2017年7月20日 (木)

東海道五十三次歩き6 日本橋~大森(2)

東海道最初の品川宿は旅人だけでなく、見送りや出迎えの人で賑わった。(朝出て、あるいは江戸に帰ってきて、ここで宿泊する人は殆どなかったのではと思う)
同時に春には桜の御殿山や潮干狩り客で賑わい、秋には紅葉の海晏寺と言う名所もあり、江戸近郊の遊興地であったそうだ。街道にずらりと並ぶ旅籠では芝エビや江戸前の新鮮な海産物の料理が人気を集めた。
又浮世絵にもあるが吉原と並んで一大遊里として、100軒近くの旅籠に「飯盛女」が1500人以上もいたという。
江戸時代末の品川宿は京急線・北品川駅の辺りから、青物横丁と鮫洲の境まで、全長約2.4km、戸数は1600戸であった。
 
京急線に沿って、品川駅→北品川駅→新馬場駅→青物横丁駅→鮫洲駅→立会川駅→大森海岸駅→平和島駅→大森町駅まで歩いた。一駅が短い。
JR品川駅ロータリーから進み、京急本線の踏切を渡ったら八ツ山口で品川宿の入口であった。品川駅は品川区でなく港区にある。本来の品川とは京急の北品川駅南側のこと。

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利田(かがた)神社には品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑がある。今は埋め立てられ海は遠いが当時は海辺であった。1798年鯨が迷い込んでしまったらしい。天王洲に追い込んで捕えた。これを沖に引っ張っていき、将軍家斉にもこれをご覧に入れた。この鯨がどうなったは書いてなかった。供養碑があるということは死んでしまったのか?450x338_2
                                  品川宿本陣跡 新馬場駅の近く431x450
品川神社(北品川宿の鎮守)線路をくぐった第一京浜沿いにある。
以前ここの写真を載せたけれど、石鳥居には見事なまでの昇龍・降龍が彫られている。450x338_3
                                         その左側には大黒天338x450
他にここには高さ7mの富士塚があり、浅間神社、御嶽神社、板垣退助の墓もある。また江戸時代には品川ネギ・カブ、大井ニンジ、戸越のタケノコが名産品だったとして記されている。七福神巡り発祥の碑もある450x338_4

品川橋 新馬場駅のホームの下を流れている目黒川に架かる橋で、向こうはもう南品川宿。450x202_2
品川宿の松 29番目の宿場・浜松より寄贈された樹齢約80年の黒松で、寄贈主に「品川宿の松」と命名された。ここ街道松の広場には、三島宿、袋井宿、大磯宿、保土ヶ谷宿の松がある。450x338_5
                    保土ヶ谷の松450x338_6
                  問屋場・貫目改跡450x249

青物横丁駅前の品川寺(ほんせんじ)には江戸六地蔵の一つがある。座高2m75㎝で大きい。地蔵というより鎌倉大仏の子分と言う感じ。450x338_7
                 七福神の石像が可愛い450x338_8
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1軒置いた隣の海雲寺 千躰荒神で有名。竈の神、火の神、水の神で、火伏せ信仰の寺として多くの人が参詣する。450x446
ここには平蔵地蔵がある。1860年、平蔵と言う乞食が大金が入った財布を拾い正直に番所に届けた上、落とし主からの謝礼も断った。乞食の仲間は怒って平蔵を小屋から追い出し、平蔵は凍死してしまう。これを聞いた財布の落とし主が、地蔵を建てて弔ったという。憐れな地蔵。450x338_10

鮫洲駅を過ぎ、立会川駅に続く商店街に入ると、20歳の龍馬像が立つ。商店街が龍馬がいた土佐藩下屋敷から土佐藩が築いた浜川砲台への道筋にあり、若き日の龍馬が歩んだ道ということで、この銅像があるのだという。338x450_4
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旧道と第一京浜が合流する手前に鈴ヶ森刑場跡がある。丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたという。338x450_5
                     磔台と火炎台450x338_12

そのすぐ先のしながわ区民公園は憩の場所。しながわ水族館もある。とここはもう大森海岸駅だ。450x338_14
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  更に歩き平和島駅の手前、平和島入口から次の大森町駅まで旧道に入る338x450_6
                 すぐ三原不動尊がある450x338_17

ここ大森は大きな森があったことに由来する。品川宿と川崎宿の中間地点で間の宿として賑わった。
また海苔の生産地だったので今でも海苔店が多い。平和島駅の手前の「大黒屋」ではのり大福が売られているそうで楽しみにしていたが、休日でした。残念無念。それならもう一駅歩こうということで大森町駅まで歩いた。

途中内川橋で内川を渡るところにするがや通りという案内板があったが、この通りはかつての羽田道で、川崎大師や穴守稲荷に行く道として利用されたそうだ。338x450_7
                       おわり


 

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2017年7月17日 (月)

東海道五十三次歩き6 日本橋~大森(1)

6/28(水) 江尻宿の続きを予定していたのに、雨が降る予報だったので日本橋からに変えました。三島までは大体知っている所なので後でもいいかと雨の日に回すことに(箱根は無理ですが)。
日本橋をゆっくり10時頃出発して、京急大森町駅には夕方6時半近く、約40706歩でした。

「♪お江戸日本橋七つ立ち・・」と謳われたように江戸時代は、七つ(5月ごろなら午前4時頃)、まだ暗いうちに発って、今の田町と品川の間くらいにある、東海道の玄関口の高輪大木土門が開けられる頃にたどり着いた。木戸は明け方六つ(午前6時)に開き、暮れ六つ(午後6時)に閉じられた。

日本橋の四隅には日本国道路元標のレプリカ(本物は道路の真ん中にある)、日本橋由来記、日本橋魚市場発祥の地碑、罪人の晒し場跡がある。
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橋が架けられたのが1603年、何度か消失し、現在の二連アーチ橋は明治時代の終わりに完成し、重要文化財だ。五街道すべての起点だ。

百十四銀行(本店は高松市) 明治5年に国立銀行条例に基づいて開設された153の国立銀行のひとつで、他に5行(四、十六、十八、七十七、百五)当時の名前で営業。見たことあるようないような。114_338x450
東京駅八重洲口からのびている中央分離帯に、オランダ人航海士ヤン・ヨーステンの碑がある。450x338_2
京橋辺りに来ると「江戸歌舞伎発祥の地」「京橋大根河岸青物市場跡の碑」がある。450x338_3
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銀座発祥の地碑や銀座の柳の碑(ちなみに今の柳は2代目)等を通り過ぎると新橋のお馴染みの「芝大明神」や「増上寺」に至る。もうここで早めの昼食はお寿司。雨が止む。
芝大明神には昔この辺りは生姜畑が多かったということで生姜塚がある。338x450_2
増上寺では今回は山門横の「グラント松」を知る。米国第18代大統領グラント将軍は明治12年、国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し、記念としてこの松を植えたとのこと。450x338_4
こちらは41代大統領パパブッシュが副大統領として昭和57年、来日の時、増上寺訪問の際のお手植えの「ブッシュ槇」のコウヤマキ。338x450_3

田町に入ると、田町薩摩邸跡があって、ここが江戸無血開城の「西郷・勝会見の地」碑がある。450x338_5
                     シマトネリコ450x338_6
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                      東京タワー338x450_4
三田の「元和キリシタン遺跡」 徳川家光が1623年、50人のキリシタンを処刑したという。450x338_8
この日はどこの神社にも茅の輪があって、我々は御田八幡神社にてくぐり、心身清浄を祈願する。338x450_5

高輪大木戸跡 朝6時に開いたという大木戸跡に到着。昼食をはさみあちこち寄り道があったので、すでに2時間どころか3時間40分位経っていた。450x338_9
四十七士の墓であまりにも有名な泉岳寺 最近ここを見ているのでさすがに覚えている。2年前には赤穂城も見てきた。
                  お寺と大石内蔵助の墓450x338_10
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高輪大木戸から品川宿まで東海道の東側は石垣の海岸だった
                  高輪海岸石垣の跡450x338_11
品川駅ロータリーの品川駅創業記念碑 (明治5年の時刻表と運賃が裏に刻み込まれている)338x450_7
(2)は品川宿から大森まで京急線に沿って歩いた記録を。つづく

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2017年6月26日 (月)

東海道五十三次歩き5 由比~江尻(清水)(3)

興津の宿も終わると、向こうの山の上に清見寺(せいけんじ)が見える。
入口の門を入ってから跨線橋で線路を渡って、総門をくぐる立派なお寺である。450x338
由緒ある名刹で、足利尊氏、今川氏、徳川家康が手厚い援助をした。家康は朝鮮や琉球からの通信使を清見寺で丁重にもてなした。その接待は瀬戸内海の島でも見たことがある。450x338_2
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                                                 本堂450x338_5
五百羅漢 天明年間の作者不詳の五百羅漢を見ていると楽しい。島崎藤村の『桜の実の熟する時』の最後の場面にこの五百羅漢の話が出てくるそうで、読んだのに何も覚えていません。
薩埵峠と共に今回のハイライトなのです。450x338_6
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線路を挟んで斜め向かいの、西園寺公望公別邸「興津坐漁荘」へ。
公望が大正8年興津清見寺町に建てた別荘で、現在は明治村に移築されている。明治村で見たことを思い出したが、ただただ竹が多く使われていたことが印象に残っている。
ここにある現在の建物は忠実に復元されたもので、明治村と全く同じ様に見ることが出来た。
広い屋敷で竹がふんだんに至る所に使われ竹の中に鉄骨が入っていて侵入できないようになっていたりして、優れた職人の技を垣間見ることが出来る。
ここで家系図を貰ったのだが、生家も、養子先の西園寺家もその祖先は藤原鎌足である。
松方公の死後、最後の元老(天皇の諮問に応える強力な発言権を持つ重臣)。先の水口屋もここ坐漁荘も無料でボランティアガイドの説明も受けられる。450x338_12
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                              鶯張りの廊下がキュッキュッと良く鳴る事450x338_14
                                           ナツツバキ450x338_18

                                     静岡市清水区の消火栓450x338_16
    井上馨の座像が清見潟公園内あった。旧廷がこの辺りにあったらしい。450x338_17
                         延命地蔵尊を覗いてみると立派な中であった450x338_19
東光寺
青面金剛童子は単なる石であった450x338_20
鑑真和上将来の中国菩提樹(太宰府戒壇院より)。とても良い香りの花だ。Wikipediaによれば栄西が中国よりもたらしたと書かれるシナノキ科。インド菩提樹はクワ科、欧州菩提樹はセイヨウシナノキ。2_450x338
旧東海道の松並木に311本あったというが今は2本残ると書いてあったが、1本になっていた。松って年数が経っても余り太くならないですね。338x450_4
                                                 馬頭観音338x450_5
分岐点の細井の松。ここも細井の松原が続いていたという。昭和19年、航空燃料の原料として松根油採取のために伐採されたそうで、その時行き倒れた人の人骨が多量出土したそうだ。338x450_6
清水駅のちょっと手前が江尻宿の東木戸跡だが見つからなかった。

          駅前ロータリーの東照宮記念塔。久能山東照宮まで11㎞とのこと。338x450_7
例によって地元まで帰り、「北海道」で海鮮サラダやズワイガニ入りチーズフォンジュ、いくらおにぎりなどを食べて9時半帰宅。

この日の大失敗:時計を20分過ぎと20分前と間違えて40分遅くなったので目覚ましが鳴ってから5分で家を出、駅までマラソンして起きてから15分で到着したこと。おかげで近頃なかった筋肉痛に3日間くらいさいなまれた。時計さえもセットを間違えるようになってチョイボケがひどくなり悲しい。まだこだまだからいいけれども、指定席のひかりやのぞみになったらアウトね。

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2017年6月25日 (日)

東海道五十三次歩き5 由比~江尻(清水)(2)

17番目の宿・興津宿へ向かう。興津の地名は、オキツヒメ女神説や奥津、つまり湾の奥に位置する津(港)、平安末期から興津一族が収めていたから等の説がある。東本陣、西本陣、脇本陣、旅籠24軒の宿場であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。

峠を降りると、スモークツリーやアジサイの花が咲き蝶が舞う、のどかな道を歩き興津川に出る。338x450_6
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興津川は東海地方の鮎釣りのメッカで、東日本のトップを切って解禁されるそうだ。

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                                    昭和20年の水難者の供養塔338x450_2
少し行くと「女体の森 宗像神社」という変な名前の神社がある。女体とは祭神がオキツヒメ女神である説、霧に覆われた神社の森が海上の漁師に女体に見えた説がある。450x377
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                                          身延道入口
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少し入った所に「ずんどう焼き」の店がある。この辺りは菓子屋が多く、興津が、私の大好きな餡子、製餡業発祥の地とも言われ、この後たくさん見かけた。一方ここには昼食を食べる店が一軒も見当たらず、ずんどう焼き屋で昼食にする。後で持ってきた野菜や果物を公園で食べる。
ずんどう焼きは回転焼きと同じようで、6種類、ツナ、キムチ、クリーム、おぐら、茶おぐら、ウグイスで半分ずつ食べました。ツナ、キムチが意外や美味しい。
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一里塚塚跡の石柱、日本橋から41里目を過ぎると興津駅だ。興津地場産品産業が書いてあった。
お菓子の他、興津鯛、花の栽培、醤油、紙布製品、そして主力産業が木ネジだそうだ。450x338_6

理源寺 宿場はここ辺りから名刹清見寺の手前まで。
ここには目の不自由な人々のために尽くした眼の神様「意眼さん」が祀られている。338x450_3
門前には「東海道行路病死 無縁各霊供養塔」がある。過酷な旅だから行き倒れも多かったのでしょうね。338x450_4
                  線路を渡って耀海寺450x338_7
耀海寺 1510年創建。日蓮宗総本山久遠寺の直末寺で、天皇家、徳川家とも関係が深い。450x338_8
境内にある元身延道入口にあった身延道の道標がある。大火で折れて上部のみがこの寺にあったが、下部も発見されてつながれたという。338x450_5

脇本陣水口屋跡  明治以降は旅館として、西園寺公望や伊藤博文をはじめ、昭和天皇皇后両陛下も宿泊された。しかし昭和60年に400年の幕を閉じたが、平成11年に水口屋ギャラリーが開館し、説明付きで所蔵品を見ることが出来た。450x338_9
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波切不動院 眺望がよく、行基菩薩が造ったとされる不動明王が祀られている。
上って行く途中の階段に鳥が。先日見たイソヒヨドリの雌のようだ。450x428
                    清水港が見えた450x338_11
             ズームすると向こうに美保の松原が見えた450x338_12

                        つづく

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2017年6月20日 (火)

東海道五十三次歩き5 由比~江尻(清水)(1)

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6/14 この日は待ちに待った薩埵峠です。週間天気予報ではずっと曇りの予報が、前日から晴れマークが入っていつもの7時前の新幹線に乗り、三島から東海道線に乗り由比へ。沼津で乗り換えたりしていて由比には8時45分頃に到着。
東海道線は由比駅~興津駅~清水駅間を歩く。約34000歩、17km。

由比駅前の由比桜えび通りのアーチにさよならし、歩きはじめるとツバメがたくさん飛び交っていて家々の軒を覗きながら進む。由比と薩埵峠は桜えびと初夏はツバメ、枇杷の町としてしっかり刻み込まれました。450x338
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前回寄った小池邸の斜め前の明かりの博物館を通り過ぎ、いよいよ薩埵峠へと向かう。だんだん上り坂になる。450x338_13
この間も枇杷畑が多かったが、薩埵峠全体が枇杷農家が多く、各家では枇杷が売られている。9つ入って300円のを買って峠に登った時に食べた。ジューシィで美味しい。450x338_2
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ここで鞍佐里(くらさり)神社に登って、小田原で見えて、三島では見えなかった富士山が見えるかを確かめてみる。見えました!450x338_4
この辺りが間宿(あいのしゅく)・西倉沢となり、川島本陣跡、その隣に明治天皇が休息された柏屋があり、続きに脇本陣の望嶽亭藤屋がある。『歩いて旅する東海道』によれば、官軍に追われた山岡鉄舟が望嶽亭の主人に海岸へ逃してもらったというエピソードが残っているとのことだ。
           望嶽亭藤屋は室町時代から続く、現代24代目。450x338_5

一里塚跡からいよいよ峠に向かって登り始める。振り返ると富士山に少し雲が増えてきた。薩埵山は標高244m、薩埵峠は標高200mだ。338x450
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広重の絵に描かれた位置辺りにやって来た。昔山際が海岸線間近に迫っている道の難所だった。
広重の絵の海岸辺りには今は海岸から東名高速、国道1号、JR東海道線がくっついて走っているのが見える。富士山とカーブを描いた駿河湾が絶景である!253x450
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広重の絵では砂浜はなく、急な崖になっているが、安政元年の地震で隆起したそうで、以降、通れるようになったそうだ。

薩埵山は地形上、歴史的合戦の地で、足利尊氏、武田信玄と今川氏や信玄と北条氏などとの合戦があった。

枇杷や蜜柑の収穫用のトロッコが所々に見える。芥川龍之介の短編『トロッコ』を思い出す。450x338_8

面白い花を見ながら枇杷を食べ、名残惜しく富士山と分かれ峠を降りる。チリアヤメと教えていただきました。Oさんいつもありがとうございます。450x338_9
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            海岸を見下ろしたら赤潮らしきものが見えた450x338_11
           峠の最後、往還坂を降りるとそこは墓地であった450x338_12
                       つづく

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2017年5月30日 (火)

東海道五十三次歩き4 蒲原~由比(2)

由比宿へ
                枡形になっている東木戸の手前に地蔵堂と一里塚跡がある450x338
妻籠や馬籠で覚えたが、宿の出入り口では枡形にして攻撃に備えているという説明板があって、蒲原と同様である。

見学は後にして本陣公園の斜め前にある「おもしろ宿場館」で昼食に。
娘が去年来たときは入口に弥次さん、喜多さんがいたそうだが、今年は弥次さんだけ。338x450
赤富士丼。生桜えびのまわりに揚げ桜えびがたくさんのっている。新鮮な桜えびが美味しく先日来の桜えび攻勢に10年分食べた感じだ。450x338_2
                      2階の食事席から薩埵峠がもうすぐそこに見える2_450x338
慈徳寺の女子厄除石段は女子は登るべしということで、何故なのか書いてないけれども、一応登ってみた。厄除けがあったような、ないような。450x338_3
本陣家跡を整備した由比本陣公園 由比宿は東海道の中でも小宿の1つで、ここ1軒だけが本陣であった。
園内には東海道広重美術館、明治天皇が休憩された御幸亭、庭園(松榧園)、物見櫓などがある。450x338_4
広重美術館では「浮世絵と広告」展が開かれていて、江戸時代では浮世絵が商業的なメディアとして扱われ、商品の宣伝に使われたという展示がなされていた。
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                                       御幸亭、松榧園450x338_6
木塀の外には水路があって、馬の水飲み場跡だが、今は亀がたくさん甲羅を干したり泳いでいる。
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正雪紺屋 討幕を企てた慶安事件(1651年)の首謀者、由比正雪の生家とされる。計画は直前に発覚し頓挫、正雪は駿府城の近くで自刃した。450x338_8
                             脇本陣饂飩屋(3軒あったうちの一つ)450x338_9
江戸時代文書の送達は飛脚便で行われ飛脚屋と呼ばれていたのが → 明治の郵便局舎(平野氏宅)450x338_10
本陣の隣の正法寺には由比の語源が書いてある碑があった。ユヒは労働生産で使われた言葉、元結、結納のユヒで組合、共同、交換の意味であり、農業や漁業の仲間同士の労働的な常套語であったと碑に記されている。338x450_3
由比紺屋の先に清水銀行がある。国登録有形文化財で現役の銀行。正面に4本のイオニア式の柱頭を飾る柱がある昭和初期の建造物。この辺りがもう西木戸跡だ。薩埵峠まで4.9kmとあった。338x450_4

由比川 手前の由比川橋の所には常夜灯があり、鉄道寄りには入上地蔵堂がある。一番海側に東名高速、次が国道1号、手前がJR東海道線。450x338_11
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ツナ缶いなば食品を過ぎると石像の楽しい桃源寺へ。
                        山門脇の双体道祖神は男女手を繋いでいる450x338_13
        羅漢さんやあちらこちらに。観音様も並んでいる。
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               裏手の地持院には「みまもり地蔵」338x450_6
隣の豊積神社は797年、坂上田村麻呂が奥州の蝦夷征伐へ行く際にここで戦勝を祈願し、帰途神楽を奉納したとあった。450x338_18
左側に由比漁港を見ながら、左側の神社の階段にイソヒヨドリを見た(娘に教えてもらう)。全国の海岸にいるそうだ。その後キセキレイも。
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              由比駅を過ぎると、枇杷畑が広がる。450x338_19
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日本橋から160㎞地点の「小池邸」でこの日の見学は終わり、由比駅へ。
小池邸は明治時代の建物で国登録有形文化財で代々の名主。海鼠壁が残っている。450x338_21
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この日は前回より早く帰れたが、やはり庄やにて乾杯。お通しは生しらすで、谷中生姜、静岡おでん、煮穴子の炙り焼きなどでお腹を満たした。

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2017年5月27日 (土)

東海道五十三次歩き4 蒲原~由比(1)

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5/17 蒲原の途中から16番目の宿、由比までです。JRは新蒲原~蒲原~由比。宿はたった1区間ですが、御殿山登山をしたのと、由比では静岡市東海道広重美術館でゆっくりしたためでした。29677歩、14.1㎞。
前回の最後の方に歩いた中宿・岩淵とそこから蒲原~由比が静岡県でただ一つ、江戸時代の建物や風情を残して、国土交通省の歴史国道に選定されているそうなのだ。

またまた早いこだまに乗れたので、8時35分頃から歩き出せた。
新蒲原駅からすぐ裏山の御殿山と続きの蒲原城(行かなかった)は桜の名所で花の咲く頃はさぞかし人で賑わうことでしょう。今は私たちだけ。徳川家康が甲斐の武田と戦った織田信長を接待するために建てた御殿があった。

八坂神社の所から御殿山(標高146m)ハイキング開始
途中蒲原野仏の会の人が造った野仏が迎えてくれる
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                                ホタルブクロがひっそりと咲いている

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                                    吊橋と頂上展望台
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                   さくらえびが干してあるのか、はるかかなたに見えた。450x266
                薩埵峠が木の隙間から見えた450x338_8

再び街道に降りて元歯科医院の「旧五十嵐邸」を見学。明治大正昭和の造りからなり、町屋を洋風に増改築した擬洋風建築で、外観が洋風、内観は和風の国登録有形文化財。無料。ボランティアさんから説明を受ける。450x338_9
          木で出来ている蓄音機や黒電話の電話室があった338x450
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                 欄間が広重の近江八景450x338_11
    蔵が2つもある。手前が井戸で2階の診療室まで組み上げていた。450x338_12
             きらびやかな襖絵の裏は墨絵の襖絵450x338_13
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                      診療台450x338_15

            斜め向かいの、国登録有形文化財の「志田邸」450x338_16
美                しい格子戸の「増田家」338x450_2
           ここで蒲原の西木戸跡になり、由比へと進む。338x450_3
進むに連れ、秋葉山入口道標を右に入ると貞心寺だ。塗装工事殉教者供養碑がありその説明で珍しい碑であることがわかる。
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左手には蒲原駅が見え、右手にとても厚い揚げが2枚も重ねて置いてある稲荷社がユーモラス。450x338_18

神沢川を渡って、神沢酒造で広重の薩埵峠のラベルがついているワンカップを買う。お店の82歳のおばあさん、東京から嫁いで60年とか、元気で店を切り盛りしている。
(由比宿へつづく)

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2017年5月18日 (木)

東海道五十三次歩き3 元吉原~~蒲原(2)

吉原宿が移動したため、元・中・新吉原と3つを巡り、吉原と蒲原の間に2つある間宿の一つ目、本市場を通り過ぎたところでした。

札の辻跡は高札場の跡 富士市ではずっとこのような標柱が立っていた。宿の東側(江戸方面側)には東木戸跡、宿の終わり西側には西木戸跡の表示があって、宿の始まりと終わりが分かる。右の写真は少し前に歩いた新吉原の東木戸跡の標柱。
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色々な道祖神が現れる 双体道祖神       道祖神
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          富士駅から身延線の一つ目の駅・柚木駅をくぐる450x338_4
               富士川の手前に水神社がある450x338_5
富士川渡船場の手前で、人々はここ水神社で安全を祈った。またここは富士登山道の起点でもあり、「富士山道」の道標がある。450x338_6
                    富士川橋に出る 450x338_7
                  富士川橋からの富士山 450x338_8
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角倉了以紀功碑 が富士山と富士川を見て建っている
京都の豪商、角倉了以(1554~1614)・素庵(1571~1632)の父子は、幕府から富士川の開鑿を命じられた。その水路は、ここから71㎞も遡る長さ。岩渕(淵)河岸(現在地付近)から鰍沢(かじかざわ)河岸(山梨県富士川町)の間約18里(71km)で、大変な難工事の末、完成した。これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たした。ここ岩淵河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄した。この紀功碑が建立されたのは昭和12年だった。450x338_9

ここからが2番目の間宿の岩淵だ

東海道ではわずか二軒しか現存しない小休本陣の常磐家がある450x338_10
              岩淵から身延山への道が通っている338x450_3
この日歩いた道の両側の民家は庭も広く、玄関先や庭が美し花で飾られ、癒される旅でもあった。
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             岩淵のこの一里塚は日本橋から37里目338x450_5
旧稲葉家(現富士川民族資料館)は、富士市内で現存する最古の民家(18世紀中頃)450x338_14
この辺りの名物、栗の粉をまぶした栗の粉餅は途絶えていたが、ツル家菓子店で再現されたということで、買って食べてみた。餡子が入り、栗の粉ががまぶしてあり美味しかった。350x257
新幹線をくぐり坂を登ると静岡市に入り、高速道路を跨ぐ橋から富士山が見えた。金網越しで見えにくいが。450x338_15

いよいよ蒲原宿へ

おぉ、蛇が。東木戸に入る前に北条新三郎(蒲原城最後城主)の墓に行こうとしたがやめた。380x285
前回と違って今回は夜の道を照らした、たくさんの常夜灯を見て写真に撮った。その一部です。
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蒲原宿に入るとすぐ4本の太い鉄管が山から海へ伸びている。富士川の上流で水を取り入れ、日本軽金属の工場用の電力を発電している。338x450_10
「蒲原夜之雪」記念碑 広重の東海道五十三次シリーズの最高傑作といわれ、昭和35年の国際文通週間の記念切手になったことを記念して、絵が描かれた場所にほど近いこの地に記念碑が立てられたそうだ。この辺りの方に伺うと、蒲原でも冬には雪が降ったことがあるそうだ。338x450_11
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旅籠「泉屋」 天保年間の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。2階の櫛形の手すりが面白い。450x338_16
        本陣跡 門、玄関、上段の間があることが旅籠と異なる。450x338_17

とまあ、まだ蒲原宿が途中であったが日が暮れてきたので帰路に着き、前回と同じ時間のこだまに乗り、最寄駅でこの間味しめた「庄や」で乾杯と相なりました。(完)

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2017年5月14日 (日)

東海道五十三次歩き3 元吉原~~蒲原(1)

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5/11、 14の宿・吉原から15の宿・蒲原の途中まで歩き、新蒲原の駅に出ました。
前回の吉原駅に1台早いこだまに乗ったので8時半頃到着して歩き始めました。JRの駅は吉原駅・富士駅・富士川駅・新蒲原駅まで。下記の理由で線路に並行してはいませんでした。

東海道散歩は何と言っても歴史散歩と景色鑑賞散歩ですが、今回は道祖神、常夜灯をかなり見てその鑑賞の旅ともなりました。
目下、私が街道歩きを何でしているか?は認知症になって迷惑をかけないようにするためが目的の一つ。果して効き目があるかどうかはわからないが、そう信じ切ってでのことです。

吉原宿は3度大きく場所を変えた。鎌倉時代以来の吉原宿はJR吉原駅あたりからの田子の浦港を望む地にあり、現在、元吉原宿と呼ばれる。ところが度重なる津波被害で1639年から北へ約2㎞の地へ移転した(中吉原)。さらに41年後の1680年、高潮で宿が壊滅したため、現在の富士市中心部に移った(新吉原)。

元吉原を見た後、北の中吉原に向かうため、ほんの少し左富士が見られるというわけだ。その後大きく西へ、途中から蒲原へ弧を描くように回るため、そして最初は地理的に、途中で道を間違えて後戻りしたため、あるいはあちこち寄り道したりで、隣の蒲原宿まで時間がかなりかかった。約44500歩、22㎞くらいでした。
途中、間宿(あいのじゅく)が2ヵ所、本市場(富士)と岩淵(富士川を渡ってから)がある。

                     吉原駅前450x338
富士山と井戸の絵が描かれたマンホール 木之元神社にあった六角井戸は富士山の雪解け水で、これをお水取りに使っている。400x323
田子の浦港に面した港の見える公園に向かうと、見附跡や問屋場跡があって元吉原宿があった証だ。338x450
ここには阿字神社と奥宮があって生贄の娘お阿字が祀られている。前回の東田子の浦駅近くの六王子神社にはお阿字の死を悲しんで身を投げた6人の娘が祀られていた。338x450_2
田子の浦港 砂浜だった田子の浦は今は工業港で、以前製紙工場から流れ出るヘドロ公害で問題になったが、今は特産品のしらすが水揚げされるほどだ。
対岸に山部赤人の「田子の浦ゆ うち出でてみればま白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」の歌碑があるそうだ。450x135
いよいよ北に向かって、左富士を見る。左富士は道中、ここと茅ヶ崎の馬入川の所だけ。450x338_2
                      広重の絵600x4501
 左富士が見える近辺が昔の中吉原宿の跡で地上には何も残っていない 600x450
                     馬頭観音450x338_10
平家越の碑 1180年、この付近に陣を張った平家の軍勢が、近くの沼から水鳥が飛び立つ羽音を源氏の夜襲と勘違いして敗走した伝承の地。450x338_3
岳南電車に出会えた。吉原駅と岳南江尾駅(東田子の浦の北の方)を結ぶ小規模な単線。車両は1両編成だったような。450x338_4
       ここから新吉原となり、長い商店街がはるか向こうまで続く。338x450_3
新吉原の名残の鯛屋旅館 1682年、宿形成年の創業で清水次郎長の定宿だった。今も泊まれる。東海道歩きの人には、出発の時に火打ち石を打って送り出してくれるとか。450x269
               鯱のある珍しいお寺 大運寺450x338_5
「ゆず庵」にて昼食。今回も桜えびが寿司、うどん、コロッケ、ドレッシングなどふんだんに使われていて、とても美味しい。450x338_6
民家の塀にあったユーモラスな「袂の賽神」という道祖神で、村の入口の守護神。450x338_7
             この辺りから最初の間宿の本市場だ 600x450_2
富士山型のかつらをかぶったようなかわいらしい道祖神(疱瘡稲荷神社内)338x450_4
                    旧東海道の碑338x450_5
         アーケードのずっと奥がJR富士駅(身延線が出ている)450x338_8
                      (つづく)

            ・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・・。・。・

家のタツナミソウが増えて満開に(5/9)。北斎の「神奈川沖浪裏」ほどではないにしても白く砕けようとする波を眺めている感じです。
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2017年5月 2日 (火)

東海道五十三次歩き2 沼津~原~元吉原(3)

様々な表情やしぐさの羅漢像がある大通寺450x338
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海岸は千本松原が延々と続き、平行して旧東海道とJR東海道線が走り、その北は江戸時代初期湿地帯(浮島沼)だった。そのため、干拓をして新田が出来たり(植田三十郎)、放水路を造ったり(増田平四郎)、天文掘排水路を造った高橋勇吉らの碑が点在する。
 
                    植田三十郎の墓338x450

富士市に入ると山ノ神古墳が線路の向こうに見える。標高5mで古墳の上に神社が見える。6世紀末から7世紀初頭のスルガのクニの王墓だ。埴輪も出土している。450x338_5
              柏原宿の標柱(原宿と吉原宿の間の宿)338x450_2
東田子の浦駅手前にある六王子神社。7人の巫女が大蛇の生贄の対象になったとき、若い「おあじ」が選ばれた。仲間の6人は悲しみのあまり浮島沼に身を投げてしまい、この神社に亡骸が祀られている。450x338_6
東田子の浦駅は富士山と愛鷹山が描かれている小さな駅だ。さあ、あと吉原駅まで一駅だ。450x338_7
立圓寺 真ん中の三角錐の碑が「望嶽の碑」で、尾張藩の藩医柴田影浩がここからの富士山を眺めて「願わくはお前(富士)の下で死にたいが、思うに任せない」と髪の毛を切って埋めたと言う記念碑。午後4時半なので富士山も霞んでいるが後ろに見えている。
その右に見える茶色の錨は1979年、台風20号で柏原海岸の打ち上げられたゲラティック号のものでその隣に二人の船員の慰霊碑もある。450x338_8
              ↑の増田平四郎の像と昭和放水路450x338_9
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                 この日初めて見つけた一里塚跡338x450_3
           この辺りになると富士山のすそ野が広がってきた450x338_11
仁藤春耕の道しるべ第一号。富士山裾野一周の時(御殿場に至る十里木街道)でも見た記憶があり、自費で120基を建てたもの。450x338_2_2
庚申堂 庚申塚や庚申塔はどこにもありますね(私も体内にいるという三尸虫に悪事を天帝に報告に行かれて70数年、庚申信仰を知らなかった故でありますがいろいろな病で災難が降りかかってきていると考えたりするこの頃です)。450x338_12
                ↑の高橋勇吉の天文堀顕彰碑338x450_4
極彩色の龍の建物が目を引く、毘沙門天妙法寺。ここは高崎、深大寺と並ぶだるま市が有名だそうだ。約1200年前、山伏が富士登山する禊ぎを寺裏の海岸で行った道場がこの寺の起源という。境内にある、お詣りすると足の痛みがとれる「くつ石」が見つからなかった。450x338_13
愛鷹神社に登ると目の前に日本製紙の工場と富士山のコラボがなかなか絵になっています。タンクが錆びていて休業したのかと思ってしまう工場ですが白煙がまだ上がっていました。450x338_14
すぐそこに吉原駅があり三島へ、午後6時23分のこだまに乗り最寄駅に着いてから8時半頃に五目あんかけそばにありつけました。(完)

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