2020年3月29日 (日)

日光街道2千住宿~草加宿(3)

不要不急の外出自粛のうえ雪が10㎝くらい降って、買い物をしておいてよかったです。
日光街道歩きの2回目、いつもの如くのたのたして今頃草加宿に入ったところをアップできました。

◆草加宿へ

谷塚駅入り口あたりに富士浅間神社がある。社殿の後ろには富士塚があるがこの日3つめ。足立区から草加にかけて富士塚がいくつかある。今もこのあたりは富士講が盛んだそうだ。
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力石もある。手前の32貫目なんて見えるが120㎏だ。お相撲さんを吊り上げるみたいなもので、普通の人は無理。昔は力持ちが沢山いたのでしょうね。
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そのすぐ近くに善福寺がある。
2体あるうちの、これは1713年建立の青面金剛像だ。必ず下に彫られた三猿に目が行く。
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境内には元禄4年(1691)の六地蔵があり、330年も経っている。こういう浮彫の形(光輪とは違うし、何と言うのか?)ですと涎掛けが掛けにくいのでしょう。
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草加市のマンホールがあった。草加市のシンボル百代橋(百代は芭蕉の奥の細道からつけた名前)と市の木の松が描かれる。
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火あぶり地蔵。
奉公中の娘に、母危篤の知らせが届き、お暇を願い出たが許されず、この家が火事になれば家に帰れると思い放火してしまい、火あぶりの刑に処せられた。これを不憫に思った村人が地蔵堂を建て地蔵を祀った。
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草加煎餅のお店が出てきた。このあと所々に出てくる。最初に出てきたお店でお土産の煎餅を買う。
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●草加宿
 千住宿から9.7㎞、越ヶ谷宿へ9㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒。

いよいよ草加宿に入る。この地は沼地が多く当初は大きく迂回していた。大川図書は幕府に願い出て、千住~草加間をほぼ一直線に結ぶ新道を開削し草加宿を創設した(1607年)。
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浅古家の地蔵堂。
浅古家は幕末から明治にかけての豪商で屋号が大和屋であり、全国2位の質屋だった。今は草加市役所の敷地となっており、地蔵堂は浅古家の屋敷にあったものだそうだ。
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回向院。元禄14年(1701年)創建。
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旅籠の武蔵屋が抱えていた飯盛女の墓がある(真ん中。左は大正12年大震災死者霊供養塔)。
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たい焼き屋さんに入った。鯛ではなくて、車に豚?とウサギが乗っている?焼であった。皮がぱりぱり、餡子が熱々で美味しい。
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八幡神社。大きな獅子頭の雌雄一対は市指定有形文化財だが、社殿の中に入っていて写真に撮れなかった。
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藤城家。
明治初期建築で木造二階建ての住宅店舗で、奥には住宅に組み込まれた土蔵造りの内蔵と外蔵が並ぶ。国登録有形文化財である。
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問屋場跡には明治44年建立の道路元標がある。
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大川本陣跡。宝暦年間(1751-63年)までの本陣。自分の姿が映ってしまったので没。

お向かいには清水本陣跡で宝暦年間から明治初期まであった。
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草加宿はまだ残っているが、最後に氷川神社に寄ってこの日の街道歩きは終了。氏神様。
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草加駅より東武スカイツリーラインに乗り、新越谷でJR越谷駅に乗り換え、武蔵野線、中央線を乗り継ぎ、地元に到着。庄やで食事をし、8時頃帰宅した。約34000歩。

(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年3月23日 (月)

日光街道2千住宿~草加宿(2)

草加宿へ

国土安穏寺寺標があり、安穏寺に寄った。将軍秀忠および家光の巡遊の折の御善所となったお寺である。徳川家の祈願寺となり「葵の紋」の使用が許された。
立派な山門の仁王門で、左右に阿吽の仁王様がいる。
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門の裏には巨大なわらじと葵の御紋が見える。
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天井には龍。
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本堂。
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徳川家光御手植え松はかなり高くなっている。
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掃除小僧もいたがこちらは居眠り小僧。
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方丈とお庭。
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島根鷲神社。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の鎮守。
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御社殿は権現造りと書かれているが複雑でよくわからない。千木が立派だ。
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長寿山灯籠。高さ4.7m、重さはなんと35トン。鳥居と比較しても大きい!
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富士塚もあった。
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吉宗が腰掛けたとされる将軍石。
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炎天寺。俳人・小林一茶ゆかりのお寺だ。
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石仏がいろいろある。
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馬頭観音。岐阜県の中山道が懐かしいです。
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「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」がこの寺の近くで詠まれたとか。池と池の周りは蛙だらけ。
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福蛙。なでると福が。
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小林一茶像。
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街道に戻ると旧増田橋跡がある。かつて増田橋があって千住宿と草加宿の中間点。西北へは川口市に抜ける赤山街道があった。
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保木間氷川神社。保木間村の鎮守。関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられる。
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脇宮の疱瘡神社。天然痘に霊験あらたかと言われている。右は天宇須女尊。天照大神が天岩戸に隠れてしまった時に、踊った神様と言われる。
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榛名神社の富士塚。
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法華寺。寒緋桜が満開。
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ここは小塚原刑場の刑死者を弔ったところで、南無妙法蓮華経題目が刻まれた無縁塔があった。
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水神宮を通り過ぎて、毛長川を水神橋で渡ると埼玉県・草加市に入った。
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2020年3月11日 (水)

京街道(3)枚方宿~守口宿(後編)

◆守口宿へ(続き)

食事を終えて街道に戻ると淀川に近づき、土手に上がる。ここから時々土手から下りて見学しながら、堤防を7㎞歩く。
お天気になり暑くなってきて、川を渡ってくる風が心地よかった。雪の先週だったらとても歩けなかった。
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赤井堤記念碑がある。ここから寝屋川市になる。赤井堤は枚方・寝屋川市境を流れていた赤井川の堤防。
明治18年に起きた洪水は、大阪市内の大半が浸水する被害をもたらし、赤井堤も含めて多くの堤が決壊した。その時の惨状が漢文で刻まれている。
淀川沿いでは、排水機場、揚水機場、浄水場などの施設が多い。
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二十箇用水普通水利組合碑を通り過ぎ、日本最初の河川堤と言われる茨田堤(まんだのつつみ)碑があり、日本書紀、仁徳天皇11年に記述があるそうだ。
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土手の下の段倉。二段、三段とだんだん高くなって、水害への備えとなっている。
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太間天満宮へ下りていく。
衫子絶間跡の碑がある。堤の築造は難工事で、二ヵ所の「絶間」という場所に人柱を出すことになり、武蔵強頸(むさしのこわくび)と茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人が選ばれた。強頸は犠牲となったが、衫子は、機転をきかせて助かったという伝説が残っている。
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夫婦狛犬、浅草寺にもありました。
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鳥飼仁和寺大橋をくぐる。対岸は摂津市だ。
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仁和寺氏(にわじうじ)神社。御祭神は菅原道真。この辺りの地名の仁和寺はかつて京都・仁和寺の所領であったから。
本殿。
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ここで枚方で買ったどら焼きを食べて休憩。
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守口市に入り、佐太天神宮に寄る。道真が太宰府に流された時に舟をつないだ場所。ここで赦免の沙汰を待ったことから佐太と呼ぶようになったという説がある。
長い灯籠の参道。本殿は仁和寺氏神社とそっくりであった。
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暖かい午後は猫が登場する。
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天神宮の近くには佐太戎社や来迎寺や佐太陣屋跡(加納藩の陣屋)があった。

堤防に戻ると鵜飼大橋が近づいてきた。併走する鉄橋に大阪モノレールが走っていた。ここで堤防から降りて淀川と離れる。
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守口市のマンホールが出てきた。市の花のサツキのデザイン。
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こちらは京阪守口市駅前再開発のシンボルであるカリオンとサツキ。
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正迎寺は、西本願寺の末寺で創建は観応元年(1350年)。
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その南に智眼地蔵尊が祀られる。
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京街道のレリーフ。
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「たこのきもち」というたこ焼き屋さんでたこ焼きを購入。一里塚跡のベンチで熱々のをいただく。
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この一里塚跡のあたりが「上の見附」で、守口宿の入り口。
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●守口宿(57番目)
枚方宿から12㎞、高麗橋まで9.5㎞。本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠27軒。

守口の名物と言えば細長い大根の守口漬けだが、今は大根を作っておらず名古屋の名物になってしまった。
宿の長さは2.3㎞で文禄堤(太閤堤)が残る部分がある。文禄堤とは秀吉が毛利一族に築かせた27㎞の淀川の堤。
大阪まで近いために本陣は大名の宿泊でなく小休止が多かった。

盛泉寺。教如上人が開いた東本願寺の末寺だ。内侍所奉安所阯の石碑(明治天皇が行幸された際、内侍所を設けた。一瞬だけ大阪に遷都されたことになった)。明治天皇聖蹟の石碑もここにある。
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難宗寺の角に石碑が4つ。
「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」、「御假泊所」、「御行泊所」とそれぞれ彫られている。
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難宗寺は真宗大谷派。盛泉寺が東御坊、こちらは西御坊と呼ばれている。枚方と同じく浄土真宗が盛んな地域で東西御坊があるのも同じだ。
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本陣跡の説明板の向かいには「大塩平八郎ゆかりの書院」の石碑。ここは平八郎が農民たちに出張講義をした白井家跡である。
白井孝右衛門は平八郎と師弟関係にあり、大塩平八郎の乱に荷担したかどで処刑された。大塩は自殺であった。
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連子格子、虫籠窓のある家が残っていて、風情のある街並みだ。
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復元された高札場。
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本町橋(川はない)を渡ったところで、守口宿が少し残ったが、この日の街道歩きは終了した。
守口市駅より京阪の準急に乗り、終点淀屋橋で地下鉄に乗り換え新大阪駅へ向かう。
6時33分発ののぞみに乗り、東京到着は9時3分。帰宅は10時過ぎだった。
お弁当は、近江牛おひつまぶし弁当(娘)、但馬牛牛めし弁当(私)。大阪の名物ではなかったが。ビールは700系新幹線デザインだ。
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お土産は昆布の佃煮。
41075歩でした。最終回は新幹線に乗れるようになるまでお預けです。

(完)

 

 

 

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2020年3月 7日 (土)

京街道(3)枚方宿~守口宿(前編)

前週に続き2/13(木)に同様に近鉄丹波駅乗り換え、京阪で枚方駅到着は9:11であった。

●枚方宿(56番目)淀宿から14.3㎞、守口宿まで12㎞。本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠69軒。

枚方宿は京都と大阪の中間に位置する交通の要衝であり、淀川の川湊であったので、三十石船の寄港地として繁盛した。船が寄港すると「飯食らわんか、酒食らわんか」と茶舟が漕ぎ寄せ、飲食物を売りつけた。これが「くらわんか舟」である。
東見附から西見附まで1477mもある。
駅前の案内板など枚方宿は結構力を入れていて歩くのも楽しみだ。
享保時代、ベトナムから来た象(享保の象)もこの宿に宿泊したそうだ。

東見附の標識を見、問屋の家を見てからの続き。宗左(そうざ)の辻を曲がる。製油業を営んでいた角野宗左の屋敷があったという道標。磐船街道が分岐している。
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岡本町公園があり、第2日曜日は五六市があるそうだ。東海道の56番目の宿場であることから命名された。明日8日は中止でしょうね。
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高札場跡を過ぎると、くらわんかギャラリーがある。享保年間から続く塩熊商店(塩屋)の建物だ。
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今の三矢公園にはかつて本陣があった。
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京阪の踏切を渡って寄り道する。
東のご坊・願生坊。真宗大谷派の寺院で、東本願寺の別院とされた後、願生坊の名が与えられた。後で西御坊・浄念寺に行く。
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この道に「万年寺山周道」のプレートが埋め込まれていたので道を上がっていく。
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万年寺山は御殿山とも言われ標高30mの高台で、秀吉が家臣の枚方城主・本多政康の娘の乙女御前のために茶屋御殿を建てた。意賀美(おかみ)神社が隣接する。
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御茶屋御殿跡へ。
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ここから淀川が見える。対岸は高槻市だ。
Kawa

神社の境内には梅園がある(意賀見梅林)。
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意賀見神社。廃仏毀釈以前は奈良時代に創建された万年寺があったそうだ。
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街道に戻り、西御坊・浄念寺へ。工事中だった。
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問屋役人だった木南善衛門家(屋号は田葉粉屋)。宿最大の町屋で明治時代に再建されたものという。まだ手前にも建物が続いて大きくて全部入りきらない。
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鍵屋資料館に寄る。主屋と別棟があって資料館は別棟(昭和3年建築)にあり、入場料200円。
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鍵屋は三十石舟の寄港地の船宿として賑わい、くらわんか舟も行き交っていた。弥二さん喜多さんも伏見から三十石舟に乗船し、ここ鍵屋浦でくらわんか舟と掛け合いをしているとか。簡単なのを読んでいても覚えていない。
その後明治になっても屋形船を出し、1997年まで高級料理旅館として営業していた。その後解体復元工事により2001年より資料館として開館。
色々資料が展示されてたが、シーボルトやケンペルが枚方宿で見聞した、売春婦や食事のことなどを記した説明も見られた。

くらわんか茶碗や鍵屋の出土品
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鍵屋の模型。広い。
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くらわんか舟の再現。
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2階には63畳の大広間があり、お雛様が展示されていた。
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窓からは淀川が見える。右から左に比叡山、天王山、北摂の山々、六甲山、晴れ渡った日には「太陽の塔」が小さく見えるそうだ。あいにくの曇り日で残念。
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主屋(1811年の町屋建築)も見学。鍵が描かれている。
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お隣の建物を過ぎると西見附で宿が終わった。

◆守口宿へ

淀川沿いに出ると明治18年の洪水碑があった。どこの川も氾濫の歴史があって酷い。
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光善寺(出口御坊)がある。このあたりは蓮如上人にゆかりがあるところだ。
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「親鸞聖人 蓮如上人御田地」の碑。
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昼食は光善寺駅のそばのお寿司屋さん。茶碗蒸しまでついてなかなかのボリューム。
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2020年2月28日 (金)

京街道(2)淀宿~枚方宿(3)

◆枚方宿へ(続き)

大阪府の枚方市に入ってきた。

久修園院。行基が開いた真言律宗のお寺で奈良西大寺の別格本山。大阪夏の陣で大半が焼け落ちた。宗覚律師(多彩な才能の持ち主)が元禄時代に作ったという天球儀と地球儀が保存されているとのことだが見られない。
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楠葉台場跡史跡公園。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が最終的に集結した場所で、津藩の寝返りで大阪に落ち延びて行った。
「戊辰役橋本砲台場跡」は京都府側の橋本から大阪側のここに移された来たもの。
楠葉(くずは)は駅名など樟葉(くずは)となっている。
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本来の街道に合流すると、枚方市のマンホールが出てきた。デザインは、枚方市の花である菊と、広重の浮世絵にも描かれた淀川を下る三十石船だ。
枚方は大菊人形展が開催されていたが今はなくなってしまったそうだ。
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長福寺。このような参道もある。道標を兼ねた供養塔がある。こんな奥に道標があるとは!
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両脇のお地蔵様たちがとても小さくてかわいい。大阪のお地蔵様、第一号。
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掃除小僧さんではなくて、木魚を枕に寝てしまった小僧さん。ねずみが様子を見ているのか。
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旧京街道の標柱が珍しい。京街道では街道を案内する標柱も、看板も殆ど見かけない。
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樟葉駅のそばのくずはモール(ショッピングモール)で休憩。おやつは走井餅老舗で買った鳩もなかで、自分であんこを詰めて食べるタイプなので、皮がぱりぱりしている。
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大阪のお地蔵様第二号、第三号。伏見の化粧地蔵様とは違うが、滋賀県や岐阜県でもお地蔵様、いろいろ見ましたが同じかな!
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船橋川を渡った先に、地蔵堂、戊辰戦争の供養塔、八幡宮の道標がある。この向かいあたりに一里塚があったらしいが見えず。
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牧野駅まで京阪に沿った道を歩き、ここで寄り道して牧野公園に。
阿弖流為母禮(アテルイモレ)の首塚がある。東北の蝦夷が朝廷の支配を拒否して戦争になり、802年に蝦夷は降伏する。首長と副将を伴って帰京した坂上田村麻呂がこの地で蝦夷の首長阿弖流為と副将母禮を処刑した地だそうだ。坂上田村麻呂は強く助命を嘆願したそうだが。
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その奥にある片埜神社。第11代垂仁天皇の頃に建速須佐之男命を祀ったのがはじまりで、その後、豊臣秀吉が大阪城の鬼門を守る神として庇護した。
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赤鬼のお面があった。絵馬にも赤鬼が描かれている。鬼は片埜神社の象徴・守り神とされた。
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本殿は慶長2年、豊臣秀吉の命で片桐且元が再興したもので、重要文化財。
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街道に戻る。クサフジが目を惹き、カラスウリの実の色はくすんでいた。
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街道の左右に京都と大阪と刻まれた常夜燈があり、ここに片埜神社の一の鳥居があったそうだ。手前にあるのが壊れた残骸か。
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國道第二号路線の道標。終点の高麗橋まで六里とある。まだまだ!
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ここを左に入った、京阪御殿山駅に近い所に渚の院跡がある。
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文徳天皇の第一皇子、惟喬親王は権力争いに破れ、ここに別荘を建て隠遁した。同じく権力争いに破れた在原業平と親交があったという。渚の院跡には観音寺が建立されたものの、神仏分離で廃寺となっている。梵鐘が残るのみだ。
業平はここで「世の中に耐えて櫻のなかりせば 春の心はのどけからまし」と詠む。
紀貫之は土佐から京に帰る途中で渚院の梅のことを『土佐日記』に記している。

天之川集会所の前の地蔵堂。一里塚なのに跡もなかった。
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天の川を鵲橋で渡る。
淀川に合流する天野川は、川の流れが美しく、古くから天上の銀河とみなされ、平安貴族の憧れの歌どころであった。天の川のかささぎの群れが集まって橋となり、牽牛と織姫との橋渡しをするという七夕伝説にちなんでかささぎ橋と呼ばれるようになったという。枚方市、近隣の交野市とともに七夕伝説にまつわる名所が多いという。
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いよいよ枚方宿に入ってきた。道路が着色されている。
東見附跡。石柱があった。
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問屋役人の家。
小野平右衛門(屋号=八幡屋)で、江戸中期より、村年寄りと問屋役人を勤めた。出格子や虫籠窓が見られる幕末の建物だそうだ。
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枚方市駅に到着。京阪で東福寺へ、JRに乗り換え京都へ。

今回のお弁当は、京都舞妓はん弁当。(デザートのお団子と生八つ橋まで入っていた)。
お土産は柴漬け。
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東京着は21時3分。帰宅は10時10分。約46000歩。(完)


「干瓢を買ったわよ」と娘からラインが入って、はて?東海道のどこかで聞いたような。思い出せない。
品物を見て水口宿の広重の絵に出ていた干瓢でありました。太巻きずしにして食べましょう。栃木以外の干瓢は初めて。水口から栃木に伝わった干瓢は栃木が全国シェアの98%を占めるから貴重な水口の干瓢です。
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2020年2月 8日 (土)

日光街道1 日本橋~千住宿(2)

◆浅草から千住へ

浅草寺の横から出ると街道に戻り、姥ヶ池跡がある。明治24年まで大きな池があった。
このあたりに娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死んだ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人が姥ヶ池と呼んだという。鬼子母神みたいな話である。
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助六歌碑もあった。助六を演じた九世・市川團十郎の歌を刻んだ碑だ。
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江戸猿若町市村座跡碑。老中水野忠邦の天保の改革で、江戸市中にあった芝居小屋が猿若町に集められた。
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待乳山聖天に寄り道。入り口に池波正太郎生誕の地の碑もある。
左下に見えるのはお供えの大根売り場である。
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大根と巾着の印。大根は身体健全、夫婦和合、巾着は財福の功徳を表わしたものとされる。
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歓喜天地蔵は数度の火災に遭い、その尊容をとどめていない、子育て地蔵。
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築地塀は江戸時代の名残をとどめる唯一の文化財。広重の錦絵に描かれている。
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山谷堀公園には猪牙(ちょき)舟の浮世絵があった。江戸時代、市中の水路に使われていた、船首が細長くとがった屋根のない舟。語源は舟の形が猪の牙に似ているからなど諸説ある。山谷堀をこの舟に乗って吉原へ遊びに行くのは大変贅沢であったと。
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今戸神社にも寄る。沖田総司終焉碑があり、今戸焼発祥、招き猫発祥の地。
源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、京都の石清水八幡(行ってきました)を勧請したのが始まりと云われている。
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新選組の沖田総司は幕末の御典医・松本良順の看病を受けたがここで亡くなった。
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招き猫発祥の地と言われ(豪徳寺かと思っていた)、猫があちこちに。そして干支のネズミの前に本物の白猫が!
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春慶院には高尾太夫の墓があった。
仙台藩主伊達綱宗の意に沿わなかったため惨殺された、新吉原の名妓二代目高尾太夫である。
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東禅寺。江戸六地蔵の一つがある。
宝永から享保にかけて江戸市中の6箇所に造立された、丈六の銅像地蔵菩薩坐像。六街道にあり、旧東海道(品川寺)、東禅寺(奥州街道・日光街道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(旧中山道)、霊厳寺(水戸街道)、千葉街道のは現存しない。見たのは東海道・品川寺のとここの2つだけある。
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駿馬塚。義家が陸奥へ向かう際、此の地で愛馬 「青海原」 が絶命し、これを葬った所。
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泪橋(小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをしたという)交差点を通り過ぎ、南千住駅高架を通り過ぎたところに、小塚原刑場跡がある。南の鈴ヶ森刑場跡(旧東海道)に対する北の小塚原刑場跡である。
ここにある大きな首切地蔵は、刑死者を弔うため造立された。
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すぐ先の回向院では杉田玄白らが刑死者の腑分けに立ち会い「解体新書」を著わした縁から観臓記念碑もあった。
ここに吉田松陰のお墓がある。
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鼠小僧、高橋お伝、腕の喜三郎の墓も。
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円通寺。
坂上田村麻呂が創建した曹洞宗の寺。金ぴかの観音様が目立つ。
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彰義隊士の墓がある。寛永寺の彰義隊士の遺体を見たこの寺の和尚が、遺骸を火葬にして葬った。
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これが縁で寛永寺の弾痕が残っている黒門がここに移されたという。
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四十八首塚、七重の塔、三代将軍家光鷹見の松もある。
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素戔嗚神社。石神信仰の神社。
小塚の中の奇岩を 「瑞光石」 と言い、この小塚から 「小塚原」 の地名由来となった小塚「瑞光石」がある。
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松尾芭蕉の碑。「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」。
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大銀杏のまわりにも絵馬がたくさんかけられている。
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三種類の庚申塔。左から如意輪観音が刻まれた庚申塔、聖観音が刻まれた庚申塔、青金剛と刻まれた庚申塔。
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(続く)

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2020年2月 4日 (火)

日光街道1 日本橋~千住宿(1)

ちょっと空いた土曜日にまだ早起きしないでも良い区間、日本橋から10時半に日光街道を歩きも始めました。中山道も京街道も途中なのですが。
都内はビルばかりで、その中の緑の一角が寺社であって、この街道沿いにもちょっと入るだけでたくさんあるのです。そしてその寺社には歴史上の人物がかかわっていて、道の寄り道だけでなく、歴史の寄り道も多く奥深いです。

◆日本橋から浅草

「日本橋」という橋の字は徳川慶喜が書いた。この橋は東海道の歩きはじめであり、中山道でここに戻ってくる。
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すぐ横道に入ると福徳神社があってここは福徳村であった。家康、続いて秀忠が参詣している。太田道灌とも縁が深いという。
算額があって、ちらしももらってきた。結構難しい!5問目は解答を募集している。
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小津和紙店の前に、和紙の原料となる木、コウゾ、カジ、ミツマタ、ガンピが植えられていた。
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於竹大日如来井戸跡。大伝馬町馬込家の下女「お竹」は大日如来の化身で、五代将軍綱吉の母・桂昌院の信仰が篤かった。お竹さんは誠心誠実で、一粒の米、一切れの野菜も粗末にせず貧困者に施したそうで、勝手元からいつも後光が射していたという。以前も見ていて書いたような気がします。この話を聞くと困った人を助けなければという気持ちになります。
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身延別院の油かけ大黒天神は、伏見の油かけ町出身の名優長谷川一夫の夫人の夢に、伏見の油かけ地蔵(前回見てきた)ならぬ油かけ天神が出てきて、この別院に相談して出来たという。
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十思(じっし)公園は、伝馬町牢屋敷跡で、石町(こくちょう)時の鐘がある。この鐘を合図に処刑が行われた。
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吉田松陰はここで処刑された。吉田松陰終焉の地の碑。
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隣に大安楽寺があり、ここは江戸伝馬町所刑場跡で、刑死者を供養する「延命地蔵尊」がある。
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横山町問屋街を歩く。神田川を浅草橋で渡る。以前、外堀歩きをしたとき、橋の手前の郡代屋敷跡を見、橋を渡った所の浅草見附跡を撮影し、神田川は船に乗ってくぐった懐かしい場所。
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昼食はこの辺りのお寿司屋さんで前回と同じ握りずし。
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銀杏岡八幡神社や蔵前の総鎮守の須賀神社を通り過ぎ、
第六天榊神社に寄る。浅草文庫跡碑があるが、明治7年創立の公立図書館跡だそうだ。
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首尾の松跡。吉原帰りの客がここで前夜の首尾を語り合ったという。
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向かい側には木の間に浅草御蔵跡が見えた。この付近に徳川幕府の米蔵があり、蔵前という地名の由来となったという。
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古典落語ゆかりの神社=蔵前神社。綱吉公が、江戸城鬼門除けの守護神として山城国(京都)男山の石清水八幡宮(次回行く予定)を勧請したのが始まり。
「元犬」「阿武松」という古典落語の舞台の地。
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歌川国安錦絵「力持」の技芸の奉納を描いたもの。
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諏訪神社。諏訪大社の分霊を勧請した。
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バンダイの本社があった。
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道路を挟んで駒形どぜう。もう何十年も食べていなくて・・・食べたい!
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お馴染みの景色。左が浅草駒形堂。
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浅草寺駒形堂。浅草寺の観音像が隅田川から示現した霊地だった。
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新型コロナウィルス問題で激減したというが雷門はすごい人の波。仲見世も動きがままならず、本堂も行列。年間3000万人が参拝するという。
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三社祭で有名な浅草神社。
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猿の次郎君が芸を終わったところ。お利巧で可愛い!
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浅草寺内をいつもと違ったところを見学。
初めて見た夫婦狛犬。
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旧仁王門礎石(東京大空襲で焼失)
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弁天堂。
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浅草寺時の鐘。綱吉の命により改鋳され、江戸の市中9ヶ所で時を告げていた鐘の一つだ。
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1687年の二尊仏。右・観音菩薩。左・勢至菩薩。
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2020年1月24日 (金)

京街道(1)髭茶屋追分~伏見宿~淀宿(前編)

1/16(木)に中山道木曽路はかなり寒そうなので、京街道を歩き始めました。ちなみに大阪からは「京街道」、京都からは「大坂街道」と呼ばれるが、地元で呼び習わされてるのは「京街道」ということばである。
東海道五十三次の延長で4宿を加え東海道五十七次です。

京街道は豊臣秀吉が伏見城築造のため淀川左岸に築かせた文禄堤が起源と言われる。
江戸時代東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見、淀、枚方、守口の4宿が設けられた。幕府は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、参勤交代の大名行列もこの道を通った。ただ、伏見から大阪に下る旅人は三十石船を利用し、宿には泊まらず、宿泊客は大坂からの上りの客だったそうだ。

のぞみ東京6:15発→京都8:26着。東海道線で山科へ、京阪に乗り換え、追分駅8:55着。

◆髭茶屋追分~伏見

駅を出ると、蓮如上人塚と追分道標がある懐かしい髭茶屋追分に出た。写真に写っていなかったが右側が京都三条大橋へ、左側がこれから歩く京街道伏見方面だ。昔この分かれ目に茶屋があったようだ。
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東海道や中山道と違って街道の標識は一つもないので、このあとマップの地蔵印がとても役に立つことになる。京都市に入っているわけだが、小さな地蔵堂にカラフルに塗られた地蔵が続くのです。
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街道の様子
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「牛尾山道」の道標。清水寺の奥の院の牛尾山法厳寺への道。
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木の切り株と「皇塚」(おおつか)と彫られた碑がある。大塚という地名の由来になったそうだ。ここに古墳があったそうだ。
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岩屋神社の鳥居がある。山科一の宮。奥の山にある巨大な陰岩と陽岩をご神体として、奥の院に祀られているそうだ。
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大宅一里塚跡は、京都市内で唯一残る一里塚だそうで、大きな榎は切り株になってしまっている。
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大宅廃寺跡の標柱(白鳳時代の寺の跡で、藤原鎌足が建立した山階寺であるとの説あり)を通り過ぎ、
歓喜光寺へ。本堂は淀君が二世(現世と来世)を幸せに過ごせるよう祈願して桃山時代に建立されたもの。無数の地蔵が並んでいた。
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京都で初めてのソース会社、オジカソースの工場。
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勧修寺(かじゅうじ)へ。地名は(かんしゅうじ)と読む。
勧修寺は醍醐天皇が、母の藤原胤子(たねこ)を弔うために創建したものだが、元は宇治郡の大領であった宮道弥益の邸宅跡という。入場料400円。入口への道は長い。修理中の本堂をはじめ、観音堂、書院、弁天堂などの建物が点在する。
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宸殿。江戸時代初期の御所の建物。1697年に明正天王から下賜された。
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手すりは曲げたのではなく、このまま切り出されたものとのこと。素晴らしい!
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ハイビャクシン(ぐじゃぐじゃした枝は全部1本の木で樹齢750年)。
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その右にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」という。
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88の霊石が埋められていて一周する八十八カ所巡りができるという四国八十八ヵ所巡りをやってみる。もう四国八十八ヵ所巡りは出来ないから。
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氷室池。庭は池を中心にした池泉庭園となっている。蓮池で夏は素晴らしいでしょう。
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ボケ
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明智光秀の胴塚に寄る。昨年歩き始めた追分から京都へ進んだとき、明智光秀の首塚を見た。
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昼食は京都でありながら、江戸前寿司であった。既にイカを食べた後に撮影。
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宮道(みやじ)神社。日本武尊と子の稚武王(わかたけのみこ)を祀っていて、二所明神とも言う。子孫と言われる勧修寺の邸宅跡の持ち主・宮道弥益(いやます)の娘・列子が藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁ぎ、生まれたのが宇多天皇女御、醍醐天皇生母となった胤子である。この列子の話が玉の輿第1号のようだ。この神社に弥益から列子、高藤、胤子まで合祀されている。宇多天皇と言えば世界遺産の仁和寺です。
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1㎞以上歩いていくと、醍醐天皇御母(胤子)小野陵がある。宮内庁の管轄で立派なお墓である。
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虫籠窓の古い家。
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着色したこんな地蔵も。
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JR奈良線の跨線橋を越え、京阪本線の手前の墨染駅の手前の藤森神社へ。伏見区の深草にある。菖蒲の節句発祥の地であり、紫陽花が有名だそうだ。
石造りの鳥居に後水尾天皇の筆による額がないのは近藤勇が外したそうだ。西国大名の参勤交代の道筋で、神社前を通る時、駕籠を下りて拝礼しなければいけなかったので、幕末の動乱時代、悠長なことは時代にそぐわないということで。
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蒙古塚。蒙古の大将の首が納められている。
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重要文化財の本殿は足利義教公(室町時代第6代将軍)が造営したと言われる。
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この街道も歴史上の様々な人物が出てきて興味深いです。

 

 

 

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2020年1月15日 (水)

中山道11 大井宿~中津川宿(3)

◆大井~中津川の続き

上用水之碑がある上宿休憩所が午後のおやつ時間です。中津川は栗で有名な小布施と同じく栗のお菓子が多い。
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上宿の一里塚跡(85里目)。片側だけ昭和9年に3分の1の大きさで復元された。
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石仏群!
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身体が一つ、頭が二つの双頭一身道祖神は市指定文化財だそうだ。是より苗木道と彫られている。↓に書いた苗木藩があるのでしょう。「岐阜のマチュピチュ」「天空の城」の異名を持つ山城があるそうだ。
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「こでの木坂 左ひだみち」と刻まれた道標もあった。飛騨に行けるのか。
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駒場村の高札場跡。
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3基の文字が書かれた馬頭観音と南無阿弥陀仏碑。
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中津川を中津川橋で渡る。この橋が、広重の晴れの方の中津川のモデルの場所。絵の昔の橋は100m下流にあったそうだ。
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●中津川宿(45番目) 大井宿から9.8㎞、落合宿まで4.1㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒。

橋を渡って中津川宿に入ってきた。宿の長さは2.2㎞。

中津川宿に行くのを前にして島崎藤村の『夜明け前』を読みました。
この宿の2つ先の馬籠宿の17代続いた本陣・庄屋の当主・青山半蔵は藤村の父がモデルで、平田派の国学を学び、国学に陶酔した人であった。明治維新に強い希望を持つも、実際の維新文明開化は希望と全然違うもので、その上国学への世間の冷笑に次第に挫折し、運命は悲惨な過酷な状態へと誘われます。

中津川宿は国学門人の地であることが他の宿とは違う大きな特色だったそうだ。安政6年~明治3年まで平田門人が35人もいて、中津川宿の本陣当主や分家の当主は夜明け前のモデルになって登場する。門人たちは水戸浪人の天狗党の通過を助け、長州藩の藩論を変えた「中津川会議」での桂小五郎の藩主待ち伏せを助けたりする。(その潜んでいた家をこの日の最後に見学する)

国学をここで初めて意識しました。賀茂真淵や本居宣長が「万葉集」「古事記」を研究し、儒学や仏教の日本伝来以前の日本古代の姿に立ち返ることを主張した。平田篤胤は神道思想を深め、復古思想から攘夷思想に結びついていった。この復古神道主義が廃仏毀釈運動に発展したわけで、中津川の北、苗木藩は日本全国でも特に激しかったそうだ。寺院や仏像などの破棄が私には実にもったいなく残念に思われたが、こういう理由であり、またそれゆえ、寺院が特権喪失し、仏教界の反省に発展したのも、国学であったということを知りました(以上、風人社ウォークマップのコラムを参照した)。廃仏毀釈がなぜ起こったかも知らなかったのです。

はざま酒造。うだつのある古い造り酒屋で杉玉が下がる。5つある中津川の酒造の一つで「恵那山」が有名。酒造を見ると相方の娘は必ずつつつと寄っていく。
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枡形の角にうだつのあがる家は旧中川家。中津川市出身の日本画家・前田青邨の絵にも描かれているそうだ。映画「青い山脈」ロケに帳場が使われたとも書かれている。中津川宿は説明板がとてもきれいでわかりやすい。
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白木屋(横井家)にもうだつが。ここは無料休憩所になっている。中二階に四畳ほどの隠し部屋があるそうだ。
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十八屋(問屋)、天満屋、川上屋(栗きんとんなどの栗菓子)などの建物が続く。
十八屋には水戸天狗党の負傷者をかくまった隠し部屋があるそうだ。
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枡形を曲がる。本陣は宿の一番高い所にあり、水害からも守られ、大名などが宿泊する際、常に防御や退却方法が考えられ、枡形によって見通せないようにしていた。
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再現された用水。火災に備えて作られたものだが、明治天皇が来られたさいに、馬車が通れるように埋められてしまったという。
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うだつの上がる庄屋の家は旅籠も営んでいた。
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森家脇本陣跡は中山道歴史資料館になっている。奥には土蔵の中に展示があり、上段の間の再現があった。
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資料館で木曽五木を見た。木曽五木とは尾張藩によって伐採が禁止された木曽谷の木です。
ひのき、さわら、あすひ(あすなろ)、こうやまき、ねずこ。いずれも建材など色々な点で優れた樹木。
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向かいは本陣跡で今は駐車場だ。
よく水害を起こし四度も川の形が変わったという四ツ目川を渡る。恵那山がよく見える。
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桂小五郎隠れ家跡を見学。上記したように、京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、この「やけ山」に隠れていた。
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栗きんとんで有名な「すや」。ここも栗のお菓子屋さん。
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中津川駅へ向かう。途中新しいマンホール発見。恵那山と市の花サラサドウダンのデザイン。
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恵那山が描かれたマンホールの向こうに恵那山が見えた。
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駅でお土産を買い、4時49分発のワイドビューしなの19号に乗り松本駅に6時4分に着く。
ここで駅弁を買い、6時40分発のあずさ32号に乗って、立川駅で乗り換え、自宅到着は9時過ぎであった。約35000歩。

夕ご飯は安曇野釜めしと井筒ワイン
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お土産は栗きんとん2種類。1種類は帰り着くなり食べてしまって撮影できず。
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木曽路は雪に埋まった本格的な冬で歩くことが出来ず、中山道歩きは春になってからです。その間は別の街道歩きです。(完)

 

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2020年1月10日 (金)

中山道11 大井宿~中津川宿(2)

◆大井~中津川

馬頭観音がまだまだあります。
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恵那駅から明智駅まで約25㎞の明知鉄道の高架をくぐるが、ずいぶんと低く背の高い人はぶつかりそう。終点明智駅には明智光秀が生まれた明智城址があるようだ。乗りたくなる、にわか鉄女です。
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寺坂の上宿石仏群。中津川までのこの区間には石仏群が多いと聞く。左から3番目は痰切地蔵で風邪を引いたらこの地蔵様を拝めということで、風邪の大家なので撫でて拝む。(しかしその後また引いてしまった、涙)
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街道をちょっと脇道に入ると旅人の墓がある。中山道を旅する途中、大井宿で亡くなった人たち60余基を埋葬していて4人が女性。(旅人には圧倒的に男性が多かったということでしょうか?)
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また石塔群があり、一番右は3.6mもある背の高い長石塔だ。大井宿の長国寺和尚が村内安全を祈願し、延宝8年(1680)に建立したもの。かなり古い。
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蓮花寺坂を上ったところに明治天皇行在所碑がありその先に関戸一里塚跡(87里目)がある。
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甚平坂石仏群の近くに虵塚(蛇塚)がある。蛇とは!
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根津神社に上がっていくと本殿の後に宝篋印塔があるが、これは根津甚平のお墓だ。
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根津甚平とは、源頼朝の御家人で信州の人と言われ、鎌倉幕府に怪鳥(キジ)退治を命じられ、馬に乗り、勢子と犬と鷹を連れ、怪鳥を追い、この坂に追い詰めた。しかし甚平と馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で倒れ、怪鳥は消えた。里人はこの坂に馬と犬を葬ったのだそうだ。
犬塚と馬塚
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甚平坂のピークに甚平坂公園があるが、本来はここから御嶽山が見えるはずであるが、残念ながら見えず。広重の「大井宿」の絵はその(1)に掲げたマンホールでも見たが、雪景色のここ、甚平坂と遠くに御嶽山が描かれているのであった。
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岡瀬沢庚申塔。岡瀬沢では庚申講がとても盛んで、庚申の日に講元の家に集まり青面金剛の掛け軸をかけて、お茶飯と汁、漬物の夕食を食べて夜が明けるまで話をしていたのだそうだ。   
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岡瀬沢の常夜燈。左が静岡の秋葉山に通じる道と刻まれている。
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社宮司跡。おしゃもじ様などとも言う。検地で使用した縄や尺杖を祀る。檜の根元には金神と氏神が祀られている。
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広久手坂の標柱から下ると三面八臂の馬頭観音。大変珍しい。弘久手の「久手」という名前は湿気が多い土地ということ。小牧長久手の戦いの長久手もそうなのでしょうか?
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中津川市に入った。マンホール(中津川市の坂本地区)。シデコブシとハナノキが描かれる。
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リニアの町の看板があって、少し先の北にJR美乃坂本駅があり、そのあたりがリニア岐阜県駅予定地だそうだ。
お昼はお店がなく、ファミマがあるという下調べで、イートインに。ミートソース、海老とブロッコリーのサラダと飲み物の昼食。

秋葉道との分岐にまたまた常夜燈があり、その先の篠原茶本陣は明治天皇、和宮も休憩されたところ。
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長連寺薬師堂跡、白木改め番所跡、茄子川村の高札場跡、坂本観音堂を通り過ぎる。
またまた石造物や馬頭観音が並んでいた。
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三ツ家の一里塚跡(86里目)。塚は昭和35,6年ころまで残っていたそうだ。
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将監塚。二代目美濃代官を(1613~1631まで)務めた岡田将監善同(しょうげんよしあつ)の墓である。名古屋城築城の際、木曽材持出奉行として駐在していた。その子の善政は江戸城本丸用に木曽材1万本を伐出している。それほど木曽材は重要視され、高額資材だった。
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三面八臂の准胝観音(左)と一面六臂の馬頭観音(右)。このような石仏を眺めていると飽きない。自分ではとても彫れない。
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恵那山ちらちらと見えていたが、 ドーンと現れた。恵那山は岐阜県中津川市と長野県阿智村にまたがる、木曽山脈(中央アルプス)の最南端の標高2191mの山である。 日本百名山及び新・花の百名山に選定されているとのこと。花の咲く季節に登ってみたいなあ!
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指さし道標があった。「新国道美乃坂本駅ヲ経テ大井町ニ至ル」「旧国道大井町ニ至ル」と刻まれている。
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坂本神社八幡宮の大木に絡んでいる黄色い実は何でしょう?カラスウリより大きく初めて見る実だ。キカラスウリでした。ポージィさん、ありがとうございました。
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六地蔵石幢。石柱の六面にお地蔵様が刻まれていてとても珍しい。大林寺の入り口としてだけでなく、極楽往生や道中安全を願ったという。
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またいろいろな石造物を見て、中津川市の別のマンホールを発見。おいでん祭りで踊られる風流おどりと市の花のサラサドウダンが描かれている。
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もう一つも見つけた。市の花サラサドウダンだけのデザイン。
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また恵那山の風景。広重の69次の中津川宿の絵には2種類ある。「晴の中津川」と「雨の中津川」で雨の方は世界に6枚しかないと言われる。その雨の方の絵がこの辺りから描かれた風景という。
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(続く)

 

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