市)の出身で宝永2年(1705)10月に黄檗宗に帰依して谷保とこの地にお寺を開いたとのこと。本堂。戸の桟などが凝っている。
旧本堂(開山堂)。燈籠は天明6年(1786)のもの。
花小金井駅から西武線を乗り継ぎ、5時半前帰宅。約22400歩。
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