2021年4月 9日 (金)

甲州街道6 関野宿~上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~下鳥沢宿(3)

野尻宿から犬目宿に向かう。

荻野の一里塚跡(20里目)の木柱を過ぎるとまた花がきれいな景色の中を進む。
今日は藤野の駅を降りて樹木の間を歩いた時からずっとウグイスの鳴き声の大射撃。ある時はすぐそばで大音声で鳴いているのに姿が見えない。(後日家の近くで遂にウグイスを見る。生涯で2度目)
1_20210409084901
2_20210409085001
3_20210409085001

この細い坂道を登っていくが、右に見えるのが矢坪坂の古戦場跡解説板である。
武田軍の家臣・小山田勢が北条氏綱(早雲の子)の軍勢を迎え撃って敗退した場所である。
Photo_20210409085001
5_20210409085101
6_20210409085101

武甕槌神社の鳥居前を通過(両部鳥居)、道は林の中へ上がっていく。
7_20210409085201

こんなところにも庚申塔。
10_20210409085201

この先は「座頭転がし」と呼ばれる場所。先行していた者の声を頼りに直進した盲人たちがあやまって谷底に転落してしまったという場所だ。数日前に「瞽女」について読んでいたのでとても痛ましい話として心にしみた。
10_20210409085301

山道を降り、舗装道路に出て犬目宿に入る。
●犬目宿(14番目の宿)本陣2軒、問屋1軒、旅籠15軒。宿並は昭和45年の大火で6割が焼失してしまった。

尾張殿様定宿跡。米山家。
11_20210409085501
尾張のお殿様が犬目宿の本陣でなく、富士山が眺められ眺望がよかったのでこちらに宿泊した。名古屋から西の殿様は東海道混雑時、調整するため甲州街道も利用した。

犬目の兵助の墓。天保四年(1833)以来凶作が続き、同七年(1836)犬目の竹七と兵助が指導し、一揆を起こす。鎮圧後竹七は捕らえられ牢死したが平助は維新後まで逃げ切ったとか。
12_20210409090001
お墓を見て振り向くとなんと富士山の下の方が少し見えた。曇り日だったのに嬉しい!
13_20210409090001

犬目宿の様子。
15_20210409090601

犬目の兵助の生家跡を通り過ぎ、「明治天皇御小休所址」碑があるのが笹屋本陣跡である。
14_20210409091201

岡部本陣跡のところで道は右折、宝勝寺に寄る。
16_20210409091401
葛飾北斎「富嶽三十六景甲州犬目峠」や歌川広重「不二三十六景犬目峠の富士」をこのあたりから描いたというお寺である。
18_20210409091401
可愛い阿吽の席があって、
17_20210409091501
ここから富士山がほんの少しだけ見えた。富士山も随分近くに見えるようになったものです。
19_20210409091501

犬目宿を出て下鳥沢宿へ向かう。

白馬に跨がった不動明王。1803年建立。
20_20210409091601

恋塚の一里塚。南塚が残っている。21里目。
21_20210409091701

何故か聖徳太子塔(弘化2年(1845)建立)があり、10ⅿ位の石畳を過ぎると大月市に入った。
22_20210409091701

くまモンにトトロ。
23_20210409091701
かかし?芸術家が住んでいるのか?
24_20210409091801

せっかく上ったのに、もう降りる一方である。
25_20210409091901

竹藪の中にあるお地蔵様。
26_20210409091901

坂下橋にある素朴な石仏石塔群。
27_20210409092001

大月のマンホールを発見。猿橋、市の花のやまゆり、市の木の八重桜、雲に浮かぶ富士山、桂川の鮎が描かれている。
28_20210409092101

●下鳥沢宿(15番目の宿) 本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠11軒。ここの宿も明治39年の大火で焼失してしまったので何も残っていない。
 下鳥沢宿は上鳥沢宿との合宿。前半問屋業務を務めた。
29_20210409092301

福地八幡神社(村社だった)。
30_20210409092301

鳥沢の一里塚跡は木柱のみだった。
鳥沢駅到着は4時過ぎ。4時21分に特快東京行き乗れたので1時間後に地元駅に到着。

この日は寿司居酒屋にて夕食。
生ビール、白ワイン、しめさばユッケ、しらすのシーザーサラダ、うなぎの柳川風、とろたく巻。

約45500歩。最近ちょっと坂を上る訓練したのと涼しい季節で、あまり疲れなかった。このことを神に感謝です。もうちょっと暑くなるとバテバテになってしまう。

  (完)

自分の事を考えますと、人の歩いた道はわからず想像するだけです。自分で歩いて自己満足しているへたな街道歩き記をお読みいただいて、時には素敵なご指摘を頂き、考えもつかない感想を頂いたりして、本当に有難うございます。まだ歩き続けますので、懲りずに読み飛ばしてでも覗いていただけると嬉しいです。

 

| | コメント (11)

2021年4月 4日 (日)

甲州街道6 関野宿~上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~下鳥沢宿(2)

●鶴川宿(12番目の宿) 陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠8軒。

渡った鶴川は、甲州街道唯一の川越しの河川で川留になると賑わったそうだ。
広重は「鶴川の流れましかけ 橋を渡りて鶴川の駅 此川水増時留るという 絶景かな」と評している。 

鶴川宿碑のところに東屋があり、ここで休憩してさっき買った酒まんじゅうを食べる。餡と鮭を半分ずつ。鮭のまんじゅうは初めてだがとても美味しいのにびっくり。
1_20210404214701

鶴川神社は旧鶴川村の鎮守。一番天辺までの階段を見たらぞっとしたが登ってみたら「駒つなぎ石」があっただけ。
2_20210404214801

鶴川宿の風景。本陣跡も脇本陣跡もわからない。
3_20210404214801

問屋跡の加藤家。
4_20210404214801

真っすぐな宿場を突き当たると鶴川宿は終わる。
桜の美しい風景が続く。
5_20210404214901

大椚一里塚跡(19里目)。
6_20210404214901

桃など花盛り。
7_20210404215001
8_20210404215001

元気なオキナグサ。
9_20210404215001

寛政12年(1800)建立の立派な廿三夜塔。
10_20210404215101

大椚宿発祥の地の木柱。大椚宿は間の宿だった。
文政2年(1819)建立の念仏供養塔と安永6年(1777)建立の秋葉山常夜燈が残っている。
11_20210404215101

ヤドリギ。
12_20210404215201

大椚観音堂。
中には大日如来座像と千手観音菩薩坐像。
13_20210404215201
14_20210404215201

中央自動車道がすぐそばに見えてきた。談合坂まで1kmとある。
15_20210404215301

さらに進むと芭蕉句碑が。「古池や かわず飛び込む 水の音」。これは3度目か。
16_20210404215301

その隣に長峰砦跡碑がある。信玄が甲斐国の東口を北条の侵略から防衛するため築いたもの。
17_20210404215401


●野田尻宿(13番目の宿)本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠9軒。宿並は明治19年の大火で焼失してしまった。
18_20210404215401

宿の風景。
19_20210404215501

宮田本陣跡は明治天皇御小休止碑が建っている。
20_20210404215501

犬嶋神社。野田尻宿の鎮守で鳥居は金属製だそうだ。今は使われない古びた神楽殿が残っていた。
21_20210404215601

見えてきた西光寺の見学を後回しにして、談合坂サービスエリアに一般道から入る。キノコのほうとうを頼んだが量が多くて半分しか食べられなかった。
22_20210404215601

西光寺。臨済宗のこの辺りの総本山。地蔵の数が多い。
23_20210404215701
24_20210404215801
本堂と庭の一部。庭もなかなか立派であった。
25_20210404215801

住職が蛙好きだそうで境内の至る所に色々な蛙がいて、楽しい!日光街道にも蛙の多い寺があったけれども。
26_20210404215901
27_20210404215901
28_20210404220001
29_20210404220001

(続く)

 

| | コメント (14)

2021年3月31日 (水)

甲州街道6 関野宿~上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~下鳥沢宿(1)

3/25(木)緊急事態宣言解除になっていたので、街道歩きを再開しました。まだ中山道は遠くて無理そうで、近い甲州街道へ。この日は曇りでした。
6時39分に乗り、藤野駅に7時20分着で7時半から歩き始める。この日は桜や桃が満開で特に談合坂辺りはまさに桃源郷のようでした。
この6つの宿の区間はJR中央本線の藤野・上野原・四方津・梁川・鳥沢駅の間になります。

前回の最後に撮影した緑のラブレターのそばは桜が満開。
1_20210331184101

歩き始めるとすぐイノシシが出るという看板が。
2_20210331184101


関野宿(10番目の宿)
 相模国の西端の宿で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒。明治から昭和の3度の火災で何も残っていない。関野本陣跡の説明板のみ。
3_20210331184201

増珠寺。参道口に関野宿講中と刻まれた庚申塔(左 1781年)と追手風喜太郎が建立した「安昌久全信士」碑(1829年)がある。
追手風喜太郎は、大関になり、引退後も相撲界の発展に寄与したお相撲さんだそうだ。
4_20210331184301
階段を上がっていくと本堂があり、お地蔵さんがたくさんいたが、一つの石に横並びに六地蔵が彫られているのが珍しい。
5_20210331184301

このあたりには新しい標柱がいくつか立っていてこれは「甲州古道坂の上」。後方のウルトラマンが大きなマスクをしていた。
6_20210331184401

こんな道を上野原宿に向かって行く。アップダウンが激しくなってきた。
7_20210331184401

相模川が緑色だ。
8_20210331184501

ミミガタテンナンショウ
9_20210331184501

境沢橋が相模国と甲斐国の国境(神奈川県と山梨県の県境)で境沢橋を渡ってからUターンして上野原市に進むのだったが・・
間違えて直進して境川橋を渡ったため、桂川を見る事が出来た。山中湖から流れ出てきた桂川は反対側で相模川となる。
10_20210331184601

諏訪関(番所)跡。武田家が設置した「甲斐二十四関」のひとつで、明治2年廃止。その後渋沢栄一の別荘になったが移転。
11_20210331184601

慈眼寺。ここには愚痴聞地蔵尊がある。大きな耳に手を当てて一所懸命聞いてくださっている。思いっきり愚痴る。
12_20210331184601

続いてのお寺は船守寺。船守り弥三郎の碑がある。
この地の出身である弥三郎は伊東で漁師になり、日蓮聖人を「まな板岩の流罪」から救い出した。1955年、伊東市蓮慶寺から弥三郎の遺骨を分骨し、ここに祀った。
13_20210331184701

諏訪神社。「稲妻に悟らぬ人のとふとさよ」と、甲州街道にも芭蕉句碑があるのでした。
14_20210331184801

旧甲州街道碑。
15_20210331184801

ここで上野原のマンホール発見。桂川の鮎と市の木である山もみじがデザインされている。鮎釣りが盛んのようだ。
16_20210331184801

疱瘡神社到着。
万治4年(1661)創建。水疱瘡や皮膚病に御利益のある神社だ。他の街道でも見かけた疱瘡神社。
17_20210331184901

神社の裏手には塚場の一里塚が。今はないが塚木はモミの木だったそうで、江戸から18里目。
18_20210331184901


●上野原宿(11番目の宿) 本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、旅籠20軒。ここも明治と昭和の大火で宿並は焼失してしまった。
四方崖高く、この崖の上の曠野であるところから「上の原」の地名になった。
上野原の名物は酒まんじゅうとのことで、高嶋屋酒饅頭店にておやつとおみやげに買い求めた。
19_20210331185001

上野原宿本陣は門のみ残る。明治天皇の行在所となった。
20_20210331185001

山でのイメージのウグイスカグラが通り道にたくさんの花をつけて咲いていた。
21_20210331185101

文政10年(1827)建立の六十六部達成の記念碑、大乗妙典廻国供養塔。法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。 室町時代に始まるという。 (仏像を入れた厨子を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者のことも言う)。
22_20210331185201

木食白道上人加持水井碑。文政10年(1827)建立の井戸跡碑である。原集落に井戸がなく、不自由だったのを上人が加持を行い井戸を掘り当てた。
23_20210331185401

鶴川宿へ向かう。
24_20210331185501

鶴川を鶴川橋で渡ると向こうは鶴川宿である。
25_20210331185501

(続く)

| | コメント (18)

2021年2月 2日 (火)

甲州街道5 高尾~駒木野宿~小仏宿~小原宿~与瀬宿~吉野宿~藤野(2)

小原宿へ下る手前に照手姫ものがたりの説明板があった。「小栗判官と照手姫」の照手姫は、この美女谷の生まれだそうだ。その美貌が地名の由来とか。照手姫に関しては東海道の藤沢宿や他にも出てきたような。
1_20210202104501


●小原宿(8番目の宿) 本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠17軒。次に向かう与瀬宿と合宿で、与瀬宿を越えて吉野宿まで継立、与瀬宿からは当宿を越えて小仏宿まで継立てる片継だった。明治28年の大火で宿並は灰塵に帰してしまった。

小原宿に入ってきた。
小原の一里塚跡(15里目)の説明板を見逃した。さがみ湖リゾート・プレジャーフォレストの観覧車が見えた。高尾山からも見える。
2_20210202104501

小原の郷到着。休憩所でもあり資料館でもある。午後1時45分だったけれどもこの日の初めての客だそうだ。
3_20210202104701
小原宿のジオラマ。
4_20210202104701
松明をじかに見る。
5_20210202104701

高札場の復元。
6_20210202104801

本陣。
甲州街道中には3軒の現存本陣があるが、神奈川県内の東海道、甲州道中にあった26軒の本陣の内、唯一現存する本陣。本陣を営んだ清水家の祖先は北条氏の家臣、清水隼人介で、北条氏滅亡後この地に土着し、代々本陣を勤め、問屋、名主を兼ねた。
門と屋敷は立派だ。
7_20210202104901
8_20210202104901
人馬継立表をみると甲州街道は五街道の中で3藩しかなく、一番通行大名が少なかった。
9_20210202104901
広間には駕籠も見える。
10_20210202105001
控えの間。
11_20210202105001
2階は合掌造りの家のようになっている。周りに農作業の器具や養蚕業の道具等がぐるっと置かれていた。
12_20210202105101

本陣の向かいの旅籠菊屋跡。
14_20210202105101

「ひかえ宿小松勇右衛門」の旅籠小松屋跡。本陣、脇本陣の控えであった。
15_20210202105201

ここで相模原市のマンホール発見。旧相模湖町のもので、相模湖、町の木カツラ、町の花ヤマユリ、町の鳥おしどり。
16_20210202105201
ケヤキのマンホール。相模原市の木。
17mannhoru-2
これは神奈川県のマンホールで県の花ヤマユリ、県の木イチョウの葉、県の鳥カモメをデザインしている。
18_20210202105301

寿堂というお店でおやつに酒まんじゅうを買う。
南無阿弥陀仏名号碑。
19_20210202105301

●与瀬宿(8番目)小原宿との合宿。本陣1軒、問屋1軒、旅籠6軒。鮎が名物だったが、広重は値が高く不味いと評した。相模湖駅が右に見えるが元は与瀬駅と言ったそうだ。

坂本本陣跡には、築山の上に明治天皇与瀬御小休所趾碑が建っていた。
20_20210202105401
   ・
   ・
   ・ 

小原宿を出てからは旧坂を上ったり下りたりで、先ほどのお饅頭で元気をつける。
慈眼寺と與瀬神社も登るのがいやになって下から階段をちらりだけ。おまけに道が難しくてスマホを頼りに右往左往。
相模湖が見えてきた。
21_20210202105501

廿三夜塔、名号碑等。所々に佇む石碑。
22_20210202105501

旧藤野町のマンホールは、町の花フジのデザイン。
23_20210202105601

甲州古道椚戸(くぐど)と書かれた木柱を通り過ぎると、また視界が開け相模湖が見えてきた。
24_20210202105601

●吉野宿(9番目の宿)本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒。宿並は明治29年の大火で焼失してしまった。桂川の畔にあるところから「桂の里」と呼ばれたそうだ。

吉野宿へと入ってきた。
高札場跡。
25_20210202105701

本陣跡。明治天皇も宿泊されたが5階建てだったそうだ。
26_20210202110301

小猿橋跡には廿三夜塔と百万遍供養塔があった。猿橋と同じ工法で作られたが規模が小さいので小猿橋と言われたそうで残っていないのが残念。
27_20210202110301

吉野橋で沢井川を渡って、ここで宿を出る。
   ・
   ・
   ・

旧道に入って、馬がしっかり見える馬頭観音に久しぶりに出会う。
28_20210202110401

中央自動車道からもよく見える緑のラブレター。
29_20210202110401

関野の一里塚跡(17里目)。片塚だったとのこと。
30_20210202110501

藤野駅から東京行き特快に乗れたので、国分寺まで乗り換えなしで到着。
先週に引き続いてお魚がおいしいお店にて。
おとうしはつみれ、蟹味噌豆腐。モロコ(琵琶湖産)の塩焼き、刺し身特上盛(鮪の脳天、生ウニ、ほたて、中トロ、ミズダコ、きんめなど)、豚バラの下仁田ネギ巻き、海鮮しそトマトピザ。
帰宅は8時前でした。

| | コメント (18)

2021年1月28日 (木)

甲州街道5 高尾~駒木野宿~小仏宿~小原宿~与瀬宿~吉野宿~藤野(1)

前回の翌週、昨年の12/18(木)に5回目になる甲州街道を歩きました。
駒木野宿と小仏宿は合宿、小原宿と与瀬宿も合宿です。41671歩でした。

高尾駅に8時半頃着いて駒木野宿へと歩き始める。
まず寄ったのが高尾駒木野庭園。昭和の始めの小林病院の住居兼医院で、改修され八王子市に寄贈された。
9時に開門で入って直ぐの所に、シソ科多年草のシモバシラの枯れた茎に霜柱が出来ていた。
1_20210128105801
家屋の前に盆栽が沢山ある。
2_20210128105801
庭は池泉回遊式庭園である。
3_20210128105901
枯山水の庭園も素晴らしい。
4_20210128105901
屋内も凝った造りだった。
5_20210128105901

そのすぐ先に地蔵尊が祀られていた。
6_20210128110001


●駒木野宿(7番目の宿
)本陣1軒、脇本陣1軒、問屋3軒、旅籠12軒。小仏宿と合宿で、問屋の継立業務は月の内16日から晦日まで勤めた。

すぐ先に駒木野橋跡の碑があり、斜め向かいに小仏関所跡がある。甲州街道にはこんなところに小さいながらも関所があったのですね。
7_20210128110401

駒木野宿碑 本陣跡など一つも残っていない。梅が咲き始めていた。
8_20210128110901
9_20210128111001

念珠坂の碑(青面金剛、地蔵尊、名号碑などがある)
昔この辺りに鬼がいて人を襲っていた。ある時老婆を襲うと、持っていた念珠の紐が切れて玉が飛び散り、鬼は足をとられて坂下まで滑って、大穴に落ちてしまった。以来鬼は現れなくなったという。
10_20210128111101

荒井バス停の先の祠の中に地蔵尊と宝永3年(1706)建立の青面金剛像(庚申塔)があった。この三猿は三面にある珍しいもの。
11_20210128111201

蛇滝口バス停の前には旅籠「ふぢや新兵衛」があって、蛇滝信仰の講中が宿泊したそうで、「講札」が掲げられているのであった(奥の軒下)。
12_20210128111201

バス停のところの道を入っていくと、いのはな(湯の花)トンネル列車銃撃慰霊碑がある。
1945年8月5日、中央本線湯の花トンネル付近で、列車が米軍機に銃撃され、長野、山梨の疎開地に向かう学童等52名が死亡したそうだ。
13_20210128111301

高架をくぐって少し行くと、こんなところに峰尾豆腐店があっておからドーナツをおみやげに買ってもらった。

常林寺。板碑がある。南朝方の重鎮小山氏の末裔峰尾氏がこの地に土着して開基したお寺という。
14_20210128111401

赤煉瓦ガードをくぐると小仏宿である。
15_20210128111501


●小仏宿(7番目)本陣、脇本陣はなく、問屋1軒、旅籠11軒。難所小仏峠を控え賑わい、小仏川のヤマメが名物だったそうだ。今はバスの終点小仏だが、何も残っていない。

浅川神社。境内の湧水が浅川の水源になっている。「水の神」として崇敬されたそうだ。
16_20210128111601

そのお隣にある宝珠寺のカゴノキ(鹿子の木)は都の天然記念物で、枝張りが南北22ⅿ、東西17ⅿ、高さ13ⅿある大きな木である。主幹は枯れてその周囲を枝幹が取り巻いて一株になっているそうで、生命力の強さを感じる木だ。
樹皮は灰黒色。樹皮がまるい薄片になってはがれ落ち、その跡が白い鹿の子模様になる。この樹木だと鹿子になり過ぎている感じだ。
18_20210128111701
17_20210128111701


◆小仏峠(標高560ⅿ)へ

九十九折の急坂が続く。
19_20210128111801

お地蔵さん。
20_20210128111901

小仏峠は、行基が峠に寺を建て、一寸八分の小さな仏像を安置したことが地名の由来となった。

明治天皇小佛峠御小休所趾御野立所碑と三条実美歌碑。
明治天皇が宿泊されたり、休まれた場所は全国3000ヶ所とかどこかに書いてあったけれど、377ヶ所は史蹟名勝天然紀念物保存法の指定がされたが、戦後解除された。
22_20210128111901

寛政7年(1795)建立の高尾山道標。日の当たる場所で昼食。
23_20210128112001

寒くて冷え切ってしまい、早々に下山開始。神奈川県に入る。
24_20210128112101
21_20210128112201

東海自然歩道や甲州道中が交差している。
25_20210128112201

| | コメント (18)

2021年1月 8日 (金)

甲州街道4 矢川~日野宿~八王子宿~高尾(1)

12/10、もう1回行く予定だった中山道だったが、中山道を歩いた11/19に東京の感染者が突然500人を越えて仰天したのでした。そこで近間の甲州街道を歩きました。45610歩。・・年を越して昨日1/7は2447人で数字に麻痺しています。日本はもう約26万7千人も感染し、死者が約4000人近く出ているのですね。

前回は府中宿でしたが「ちはやふる」のマンホールを見て映画の「ちはやふる」を鑑賞。実際にもカルタ部のある学校があって学生に熱血カルタ人がいることを想像して驚いたのです。マンホールを見なかったら知らないままと思うと出会いの不思議を想う。人生はそれの連続とも思う。

甲州街道を参勤交代で通過する大名は、高島藩諏訪氏、高遠藩内藤氏、飯田藩脇坂氏(のち堀氏)の3藩に限られ、交通量は五街道中最も少なかった。

◆矢川~日野

8時前の電車に乗ると8時10分にはJR南武線・矢川駅に到着。
矢川を渡ったところに五智如来があった。五智とは仏教でいう五の智(大円鏡智 妙観察智、平等性智、成所作智、法界体性智)を備えた仏で大日如来の別名といわれる。
1_20210108095501

元青柳村の常夜燈や馬頭観音を見て、立川市に入り、マンホールを見つける。デザインは市の花のコブシ。
2_20210108095501

日野の渡し場の碑とその下の写真は日野の渡し碑。
3_20210108095601
4_20210108095601
最初の渡し場はもっと下流の万願寺の渡しだったが、低地で度々洪水に見舞われたため、貞享元年(1684)日野の渡しができた。3月から10月までは舟渡しで,大小2隻の平底船が使用され、冬は土橋が架橋されたが。文政7年(1824)以降は1年中舟渡しとなり、大正15年日野橋ができたため渡しはなくなった。
江戸の頃、武士、僧侶、宿の人たちは無料だったそうだ。

土手にあがり多摩川に出た。立日橋を渡る。ここからはお正月にダイヤモンド富士が見え、撮影場所である。私も撮影したことがある。
5_20210108095701

橋の上にはモノレールが通っている。
6_20210108095701

ようこそ!「新撰組」のふるさと日野へという看板に迎えられる。あっという間に立川市が終わり日野市に入ってきた。
7_20210108095701

日野市のマンホールのデザインは、市の鳥カワセミである。
8_20210108095801


●日野宿(5番目の宿) 本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠20軒。多摩川の渡し場も管理する。

江戸口にあるのが東の地蔵で福地蔵ともいう。お地蔵さまの前には馬頭観音があった。
9_20210108095901

道はここで右折。有山家(屋号綿十)。明治26年の大家の後に建て替えられたようだ。洋館と蔵がある。
10_20210108100001

本陣到着。甲州街道には東京、神奈川、山梨と本陣が1箇所ずつ現存する。
この日野宿本陣が都内に現存する唯一の本陣建築である。東京都指定史蹟。
宿場には2軒の佐藤家があり、西側の佐藤隼人家(上佐藤家)は本陣を、東側の佐藤彦右衛門(下佐藤)は脇本陣をつとめたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は火事で焼失したのち元治元年(1864)に再建されたもの。
11_20210108100101
式台玄関があり、内部は広く庭は今も手入されている。
12_20210108100201
13_20210108100201
14_20210108100201
15_20210108103901

天然理心流佐藤道場もここにあって、近藤勇が教授にきて、土方歳三、沖田総司、井上源三郎等が稽古に励んだそうである。道場跡碑や明治天皇日野宿小休所及建物附御膳水碑があったが写真撮り忘れ。

次に、向かいの日野宿交流館へ(元信用金庫だった)。在りし日の日野宿の様子が良くわかって、なかなか良い展示であった。
ジノラマで在りし日の日野宿を見る。茅葺と瓦の屋根が混ざり合っている。
16_20210108100401
元の金庫の中も展示室になってい、金庫室の大きさがわかった。展示されていたのは漁の道具で、当時の絵が目を惹いた。富士山も見えているし、ここで鵜飼漁をしていたとは。
17_20210108100401

問屋場・高札場跡碑。月の前半は下佐藤家、後半は上佐藤家が問屋をつとめた。
18_20210108100501

大昌寺に寄る。
19_20210108100501
一石六地蔵の一種、前後に一地蔵、両脇に二地蔵彫がられている。
20_20210108100601
墓地には佐藤家の墓がある。下佐藤家の彦五郎とノブの名があったが、ノブ(享年47歳)は土方歳三の実姉である。土方歳三の生家は外れたところにあるので行かなかった。
21_20210108100801
これは武蔵国立川郷の領主・立川能登守の子といわれ、日野宿の人に請われて大昌寺を創建したという讃誉上人の墓である。
22_20210108100901

街道に戻ると八坂神社がある。天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人が奉納した額があるとのことだが、見ることはできなかった。
ここの絵馬は新撰組のだんだら模様!
23_20210108100901

宝泉寺の本殿。
24_20210108101001
達磨像。
25_20210108101001
墓地に日野宿出身で、鳥羽伏見の戦いで戦死した新撰組副長助勤六番隊組長・井上源三郎の墓と顕彰碑が見つけられなかった。

坂下地蔵が西の地蔵(中の地蔵を見忘れる)。ここが日野宿の京口である。
26_20210108101101 

| | コメント (20)

2020年12月 5日 (土)

中山道13 馬籠宿~妻籠宿~三留野宿(2)

●妻籠宿(42番目) 馬籠宿から7.3㎞、三留野宿まで3.2㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒。
いよいよ全長800ⅿの妻籠宿に入ってきた。

重伝建(重要伝統的建築群保存地区)の第一号だそうだ。昨年12月現在、山形・東京・神奈川・熊本を除いた43道府県、100市町村の120地区が選定されている。
昭和46年に「妻籠宿を守る住人憲章」に建物などを<売らない><貸さない><壊さない>の三原則がうたわれ貫かれているそうだ。
1_20201205130601

藁馬実演販売のお店。大きな藁馬だ。曲物や編み笠、漆器を売る店などがあるそうだがお休みなどで目に入らなかった。
2_20201205130701

この通りの向こうには妻籠発電所がある。昭和9年から発電しているそうだ。
Photo_20201205130801

宿のメインストリートに入ってきた。出梁造りの2階屋と竪繁格子、卯建のある家などが立ち並ぶ。電線も自販機もなく、車の乗り入れ禁止。
3_20201205130801

右側の奥の方に昔の木賃宿の上嵯峨屋がある。屋根は石葺で、18世紀の建物で、日本で最初に宿場保存事業が行われた建物。
囲炉裏や厩。
4_20201205130901
5_20201205131101
6_20201205131101

7_20201205131301
 
延命地蔵堂。直径2メートルの延命岩が祀られているがその一部が見える。常に濡れているように見えたため、汗かき地蔵と呼ばれたそうだ。
9_20201205131301

隣にあるのが大変珍しい、寒山拾得像。「箒と巻物を持った人物による双体像」。絵では見ても石像では初めてである。はっきりは見えませんが。
8_20201205131401

高台にある光徳寺に寄って宿を見下ろす。
10_20201205131401

11_20201205131501

枡形。屋根の上に石の乗った板葺き屋根の家が見えている。
12_20201205131501

郵便局の書状集箱。現役のポスト。
13_20201205131601

郵便局に資料館が併設されている。いろいろなポストが並んでいた。
14_20201205131601

脇本陣 屋号は奥谷で造り酒屋を営み、問屋と庄屋も兼ねていた。藤村の隣人で初恋の人「おゆふ」さんの嫁ぎ先。明治10年に建て替えられた。何処もみんな撮影禁止。囲炉裏と立派な庭が印象的。
ガイドさんの説明と併設されている資料館で色々なことを知って勉強になった。
15_20201205131601

本陣。広くて立派だ。平成7年復元されたもの。
藤村の実母の生家。藤村の次兄広助がこちらの養子になり、最後の当主となった。
藤村の『新生』の「節子」こと、「こま子」の写真を見る。この方、なんと私が勤務した学校を卒業して(私の母の先輩であった)、社会運動家として卒業した有名人として載っている。不幸な85年の人生だった。
16_20201205131901

脇本陣にもあったが、ここにもあったかりんの木。上向きに実がなることから武士たちから好まれた。よく見ると俯く実が少なく、横や上を向いているではありませんか。空には雲一つなし。
17_20201205131901

おもてというお店で五平餅を食べた。唯一開いていたと思われるお店。
山ぐるみたっぷりの味噌だれと自家製米を使って、さわらの串にさしたもの。美味しかった。
18_20201205132001

ここで南木曽町のマンホール発見。町の花「なぎそミツバツツジ」のデザイン。真ん中はなぎそのナを図案化した。
19_20201205132001

まだヘチマが成っている。ヘチマと言えば、実家で私が中学生頃からずっと作っていてヘチマの化粧水とたわしを使っていた。
20_20201205132101

また水車があった。
21_20201205132101

ここにも高札場跡があった。
22_20201205132101

枡形。
23_20201205132201

口留番所跡(中山道を行く人々を監視したところ)を通り過ぎた先にある大きな岩が鯉岩。
24_20201205132201
鯉には見えないなあと思ったら、明治24年の濃尾大地震で形が変わってしまったとのこと。昔の絵があった。
25_20201205132301

鯉岩の前の熊谷家住宅。19世紀初頭に建てられた江戸後期の長屋の一部。左右の建物が取り壊され、建て替えられたことから、長屋の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたもの。
26_20201205132401
27_20201205132401
28_20201205132501
  妻籠宿を出る。
 (続く)

| | コメント (18)

2020年11月28日 (土)

中山道13 馬籠宿~妻籠宿~三留野宿(1)

10/29(木)晴 
前週に続いての中山道歩き。6時15分ののぞみから、神奈川県側の富士山を見る。
1_20201128102501

名古屋7時50分着、8時発のワイドビューしなのに乗り換え、8時50分中津川着。9時10分発馬籠行きのバスに乗り、9時30分過ぎに到着。
前回の馬籠宿を下から上まで一気に上がる。晴れていて、人もいなくて馬籠宿のきれいなこと。
途中の前回撮り忘れの槌馬屋資料館。そば処の向こう側。
2_20201128103101

上陣馬公園から出発。恵那山とお別れだ。
3_20201128103101

夜明け前の碑。あの書き出しの原稿用紙。前回気が付かなかった。
4_20201128103201

◆馬籠~妻籠 (馬籠峠を越える)

最初は石畳
5_20201128103301

水車小屋がある。  
6_20201128103301

熊除けの看板と鐘が10は所くらい置いてある。大きな音が出るので撞いてみる。
7_20201128105101

道祖神。馬頭観音がすくなくなった。庚申塔はある。
8_20201128103701

伐採を禁じられた木曽五木だが、明治以後は御料林として保護されてきたけれども、見渡す木曽の山々には紅葉する木もある。
9_20201128105201

十返舎一九の歌碑「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物」。ここ峠集落の名物が栗こわめしであった。
10_20201128105301

峠之御頭頌徳碑。
峠集落の荷物を運搬する牛方の牛行司・今井仁兵衛 の業績を讃えた石碑で、藤村の兄の広助の提唱で立てられた。
11_20201128105301

登録有形文化財に指定されている今井家(牛方組頭を務めた)住宅。
12_20201128105401

明治天皇御小憩紀念碑やその先の熊野神社の入口には明治天皇峠御膳水碑、標高777ⅿ(ラッキーポイント)地点を通って、遂に長野県に入った。
13_20201128105401

そして馬籠峠に来た。地図には標高801ⅿとある?
14_20201128105501

一石栃(いっこくとち)白木改番所跡の隣が立場茶屋(牧野家住宅)。お休み処になって囲炉裏があって、ボランティアによってお茶がふるまわれている。
ちょっと覗いて見たらミシンまであっておかしくなる。
Photo_20201128105801

変な形のサワラの木。下枝が立ち上がって特異な枝ぶりとなった針葉樹を「神居木(かもいぎ)」と言うそうだ。
山の神や天狗が腰かけて休む場所と信じられていたという。
15_20201128105901

男滝と女滝に寄る。以前は滝のあるところが中山道だった。
女滝。
16_20201128105901

男滝。三段でなかなかに迫力がある。
17_20201128110001

滝のそばに白いきのこ! スギヒラタケだそうです。shikamasonjinさま、ありがとうございました。
Photo_20201128110001

倉科祖霊社。
松本城主小笠原貞慶の重臣、倉科七郎左衛門を祀る。主人貞慶の命を受けて大阪の豊臣秀吉から朱印状をもらった帰りに、馬籠峠でこの地の土豪たちに襲われ討ち死した。後年、山崩れがあって祟りとされ、ここに祠が建てられた。
18_20201128110101

山あいの水田。
Photo_20201128110101

牛頭観音があった。馬頭観音が多かったのに牛頭は初めてで、中山道では唯一とのこと。重い荷物を運んだのは黒牛だったそうだ。
19_20201128110101

とうがめ沢で石畳終了。
20_20201128110201

民宿こおしんづか。その向かい側には庚申塚碑もあった。
21_20201128110301

水車が多い。
23_20201128110301

大妻籠集落に入ってきた。
22_20201128110401

ここの金剛屋で昼食。屋根の石は板葺きなので重石だそうだ。
Photo_20201128112201
とろろそばを注文。(妻籠宿に着いたら何とお店が殆どお休み。ここで食べておいてよかった)。
Tororosoba

蘭川(あららぎがわ)を大妻橋で渡る。木曽川と同じく石の色が白い。
24_20201128112601

渡った先に石柱道標。「中仙道 東京江七十八里半 西京江五十四里半」と刻まれている。まだまだ半分にも到達していない。先が長い!
25_20201128112601

(続く)

| | コメント (24)

2020年11月17日 (火)

中山道12 中津川宿~落合宿~馬籠宿(3)

●馬籠宿(43番目)落合宿から4.6㎞、妻籠宿まで7.3㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒。

馬籠宿は600mの急な石畳の坂道の宿場である。バス停も、駐車場も一番坂の下の京口にある。
当時の馬籠宿の様子は『夜明け前』に詳しく描かれている。著者の島崎藤村は馬籠宿の代々本陣、庄屋、問屋を務めた家に生まれた。父は正樹(小説で青山半蔵のモデルとなった)は17代当主。母・縫は隣の妻籠宿の本陣の娘であった。後に藤村の次兄が妻籠本陣を継ぐ。お隣の元酒造の大黒屋に住んでいた藤村の初恋の人・おゆうさんは妻籠宿の脇本陣に嫁いだ。
そうそう、『夜明け前』は昨年馬籠が近づいたときに慌てて読み直したのに、あれから1年、細かいことはもう忘れかけています。

馬籠宿が見えてきた。ここまでほとんど人がいなかったが、急にたくさんの人がいる。バスツアー客と修学旅行生が殆ど。
1_20201117102001

枡形。馬籠の枡形はこちら側一ヶ所のみ。
2_20201117102101
 
水車は発電施設で今も回っている。
3_20201117102101

但馬屋は江戸時代からの旅籠。
4_20201117102201

4つの資料館を下から順番に見ていきたかったが、お昼になったので先にさらに上った所にある、おゆうさんの実家の大黒屋で昼食にする。
元酒造なので杉玉がある。
5_20201117102201

藤村は小学校のときはもう東京へ出ていてあまり体験していないのに、なぜあんなに維新前後の故郷を書くことが出来たのかと思っていたら・・・
この大黒屋の大脇兵衛門信興が、文政3年(1826)から明治3年(1870)にわたる44年間記録した「大黒屋日記」を資料としたのだそうだ。

お昼は、栗こわめしセットB( 栗こわめし、お吸い物、香の物、ますの甘露煮、山菜、枝豆豆腐、びわのシロップ煮)。
この栗こわめしは「夜明け前」にも登場している。
6_20201117102401

昼食を終えて、いったん坂を下りて4つの資料館を見学。

槌馬(つちま)屋資料館(島崎家の屋号は槌馬屋)入場料払うもチラシなし。土産物店の2階が資料館。
 槌馬屋・島崎家はもと馬篭宿内湯舟沢村の庄屋を勤める家柄である。特に藤村の父・正樹自筆の文献を多数所蔵することで他に類を見ない特色を要する。
おゆうさんの写真。
7_20201117102501
島崎正樹の書。
8_20201117102501

清水屋資料館 登録有形文化財 景観重要建造物だそうだ。
代々馬籠宿の役人をつとめた清水屋原家は島崎家と親交が深かった。藤村の「嵐」の森さんのモデルである原一平の家である。藤村直筆の書簡や資料が残されている。文書、書画、陶磁器(九谷、伊万里、唐津など)、輪島の漆器類など馬籠の生活文化史ともいえる数々の逸品を展示。
10_20201117102601
11_20201117102701
12_20201117102701
13s

本陣跡・藤村記念館。
藤村の生家の跡。藤村の兄弟は誰も継がず、次兄は妻籠の本陣を継ぐ。藤村の長男楠男が継ぎ、資料の寄贈し、藤村記念館が建てられた。
母屋は明治28年の大火で焼失してしまったが、唯一残ったのが隠居所。『夜明け前』にも出てくる。藤村も幼い頃父から四書五経の素読を受けた。
14_20201117103001
15_20201117103001

・馬籠宿脇本陣史料館。蜂谷家がつとめた八幡屋脇本陣のあとである。
山口誓子の句碑「街道の 坂に蒸れ柿 灯を点す」が入口にあり、エントランスの右側には木曽五木も見える。中津川でも見た、ねずこ、あすなろ(あすひ)、ひのき、さわら、こうやまき。
16_20201117103101
ここも明治28年の大火で焼失してしまったが、当時の上段の間を復元している。
玄武石垣が残っている。亀甲型の積み石で、ここに玄武神を迎えて北の守りとしたそうである。
17_20201117103201

振り返ると遠く中津川の町が見える。
18_20201117103201

まだ先に進む。
192

高札場は修理中。
20_20201117103301

一番上の上陣馬公園へ。
秀吉と家康が戦った小牧・長久手の合戦の時、徳川勢の菅沼・保科・諏訪の三武将が馬籠城を攻める為に陣を敷いた所である。
恵那山が目の前にドーンと。
21_20201117103401
島崎藤村筆のニーチェ言葉碑。
22_20201117103401
越県合併記念碑。馬籠が中津川市に合併した。
23_20201117103501

白花洋種朝鮮朝顔の実はとげがある。近縁種のエンジェルストランペットは花が落ちるだけで実がない。馬籠宿の家の前で初めて見る。
24_20201117103501

最後に島崎家の墓へ行く。
25_20201117103601
藤村と妻冬子の墓。後妻静子との墓は大磯にあった。
26_20201117103701

ちょっと離れたところにあるのが、藤村の父母、島崎正樹と縫の墓。
27_20201117103801

これにて終了。バス乗り場に向かう。
雨が少々降り出したが、傘を出すほどではなく、3時50分のバスに乗り、中津川駅4時15分到着。

お土産は、にぎわいプラザで栗きんとん、きんつばとポポー(やまと尼寺精進日記でやっていた)を買う。
28kurikinntonyakinntuba
29_20201117104201
29no2

4時49分のワイドビューしなの19号に乗って、松本着は6時10分前に着く。
駅弁を買い6時40分のあずさ32号に乗り込む。
夕食は無農薬新鮮野菜添えの地鶏めし。ビールの他に今日は白ワインも。
30_20201117104401

家に9時過ぎに到着する。29877歩でとても楽でした。
(完)

 

| | コメント (20)

2020年11月10日 (火)

中山道12 中津川宿~落合宿~馬籠宿(2)

●落合宿(44番目)中津川宿から4.1㎞、馬籠宿まで4.6㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒。宿場の長さは400ⅿ。

助け合い大釜。寒天の材料天草を煮た大釜。
秋の祭りではこの釜で千人分のきのこ汁が振る舞われるという。
文久元年(1861)皇女和宮の大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通過し、その際、暖かいおもてなしをする為に、各家の竈焚きが続けられたという。
1_20201110202401

井口本陣。中山道に現存する数少ない本陣建築。門は前田家から贈られたもの。(日曜日だけ公開)
本陣を務めた井口家は、庄屋と問屋を兼ね、名字帯刀も許された。明治天皇も宿泊された。前には明治天皇落合御小休所碑がある。
2_20201110202801

脇本陣跡(塚田家)は標柱のみ。
説明板の泉屋(旧鈴木家)は本陣隣で酒造業を営み、鈴木弘道は「夜明け前」には稲葉屋の林勝重として登場する。

落合宿の風景
3_20201110202901

脇本陣塚田家が建立した高福寺に寄る。境内には落合に揚水を整備した塚田弥左衛門の顕彰碑や二十三夜塔もある。
4_20201110202901
筆が入っている筆塚を初めて見た。
5_20201110203001
住職さんが出てこられて是非庭を見て行ってくださいとご案内くださった。枯山水的な庭や池もあり、多種類の山野草が咲き乱れる庭があってとても素晴らしかった。
6_20201110203001
サラシナショウマや白いシュウメイギク
7_20201110203101
ダイモンジソウ
8_20201110203101
紅花ダイモンジソウは初めてだ。園芸種かもしれない。
9_20201110203201

街道に戻る。枡形になっているところに上町の秋葉山常夜燈・寛政4年(1792)がある。落合宿には全部で4基ある。
10_20201110203201


◆落合~馬籠
落合宿を出ると、段々畑が見える景色が広がり、遠くから見えていた中央高速の落合川橋もだいぶ近づいてきた。「木曽路口」というバス停があった。
11_20201110203301

高札場跡、白木番所跡を通り過ぎる。下桁橋の手前に、飯田道道標や馬頭観音などの石造物があった。
スミレが咲いていた。ツボスミレみたいだけれど違うような、何のスミレだろう。アメリカスミレサイシン(プリケアナ)とのこと。多摩NTの住人さま、ありがとうございました。
13_20201110203301

下桁橋を渡る。この橋は広重の落合の絵にも描かれている。
12_20201110203401

いよいよ十曲峠のはじまりだ。竹林の中を進む。
4_20201110203401

馬頭観音が出てきた。馬頭観音(イボ観音)。イボができると石を借りてさすり、治ったら石を二つにして返すのだそうだ。
14_20201110203501

3匹の沢ガニが道を歩いていた。近寄ったらこんな顔して威嚇してきた。
15_20201110203501

大きく右に曲がった道の突き当たりは医王寺(山中薬師)。最澄が開いた天台宗のお寺。枝垂れ桜で有名。覗いたご本尊は行基の作という。
16_20201110203601
観音像と地蔵尊。
17_20201110203601
芭蕉句碑。「梅が香に のっと日が出る 山路かな」
18_20201110203701

お寺を出て、鐘鋳り場跡(医王寺の梵鐘を鋳造した場所。鐘は第二次世界大戦時に供出されてしまった)を通り過ぎると、石畳の道が始まる。
石畳は840ⅿあり、そのうち約70ⅿ(三カ所)は江戸時代のもの。
19_20201110203701

この辺りは江戸時代のものと思われる。苔むし、石の大きさが少し小さい。
20_20201110203701

なんじゃもんじゃの杜の碑があった。花の時期はきれいなのでしょう。
21_20201110203801

石畳も終わり。
22_20201110203801

新茶屋の一里塚跡(復元)。
23_20201110203901

美濃と信濃の国境だ。
平成17年の市町村合併で長野県木曽郡山口村が越境して中津川市に入り、ここは昔の国境ということになる。
24_20201110203901

熊出没の看板を見て、正岡子規の句「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」が刻まれた碑のある公園へ。
26_20201110204001
信州サンセットポイント百選に選ばれ、棚田の向こうに中津川市街や笠置山などが見える。
25_20201110204001

夏蜜柑の皮が捨ててあるのかと思ったらキノコであった。イグチ科のチチアワタケ(しかまそんじんさま、ありがとうございます)。
27_20201110204101

朴の木。だいぶ葉っぱが落ちてしまっているが、去年も御嵩に向かう道でたくさん見た。同じ季節に歩いているから。
28_20201110204101

旧山口村のマンホールには、村の木の椿、村の花のムラサキツツジが描かれている。
29_20201110204201

わー、蛇だ。ヤマカガシだそうで死んでいた。東海道でも2度ほど生きた蛇に出会った。
30y

馬籠宿が近づいてきた。旅館本三屋。
31_20201110204501

向かいには島崎正樹(夜明け前の青山半蔵のモデルとなった藤村の父親)の記念碑がある。
32_20201110204601

馬籠城跡(丸山城)には庚申塔などの石造物がある。丸山城は藤村の祖先島崎重通が城主だった。
33_20201110204601
 (続く)

| | コメント (20)

より以前の記事一覧