2019年11月11日 (月)

中山道7 六軒駅~鵜沼宿~太田宿(3)  

気が付いたことがあります。岐阜県の中山道沿いのトイレはとてもきれいで、また所々に配置されていて有難いです。
              
◆鵜沼~太田の続き

加茂川が木曽川へと合流する加茂川送水樋門がある。ここで、坂祝町から美濃太田市へと入った。
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美濃の俳人、兼松嘯風句碑があり、その先の欄干にたくさんの句碑がある。好きな人には散歩しながら楽しめるところでしょう。日本ラインと大きな中洲、近くや遠くの山々と緑、ロマンチック街道なる素晴らしい歩道など、実に心和む風景だ。
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土手をいったん降りて、芳春寺へ。お寺の前に地蔵尊、馬頭観音、三界萬霊塔、弘法大師が並んでいた。
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再び土手に上がり、少し進み、マルバルコウソウの群落に目を惹かれながらムクノキと金木犀のところで降りる。
解説板にはこの地で生まれた坪内逍遙(父が代官所の役人で10人兄妹の末子だった)が夫婦で訪れた際にこの木の前で記念撮影したという写真があった。
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ムクノキと背中合わせに虚空蔵堂があり、逍遙の子どもの頃の遊び場だったところだそうだ。
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また、ここのあたりは承久の乱(武家政権確立)の古戦場跡でもある。いろいろな石碑もあった。
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●太田宿 (51番目の宿)鵜沼宿から7.4㎞、伏見宿まで7.9㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒。

太田宿に入ってきた。猫のお出迎え。時刻は4時近く。今年はいつまでも暑くて夕方にならないと会えなかった。
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本陣跡。今は門が残るのみである。和宮が江戸に向かう時に新築された門とのことだ。おまけに中山道の家並みも新築、修繕されたそうだ。和宮下向に際しては各宿場はてんやわんやだったことが伺われる。
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その向かいにあるのが、太田宿中山道会館。エノキが大きくとヤドリギがたくさんついている。
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展示室には、太田宿の展示の他、この地に暮らした坪内逍遥や岡本一平に関する展示もあった。
突き当りの見える机上の模型は、坪内逍遙の父が勤めていた太田代官所。逍遙が書き残した平面図を元にして造ったものだそうだ。
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岡本一平は岡本かの子の夫で、岡本太郎の父。終戦の年にここに疎開し、昭和23年に亡くなるまで漫俳を創唱し、漫風を発行した。
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脇本陣跡の林家住宅。うだつの上がる立派なお屋敷だ。今も住んでおられるそうで、隠居家のみ見学できるが4時までなので次回に見学する。
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今日は魚徳で、お土産「子持ち鮎の甘露煮」を買ってもらう。これは美味しかった!
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旅籠だった小松屋(吉田家住宅)は今は案内所となっている。坪内逍遙や、播隆上人の説明板などがあった。
播隆上人は槍ヶ岳を開山した上人さん。知らなかったです。
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向かいの建物は旧十六銀行太田支店だったところ。
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鬼瓦に「銀」とある。
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祐泉禅寺に寄る。
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北原白秋の歌碑と坪内逍遙の歌碑があった(芭蕉句碑と播隆上人の墓碑もあるらしいが次回に見つけることに)。ここでこの日の街道歩きは終了した。
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美濃太田駅へと向かう。いろいろな鉄道が合流していて立派な駅舎だ。駅近くのいろいろな案内にポルトガル語が書かれているのが多い。
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美濃加茂市のマンホール。日本ライン下りの船と船頭さんが描かれている。
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美濃太田駅の前には、坪内逍遙の胸像があった。
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5時35分の高山本線で岐阜へ。乗り換えて名古屋着は6時45分。
名古屋駅のお店で駅弁・だるまの満彩おこわ弁当を買い、いつもの7時26分発のひかりに乗り込む。
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東京駅9時10分着。帰宅はいつもの10時半頃だった。41278歩。

 

 

 

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2019年11月 5日 (火)

中山道7 六軒駅~鵜沼宿~太田宿(2)

●鵜沼宿の続き

ここで昼食です。鉄門の斜め前にある「花の木」で昼食。ねぶか雑炊のセットです。
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伊能忠敬がいまから200年前の文化6年(1809)に測量に訪れた際、鵜沼宿のねぶか雑炊(ねぎ雑炊)をうとう峠で食べたという由緒あるもの。
雑炊が出るまでの間、りんごマンゴー酢をおつまみとともに飲んで待つ。
雑炊の他、茶碗蒸し、刺し身入りサラダ、ポテトサラダ、茶碗蒸し、肉団子、ごま豆腐など最近の昼食ではピカ一だ。
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食後、少し戻って鵜沼宿町屋館を見学。
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江戸時代には絹屋という旅籠を営んでいた武藤家は明治に入り郵便局を営むことになった。その建物を市が譲り受け、歴史民俗資料館として公開している。

復元された高札場。
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赤坂神社にはたくさん御神燈が並んでいた。
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ここから見た秋の雲が素晴らしい。5000~13000ⅿに現れる巻雲や巻積雲(鱗雲)が一番好きな雲で、我が人生最高の雲は美ヶ原の空にあったことを思い出す。
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東の見附跡と、道標を兼ねた赤坂の地蔵堂がある。鵜沼宿はここで終わり。
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◆鵜沼~太田

ここからうとう峠に向けて坂道がはじまる。
江戸時代から農業用水として利用されていた合戸池(かっこ)が行く手の左に現れた。
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峠らしい道になり薄暗い。「うとう」とは疎いで「不案内、よそよそしい、気味の悪い」という意味があるという。
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うとう峠の一里塚(100番目)があった。こちら北側は残っているが、南側は崩れていた。
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至る所にイノシシ出没注意と、まむし注意の看板が立っており、まむしが怖くて下や木からぶら下がっていないかを見ながら歩く。イノシシに効き目があるかはわからないが、娘が大きな音のカウベルを付けた。私の付けた鈴はまるで蚊の鳴くような声(音!)なので効き目はなさそう。
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コフキサルノコシカケか  ホウロクタケとshikamasonjinさまに教えていただきました。有難うございました。
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鬱蒼としたところを下ると木橋がある。
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JR高山本線と県道をくぐるトンネルを通る。脇から水が流れ込んで水浸し。
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坂祝町(さかほぎ)へと入ってきた。階段を上がると県道だが、多くの飲食店が閉店となってさびれていた。日本ライン下り(以前乗ったことがある)が終了したそうだからか。シャッター街同様見るに忍びない。

踏切のところでちょうど高山本線がきた。
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ここで岩屋観音へと上がっていく。木曽川が見える。
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観音堂には地蔵尊。奥にもいろいろな仏像がある。
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中山道はここから、太田宿の近くまで県道を行くのだが、車量も多く、風情もないので、皆も通るという川沿いのロマンチック街道を行く。
川と対岸の山々が見えて、素敵な散歩道。名前がまた日本ライン同様ロマンチック街道とは。風景がドイツのライン川沿いに似ているから付けられたとか。

水神と庚申塔が祀られ、勝山湊跡がある。木曾川の対岸犬山市栗栖と勝山を結ぶ。桑名方面へ向かう年貢米の積み出し港として、また水上交通の要所として栄えたそうだ。
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向こうに見える岩肌が見えている山は、可児市の鳩吹山である。
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さっきも書いてあったけれども、またロマンチック街道の文字が書かれている。
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はるか彼方右手に御嶽山が見えた。あの山の向こう側に中山道があるのだ。まだまだ木曽は遠い。
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2019年11月 1日 (金)

中山道7 六軒駅~鵜沼宿~太田宿(1)                

日にちが前後してしまいましたが街道歩きに戻ります。10/17(木)いつもの6:16ののぞみに乗り、名古屋→岐阜→六軒駅へ。9時10分頃から歩き出す。殆ど曇り。
歩いている本人でないと興味がわかないと思うのですが、それを読んでいただいてくださる方々に感謝です。復習の意味で書き連ねているのですが、日本のこんなところがあると一つでも頭に残ると楽しいです。歩かなければ見られないこともあります。

◆六軒~鵜沼

まずは駅近くの神明神社に寄る。このあたりにはこの名の神社が多いと調べてみたらわからなかったが、この神社は主祭神が天照大神で全国に5000社あるという。
蕃塀があります。これは初めて見るような、あるいは今まで気が付かなかっただけか。蕃塀とは「参道上で拝殿の前に存在する短い塀」で、正殿を直視しないようにするとか、不浄なものの侵入を防ぐために造られたという説がある。愛知、三重、岐阜などに多いらしい。
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またまた馬頭観音があった。三面八臂。この後も次々と現れて大喜び状態。
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六軒一里塚跡も標柱のみ。
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長楽寺のこの石造は地蔵群か33体の観音様か?
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津島神社には各務原市指定重要有形民俗文化財の皆楽座がある。皆楽座は。客席を持たない舞台のみの芝居小屋である。廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備えているそうだ。驚いたことに拝殿を兼ねているため本殿に向かって正面にある。
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              皆楽座
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2本の大きなキンモクセイが満開。この日は一斉にどこも咲いていて、一日中金木犀の香りの中にいるようでした。
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坊の塚古墳である。岐阜県では2番目に大きい前方後円墳だそうだ。
古墳の上に登ることが出来た。向こうが前方になり、今立っているところが後円となる。滋賀県では出会わなかったが、岐阜県には古墳が多いようです。
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空安寺の前に日露戦役忠魂碑。乃木希典の字だそうだ。この地の方がたくさん亡くなったのだろうか?碑の後ろの塀を見てもわかる通り、空安寺は立派な塀に囲まれたお寺だ。
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お隣に衣装塚古墳。こちらは円墳で、上部に墓碑が並んでいるそうで4世紀後半から5世紀前半に築造。
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●鵜沼宿(52番目の宿)加納宿から16.8㎞、太田宿まで7.4㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒。

西の見附跡があって鵜沼宿に入ってきた。
見附跡の横の階段を上っていくと翠池がある。農業用のため池だそうだ。
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石亀神社に寄る。ご神体の石亀様が亀に見える。
鵜沼は石材の産地だったので採掘場跡に建てられた神社。この鵜沼石は尾張藩主の墓石としても使われたそうだ。
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鵜沼宿は濃尾震災(明治24年)により建物は消失しまったのだが、最近になって脇本陣の復元をはじめとして整備され、道の塗装もされ、風情のある街並みになっている。
登録有形文化財の4軒、安田家住宅、梅田昭二家住宅、梅田吉道家住宅(茗荷屋)、坂井家住宅と続く。茗荷屋だけ唯一震災を免れた160年前の建物だそうだ。
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二ノ宮神社は6~7世紀頃の古墳の上に建てられた神社で、下に横穴式古墳の石室があるという珍しい神社。
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鵜沼宿脇本陣跡。
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江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた 「鵜沼宿家並絵図」 をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考にし、脇本陣を務めた坂井家の建物の姿に平成22年に復元し、公開している。うだつが上がっている。ここに宿泊した芭蕉の句碑もあった。ボランティアガイドさんが熱心に説明してくださる。
中山道69次の瓢箪。大小あるが宿の大きさに比例しているのもあった。
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お庭。
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部屋の様子
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風呂場  
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ボランティアガイドさんたちは今年、文献をもとに和宮が召し上がったという食事の再現をしたそうだ。
茄子の奈良漬けとごぼうだけの味噌汁が好物だったそうだ。献立表の部分、写真がちょん切れです。

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菊川酒造。
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旧大垣城鉄門(くろがねもん)。高麗門と呼ばれる型式の門で、短冊型の鉄板を隙間なく貼っている。火矢による攻撃から門を守るため。
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2019年10月 5日 (土)

中山道5 関ヶ原~垂井宿~赤坂宿~美江寺宿(2)

垂井~赤坂

赤坂宿を出ると相川を相川橋で渡る。北側の山が美しい。ここは洪水があったため人足渡しだった。一方、朝鮮通信使や姫宮などが通る時には木橋がかけられたそうだ。
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橋を渡ったところにあるのが垂井追分道標。中山道と美濃路の追分である。美濃路は垂井と東海道熱田(宮宿)を結ぶ脇往還である。いつか歩くつもりでいる。中山道も本によっては木曽路までは美濃路と言っている。
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昼食は、今回は飲食店が見つからず、コンビニイートインで。名古屋名物のあんかけスパゲティを売っていた。東京には売っていない!ソーセージの赤が気になったけれど、美味しかった。
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大垣市・青野町に入る。青野一里塚跡(111里目)と大神宮常夜燈がある。
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教覚寺には青野藩主・稲葉正休の碑がある。稲葉正成(春日局の夫だった人)の子孫だが、江戸城内で大老を刺殺、自身も殺され、青野藩はお家断絶となった。
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寺の鐘楼台は石灰石で、フリズナ(有孔虫)の化石がある。珍しいというよりあまり化石を見る機会がないということです。たまには博物館に行かなければ。
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この辺りは見渡す限り田んぼで、稲穂が垂れて収穫も近そうだ。日本の秋の原風景。
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間の宿と思われる青墓宿が大谷川を渡った東詰めにあったらしい。廃寺の圓願寺には芦竹庵があった。
牛若丸が奥州へ落ちのびる途中、青墓の圓願時で休み、江州から杖にしてきた芦の杖を地面に突き刺し 「挿しおくも 形見となれや 後の世に源氏栄えば芦竹となれ」 の歌を詠んだという。その後、芦から芽が出て竹の葉になったとの伝説がある。
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照手姫の墓と言われる墓もあった(東海道の方にもあった)。墓の横の植物が芦竹かもしれない。照手姫水汲井戸まで残っていた。
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今日は古墳を2つも見た。その一つ、粉糠山古墳で墳丘長100ⅿの前方後円墳だが、今は墓地になっていた。青墓の遊女たちが捨てた粉糠が積ったものであるという。
写真では古墳の形が全くわからないが向こうに盛り上がっているのが円墳のようだ。
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2つ目はその先の昼飯町(ひるい)の昼飯大塚古墳。岐阜県最大の前方後円墳で150ⅿある。4世紀末の築造。
昼飯の由来は大坂の海から拾い上げられた善光寺如来という仏像が、善光寺へ運ばれていく途中、一行がこの地で昼飯を食べたからだそうだ。とても大きい!
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登って見ると四方が見渡せ美しい景色が広がっている。伊吹山の方を見る。
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目を北東の方に転じると石灰を掘っている山が見える。江戸時代からここでは良質な石灰石が採掘されて、今も工場がこの辺りに点在している。
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赤坂宿(56番目の宿) 垂井宿から5.2㎞、美江寺宿まで8.7㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒。
東海道にも赤坂宿があるので中山道のは美濃赤坂とも呼ばれる。

赤坂宿西の入り口に、赤坂宿御使者場跡と兜塚がある。
関ケ原合戦の前日、杭瀬川の戦いで戦死した東軍・中村隊の武将・野一色頼母の首と鎧兜を埋めた場所。
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赤坂は所郁太郎生誕地であり、お墓がある。所郁太郎とは、瀕死の重傷を受けた井上聞多(後の明治の元勲井上馨)を手術し畳針で縫いその一命を救ったという憂国の青年志士だった。初めて知った志士。
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脇本陣跡の斜め前にある和菓子屋さんの金生堂で栗きんとんわらび餅を買い、先にある本陣跡の公園で食べる。これは美味しい。
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1831年に建てられた谷汲道道標。19㎞北にある谷汲山に向かう道。道標や高札場の字がいつもなかなか読めない。江戸時代の庶民は凄いなんて思う。
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十六銀行はビルでなく宿場に馴染んだ建物で、静岡の問題になった銀行もそうだったことを思い出す。
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旧清水家住宅。1730年建築で大垣市指定文化財。土日は公開。昔米屋で2階は米を収納する広い部屋が残っているそうだ。
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おやつを食べた本陣跡は公園になっている。奥に小さく見える青い像は所郁太郎の像で、和宮が宿泊した記念碑もそばにある。
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赤坂本町駅跡があった。
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赤坂湊会館。赤坂警察署を復元したもので、これも土日に資料館として公開されている。
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赤坂湊跡。赤坂港はかつて桑名まで船が行っていて、近代は名古屋まで石灰を運ぶ船が往復したそうだ。鉄道ができて衰退。
今は港が復元されていて、大きな火の見櫓が立っている。
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続く

 

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2019年10月 3日 (木)

中山道5 関ヶ原~垂井宿~赤坂宿~美江寺宿(1)

9/26(木)、7/18以来2ヶ月ちょっとぶりに中山道歩きに出ました。果たして鈍った体でどうなるやら。涼しいと思われていたのに、30度近くの予報に。しかし秋の空気が下りている日だったので日陰は涼しく午後にはちょっと暑かったけれども、家に到着まで2リットルの水分の補給と塩分補給で熱中症を免れました。
この間、関ヶ原で大雨に遭い、垂井に向かって1㎞も歩いたのに引き返したので、また関ヶ原駅から同じ道を出発。この日は樽見鉄道の美江寺駅に到着するべく歩いたので、いきなり約50000歩ということになり、翌日筋肉痛になったのでした。今回も道中にまつわる話や伝説を初めて知ることが出来ました。


◆関ヶ原~垂井

いつもの4時半起床で、東京駅6:16ののぞみで名古屋へ、富士山は見えた!東海道線で関ヶ原の駅に降り立ち、9時過ぎから歩き始めた。
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桃配山の徳川家康最初の陣地。桃配山(ももくばり)は、壬申の乱の時に大海人皇子が陣を構え、村人に献上された桃を兵士に配り勝利したことにより命名されたのだそうだ。
家康はその故事にあやかりここに陣を敷いた。そばには石が2つあったが、家康が腰掛とテーブルに使ったそうだ。
桃配山。階段を登ったところに記念碑と石があった。
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中山道・野上村の野上の松並木。樹齢300年以上。台風や虫害で本数が減り、関ヶ原町が天然記念物に指定して保護している。野上は関ヶ原と垂井の間の宿。
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六部地蔵は初めて。
六部とは 六十六部 の略。全国の社寺を巡礼して修業している人とのことで、行脚中の行者がこの地で亡くなり、村人が祠を建ててお祀りしたという。「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」 とあった。
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山内一豊陣跡。西軍の毛利氏に備えた。
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真念寺に寄る。時は平安、野上宿の花子は、宿に泊まった吉田少将と契りを交わし、その形見に扇を受け取り、少将が忘れられず諸国を尋ね歩く。扇が縁で再会するというのが謡曲「班女」。花子は謡曲「墨田川」の梅若丸の母でもある。この班女の観音堂に病死した我が子の供養のために観音様を祀った。
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岐阜県に入ると滋賀県のようにお地蔵さんはあまり見かけなくなったが、ここにありました。喜ぶ。
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野上の七つ井戸があった。旅人の飲料水として貴重だったそうだ。つるべ式。
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おしゃもじ塚。平安時代の上野介・平忠常終焉の地。
平忠常(朝廷に反抗し安房の国司を殺害し捕えられた)は都に護送される途中病に罹り、何も口にすることができなくなり、野上の住民がしゃもじに食べ物を乗せて差し出すと一気に食べて息絶えた。住民が供養碑を立てて弔った。
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垂井一里塚。中山道で国指定史跡となっている一里塚はここと東京都の板橋だけだそうだ。関ヶ原の戦いで東軍についた浅野長政の嫡男幸長の陣跡でもある。
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すぐ隣にあるのが日守の茶所。
常盤御前の墓所にあった秋風庵が明治になって一里塚の隣に移され、中山道を通る人々の休み場所として、昭和の初めまで利用された。
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垂井町のマンホール発見!この先の相川沿いの桜並木と鯉のぼりがモチーフ。
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●垂井宿(57番目の宿)
関ヶ原から5.5㎞、赤坂宿まで5.3㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒。766mある。

垂井宿西の見付からの垂井宿
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この宿の家にも所々に屋号札がかけられている。煮物賣「大場屋」さんはお総菜を売っていたのか?
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本龍寺。とても立派なお寺!櫓のようなのを含めた山門は脇本陣から移築したもので、手前に最近復元された高札場があり道沿いには明治天皇垂井御休所の石柱がある。
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この寺の住職と親交があった芭蕉が1691年の冬滞在し、句碑がある。「作り木の 庭をいさめる しぐれ哉」。
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お寺の斜め向かいにあるのが、小林家住宅主家。油屋宇吉家から小林家が明治になって譲り受け、亀屋の屋号で旅籠を営んでいたそうだ。江戸末期の建物で防火対策が随所に残された貴重な建物で、国登録文化財。
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江戸時代そのままの間取りの旅籠の長浜屋。休日はお休み処として中が見られるそうで残念。
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美濃国一宮の南宮大社の大鳥居。高さは7.1㎞ある。常夜燈は1840年のもの。
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玉泉寺の脇に垂井の泉がある。今はない樹齢800年の大ケヤキの根元から水が湧出していた。垂井の地名の起源とされているこの泉、とても水がきれいで岐阜県名水50選に選ばれている。
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本陣跡の先の丹波屋の鬼瓦にWaterと書かれている。どんな意味があるのか?
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旅籠の亀丸屋。最近まで営業していたそうだ。この前は枡形になっている。
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紙屋塚。昔、紙漉き場があったとのことで、美濃紙発祥の地と言われるているそうである。
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ここで垂井宿・東見附を出る。

 

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2019年8月11日 (日)

中山道4 醒井~柏原宿~今須宿~関ヶ原宿(後編)     

岐阜県に入ると関ヶ原町である。マンホールは関ヶ原合戦のイメージの兜と町の花・梅、町の木・杉が描かれている。
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車返しの坂があって地蔵尊が残っている。南北朝時代、二条良基という公家が 「荒れ果てた不破関屋の板庇から漏れる月の光が面白い」 と聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやってきたがこの坂を登る途中屋根を直したと聞いて都に引き返してしまったという逸話がある。何時の時代も何でも面白がるという人がいるものです。
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岐阜県に入っても地蔵がありましたよ。滋賀県と違うのは帽子をかぶっていること。
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今須宿(59番目の宿)柏原宿から3.9㎞、関ヶ原宿まで3.9㎞。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒。

今須宿に入ると大きな灯籠がある。次の燈籠もその後の永代常夜燈も、しめ縄がかかっているのです。いやー、珍しい!
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醒井宿で見たばかりだけれど、美濃ではその16宿の中で唯一現存する問屋場。今須宿にはかつて17軒も問屋場があった。
軒丸瓦は縁起物の永楽通宝。
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本陣跡、脇本陣跡と向かいあって、国道と東海道線のトンネルの向こうに妙応寺がある。立派な山門と本堂の障子が見える風景がなかなかにいい。東海道線は妙応寺でトンネルのために線路が分岐している。妙応寺は1360年に今須領主・長江重景が創建した県下で最も古い曹洞宗寺院。
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灯籠がずらっと並ぶ本堂。
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家康の腰掛石があった。今まであちこちで見てきたような気がする。
この石に座り「嬉しい 楽しい 有り難い 運 鈍 根」と三回唱えるとしあわせになれる・・・ということだ。一応何でもやってみる。
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今須~関ヶ原・・・壬申の乱、不破関、関ヶ原合戦の地

今須橋のところで小さな宿が終わり、再現された今須の一里塚跡(174里目)がある。
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今須峠を越える。大したことがない峠であった。
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丁度東海道線が通った。
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常盤地蔵。義経の母・常盤御前はこの地で土賊に襲われ亡くなり、宿の主人が街道筋に塚(墓)を築いたが、その後哀れに思った村人が常盤地蔵をこの場所に安置して供養したとのことだ。こんなところで非業な死を遂げたとは!
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常盤御前と乳母の墓。「義ともの 心に似たり 秋の風」と、芭蕉の句碑が後ろ側にあった。
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少し進むと三地蔵の向かいに山中川から流れ落ちる鶯の滝が水量豊富に5m流れ落ちている。いつも鶯が鳴き、街道の名所だった。山中村は間の宿で東山道の宿駅でもあり立場があったそうだ。
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壬申の乱と言えば、醒井宿の手前にの横川が最初の古戦場と思っていたが、この後で渡る藤古川が壬申の乱で両軍初の衝突が起きていた所。
この黒血川は、壬申の乱の大友軍と大海人軍の激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、呼ばれるようになったという。大友軍はどんどん近江の地へと追いやられて行った。
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滋賀県の他、三重県にもあった飛び出し坊やが岐阜県にもあった。オバQ。
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電柱には「このまち、まるごと、古戦場」と称して関ヶ原関連の豆知識が貼られている。湯浅五助は大谷吉継の家臣で自刃した吉継の介錯を務めた人とあった。大谷吉継の墓は中へ大分入ったところにあり、陣跡あたりは寝返った小早川秀秋のいた松尾山の眺望地であった。
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自害峯の三本杉。天然記念物。大津で敗れて自害した大友皇子の首だけがここに葬られ、3本の杉が植えられたという。
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藤古川。壬申の乱開戦の地。この辺りに不破関西城門があったとされる。少し行くと東城門跡もある。
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不破関資料館(関に関する資料や発掘で出土した品の展示)を見学したところによると、古代律令制下の三関の1つであり、ここ東山道が通り抜けていた。壬申の乱の際に設けられたが、早くに関は廃止されたようだ。

不破の関跡。関守の末裔である三輪家所有。
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民家の畑の中の大海人皇子の兜掛石。このあたりが不破関の中心地であった。
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大海人皇子の沓脱石もあった。
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福島正則陣跡は通り道にあった。
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月見宮大杉。樹齢800年で関ヶ原合戦図屏風にも描かれているという。町の天然記念物。
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消火栓の箱にはいろいろな武将の家紋が描かれているが、これは小早川家の家紋。
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西首塚。関ヶ原の戦いにおけるおびただしい死者を東西に分けて葬った場所である。国指定史跡。
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関ヶ原宿(58番目の宿)今須宿から3.9㎞、垂井宿まで5.5㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒。

その先の常夜燈のあたりからが関ヶ原宿である。関ヶ原宿は中山道の宿場というより、関ヶ原合戦の地として知名度が高い。北国脇往還と伊勢街道の分岐点であり、西に今須峠を控えてていたので、多くの旅人で賑わったのだが、わずかに関ヶ原駅近くに脇本陣跡が残るのみである。

東首塚も国指定史跡。
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首塚の横にあるのは家康の四男・松平忠吉と井伊直政の陣跡である。
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脇本陣跡。門は1800年代前半のものが残る。
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関ヶ原醸造の建物で宿を通り終え、垂井宿に向かったが雷雨となり雨脚が強くなり、下水溝から水が噴き出し道路脇が冠水したので雨が弱まったところで関ヶ原駅へ引き返す。
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早い東海道線に乗れたので、名古屋に無事着いた。この後の東海道線はストップしてしまったとのこと。新幹線も遅れていた。

夕ご飯は名古屋地下街エスカで海鮮スタミナ丼。今日のお土産はういろうでした。
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新幹線は10分遅れで東京駅21:20、家には午後10半頃到着。37660歩。この後は9月の終わりころ、涼しくなってからにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

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2019年8月 4日 (日)

中山道4 醒井~柏原宿~今須宿~関ヶ原宿(前編)     

 前後しますが7/18(木)に6:16発ののぞみに乗り、名古屋経由で東海道線で大垣へ。乗り換えて醒井に9:10到着。

駅のトイレには燕の巣がいくつかあって、駅でちゃんと糞が散らからないように工作してあったのが何とも微笑ましい。
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・昔の問屋場がそのまま残った醒井資料館に入って中を覗いてみたら、天井の高い建物だった。旅籠屋などと全然違う作りだ。
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また梅花藻を眺めながらすぐ醒井宿の東見附跡に到着。予報に反して、残念ながら雨が降ってきて、一日中大雨になったり小雨になってやんだりまた雨になったりの繰り返しで、買ったばかりの合羽ズボンを履いて歩く。涼しいので助かる。


◆醒井~柏原

高札場でもあった、一色一里塚跡(116里目)の新しく造られたものを通り過ぎると、米原市の旧山東町のマンホールを発見。内側には三島池のマガモ、外側には特別天然記念物の指定を受けた天野川のゲンジボタルが描かれていて、蛍の名所らしい。
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松並木があって、この辺りは古代律令国家、古代東山道の横川の駅家(よかわのえきや)跡があったとされる。30里(約16㎞)毎にあったそうだ。
この先には「掃除丁場と並び松」の説明板があって・・・柏原宿では松並木を並び松と呼ぶ・・・貴人の通行に備え、路面整備、除草、枯れ木・倒木の処置・補植に村々が賦役として従事していたのだそうだ。
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今朝この間の水まんじゅうを買った店で、番場忠太郎最中を買ってきたのでおやつに食べる。笠をあしらっていて、餅入りで美味しい。
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滋賀県ではもうここが最後かとまたもや地蔵を撮ってみる。もう何千体も見ているでしょう。岐阜県に入るとどうなのでしょう。
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柏原宿までまだ1㎞もあるが、民家の軒先のあちらこちらに「柏原宿」の提灯が下がっていて宿の意気込みが感じられた。
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正面に見える山は北畠具行の墓がある丸山だろうか。具行は元弘の変(後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動)で失敗し、ここ柏原で処刑され丸山に墓がある。
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●柏原宿(60番目の宿)醒井宿から5.9㎞、今須宿まで3.9㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠22軒。宿の長さは約1.5㎞と長い。標高も174mあって近江路や西美濃では一番高い。近江最後の宿場(東から歩いてくると近江最初の宿場)。

西見付跡に到着すると復元された柏原一里塚跡(115里目)があり、街道らしい感じの街並みが見えてきた。
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御茶屋御殿跡。家康が上洛の際、この地の西村家で休息していたが、頻繁になったため、秀忠が殿舎を新築した。その後将軍が上洛することがあまりなくなり14回使用されただけで廃止された。
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この宿にはいろいろな屋号札がかかっていて、中には跡しか残っていないものあるが、まるで今、宿として当時の姿の人が通りそうな雰囲気である。問屋場跡はこの近辺の宿は7、8軒あり、問屋役年寄りと言って補助する村役人の家も6、7軒あったようだ。東西の荷蔵跡(当日処理できない荷物を預かった)も教示されていた。
伊吹もぐさで有名な「艾屋」は9、10軒あり、造り酒屋は4軒あり、22軒あった旅籠屋も屋号札を残しているところが多い。その艾屋や旅籠、呉服屋などが共同して柏原銀行を設立した跡も残っていた。
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柏原宿歴史館に併設された喫茶柏で昼食にする。
「やいとうどん」を食べる。やいととは、お灸のことで、もぐさ灸に見立てたとろろ昆布の上に紅生姜がのっかっていてこれが火を表している。他にゆで卵、かつお節、湯葉、葱が入っていて美味しい。
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隣の歴史館に入る。入場料は300円。
母屋は艾亀屋左京商店の分家の松浦良平の住居として大正6年に建てられたもので大変立派である。国登録有形文化財だ。
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「艾さ瓦」は亀屋久作左京家の屋根を飾っていた。伊吹堂亀屋左京商店は今も艾を扱っているという。往時が偲ばれる。
ところで艾で一度もお灸をしたことがないですが火傷したりしないのですね。テルミーとは違うのかしら。何でもやってみたいけれど病気関係だけはごめんこうむりたい。
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佐々木京極氏の系図や高札場や問屋場の資料や「木曽街道六十九次」69枚の複製が飾ってあった。

造り酒屋跡
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高札場跡に秋葉山常夜燈。またこの辺りから秋葉山常夜燈になってきた。
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皇女和宮が宿泊した南部家本陣跡。
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この宿あたりから伊吹山がよく見えるはずなのですが?これがそうらしいのですが天気が悪くて。
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東見附で柏原宿を出る。とても宿らしい趣があって街道気分を存分に味わった。


◆柏原~今須

照手姫笠掛地蔵があった。右の小さい方の地蔵が照手姫笠掛地蔵で、左はのちに奉納された地蔵だそうだ。
以前にもどこかで出てきた照手姫と小栗判官の話。毒を盛られた小栗判官を救うため照手姫がこの地にあった地蔵に笠を掛けて祈ったところ全快、のちに蘇生寺を建立したが焼失して地蔵のみ残ったとのこと。
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少し前にもあったが楓並木が中山道にはあるのです。
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白清水(しらしょうず)。写真ではきれいに見えないですが実際はきれいな清水で、日本武尊が、ここでもこの清水を飲んで正気付いたという。また照手姫の白粉で清水が白く濁ったことから白清水と呼ばれるようになったとある。
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野瀬山の上にある長比(たけくらべ)城跡への登り口の道標があり、姉川の戦いの前哨戦となった浅井の城ということで眺めがよいそうだ。
この道の左側の溝を流れる水は大阪湾に、右側は伊勢湾に流れているそうだ。
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蛍の塀の家があった。
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「寝物語の里」の碑が立ち、由来が書かれ、太田道灌の歌も刻まれている。
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すぐ幅50㎝の溝を挟んだ近江と美濃の国境の標柱「近江美濃両国寝物語の標柱」が現れた。美濃の両国屋と近江の亀屋という2つの旅籠が国境を挟んであり、寝ながら話せたので寝物語という言葉が生まれた。
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滋賀県と岐阜県の県境にやってきた!
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続く

 

 

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2019年6月24日 (月)

中山道2 武佐宿~愛知川宿~高宮宿(3)

愛知川~高宮の続き 

伊藤忠兵衛記念館は無料。伊藤忠創始者・伊藤忠兵衛の旧邸であり、二代目忠兵衛が生まれた豊郷本家。明治15(1882)年建設された。
大きく立派な家で庭も広く手入れされ、蔵は2つもあって当時の貴重な品が沢山保管されている。
初代の妻八重さんは大所帯を切り盛りするだけでなく、アシスタントとして江州での近江麻布の仕入れを一手に切り回した。新入店員の教育もし、また二代目を自ら指名し、丁稚小僧扱いにし、5年間の地方回りの下積みを重ねさせ、その後イギリス留学をさせた由。
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伊藤長兵衛家屋敷跡。九代目伊藤長兵衛が1921年伊藤忠商店と合併して株式会社丸紅商店設立し、初代社長になった。伊藤忠と丸紅は同じ系統だったことを初めて知った。この方は地域のために自費で病院を建て、屋敷跡は病院の駐車場になっている。
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八幡神社にある石柱には豊郷町のこのあたりが石畑で間の宿とあった。立場跡もあった。
又、那須城跡でもあり、かつては弓に名手・那須与一の次男石畑宗信がこの地を治めていたそうだ。
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旧豊郷小学校は、この町出身で丸紅の専務だった古川鉄治郎の寄付で建てられたもので、ヴォーリズの設計。滋賀県最古の鉄筋コンクリート造りで、縦長の窓が並んでいるのが特徴。見たことがないけれども、アニメ「けいおん!」のモデルになったところ!
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スズムシバナの群生地があった。鈴虫が鳴く頃に薄紫の色の花を咲かせるが、九州、四国、本州(近畿地方以西)に自生し、この町のものが自生しているものでは北限だそうだ。キツネノマゴ科ですが葉はシソの葉によく似ている。
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彦根市に入って西側に「おいでやす」、東側に「またおいでやす」と書かれたモニュメントが立っている。その上に麻の荷を担いだ女性、旅人、近江商人がのっている。
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月通寺には行基が刻んだ柏原地蔵(見られない)がある。この門が医薬門(左右に本柱と控え柱をそれぞれ1組ずつ配し、屋根は切妻破風造りのもの)。
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松とカエデの並木の街道。
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120里目の壊れた一里塚跡。
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またこちらにも無賃橋が出てきた。
当初ここ犬上川には橋はなく、川越人足による渡しだったが費用が高く、彦根藩は豪商らに命じて費用を一般から募って橋を造らせ無料で渡れるようにしたため、無賃橋と言われるようになった。無賃橋碑があった。
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高宮宿(64番目の宿)愛知川宿から7.9㎞、鳥居本宿まで5.9㎞、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒。

橋を渡って高宮宿に入ってきた。多賀大社の門前町であり、「高宮上布」という麻織物の集散地として栄え、中山道の宿場の中では本庄宿につぐ規模だったそうだ。

彦根市のマンホールは市章を幾何学的に配置し、外周に市の木のたちばなをデザインした。ひこにゃんのマンホールもあるらしい。
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今日のお土産は旭堂の丁稚羊羹。刻んだ栗が美味しい羊羹。丁稚さんでも買えた羊羹という。
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まず円照寺があってとても立派なお寺。明治天皇ゆかりの松を見、家康の腰掛石があるというがこれは見つからなかった。
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表門が現存している本陣跡。
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高宮寺(こうぐうじ)。奈良時代に行基とインドから来日した婆羅門が開基したと伝わる。中に重文の木像や県指定文化財4点があるという。
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小林家の前に芭蕉の紙子塚の説明板と碑がある。
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芭蕉が小林家に泊まった際、「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 と詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、庭に塚を作り古い紙子を収めて 「紙子塚」 と名付けたという。

多賀大社の一の鳥居。高さ11メートルで滋賀県最大。県指定有形文化財。ここから多賀大社まで3.6㎞の距離がある。江戸時代の三大神社参りは伊勢、熊野そしてここ多賀であった。延命信仰では重源や秀吉の話が有名だ。
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高宮宿の街並み。雨がやっと止む。
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座・楽庵の看板のある建物は布問屋で蔵もある。建物は登録有形文化財。
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高宮神社は創建は鎌倉末期。見つからなかったが芭蕉の句碑も残る。
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参道にあった立派なお宅は馬場家住宅。元大庄屋の家である。近江商人でもあって、蔵が4つあり、天保4年の創建という。
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街道歩きは宿の終わるこのあたりで終了し高宮駅へ。
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彦根まで近江鉄道に乗り、琵琶湖線に乗り換えて米原着が6時前。18:57のひかりに乗り、米原駅のお弁当を食べ(なかなかに美味しい)、21:10東京着。帰宅は22時半前。41264歩(この内、家往復は帰りのみバスを使うので約2700歩)
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(完)

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2019年6月21日 (金)

中山道2 武佐宿~愛知川宿~高宮宿(2)

◆武佐~愛知川(続き)

近江商人について、まだ本を読むに至らず、地図の説明を引用させていただきました。
「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の近江商人の精神と信仰心が商売の精神と結びついた。
近江商人は日本全国に留まらず、ベトナム、朝鮮半島、中国まで行商に出かけ、日本の近代商業の発祥の役割を担った。
この先で邸宅を見た伊藤忠・丸紅、その他住友、高島屋、西武グループなど現在の日本を代表する老舗を輩出した。「近江の千両天秤」という言葉は天秤棒一本で千両を稼ぐ商魂の逞しさを表している。
何故近江商人が誕生したのか?1つに大名がおらず、領地が他国大名、旗本、社寺の領地で、移動に通行手形が簡単に取れた。2つに日本の真ん中で東西を結ぶ交通の要衝であり琵琶湖の水運もあったことである。
重伝建になっている近江商人の屋敷や街並みは、中仙道から少し入った金堂地区で寄らなかったが、この街道沿いにも商人の家は残っている。

江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍した市田庄兵衛の本宅。明治初期の建築。
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家の跡が残る近江商人・市田太郎兵衛邸には明治天皇が巡幸の際、往復路この家で小休され、その記念碑が向かいにあった。東海道では数えきれないほど明治天皇御聖蹟があって、殆ど写真はスルーしたが、中山道にも見かけている。明治天皇は随分とあちこち出かけられたのですね。
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道標を兼ねた常夜燈。「左いせ ひの 八日市 右京道」と刻まれている。天保15年(1844)・・・大飢饉、お伊勢参り大流行、天保の改革が行われた年。
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旧五個荘郵便局は大正14年の建物。国の登録有形文化財である。
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中がこんな立派な小さな地蔵堂があった。
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渡った大同川の橋には近江商人のレリーフがあった。
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小幡町に入って近江鉄道の五個荘駅も近い。趣ある立派な大神宮常夜燈。この後3つも見る。
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昔を偲ばせるような街並み。
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小幡人形のお店があった。伏見人形を見た飛脚が街道土産として売り始めたのが発祥で、500種類もあるという土人形。伏見人形は若冲の絵で見た。笠森観音のある千葉県長南町には猫が多い芝原人形があると聞いたことがある。
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東嶺禅師生誕の碑。静岡県原宿の白隠禅師の高弟だそうだ。
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愛知川(えちがわ)にやってきた。睨み灯籠(大神宮常夜燈)といって、両岸に睨みあうかたちで存在している。
愛知川を御幸橋で渡るとちょうど近江鉄道が通っていったが、橋梁は明治31年のものだそうだ。古いのによくもっているものです。
この川は歩行渡りだったが、増水すると旅人が多く死亡、「人取川」と恐れられ、1831年無賃橋が架けられて多くの旅人に喜ばれた。広重の六拾九次之内にも描かれている。
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祇園神社は御幸橋の守護神として建立された牛頭天王社である。
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●愛知川宿(65番目の宿) 武佐宿から9.8m、高宮宿まで7.9m、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒。

愛知川宿のゲートが見えてきた。時々国道を歩くとダンプカーのしぶきを浴びて参った参った。びしょ濡れだ。
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ゲートの先に不飲川があり、橋の欄干に載っているものがある。愛知川名物の瓶手毬なのだそうだ。瓶の中に手毬が見える。瓶細工手毬と言って、ボトルシップのように、その口より大きな刺しゅうを施した手毬が入ったもの。
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竹平楼は昔は旅籠(1758年)で明治天皇の小休所となった。登録有形文化財。現在は食事処だ。
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愛知川宿の街並み。商店街の街灯は近江商人の隊列があしらわれているそうだが見なかった。
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高札場跡、脇本陣跡と本陣跡を挟んで八幡神社があり、愛知川の産土神。本殿は檜皮葺で立派だ。
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お隣の寶満寺には親鸞お手植えの紅梅があるそうだが探せなかった。この地の最初の小学校になったり最初の郡役所になったお寺。
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しろ平老舗という和菓子屋さんに寄って「米どころ」という名物の最中を買って今日のおやつにする。
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郡分延命地蔵尊の所が愛知川宿の江戸口だ。地蔵は暗くてよく見えなかったが、お堂の脇にはたくさんの地蔵とおぼしき石仏が。
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ゲートをくぐって愛知川宿とお別れする。ゲートの文字愛知川宿の隣は瓶手毬の絵。
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愛知川~高宮(間に間の宿・豊郷町があり7.9㎞)

式内社石部神社は石を扱う石作部の神社。社標の文字は第35代首相・平沼騏一郎(平沼赳夫の養父)のものだそうだ。
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愛知川のマンホールは町を流れる愛知川、宇曽川、安壺川、新愛知川、不飲川の5つの川と花火大会の花火をデザイン化したそうだ。
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歌詰橋。謂れは平将門が藤原秀郷によって討たれた。秀郷が京に上る途中この橋まで来た時に、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、その首に対して一首をと言うと、将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちたという。ここで豊郷町に入る。
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千樹寺の前に「伝統芸能・扇踊り日傘踊り・中山道千枝の里碑」と「江州音頭発祥の起源碑」。「江州」とは「近江の国」の異称。
は信長によって焼かれた千樹寺が、近江商人によって再建された。この落慶法要で時の住職がお経に音頭の節をつけて唱い踊りだし、見物人も面白くなって踊り出し、住職が扇子や花傘を持たせて踊らせたのが 「江州音頭」 の始まりとのこと。まさに現在の盆踊りのよう。
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豊郷町のマンホールにも内側から、江州音頭を踊る人々、町の花・ツツジ、提灯がデザインされている。
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近江商人・又十屋敷跡(豊会館)はお休み。その隣に121里目一里塚址があった。
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タンクにも江州音頭が描かれていた。
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続く

 

 

 

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2019年6月11日 (火)

中山道1草津~武佐(後編)

◆ 守山~鏡(間宿)
次の武佐宿まで13.8㎞と草津から武佐よりも倍以上の長い距離で鏡という間(あい)の宿があった。

稲妻型道路と言って守山宿の加宿・吉身は、街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっていたとのこと、今見られないのが残念だが、思うに歩きづらそうな感じだ。宿場の治安維持を図るための工夫だったらしく全国的にも珍しかったとのこと。

加宿の高札場跡を過ぎて野洲市に入り、野洲川を渡る。野洲川は大きな川で、朝鮮通信使などの場合を除き、橋は架けられず、徒渡しだったそうだ。三上山がきれいに見えた。
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まだまだ近江路、もうお地蔵さんだらけ。この先もたくさん見かけた。これもその一つで川を渡った先に並んでいた。個人宅にもかなり見られた。
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芭蕉句碑を撮影。「野洲川や 身は安からぬ さらしうす」・・野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす 「布晒」 を行っていて、冬に冷たい川に入って布をつくのは重労働だったという意味。風景が思い浮かぶようだ。
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野洲市のマンホールは旧野洲町から出土された銅鐸の模様。
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梅元老舗という和菓子屋でおやつとして三上山彩景という三上山の形をした蒸しパンのようなどら焼きを購入しもう少し先でいただく。
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唯心寺の屋根は茅葺きでなかなかいいものだ。このお寺を開基した唯心尼は処刑された住蓮坊を手厚く葬ったという。
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弘法大師作と伝わる背くらべ地蔵がある。当時は乳児がよく死んだため子を持つ親達が、小さい方の地蔵と子供の背丈を比べ我が子の発育を祈った。大きい方は、阿弥陀如来立像で背比べをしているわけではない。
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行事神社の鳥居にかかっている縄は勧請縄といって悪霊や疫病神が入ってこないよう縄を張って境を守る。紙垂が木の枯れ葉のようで実に面白い、珍しいしめ縄。枯れ葉が落ちていないのが不思議?何か仕掛けがあるのかな。
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この神社の横を流れる用水路は祇王井。平清盛の寵愛を受けた祇王が故郷の人々が干ばつで苦しんでいることを訴え、清盛が水路を造らせたとのことでこの名がついた・・と平家物語にあるとか。
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野洲市の2種類目のマンホールは市章と三上山、鉄橋、野洲川とアヤメ。
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こんな可愛い六地蔵もあった。
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宝樹寺には鎌倉時代の宝篋印塔がある。この寺で近江天保一揆の打ち合わせが行われたという。東海道側まで一揆は広がっていた。
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銅鐸出土地のあたりを過ぎ、国史跡大岩山古墳群の一つの桜生(さくらばさま)史跡公園の3つあるうちの甲山古墳(6世紀)・横穴式が街道沿いにある。中の石棺が大きい。
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子安地蔵堂には平安時代の地蔵があるが秘仏で見られず、天井川だった家棟(やのむね)川を無くして新家棟川を作ったのを渡る。滋賀県は天井川だらけでもあったのに感心する。渡ったところにある愛宕山常夜燈。静岡県や愛知県は火伏として秋葉常夜燈であった。
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不帰池(蛙不鳴池)。1185年、源義経が平家の大将・平宗盛とその子清宗を処刑した時、その首を洗った首洗い池と続いていて蛙が鳴かなくなったと言われた池だ。
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平家終焉の地、平宗盛・清宗胴塚
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◆鏡の宿(間宿)~武佐

竜王町に入ると、道に駅・竜王かがみの里がある。
向かいに義経元服の池とその碑があった。
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隣の鏡神社の参道には、義経が元服後参拝した折に烏帽子をかけたとされる烏帽子掛け松があった(明治6年の台風で倒れたため切断したまま残されている)。神社の本殿は室町時代のもので重文。
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間宿として、旅籠の跡や本陣跡などの案内板が続く。本陣には皇女和宮も休息した。
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源義経宿泊の館跡。このあたりは義経関係が多い。
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こんな愛宕常夜燈もあった。
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竜王町のマンホールは町の木「松」と町の花「コバノミツバツツジ」が描かれている。
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間の宿を抜けると遥かかなたまで田んぼが広がる。近江盆地の最も広い平地部で 耕地の約90%が水田で、他にメロン、ぶどうなどを栽培しているそうだ。
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「みなくち道」「是よりいせみち」の道標があってまたまた、東海道(水口)や伊勢につながっている道が出てきた。
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川縁の石造物。
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日野川を渡ると近江八幡市に入った。
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水田と麦畑の中を行く。今まさに麦秋だ。
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高札場跡の向かいに八幡社がある。
源義家が奥州遠征の途中、愛馬が熱病にかかりここで休ませたところたちまち回復したので、応神天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願して造ったとの伝承がある重文の社である。
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遠くに住蓮坊古墳が見えた。その母が自害した場所を通ったが、住連坊は安楽坊と同じく法然上人の弟子で後鳥羽上皇の溺愛する女官を、上皇の留守中に出家させたために死罪になった。安楽坊は京都で住連坊はこの地で。二人の墓があるのがこの古墳だ。
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武佐宿に入ってすぐ住友グループの育ての親・伊庭貞剛邸跡がある。公園になっていて、武佐竜胆が飾られていた。武佐で発見された竜胆のようだ。
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近江鉄道の無人駅・武佐駅に到着。
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近江八幡駅でJR琵琶湖線に乗り換え、米原で新幹線「ひかり」に乗る。名古屋を過ぎると小田原に停まるだけで21:10に東京駅到着。家には10時半頃着く。47081歩で最初から良く歩いたものです。
米原で買ったお弁当は牛肉弁当。
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