2017年8月12日 (土)

東海道五十三次歩き8 府中~藤枝(3)

1872年(明治5年)に新橋~横浜が開通したが、京都まで電車で行かれるようになったのはいつかを調べてみると、
1889年(明治22年)新橋~神戸間 600.2kmが開通した。全線直通列車が1往復運行され、所要時間は20時間強であったそうだ。15日間の街道歩きからは考えられない速さ。
1914年(大正3年)東京駅が開業し、同駅が東海道本線の起点となった。
1964年(昭和39年)に東海道新幹線が出来、1992年(平成4年)にのぞみが登場し、のぞみだけでも1時間に10本から15本も出ている現在に、そして移動する人の多さに驚いてしまう。

21番目の岡部宿の入り口、東木戸のあった枡形跡。439x450

弥次さん喜多さんは岡部に投宿する際、「豆腐なるおかべの宿につきてけり足にできたる豆をつぶして」と詠んだ。「おかべ」とは豆腐のことで、平安時代の公家は豆腐がなまこ壁、御壁に似ていることから、おかべと呼んでいたそうだ。450x338
大旅籠柏屋(かしばや)は旅籠屋と質屋を兼業していた。今は資料館になっている。2回の火災後1836年に建てられ、180年経っている。450x338_2
        その隣が、内野本陣跡 表御門と塀が推定復元されている。450x338_3
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問屋場跡や高札場跡を過ぎるともう西の枡形跡だ。

  東海道岡部宿の松並木が出てきたが、今までにない長い長い松並木である。450x417
           きのこのような常夜灯のところから旧道に入る338x450

岩村藩領横内集落に入る。「従西厳村領」と書かれた岩村藩領傍示杭。傍示杭は街道では宿場の境を示すもので、広重の版画にも描かれているそうだ。338x450_2
横内村には職人が多くいて、今も掲げられている屋号札は当時の仕事を示している。
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           次に出てきたのが田中藩傍示石(徳川家重臣)338x450_5
少し先左手に御成街道があって田中城へ通じているが時間がないためこれもカット。今は下屋敷跡に冠木門が復元され、本丸櫓が移築されているそうだ。
藤枝宿は田中城の城下町でもある。ここ田中城で徳川家康が鯛の揚げ物を食べ、それがもとで亡くなったのではないかと言う話が有名。

須賀神社のクスの大きいこと!県の指定天然記念物で樹齢500年。枝張も東西約20m、南北約30mもあるという。旧東海道の脇にあるので、往来する旅人を見つめてきた大木だ。450x338_5

22番目の宿・藤枝宿は番所跡標柱(見逃す)近くの東木戸から正定寺近くの西木戸までの約2㎞だ。
平安時代に源義家が神社に咲く藤を見て詠んだ和歌から、藤枝の地名が付けられたという。 

小川眼科医院の白子由来の碑 本能寺の変後の家康の有名な伊賀越えの際、伊勢国白子(鈴鹿市)の小川孫三に助けられ、常滑の正住院に逃れることが出来た。その孫三に追っ手の危機があったので、藤枝に妻子とも住まわせ、ここを白子町と命名し、諸役免除の特権を与えた。小川眼科はその子孫である。338x450_6
蓮正寺の市天然記念物のイブキ 源頼朝の御家人の熊谷直実が法然上人の門に入り、蓮生と名乗ったが、この直実が関係したお寺。「月の砂漠」の作詞者の加藤まさをの墓もある。450x338_6
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大慶寺の「久遠の松」 日蓮が比叡山に行く途中、近くの夫婦を説得して開かれた寺。松は日蓮上人お手植えで、静岡県の天然記念物。樹齢700年。高さ25m。450x338_7
広重の藤枝宿は「藤枝人馬継立」上伝馬問屋場風景で、パーキングの所が上伝馬問屋場跡だ。説明の横に広重の絵が添えられている。本陣跡もこの場所にあった。450x381
                  弁天わらべ地蔵が可愛い338x450_8
正定寺の「本願の松」別名「延命の松」は田中城主が大阪城代に登用されたとき(1730年・享保15)、報恩感謝で植えた。傘形に枝張りした美しい姿。藤枝市指定天然記念物。この辺りが西木戸跡だ。450x338_8
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                    瀬戸川の風景450x338_10
        岡野繁蔵の碑 裸一貫から南海のデパート王になった人338x450_9
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というわけで藤枝宿は天然記念物の樹木が多かった宿であった。

藤枝駅には午後7時頃到着し、東海道線で静岡に出、こだまに乗って東京駅には9時半頃着き、家には10時半頃到着した。
静岡で買った富士山型の「富士の味覚」弁当にまた桜えびが入っていて美味しかった。450x277
                       (完)

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2017年8月 9日 (水)

東海道五十三次歩き8 府中~藤枝(2)

6/28に日本橋から大森まで歩いた時に、平和島駅近くの大黒屋が定休日で「のり大福」を食べられなかった。ところが1昨日娘がしながわ水族館に行った帰りに大黒屋で買ってきてくれた「のり大福」を味わいました。夕ご飯を食べた後にもらい、消費期限がその日の内で、冷凍も考えたけれども、どうしても食べたくて、家の近所を散歩してから戴いた。
のりは青海苔で(黒い浅草海苔を想像していた)ほのかに香り、餡も上等で美味しかったです。今は大森は海苔の養殖をしていないけれど、当時の大森を偲び、のり大福を作り続けているそうだ。御馳走様でした。
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                  丸子の消火栓 富士山と丸子川と丁子屋の建物か?450x338_3
丁子屋を出て高札場。ここが丸子宿西見附で、ここから次の岡部宿の間にある宇津ノ谷峠に向かう。

        歩きはじめるとすぐ右側奥に行ったところに誓願寺がある450x338_4
ここには大阪冬の陣の原因となった「国家安康」の京都方広寺鐘銘事件の家康への申し開きで、片桐且元が滞在した寺だ。境内に且元夫妻の墓がある。450x338_5
丸子は紅茶発祥の地である。丸子の多田元吉は、明治9年政府からインドに派遣され、紅茶製造技術を全国に広め、丸子に茶園を開いた。伝統の紅茶造りは今も続いている。450x338_6

●宇津ノ谷の集落から宇津ノ谷峠へ

宇津ノ谷峠には古代から現代まで6つの道が現存する。
① 蔦の細道(古代から中世への道)平安時代の歌人在原業平が『伊勢物語』の中で、「駿河なる宇津の山べのうつゝにも夢にも人にあわぬなりけり」と詠んでいる。その他新古今和歌集や紀行文、歌舞伎にも取り上げられている。
② 東海道(近世の道) 1590年秀吉の小田原征伐の時に開かれたとされる。
③ 明治のトンネル道  徒歩でしか通過できない
④ 大正のトンネル道  車で通過できる
⑤ 国道1号上り(昭和の道)
⑥ 国道1号下り(平成の道)

宇津ノ谷の集落へ左の道を入る。集落の左手には昭和と平成のトンネルが見え、車がビュンビュンと絶え間ない。450x338_7
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         この集落の各家にも屋号が残る
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御羽織屋は機知に富んだ主人が秀吉から羽織を下賜された家で、家康から贈られた茶碗もあり、訪問者の芳名録も凄いとのことだが、この日はお休みだった。

                      慶龍寺450x338_9
ここには十団子の句碑がある。峠の人食い鬼を地蔵が僧侶に化けて、鬼を団子に変身させ、その団子を10個に砕いたという由来がある。450x338_10
お地蔵様がいっぱい
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         集落を通り抜け登って行く。宇津ノ谷の集落が見えた。450x338_14
明治のトンネルに行ってみた。長さ230m、工費3万5千円、延べ人夫21万人。登録有形文化財。
トンネルの中の涼しいこと。我が人生で快い涼しさのナンバーワン。トンネル内にハンモックを吊って1時間でも昼寝が出来たらもう極楽。それも叶わずトンエルを抜ければ近道になるが、東海道・近世の道に戻って宇津ノ谷峠に向かう。450x338_15
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                     馬頭観音450x338_17
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  峠の地蔵堂跡の石垣。ここにあった地蔵が先ほどの集落の慶龍寺に移された。450x338_18
                      宇津ノ谷峠338x450_6
峠を降り切ると坂下地蔵堂に着く。この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。450x338_19
やがて岡部宿の案内板が出てきた。
笠懸松と西住の墓への道をかなり登って行く。かなり高い所にそれはあった。ここは西行が弟子の西住と東国への旅の途中に起きた悲しい物語の舞台という。

                      西住の墓338x450_7
         西住が辞世の句を書いた笠を懸けた松。2代目という。338x450_9
                        続く

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2017年8月 5日 (土)

東海道五十三次歩き8 府中~藤枝(1)

また東海道歩き ヤレヤレヽ(~~~ )とうんざりされそうです。どこまで行けるか、果して完歩できるか東海道?心もとない足と体力で、途中で挫折するかもしれませんが、懲りずにお付き合い下さいませ。700x339_3
7/12(水) 前日では雨の予定が曇で気温もそんなに高くならないらしいということで、東海道歩きをすることに。府中宿~丸子宿~岡部宿~藤枝宿の四宿。
東海道線からは一時遠ざかったけれど、静岡駅ー安倍川駅ー用宗駅ー焼津駅ー西焼津駅ー藤枝駅でした。全部で53300歩。今までで一番歩きました。
今回はいつものこだまで静岡駅に8:24に到着し、8:30にはもう歩き始められたということと、岡部と藤枝の途中になると次回はバスで大分戻らなくてはならないということで、最後頑張って藤枝駅まで歩いてしまったことによります。曇の筈が現地は晴れていて、それがずっと続いていた。日陰に入ると涼しい風が吹いていたのでどうにか一日体が持った次第。

前回、府中宿の静岡駅と東海道が交差する地点の西郷・山岡会見所辺りから歩きはじめる。宿場町の中心だった所である。明治22年になり府中は不忠に通じるという意見が出て、賎機山(しずはたやま)から賎ヶ丘、そして漢字を静岡としたそうだ。
駿府の大御所として、ここで家康は府中の街を整備し、駿府96ヵ町、新通りを造り、駿府城天守閣と富士山が一直線に見えるようにしたらしい。駿府は駿河の府中と言う意味である。

各個所に町名が書いてあって、伝馬町、材木町、毛皮町、紺屋町、鍛冶町、呉服町と言ったいろいろな名前があった。650x488_3
                 府中の消火栓はカラフルだ450x338
                 札の辻跡 法度や掟書などが高く掲げられた高札場の跡338x450
この近くの右手奥に『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九の生家跡がある。江戸生まれとばかり思い込んでいた。
標柱のない西見附跡で府中宿とも別れると、安倍川の橋が見えてきた。
川の手前には、安倍川の川会所跡の説明板がある。架橋を禁じられていた川の一つ、安倍川も川越人足により川渡しが行われていた。この人夫を監督する所のこと。
又水神社は安全祈願のため、富士川にもあったが、ここでも川の手前にある。450x338_2
由比正雪の墓趾がここにあった。その他明治天皇御小休所趾などいろいろな碑があった。488x650
弥次喜多にも出てくる安倍川餅が有名。創業210年の「せきべや」は10時開店。しかし9時半前だけどもう開いていた。娘に朝ご飯は控えめにと前日通達があったが、これだったのだ。やわらかくて出来立てでとても美味しかった。450x338_3
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                                         安倍川を渡る450x338_5
東海道の松の名残り。江戸幕府は夏の日除け、冬の西風よけのためか、街道を整備するとき道の両側に松を植えた。この辺りも丸子宿までずっと続いていた。338x450_3
  何だか見たことのない花に見とれた  シモツケ属?のようです(Sさんに感謝です)。450x338_6
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丸子宿(20番目)に到着。丸子宿江戸方見附跡338x450_5
道に沿って丸子川がながれ、水神社に馬頭観音が祀られる。そこにあった木の洞の20㎝以上もあるきのこにびっくり!338x450_4
サルンコシカケ科・コフキサルノコシカケ又はオオミノコフキタケ Sさんありがとうございます。450x325
                                        八重咲きひまわり450x338_8
本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡などの標柱が次々と出てくる。
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各家には、今はやっていなくても、屋号を記した札をかけている
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広重の絵に出てくる、とろろ汁の丁子屋に11時に到着する。店の前には芭蕉の句碑「梅わかな丸子の宿のとろろ汁」がある。450x338_9
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部屋はもうすでに半分くらい埋まっている。
丸子膳(とろろ汁、麦飯、味噌汁、香物、薬味)に(むかご揚げ団子、むかごの和え物、駿河湾産しらす、甘味)がついたのが本陣。とても美味しかった。
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             丁子屋のそばに高札場が再現されていた450x338_14
                      つづく

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2017年7月29日 (土)

東海道五十三次歩き7 江尻~府中(2)

大河ドラマ「花燃ゆ」で幕末の吉田松陰の妹として有名になった楫取美和子。よく用事で旅に出ていた時の様子が忘れられない。というのはその荷物の少なさだ。小さな風呂敷包1つだからだ。本当にそうだったのか?時代考証がしっかりなされているはずだから嘘ではないと思いたいが、しかしいくらなんでも少なさすぎ。現代の私たちが多すぎるのか。
江戸時代の街道の旅人はどうだったのでしょう。
着る物や着替えの他どんなものを携えて旅したのでしょう。
ガイドブックは「道中行程記」なる薄い折り畳み式のもの。矢立(筆記用具・墨壺と筆)火打ち袋(マッチがなかったから)、印籠に入れた薬。
日除け兼雨除けの菅笠、日焼け防止に手甲をつけ、脚絆を巻き、足袋と草鞋。合羽は雨除けと防寒。
荷物は二つの包みを前後に振り分けて肩にかけた。旅人は町人でも道中差(刃渡り54㎝)以下の刀をさした。女性は足袋が白、紅緒の草履と竹の杖。
「花燃ゆ」の時代考証担当の一人が大石学氏(テレビに良く出演しておられる)。先日「多摩・武蔵野と街道」と題した大石氏の講演を聞きに行ったが、時間の関係で質問できなかったのが残念です。

●江尻と府中の間
江尻宿を出ると名物・追分羊羹本店がある。旅人や徳川慶喜まで広く好まれた蒸し羊羹。帰りに駅で娘に買ってもらった。竹皮に包まれたあまり甘くはない外郎のような羊羹でした。

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清水と言えば次郎長。子分、森の石松を殺した都田吉兵衛を次郎長一家が仇討ちした供養塔があった。338x450
姥ヶ池と弁財天 1200年も昔、ひどい咳が流行し、長者の子どもも罹り乳母がこの池辺の弁財天に祈願して、小児の代わりに入水して死んだ。長者は感謝して社を建て霊を祭った。東海道を旅する人々は立ち寄ってお参りしたそうだ。450x338_2
                   ヤノネボンテンカ450x338_3
上原の延命子安地蔵尊堂、ここで徳川家康が武田勝頼を攻める際、武田の武将・穴山梅雪と会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡のきっかけとなった。明治時代に焼失し、昭和になって再建された。450x338_4
草薙一里塚(43番目)
草薙神社の大鳥居。大きい! 神社は1.2km先でカット。
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東光寺の葦葉達磨大師 達磨像は坐像が一般的だが、この達磨大師像は大変珍しい立像だ。禅宗の寺院では御本尊様の左隣に達磨様をお祀りしているそうだ。気が付かなかったです。338x450_3
旧東海道記念碑 旧東海道も栗原地区辺りが国鉄操車場の建設などにより姿を消した338x450_4
静岡市も葵区に入り、マンホールも「たちあおい」となった。東海道線の南側はここでは駿河区だ。450x413
           兎餅跡地 兎餅を作っていた吉田屋の跡地という450x338_7
30℃くらいはあったでしょうか。結構暑くて午後2度目の休息。冷たいもので体の中から冷やす。タピオカマンゴジュース。  1回目は飲むアイス。
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          軍神社には砲弾型の忠魂碑や大きなクスノキがある450x338_9

●府中宿到着
静岡駅に近くになって府中宿東見附跡に到着。木戸ではなく見附と言う言葉に変わってい
ます。
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ここから西見附まで約3.6㎞。天保14年(1843)には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒、家数3673軒、人口は14071人で東海道最大規模の宿場だった。
東海道には3ヶ所しか設置されなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所もあった。(前回の品川宿にもあった)。あと一つはどこで見るか?

久能山東照宮道があって、家康公の墓所がある久能山に向かう久能街道は、駿府の町に物資を運ぶ重要な道であった。

  参勤交代の大名たちがお参りした、家康公の祖母の菩提寺である華陽院。338x450_8
西郷・山岡会見所 江戸で勝海舟と西郷の会見の5日前、ここ駿府伝馬町で勝海舟の命を受けた幕臣・山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が行われた。15代将軍の処遇、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦、武器の引き渡し等が合意され、江戸で最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。450x338_13

●駿府公園(駿府城跡)に寄り道 
家康は江戸に移るまでと亡くなるまでの9年間を駿府城で過ごした。
広い公園だ。本丸掘りや家康公お手植えのミカン等を見て回る。
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静岡駅から新幹線に乗った。途中、美保の松原で見えなかった富士山が見えるではありませんか。450x338_22
                     おわり

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2017年7月26日 (水)

東海道五十三次歩き7 江尻~府中(1)

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7/5(水)この日、台風が早く抜けたので清水に向かい、江尻宿から府中宿(静岡)まで歩きました。42712歩。
東海道線は清水駅ー狐ヶ崎駅ー草薙駅ー東静岡駅―静岡駅の区間になる。
東京駅7時前のこだまで三島まで1時間弱、東海道線で清水まで50分くらい。まず寄り道して、9時のバスで、世界遺産でもある美保の松原に向かう。

●美保の松原
富士の眺望と、万葉歌人に詠歌され、能の「羽衣」のよっても親しまれている。

神の道・美保の松原 バス停の所の横には御穂神社があり、神の道は海岸までずっと続いている。338x450
神の道には、これは「ちゃっきりぶし」だが、三保の松原に関する歌や羽衣伝説や高山樗牛の小説や廣津和郎の随筆を書いた案内板などがたくさんあり、面白い。450x338
海岸に到着してみると残念、富士山は見えなかった。車中からは見えていたのですが。450x338_2
        実際にはこのように見えると写真が道路に飾ってあった450x187
              砂浜にハマゴウの花が咲いていた450x338_3
7㎞にも及ぶ砂浜に、54000本の松が植えられている。「羽衣伝説」の舞台で天女が舞い降りて羽衣を掛けたという「羽衣の松」は3代目(平成22年)。450x338_4
羽車神社 積み重ねられている石は願い事が叶った人が置いていくそうだ450x338_5
        文学散歩道 北原白秋や与謝野晶子の歌が紹介されている450x338_6
神の道を戻り、御穂神社(美保松原鎮座・延喜式内社・美保大明神)にお参りする。450x338_7

清水駅に戻り、駅の階段横に描かれた、清水出身の「ちびまるこ」のさくらももこの絵を見る。階段はさくらももこの絵でないが、楽しい階段だ。
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              駅そばのアーケードは七夕の準備中450x338_12
この先食事場所がなさそうなので、ここのイートインで東京にないようなおにぎりと黒はんぺんで有名な「しぞーかおでん」の昼食だ。450x338_13

●江尻宿(18番目の宿) 地名は清水港に注ぐ巴川の「尻」、すなわち河口に出来た砂州の上にある町に由来する。やっとここで東海道歩き再開。時刻は12時。前回東木戸跡を通過したばかりの場所あたりから。
まず江浄寺。家康の長男・信康が自害させられた、その供養塔がある。閉まっていて見られなかった。338x450_2
少し歩いて鉤型に右折、ここからが江尻宿の中心となる。今は人通りが少ない。突き当たって、左に曲がり東木戸から2㎞の所が西木戸跡になる。

鉤型に曲がった突き当りに、武田信玄の家臣穴山梅雪の造った魚町稲荷神社がある。境内に「日本少年サッカーの碑」があるのでサッカー神社と呼ばれる。隣にある江尻小学校は武田信玄が築いた江尻城址になる。338x450_3
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元に戻り左に曲がるとすぐ巴川があり、ここに稚児橋が架かる。何と最初は1607年に架けられ、1699年に再建されたということだ。(大きな川には橋が架かってなくて大変だったが小さな川には橋が架かっていたのだと改めて気が付く)
四つの親柱の上に其々ポーズの異なる河童がいる。橋の渡り初めのとき、川の中から現れた河童(稚児)が橋を渡って去ったという伝説に基づく。450x338_15
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橋を渡ると料亭入口に河童の腰かけ石があった
   この川は船運が盛んで沼津へも出ていたという。船高札の説明板がある。450x338_19
すぐ先左の法岸寺には浄瑠璃「朝顔日記」深雪のモデルになった人の墓がある。知らなかったので調べたら擦れ違いや、会っては別れの繰り返しで数奇な運命を辿った人のようだ。立派なお墓! 338x450_5
その前にあるのが東明院。東明院山門は江尻城廃城の際、家康から裏門が下賜されたもの。火事で焼失再建されている。450x338_20
その隣の慈雲寺。宝暦年間、長泉智牛和尚はやせ地で困窮していた美保の農民に甘藷の栽培を広め、「芋和尚」と呼ばれていたという。和尚は原の白隠に学んだ。
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ここが木戸跡で江尻宿が終わる。 つづく



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2017年7月20日 (木)

東海道五十三次歩き6 日本橋~大森(2)

東海道最初の品川宿は旅人だけでなく、見送りや出迎えの人で賑わった。(朝出て、あるいは江戸に帰ってきて、ここで宿泊する人は殆どなかったのではと思う)
同時に春には桜の御殿山や潮干狩り客で賑わい、秋には紅葉の海晏寺と言う名所もあり、江戸近郊の遊興地であったそうだ。街道にずらりと並ぶ旅籠では芝エビや江戸前の新鮮な海産物の料理が人気を集めた。
又浮世絵にもあるが吉原と並んで一大遊里として、100軒近くの旅籠に「飯盛女」が1500人以上もいたという。
江戸時代末の品川宿は京急線・北品川駅の辺りから、青物横丁と鮫洲の境まで、全長約2.4km、戸数は1600戸であった。
 
京急線に沿って、品川駅→北品川駅→新馬場駅→青物横丁駅→鮫洲駅→立会川駅→大森海岸駅→平和島駅→大森町駅まで歩いた。一駅が短い。
JR品川駅ロータリーから進み、京急本線の踏切を渡ったら八ツ山口で品川宿の入口であった。品川駅は品川区でなく港区にある。本来の品川とは京急の北品川駅南側のこと。

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利田(かがた)神社には品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑がある。今は埋め立てられ海は遠いが当時は海辺であった。1798年鯨が迷い込んでしまったらしい。天王洲に追い込んで捕えた。これを沖に引っ張っていき、将軍家斉にもこれをご覧に入れた。この鯨がどうなったは書いてなかった。供養碑があるということは死んでしまったのか?450x338_2
                                  品川宿本陣跡 新馬場駅の近く431x450
品川神社(北品川宿の鎮守)線路をくぐった第一京浜沿いにある。
以前ここの写真を載せたけれど、石鳥居には見事なまでの昇龍・降龍が彫られている。450x338_3
                                         その左側には大黒天338x450
他にここには高さ7mの富士塚があり、浅間神社、御嶽神社、板垣退助の墓もある。また江戸時代には品川ネギ・カブ、大井ニンジ、戸越のタケノコが名産品だったとして記されている。七福神巡り発祥の碑もある450x338_4

品川橋 新馬場駅のホームの下を流れている目黒川に架かる橋で、向こうはもう南品川宿。450x202_2
品川宿の松 29番目の宿場・浜松より寄贈された樹齢約80年の黒松で、寄贈主に「品川宿の松」と命名された。ここ街道松の広場には、三島宿、袋井宿、大磯宿、保土ヶ谷宿の松がある。450x338_5
                    保土ヶ谷の松450x338_6
                  問屋場・貫目改跡450x249

青物横丁駅前の品川寺(ほんせんじ)には江戸六地蔵の一つがある。座高2m75㎝で大きい。地蔵というより鎌倉大仏の子分と言う感じ。450x338_7
                 七福神の石像が可愛い450x338_8
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1軒置いた隣の海雲寺 千躰荒神で有名。竈の神、火の神、水の神で、火伏せ信仰の寺として多くの人が参詣する。450x446
ここには平蔵地蔵がある。1860年、平蔵と言う乞食が大金が入った財布を拾い正直に番所に届けた上、落とし主からの謝礼も断った。乞食の仲間は怒って平蔵を小屋から追い出し、平蔵は凍死してしまう。これを聞いた財布の落とし主が、地蔵を建てて弔ったという。憐れな地蔵。450x338_10

鮫洲駅を過ぎ、立会川駅に続く商店街に入ると、20歳の龍馬像が立つ。商店街が龍馬がいた土佐藩下屋敷から土佐藩が築いた浜川砲台への道筋にあり、若き日の龍馬が歩んだ道ということで、この銅像があるのだという。338x450_4
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旧道と第一京浜が合流する手前に鈴ヶ森刑場跡がある。丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたという。338x450_5
                     磔台と火炎台450x338_12

そのすぐ先のしながわ区民公園は憩の場所。しながわ水族館もある。とここはもう大森海岸駅だ。450x338_14
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  更に歩き平和島駅の手前、平和島入口から次の大森町駅まで旧道に入る338x450_6
                 すぐ三原不動尊がある450x338_17

ここ大森は大きな森があったことに由来する。品川宿と川崎宿の中間地点で間の宿として賑わった。
また海苔の生産地だったので今でも海苔店が多い。平和島駅の手前の「大黒屋」ではのり大福が売られているそうで楽しみにしていたが、休日でした。残念無念。それならもう一駅歩こうということで大森町駅まで歩いた。

途中内川橋で内川を渡るところにするがや通りという案内板があったが、この通りはかつての羽田道で、川崎大師や穴守稲荷に行く道として利用されたそうだ。338x450_7
                       おわり


 

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2017年7月17日 (月)

東海道五十三次歩き6 日本橋~大森(1)

6/28(水) 江尻宿の続きを予定していたのに、雨が降る予報だったので日本橋からに変えました。三島までは大体知っている所なので後でもいいかと雨の日に回すことに(箱根は無理ですが)。
日本橋をゆっくり10時頃出発して、京急大森町駅には夕方6時半近く、約40706歩でした。

「♪お江戸日本橋七つ立ち・・」と謳われたように江戸時代は、七つ(5月ごろなら午前4時頃)、まだ暗いうちに発って、今の田町と品川の間くらいにある、東海道の玄関口の高輪大木土門が開けられる頃にたどり着いた。木戸は明け方六つ(午前6時)に開き、暮れ六つ(午後6時)に閉じられた。

日本橋の四隅には日本国道路元標のレプリカ(本物は道路の真ん中にある)、日本橋由来記、日本橋魚市場発祥の地碑、罪人の晒し場跡がある。
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橋が架けられたのが1603年、何度か消失し、現在の二連アーチ橋は明治時代の終わりに完成し、重要文化財だ。五街道すべての起点だ。

百十四銀行(本店は高松市) 明治5年に国立銀行条例に基づいて開設された153の国立銀行のひとつで、他に5行(四、十六、十八、七十七、百五)当時の名前で営業。見たことあるようないような。114_338x450
東京駅八重洲口からのびている中央分離帯に、オランダ人航海士ヤン・ヨーステンの碑がある。450x338_2
京橋辺りに来ると「江戸歌舞伎発祥の地」「京橋大根河岸青物市場跡の碑」がある。450x338_3
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銀座発祥の地碑や銀座の柳の碑(ちなみに今の柳は2代目)等を通り過ぎると新橋のお馴染みの「芝大明神」や「増上寺」に至る。もうここで早めの昼食はお寿司。雨が止む。
芝大明神には昔この辺りは生姜畑が多かったということで生姜塚がある。338x450_2
増上寺では今回は山門横の「グラント松」を知る。米国第18代大統領グラント将軍は明治12年、国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し、記念としてこの松を植えたとのこと。450x338_4
こちらは41代大統領パパブッシュが副大統領として昭和57年、来日の時、増上寺訪問の際のお手植えの「ブッシュ槇」のコウヤマキ。338x450_3

田町に入ると、田町薩摩邸跡があって、ここが江戸無血開城の「西郷・勝会見の地」碑がある。450x338_5
                     シマトネリコ450x338_6
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                      東京タワー338x450_4
三田の「元和キリシタン遺跡」 徳川家光が1623年、50人のキリシタンを処刑したという。450x338_8
この日はどこの神社にも茅の輪があって、我々は御田八幡神社にてくぐり、心身清浄を祈願する。338x450_5

高輪大木戸跡 朝6時に開いたという大木戸跡に到着。昼食をはさみあちこち寄り道があったので、すでに2時間どころか3時間40分位経っていた。450x338_9
四十七士の墓であまりにも有名な泉岳寺 最近ここを見ているのでさすがに覚えている。2年前には赤穂城も見てきた。
                  お寺と大石内蔵助の墓450x338_10
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高輪大木戸から品川宿まで東海道の東側は石垣の海岸だった
                  高輪海岸石垣の跡450x338_11
品川駅ロータリーの品川駅創業記念碑 (明治5年の時刻表と運賃が裏に刻み込まれている)338x450_7
(2)は品川宿から大森まで京急線に沿って歩いた記録を。つづく

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2017年6月26日 (月)

東海道五十三次歩き5 由比~江尻(清水)(3)

興津の宿も終わると、向こうの山の上に清見寺(せいけんじ)が見える。
入口の門を入ってから跨線橋で線路を渡って、総門をくぐる立派なお寺である。450x338
由緒ある名刹で、足利尊氏、今川氏、徳川家康が手厚い援助をした。家康は朝鮮や琉球からの通信使を清見寺で丁重にもてなした。その接待は瀬戸内海の島でも見たことがある。450x338_2
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                                                 本堂450x338_5
五百羅漢 天明年間の作者不詳の五百羅漢を見ていると楽しい。島崎藤村の『桜の実の熟する時』の最後の場面にこの五百羅漢の話が出てくるそうで、読んだのに何も覚えていません。
薩埵峠と共に今回のハイライトなのです。450x338_6
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線路を挟んで斜め向かいの、西園寺公望公別邸「興津坐漁荘」へ。
公望が大正8年興津清見寺町に建てた別荘で、現在は明治村に移築されている。明治村で見たことを思い出したが、ただただ竹が多く使われていたことが印象に残っている。
ここにある現在の建物は忠実に復元されたもので、明治村と全く同じ様に見ることが出来た。
広い屋敷で竹がふんだんに至る所に使われ竹の中に鉄骨が入っていて侵入できないようになっていたりして、優れた職人の技を垣間見ることが出来る。
ここで家系図を貰ったのだが、生家も、養子先の西園寺家もその祖先は藤原鎌足である。
松方公の死後、最後の元老(天皇の諮問に応える強力な発言権を持つ重臣)。先の水口屋もここ坐漁荘も無料でボランティアガイドの説明も受けられる。450x338_12
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                              鶯張りの廊下がキュッキュッと良く鳴る事450x338_14
                                           ナツツバキ450x338_18

                                     静岡市清水区の消火栓450x338_16
    井上馨の座像が清見潟公園内あった。旧廷がこの辺りにあったらしい。450x338_17
                         延命地蔵尊を覗いてみると立派な中であった450x338_19
東光寺
青面金剛童子は単なる石であった450x338_20
鑑真和上将来の中国菩提樹(太宰府戒壇院より)。とても良い香りの花だ。Wikipediaによれば栄西が中国よりもたらしたと書かれるシナノキ科。インド菩提樹はクワ科、欧州菩提樹はセイヨウシナノキ。2_450x338
旧東海道の松並木に311本あったというが今は2本残ると書いてあったが、1本になっていた。松って年数が経っても余り太くならないですね。338x450_4
                                                 馬頭観音338x450_5
分岐点の細井の松。ここも細井の松原が続いていたという。昭和19年、航空燃料の原料として松根油採取のために伐採されたそうで、その時行き倒れた人の人骨が多量出土したそうだ。338x450_6
清水駅のちょっと手前が江尻宿の東木戸跡だが見つからなかった。

          駅前ロータリーの東照宮記念塔。久能山東照宮まで11㎞とのこと。338x450_7
例によって地元まで帰り、「北海道」で海鮮サラダやズワイガニ入りチーズフォンジュ、いくらおにぎりなどを食べて9時半帰宅。

この日の大失敗:時計を20分過ぎと20分前と間違えて40分遅くなったので目覚ましが鳴ってから5分で家を出、駅までマラソンして起きてから15分で到着したこと。おかげで近頃なかった筋肉痛に3日間くらいさいなまれた。時計さえもセットを間違えるようになってチョイボケがひどくなり悲しい。まだこだまだからいいけれども、指定席のひかりやのぞみになったらアウトね。

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2017年6月25日 (日)

東海道五十三次歩き5 由比~江尻(清水)(2)

17番目の宿・興津宿へ向かう。興津の地名は、オキツヒメ女神説や奥津、つまり湾の奥に位置する津(港)、平安末期から興津一族が収めていたから等の説がある。東本陣、西本陣、脇本陣、旅籠24軒の宿場であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。

峠を降りると、スモークツリーやアジサイの花が咲き蝶が舞う、のどかな道を歩き興津川に出る。338x450_6
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興津川は東海地方の鮎釣りのメッカで、東日本のトップを切って解禁されるそうだ。

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                                    昭和20年の水難者の供養塔338x450_2
少し行くと「女体の森 宗像神社」という変な名前の神社がある。女体とは祭神がオキツヒメ女神である説、霧に覆われた神社の森が海上の漁師に女体に見えた説がある。450x377
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                                          身延道入口
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少し入った所に「ずんどう焼き」の店がある。この辺りは菓子屋が多く、興津が、私の大好きな餡子、製餡業発祥の地とも言われ、この後たくさん見かけた。一方ここには昼食を食べる店が一軒も見当たらず、ずんどう焼き屋で昼食にする。後で持ってきた野菜や果物を公園で食べる。
ずんどう焼きは回転焼きと同じようで、6種類、ツナ、キムチ、クリーム、おぐら、茶おぐら、ウグイスで半分ずつ食べました。ツナ、キムチが意外や美味しい。
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一里塚塚跡の石柱、日本橋から41里目を過ぎると興津駅だ。興津地場産品産業が書いてあった。
お菓子の他、興津鯛、花の栽培、醤油、紙布製品、そして主力産業が木ネジだそうだ。450x338_6

理源寺 宿場はここ辺りから名刹清見寺の手前まで。
ここには目の不自由な人々のために尽くした眼の神様「意眼さん」が祀られている。338x450_3
門前には「東海道行路病死 無縁各霊供養塔」がある。過酷な旅だから行き倒れも多かったのでしょうね。338x450_4
                  線路を渡って耀海寺450x338_7
耀海寺 1510年創建。日蓮宗総本山久遠寺の直末寺で、天皇家、徳川家とも関係が深い。450x338_8
境内にある元身延道入口にあった身延道の道標がある。大火で折れて上部のみがこの寺にあったが、下部も発見されてつながれたという。338x450_5

脇本陣水口屋跡  明治以降は旅館として、西園寺公望や伊藤博文をはじめ、昭和天皇皇后両陛下も宿泊された。しかし昭和60年に400年の幕を閉じたが、平成11年に水口屋ギャラリーが開館し、説明付きで所蔵品を見ることが出来た。450x338_9
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波切不動院 眺望がよく、行基菩薩が造ったとされる不動明王が祀られている。
上って行く途中の階段に鳥が。先日見たイソヒヨドリの雌のようだ。450x428
                    清水港が見えた450x338_11
             ズームすると向こうに美保の松原が見えた450x338_12

                        つづく

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2017年6月20日 (火)

東海道五十三次歩き5 由比~江尻(清水)(1)

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6/14 この日は待ちに待った薩埵峠です。週間天気予報ではずっと曇りの予報が、前日から晴れマークが入っていつもの7時前の新幹線に乗り、三島から東海道線に乗り由比へ。沼津で乗り換えたりしていて由比には8時45分頃に到着。
東海道線は由比駅~興津駅~清水駅間を歩く。約34000歩、17km。

由比駅前の由比桜えび通りのアーチにさよならし、歩きはじめるとツバメがたくさん飛び交っていて家々の軒を覗きながら進む。由比と薩埵峠は桜えびと初夏はツバメ、枇杷の町としてしっかり刻み込まれました。450x338
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前回寄った小池邸の斜め前の明かりの博物館を通り過ぎ、いよいよ薩埵峠へと向かう。だんだん上り坂になる。450x338_13
この間も枇杷畑が多かったが、薩埵峠全体が枇杷農家が多く、各家では枇杷が売られている。9つ入って300円のを買って峠に登った時に食べた。ジューシィで美味しい。450x338_2
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ここで鞍佐里(くらさり)神社に登って、小田原で見えて、三島では見えなかった富士山が見えるかを確かめてみる。見えました!450x338_4
この辺りが間宿(あいのしゅく)・西倉沢となり、川島本陣跡、その隣に明治天皇が休息された柏屋があり、続きに脇本陣の望嶽亭藤屋がある。『歩いて旅する東海道』によれば、官軍に追われた山岡鉄舟が望嶽亭の主人に海岸へ逃してもらったというエピソードが残っているとのことだ。
           望嶽亭藤屋は室町時代から続く、現代24代目。450x338_5

一里塚跡からいよいよ峠に向かって登り始める。振り返ると富士山に少し雲が増えてきた。薩埵山は標高244m、薩埵峠は標高200mだ。338x450
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広重の絵に描かれた位置辺りにやって来た。昔山際が海岸線間近に迫っている道の難所だった。
広重の絵の海岸辺りには今は海岸から東名高速、国道1号、JR東海道線がくっついて走っているのが見える。富士山とカーブを描いた駿河湾が絶景である!253x450
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広重の絵では砂浜はなく、急な崖になっているが、安政元年の地震で隆起したそうで、以降、通れるようになったそうだ。

薩埵山は地形上、歴史的合戦の地で、足利尊氏、武田信玄と今川氏や信玄と北条氏などとの合戦があった。

枇杷や蜜柑の収穫用のトロッコが所々に見える。芥川龍之介の短編『トロッコ』を思い出す。450x338_8

面白い花を見ながら枇杷を食べ、名残惜しく富士山と分かれ峠を降りる。チリアヤメと教えていただきました。Oさんいつもありがとうございます。450x338_9
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            海岸を見下ろしたら赤潮らしきものが見えた450x338_11
           峠の最後、往還坂を降りるとそこは墓地であった450x338_12
                       つづく

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