2017年11月 6日 (月)

東海道五十三次歩き13 見付~浜松(後編)

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・妙恩寺 金原明善の菩提寺 供養塔が立派である。450x338_8
                 家康公お手植えのツゲ450x338_9
・龍梅寺 臨済宗妙心寺派450x338_10
      焼餅地蔵があって、何故か焼き餅を備えたという面白い地蔵。 338x450_4

●浜松宿(29番目)

                     外木戸東門跡338x450_5
ここから浜松宿が始まる。本陣6軒、旅籠94軒あり、遠江・駿河国で最大の宿場であった。

            浜松の中心街が近くなってビルが多くなってきた450x338_11
・夢告地蔵が道端に祀られている。安政5年(1858)に大流行したコレラで亡くなった人を供養するために建てられた。450x338_2_2
遠州鉄道の高架をくぐった先を少し行くと 交差点に浜松城大手門跡がある。東海道は左へと折れるが、右に曲がって浜松城に寄る。338x450_6
・浜松城は、今川氏が築いた引馬城を家康が1570年に拡大築城し、地名も浜松に改めた。家康29~45歳の17年間過ごしたが、ここで三方ヶ原合戦敗北を経験した。
家康が駿府に移ってから廃城となるまで譜代大名が城主となり12人が入城したが、うち幕府老中を6人も輩出したため、「出世城」と呼ばれた。

                  天守閣 昭和33年に再建450x338_13
                    若い時の家康像338x450_7
             石垣は堅固な野面積みで400年前のもの450x338_14
                 天守門は平成26年に復元450x338_15
天守閣展望台から北に見える三方ヶ原古戦場。森の一番奥だそうだ。家康敗北で有名な三方ヶ原はこんな所にあったのです。450x338_16
                  西、水平線は浜名湖450x338_17
                     南、遠州灘450x338_18

大手門跡に戻り東海道、浜松宿を進むが、戦災で2度も焼失して何も残っていない。駒札が全部表示されていた。高札場跡、6つの本陣跡、問屋場跡、中番所跡。西番所跡は見つからなかった。P1110141_450x315

●高塚駅(東海道線)まで東海道を進む

・少し行くと、子育て地蔵尊があった。戦災で顔の一部が欠けてしまったことから「首なし地蔵」とも呼ばれる。(中央の地蔵)450x338_19
・掘留ぽっぽ道があり、ケ91タンク機関車があった。大正7年製造の初期軽便機関車(岐阜県美濃太田~多治見間)。450x338_20
         八丁畷は森田から東若林まで続く旧東海道の長い畷338x450_8
・畷が終わった所で右に曲がる角に道路に向かいあって建つ二つの御堂がある。 藤原秀衡が京で病気になったことを聞いた妾がこの地で秀衡の訃報を聞き、秀衡の菩提を弔い、自らもここで亡くなってしまう。しかし、秀衡は実際には病気から回復し、帰国途中に妾の話を聞きお堂を建てた。
                北側の秀衡が建てた御堂450x338_21
                 南側の妾が建てた御堂450x250

                  振り返ると虹が出ていた2_374x450
                   前方には夕焼けが450x338_24
・秋葉常夜灯。木造屋形の鞘堂であるで明かりがともり立派だ。袋井からいくつか立派な常夜灯にお目にかかってきた。338x450_9
          浜松領と堀江領の境界である領地境界石があった338x450_10
高塚駅に着き、東海道線で浜松駅に一駅戻り、新幹線ひかりに乗れたので家には9時前に到着できた。
         夕食のお弁当 家康くん弁当が売り切れで残念でした450x338_22
                       (完)

      ●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●~*●

11月9日から17日までスペインバスク地方に行って参ります。海外は約2年半ぶりになります。天気予報を見ましたら現地はずっと雨でその後も雨の様子、ちょっとがっかりの旅になりそうです。帰りましたらまたよろしくお願いいたします。

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東海道五十三次歩き13 見付~浜松(前編)

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10/25(水)午前中は雨で地図も破れそうなほど濡れて、それを見ながら歩く娘は大変であった。午後には小やみになって夕方は西の空が晴れる。46406歩。
東海道の駅は磐田~豊田町~天竜川~浜松~高塚駅の5駅間を歩いた。見付宿のはずれを歩き、天竜川を渡って浜松宿へ向かい、浜松駅の隣の駅まで頑張る。次回が楽になるため。

●天竜川を越えて浜松へ

・磐田駅南口前の前島密像とポスト
前島密は維新前は海軍伝習生だったが、維新後はここ磐田に赴任し善政を尽くす。後新政府に出仕し、イギリスで郵便事情を視察し、帰国後郵便制度を設け、日本郵政の父として敬慕される。
明治4年の郵便創業時のポストで模したものであるが(当時は木製)、現在使われている。街道筋ものとして東海道62ヵ所に置かれていた。
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・磐田駅北口前の善導寺大楠と磐田市イメージキャラクターのしっぺい(怪物退治の悉平太郎)像。善導寺は移転してここにない。450x330
・鳥居だけでなく屋根から社殿まですべて真っ赤な珍しい伏見稲荷神社450x417
               磐田市マンホールはジュビロ君450x403
                宮之一色一里塚(61里・地図上)450x338
・一里塚のすぐ先にある常夜灯は竜の彫り物がある立派なもので、竜灯と呼ばれ大変貴重なものだそうだ。昼間だけれど明かりが灯されていた。450x405

天竜川が近くなってきた

           若宮八幡宮は、奉納相撲が有名で土俵があった。450x210
   新天竜川橋で天竜川を渡る。青い鉄橋は昭和8年に作られた天竜川橋だ。450x338_2
天竜川は江戸時代は渡船であったが、明治9年木橋が作られた。天竜橋だ。1163m、幅3.6m。古い写真の向こう側にも昭和8年に完成した天竜川橋が見える。450x447
                    木橋の天竜橋跡338x450

天竜川を渡ると浜松市東区に入った。7つの区からなる巨大な市だ。縦長で1558㎢で1412㎢の静岡市より広いのだ。
六所神社や明治天皇玉座跡、舟橋跡、木橋跡などの碑を見て中野町通りを歩いていると、餃子でも有名な浜松。円形に焼き中央開いた穴にもやしが添えられているという、その餃子屋さんが見えてきたが、この日はうなぎなので残念ながら見られないし、味わえない。

・末子蔵(まっしぐら) 江戸城の石垣にも使われたという伊豆半島から切り出された伊豆石を使用した蔵。伊豆石は耐火性に優れ、廻船問屋の蔵として明治37年に建てられた。市内には使用した建造物が数多く残っているそうだ。450x338_3
浜松と言えばうなぎ、蔵の前の中川屋はまだ11時15分なのにもう人が結構入っている。早く到着して良かった。「うなぎとろろ飯茶漬け」を注文。
いずれも茶碗によそって食べるが、まず1杯目はそのまま茶碗によそって食べ、2杯目は薬味をのせてだし汁をかけて鰻茶漬けで食べ、 3杯目はとろろをかけて食べる。
うなぎの油っこいのが茶漬けやとろろで緩和されてなかなか美味しい。しかしご飯を残して満腹状態だがデザートは別腹。夕ご飯前もお腹がすかなかった。450x338_4
           浜松のマンホールは凧揚げで有名な浜松の凧だ450x378
・薬師霊場の松林寺(臨済宗)の門には中央にお地蔵さんが安置されていて面白い。
庭が禅寺らしくきれいに整えられている。枯山水の庭もあった。
薬師堂は徳川家光が浜松城主に命じて建立させたもの。2度の火事にも焼失しなかった。450x338_5
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・金原明善生家  明善(1832~1923)は天竜川の治水事業に全財産を投じた。その他にも植林事業、出獄人の保護事業なども行った偉人である。450x338_7
・安間一里塚跡(63里)は姫街道安間起点でもある。ここ浜松市からも行かれるわけだが、磐田市の姫街道の方が磐田駅から近い。338x450_2
                 牓示杭(是より西・浜松領)となる338x450_3
                       (続く)

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2017年11月 2日 (木)

東海道五十三次歩き12 掛川~袋井~見付3

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●見付宿

見付宿は奈良時代には遠江の国府が置かれ、古くから遠州の中心地として栄えていた。天竜川の渡船業務を担う川越しの宿場であり、姫街道との分岐点でもあったので多くの旅人で賑わったという。地名の「見付」は京側から来て初めて富士山が見えたからという。しかし見えそうな感じはしなかった。

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・遠州鈴ヶ森刑場跡
品川と同じ鈴ヶ森という名の刑場跡。白浪五人男の日本左衛門の首が晒されたところでもある。供養塔「南無阿弥陀仏」の碑がある。 
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・見付天神 裸祭が有名
この神社には悉平(しっぺい)太郎という犬の像がある。昔神社の森に住む妖怪に人身御供が行われていたが、この妖怪を悉平太郎が退治し、宿場に平和が戻ったとの伝説がある。700年前のこの怪物退治に里人が踊り上がって喜んだのが裸祭だそうだ。国指定無形民俗文化財で天下の奇祭として知られているとか。450x338
          太郎の反対側で2匹の猫のにらみ合いが続いていた2_450x262
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・悉平太郎や江戸時代の風俗なども道のタイルに埋め込まれていてなかなかだ450x334
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         ジュビロ磐田のホームタウンなので旗がひらめいている338x450_9

・国史跡 旧見付学校 明治8年に落成。基礎が石垣積みで5階建て。現存する日本最古の木造洋風小学校校舎。最上階から町を一望できる。
明治時代の教科書や学用品等多数展示され、日本の初期教育を知る上で大変貴重な学校。450x338_2
                私的には石板が懐かしい教室450x338_3
                      職員室450x338_4
  黒塗りの教科書は私は知らないけれども聞いたことがある。こんなに真っ黒。450x338_5
                    和服姿の小学生338x450_10
5階は太鼓楼になっていて、登校合図や正午の時報として太鼓が打ち鳴らされたとのこと。5階からの眺め450x338_6
懐かしいおもちゃの一部
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・淡海國玉神社 小学校の隣にある。遠江の総社で遠江のすべての神社の神様が祀られている。初めてだったのが狛犬ならぬ、狛兎であった。
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・大見寺 ここには江戸時代中期、安倍川で空を飛んだ鳥人・幸吉の墓があるというが見つからなかった。450x338_9
・又一庵にてあきらめていたお菓子・きんつば(栗やサツマイモ、あずきなど)を買った。450x338_10
・姫街道の道標 東海道が左に直角に曲がる辺りの角にある。姫街道は東海道の新居宿の新居関所の「女改め」が厳しかったのと、浜名湖の今切の渡しを姫様たちが嫌い、浜名湖を迂回し、気賀の関を通り、三河の御油で東海道と合流する。いずれこの姫街道も歩いてみたい。338x450_11
・木戸跡(西) 338x450_12
・西光寺の表門 家康の別荘の門を移築したもので、江戸時代の総ケヤキ造りの門。市の文化財。450x313
・府八幡宮 奈良時代の桜井王がここに赴任してきたときに建立したと伝えられる。450x338_11
・ジュビロのマスコットキャラクターのジュビロくん。静岡県の県鳥、サンコウチョウがモチーフ。
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もう磐田駅はすぐそこ、東海道線で掛川駅に戻り、お弁当を買い新幹線に乗る。帰宅は9時半頃でした。450x338_13
                       (完)

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2017年10月30日 (月)

東海道五十三次歩き12 掛川~袋井~見付2

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台風一過、素晴らしい晴天です。今朝白かったはずの富士山、雪がなくなっていました。雨で融けちゃったのでしょうか?

●袋井宿(27番目)へ  五十三次のどまん中 感慨深いです。往時の建築物は残っていない(安政地震と東南海地震で倒壊)が、前回も書いたように、商店も小学校も「どまん中」の看板を掲げて宿を盛り上げ、案内板も良く整備されているので歩いていて楽しい宿だ。

・宿に入る前の「新屋の秋葉常夜灯」は屋根瓦にしゃちほこのついた立派な常夜灯で、こんなのは今までで初めてである。袋井市内には石の灯籠型と木造の屋形の常夜灯が14基現存されているとのこと。
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                  これより袋井宿の石柱338x450
・東海道どまん中茶屋 観光案内所でボランティアの方にとても美味しいお茶の接待を受ける。向かいは今はやってないけれども「どまん中食処」もあった。
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袋井の今昔マップなどをいただいた所へ青島クリーニング店の青島さんが見えた。袋井宿の見張り番で、街道ウォーカーとして87街道を歩き、東海道はもう6回も歩かれたとのこと。お店で通過証明書を発行してくださるということで、一緒に記念撮影後、クリーニング店にお邪魔する。お店には街道に関するちらしや弥次喜多風スタイルで歩く姿の写真などたくさん貼ってあった。東海道袋井通過証明書と袋井通過証をいただき、写真も許可していただき撮らせていただいた。感謝しつつお店を後にしたのだが、6回も東海道をなんてもうただただ驚くばかりである。私も京都まで1回だけでも辿り着きたいもの。青島さんに元気を頂いた。450x338_4
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                東本陣跡 公園になっている450x338_6
                     宿場公園450x338_7
  問屋場跡、中本陣跡、西本陣跡を過ぎ、高札場跡を過ぎると説明板がある。450x338_8
             明治天皇御小休跡はどまん中酒屋さんだ450x338_9
                 東海道どまん中西小学校450x338_10
澤野医院記念館 1727(享保12年)から地域医療を担ってきた内科医で、幕末から昭和初期まで建てられ続けた建物で市の指定文化財。土日祝日しか公開されていない。450x338_11
寺沢家長屋門 1868年に建てられたそうで東海道沿いには珍しい長屋門だそうだ450x338_12

●袋井宿から見付宿へ 掛川宿から9.6㎞歩いてきたけれど、ここから見付までまだ5.9㎞ある。

・木原一里塚(59里)地図上では59里、看板には61里となっていて一応地図に従うことにする。平成11年に復元されたもの。338x450_2
・掛川をずっと過ぎた頃から槇の垣根の家が増え、袋井はずっと続くし、このあと見付を過ぎてもまだ所々あったのである。都会ではお金持ちの家にあるなんて言われているけれども。450x338_13
・許禰(こね)神社 (江戸時代は熊野権現社)
家康が大敗を喫した見方原の戦いの前哨戦になった古戦場木原畷の碑がある。1572年、この神社付近に布陣していた武田信玄と徳川家康が戦った古戦場跡だ。450x338_14
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       隣の長命寺の楠の大木と六蛙える(迎える)蛙6匹が可愛い450x338_16
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<磐田市に入る>

・須賀大社の大楠 樹齢500年 樹高15m、幹回り9.5m、枝針25m、市指定天然記念物 静岡県では今まで大楠を何本見たことでしょう。温暖な気候だから?
穴は向こうまで見通せてあちら側にも穴が開いているということだ。中に空洞部分があって良く生きていること。本当に植物の逞しさに圧倒される。450x338_18
・三ヶ野に来たら松並木が見え、左手の田んぼに隣接する三ヶ根坂の鎌倉古道、江戸の古道、大正の道、明治の道を通って元の東海道に戻る。338x450_3
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                          イボテングタケ(Sさん感謝です)
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鎌倉古道を登った頂上は大日堂があって、徳川軍が武田軍と戦う時この辺りに陣を敷き、この高台から物見したそうだ。450x338_20
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田んぼかなたには日本一の蜻蛉の生息地があって、磐田市のマンホールは蜻蛉の図柄だ。450x338_22
                        (続く)

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2017年10月27日 (金)

東海道五十三次歩き12 掛川~袋井~見付1

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10/18(水)前日までと翌日からの雨続きの間の貴重な晴れの一日でした。44356歩。袋井がちょうど五十三次の中間点です。
東海道の駅は掛川~愛野~袋井~磐田駅。袋井が五十三次の中間点でやっと半分(神奈川県の多くが抜けているが)ですが、静岡県はまだ終わらないのです。

●掛川~袋井市へ

富士川からの富士山。今年は寒い日が多いのにまだ冠雪していません。1週間後には初冠雪、昨日26日は、家の窓から見るともう真っ白で冬の富士山の様相でした。Photo
   掛川駅前の二宮金次郎像 ムクドリの糞はきれいに掃除されていた338x450
・秋葉山本宮秋葉神社の掛川一ノ鳥居 ここは秋葉街道(塩の道)の入口だ。石の道標や小さな祠がある。
富士川を過ぎたあたりから秋葉と書かれた常夜灯が見られるようになって、秋葉とは?その時はまだ知らなかったけれど、秋葉信仰、つまり火の神様を祀る信仰で神社も寺もある。
浜松市秋葉山に秋葉寺と秋葉神社、袋井市に可睡齋秋葉総本山があり複雑。
広重の絵の掛川は「秋葉山遠望」だ。しかし秋葉山は赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で天竜川を遡った所にあり、ここから約35㎞先にあるので、広重の絵のようには見えない。秋葉信仰は神奈川県の大山信仰のようだ。338x450_3
・芭蕉天神と子育て地蔵 松尾芭蕉ではなく植物のバショウが植えられた、祭神が菅原道真の天神。450x338
キンモクセイ ブロ友hiroさんに教えていただいたキンモクセイ前線。桜前線と反対だそうで、家の方ではすっかり散ってしまっていたキンモクセイが静岡県では満開から散り始めであった。338x450_4
・天竜浜名湖鉄道(掛川から浜名湖の西・新所原まで)の無人駅「西掛川駅」。丁度通った電車は1両編成であった。450x338_2
次の歩きを1昨日(10/25)してきて、掛川駅に着くとここ始発の、この電車が停まっていた。電車全面に「直虎」の文字が目立っている。気賀や井伊谷の方を通っているから今年いっぱい電車はこの化粧なのでしょう。450x228
・57里の大池一里塚跡を通り過ぎ境界を示した道標がこの後たくさん現れるようになる・・これは「従是北岡津區」。これらは大正時代のものらしい。338x450_6
・仲道寺 東京・京都中間地点 由緒ある寺だそうだが、今は測定によって違うらしく、袋井市が真ん中と言われる。450x338_3

・この辺り(岡津・原川間)から袋井市に入ったあたりに美しい松並木が何回か出てくる。この秋はきのこを全然見かけなかったが、松の根元にきのこがたくさん生えている。450x338_4
     テングタケまたはイボテングタケ    Sさんありがとうございました
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間の宿の原川 掛川宿まで6㎞、袋井宿まで3.6㎞。片浜屋という寿司屋や椎の木旅館などが並んで昔の面影を少し残している。
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ムラサキツユクサにそっくりの花だが、葉が白い柔毛で覆われてる。調べたら和名白雪姫、トラディスカンティア・シラモンタナ(ツユクサ科)で、別名ホワイトベルベットであった。450x338_9

 この原野谷川の同心橋を渡ると東海道五十三次のどまん中袋井に入る450x338_10
・かなり東海道に力を入れている袋井市、あちらこちらに「どまん中」という言葉が出てくる。
共同ゴミ集積所にはこんな浮世絵などが書かれたゴミ箱があちこちに見られた。このゴミ箱には袋井名物の丸凧や、このゴミ箱あたりの名栗には花茣蓙が作られて売られていた絵が描かれる。450x338_11
・また松並木。ここに一段下がった歩道がある。きのこ(イグチ属か)がまたまたたくさん生えている。ベニタケ属やサルノコシカケも。338x450_8
     チチアワタケ              ベニタケ属
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                 サルノコシカケ科の幼菌450x338_13
・そして街道には、袋井が出てくる浮世絵が40以上もあるらしく、スポンサーがついてたくさん立てている。見ながら歩くのも楽しい。450x338_14
・富士浅間宮の赤い鳥居。かなり遠いそうで行くのは省略。この神社の名前が懐かしいほど久しぶりである。450x338_15
・妙日寺 ここには日蓮の両親の墓がある。この土地の豪族だった父、貫名重忠が源平合戦で平氏に味方したため、安房の小湊へ流された。その地で生まれたのが日蓮である。鎌倉時代末に身延山久遠寺の日善によって貫名氏の館跡にこの妙日寺が建立された。450x338_16
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・久津部一里塚は江戸から丁度58里。 これは本当の形の一里塚。
今まで見てきた一里塚は跡の記念碑ばかりであったが、一里塚とは、街道の両側に一里ごとに土を盛り上げて道のりの目印にした江戸時代の塚のことで、多くは榎や松がその上に植えられていた。ここも松が枯れたりして、江戸時代のものでなく、袋井東小学校100周年に記念に昭和47年に立てられたもの。338x450_10
・東海道五十三次どまん中東小学校450x338_17
          11時半になって昼食、鍋焼きうどんとしらすサラダ450x338_18

                     (続く)

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2017年10月12日 (木)

東海道五十三次歩き11 金谷~日坂~掛川(後編)

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●日坂宿と掛川宿の間

・宿をはずれるとすぐ、遠州一宮の式内社・事任(ことのまま)八幡宮がある。まず本宮にお参りするが271段の階段を登らなければならなかった。338x450
県道を渡って事任八幡宮へ。『枕草子』にも「事任の明神 いとたのもし」と出てくる古社だ。意味は「願い事が思いのまま叶うありがたき言霊社」
その後1062年源頼義が石清水八幡宮を当社に勧請した。江戸期には徳川幕府も信仰し、社殿を改築し朱印高百石余を献上した。朱印高という言葉は恥ずかしながら初めてで、朱印地、黒印地という言葉もあって、寺社に関係する石高。→こちら

・塩井神社 一日に3度塩水が出るところがあって、そこを塩井と呼び、川を塩井川と言ったとされる。川に渡された板の上を渡って行く。昔塩がないときこの水で味付けしたそうだ。450x338
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ああ、びっくり!突然現れた蛇を娘が踏んでしまった。
黒い蛇はシマヘビ(カラスヘビ)、ヤマカガシ、マムシの3種の黒化型があるそうで、多分シマヘビでしょうか?450x332
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・福天権現道標 東海道を上下する旅人の興味を引いたようで、太田南畝も「掛川領にいれば、左に福天権現本道とあり。いかなる神ならん」とある。菊川市西方の龍雲寺境内に祀られ、願掛けに御利益があるとして、多くの信仰を集めた。338x450_3
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・七曲り いよいよ掛川宿に入る手前の七曲りだ。容易に敵を侵入させないための構造。終点に城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所があった。
途中に塩の道標柱がある
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●掛川宿(26番目)
掛川は内助の功で有名な山内一豊が整備した城下町。江戸後期、旅籠30軒全てが飯盛女を置かない平旅籠だったという。
今までの宿と違って、掛川宿は宿場跡を記すものが皆無だ。ただ商店街には白漆喰塗籠造りの家が多く城下町の趣がある。

掛川城 東海の名城といわれた天守閣は平成6年に日本初の本格木造天守閣として復元された。
城は最初今川氏が築かせたが、桶狭間の戦いで義元が討たれてから家康領有となり家康の重臣石川氏が入城。その後秀吉が全国平定すると、家康を関東に移し、掛川城には山内一豊を入れた。その後家康の天下になってからは家康の異父弟の松平氏から始まり、太田道灌の子孫の居城として栄えた。しかし安政の東海大地震により大半が損壊し、明治2年廃城となった。
                           大手門 天守閣復元後にここも復元された

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天守閣 実に美しい!山内一豊が造った。450x338_5
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                                           天守閣からの景色450x338_8
                                           眼下の御殿450x338_9
掛川城御殿 江戸時代後期の建物だが、地震で倒壊後、時の城主太田氏が再建した。現存する城郭御殿としては京都二条城など全国で4ヶ所しかない貴重な建造物で国の重要文化財だそうだ。部屋は20もある書院造。藩の公的式典の場であり、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設。450x338_11
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・ヘンミイの墓 オランダ商館の一員で江戸の将軍家斉謁見の帰途、ここで亡くなったので天然寺に葬られた。享年51歳。蒲鉾型の墓だ。450x338_15

・信用金庫や銀行が白漆喰で瓦屋根で他の町にはない珍しい金融機関だ。

                    掛川信用金庫450x338_16
          清水銀行には山内一豊と千代夫人の浮彫刻が見える450x338_17
・円満寺蕗の門(城から円満寺が買い受けた)を通り過ぎたところがもう西番所だった。450x338_19
・その少し先の掛川十九首町にある十九首塚で見学を終わる
十九首塚は、将門の乱で平将門は、平定盛、藤原秀郷らに滅ぼされた。将門ら19人の首実検が掛川で行われ、940年に埋葬された(大手町にも首塚があり全国にあるようだ)。450x338_20

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日曜大河ドラマで「おんな城主直虎」をやっている。楠戸義昭著『女城主・井伊直虎』によると、
直虎の許婚・井伊直親(虎松、徳川四天王の一人・直政の父)が小野但馬守道好の讒言に遭い、今川氏真に潔白を申し開きに掛川城に行ったのだが、ここ将門の十九首塚のある場所で氏真の手のものに殺されたのである。唯、資料が少ないので謎は多いと著者は記す。

十九首塚の近くの電線にムクドリの大群がとまっていたが、散歩していたおばあさんが、このムクドリは暗くなると掛川駅の前の木に集まり、ここだけでなく周辺からものすごい数が集まると教えてくださった。
暗くなった駅に到着すると凄いにぎやかな囀りとベンチまでにも落ちている糞。樹木をねぐらにしていた。何故駅に集まるのか??

掛川には新幹線が停まるので、お弁当を買って乗り、東京駅まで乗り換えなし。但し「こだま」なので時間のかかること。駅に着く度にのぞみとひかりに追い越されているから。
「直虎ちゃん弁当」は12月までの期間限定。1個しかもうなかった。
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                       (完)

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2017年10月 9日 (月)

東海道五十三次歩き11 金谷~日坂~掛川(前編)

9/21(水)に金谷宿から日坂宿、掛川宿まで41728歩でした。東海道の駅は金谷~菊川~掛川。箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道三大難所と言われた小夜の中山越えがありました。普段登山をしているので苦しいとは思えなかったけれども、草鞋で石畳、それ以前の粘土質の道もさぞかし歩きにくかったでしょう。549x600
●金谷石畳、菊川坂と菊川宿、小夜の中山

金谷駅で降り前回の芭蕉句碑から坂を上がり、道祖神を過ぎると金谷の石畳が始まる。450x338
ここは粘土質で雨が降ると滑りやすく石畳が1862~3年に敷かれたが、宿が廃止されると電話線などの埋没のため剥がされコンクリート舗装された。しかし平成3年、金谷町民約600人で430mの石畳が復元された。

すべらず地蔵尊「ここの石は滑らないということから受験や商売など何事も願いが叶う」・・とはいいながら皮肉にも金谷坂の石畳は、日が射さないため苔が生えて滑りやすいそうだ。450x338_2
            金谷坂を登り切ると左手に茶畑が広がっている450x338_3
反対側には諏訪原城跡がある。この城は武田信玄が築いた金谷城を武田勝頼が遠江侵攻の拠点として、拡大築城させ諏訪大明神を祀ったので諏訪原城となった。450x338_4

次に出てきた坂が菊川坂だ。下った所に、金谷宿と日坂宿の間は急所難所ゆえ、間の宿・菊川が置かれた。
菊川坂は611mの石畳だったが、現在江戸時代の石畳が160m残る。菊川の家並みが向こうに見える。338x450
        いよいよ小夜の中山だ。坂が続く。茶畑が両側に見えてくる。450x338_5
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多くの人が中山峠を歩いて句を残したので、その歌碑や句碑が次々と十数カ所に出てくる。
これは最初の方の一つで、「雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月」は『十六夜日記』の阿仏尼の歌碑である。十六夜日記を読んだが道中の苦しさはあまり書いてなかったような記憶がある。338x450_2
久延寺(きゅうえんじ)・真言宗は、夜泣き石伝説にまつわる寺で掛川市の指定文化財。450x338_6
夜泣き石と弘法大師 妊婦お石が中山峠で賊に殺されるが、お石の霊が石に移って石が泣いたため、生まれた子どもは久延寺の和尚に飴で育てられた。その後弘法大師がこれを聞き、お石に同情し石に仏号を刻み、立ち去ったという。(地図にもあるように夜泣き石はもう一つあるし、夜泣き石が実際にあった跡もある)450x338_7
寺の隣の茶店扇谷の名物・子育て飴は、お休みで買えなかった。447x450
扇谷の前の西行の歌碑「歳たけてまたこゆべしとおもひきや 命なりけり小夜の中山」40年ぶりにここを通った西行の感動の歌だ。450x338_9
           向こうの栗ヶ岳の横腹に「茶」の文字が見える450x338_10
    広重の五十三次の絵「日坂 小夜の中山」 坂がデフォルメされている450x290
沓掛や二の曲りの急な坂や曲り(坂というのは写真では伝わらないものだが)が終わって日坂宿だ。450x338_11

●日坂宿(25番目)
                   日坂宿の屋号札450x338_12
700mで本陣1、脇本陣1の小さな宿だったが旅籠は33軒あった。天保11年当時の屋号を書いた木札が通り沿いの各家にたくさんかかっていて驚いた。建物も数軒残っていて昔の面影を残す宿だ。

扇谷本陣跡は公園になっている。食堂がないことが分かっていたので、おにぎりと果物で食事、後で道の駅で「おでん」を食べる。450x338_13
              藤文 商家で最後の問屋役を務めた450x338_14
                     萬屋 旅籠450x338_15
川坂屋 上級旅籠で士分格の人が泊まった。山岡鉄舟や西郷従道らの書が残る。450x338_16
                バショウと花
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    相伝寺は遠江観音霊場第二十一番札所の小寺で庚申塔などがある450x338_19
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        天保の頃のが復元された高札場でここが下木戸跡である450x338_20
日坂宿も火災が多かったため秋葉信仰が盛んで、日坂宿3つ目の秋葉常夜灯である。450x338_21
                    (続く)

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2017年9月28日 (木)

東海道五十三次歩き10 藤枝~島田~金谷(3)

徹底図解『東海道五十三次』の「川越え」の説明の「なぜ東海道の川には橋や船がなかったのだろうか」によれば、
一つは幕府が諸国の謀反を恐れて橋を架けることや船場を設けることを制限したため。
二つ目は、流れが急で出水する川が多く危険だったため。
三つ目は、旅人がすんなり川を渡ってしまうと地元の宿場の経済が停滞してしまうため。通行料が藩や宿場の大きな収入源であった。

東海道沿いでは、六郷川、馬入川、天竜川などには渡し船があった。(六郷川は最初は橋があったけれど流されてしまった)

川会所を出て大井川を渡る前に「吉三郎の墓」と「朝顔の松」を見る。

関川庵にある八百屋お七の恋人・吉三郎の墓 史実はどうだったのか、こんな所で亡くなっていたのです。畑仕事をしていたおばあさんに聞かなかったら場所もわからず、関川庵の手入れをしている方にちらしをいただいて、墓を教えてもらわなかったら全く分からずじまい。おばあさんに遠い所からよくお詣りくださいましたと感謝されてしまった。

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朝顔の松 浄瑠璃「朝顔日記」の深雪のお墓は清水の法岸寺で既に見てきた。ここ大井川の段も有名な所だった。
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・桜並木の堤450x338_2

●大井川
大井川橋は1026.4mで昭和3年に架設された鋼製のトラス橋で土木遺産に認定されている。450x338_4
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大きな中洲が2つもあって、その両側には川が数筋も流れている所もあって、中洲も見えないほど川が満杯の様子を想像すると、本当は橋を架けても流されてしまったであろうと想像されるし、人足に頼っても渡るのはさぞかし大変であったろうと思われた。対岸には金谷の町が見えている。広重の絵では島田宿でも金谷宿でも大井川の徒歩渡しを描いている。450x338_5
                   向こうの鉄橋はJR450x338_6
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●金谷宿(24番目の宿)
川を越えると金谷宿。駿河国から遠江へ

仲田源蔵像 川越制度廃止された後、1200人もの人足が失業した。当時29歳だった仲田源蔵が私財を投じて失業者を援助し、牧ノ原大茶園の開墾を政府に直訴し実施された。その顕彰碑。338x450_6
              ここにも小さいけれど水神社があった450x338_8
金谷側も人足宿が8軒あった。幕末には30軒以上あったが、大洪水で流出してしまった。
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新金谷駅の駅舎と改札口 大井川鉄道の終点金谷駅一つ手前の駅。板のペンキもはがれ、レトロな雰囲気の駅舎。ここがSLの発着駅のようだ。450x338_9
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SLポスト SL復活40周年記念に作られた。SLと同じ塗料が使われる。投函すると、SL、富士山、茶娘の風景印がスタンプされる。450x338_11
SLの部品が展示されている。他にいろいろなグッズを売っている店もあった。450x338_12
金谷に3軒ある本陣の一つ佐塚本陣は佐塚書店だったが2014年に閉店。ここと山田屋は安政大地震で全壊した。説明板のみ残る。450x338_13
               柏屋本陣は半壊。今は跡のみ。450x338_15
お七里役所跡 お七里役所はあまり他所での宿では見ないが、紀州家の飛脚の継立所だ。これも駒札が立っているだけ。450x338_16
巌室神社 市指定文化財の鎮火祭 「島田は水害、金谷は火災」と言われるくらい、金谷は西からの風の通り道で昔から火事が多かったそうだ。
神社の前の川が沢川で、金谷宿は東海道の北側を流れるこの沢沿いにある。沢川が曲がった谷だったため、曲谷→金谷の地名説があるそうだ。450x338_17
長光寺 芭蕉の「野ざらし紀行」の句碑がある。
「道のべの木槿は馬に喰われけり」大井川を越えた芭蕉が馬上で詠んだ。450x338_18
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金谷駅から静岡まで出て、新幹線で食べたお弁当は「茶飯」で茶の葉が2枚のっていました。450x225

次回は金谷の石畳を上って掛川までです。  (完)

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2017年9月25日 (月)

東海道五十三次歩き10 藤枝~島田~金谷(2)

650x329島田宿を通ってから大井川の手前川越遺跡で、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と言われるようにいかに大変であったか、その様子をたっぷり見ることが出来ました。

●島田宿(23番目の宿) 1601年に宿場に指定されたが、1604年には大井川の氾濫で宿が流失する。一時北方に移動させ、1615年11年ぶりに旧地に戻った。

島田宿には菓子屋が多く、早速旧東海道に戻った角の店でまず「小饅頭」を買う。15個も入っていて500円。次の「海道一名物の鯛焼き」の看板の店は残念ながら定休日。

                                 菓子屋の向かいの島田宿一里塚跡338x450
須田神社 立派な庚申堂がある。修験者が青面金剛を祀ったり、京都の八坂神社から牛頭天王を勧請している。450x338
神社の裏手に「お囲い土手」が残る。大井川の氾濫に悩まされた島田は堤防で囲まれている。強化のため松が植えられたそうだが、ここのは松でない。338x450_2
                                   銀杏の乳根を久しぶりに見る450x338_2
刀匠島田顕彰碑 島田は刀鍛冶が有名で、多くの刀工が軒を連ねていた。室町末期の連歌師宗長は、島田の刀工の子だった。
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島田宿には本陣が、下、中、上とおび通りのあたりに3軒並んでいた。おび通りは歩行者専用道路450x338_3
御陣屋稲荷神社 通称「悪口神社」と呼ばれる。代官所が置かれていた。境内には「愛するあなたへの悪口コンテスト」の作品が掲示されていた。450x338_4
塚本如舟屋敷跡の説明板によると、塚本家は茶商と大地主で財を成した家で、芭蕉が川留めで4日間泊まり句が刻まれている。450x338_5
島田駅前の栄西禅師の像 栄西は臨済宗の開祖で宋からお茶の実を持ち帰り、全国に広め「茶祖」と呼ばれる。338x450_4
大井神社  この向かいに島田宿西入口枡形跡がある。ここで宿が終わる。この神社は島田宿を洪水から守る神として建立された。
ここで日本三大奇祭の一つ「島田帯祭り」が3年に1度行われる。島田では他所から嫁を迎えると、晴れ着姿で町中を披露して歩く習慣があった。しかし嫁に気の毒ということで、帯を代わりに披露したのが祭りの始まり。また島田は島田髷発祥の地で、9月に島田髷祭りが開催される。
          大奴 祭りで大名行列と共に25人の大奴が供奉する。帯を掲げている。450x338_6
                  三番叟 島田鹿島踊先導338x450_5
 大井川川越しの開始・終了の合図などを鐘を鳴らして知らせていた大善寺の萩450x338_7

●島田宿・河原町の大井川川越遺跡 国の指定史跡 

川会所(かわかいしょ)業務の拠点であり、管理のために川庄屋の役職が設けられた。ガイドさんに話を伺う。450x338_8
大井川を渡るには、川札を川会所で買った。ただし水深1.4mになると川留めになり、最長で28日間だったそうだ。
                    川札の値段450x285
渡る方法は① 肩車(最も安い) ② 輦台 種類が5種類あって、写真のは大名や朝鮮通信使などが乗り、右奥の梯子のようなのが平輦台で一番安い。450x338_9
口取宿(仕事の割り振り、荷物の分配、荷造り)
六番宿、三番宿、十番宿、二番宿(川越は輪番で務めたので川越え人足が待機のために組ごとに詰めた所)

                 三番宿の中と人足の説明450x338_10
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                     十番宿の中450x338_12
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荷縄屋(荷造り用品販売)、仲間の宿(高齢の人たちの集まる場所)、札場(川札を現金に換金する所、税も徴収)なども並んでいた。
 
ここで1時間ほど前に買って解凍した「プリンどら焼」を食べて休憩した。冷凍プリンが間に挟まっている珍しいどら焼き。338x450_6
                      (続く)

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2017年9月22日 (金)

東海道五十三次歩き10 藤枝~島田~金谷(1)

650x3299/20(水)いよいよ島田~金谷の間で天下に名高い大井川の、今の橋を渡りました。気温27℃、曇時々晴れ、雨が少しぱらつく。43980歩。
東海道の駅は藤枝~六合~島田~金谷駅。藤枝宿の残りと、蓬莱橋往復、島田宿、そして大井川川越遺跡と金谷宿。大井川鉄道のレトロな新金谷駅を見学しました。

神奈川県と富士市からの富士山 曇がちだったのに見えた富士山。雪がなくてあまり風情がないけれどもその雄姿はいつ見ても素晴らしい。小田原からと富士市あたりから。
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●藤枝宿の続き。いつものように5:10起床。こだまで藤枝の駅に到着したのが8時50分。瀬戸の染飯(後ほど写真を)を現在でも販売している喜久屋は駅近くにあるというので9時開店めがけて行ったがお休みであった。
駅前の道路を北にまっすぐ進むと旧東海道に突き当たる。前回の所より歩きはじめる。松並木がぽつぽつと続いている。

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はなからエンジュやマキの実(イチイを訂正)、ハナセンナの花に目が行ってしまう。
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瀬戸新屋村は掛川藩と入りこむ特異な村で田中藩牓示石跡がこの後何度か出てくる。
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      道の合流点に六地蔵は彫られた石や数体の石仏が祀られている450x338_5
東海道追分は今は削ってなくなってしまった瀬戸山を通る古東海道と、裾を通る旧東海道の分かれ目。ここは当時大井川の河川敷に近く、氾濫して湿地帯だったらい。338x450_3
無縁寺跡と延命地蔵があって、大井川から旅人の溺死体がここに漂着したと伝わる。450x338_6
千貫堤も大井川の洪水から土地を守るために築かれたが現存するのは10mくらいであろうか。
ここに「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」があって藤枝名物染飯のレプリカを見せていただいた。強飯をクチナシの実(足腰の疲れを取る)で染めてすりつぶし、薄く延ばしてほし乾かしたもの。葛飾北斎の絵にも出てくる。450x338_8
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岩田神社 東方からの伊勢神宮参拝者が、大井川が川止めになると、藤枝や島田宿に逗留し、やむを得ず岩田神社で代参を済ませて帰京したという。ここ神社は大化2(646)年の古き時代に伊勢神宮の御分霊が勧請されたという。450x338_10
                   造り酒屋の古い土蔵450x338_11
この辺りの瀬戸踏切付近で、昭和35年に新幹線の速度実検が行われ175㎞を記録した。線路を3本作り、実験後に撤去したのでここだけ上りと下り線の間隔が広くなっているそうだ。450x338_12
六合駅の少し手前から島田市に入り、駅を過ぎると昭和天皇御巡察碑があり、明治天皇は多いけれど、これは珍しい。338x450_4
一級河川大津谷川を渡ってから回転寿司で昼食
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黄色い(写真では色が出ていない)ヤマボウシの木に実も生っていた。今頃咲くヤマボウシは初めて。違う木なのであろうか。
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いよいよ島田宿(23番目)に入る。島田宿枡形跡(宿東入口)の案内板。枡形の跡はない。ここから大井神社前の西の枡形まで1㎞。枡形を少し過ぎて左に曲がって蓬莱橋に寄り道。450x338_19

●蓬莱橋 ギネスブック登録の世界一長い木造橋で、全長897.4m 幅4m。歩行者、自転車専用の有料橋(100円)。向こうには牧ノ原台地の茶畑が見える。その先端に御前崎灯台がある。450x338_20
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                 向こう側の展望台から450x338_22
渡った先には七福神や道祖神や展望台などいろいろな縁起物がある
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                    (続く)

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