2025年2月 6日 (木)

青梅街道4 花小金井~小川宿~桜街道(2)

今回は小平市を歩いていてその続きです。
小平市の別のマンホール。市の木ケヤキと小平市の街並みがデザインされている。
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小平市の中心あたりから昔は小川村が広がっていた。そこには小川用水が流れる。西武国分寺線に小川駅があるわけが今頃分かりました。
明暦2年(1656)に小川村開発にあたった名主小川九郎兵衛により開削され、明治時代まで飲料水として利用されていた。またここに馬継場があったので発展した。

熊野宮には夫婦ケヤキや、その後ろに3代目孫ケヤキがあるが、旅人の目印になったそうだ。
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少し進むと、面白い建物が見えてきた。
なかまちテラス(図書館)で北斎美術館を設計した妹島和世の設計なので、外観もちょっと似ているような感じがする。
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平安院。元文4年(1739)、小川新田(仲町)に移住した農民の菩提寺として建立されたもの。
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山門前の笠付庚申塔。享保2年(1717)造立。300年以上も前のものとは思われないほど状態が良い。
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立派な槙のある庭で、奥が本堂。
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西武多摩湖線の踏切を通り過ぎるとすぐに次はこのあたりでは地下にもぐっている武蔵野線の新小平駅がある。
青梅街道は鎌倉街道と交差し、続いて府中道と交差。さらに来るとき乗ってきた西武国分寺線の踏切を通り過ぎると小川宿の中宿に入ってくる。名主の小川家の現在の家もあった。

さらに進むと、仁王門が見えてきた。
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小川寺(しょうせんじ)である。小川村開村と同時に小川九郎兵衛が開基したお寺である。
久しぶりに「舟形浮彫り別石六地蔵」
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角形四地蔵
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本堂
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ご本尊は薬師如来様
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薬持観音
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千手観音
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よく手入れされた庭が続く
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本堂の裏には逃げ水の里庭園がある。
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三十三観音
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山茶花がきれい
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出口近くに大きな獅子柚子が十数個なっていた。
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立派な、しかもいろいろあって楽しいお寺拝見になった。

斜め向かいにあるのが小平神明宮。寛文元年(1661)に名主・農民などの協力のもとに建立されたもの。阿豆佐味天神社の摂社であった神明社を遷座。
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鳥居をくぐったところに、小川用水が流れている。どこかの街道にもこんなことがあったが思い出せない。
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拝殿。文政年間(1818~30)の建立。
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ボケボケだけれどキセキレイに会えて嬉しい。
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小平上宿交差点で竹内家の大ケヤキを見る。樹齢300年以上で樹高35m、枝張り面積400平方メートルもあるそうだ。
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ここで(先週も買った人参だけれど)今日は大きい3本が150円と100円のほうれん草を購入。小平の人参はとても美味しい。昔の味がする。

街道に戻ってしばらくすると、度々来る東京都薬用植物園(小平市)の前に出た。
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すぐそこは小川駅から一駅の西武拝島線の東大和市駅だ。
明暦元年(1655)野火止用水が完成すると、青梅橋が架けられたのでその名が残っているのだが、昭和38年に暗渠となったと説明版にあった。
ここで東大和市に入って桜街道を歩いていると、東大和市のマンホールを発見。村山貯水池の取水塔と市の花ツツジのデザイン。
(かつて、旧青梅街道は江戸街道と呼ばれ桜並木だったが、昭和20年の空襲で壊滅状態に。東大和市で桜並木を復活させるため桜を植え、桜街道という名前にしたそうだ)
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桜街道に入ってからは特に見所はなくひたすら進み、この日のゴールのモノレールの桜街道駅に到着。
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ここからモノレールの一駅を歩いて、西武線の玉川上水駅(場所はモノレールの玉川上水駅と同じ場所)より帰る。
帰宅は5時半前だった。約25300歩でした。

 

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2025年2月 1日 (土)

青梅街道4 花小金井~小川宿~桜街道(1)

1/24の4回目は家から西武線で近くなので12時半前に花小金井をスタートできた。今回は見どころが多く街道歩きの醍醐味でもあります。しかし次回は何もないとのことで歩く練習になってそれだけでも由です。

小川用水に棲むヤマメをデザインした小平市のマンホール。
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こうしたお地蔵様を今回、お堂ではたくさん見てきた。生花が絶えなく飾られているようなところが多く、今でも地蔵信仰の篤さを感じる。文化5年(1808)のだそうだ。
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別の小平市のマンホール。市の木ケヤキと市の花ツツジの周りに「KODAIRA 雨水の道 小平」の文字と 市の鳥コゲラを描き、外周には十二支と東京都のシンボルマークのイチョウが描かれている。
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武蔵野神社到着。参道が長い。野中新田開発の際の一角に、駅そばの前回最後に寄った円成院から分離した末社の猿田彦大神を祭祀した神社。
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珍しい七福神。
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猿田彦大神。鼻が大きくや腕の太い神様だ。
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西武新宿線を渡ると、右手に整備された小平ふるさと村がある。江戸初期から明治時代以降の近代の建物を復元した施設だそうだ。
1軒1軒に丁寧な説明のチラシが置いてあって昔のこのあたりの様子を詳しく知ることが出来る。

まず旧小平小川郵便局舎。明治41年築で赤い屋根の二ヶ所に〒マークがあるのが印象的。手前に丸ポスト。この後も丸ポストばかり見るが、小平市には30以上も残っているそうだ。中には金庫も見え、横に回ると自宅の部屋が残されていた。
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消防小屋。昭和3年製作の手動ポンプ車などが展示されている。
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旧神山家住宅主屋。
江戸後期に小金井から廻り田新田に移築されたもの。間取り形式は喰違い四ツ間型。
ここには、台所、馬屋、お勝手、お座敷には各種道具や婚礼衣装など今までの街道歩きで見たような展示がされていた。
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こんな井戸も見たことあります。
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水車
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水車小屋の中。木造平屋建切妻杉皮葺で、循環式で水量毎秒10リットル。天明8年(1788年)には、玉川上水の分水にかかる水車は33か所もあったそうだ。
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粗末な開拓住居を見た後、こちらは旧小川家住宅玄関棟。
小川家は幕末までの200年間、小川村の名主を代々務めた家で、この玄関も控えの間があり主家と渡り廊下で繋がっている格式の高い造りになっている。
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最後のやはり藁ぶき屋根の旧鈴木住宅の穀櫃を見て、出たところで青木屋の草餅をご馳走になって出発。

その先に延命寺というお寺が現れた。
享保年間の野中新田開発に際して入村した者たちの願いにより、野中善左衛門が開基となり享保18年(1733)この地に引寺したお寺。
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門前に嘉永3年(1850)の珍しい青面金剛庚申塔があった。
写真ではよく見えないが、青面金剛も笑っているような表情で、三猿が狩衣を身につけて、烏帽子をかぶり、一匹は左手に扇を持ち右手で口をふさぎ、一匹は左手に鈴を持ち右手の扇で顔をおおい、一匹は左手にご幣をかつぎ右手で耳をふさいで三番叟を踊っている。
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本堂の他、お地蔵様、六地蔵や、鐘楼、観音堂、境内にある多摩野神社もある。
かわいらしいお地蔵様。
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本堂。
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古い正徳2年(1712)の石灯籠も残っている。
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神社の鳥居の手前にジュウガツザクラが咲いていた。
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(続く)

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2025年1月27日 (月)

青梅街道3 上石神井~田無宿~花小金井

上石神井駅到着12時半、45分に街道に出てスタート。(もう2週間前の1月14日のことです)
青梅街道には街道の説明(江戸城の壁材である石灰を運ぶ道として開かれた)と道しるべの石碑がところどころに立っていた。
このあたりから、古の人々が掘った用水、上水があちらこちらに見られるようになる。
多摩川上水から分岐した千川上水。
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お地蔵さんが多い青梅街道であるが、「関のかんかん地蔵」なるものがあり石で叩けば願いが叶うとのことで叩かれた石の部分が細くなって修繕されていた。願い事の多い私は「お願いします」と街道歩きの時によく神頼みする。
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下野谷遺跡(平成27年国史跡に指定)に寄る。
この遺跡は石神井川沿いの縄文時代中期の環状集落。今は公園としてきれいに整備されている。
竪穴式住居跡(復元)。
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ぼこぼこしているのはお墓だそうだ。ここで大きめの塩大福をご馳走になって前進。
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西東京市(田無と保谷が統合された)に入ると真っ赤な大きな鳥居が。
昭和4年、伏見稲荷大神の分霊を奉迎して創建された東伏見稲荷神社だ。
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京都とは比較にならないが結構たくさんの鳥居が並ぶ。
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拝殿には澤乃井のお酒がたくさん奉納されている。青梅から近いからでしょう。
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拝殿裏の境内社は20も並んでいてそれぞれに丁寧にお参りしている若者あり。
初めて知るのがいくつか
佐田彦大神(方針決定の守護神)
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田中大神(権太夫。勧善懲悪を司る神)

旧保谷市マンホールで、市の花サザンカと市の鳥シジュウカラがデザインされている。
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先ほどから大きな石柱の庚申塔や弘法大師供養塔をいくつか見てきたが、これは六角地蔵石幢である。「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養したのだそうだ。
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柳沢(やぎさわ)庚申塔があった。道標を兼ねた庚申塔である。享保8年(1723)の建立。型式は、梵字、ニ鶏、三猿、青面金剛、邪鬼が揃えられた角柱塔である。「是より左ハあうめみち 是より右ハはんのふみち」と書かれている。
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その先の交差点が青梅街道(左)と秩父道との追分でここから田無宿だ。

すぐに田無神社がある。初詣客で賑わっている。
式台構えの玄関である国登録有形文化財の参集殿を左に見、石神井川に流れていた田無用水のあとを見、拝殿に至る。
彫刻は立派であるが、内部の本殿は天才彫刻師の島村俊表が手がけたそうだが、見ることはできない。
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茅の輪か
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神社には5つの龍がいる。黒龍、青龍、撫龍、白龍、赤龍。
これは楠木正成像で奥が青龍。正成の子孫が保谷に移り住んだそうだ。
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「田無神社と五木寛之」という説明板があった。大学に合格後上京していたものの、お金がなかったのでしょう、この神社の床下で暮らしたそうだ。知らなかった。

続いて総持寺に向かう。手前にいろいろな柄の西東京市のマンホール、市の木(ケヤキ)、市の木(金木犀)、市の花(田無ツツジ)、市の木(ハクウンボク)、市の花(沈丁花)。
これはハクウンボク
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総持寺仁王門。仁王像が大きい。裏には広目天と多聞天が。正面が本堂。
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大きなケヤキは、本堂の完成(嘉永3年(1850))を記念して植栽されたものの1本だそうだ。全部入らない。
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妙見堂。安政6年(1859)に制作された田無村名主、下田半兵衛の木像が納められているが見られず。
半兵衛は田無神社を再建し、養老畑を以って老人を助け、現代の福祉行政の先駆といわれる名主だったそうだ。
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水仙が咲いていた。
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お寺の斜め向こうの路地を入ると下田半兵衛の家がある。安政4年(1857)建築で、旧田無市最古の民家。
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反対側に稗倉が現存している。
半兵衛は幕府に願い出て飢饉に備える五百石入りの備蓄庫を自費で建設したもの。現存の稗蔵は文久3年(1863)に建て替えられたもの。
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用水跡は「やすらぎのこみち」や「ふれあいのこみち」になっている。
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ひまわりのマンホールも発見。マンホールの種類が多い市だ。
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コートを着せられて顔も見えないお地蔵様。
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次にあった三猿だけの庚申塔が珍しい。
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小平市に入る。

花小金井駅に向かう途中で最後に円成院に寄る。
開基した矢沢大堅は武州多摩郡上谷保村(現国立市)の出身で宝永2年(1705)10月に黄檗宗に帰依して谷保とこの地にお寺を開いたとのこと。本堂。戸の桟などが凝っている。
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旧本堂(開山堂)。燈籠は天明6年(1786)のもの。
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庚申塔と馬頭観音が2基。
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花小金井駅から西武線を乗り継ぎ、5時半前帰宅。約22400歩。

 

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2024年12月23日 (月)

青梅街道2 東高円寺駅~上石神井駅

2回目は東高円寺の駅から12時45分より歩き始める。このためには昼食は11時からでした。
青梅街道は杉並区を通過中はずっと銀杏並木で、練馬区に入ると欅並木に変わる。一体何本の銀杏が植えられているのであろうか。丁度黄葉がきれいで今年は銀杏を満喫することが出来た。
銀杏の下の燈籠は一対あって、中野駅から妙法寺への参詣者の目印に建立されたそうだ。
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その 堀之内妙法寺(日蓮宗本山)は 「厄除祖師」として有名なので寄った。日蓮上人が法難に遭い伊豆に流されたとき、弟子の日朗上人が霊木に祖師の御影を刻んだものがこの寺に伝わったのが「厄除祖師」、11代将軍家斉、12代将軍家慶が立ち寄って休憩したので有名になったという。

仁王門をくぐり、祖師堂へ。文化8年(1811)建立。ここに祖師が安置されている
内部は金箔で覆われていてなかなかに豪華である。
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彫刻は、北斎が参考にしたと言われる波の伊八のものだそうだ。素晴らしい。
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鉄門。極彩色の鳳凰が上に。ジョサイア・コンドル(河鍋暁斎の弟子・イギリス人)が設計し明治11年建立。重要文化財。
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本堂(三軌堂)。日蓮聖人と釈迦如来が安置されている。
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日朝堂の中には日朝上人像が奉安されている。身延山第11世行学院で日蓮宗の代表的教学者。勉学で眼病を患い、回復後眼病の人々を救おうと大願を立てたという
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廿三夜堂。二十三夜塔は見てきたけれど、お堂は初めてだ。毎月23日に開帳される。
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浄行さま(浄行菩薩)、健康の守護神。これも初めて。
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有吉佐和子の碑。
このお寺の近くに住んでいて、境内を通って帰宅することも多かったそうだ。
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街道に戻る途中に日本橋越後屋の三井家の菩提寺・眞盛寺に寄る。
右が本殿(安永5年(1776))、左奥が客殿。客殿と庫裡は明治26年、細川侯爵邸として建てられたものを譲り受けて移築された。
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お地蔵様をはじめいろいろな石像がある。
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竹林もあり紅葉もきれいであった。
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街道に戻り、少し歩くと新高円寺の駅があり、その前の道を入っていくのが五日市街道で数年前に完歩した。
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街道は荻窪駅へ向かっているが、荻窪駅の手前で藤澤ビルの南側の道へとまわりこむと長屋門がある。
この長屋門は名主中田家のものだったが、藤澤家が取得してビルを建てる際に裏側に移築したのだそうだ。
その前には明治天皇荻窪御小休所の石碑がある。明治16年立ち寄られた。
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街道は地下道を通って北西側へ続き、太陽が左手に見えるようになる。少し進むと青梅街道と環八の交差点「四面道」だ。
昔、秋葉神社があり、この境内に高さ2mほどの常夜燈があった。下荻窪村・上荻窪村・天沼村・下井草村の四か村の境にあるから四面道と呼ばれるようになったという説と、常夜燈が四か村を照らすので四面燈と呼ばれ、それがやがて四面道となったという説があるらしい。
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しばらく歩くと荻窪警察署の斜め前に荻窪八幡神社がある。
寛平年間(889~897)の創建。永承6年(1051)に源頼義が奥州征伐の途中で戦勝祈願し、凱旋の時、神恩に感謝して厚く当社を祀ったと言われる。古いお話です。
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祓門からは神門が見える。くぐるとお祓いになるというので通ってみる。本日の大きな目的だ。
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拝殿
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道灌槙。文明9年(1477)太田道灌が石神井城を攻めるにあたって戦勝祈願した際、植樹したもの。
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ベンチで休憩。おやつは荻窪駅ルミネで買った苺大福。お土産はどら焼き。病人は餅が食べられないので、外に出たときの私のおやつは餅系の大福などを買ってもらう。
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続いて井草八幡宮。鳥居も大きいし境内が広い。元は春日社だったが、源頼朝が奥州遠征の際に戦勝祈願に立ち寄って以来八幡宮となった。
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参道も長く「二の的」という表示がある。流鏑馬が5年に一度行われるのだそうだ。隅田川で一度見たきりなので、鎌倉やここのも見てみたい。
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楼門
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頼朝公御手植の松。
奥州平定に成功した頼朝はお礼として雌雄2本の松を植えた。雌株は明治時代に枯死、雄株も昭和47年強風で折れてしまったそうで、現在のは2代目の松だそうだ。
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こちらが倒れてしまった松の根の一部。
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神門を通って拝殿へ。
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北参道を通って街道へ出るが、大きな燈籠があり、屋根は銅板葺で八畳分の広さがあるそうで驚く。
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その先で練馬区に入ると銀杏並木からケヤキ並木に変わった。
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最後に江戸向き地蔵を見る。享保14年(1729)のもの。
3体の地蔵の間に、文政9年(1826)に建立された三山百番供養塔(出羽三山・坂東/秩父/西国の百カ所)がある。
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上石神井駅に向かい、西武線乗り継ぎで地元駅へ。帰宅は5時半だった。約24000歩。

(完)

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2024年12月12日 (木)

青梅街道1追分~中野宿~東高円寺

五街道と姫街道、大山街道、五日市街道などを歩いてきたが今度は青梅街道へ。
往復の電車を除いて日暮れまで3時間なのでちょっとずつ進む。
青梅街道は甲州街道の脇往還として新宿から山梨県酒折まで130㎞。歩くのはそのうち青梅までの40㎞です。

新宿3丁目で降りて、老舗の追分だんごでおやつとお土産を買って、すぐそばのスタート地点(午後1時頃)へ。

スタート地点にある新宿元標。
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ここ追分が甲州街道と青梅街道の分岐点。甲州街道もここからだった。

新宿駅東口の広場に馬水槽がある。
19世紀にイギリスで馬に水を供給するために設置されたもので、明治36年にイギリスから贈られた。ライオンの口から水が出て、上では馬が水を飲み、下は犬猫が飲み、この裏は人間が水を飲んだ。
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東口から西口へつながる地下通路には宿の絵が描かれていた。中野宿から始まり、田無、小川、箱根ヶ崎、青梅宿の順。
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線路横の電車からも垣間見える思い出横丁を右に、左にモード学園やSOMPO美術館などの西口ビル群を見て進むと右側に常圓寺がある。
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日本銀行本店本館、東京駅丸の内庁舎などを手がけた建築家・辰野金吾のお墓があるそうだが、見つからなかった。

ここから見えた上部と途中が雪化粧したような、面白いビルは、東急歌舞伎町タワーだ。エンタメ関係も充実しているようだ。
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お隣にあるお寺が常泉院(浄行菩薩)に寄ってから、なだらかな成子坂を下っていくと少し先に成子天神がある。
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説明版によると、このあたりは江戸時代マクワウリの特産地だったそうで、この地域が鳴子坂(転じて成子)とよばれていたことから鳴子ウリと呼ばれたそうだ。
菅原道真公に縁がある。参道境内には拝殿はじめ七福神や力石などがある。
一番奥に結構高い立派な富士塚があった。頂上には浅間神社あがって、ここからも昔富士山が良く見えたことでしょう。
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道路の反対側には天保年間のものが再建された成子子育て地蔵尊があり、そばに小さなお地蔵さんがあって、右が延宝4年(1676)のものという。ビルの谷間にこのようなものが残されていることに感動。
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淀橋、下は神田川が流れる。
中野長者が財を地中に隠し、手伝った人を殺して橋から神田川に投げ込んだ。長者と橋を渡るときには見えた人が帰るときには見えなくなったことから「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。徳川家光が鷹狩りで通り、不吉でよくないということで京都の淀川に似ているからと「淀橋」と名づけたという。
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中野坂上の交差点から左に折れたところの公園に象小屋跡の説明板がある。
八代将軍吉宗に献上するためベトナムから連れてこられた象(姫街道の象鳴き坂を通った象)は、しばらく浜御殿で飼われていたが、中野村の源助という者に払い下げられ、このあたりに小屋を建てて飼育されていた。寛保2年(1742)に病死。牙の一部が宝仙寺に保存されているそうだ。
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街道の下は地下鉄丸の内線が走っている。中野坂上の駅を通り過ぎて右手にある象の牙を保存する宝仙寺に寄る。牙は見られなかった。
源義家が後三年の役を平定して京へ凱旋の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するため創建したお寺。仁王門、三重塔、本堂と立派な構え。境内には中野町役場跡碑もあった。
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三重塔手前の塚は石臼塚で使われなくなった石臼を供養したもので初めて見る珍しいもの。
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御影堂には弘法大師像が。
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四面に弘法大師が彫られたもの。22×4面だから88体。
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追分だんごで買った豆大福で休憩。
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お寺を出て右折したところにやままさ醤油醸造所のレンガ塀が残っていた。
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街道を少し進んで右手に少し入ると明徳稲荷神社があるがここの辺が中野宿の中心だったそうだ。

鍋屋横丁の交差点の手前に慈眼寺がある。
珍しいパゴダ風の塔がある。住職がタイで修行し、その縁で仏舎利を授かり納めるために建てたそうだ。
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本堂前には邪鬼らしきものが。
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このお寺には大変古い江戸元禄期の庚申塔など石仏群がずらりとある。
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下の部分に道標が刻まれた(写真に納まっていない)をかねた馬頭観音。
「左あふめ(青梅)道  右いぐさ(井草)道」と刻まれている。
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立派なざくろがなっている。
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鍋屋横丁は妙法寺への参道であり、鎌倉街道でもあった。
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北野神社(総本山は京都の北の天満宮)を通り過ぎ、東高円寺の駅を過ぎて、蚕糸の森公園(以前蚕糸試験場があった)を散策した。
柊の花
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スズカケノキと滝
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紅葉がきれいだった
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帰宅は5時すぎ。約17400歩。
途中で電話を入れながらも心配だった家人は無事5時間20分留守番出来てほっとしました。

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2024年4月27日 (土)

中山道(最終回)北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋

夫が小康状態の時、是非踏破しなさいと逆に励まされて、34回目で最後になる中山道を歩いてきました。これで五街道を制覇することが出来ました。
京都から約534㎞、しかし東海道と重なるので途中草津から日本橋まででしたが距離もあり、色々な不都合が重なって、本来ならばもうとっくにゴールしていました。何しろ歩き始めは2019年6月6日でしたから約5年間かかったわけです。しかし5街道の中では山や峠あり、木曽などの川や遠くのアルプスの山々を眺め、森林や林の中を通り抜け、畑を花や垣根を愛で、あるいは色々な歴史に触れて神社仏閣にもお詣りして、昔歩いた人々の苦労に思いを馳せた歩きでした。

前回到着した北浦和駅から6時半に歩き始めた。
駅前に浦和レッズのレディア君がいて撫でる。
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成就院の頭痛除観世音や六面地蔵を見ているうちに
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浦和宿に入ったようです。
●浦和宿(3番目)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒。

浦和宿二・七市場跡の立て札と鳥居が見える慈恵稲荷神社の所にやってきた。
二と七の付く日、月に6回市が開かれ大変賑わったそうだ。
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リアルな石像、話かけられているみたい。
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浦和宿本陣跡、隣には明治天皇行在所趾。
代々星野家が勤め、加賀前田家の宿泊所であり、皇女和宮も昼食をとった。
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舗装路にいろいろ埋め込まれていた。
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縣社延喜式内調神社。
初穂米をここの倉庫に搬入する妨げになるため、鳥居と門が取り払われたとのこと。
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狛兎で中にも兎の石像が多い。
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兎が関係するのか、秩父の兎田ワイナリーから奉納されている。
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お助け井戸・・元関屋(材木商後米穀商)が関東大震災や東京大空襲で逃げてきた人々の喉を潤してあげた井戸。
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焼米坂という妙な名前の坂に出会い、辻一里塚跡碑を過ぎて蕨宿へ。


●蕨宿(2番目)本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠23軒。
この宿はとても力を入れている!

京都側の木戸口。
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蕨市のマンホール。蕨市の花・サツキをふんだんにあしらっている。
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昔の行列の様子が絵で再現されている。
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歩道の両側には中山道59次の渓斎英泉および歌川広重により描かれた浮世絵木版画のタイルが続く。
大津から日本橋まで70枚。
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蕨もあるけど、所々に特製が。
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本陣跡も立派に復元されていた。
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屋根は新しいが時々古い家がある。
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蕨宿の江戸方、ここで終わる。
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戸田市に入りマンホールを。レガッタと上に市の木モクセイ、下に市の花サクラソウをデザインした。
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競艇場は見えないが菖蒲川を通る。
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東京都の板橋に入る。目の前に坂が。日本橋を出発して江戸を出ようとする最初の難所の坂が清水坂だったそうだ。この後のいろいろな峠を歩いてきた身にはどうっていうことのない坂だった。

志村一里塚 中山道の3番目の一里塚で、都内でもあり、2基一対現存するのは全国的にも貴重。山の中でも随分見てきてはいるが整備され立派である。国の史跡に指定。
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南蔵院 吉宗公が鷹狩りの際の御膳所だった。
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●板橋宿(1番目)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠54軒。平尾宿、仲宿、上宿からなる。旅人は板橋宿から出発する人が多かったので賑わったそうだ。

縁切榎がある。昔は男女の悪縁を切りたい、断酒を願って訪れたが、今は難病との縁切りや良縁を結ぶなどの信仰に変わったようだ。この日も4,5人の女性が何かを買って祈っていた。
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板橋の地名の由来になった板橋は木の太鼓橋だったとか。
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文殊院には文殊菩薩でなく立派な閻魔様が。
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板橋宿本陣跡。
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昼食は板五米店の古民家の飲食店で。
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脇本陣跡
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埼京線板橋駅の所にある、近藤勇と新選組隊士供養塔。
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板橋宿の商店街を抜け、次は巣鴨商店街に入ったが前回の山手線歩きで、高岩寺のとげぬき地蔵や真性寺の江戸六地蔵尊は見ているのでパスし、ひたすら日本橋に向けて歩く。

猿田彦大神庚申堂。
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西巣鴨、滝野川辺りは「種屋通り」と呼ばれ、種子屋が多く軒を連ね、日本の農業を支えてきたとか。

途中大円寺には八百屋お七に関するほうろく地蔵があった。火事の際、地蔵はこのほうろくを頭にかぶって焦熱の苦しみを受けたとか。
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すぐ近くに八百屋お七の墓があった。
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長い長い東大に隣接する歩道を赤門前まで歩くと、そのあとすぐ神田明神があった。湯島の聖堂なども以前見たので省略して。
境内の隅の2度目に会う「あかりちゃん」に会ってから日本橋に16時46分に到着しました。
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一日で歩こうと思い立ったので寄り道は少かったですが、約54500歩でした。

長い長い五街道歩きを読んでいただきありがとうございました。
  
 (完) 追記:もうすぐパソコンが壊れそうです。スマホを使いこなしていないので不便です。

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2023年12月 7日 (木)

中山道33 上尾宿~大宮宿~北浦和(2)

御嶽神社などの境内社を見てから、大宮公園へ。
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大宮公園は明治18年、氷川公園の名称で誕生した県営公園の中では最も長い歴史を持つ公園。その後、日本の公園の父、本多静六により整備され、漱石や子規なども訪れたという。

日本庭園がある。
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ちょうどツワブキが満開。
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ミニ滝もあった。
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隣の小動物園に行く。無料。思ったより色々な小動物がいた。
シロフクロウのオス。
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アネハヅル。8000m級のヒマラヤ山脈を越える事で有名。映像で一度見たことがあるような気がする。人間が無酸素で登るのが大変なのにその上を飛んでいくのだから、動物も植物同様凄いのがいるものだ。
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インドガン。これもヒマラヤ山脈を越えるそうだ。後頭部の2本の黒いラインが特徴。
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ブチハイエナ。テレビで見るのと違って可愛い。
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フラミンゴ。ずっと水を飲んでるが、寝る時と同じく片足で。何時まで水を飲み続けるのか?こちらが根負けして立ち去る。
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神社に戻って三の鳥居を出る。
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明治天皇と氷川神社御観察の絵巻。
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参道の紅葉は始ったばかり。2㎞もありとても長い。
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二の鳥居は明治神宮から移設されたもの。狛犬はここにいました。
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参道途中で中山道に戻る。

邪鬼の可愛い庚申塔。宝暦10年(1760)建立。
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大宮区役所兼図書館のガラス張りの建物の向かいにある山丸公園(公園名はここにあった山丸製糸工場に由来する)には、蒸気機関車があった。
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さいたま市のPRキャラクターが乗ったポスト。見沼田んぼの竜ヌゥとのこと。「くまモン」と「ひこにゃん」と「ふなっしー」しかわからなかった私もあちこちでキャラクターの絵を見て楽しむようになった。
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中山道に戻る途中の小道に塩地蔵がある。
病に倒れた父親を二人の娘が、お地蔵様のお告げに従って塩断ちをしたところ、父の病が全快したところから、塩を供えて願をかけるようになった。
角度が悪く光って良く見えず、ボケボケですがこんなお顔。娘さんが父親代わりに高血圧治療したみたいな話です。
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お隣の三体子育て地蔵。
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ここから少しで大宮宿を出て、北浦和駅に向かう。

この先が氷川神社一の鳥居だ。参道2㎞には江戸時代は松、大正時代は杉、現在は根を張る欅を中心にスダジイや桜、楠など30種類が植えられている。
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この鳥居の辺りが一里塚跡である。

大きなショッピングモール「コクーンシティ」(片倉製糸跡で繭の事を英語でコクーンという)の横を通り、さいたま新都心駅を通り過ぎる。

お女郎地蔵と火の玉不動の祠がある。
大宮宿の女郎・千鳥が悲恋の末、高台橋から身投げし、哀れんだ人が地蔵を建てた。左が火の玉不動で、この辺りにあった下原刑場の死者供養で建てられた。
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さいたま新都心当たりで空を見上げたら雲がきれい。
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一本杉の仇討ち跡。幕末最後の仇討の現場で、1864年のこれを最後に仇討は禁止された。この杉は当時の物ではない。左下の石柱に「一本杉」と彫られている。
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モチーフは同じだが違ったデザインのマンホール。
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旧浦和市のマンホール。
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最後に廓信寺に寄る。
参道口にはサツマイモの女王紅赤(通称金時)発祥の地の説明板がある。この地の農家の主婦山田いちさんが紅赤を発見したのだそうだ。ずっと王者のさつまいもも今はベニアズマに押されてしまった。
仁王門。
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4時半なのでしまっていたので中に入れなかった。
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また仇討の河西祐之助の墓も見逃す。

北浦和駅に4時35分に到着。地元駅には5時半前到着。
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駅ビルの鮨屋さんで食事
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寒ぶりの刺身、じゃこ天、揚げ茄子とトロロのネギ味噌焼き、あん肝ポン酢、握り寿司(いくら、甘エビ)
お酒は瓶ビール(キリン一番搾り)と白ワイン。

お土産。
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帰宅は7時過ぎで、約33700歩。このくらいですと何処も痛くなりませんでした。

(完)

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2023年12月 3日 (日)

中山道33 上尾宿~大宮宿~北浦和(1)

11/16(木)晴れ 地元駅8時25分に乗り、上尾駅9時36分着。近くなりました。上尾宿を歩いているところでした。本日は神社ばかりといってよい。

改札を出ると
上尾のイメージキャラクターの「アッピー」の「ア」、上昇や向上を意味する「アップ」、さらに幸せの「ハッピー」を合わせた「アッピー」という意味です。
「アッピー」と、まゆみの木の実がモチーフの福島県本宮市「まゆみちゃん」は2014年11月に結婚。2015年11月5日(いいご縁の日)には子どもの「あゆみ」が生まれました♪自治体同士のキャラクターの結婚、子どもの誕生は全国初!
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まずは氷川鍬神社に寄る。神社の前に本陣があった。
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氷川鍬神社は上尾宿の総鎮守で、元は鍬神社で氷川神社とを合祀して氷川鍬神社となった。
桶川宿の方から童子らが櫃を台車に載せて上尾宿に引いてきて歌い踊り、江戸まで去って行ったが、大晦日に上尾宿に戻され、本陣前で台車は動かなくなった。正月、櫃を空けると、藁筒と小鍬二挺が入っていたので、社を建立して小鍬二挺を祀り、稲穂を供えたのがはじまりとのことだ。
絵馬に祭りの様子が描かれている。
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拝殿の中・・小鍬は見られず。
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浅間大神。富士塚の低い事、すぐ頂上だ。
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大きな願い事の石や聖徳太子像碑(このところの中山道には何故か聖徳太子碑が多い)を見て神社を出る。

井上脇本陣跡には、家紋(井と上)がついた屋根瓦が飾られていた。
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一里塚跡も何もなく、愛宕神社参道脇に享保7年(1722)の「青面金剛庚申塔」ですが、屋根付きで、屋根付き地蔵様のよう。
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上尾宿を出て暫くすると道標を兼ねた「是より秋葉へ壱里十二町 ひご方へ壱里八丁 川越へ三里」 と刻まれているという寛政12年(1800)建立の庚申塔があり、この日は一体幾つ見たかしらと思うほど。
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さいたま市に入った。(10時32分)

河村屋さんで玉ねぎの漬物ときゅうりの金山寺味噌漬を購入した。玉ねぎの漬物は食べたことがないので楽しみ。(初めてで美味しかった)
江戸時代後期の創業で元はお酒や醤油を扱うお店だったそうだ。
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さいたま市のマンホール。
市の木ケヤキ、市の花サクラソウ、市の花木サクラのデザイン。
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真っ赤な鳥居の南方神社。
諏訪大社の分社で、江戸時代には諏訪社といったが、明治になって多くの神社が合祀され、明治40年、諏訪神社の主祭神建御名方命(たけみなかたのみこと)から取って「南方」に改称された。
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小学校の敷地内に大きな樹齢100年のセンダンの木があった。実も見えず、葉がまだ青々としている。
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加茂神社は村社。鳥居が二つで、狛犬も鳥居の手前と突き当りの拝殿の方と両方見える。14_20231203094101
京都の上加茂神社を勧請した神社で、渓斎英泉の浮世絵のモデルとなった場所という。
本殿の文政9年(1826)と伝わる「競(くらべ)馬」の彫刻の見事なこと!
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民家の塀がひっこんだところに元禄3年(1690)の庚申塔でこの後もこうした場所に何回も見かける。
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お昼は前回と同じくイタリアンのスパゲッティを食べる。

すぐ先が加茂宮一里塚跡(8里目)もなく、進むとこの辺では見かけなくなった馬頭観音があった。享和2年(1802)建立。
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供養塔や南無三界萬霊塔や道標等を見て進むと氷川神社の社標がある。中山道は直進で(少し進むと大宮宿の京方見附がある)、古中山道は左折して神社の参道を通る。
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中山道は江戸方見附の手前まで遺構が何もないので、氷川神社と近辺、並びに参道の古中山道を、中山道の京方見附付近まで歩くことにした。

●大宮宿(4番目)本陣1軒、脇本陣9軒、旅籠29軒。上尾宿から7.8㎞、浦和宿まで5㎞。
江戸時代初期は中山道が神社の参道を通っていたわけである。その後参道に平行して新しい中山道を作り、宿場を整備した。

●氷川神社一帯を見学。
大宮氷川神社は200社以上ある氷川神社の総本山。武蔵一宮で大いなる宮居として大宮という地名の由来にもなった。
氷川神社の社標を左折すると、境内社がいろいろ出てくる。

稲荷神社。
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向かいに宗像社。
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神橋。
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冬桜でしょうか。
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大きな神社には酒樽が奉納されている。
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左・額殿、右・神楽殿。(酒樽とこれらは楼門の内側にある)
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真っ赤な立派な楼門。
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その前の舞殿。
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やっと氷川神社拝殿にお詣りできました。
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 (続く)

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2023年11月22日 (水)

中山道32 北鴻巣駅~鴻巣宿~桶川宿~上尾宿(3)

●桶川宿(6番目)本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠36軒。鴻巣宿から7.2㎞。上尾宿まで3.7㎞。
ここもまた江戸からの旅人が最初に宿泊することが多いところで、紅花の産地として、又うどん生産地として栄えた。戦災も免れたため、建築物も残っていて宿場の面影を残している。

桶川市のマンホールはべに花。
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桶川の紅花生産は天明・寛政年間に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国に知られた。次のお寺・大雲寺で出会ったボランティアガイドさんから、桶川の方が暖かく、山形の紅花より一足早く収穫することができたため、紅花栽培が発展したとお聞きした。

江戸から10里目の桶川一里塚跡を通り過ぎ、大雲寺に寄る。
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女郎買い地蔵がある。正徳3年(1713)造立。飯盛り女の元に通う若い僧を和尚が地蔵にかえ、鎹(かすがい)をうち鎖で縛った。その鎹が背中に残っていた。
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ここにもたくさんの石仏。
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さっき、ここで出会ったガイドさんに稲荷神社に日本一の力石610㎏があると聞いて行ってみた。今までは100㎏とか130㎏等を見てきたけど610㎏とはね。
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見た目にはそう見えなかっが、どうやって持ち上げたのか?そばにある絵で納得。江戸の力士三ノ宮卯之助が足の上に載せて持ち上げたのだ。嘉永5年(1852)5月。40代で亡くなったと書いてあった。
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欅稲荷大明神が欅に収まっている。
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ポケットパークのところにお茶博士辻村みちよ顕彰碑があった。
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緑茶の中にカテキンが含まれることを世界で初めて発見した研究者で、日本初の女性農学博士となった人。桶川市生まれ。
今年この先生の弟子の先生が茶寿(108歳)を数日後に控えて亡くなられた。「茶」は十が2つで二十プラス八十八で108。茶の研究をし続けて茶寿を前に亡くなるとはとても残念。

中山道宿場館で資料など頂いて進むと本陣跡。殆ど公開されないが、埼玉県内で唯一残る遺構として上段の間、次の間、湯殿が現在保存されている。
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お隣が矢部家住宅。明治期の建物。穀物問屋を営んでいた。
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向かいに小林家住宅で国登録有形文化財。江戸末期に建てられた元旅籠で、材木店を営んだ。現在はギャラリー兼カフェ。
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島村老茶舗。嘉永7年(1854)創業。この建物は大正期のもの。
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向かいの菓子屋「おき川」で、その名も「おき川」というお菓子を買ってもらう。この日は3種類のお菓子を購入してもらったが、必ず1種類だけ奇数買ってくれてその日帰ったらすぐ父親が食べられるように配慮してくれるのが有難い。何しろ甘いもの好きだから、お腹が空いてなくても、寝しなでもペロリ。
桶川という地名は、沖側(広々とした田畑の側)とか起き川(川の水源)などからきたという説があるそうだ。

桶川市のマスコットキャラクター「オケちゃん」が桶川宿を散策する姿がデザインされたカラー蓋マンホール。
背景には桶川宿の街並みと市民の木イチョウが描かれる。
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浄念寺に寄る。
朱塗りの仁王門は元禄14年(1701)に建てられた桶川最古の建物。
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仁王の阿様
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板石塔婆がありました。
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武村旅館は嘉永5年(1852)の建築。国登録有形文化財。現在は営業していないようだ。桶川宿には比較的多く往時の建物が残っていて中山道を歩いている気分に浸れた。
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東木戸跡で桶川宿を出る。
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まもなくして上尾市に入る。

上尾市のマンホールは市民の木アオキのデザインだ。
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こちらは市の木カシの実と葉がデザインされている。市民の木と市の木と違うのかな。
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紅花の仲買で財をなした豪商須田家の御屋敷。
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これまた違うマンホール。現在は行われていない、中山道あげお大綱引き祭をモチーフにし、ネズミ、牛、虎、兎、猿などの動物たちが大綱引きをしているデザイン。
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平成の道標の所が上尾宿の京方見附だ。
●上尾宿(5番目)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠41軒。桶川宿から3.7㎞、大宮宿まで7.9㎞。宿場の長さは2.3㎞と長い。

案内板の屋根の上には鍾馗様が乗っていたが撮り忘れ。上尾宿では昔大火が続たが、鍾馗様が屋根の上にあった家が火事を免れたため、火伏せとして鍾馗様を飾ることがはやったのだそうだ。
上尾宿は、早朝江戸をたった人が宿泊することが多く、小さな宿だが旅籠が多かった。飯盛り女の数も多く川越や岩槻あたりからの遊び客も多かったという。

上町庚申塔。
延享2年(1745)建立。青面金剛像の足のあたりの両端に鶏が彫られている。初めてだ。
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最後に遍照院に寄る。
参道の地蔵菩薩と六地蔵。
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山門。
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本堂。
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このお寺のお墓の中に薄幸の遊女お玉の墓があるはずが見つからなかった。越後の貧しい家に生まれ、11歳で上尾宿の遊女になったお玉は前田侯の参勤通行の際、小姓に見染められ江戸に行くも病にかかり上尾に戻って25歳で亡くなる。大村楼の主人が建てた墓がこのお寺にある。

3時50分過ぎに上尾駅到着。大宮、南浦和で乗り換えて地元駅5時15分到着。いつものお店で夕食。
ビール。娘は何時もプラス日本酒(今日は大信州)。
お通しはあん肝ポン酢とツナマカロニサラダ。
つぶ貝の刺身、煮穴子のさっぱりあえ、鮎の塩焼き、肉厚椎茸の網焼き。
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帰宅は7時15分。東京に近くなったので帰りも早くなりました。

おみやげは、川幅日本一せんべい(ねぎみそ)、おき川、伊勢屋(上尾)のゆず最中。
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42400歩でした。
 (完)

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2023年11月19日 (日)

中山道32 北鴻巣駅~鴻巣宿~桶川宿~上尾宿(2)

鴻巣宿を歩いている途中です。
前田家が宿泊を断られた勝願寺へ。徳川家の庇護を受けて関東十八檀林(江戸時代初期に定められた関東における浄土宗の檀林18ヶ寺)の一つで鎌倉時代の創建。紋は徳川家の「三つ葉葵」。
「栴檀林」の扁額が掲げられた総門は、何度かの火災を免れ、江戸時代から残る唯一の建造物。
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仁王門も彫刻が施され立派だ。
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本堂はサイズが可愛らしい。
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人形塚。11/14が人形供養が行われた。
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真ん中の3つのお墓、右より小松姫、真田信重、信重の室の墓。
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小松姫は家康四天王の一人本多忠勝の娘で、上田藩および松代藩の初代藩主・真田信之(信幸)の正室。草津へ湯治に行く途中鴻巣で亡くなる。
奇しくも真田信重(信之の三男)も鴻巣で客死しその室も翌年亡くなった。
たくさんの石仏石塔群があるが、三面に猿がいる庚申塔は初めて。
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鴻巣宿江戸方を出て、
おおとりというおせんべいのお店で川幅せんべいねぎ味噌を買ってもらう。縦15㎝、横11㎝の大きな煎餅だ。味噌が美味しい。
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川幅日本一(2537メートル)の荒川にちなんでのおせんべい。鴻巣駅あたりで埼玉県をぐるっと回る荒川は日本一の川幅になるのである。

鴻巣は岩槻、江戸日本橋と並んで関東三大雛市の一つ。今は人形店は6軒、明治時代が最盛期で58軒あったそうだ。
江戸時代初めに京都の人形師が鴻巣に移住し土人形を作ったのが始まり。一方鴻巣は桐箪笥などの生産地で、生産過程で出るおがくずで作る玩具作りがひな人形に応用された。人形の着付けは関東一だそうだ。

おおとりの斜め向かい、ひなの里に寄る。吉見屋の雛蔵(明治31年築)を市が買い取った観光案内所でもある。
江戸時代から現代までのさまざまなひな人形を展示。
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芥子雛。10㎝弱~それ以下の大きさの雛。江戸時代、豪華絢爛に進化し続ける雛人形を規制した。しかし江戸幕府への反発から小さくても贅を尽くした人形を作ったのがこれだ。
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御殿雛飾りは立派だ。
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中庭が素敵!しばし休憩する。
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この人形屋さんも江戸時代末創業。
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訪ねてビックリの富士塚。階段6段。八幡神社の奥にあった。頂上に小さな社殿がある。
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北本市に入った。
市の木・桜がデザインされたマンホール。
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北本市には国の天然記念物に指定され、源範頼の伝説にも名高い樹齢約800年の「石戸蒲ザクラ」、桜並木が見事な「城ヶ谷堤」や全国から30種約200本の桜を集めた「高尾さくら公園」などがあるとのこと。

北本市はトマトが名産なのだそうだ。「北本トマトカレー」が有名。後日娘が買ってきてくれたので賞味する。カレーが食べられなくなってから8年目にちょっとだけでしたが、その美味しい事!ワンダフル!トマトの味が濃厚というわけでなくまろやか。全国ご当地カレーグランプリなどに9年前から3度も全国優勝を果たしているとか。それで美味しいわけですね。
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マスコットキャラクターはトマトの「とまちゃん」。これは市を通過した際最後に見つけたもの。
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原馬室一里塚。11里目。
現在は西側の塚のみ残っている。東塚は明治16年、その向こうに走る高崎線敷設の際、取り壊された。
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東間浅間神社へ。
江戸時代中期に築かれた階段の富士塚(6m)で頂上に社殿がある。今は富士山は見えない。
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賽銭箱に富士山が描かれている。
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北本駅を右に見て通り過ぎ多聞寺へ。
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県天然記念物のムクロジがある。
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丁度実がなっている。初めて見る。実にはサポニンが含まれ石けん代わりに使われた。実の色が銀杏の実に似ている。
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実の中の黒い種は羽根付き玉になる。深大寺でも見られたっけ。
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サルスベリの紅葉が見られ、花も一緒に咲いていた。柿の葉の紅葉にちょっと似ている。
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文化12年(1815)の立派な青面金剛庚申塔。石に文字を刻んだだけのからいろいろな庚申塔のある埼玉県の中山道だ。何時も猿を見るのが楽しみだ。
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本宿交差点に北本宿碑。鴻巣に移転するまでは宿場だったところ。以降は本宿と呼ばれ立場となった。
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イタリアのアルベロベッロみたいな屋根のアンジェラプレイスカフェにて昼食。
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前菜・ドリンクセット。前菜はサラダや鴨のスモークなど。ドリンクはオレンジジュース。
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ハーブチキンとルッコラのピザと厚切りナスをベーコンのトマトソーススパゲッティをシェア。建物が素敵なだけでなく、お料理も美味しかった。

で、歩きだすと桶川市になり、京都側の木戸跡の石柱跡があって桶川宿に入った。
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 (続く)

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