2018年6月14日 (木)

東海道五十三次歩き24 美合~岡崎宿~新安城(後編)

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●岡崎宿の続き

・いよいよ岡崎公園の中の岡崎城へ27_450x300
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                                    龍神神社の前のご神馬
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  天守閣(昭和34年復興)  手前右は亀の台座の上に家康公の遺訓碑が。
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家康は1542年にここで生まれ6歳で織田信秀の人質、8歳で今川義元の人質に、19歳の時の桶狭間の戦いにて義元戦死でここに戻る(1560)。10年後1570年に嫡男信康を城主とし、自分は浜松へ。秀吉によって家康が関東に移されると、二十七曲を造った秀吉の家臣・田中吉政が城主。江戸時代になってからは岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏と家格の高い譜代大名が城主となったと説明されていた。他、武具や城下町の産業(鋳物・刀鍛冶、石工道具、三河花火、矢作川舟運、八丁味噌など)やジオラマが展示されていた。
                                      5階展望台からの景色
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石垣めぐりのマップに寄れば、岡崎城跡には見えないものも合わせて23種類の石垣が紹介されている。岡崎産の花崗岩が使われている。
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またまた芭蕉句碑を見、家康公の銅像、花時計、二の丸の跡の能楽堂、東照公産湯の井戸などを見学した。
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・城から八丁ある八帖町、八丁味噌発祥の地だ。「い」から始まった標柱の最後に見た「れ」は1枚板で草履も絵で描いてあった。
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カクキュー(1664年創業)とまるや(1337年創業)がある。

まずカクキューの方で「味噌煮込みうどん」の昼食をとる。白い大きな食品は「たま麩」だそうだ。八丁味噌(豆味噌)の味が少々鹹いけど、汗をかく歩きには塩分補給になった。
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                  自販機が八丁味噌色
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まるやで工場内見学
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高さ2m、重さ700㎏の木桶に約6トンの味噌が入れられ、その上に3トンの重石が円錐状に積み上げられる。一人前に積めるようになるには10年かかるそうだ。八丁味噌が欧米、オーストラリアやニュージーランドに輸出されているそうだ。
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カクキューとまるやに挟まれた旧道を進み矢作橋(東海道三大大橋)を渡る。江戸時代9回も架け替えられたとか。広重の岡崎宿の絵に描かれている橋だ。
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渡った先に蜂須賀小六と日吉丸の出合之像がある。秀吉は出世前はこんなところにいたのだ。この辺りで岡崎宿とお別れ。
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◆岡崎宿から新安城駅まで

・家康の長男信康の肖像画や遺品があるという勝蓮寺は見られないのでパス。弥五謄神社(やごとう神社)を通り過ぎ、誓願寺十王堂を覗く。この寺は浄瑠璃姫と義経にまつわる伝説があるらしい。
                    十王堂の中

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・竊樹神社(ひそこ)という字も読みも難しい神社を過ぎ、薬王寺の手前に「三河国薬王寺刀匠鍛刀造趾碑」がある。室町後期から薬王寺派の刀鍛冶集団が住んでいたそうだ。
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安城市に入って松並木が続く。松の根元にはマツバギクがずっと植えられキラキラ輝いている。
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         暑いので夕方近くならないと見られない猫、癒される。
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・東高根用水祈念碑や予科練の碑( 第一岡崎海軍航空隊跡)、一里塚跡(83番目)を過ぎた所で安城市のマンホールがあった。安城市発祥の三河万歳の扇と鼓。
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・永安寺 助郷役を宿場から命じられたとき、村の窮状を訴えて免除を願い出た庄屋・柴田助太夫は1677年に死罪になった。その恩に感謝し村の人々が彼の旧宅跡に草庵を建立、のちに寺として整えられた。その頃からある雲竜の松で推定350年。枝張りが東西17.9m、南北24.7mで、高さ1.5mの所から雲を得て昇ろうとする竜のようでこの名が付いた。何て大きな立派な松なのでしょう!
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                三十三所観音もあった
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明治川神社交差点に立つのは明治用水記念碑。矢作川から水を引き、西三河を灌漑するための用水路で、この一帯は「日本のデンマーク」と言われる農業地帯となったそうだ。

                また松並木で涼しく感じる
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・扁額が落ちてしまっている青麻神社は道端に石造物がごろごろとあるだけだが、明治初期に活躍した力士、濱碇(はまいかり)の像が目立つ。
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ここを左に曲がって新安城駅へ。豊橋からひかりに乗れる時間帯だったが、金曜日で混んでいる模様で、先に出るこだまに乗車したが2時間10分もかかって東京駅に到着。家には10時過ぎの到着になった。
お弁当もほとんど売り切れだったが、買えたのはおかずがなくてわびしい助六寿司だった。が美味しかった。
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2018年6月11日 (月)

東海道五十三次歩き24 美合~岡崎宿~新安城(前編)

5/25(金) 先の戦争の大空襲で往時の面影が殆どない岡崎宿だけれどもいろいろ力を入れている。その岡崎宿と岡崎城、八丁味噌の発祥地で営業を続けている2つの老舗の見学を中心に歩きました。暑くなり、1年ぶりのアイスクリーム日和でした。40662歩。
新幹線の殺傷事件の犯人が岡崎の人と聞いてびっくり。
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◆美合駅から岡崎宿まで

・プローディアが咲いていた。庭に咲かせておられるブログ友Sさまに教えていただきました。ありがとうございました。
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・地蔵寺 名前の通り、いろいろなお地蔵さまに会える。六地蔵、聖観音菩薩、子育地蔵尊、抱き地蔵、水をかけると心もきれいになる水掛地蔵尊などなど。それに愛知県に入ってから知って気になる、鯖大師や三面馬頭観音にも会えた。
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・河原で馬がくつろいでいる。4月に行われる家康行列のための馬だという。
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・岡崎市のまたまた別バージョンのマンホール。岡崎城と乙川の五万石船である。
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・大岡越前守忠相の西大平藩陣屋跡・・大岡忠相は将軍吉宗の口添えでこの岡崎の領地を加増され、72歳のときに1万石の大名になった。町奉行から大名になったのは大岡忠相のみである。大岡家は江戸に常駐する定府大名で、家臣の多くは江戸に住んでいて、この陣屋に詰めていたのはわずか十数人だったそうだ。廃藩置県まで7代にわたって治めた。私の故郷茅ヶ崎にも領地があって、墓所は茅ヶ崎だし、大岡祭も4月に開かれていた。
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陣屋内に大岡稲荷神社がある。大岡越前守はここの領地に近い豊川稲荷を信仰していたので、社殿を建立した。
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・ここからすぐ近くに常夜灯と地蔵堂があって、地蔵尊や三面六臂の馬頭観音が並んでいる。
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・大平一里塚(80里)向かい側に立派な一里塚が残っているが、片方のみで手前側はなくなってしまっていた。国指定の文化財だ。
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・大平松並木
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●岡崎宿(38番目の宿)藤川宿から6.7㎞。宿の長さは約4.5㎞位か、とても長い。日本橋から約335.9㎞。本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。

・いよいよ岡崎城下の入り口、冠木門と二十七曲(まがり)の説明板があった。手元の風人社の地図で曲りをなぞってみると確かに27回曲がっている。

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宿の枡形は参勤交代の大名の鉢合わせを防止するために設けられた。城下町の枡形は外敵からの防衛のためだった。岡崎は宿と城下町を兼ねるが主なる目的は外的防御のためだった。
この大改革を行ったのが、家康が関東移封後岡崎城主となった田中吉政だった。

・複雑に曲がるが、角ごとにこんな標柱が立っているので迷わず行ける、というか私は娘の後にくっついて行っただけだが。標柱の上に草履がのっているのが面白い。
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・初めての角を曲がると根石原観音堂がある。この辺りに住む90歳に近いと思われるおばあさんが観音堂のリーフレットをくださった。何でも毎日お詣りしていた御主人がピンコロで昨年亡くなったのはこの観音様のお蔭だったと。あやかりたく通りがかりの者だけどお詣りした。
家康が初陣の時祈願し軍功を上げた。本尊は行基作の観世音菩薩。
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・宿の中心の伝馬町の通りの両側に10ずつ20も街道にちなんだ石造物が並ぶ。なかなか可愛いので全部写真を撮ってしまう。お茶壺道中、朝鮮通信使、助郷、飯盛女、田中吉政、人馬継立、三度飛脚、塩座、御馳走屋敷、籠田惣門、旅篭屋、市隠亭、一里塚、往来手形、作法触れ、あわ雪茶屋、矢作橋、二十七曲、駒牽朱印、本陣・脇本陣。
この説明を読んでいると、当時の宿場での特に大名や偉い人に対しての接待がいかに大変かがよくわかった。

お茶壺道中・・宇治茶を幕府に献上するお茶奉行をもてなすための負担が大きく各宿場から恐れられていたとか。
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                      朝鮮通信使
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          御馳走屋敷 岡崎藩の迎賓館的役割を持った屋敷
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          籠田惣門 東海道から城郭内に入る門の一つ
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作法触れ 行列が来ると町奉行から、前日から下肥をまくなとか、手桶・帚・提灯を出しておくこと、通行に際しては土下座をすることなど指示され御馳走触れも出され、出迎え支度が大変だった。
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・岡崎信用金庫資料館(日本や世界の貨幣の歴史や展示があるそうだ) 最初は岡崎銀行本店だった。国の有形文化財。
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・東総門跡
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・又曲がって田中吉政像(二十七曲を造った岡崎城主)
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・また何度か曲がって大林寺へ 
戦国時代の松平氏の岡崎城の守りの拠点となった寺
家康の祖父・松平清康と夫人春姫の墓、家康の父・広忠の墓がある。
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・向かいには唐弓弦(とうゆみづる)という看板のかかった家があった。かつての岡崎は三河木綿の特産地だった。唐弓弦とは江戸時代に使用されていた綿をうつ道具でこれを扱っていた店だ。
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・曲がった所に白山神社があって、唐弓弦と取引があった大阪の問屋が奉納した石灯籠が残る。
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2018年6月 5日 (火)

東海道五十三次歩き23 国府~御油宿・赤坂宿・藤川宿~美合(後編)

◆赤坂宿藤川宿の間の続き・・本宿(間宿)

・岡崎市に入る。徳川家康が生まれた所!
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・岡崎市に入ってすぐ、本宿村の説明板があり、冠木門がある。本宿は赤坂宿と藤川宿の中間にあり、立場であり、旅人の休息場としても繁盛した。
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・岡崎市のマンホールは岡崎城と矢作橋がデザインされている
岡崎市の別バージョンのマンホール。岡崎城は同じだが桜と三河花火のデザイン。30_450x428
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・名鉄電車が数種類あって時々東海道の脇を走り抜ける。われら亀の歩みに対して早いなあ!
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・左手に大きな法蔵寺がある。常夜灯は文政11年のもの。
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これは御草紙掛松。幼少期の家康はこの寺で手習いしその紙を干したという松で、現在の松は四代目だそうだ。
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立派な鐘楼門をくぐった左には行基が植えたと言われるイヌマキと家康公お手植えのヤマザクラがあり、六角堂を見て少し上がったところに近藤勇の首塚がある。板橋で処刑され、京都で晒された首を同士が盗み、近藤が敬慕していた和尚の転任先のこのお寺に埋葬したという。体は三鷹のお寺に埋葬されている。
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家康の長女亀姫、異母兄弟忠政、三方ヶ原合戦で死んだ者たちの墓もある。
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            東照宮(江戸初期からあるそうだ)もあった
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・本宿一里塚跡(78里目)を見て進むと。長屋門が見えてきた。医師の宇津野龍碩氏邸跡である。蘭方医で当時としては画期的な種痘を施したそうだ。
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・名電山中駅を過ぎた先で跨線橋を渡ると、興円寺があり、ここでまたまた馬頭観音(これは三面六臂)に出会う。
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                    小さな不動明王も!
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・電車からも良く見える標高106mの小山に山中八幡宮がある
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三河一向一揆に破れ逃げてきた家康が隠れたという狭い洞窟(鳩ヶ窟)がある。洞窟から鳩が出てきたため、人がいるところに鳩がいるわけはないと追っ手が通りすぎ、家康は助かったという。
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●藤川宿(37番目の宿)赤坂宿から8.8㎞。宿の長さは1.4㎞位か。日本橋から約328.2㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒。
規模が小さかったので二川宿同様、加宿村が求められ山中郷の市場村を東に移転させたそうだ。

・旧道に入ると、藤沢宿の入り口の東棒鼻があった。 広重が藤川宿の絵に描いている通りに再現されていた。宿の出入り口には見附とか木戸とか棒鼻や江戸方・京方入口などといろいろな呼び方があるものだ。
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・藤川といえば、むらさき麦で有名だそうだ。むらさき麦の畑があった。300年前の芭蕉の句「ここも三河 むらさき麦のかきつばた」にも謳われたように藤川にはむらさき麦が栽培されていたが、戦後作られなくなって幻の麦となっていたのが栽培されるようになった。5月中旬から下旬にかけて紫色に実る。むらさき麦を使った鬼まんじゅうや麺類などが、後に寄った藤川駅そばの道の駅・藤沢宿で売られている。
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・格子造りの家がぽつぽつと残る。旧街道らしい雰囲気でなかなか良い。
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・明星院には見られなかったが、片目不動尊がある。 家康に放たれた矢を見知らぬ武士が身代わりとなって受け、片目をつぶしたままいなくなった。のちに明星院を訪れたところ、祀られていた不動尊がそのときの武士にそっくりで片目が潰れていたという。その後大名たちの崇敬も高く、東海道上下向の際には立ち寄り武運を祈ったという。
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・称名寺には三十三所観音菩薩があり、馬頭観音の他、十一面観音がたくさんあった。
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・公園になっている森川家本陣跡には高札場が再現され、ここにもむらさき麦が栽培されていた。
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・お隣は橘屋脇本陣跡。 門は享保4年に建てられたもので、中の建物は無人の藤川宿資料館になっている。ジオラマや宿の説明があった。
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・西棒鼻
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◆藤川宿から美合駅まで

・藤川駅の所に大きな家康の像があった
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・西棒鼻の斜め向かいに十王堂がある。ここに上に書いたむらさき麦の芭蕉句碑があってこの近辺で一番大きい句碑だそうだ。なるほど巨大だ。
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・藤川宿の一里塚跡(79里目)を過ぎ、吉良道を過ぎると藤川の松並木が現れる。1㎞の間に90本。
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・この日最後に阿弥陀寺で、しつっこいようだがまた三面馬頭観音を写して大満足。
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・美合駅に到着し豊橋に戻り、駅弁「吉田伝説」を買って、前回同様ひかりに乗って、家に9時半頃到着いたしました。
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2018年6月 2日 (土)

東海道五十三次歩き23 国府~御油宿・赤坂宿・藤川宿~美合(前編)

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5/17に豊橋まで新幹線、それから前回乗車駅の国府で降りるともう御油宿はすぐです。そして御油宿と赤坂宿は東海道の宿駅間距離では最も短く1.7㎞しかない。その次の藤川宿までは8.8㎞で、これまた藤川駅は丁度いい電車がないので次の駅・美合まで歩きました。41623歩でした。この三宿には資料館がそれぞれあり、前後の宿、吉田と岡崎では城が資料館になっていていろいろ学べるようになっていました。資料館に行くたびに思う事:古文書がスラスラ読めたらどんなによかったか!以前カルチャーセンターで学んだ古文書講座は半年で挫折で、今古文書に見入っても何も読めない。
またこの区間では三面六臂または(八臂)の馬頭観音をいくつか見付けて、新たな石像を知って悦に入りました。

◆国府から御油宿までの間

・国府観音 この日は人形供養の日で、すでにたくさんの人形が運び込まれていた
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                                    西国三十三所観音菩薩像
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おびんずるさまは十六羅漢の第一の仏様で釈迦の直弟子だったのが、酒で破門され、その後修行して医者の家に生まれたので体を治す仏様になった・・・ということを初めて知る。
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・大社神社のこの長い石垣はすぐ近く田沼陣屋のものが移築されたそうだ。収賄で有名な田沼意次といえばチャンバラ劇「剣客商売」に娘とともに出てくる。この劇ではいい人。
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がましん(我が家の方は多摩信)蒲郡信用金庫のガマが可愛い
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・一里塚(76里目)を通り過ぎると、姫街道の追分がある。見付宿から浜名湖の北を回ってここに辿り着く。何時か歩いてみたいとは思っている。
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●御油宿(35番目の宿)吉田宿から10.3㎞。宿の長さも短いようだ。日本橋から約316.5㎞。本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠62軒。

・御油橋を渡った所から御油宿だ

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・高札場跡のはす向かいに、花・ベルツの実家があった。
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スモークツリー
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・問屋場跡を過ぎると御油松並木資料館がある。入口に樹齢380年の家康が最初に植えたと言われる大きな松の切株がある。中には御油宿の復元模型や広重の浮世絵版画、近世交通文書や旅装束などが展示されていた。
ちなみに御油の広重の絵は「旅人留女」で旅人を強引に宿へ引っ張りこもうとする留女の姿が描かれ、凄い力だったとか、可笑しみを誘う。「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、何のよしみに江戸通い」と当時の俗謡が飯盛り女が多かったことを物語る。
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・鈴木本陣跡の先には東林寺があり、飯盛り女や留女など遊女の墓がある。見つからなかったが。
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この辺りには軒並みにツバメの巣があり可愛い子供たちが親の帰りを首を長くして待っている
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・御油宿の東海道
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・御油の松並木は国の天然記念物で、1604年奉行の大久保長安によって植樹された。次の赤坂宿まで600mに渡って300本並んでいる。
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ここで「黒松」という松ぼっくり型最中を買って食べる
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●赤坂宿(36番目の宿)御油宿から1.7㎞。宿の長さは約1㎞。日本橋から約318.3㎞。本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠62軒。

・東見附跡を過ぎるとすぐ関川神社に「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」の芭蕉句碑が立つ。夏の夜は短くすぐ明けてしまうことを、御油・赤坂間の距離の短さとかけた句。

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・問屋場跡に再現された高札場
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・浄泉寺には広重の赤坂宿の絵に描かれるソテツがある。左側には観音菩薩像群が。
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    後ほど見た豊川市のマンホールにはこの広重の絵が描かれていた
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・よらまいかん 無料の休憩所は江戸時代をイメージしている
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・隣の音羽生涯会館には赤坂宿場資料室があって、鍵であけてもらってここも見学。名物は草鞋だったそうだ。飯盛り女の身売り証文などもある。25歳まで生きられた人は殆どいなかったという。
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西見附跡を見て赤坂宿は終わる。次は元宿を経て藤川宿へと歩く。

◆赤坂宿から藤川宿の間

・杉森八幡神社 左は樹齢1000年の根が1本の夫婦楠・・大きい!右は年1回歌舞伎の公演が行われる舞台で、公演の際には小屋がけと呼ばれる竹のドーム屋根がついた伝統的な観客席が造られるのだそうだ。

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・毘沙門天標柱や一里山庚申道などを過ぎて本日の昼食へ。豊川市だけれども豊橋市で有名なヤマサちくわの音羽インター店で「ちくわうどんのいなり付き」。関西味のうどんつゆで北九州で慣れていたので美味しく食べられる。
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・一里塚(77里)を過ぎ、名電長沢駅付近の長沢城跡(東西三河の境目にあり、中世において戦略上重要な位置にあった)も見学せず。
「長沢の三尊種子板碑」県下最古の在銘板碑は正安2年(1300年)であり、梵字の石材工芸品である。板碑なのに石材?種子?謎だらけの宿題を背負わされた石碑となった。
https://kotobank.jp/word/板碑-31140

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・田んぼ 田植えは終わっているが、まだ堰が止められていない田圃。この近くには小学生が田植えした田圃があってめちゃめちゃに植えられていたのが微笑ましかった。
覗いてみるとオタマジャクシがたくさん見えた。
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・古い格子の家も多い
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・観音堂跡の三面の馬頭観音!
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2018年5月23日 (水)

東海道五十三次歩き22 二川宿~吉田宿~国府(後編)

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●吉田宿の続き

・吉田城の跡地・豊橋公園に入り、吉田城跡へ向かう。
吉田城は1505年に築城されたが、今川、武田、徳川のあと1590年池田輝政が入封し、関ケ原の戦いの後は次々と城主が変わった。明治に廃城後は地震火事で焼失。現在は昭和29年再建の鉄櫓があり中の資料室が無料で見られ、歴史や町の紹介、浮世絵などが展示されている。
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                                  城から豊川を望む景色が美しい
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                                              石垣の残り
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            金柑丸跡に弥健神社があり、大きな神武天皇像が立っている。
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・公園を出て、国指定の重要文化財ハリストス正教会の建物を見る。大正2年の建物。
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・隣の安久美神戸神明社は鬼祭(国重要無形民俗文化財・2/10,11)で有名。赤鬼の迫力あること。宮司さんが照明を付けて見せてくれました。
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・日進院には100体の満願石仏がある。どれも欲張って成就したく、食欲増進にも気が引かれるけれども、健康と呆け封じの石仏に祈りました。
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・二川宿にもあったが、この辺りにも普通の家に手筒花火が置かれている。
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・西総門(復元されたもの)。ここで吉田宿が終わる。
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◆吉田宿から国府までの間

・芭蕉句碑を通り過ぎ、湊明明社に入ると奥には弁天神社がある。池があると美しい。

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・豊橋を渡る
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・豊川稲荷遥拝所(この日の到達点国府から4つ目の終点にあるが、行かれなかったのでここで遥拝)
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・聖眼寺の芭蕉句碑、芭蕉がここで詠んだという。ここは家康が吉田城を攻略した際、本陣を置いた寺。
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・下地一里塚(74里目)を通り過ぎると昔の家をしばしば見かける。まだ住んでいる家も多い。住むには不便でしょうが見る側にとっては風情があってなぜか懐かしい。
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・瓜郷遺跡 弥生時代中期から古墳時代前期の集落の跡だそうで、国指定史跡だ。農耕、漁労、狩猟が行われていたとう。竪穴住居が復元されている。中学生頃登呂遺跡に神奈川県から遠足に行ったことを思い出した。
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         チガヤと思われるが、今年はチガヤも早いです。
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・豊川市に入り豊川放水路を渡る。
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兎足(うたり)神社へ。ここは徐福伝説でも有名だ。
今はない「子だが橋」と兎足神社にまつわる話が伝わる。千年前、兎足人社には人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にした。ある年、ある父母が見た最初の女性が我が子であった。とても迷ったが「子だが止むを得ん」とわが子を生贄にして神に奉った。そこから「子だが橋」と名が付けられたという。
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・明光寺には、また八十八カ所巡りがあった。この間の所ではお団子が全部に供えられていた。三面の馬頭観音発見するのがこの辺りの楽しみになった。ここでも発見。
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・伊奈村立場茶屋(俗称:茶屋本陣跡)。吉田宿と御油宿の中間にあたりに立場が設けられた。このあたりの地名を茶屋という。
芭蕉の句碑と鳥巣の句碑がある。このあたりは芭蕉の句碑が多い。芭蕉ファンにとってはたまらない処でしょう。
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・迦具土神社、伊奈一里塚跡(75里目)を通り過ぎ、速須佐之男神社へ。何故か二宮金次郎の像があった。
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・ 半僧坊大権現の小社がのった石柱が珍しい。 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が開いた静岡県浜松市にある方広寺が半僧坊の本元。『厄難消除・海上等交通の安全・火災消除・諸願満足の権現様』として信仰を集めている。鎌倉建長寺の鎮守にもなっている。
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名鉄国府駅へと向かう。豊橋行きの特急が来てきて、7分間で今日一日歩いた所を通過して豊橋に到着。
豊橋には殆ど停車しないひかりに乗れそうだったので慌てて売り切れ続出の残りのお弁当を買い乗車したら座れた。稲荷弁当と娘のおかずのある弁当と分けあって食べる。
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2018年5月18日 (金)

東海道五十三次歩き22 二川宿~吉田宿~国府(前編)

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5/10(木)この日新幹線で豊橋まで行き、東海道線で一駅前の二川駅に戻りました。遠くなって国分寺5:33の電車です。
二川宿から吉田宿(豊橋)を経て、ここからは東海道線と離れ、東海道は名鉄線沿いとなるので、名鉄の駅の伊奈駅、小田渕駅、国府(こう)駅まで歩いて、国府駅から豊橋駅に戻り、たまたま殆ど豊橋には停まらない新幹線ひかりに乗れたので、東京駅には比較的早く到着。中央線が人身事故ですんなり乗れなかったのが残念でありましたが、午後に10時前には帰り着きました。48439歩。階段870段。

◆二川宿から吉田宿までの間

岩屋観音を見るために岩屋山古道の方を歩いて岩屋緑地に入り観音様と展望台に登ってから、東海道へと降りて行った。

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・小淵志ち銅像 群馬県生まれの志ちが伊勢へ向かう途中、二川に立ち寄り、ここの玉繭から製糸法に成功し、工場を創業。昭和初期には二川・豊橋はは全国生産の半数を占めたという。この方は富岡製糸場で技術を学んだのであろうか?
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・岩屋観音は730年に行基がこの地を訪れたとき、千手観音像を刻んで岩穴に安置したことに始まる。
聖観音立像は岩屋山山頂に1754年建立された。昭和19年(1944)、戦争で金属供出され、戦後昭和25年に再建された。

      鯖弘法大師像  有名な大師と鯖のお話。左手に鯖を持ったお姿。
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                     石像群
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                     岩屋観音堂
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              登って行くといろいろな石像が現れる
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              観音への道は険しく鎖を伝って登って行く
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                      岩屋観音253x450
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            向こうの山に展望台があり、この後登った。
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・展望台への階段は256段。観音様の所と同じ展望を楽しむ。
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                東海道に戻るとブラシノキが満開
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・面影のない飯村一里塚を過ぎ、しばらく行くと疝気の神様を祭る白山神社がある。
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・河原地蔵尊 一番左側の石像は三面の馬頭観音ようだ
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・寿泉寺の立派な門と三重塔
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・東三河にも立派な秋葉山常夜灯がある
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●吉田宿(34番目の宿)二川宿から6.1㎞、日本橋から約304㎞、宿の長さ約2㎞位か、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒。
 吉田が豊橋に改称したのは明治維新で吉田藩が消滅した明治2年。しかし鍛冶町、呉服町、札木町など町名がいくつか残っている。吉田宿は豊橋市のほぼ中心部にあたる。空襲でやられてここも江戸時代の遺構は殆ど残っていない。

・東総門跡(模型)が吉田宿の東の入口。江戸時代には番所があって午前6時から午後10時まで通行できた。
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・城下町特有の曲尺手(かねんて)。鉤型に左折、右折を繰り返している。
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・マンホール 公会堂、市電、市の花のツツジがデザインされている豊橋市の別バージョン。
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・札木 市電の駅 この辺りが宿の中心であった
1925年(大正14)以来走る路面電車には色々な広告がデザインされ5台くらい見たであろうか。
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・問屋場跡の道路の先には本陣跡の碑が建つ
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・きく宗 文政年間(1818~30)創業の老舗で「菜飯田楽」一筋の店。
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こんがり焼いた自家製豆腐に秘伝の味噌を塗った田楽と、茹でた大根の葉をご飯に混ぜた菜飯、お吸い物、漬物と、あとで黍団子が出てきた。味噌は豆味噌で、ここ豊橋・東三河は東西食文化の境界と言われる。鰻も関東風の「背開き」「蒸し」と関西風の「腹開き」「焼き」が共存しているそうだ。
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若松園 井上靖の『しろばんば』に出てくる和菓子屋。それは黄色いゼリーでとても高価である。バラ売り無しであきらめる。
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・手筒花火発祥の地という吉田神社(明治時代は百花園という花畑と料亭があった)に寄り、横断歩道の上から吉田大橋を見る。
  吉田大橋は広重の絵では豊川橋となっている。橋上には大名行列が描かれ、豊川東岸の吉田城には足場が組まれ普請の様子が描かれている。幕府の直轄橋で矢作橋(愛知県岡崎市)と瀬田の唐橋(滋賀県大津市)とともに東海道三大橋のひとつ。
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この後、いよいよ吉田城へ

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2018年5月12日 (土)

東海道五十三次歩き21&1-2 箱根~三島~沼津(後編)

◆箱根宿から三島宿までの間の続き

・山中城跡は小田原に本城のあった北条氏が西の要として永禄年間(1558~1570)に築城した中世最末期の山城であったが、1590年に秀吉によって一日で落城したと伝えられる。北の丸、本丸、二の丸、三の丸、西ノ丸、岱崎(だいさき)出丸などの曲輪、架橋、箱井戸跡など400年前の遺構が復元されている山城は全国的にも珍しい。箱根山の自然の地形を巧みに利用している。障子掘や畝掘が発見され、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという北条流築城術の特徴を示すものとしても注目されている。

北の丸 真ん中右の白い群生はトキワハゼ。城跡の中のあちこちに咲いていた。19_450x300
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                                 西ノ丸、櫓台 ツツジがきれい
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                                             障子掘
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                                          西櫓から愛鷹山 
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                                 同じ西櫓から富士山見えず
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                                                 畝掘
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                                                     藤 
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                                            田尻の池
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山中城跡売店で昼食 名物の寒ざらし団子とおにぎり これから歩くのには力が出る食べ物ではある。白い方は抹茶塩で、草団子の方は味噌だれでとても美味しい。おばあさんが1人でやっているのだ。
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三ノ丸にある宗閑寺境内には山中城将の墓。隣には豊臣方の墓もある。
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芝切地蔵が収まるお堂の境内にある虫歯地蔵が本当に歯が痛そうでそれでいて可愛い。
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道路を挟んで岱崎出丸がある。秀吉の小田原征伐に備え急ぎ増築された曲輪。古くは御馬場跡であった。
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菊池千本槍の碑 南北朝時代この辺りにあった合戦で竹に短剣をくくりつけた槍が使われた。それで槍発祥の地と言われる。
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石畳をまた下って行くと国道に出、道路越しに芭蕉句碑を見て、また石畳。そこにキンランが数本咲いてた。
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国道に出てスカイウォークの隣を歩いた。たくさんの車で埋まっていたが、この日は富士山が見えないもよう。
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                       視界が開けてきたが、まだまだ三島市の方は遠い3611_450x157
        笹原新田の笹原一里塚(27里目)そばに大岡信の箱根八里記念碑あり
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こわめし坂の所の一柳院には、秀吉の山中城攻めで討ち死にした家臣の一柳直末の胴体を葬ったという。宗閑寺にお墓があったのにここにも。六地蔵、馬頭観音などもあった。
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三ツ谷新田に入ると、朝鮮通信使や徳川家茂や慶喜の寺本陣になった松雲寺には明治天皇が座って富士山を眺めたという石もあった。
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                             次の市ノ山新田には13体の六地蔵がある
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              最後の塚原新田に入ると普門庵にはいろいろな石造物がある
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箱根路と彫られた石。西から来た人はいよいよここから箱根へ向かうのだという覚悟というか感慨は一入だったことでしょう。
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  錦田一里塚(43里目)は国道を挟んで左右両方の塚が昔のまま残っている
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最後の方は殆ど坂とは言えないこの石畳が延々と続いて、もう石畳は結構という気分で歩く。
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線路を渡るといよいよ坂が終わって三島の町。宝鏡院には足利義詮の塚があるらしいが見つからず、少し先が三島宿東見附跡。
           その先にある妙行寺の狛犬が巨大で今まで見た中で一番大きい
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三嶋大社に到着し、福太郎茶屋で福太郎餅2個と愛鷹山麓で作られた沼津茶をいただく。とても美味しい。
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                                     三島市のマンホール
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この後三島宿から沼津宿入口まで歩いたのは第1回(バスツアー)の項にほぼ重なる。
http://maplesyrup.tea-nifty.com/365/2015/05/post-829c.html

●三島宿(11番目の宿)箱根宿から14.8km、日本橋から約115.5㎞、宿の長さ約2㎞。本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒。

・八幡神社に頼朝・義経の対面石の所にねじれた柿の木があったが、これらの事にまつわるお菓子を買った。「源氏双柿」と「黄瀬川対面石最中」です。
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●沼津宿(12番目の宿)三島宿から5.9㎞。日本橋から 宿の長さ  本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒。 

今回でやっと日本橋から愛知県の二川宿までつながりました。あと20宿もあって、まだまだ先が長いというか楽しみというか、歩き通したいという気持ちでいっぱいです。

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2018年5月 8日 (火)

東海道五十三次歩き21&1-2 箱根~三島~沼津(前編)

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4/26(木)東京は快晴だったのに、箱根に着いたら曇っていました。ロマンスカーでなく新幹線で小田原に出た方が早く芦ノ湖バスターミナルに着きました。
この日は残りの箱根宿を歩き、箱根峠までさらに登り、後は一気に三島まで箱根西坂を降りて行きました。途中何度か富士山を仰ぐビューポイントがあるのにずっと雲がかかり、姿を現わしたのは沼津に近づいたころでした。私の第1回目の東海道五十三次歩きはバスツアーで三島宿から沼津宿に入りかけた所までで、娘と一緒に出発したのが沼津からだったので再び歩きこの区間だけ2度目ということになります。2度目歩いてみてこんな場所見ていないと何度も私が威張っていたので、娘がスマホで私のブログの中の1回目のを出して行っているじゃないと言われ、覚えていなかったので、毎回この調子でどこを見ているやら?全く呆れてしまいました。ブログに写真を見ながら思い出して書いていてこれですから、もしブログでまとめることがなかったら、どこをどう歩いて何を見たかも半分以上は忘れて思い出せないのではないかと、ちょっと情けない。芦ノ湖から沼津まで9時前から18時15分位まで歩き、53627歩、820段。今までの歩数の最高記録。今後こんなに歩くことはないと思います。

●箱根宿(10番目の宿)の続き

・箱根駅伝折り返し地点・往路ゴール。裏側には復路スタートと書かれている。駅伝の第1回は大正9年で4校で争われた。第2次世界大戦中5回中断されているが、現在20校(200人)が決戦に挑んでいる。5区、6区の人は特にあの坂・・・大変と思った。
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・山の神の祠の中の馬頭観音と地蔵。その手前に「関白道」の石碑があり小田原征伐で秀吉が通ったことによる。
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・駒形神社は箱根の鎮守
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境内に犬塚明神がある。箱根宿が創設された時、狼が多く、唐犬2匹に退治させて、宿が完成。しかし唐犬も傷ついて死んでしまい、ここに埋めて犬塚明神として崇め祀った。
ここまでが箱根の宿場であった。
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◆箱根宿から三島宿までの間 これから三島まで15㎞位歩くことになる

・芦川の石造物が駒形神社の向かいにあり、ここから箱根東坂最後の上り坂・向坂が始まる。石造物は箱根で最も古い庚申塔や巡礼供養塔である。
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・石畳 前日箱根は暴風雨だったようで、木が倒れていたり枯れ枝が飛び散り、石畳も濡れていたのこの日もストックを使う。
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・箱根峠に到着 標高846m。神奈川県もここで終わり(9宿もあった)静岡県の函南町に突入!ここから三島までずっと箱根西坂の長い石畳の道を下って行く。(函南といえば東海道線で熱海からトンネルに入り出たところが函南駅で次が三島駅である。今は新幹線で行くのでこの駅を見ることはない)
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・箱根の親不知(脚気地蔵)
放蕩息子を捜していた老いた父親が箱根峠まできた時、脚気で倒れたいたところ、若い籠屋が介抱すると装い刺し殺し財布をとろうとした。その顔を見るとなんと父親だった。息子は自分の喉に短剣を突きつけ自害したものの、死にきれず、山中の宿で相果てたという。
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・その先に「峠の地蔵」がある。この後いくつか出てくる箱根八里記念碑の一つで、これは女性8人の言葉が刻まれている。黒柳徹子、向井千秋、杉本苑子、橋田寿賀子、桜井よしこ、橋本聖子、宮城まり子、秋吉敏子。
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         黒柳徹子の地蔵は玉ねぎ頭「花見る人は皆きれい」
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・茨ヶ平で石畳に入ると八手観音と呼ばれる馬頭観音がある。そばに箱根八里記念碑の一つの井上靖の碑もあった。
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・兜石坂の竹笹トンネル
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・兜石は兜を伏せたような形で、兜石坂にあったのが坂を下りた地点に移転された。反対側には中山一里塚跡(26里)があった。
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・道の右側を上って行くと展望広場に出た。沼津アルプスや伊豆半島や駿河湾が見えている。東山魁夷「青山緑木」の箱根八里記念碑があった。
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・石割坂を下ると「念仏石」と手前に碑がある。 少し先の山中城跡の所にある宗閑寺で旅の行き倒れを供養して、ここに碑を建てたものらしい。
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・大枯木坂を下ったところに素晴らしいお花畑の家があった
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・三島市に入り、山中新田に入ると「雲助徳利の墓」がある。墓石には盃と徳利が浮き出ている。この人物松谷久四郎は西国大名の剣道指南役だったが、大酒のみで事件を起し国外追放になり、箱根で雲助の仲間入りをし、武士に苛められる仲間を助けたり、手紙を読んであげたり相談に乗ってあげたりした。酒で命を縮め亡くなるが、慕っていた仲間がこの墓を建てた。
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田んぼもないのに箱根西坂には山中、笹原、三ツ谷、市ノ山、塚原の5つの新田がある。三島までずっとさらに下って行く。茶屋、休憩所といった間の宿としての集落であった。
山中新田になかなか素晴らしい山中城跡があった。

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2018年5月 1日 (火)

東海道五十三次歩き20 箱根宿(後編)

◆箱根宿への続き

・石畳みに工夫された斜めの排水路。石畳の谷川の横には縦の排水路もある。説明板によるとこの大きな石畳の下には小石が2段くらい突き固めてあるそうで、手が込んでいる。
ローマ人の石畳はそれより遥か1500年以上も前から造り始められているから恐れ入る。

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・山中のアケビの花
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・橿木坂あたりから長い長い階段が続くのである
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・笈の平の石碑 東国の教化を終えた親鸞がついてきた弟子に、我らが上洛するとこの後誰が東国の門徒を導くのかと心配だから、戻って教化してもらいたいと別れた場所。
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・甘酒茶屋 二子山の麓にあって、茅葺で中には囲炉裏もある。8時半に歩き始めて、12時半に到着した。
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この店の名物の甘酒、みそこんにゃく、力餅(朝ついたといういそべと黒ごまきのこ)が美味しかった。
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その後隣の資料館を見学して、さらに幾つもの名がついた坂を登って行く。

・於玉坂 お玉とは実家が恋しくなって江戸の奉公先を抜け出して関所破りをして、磔刑から減刑で晒し首になった女性の名前。
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・お玉ヶ池はその首を洗ったという池
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・箱根馬子唄碑 「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」
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・お玉観音堂からの二子山。二子山って上二子山と下二子山があって、それぞれが2つの峰を持っている。四子山だったとは!途中見た時二子山なのに4つあって不思議に思っていたので解明できた。
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・芦ノ湖が見えてきた。一気に下って行く。この日石畳で出会った人は逞しい白人の外人さんが多かった。
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・ケンペルとバーニーの碑。ケンペルはドイツの博物学者で箱根の美しさを世界に紹介した人物、バーニーはこの地に別荘を持っていてケンペルの著書から「自然を大切にするように」と引用した碑を立てた英国の貿易商である。
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・芦ノ湖に降りると箱根神社の一の鳥居があり、いきなり人で溢れ、土産物屋や遊覧船に乗リ場など外国人が多い。そこに賽の河原があって石仏がたくさん並んでいた。
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・湖畔に出ると富士山方面には雲がかかっていた
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・桜が丁度満開であった
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・湖畔伝いに箱根神社に向う
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・箱根神社 荘厳な雰囲気
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         平和の鳥居 こちら側から見る鳥居もなかなか素敵だ
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・身代わり地蔵が賽の河原の斜め向かいにある。梶原景季が斬りつけられたとき、身代わりになって守ったそうだ。
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・関所に向かい始めると富士山が見えてきた。右側下の方に平和の鳥居が見える。
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・箱根旧街道杉並木 並木の所に箱根旧街道一里塚跡(24里目)もあった。
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●箱根宿(10番目の宿)小田原宿から16.5㎞、日本橋から101㎞、宿の長さ1.4kmくらいか。本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠36軒。

・恩賜箱根公園展望館とそこからの眺め。うっすらとまだ富士山が見えていた。この公園の駐車場辺りから次回通る駒形神社辺りまでが箱根宿だった。
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箱根八里の歌の碑 鳥居忱(まこと)作詞・滝廉太郎作曲(明治34年)懐かしい歌だが「一夫關に当るや 萬夫も開くなし」の意味が当時わからなかった。
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                桜 マメザクラかもしれない
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・公園を出ると右手に箱根関所資料館があり、向こうに復元された箱根関所の江戸口御門が見えてきた。小田原藩から出向した関所役人が特に「出女」を厳しく取り締まった。展示の人形のみ衣服の色や文様、体の特徴が明らかでないためシルエット展示を行っている。
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遠見番所 さすが1800段近く登ってきたので、ここの階段を見て、もううんざり。最後の力を振り絞り登って芦ノ湖を眺めた。眼下には右手上の資料館と関所全体が見え、新居関所とは趣も大いに異なっている。
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                 大番所内の面番所
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                    足軽番所の寝床
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                        厩
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・駅伝を讃えての碑59_450x300
まだ箱根宿の途中だし、東坂は箱根峠まで続くが、バスターミナルに出たので16時40分頃見学を終えバスで小田原に出た。小田原からは上野東京ラインで東京駅へ、地元に戻り例のごとく乾杯した。

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2018年4月28日 (土)

東海道五十三次歩き20 箱根宿(前編)

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4/19(木)新宿駅のこれから乗るロマンスカーは7時発の箱根湯本行き。3月17日にデビューしたばかりの新車両だそうで、新幹線の窓と違い、窓がすごく大きくて眺望がいい。先頭車両の一番前の席を買うのは大変らしい。
到着した「はこね51号」。座席が自動的にこの後反対方向に変わって掃除がなされる。2号車に乗りました。
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◆箱根宿へ 箱根東坂を上がって行く。これに対して箱根峠から三島側を西坂という。

箱根湯本から芦ノ湖畔の箱根宿、関所まで。箱根湯本の標高が108m、甘酒茶屋705m、芦ノ湖723m、箱根神社767m、箱根関所730mへ向かうので標高差約600mの石畳を上る。34588歩、1880段。バスで小田原まで戻るためバスターミナルの横にある箱根関所がこの日の終着点で箱根神社に寄り道したりする。

・前回最後の景色・早川にかかる橋から湯元温泉駅と二子山が見える。箱根旧道は二子山の南側を通っていて、二子山の向こう側までこれから上って行くことになるが、後で二子山にびっくりするのである。

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・ギョリュウバイの大木
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・早雲寺 北条2代氏綱が創建。小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われたのだという。
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北条五代の墓がある。右から1代目早雲、2代目氏綱、3代目氏康、4代目氏政、5代目氏直。
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                           連歌師・宗祇の墓がこんなところにあった
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・正眼寺
                       大きな地蔵は稲葉氏の紹太寺から移されたもの
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                 曽我堂 兄弟を供養するため親類縁者により建立された
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・「仲睦まじい道祖神」と呼ばれる
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・旧箱根街道一里塚碑(22里目)
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・箱根旧道入口に着き、いよいよ石畳の道が始まる
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・猫に会えた
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・觀音坂の石碑 この先箱根関所まで謂れがそれぞれありそうな、女転がし坂、西海坂(さいかちざか)、橿木坂(かしのきざか)、猿滑坂など13の坂が続くのである。それもいちいち写真に収めていくから時間がかかる。坂の碑の石の形がそれぞれ違っていて面白いのだ。
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・駒形神社から須雲川の集落を見る
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・鎖雲寺 浄瑠璃「箱根霊験記」の勝五郎と初花の墓の五輪の塔が並んでいる。お寺に飼われたレトリーバーがツーショット写真で人間と一緒に笑うのには驚いた。
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                      初花堂を覗くと、菩薩像の前に初花の像がある。
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・割石坂の石碑 曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、刀の切れ味を試そうと、巨石を真二つに切り割った所だそうだ。曽我兄弟が良く出てくる。
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・「これより江戸時代の石畳」という案内板があり、江戸時代の人々が踏んだ石だと思うと感慨ひとしおである。
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接待茶屋があった場所の案内板や「石畳の構造」の案内板がいくつかあって何層にもなっているのだと知り、造った人々の苦労を偲ぶ。

・箱根八里の歌にもあるように、石畳や川の石にも苔がむして滑らかではあるが、石畳は転びそうで、ストックを使用する。
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・東坂の中間点にある間宿の畑宿に着く。寄木細工は有名で工房や店が並んでいる。
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・茗荷屋本陣跡 ここの庭園はハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちも感嘆したという。
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・駒形神社の御利益を見てやってください。12も書いてあって何でもありの神社。有難味があまり期待できないかな。
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境内の太子堂は聖徳太子が祀られ、太子は大工職人たちに工匠の祖として崇敬された。箱根細工が盛んな畑宿では多くの職人に尊崇されている。
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・畑宿一里塚(23里目)石畳を挟んだ直径9mのこの対の一里塚は復元されたもの。右側の木はモミ、左側はケヤキ。目印だけでなく、夏には木陰を作り、冬は寒風を防いでくれた。
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                      右側
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