2018年10月25日 (木)

東海道五十三次歩き30 関~坂下宿~土山(後編)

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◆鈴鹿峠~土山宿入口

近江の国に入ると土山、ここはお茶が名物。お茶畑が広がっている。峠を越えたので今度は急な山道を下るのかと思うとそうではなく、坂といっても緩やかでほとんど意識できない。

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・万人講常夜燈の前でおにぎりなどで昼食にする。今まで初めて、途中に食堂が1軒もないのである。この常夜燈は江戸時代に、金比羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したもの。高さ4.55mでとても大きい。
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                                        滋賀県甲賀市に入る
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                                                 あざみ
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・旧土山町のマンホール  町の木・杉、鳥・キジ、花・お茶の花。
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・半分埋まっている鳥居とは珍しい。原因は何?
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・石灯籠が並ぶ熊野神社。還暦と言う字が多いので還暦記念に立てるのかもしれない。亀山宿と関宿の間に56も石灯籠が並んでいる布気皇舘太神社もありましたっけ。
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・十楽寺は工事中であったが入ることが出来た。ここの阿弥陀如来坐像は甲賀三大仏の一つで、日本最大級だそうだ。平安時代後期の像造という。
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・戦国時代の山中城址
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・今まで違った感じの飛び出し坊や。滋賀県は発祥地だ。
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・山中一里塚(109里目)公園には馬子と馬の像もあった
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・火頭古(ひずこ)神社の覆屋の中の本殿は国登録有形文化財
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・猪鼻村には入口と出口に石の標識があり、小さな宿のようだ。土山宿から坂下宿間の立て場(休息所)もあり、草餅や強飯が名物だった。道路もカバ色に舗装されていてきいれいだ。
今は緩やかな坂になっているが往時は険しい猪鼻峠があったそうで、立て場が必要だったのとのことだ。
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・屋号札を掛けている家が多い

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・中屋旅籠跡には明治天皇聖蹟碑が立つ
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・村を出て蟹ヶ坂集落に差し掛かると榎島神社があって、樹齢400年の椎の木がある。根元近くだけでも大迫力。
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・蟹坂古戦場跡 山中氏は伊勢から攻め込んだ北畠氏の軍勢を敗走させた戦場跡。この辺りには旅人を食べる巨大が蟹がいて、ある僧に説経され改心し、甲羅が8つに割れ往生した。村人は割れた甲羅を模した飴を作り厄除けにした。土山の名物だ。
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●土山宿(49番目の宿)

復元された海道橋 田村川にかかるこの橋が出来るまでは50m下流で溺れ死んだ旅人が後を絶たず1775年に出来て、2005年に復元された。

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・広重「土山・春之雨」はこの橋を大名行列が渡っている   
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・橋を渡ると青銅の鳥居のある田村神社がある。
812年創建。祭神は坂上田村麻呂、倭姫命、嵯峨天皇の三神。2月の厄除け大祭は石橋から自分の年の数の豆を落とす。
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                        本殿
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今日はここまでで、道の駅「あいの土山」で例によってお土産を買ってもらう。名物・「土山茶」と「かにが坂飴」。
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帰路ですが、あいの土山初のバス4:50に乗り30分ほどで貴生川駅に到着。
・駅にはかわいい甲賀忍者の絵が
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5時33分の草津線(京都直通)に乗り、6時半すぎに京都着。7:05の新幹線ー9:33東京着。帰宅は11時過ぎ。とまあ、日帰りできわたわけです。
今回からは京都から帰り次回から京都まで行って今日の所に戻る。日がますます短くなる。
本日のお弁当は京寿司で押しずしや笹ずしなども入っていてとても美味しい!
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何時も東海道歩きを読んでいただきありがとうございます。明後日27日から11月4日までモロッコに出掛けることになってしまいました。暫くお休みいたします。

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2018年10月22日 (月)

東海道五十三次歩き30 関~坂下宿~土山(前編)

10/4(木)小雨 一番日帰りが難しい所に来ました。新幹線(7:10発)ー名古屋(8:47着)、関西本線の名古屋(9:06発)-亀山(10:06着)、亀山(10:14発)ー関(10:20着)
線路は続いているのに、亀山でJR東海からJR西日本に変わるために乗り換えたら、一両編成の加茂行きはラッピング電車でした(お茶の宣伝か?)。 この日は36112歩。
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◆関宿~坂下宿
関駅から関宿の西の追分まで歩きここが今日の出発点となる。

・旧関町の違うバージョンマンホール 町の花・シャクナゲ、鳥・キジ、獣・鹿、木・杉が描かれる。

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・金の家紋の川北家。関宿の川北本陣と同じ家紋。
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・筆捨山が見えてきた。広重の「阪之下 筆捨嶺」はここで少しデフォルメされた筆捨山だ。説明板によると、狩野元信がこの山を描きはじめたものの、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ、山の姿があまりに変ってしまったため、書き足すことができずあきらめて筆を投げ捨てたので付いた名前と言う。
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・107里目の一里塚跡
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・鈴鹿川は台風が通過したため水量が多いようだ
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                  野菊、アメジストセージ
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・東海道五十三次の標柱が日本橋から三条大橋まで並んでいて、そこに鈴鹿馬子唄会館があった。
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中に入ると、馬子唄が流れ、足の太い馬や坂下宿が展示がされていた。♪坂は照る照る 鈴鹿はくもる あいの土山雨が降る♪ 唄の通りにはならずずっと雨だった。
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・馬子唄会館の向かいは鈴鹿峠自然の家。 昭和13年に建てられた坂下尋常高等小学校の校舎で、国登録有形文化財に指定されている。
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・鈴鹿馬子唄発祥之地碑
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●坂下宿(48番目の宿)関宿から6.5㎞ 日本橋から約422㎞ 宿の長さ約650m 本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒。
この河原谷橋を渡って坂下宿に入った。
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・大竹屋本陣跡。往時は鈴鹿峠は難所だったので峠越えの旅人で賑わったが、関西本線の開通により駅から離れ、今は茶畑の中に3つの本陣跡と1つの脇本陣跡の標石が立つだけ。
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・法安寺の庫裡の玄関が坂下宿唯一の本陣遺構である
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・金蔵院跡。今は石垣が残るのみ。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が休息したそうだ。
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・その脇に地蔵堂があり、身代地蔵尊が祀られているが、2体あるうち、右側のお地蔵様は板を突き抜けていて珍しい。
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◆坂下宿~鈴鹿峠
・2体の老人男性石像が立っているが、誰が何の目的で立てたかわからないそうだ。
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・鈴鹿峠の入り口には片山神社社標がある。鈴鹿明神、鈴鹿権現とも呼ばれる。1999年に焼失。
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台風の後のこんな道を登って行くと片山神社の登り口があった
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・鈴鹿流薙刀術発祥之地碑のところで道は折れ、いよいよ急な登り坂になった。
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・4基の常夜燈が石垣の手前に並ぶ
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・芭蕉の句碑「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」
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・山道には倒木が道を少し塞いでいた。台風が凄かったようだ。
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・鈴鹿峠に到着。約30分であった。
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・鈴鹿山の鏡岩 鈴鹿峠の頂上にある巨岩で三重県指定の天然記念物。硅岩が断層によってこすられ露出面に艶がでたもの。この峠に住む山賊が岩を磨き、そこに映った旅人を襲ったという伝説から、「鬼の姿見」とも言われている。
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        岩の頂上によじ登ってみる。石が少し艶があるように見える。
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             頂上からは眼下の国道などが良く見えた
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・向こうの森の切れ目が県境
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境界石には右滋賀県・近江の国 左三重県・伊勢の国と書かれている。とうとう滋賀県に入りました。箱根に比べるとすぐ登り切り拍子抜けの鈴鹿峠だった。昔はなんでも盗賊が多く出て難所とされたとも言われているそうだ。
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2018年10月15日 (月)

東海道五十三次歩き29 井田川~亀山宿~関宿(3)

この日は関宿の終わりまで最後は早足で西の追分まで行き、関駅までバスで戻ったのです。この1週間後関駅から西の追分までの手段が歩くしかなかったので、早足で駅から百五銀行まで、そこから再び西の追分へ歩いたのでしたが、ちょっと抜かしたところがあったので写真を撮り今回それを入れました。

●関宿(47番目の宿)亀山宿から5.9㎞ 日本橋から約415.1㎞ 宿の長さ約1.8㎞ 本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒の続き。

                ゴミ箱まで街並みに合わせている
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・百五銀行の先も今までの倍位街並みが続く。手前左の家を仔細に眺めてみると、1階には出格子があり、庇の下から出格子にかけて幕下(風雨から店先を守る)があり、出格子の下には「ばったり」という上げ下げが出来る棚があって、今は下げられ、人が座ったり、商品が並べられるようになっている。2階を見上げると虫籠窓(漆喰で塗籠た竪格子窓)がある。
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・端光寺には、家康が食べたと伝わる権現柿がある。当時の和尚が幼少の頃、家康と親交があった。ちょうど柿がなっていた。
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・関のマンホール。亀山市になる前の旧関町のイメージキャラクター「アスレ」だそうだ。肩にとまっているのはキジ、笠につけているのはシャクナゲ。関街並み資料館に飾ってあったマンホールは色がついているのでよくわかる。
たまたま読んでいた山本昌仁著『近江商人の哲学』に載っていた写真の昔の近江商人に、このアスレが似ていませんか?
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         彼岸花も丁度きれいに咲いていたが、萩も満開であった。
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・関まちなみ資料館に寄る。関町の伝統的な町屋を公開した資料館。
                   箱階段や薬箪笥
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               1階の部屋の中は思ったより明るい
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                2階の虫籠窓の内側の様子
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                    関宿のジオラマ
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            明治時代の自転車。なかなかに乗りにくそう。
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川北本陣跡、隣の問屋場跡、斜め向かいの伊藤本陣跡を通る。

・2階の手摺と格子の意匠が実に細かい
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・旅籠玉屋歴史資料館へ。関宿を代表する大旅籠。江戸時代に建築された貴重な旅籠建築で、当時使われていた道具類や、庶民の旅に関係する歴史資料などが展示されている。今まで数回このような展示を見てきたが、いつも不便な旅をしていた江戸の昔に引き寄せられる。
まず奥の土蔵(広重の浮世絵展示)を見学後、宿の中を見る。
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                   帳場(今のフロント)
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               布団の薄いこと、枕がとても使えない。
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                 貴人が泊まる離れ座敷と坪庭
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・隣りの旅人宿石垣屋は、築120年で肥料商だったが、宿泊施設で、寝袋持参だと2500円と書いてあった。
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・少し戻って百六里庭(鳥瞰亭)から関宿の家並を見る
                        東側
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                     西側(鈴鹿峠側)
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・高札場
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・福蔵寺 信長の三男信孝が信長の冥福を祈るため建立しようとしたが、秀吉に自害させられ、家臣が首を持ち帰り、菩提寺とした寺。
                      信孝の供養塔
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           敵討ちで有名な関の小万の碑。お墓も境内にある。
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・会津屋 昔は山田屋という旅籠で、仇討ちの小万が育った家。仇討ち本懐後も38歳で亡くなるまで奉公した。現在はおそば屋さんか。
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・地蔵院 見られないけれど、日本最古の地蔵菩薩(通称・関のお地蔵さん)。741年に行基が流行していた天然痘から人々を救うため安置したと伝えられる。本堂・愛染堂・鐘楼は国の重要文化財。
                       本堂  
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                    おびんずる様
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                      一休坐像
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・漆喰彫刻(鶴と亀)や細工瓦が見られた
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・観音院 戦国末期に焼失、江戸時代にこの地に再興。観音山に西国三十三カ所の霊場を開いたという。
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・西の追分
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          本日のお土産は志ら玉と関の戸
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                    夕ご飯のお弁当661_450x300
ビールはしゃちほこの上に信長、秀吉、家康がのっていてなかなかに面白いデザインで笑う。662_300x450
西の追分(バス)→関駅(関西本線)→名古屋(のぞみ)→東京(8:53着)家には10時過ぎに到着。電車に乗ってる時間が長くなってきました。

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2018年10月11日 (木)

東海道五十三次歩き29 井田川~亀山宿~関宿(2)

前回、関西本線に1970年代初めまでD51が走っていたと教えていただき、びっくりしました。そういえば大井川鉄道では新金谷駅からはまだ年間72日間もトーマス号が走っています。
亀山城跡にあった蒸気機関車は昭和19年製造で昭和45年3月廃車と書いてありました。約131万㎞走り、亀山機関区も走ったようです。今夕のテレビでやっていましたが、現在では維持費がかかって殆ど走らせているところはない。しかも撮り鉄が多く乗ってくれないとのことです。

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●亀山宿の続き
・城跡から東海道に戻り、西町問屋場跡を通り過ぎたら、弥次さん喜多さんを久しぶりに見る。

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・その先の旧舘屋住宅(枡屋)は幕末から大正にかけて呉服商を営んでいて、蔵も大きくて立派だ。主屋のこの建物は明治6年築。
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・飯沼慾斎生家跡(植物学の基礎を拓くなど、近代科学草創期の代表的な自然科学者)・・初めて知った名前です。
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・青木門跡(家康が繁茂する青木を見て感激、おお青木と言ったことに由来する地の名前と門)
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・道の反対側に入って所に加藤家屋敷跡がある。とても立派な土蔵と長屋門だ。
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・西の丸外堀跡の先が京口門跡である。京口板橋からきれいな流れの竜川を覗く。
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・今は櫓も見えず、急坂ではないが、広重の亀山宿はここからの眺めを描いている。全く面影はない。
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◆亀山宿から関宿

・黒い漆喰の森家住宅は国の有形文化財。貴重な町屋的な表構えを見せる。アンティークも扱っているカフェーを営業しているが、お休みだった。
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・慈恩寺の青面金剛と三猿が素晴らしい
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                     十一面観音
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・野村一里塚(105里目)はとても立派で樹齢400年だそうだ。残っているのは北側のみだが、珍しい椋で脇往還を含めた東海道ではここと佐屋街道の神守一里塚だけに現存する。
ちょうど彼岸花が咲いていてきれいです。
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・内田権四郎(1642~1731年)宅跡。半世紀にわたって亀山藩の大庄屋を務め、古い記録を集め『久々五集』を編纂した。どんなことが書いてあるのでしょう?
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・善性寺には何と槇の木で出来た「H」型の山門がある。
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ハイビスカス・ローゼルの花はオクラに似ていた。蕾かと思ったら萼らしい。そっくりでよくわからない。
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・数えたら56も石灯籠が並んでいる布気皇舘太神社
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・桜の並木が続く大岡寺畷
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・左手に鈴鹿川が流れる
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              野生の鹿が川を渡っているのを発見!
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                  田園風景と鈴鹿山脈
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●関宿(47番目の宿)亀山宿から5.9㎞ 日本橋から約415.1㎞ 宿の長さ約1.8㎞ 本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒。
古代三関の一つ「鈴鹿関」が置かれたところ。後の2つは不破関(美濃)、愛発関(敦賀)→逢坂関(大津)。

・関宿
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・鳥居が見えてきたが、ここが関宿の東追分で入口である。鳥居をくぐって左に曲がると伊勢別街道である。
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一里塚跡(106里目)を見て宿の通りへ

・関宿の街並みは歴史的町並みが残り、昭和59年に重要伝統的建造物保存地区に選定された。電線は地中に埋め込まれ素敵な街並みだ。東西追分の間は1.8kmあり「関宿かるた」が至る所に下がっているのである。
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・山車庫 関の山の語源になった関の山車が入っている。人混みをかきわけて山車が巡行する様子から、精一杯という意味の関の山という言葉ができたという。
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・百五銀行も昔の家のまま営業している
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・延命寺山門 旧川北本陣の門を移転したもの。
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寺と銀行の前の道を歩き、東海道を越えた突き当りが関西本線の関駅だ。まだまだある宿をこの後電車が来る時間まで楽しんだ。(続く)

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2018年10月 8日 (月)

東海道五十三次歩き29 井田川~亀山宿~関宿(1)

9/27(木)今回は古い家並みがあちこち残る雰囲気の良い亀山宿と、東海道で2つ目の重要伝統的建造物群保存地区の関宿を歩くので大変楽しみにしていました。
4:40起床でのぞみ6:30に乗り、名古屋で関西本線に乗り換え前回の井田川駅に9:50頃到着。出かける時から道中ずっと降っていた雨が駅に着いたら止んでいた。遠くなって歩数も34057歩でかなり楽になった。

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◆井田川~亀山宿

・駅前の日本武尊をまた見て、旧井田川小学校跡の二宮金次郎像を見る。家の方には殆どないが、この街道筋では廃校をいくつか見てきた。宿の中でも廃屋があり、電車が通ったことにより、駅から遠ざかる宿ほど過疎化が進んでいる。そして沿道のバスは一日に数本。各家は駐車場を2つも3つも持っている車社会だ。
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・亀山のマンホール。亀山城多門櫓と市の花の花しょうぶが描かれている。
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・歩道橋のタイルには亀にローソクがのっている。亀山はローソクで有名なのだそうだ。知らなかった。全国シェアの5割以上で全国第1位だし、ローソク燃焼比較実験で世界1の評価を得たローソクとのこと。
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・椋川
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・瓢箪「ぶら下がるだけが仕事の大瓢箪」と書かれ、数えきれないほどぶら下がっていた。
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・谷口法悦題目塔 谷口法悦は京の日蓮宗の篤信者で、一族とともに17世紀終わり頃、各地の街道筋や追分などに題目塔を造ったという。篤信者の凄さを知る。
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・和田道標 三重県内で東海道最古の道標(1690年)。亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な分岐点だったそうだ。
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・シャングリさん 通行人による疫病から子ども守るために祀ったという小さな祠だ。現代は外国からも疫病が入りますが医学が発展してありがたいものです。
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・石上寺の一つ一つ囲まれている石仏
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・和田一里塚(104里目)復元されたもの
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●亀山宿(46番目の宿) 庄野宿から7.9km 日本橋から約410㎞ 宿の長さ約2.3km  本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒。
この宿は石川氏6万石の城下町。幕府直轄だったため、これを嫌う大名たちが泊まりを避けたため宿場町としての規模が小さく、発展しなかった。しかし歩いてみると亀山城跡の趣のある宿であり、道が曲がりくねって枡形になっている。

・露心庵跡 説明板のみだが、この辺りが亀山宿の入り口になる。江戸口門跡はさらに900m先にあり、京口門跡も西側にある。江戸口門は城主が築造し、外側に堀を巡らし、土塁に囲まれた枡形の曲輪があり、門には櫓や番所が置かれていた。
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・亀山宿も屋号札があちこちにかかっていて楽しい
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昼食は亀山名物・みそ焼きうどん(サラダ付)。牛肉入りで美味しかった。
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・店を出ると飛び出し坊やがこの辺りにもあった
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・福泉寺山門 1795年建造、江戸時代後期の地方有力寺院の建築様式。正面軒唐破風付入母屋造、本瓦葺、一軒一戸の楼門。立派です。
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樋口本陣跡、高札場跡、大手門跡などを通り過ぎる。

          道はずっとベージュ色のカラー塗装でわかりやすい
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・左手に遍照寺が。東海道からお詣りすると鐘楼門をくぐった後、坂を下りることになる。位の高い人は坂を下りることを嫌ったそうで、「頭で鐘撞く遍照寺」と言われた。そう言われてみると表門をくぐって下るのは珍しいかもしれない。他にあったかしら。
門からの眺めは素晴らしい。門をくぐって下から門を見る。
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                    千手観音石像
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         弘法堂の中には弘法大師様が21体も。これまた珍しい。
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・だいくや跡
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・少し先の道を右へ曲がって亀山城跡へ向かう。現在残るは多門櫓と石垣、土塁、塀の一部が残っている。
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・亀山神社 城跡の横には立派な亀山神社があった
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・城址の楠門跡に何故かSLが展示されていた。C58359とあった。
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2018年10月 1日 (月)

東海道五十三次歩き28 南日永~石薬師宿~庄野宿~井田川駅(後編)

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●石薬師宿(44番目の宿)の続き

・元旅籠だった家の壁に陶板で宿の町割りが再現されている
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・小澤本陣跡 近くに松の木があったので「松本陣」ともいわれていたという
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・佐佐木信綱記念館は、「佐佐木信綱資料館」「生家」「土蔵」「石薬師文庫」から成り立っている。

まず石薬師文庫がある。信綱が石薬師村に還暦記念に送った。伊勢国学に関する多くの書籍が裏手の「土蔵」に収められる。文庫の前には祖父と孫の歌碑が並んでいる。
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佐佐木信綱記念館 色々な資料がそろっている。家系図を見ると歌人が多い。孫の幸綱も有名で早稲田大学教授時代の弟子「サラダ記念日」でデビューした俵万智の歌を楽しんだものだ。
♪「夏は来ぬ」の卯の花が生家にあるが今咲いていないのが残念。後で知ったが、娘が卒業した中高校の校歌の歌詞の作詞者が信綱で、とてもいい歌なのだそうだ。
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生家
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                                  産湯の井戸と卯の花
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・道の向かいにある浄福寺は佐佐木家の菩提寺で、信綱の父弘綱の墓がある。山門前の築山の上に弘綱の記念碑が立つ。
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・宿の名の由来になった石薬師寺。本尊は石薬師如来で秘仏。花崗岩で像高190㎝で弘法大師作という。1629年再建で市内でも最古の寺院建築とか。
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お百度石の上のお地蔵様が可愛いし、参道も長く、境内に木々が多く、なかなか立派なお寺だ。25_300x450
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・御曹子社へ。 源頼朝の弟、蒲冠者範頼を祀った神社で、武道、学問に優れた人物だったので、それらの願望成就の神様だという。範頼も頼朝に伊豆に幽閉され謀殺されたと言われる。
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・石薬師一里塚跡(102里目)で石薬師宿が終わる
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次の庄野宿までは2.7㎞で、御油・赤坂宿間1.7㎞に次ぐ短距離区間だ。東海道の宿場間の平均距離は8㎞とのこと。

                                      関西本線が通る。
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後(次回)で知ったが、この線は亀山までがJR東海で(2両とか4両編成)、亀山から同じ関西本線なのにJR西日本らしく乗り換えなければならない。亀山から向こうは1両編成だった。すぐ庄野宿に到着。

●庄野宿(45番目の宿)石薬師宿から2.7km 日本橋から約401.3㎞ 宿の長さ約1km  本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒。ここには脇本陣があったが、石薬師宿同様小さな宿場だ。

広重の東海道の絵では最も有名な「庄野・白雨」は鈴鹿川沿いの雨中の道を行く駕籠と人が描かれている。JR加佐登駅辺りと言われるが、箱根同様、坂がデフォルメされているらしい。

・江戸側と京側に庄野宿の標柱が立っていた
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・この宿も連子格子の古民家があり、人をほとんど見かけない静かないい雰囲気だ。
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・庄野宿資料館にお邪魔する。油問屋だった旧小林家の住宅の主屋を創建当時の姿に復元している。
戦災を免れたので資料は充実していて、古文書、民具、農具などの他、当時の土産や保存食の焼米俵のサンプルも展示。特に320年前の高札は良く読めないけれども当時のままで見応えがある。
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・問屋場跡
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・本陣跡 この後も高札場跡、脇本陣跡、郷会所跡と続く。
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・川俣神社の天然記念物スダジイ。推定樹齢300年で三重県天然記念物。樹高12m。鈴鹿川沿いには川俣神社がいくつもあり、川の氾濫に悩まされた住人が治水を祈って建立したらしい。
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◆庄野宿~井田川駅

・鈴鹿市のマンホールをやっと見つけた。トンボがデザインされている。
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・いぼとり地蔵 いぼや眼病に効くそうでお参りする
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・女人堤防の碑 領民は何度となく川の改修を神戸藩に掛け合ったがとりあわないので、たまりかねた女性たちは夜陰にまぎれて堤防建設を行った。処刑場に連行されたが間一髪で赦免の早馬が到着し、救われたという。
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・103里目の中冨田一里塚跡を通り過ぎると、川俣神社。
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境内に「無上冷水井戸跡」碑が立つ。織田信長の三男で神戸城主織田信孝が愛飲したという井戸跡だ。
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・地蔵堂の中に弥勒菩薩?如意輪観音? 椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き(半跏)、右手で頬杖を付いて瞑想している(思惟)ように見えるので。如意輪観音は左足は下さないで右足を立てて座るようだが、はっきり区別もしないという説もあった。弥勒菩薩のポーズを実験してみたが、なかなかに疲れる。
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・明治天皇小休所碑
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亀山市に入るとすぐ井田川駅(無人駅)に到着。

・駅前には日本武尊の像があった。日本武尊は伊吹山で病を得、奈良へ向かう途中のノボノ(駅から北西へ2㎞の地)で亡くなり、そこの古墳が墓とされ、宮内庁が管理している。
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名古屋では新幹線まで時間があったので、エスカのきしめん屋さんで「鍋焼ききしめん」を食べる。
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         今日のお土産は「安永餅」と「ミニしるこサンド」でした
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東京駅は9時前、家には10時過ぎに到着。

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2018年9月26日 (水)

東海道五十三次歩き28 南日永~石薬師宿~庄野宿~井田川駅(前編)

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9/7(金)今までで一番早い4時半起き、6時17分ののぞみに乗り、名古屋に7時51分到着。名鉄で四日市へ、あすなろう鉄道で南日永に着いたのは9時6分。
天気予報には雨が入っていたので、もしかして広重の絵の「庄野 白雨」かと思いきや晴れてしまって、日焼け止めなしで真っ黒になってしまった。歩いた歩数は38831歩。

◆南日永~石薬師宿

まずはここ出身の実業家・稲垣末吉翁頌徳碑(製錨製鋼工場で巨万の富を築き、社会福祉、学校建設など様々な寄付をした偉人)を見て、東海道を進む。

      この辺りにも飛び出し坊やや嬢やをあちこち見かける
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・実蓮寺には滝川一益の母の墓がある  
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・西唱寺の境内に水道記念碑が立つ。1859年、有志で登城山から竹管で水道を施設した。住むには水の確保からで、昔から苦労した人々の姿が見えてくる。
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・日永一里塚跡(100里目)
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・左手に名残の一本松。松並木が続いていたという四日市では前回と今回の2本のみだ。戦時中油を取ったためになくなったという。枯れないといいけれど。
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・日永追分へ来た。伊勢へお参りする旅人は左へ、東海道を進む者は右へとここが分岐点であった。鳥居が目に入るが、これは安永3年、江戸に店を持つ、今の津市出身の一個人が伊勢出身の同志を募り建設し、更に維持費も寄付をし、現在日永自治会が管理しているという。大きな鳥居一つとっても、高価で維持管理が大変ということです。
ここには道標、常夜灯、湧水(井戸)もある
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・歩を進め小古曽駅近くの観音寺へ。黄檗宗の末寺。黄檗宗特有のものであるが、山門の屋根の両端に「魔伽羅」(サンスクリット語で鰐)が飾られている。黄檗宗のお寺に行ったら是非忘れないで見たいものだ。
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あすなろう鉄道の終点駅・内部駅を左に見て、内部川を渡り、菊屋さんで「采女の杖衝」という最中を買う。
                          ヤナギバルイラソウがきれいに咲いていた
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・いよいよ有名な杖衝坂に。日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ、腰に差していた剣を杖の代わりにして登ったのでこの名がある。
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また芭蕉が馬に乗ってこの坂を越えようとして、あまりの急坂に落馬して詠んだ句「徒歩ならば杖つき坂を落馬かな」、その句碑もある。
坂の途中には句碑の他に、杖衝坂の史跡柱、大日の井戸(坂の途中にあった大日堂に供える閼伽水をくみ上げた)、常夜灯などがあった。しかし坂はどうやら昭和初期になだらかな坂に造り替えたようで、落馬するほどの坂とは思えなかった。
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・坂を登りきった所に弘法の井戸(弘法大師が指し示したところから清水が湧き出たとい)と血塚社(日本武尊の脚の出血を封じたと言われる祠)がある。
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采女の一里塚(101番目)の説明板のあるところは小公園で、ここで「采女の杖衝」最中を食べる。ブランコに子供の時以来だが乗ったら気持ちが良いのなんのって、いつまでも乗っていたかった。前方にはズームして見たら四日市のコンビナートが見えた。
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・采女の一里塚跡が道路の向こう側にあった
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鈴鹿市に入る

・地蔵堂と単直庵がある
地蔵堂には弘法大師、地蔵菩薩、役行者が、単直庵には阿弥陀仏が祀られている。お花もたくさん飾られ、地域の人が大切に守っている様子が伝わってくる。
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ここで「とんてき」の店・来来憲にて昼食。とんてき定食は量が多いので、少な目のこま焼き定食のご飯をさらに少なめにしてもらう。それでも量が多くて残してしまった。
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●石薬師宿(44番目の宿)四日市宿から10.8㎞ 日本橋から約397.3km 宿の長さ約1.8㎞ 本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠15軒。東海道で最も小さな宿場という。

・石薬師宿標柱 これが石薬師宿の東入口で北町の地蔵堂があり、旅の安全のために建てられた。標柱は西の入り口にもあった。
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       石薬師宿の道は人もほとんど見かけず静かな雰囲気である
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・信綱かるた道 石薬師宿は歌人・佐佐木信綱が生まれた所で生家も現存している。1.8㎞の石薬師宿の道を1番から50番まで信綱の歌かるたと共に進む。
どの歌もわかりやすく、故郷やその自然、家族(特に父親)など心を打つ。5歳や8歳の時の歌もあり3作ばかり見逃した他全部写真に収めて、家でも楽しんだ。
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・大木神社 石薬師の鎮守社で式内社 式内社とは延喜年間(901~922)にすでに存在していた神社だとのこと。1つ勉強になった。
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2018年7月24日 (火)

東海道五十三次歩き27 益生~四日市宿~南日永(後編)

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◆益生~四日市宿の間の続き 富田から 

・十四川の堤の桜並木。両岸1.2㎞にわたり約800本が植えられている。枝振りが良いと全国表彰されたそうだ。
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立派な常夜燈を過ぎ、弘法大師が彫ったとされる秘仏の薬師如来のある薬師寺を通り過ぎる。
・常照寺の鐘 四日市大博覧会(昭和27年)で平和の鐘として展示されたもの
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・また力石があった。120㎏と19㎏。子供用の19㎏は持ち上げることが出来た。寺の土台石だったが明治の中頃から大正時代まで茂福地区の青年が力比べをしたという。
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・寄り道した茂福神社はたくさんの灯籠が寄進されている神社で、茂福城址は近鉄線路の脇のこんもりした小山にある。ここの最後の城主が1567年に信長の家臣の滝川一益に殺害され攻め落とされてしまった。
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・六段もある大きな大きな八幡常夜燈。三重県に入ってから常夜燈の大きさに目を瞠る。
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四日市の東海道は、標識だけでなく、ずっと歩道が土器色(かわらけいろ)に塗られていて親切だ。
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・かわらずの松 地名の川原須から来る名前。四日市市にはこれと日永の2本しか残っていないという。
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・志氐神社の東海道を挟んでの夫婦石。この神社にはイザナギ・イザナミの夫婦の神様が祀られている。人々は一対の石を撫でて、縁結び、夫婦円満の願いを込めたそうだ。志氐とは御弊(お祓いのための道具)。
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・古い家を見かけるようになる
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・光明寺では、最高の五本筋が引かれた筋塀が山門の両側にある。皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として引かれる。
ここは 霊元上皇の第14皇女八十宮吉子内親王は第7代将軍家継に嫁いだが、家継死後仏門に入り、その宮付に光明寺第5世俊応の妹が仕えたとあるが詳しくはわからなかった。
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・この四日市市マンホールは広重の絵の三重川で傘を吹き飛ばされているのを追いかける図だ。
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三元大師の道標、多度神社を通りすぎたら
・三ツ谷一里塚跡(99里目)で公園になっている
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・萬古焼の陶器工場が出てくる。宝来軒というお菓子屋さんの店先に首の長い大入道の看板があった。この先の諏訪神社の例大祭に登場するのは9mで日本一大きなからくり人形だそうだ。
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・三滝川(広重の絵には三重川となっている)を三滝橋で渡ると河口に有名な重化学工業のコンビナートが見えた。
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●四日市宿(43番目の宿)桑名から12.7㎞ 日本橋から387㎞ 宿の長さ約2.2㎞ 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠98軒。

・三滝川を渡った先に、1550年創業の「なが餅」笹井屋本店があり、このあたりから四日市宿になる。
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・問屋場跡 本陣などの解説板も殆ど見当たらない
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・別バージョンのマンホール 姉妹都市がわかる。娘が調べたところによると、上には四日市港の石油コンビナートと姉妹都市ロングビーチ(アメリカ)のスプルース・グース・ドーム、下には姉妹都市シドニーのコアラと天津のパンダが描かれている。
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・「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と書かれた道標は指で方向を示している珍しいもの。後で知って裏を見なかったのでわからなかった。
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・諏訪神社は信州の諏訪神社から勧請された。再建されたものだが、鳥居は青銅製。
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・東海道がアーケードになっている。丁度七夕の飾り付けがされていてきれいだった。
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・消火栓もモザイクも広重の絵。マンホールのもう一つのバージョンは四日市市の花・サルビア。
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・大入道の前は四日市のマスコットキャラ、こにゅうどうくん。自販機にも。
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・作家丹羽文雄の生誕地の崇顕寺
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・連子格子の古い家があった。この辺りで四日市宿が終わる
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◆四日市宿から南日永駅まで

あすなろう鉄道の赤堀駅を通り過ぎると鹿化(かばけ)川があり遠くに山並みが見える
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・6/30の茅の輪くぐりが有名な大宮神明社
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日永地区は間の宿で、名物に日永団扇、日永足袋、なが餅があり、団扇は東海道や伊勢参りの土産物として人気だったそうだ。
大聖院、興正寺、両聖寺(日永つんつく踊りで有名)を見て通る。本当にお寺が多い。

・最後に日永神社に寄って東海道最古の道標を見る。1656年に僧・専心が建てたもので、元は伊勢参宮同追分にあったものだそうだ。
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              東海道最古の道標 字は殆ど見えない512_300x450
・ すぐ近くの南日永駅に向かってあすなろう鉄道に乗る。スイカは使えず切符を買う。終点は四日市駅で200円。(殆どの時間帯、1時間に2本)
日本に3つしかないナローゲージ鉄道の一つで、あとは西桑名から出ている三岐鉄道と黒部のトロッコ電車である。
新幹線は1435㎜だがこれは762㎜だ。座席が左右1席ずつしかなかった。
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名古屋に出て40分後の席が取れたので駅弁を買う。
名古屋の名物の入ったお弁当は美味しかった。(名古屋コーチンの鶏飯、天むす、あんかけパスタ、みそかつ、エビフライ)。帰宅は9時半過ぎでした。次回は9月、またよろしくお付き合い下さいませ。
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             お土産は熱田神宮で食べたきよめ餅
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2018年7月20日 (金)

東海道五十三次歩き27 益生~四日市宿~南日永(前編)

7/12(木)曇後晴れ。 天気予報で確かめると気温31~33℃。 暑くてだめなら名古屋城の本丸御殿を見ることにして出発。前回と同じ電車に乗り、益生駅に到着、9時に矢田の立場跡から歩きはじめる。
娘に用意してもらったクールタオル、ひんやりガードUVカット、Shirt Cool、ヒヤロンなどが随分役に立った。それに飲物各種2.5ℓも飲む。幅50㎝にも満たない日陰を見つけては走り寄る。一日中かんかん照りでなく時々曇った時があったのも幸いでした。対策を立てれば暑くても歩けるが33℃が限界です。41153歩。

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◆益生~四日市宿の間 
由緒あるお寺の数々、立派な常夜灯、飛び出し坊や、力石、徳川家の威力などが印象に残った区間です。

歩き始めてすぐに和菓子屋「つたや」ではせっかくの<七里焼き>の小売りがなく、<桑名藩どら焼き>を買って午前中のおやつにする。本多忠勝が描かれている。
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すぐ斜め前のお寺の了順寺の山門は、桑名城の門を移築したものだ。
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・城南神社の鳥居は立派。それもそのはず、伊勢神宮の式年遷宮の際、内宮の一の鳥居が下賜され建て替えられているから。それは垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて、この地に休息したという言い伝えがあるから。御祭神は天照大神。
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前回最後に飛び出し坊やを撮ったが、この日もいろいろなバージョンがあり、女の子のもあったりでまたまた撮ってしまう。滋賀県がルーツと教えてくださる方がいました。
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江戸に向かう西国大名はここに立ち寄って衣服を改めてから桑名城下に入ったという晴雲寺を通り過ぎ、その先が安永の立場で、多くの茶店で賑わっていて安永餅が売られていたそうだ。

伊勢両宮常夜燈(伊勢神宮への祈願を兼ねているとのこと。1818年建造)と里程標
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・員弁川を渡ると三重郡朝日町。マンホールは町の木の白梅だそうだ。
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田圃の緑が目に染みる
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・真光寺には松平家の家紋の梅鉢紋が彫られた手水鉢がある。それは第6代桑名藩主松平定良が有馬温泉帰りに病死、員弁川の洪水で川止めになった時に遺体を安置して手厚く葬ったお礼に松平家から寄進された。
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・山口誓子の筆跡の句碑を通り、縄生一里塚(97里目)の標柱を過ぎると安達本家酒造がある。娘が重いのに「富士の光」を2本買っていた。
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萬古焼を発展させた森有節の墓は遠いので行かず、朝日資料館は水、土曜しか開館してなく閉まっていた。

・橘守部生誕地遺跡 独学で国学を学んだ人で天保の国学四大家の一人。お墓は東京向島の長命寺にある。
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・浄泉坊は徳川家に由緒ある桑名藩の奥方の菩提寺であったことから、山門の鬼瓦や本堂の瓦に三つ葉葵の紋がある。参勤交代でここを通る大名は、駕籠から降りて一礼していた。
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・タオル工場が続く東海道の両側には美しい田圃が広がっている
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・咲いたころを見たい桜並木がある
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・多賀神社常夜燈(1864)は大きくて立派だ。多賀神社とは滋賀県の多賀町にある長寿と厄除け、縁結びの神社で、お詣りした人が多かったからここに造られたのか。
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・朝明川を渡って、いよいよ四日市市に入った。
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このような看板を随所に見かけ。民家の塀にも東海道の表示板があちこちに掲げられとても親切な市だ。それに国道と殆んど重なることなく旧街道を進める。
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・19茶屋が店先に置いた力石。100㎏。茶屋で休んでいるとき余力のあるものが自慢げに持ち上げたらしい。
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・長明寺 ここの山門も桑名城から移築されたもの。ここは蒔田城址と言われ山門の手前の橋の下は濠でコイが泳いでおり、築塀もなされている。
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・富田の一里塚跡(98里目)京都は126里だそうで随分来たものだ。
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・行啓記念道路碑 また明治天皇かと思いきや、初めて大正天皇のもの。大正天皇が皇太子時代に現四日市高校に立ち寄られて授業参観されたことを記念した碑だ。
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・少し先のこちらは明治天皇御駐輦跡碑で、明治天皇は四度もこの地で休まれた。近衛文麿の筆だそうだ。
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昼食はJR富田駅近くのイオンモールの中の柿安ミートエクスプレスで、四日市名物とんてき丼(ご飯少なめ)を頼む。
ここでお水を5杯も飲む。午前中はどら焼きとヨーグルトドリンク。午後は凍らせたレモンドリンクやアイス最中、他ポカリスエット、ウーロン茶、緑茶を全部帰宅まで飲みきる。
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2018年7月11日 (水)

東海道五十三次歩き26 鳴海宿・宮宿・桑名宿(3)

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●桑名宿(42番目の宿)宮宿から0㎞(海里7里) 日本橋から372.3㎞ 宿の長さ2.7㎞ 本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒。脇本陣の数は小田原と並んで1位。旅籠数は宮に次いで2位。

桑名宿も宮宿と同様七里の渡しの渡船場として栄え、旅籠数も120軒も数える賑やかな宿場であった。

・六華苑を出て揖斐川の堤防の上を歩き宿場の中心へ向かっていく。向こうに長良川の河口堰も見えた。

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・大塚本陣跡(現在料亭・船津屋)、この先が船番所、脇本陣駿河屋(現在高級旅館山月)。
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泉鏡花がこちらの小学校の講演で来た時船津屋に宿泊し、この時の印象をもとにして小説『歌行燈』を書きあげた。演劇化し映画化するため、久保田万太郎もここに滞在し、戯曲『歌行燈』を書き、明治座で公演された後映画化された。読んでないので図書館から借りてきました。
「歌行燈句碑」久保田万太郎が船津屋主人に求められてその情景を詠んだ句碑。字が消えて読めない。「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」
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・桑名側の七里の渡し
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・伊勢の国一の鳥居。初めて建てられたのは天明年間(1781~1789)で、式年遷宮ごとに伊勢神宮宇治橋の鳥居を移しているそうだ。
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・蟠龍櫓(復元)が見える。広重の絵にも描かれている。蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍の事で、航海の守護神としてここに造られたという。
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・舟会所、問屋場跡、通り井跡を通り、蛤料理屋さんを見て、九華公園(桑名城址)へ
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                    お堀がきれい
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  天守台跡 崩れやすいため登るのは禁止。戊辰殉難招魂碑が建っている。
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             猫4匹に遭遇。この子は親分みたいな感じ。
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本多忠勝の像 徳川四天王の一人。関ケ原の合戦後家康は本多忠勝をここに配置し、その後城を整備していった。
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・東海道に戻ると右手に青銅の鳥居の春日神社がある。木製から青銅に造り替えられたのは1667年。門の奥には楼門が見える。逆光で見えないが、鳥居には色々な模様が彫ってあって、貫には藤紋、両柱の上部には上り藤紋がある。
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             島木には花輪違いの模様があるのには驚く
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「しるべいし」が鳥居の左下にあって、迷子石とも呼ばれ、左に子どもの特徴を書いた紙を貼り、右に心当たりのある人が子どものいた場所などを書いて貼ったそうだ。
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              楼門の左右には左大臣と右大臣がいた
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拝殿 春日神社(俗称)は桑名宗社(公称)で、桑名神社(拝殿の紋は「三」)に中臣神社(拝殿の紋は「大」)が遷座したもの。
拝殿には「大」と「三」の紋が見える。桑名宗社の紋は「大三」とのこと。
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・飛び出し注意の看板は蛤のかぶりものが
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・桑名城城壁 積石は「野面はぎ」「打込みはぎ」の乱積み。
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・歴史を語る公園 東海道五十三次を模していて、日本橋、富士山、そしてたちまち三条大橋に到着。面白い。
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・石取会館 昔銀行だったが現在、日本一やかましい祭りの「石取祭」の祭車や祭りの紹介施設。桑名七曲り一つ目を曲がった先。
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向かいのマルマンにて名物アイス饅頭を買って食べる。暑かったので美味しかったこと。
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・「右:京いせ道」「左:江戸道」と書かれる
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・光明寺、泡洲崎八幡社を通り、十念寺へ。森陳明(戊辰戦争で新政府軍と戦い、降伏後、桑名藩の全責任を負い、切腹した人物)の墓がある。桑名は幕府側についたため、このあと城も取り壊されてしまった。
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・寿量寺の、狩野光信(永徳の長男の絵師)の墓。江戸からの帰り、桑名で病死し、このお寺に葬られたのだそうだ。
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七曲見附跡で曲がり、シーボルトも見学したという広瀬鋳物工場跡の説明碑を過ぎる。

・天武天皇社 壬申の乱の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に泊まったことにちなんで建立された神社で、天武天皇を祭祀する唯一の神社だそうだ。
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・一目連神社 雨乞いの神で、火を扱う鋳物師によって信仰され、金属工業の神として知られたという。
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・善西寺の鐘
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・馬繋ぎの輪 実際の立て場はこの寺あたりで現在より少しずれていた
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・矢田立場跡(火の見櫓が復元されている)
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・近畿地方に多いと言われる飛び出し坊やだそうだ
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益生駅はすぐそこ、いろいろ近鉄を乗り継いで名古屋駅へ。約1時間後の切符が取れたので、きしめんをいただく。
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何時も買ってもらうお土産は、岡崎で買えなかった「あわ雪」、これがきめが細かくて絶品。写真が何処かへ消えてしまったのが残念。
7:42ののぞみに乗り、帰宅は11時でした。

今回桑名はブログ友の「花筐~花がたみ」Saas-Feeの風さまが歩かれてもっと詳しく説明されているのを参考にさせていただきましたが、とても全部見ることが出来ませんでした。お礼申し上げます。
                
                    (終わり)

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