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2025年1月27日 (月)

青梅街道3 上石神井~田無宿~花小金井

上石神井駅到着12時半、45分に街道に出てスタート。(もう2週間前の1月14日のことです)
青梅街道には街道の説明(江戸城の壁材である石灰を運ぶ道として開かれた)と道しるべの石碑がところどころに立っていた。
このあたりから、古の人々が掘った用水、上水があちらこちらに見られるようになる。
多摩川上水から分岐した千川上水。
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お地蔵さんが多い青梅街道であるが、「関のかんかん地蔵」なるものがあり石で叩けば願いが叶うとのことで叩かれた石の部分が細くなって修繕されていた。願い事の多い私は「お願いします」と街道歩きの時によく神頼みする。
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下野谷遺跡(平成27年国史跡に指定)に寄る。
この遺跡は石神井川沿いの縄文時代中期の環状集落。今は公園としてきれいに整備されている。
竪穴式住居跡(復元)。
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ぼこぼこしているのはお墓だそうだ。ここで大きめの塩大福をご馳走になって前進。
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西東京市(田無と保谷が統合された)に入ると真っ赤な大きな鳥居が。
昭和4年、伏見稲荷大神の分霊を奉迎して創建された東伏見稲荷神社だ。
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京都とは比較にならないが結構たくさんの鳥居が並ぶ。
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拝殿には澤乃井のお酒がたくさん奉納されている。青梅から近いからでしょう。
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拝殿裏の境内社は20も並んでいてそれぞれに丁寧にお参りしている若者あり。
初めて知るのがいくつか
佐田彦大神(方針決定の守護神)
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田中大神(権太夫。勧善懲悪を司る神)

旧保谷市マンホールで、市の花サザンカと市の鳥シジュウカラがデザインされている。
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先ほどから大きな石柱の庚申塔や弘法大師供養塔をいくつか見てきたが、これは六角地蔵石幢である。「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養したのだそうだ。
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柳沢(やぎさわ)庚申塔があった。道標を兼ねた庚申塔である。享保8年(1723)の建立。型式は、梵字、ニ鶏、三猿、青面金剛、邪鬼が揃えられた角柱塔である。「是より左ハあうめみち 是より右ハはんのふみち」と書かれている。
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その先の交差点が青梅街道(左)と秩父道との追分でここから田無宿だ。

すぐに田無神社がある。初詣客で賑わっている。
式台構えの玄関である国登録有形文化財の参集殿を左に見、石神井川に流れていた田無用水のあとを見、拝殿に至る。
彫刻は立派であるが、内部の本殿は天才彫刻師の島村俊表が手がけたそうだが、見ることはできない。
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茅の輪か
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神社には5つの龍がいる。黒龍、青龍、撫龍、白龍、赤龍。
これは楠木正成像で奥が青龍。正成の子孫が保谷に移り住んだそうだ。
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「田無神社と五木寛之」という説明板があった。大学に合格後上京していたものの、お金がなかったのでしょう、この神社の床下で暮らしたそうだ。知らなかった。

続いて総持寺に向かう。手前にいろいろな柄の西東京市のマンホール、市の木(ケヤキ)、市の木(金木犀)、市の花(田無ツツジ)、市の木(ハクウンボク)、市の花(沈丁花)。
これはハクウンボク
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総持寺仁王門。仁王像が大きい。裏には広目天と多聞天が。正面が本堂。
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大きなケヤキは、本堂の完成(嘉永3年(1850))を記念して植栽されたものの1本だそうだ。全部入らない。
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妙見堂。安政6年(1859)に制作された田無村名主、下田半兵衛の木像が納められているが見られず。
半兵衛は田無神社を再建し、養老畑を以って老人を助け、現代の福祉行政の先駆といわれる名主だったそうだ。
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水仙が咲いていた。
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お寺の斜め向こうの路地を入ると下田半兵衛の家がある。安政4年(1857)建築で、旧田無市最古の民家。
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反対側に稗倉が現存している。
半兵衛は幕府に願い出て飢饉に備える五百石入りの備蓄庫を自費で建設したもの。現存の稗蔵は文久3年(1863)に建て替えられたもの。
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用水跡は「やすらぎのこみち」や「ふれあいのこみち」になっている。
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ひまわりのマンホールも発見。マンホールの種類が多い市だ。
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コートを着せられて顔も見えないお地蔵様。
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次にあった三猿だけの庚申塔が珍しい。
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小平市に入る。

花小金井駅に向かう途中で最後に円成院に寄る。
開基した矢沢大堅は武州多摩郡上谷保村(現国立市)の出身で宝永2年(1705)10月に黄檗宗に帰依して谷保とこの地にお寺を開いたとのこと。本堂。戸の桟などが凝っている。
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旧本堂(開山堂)。燈籠は天明6年(1786)のもの。
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庚申塔と馬頭観音が2基。
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花小金井駅から西武線を乗り継ぎ、5時半前帰宅。約22400歩。

 

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コメント

友人が田無市にいますので、30年前訪問しました。
しかし、夕方まで喋りすぎて、あたりを案内して
もらう時間がなくなり、この度の写真で初めて
拝見するところばかりです。
宿があったことも知りませんでした。

投稿: matsubara | 2025年1月28日 (火) 08:37

★matsubaraさま

こんにちは。
今西東京市ですが、旧田無市の田無神社は地域の氏神でしょうか。とても賑わっていました。
すぐ近くの総持寺の前を通って雑学大学に通っていましたが、コロナで無くなって、もう懐かしいと思うほどのところでした。
中野宿の次がここの田無宿だったのですね。
田畑ばかりだった昔ですが、今は住宅がびっしりです。野菜スタンドで安い人参とほうれん草を買って帰りました。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2025年1月28日 (火) 09:16

こんにちは
 
全く知らない地域ですが、縄文時代の遺跡あり、立派な寺社が
数多くありで、はるか古から人々の暮らしが続いてきた歴史が
感じられました。
ご紹介の中でいちばん「おっ!」となったのが、「田無神社に木正成像があり、正成の子孫が保谷に移り住んだ」
ということ。しばらく前の新聞小説が楠木正成の嫡男正行が
主人公のもので、彼の討ち死に直前までで完となっていたのです。
小説の中で正行は未婚で子供もいなかったので、
調べもせずに絶えたのかな‥と思っていたのが、
思いがけなく子孫がいたと知って何やらホッとしました。
弟から子孫が繋がっていったのですね。
それにしても、tonaさんの街道歩きから知ることになるとは‥
こういうのも縁なのでしょうね(^^)
 

投稿: ポージィ | 2025年1月28日 (火) 15:28

★ポージィさま

こんにちは。
今日は暖かくなりましたね。
今日は歯医者さんの訪問診療を初めて受けました。比較的軽かったので、電気を使った道具はさすがに持参は無く、初めて自宅での歯の診療を見学しました。

都の郊外の歩きとなったのですが、遺跡あり、石像や立派な寺社ありで、他の街道歩きと似ているようなそうでないような感じでした。
楠木正成の嫡男正行は討ち死にしたのでしたね。子供はいなかったのですよね。
なるほど弟さんから繋がった楠木家だったのですか。また新しいことを知りました。となると楠木正成関係の本を読みたくなります。
悲劇は読むのが苦しいのですが。
教えていただきありがとうございました。

投稿: tona | 2025年1月28日 (火) 16:11

こんにちは。玉川上水から引かれた上水はいくつかありますね。この界隈は大きな川が無く貴重な水だったようですね。

投稿: 多摩NTの住人 | 2025年1月28日 (火) 18:36

★多摩NTの住人さま

こんにちは。
なるほど大きな川がなかったので上水が引かれたのですね。
勉強になりました。
ありがとうございました。

投稿: tona | 2025年1月29日 (水) 08:45

友人が西東京市に住んでいます
自分には直接関係ないのですが何となく身近に感じられ興味深く読みました。
縄文時代の遺跡まである地とは知りませんでした
楠正行がモデルの小説「人よ、花よ」は私も読みました
でもポージィさんのように思いを馳せることもありませんでしたが
その子孫がこの地にと聞いてなるほどでした。
コートを着せられたお地蔵様、
寒さの中に立つお地蔵様を思う心根が伝わりますがお顔が隠れてしまうまでとは(;^_^A
五木寛之の話もびっくりですが若い時のことを書いたものなどからあり得ると思いました


投稿: ビオラ | 2025年1月29日 (水) 13:31

★ビオラさま

西東京市は我が家からは西武線で行くことが出来近いです。ここの雑学大学に通っていましたので、その前を通り懐かしかったです。
こんなところにも遺跡があって、遠く塩尻の遺跡を思い出しましたあそこは凄かったです。

『人よ花よ』も五木寛之の随筆も読んでいませんのでこれから読む楽しみができました。
ありがとうございます。
お地蔵様、白いガウンみたいのを着せられたのもいました。
この街道ではお地蔵さまが一番多いように感じました。

投稿: tona | 2025年1月29日 (水) 19:29

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