2018年7月24日 (火)

東海道五十三次歩き27 益生~四日市宿~南日永(後編)

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◆益生~四日市宿の間の続き 富田から 

・十四川の堤の桜並木。両岸1.2㎞にわたり約800本が植えられている。枝振りが良いと全国表彰されたそうだ。
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立派な常夜燈を過ぎ、弘法大師が彫ったとされる秘仏の薬師如来のある薬師寺を通り過ぎる。
・常照寺の鐘 四日市大博覧会(昭和27年)で平和の鐘として展示されたもの
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・また力石があった。120㎏と19㎏。子供用の19㎏は持ち上げることが出来た。寺の土台石だったが明治の中頃から大正時代まで茂福地区の青年が力比べをしたという。
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・寄り道した茂福神社はたくさんの灯籠が寄進されている神社で、茂福城址は近鉄線路の脇のこんもりした小山にある。ここの最後の城主が1567年に信長の家臣の滝川一益に殺害され攻め落とされてしまった。
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・六段もある大きな大きな八幡常夜燈。三重県に入ってから常夜燈の大きさに目を瞠る。
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四日市の東海道は、標識だけでなく、ずっと歩道が土器色(かわらけいろ)に塗られていて親切だ。
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・かわらずの松 地名の川原須から来る名前。四日市市にはこれと日永の2本しか残っていないという。
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・志氐神社の東海道を挟んでの夫婦石。この神社にはイザナギ・イザナミの夫婦の神様が祀られている。人々は一対の石を撫でて、縁結び、夫婦円満の願いを込めたそうだ。志氐とは御弊(お祓いのための道具)。
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・古い家を見かけるようになる
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・光明寺では、最高の五本筋が引かれた筋塀が山門の両側にある。皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として引かれる。
ここは 霊元上皇の第14皇女八十宮吉子内親王は第7代将軍家継に嫁いだが、家継死後仏門に入り、その宮付に光明寺第5世俊応の妹が仕えたとあるが詳しくはわからなかった。
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・この四日市市マンホールは広重の絵の三重川で傘を吹き飛ばされているのを追いかける図だ。
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三元大師の道標、多度神社を通りすぎたら
・三ツ谷一里塚跡(99里目)で公園になっている
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・萬古焼の陶器工場が出てくる。宝来軒というお菓子屋さんの店先に首の長い大入道の看板があった。この先の諏訪神社の例大祭に登場するのは9mで日本一大きなからくり人形だそうだ。
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・三滝川(広重の絵には三重川となっている)を三滝橋で渡ると河口に有名な重化学工業のコンビナートが見えた。
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●四日市宿(43番目の宿)桑名から12.7㎞ 日本橋から387㎞ 宿の長さ約2.2㎞ 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠98軒。

・三滝川を渡った先に、1550年創業の「なが餅」笹井屋本店があり、このあたりから四日市宿になる。
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・問屋場跡 本陣などの解説板も殆ど見当たらない
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・別バージョンのマンホール 姉妹都市がわかる。娘が調べたところによると、上には四日市港の石油コンビナートと姉妹都市ロングビーチ(アメリカ)のスプルース・グース・ドーム、下には姉妹都市シドニーのコアラと天津のパンダが描かれている。
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・「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と書かれた道標は指で方向を示している珍しいもの。後で知って裏を見なかったのでわからなかった。
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・諏訪神社は信州の諏訪神社から勧請された。再建されたものだが、鳥居は青銅製。
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・東海道がアーケードになっている。丁度七夕の飾り付けがされていてきれいだった。
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・消火栓もモザイクも広重の絵。マンホールのもう一つのバージョンは四日市市の花・サルビア。
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・大入道の前は四日市のマスコットキャラ、こにゅうどうくん。自販機にも。
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・作家丹羽文雄の生誕地の崇顕寺
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・連子格子の古い家があった。この辺りで四日市宿が終わる
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◆四日市宿から南日永駅まで

あすなろう鉄道の赤堀駅を通り過ぎると鹿化(かばけ)川があり遠くに山並みが見える
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・6/30の茅の輪くぐりが有名な大宮神明社
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日永地区は間の宿で、名物に日永団扇、日永足袋、なが餅があり、団扇は東海道や伊勢参りの土産物として人気だったそうだ。
大聖院、興正寺、両聖寺(日永つんつく踊りで有名)を見て通る。本当にお寺が多い。

・最後に日永神社に寄って東海道最古の道標を見る。1656年に僧・専心が建てたもので、元は伊勢参宮同追分にあったものだそうだ。
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              東海道最古の道標 字は殆ど見えない512_300x450
・ すぐ近くの南日永駅に向かってあすなろう鉄道に乗る。スイカは使えず切符を買う。終点は四日市駅で200円。(殆どの時間帯、1時間に2本)
日本に3つしかないナローゲージ鉄道の一つで、あとは西桑名から出ている三岐鉄道と黒部のトロッコ電車である。
新幹線は1435㎜だがこれは762㎜だ。座席が左右1席ずつしかなかった。
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名古屋に出て40分後の席が取れたので駅弁を買う。
名古屋の名物の入ったお弁当は美味しかった。(名古屋コーチンの鶏飯、天むす、あんかけパスタ、みそかつ、エビフライ)。帰宅は9時半過ぎでした。次回は9月、またよろしくお付き合い下さいませ。
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             お土産は熱田神宮で食べたきよめ餅
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2018年7月20日 (金)

東海道五十三次歩き27 益生~四日市宿~南日永(前編)

7/12(木)曇後晴れ。 天気予報で確かめると気温31~33℃。 暑くてだめなら名古屋城の本丸御殿を見ることにして出発。前回と同じ電車に乗り、益生駅に到着、9時に矢田の立場跡から歩きはじめる。
娘に用意してもらったクールタオル、ひんやりガードUVカット、Shirt Cool、ヒヤロンなどが随分役に立った。それに飲物各種2.5ℓも飲む。幅50㎝にも満たない日陰を見つけては走り寄る。一日中かんかん照りでなく時々曇った時があったのも幸いでした。対策を立てれば暑くても歩けるが33℃が限界です。41153歩。

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◆益生~四日市宿の間 
由緒あるお寺の数々、立派な常夜灯、飛び出し坊や、力石、徳川家の威力などが印象に残った区間です。

歩き始めてすぐに和菓子屋「つたや」ではせっかくの<七里焼き>の小売りがなく、<桑名藩どら焼き>を買って午前中のおやつにする。本多忠勝が描かれている。
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すぐ斜め前のお寺の了順寺の山門は、桑名城の門を移築したものだ。
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・城南神社の鳥居は立派。それもそのはず、伊勢神宮の式年遷宮の際、内宮の一の鳥居が下賜され建て替えられているから。それは垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて、この地に休息したという言い伝えがあるから。御祭神は天照大神。
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前回最後に飛び出し坊やを撮ったが、この日もいろいろなバージョンがあり、女の子のもあったりでまたまた撮ってしまう。滋賀県がルーツと教えてくださる方がいました。
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江戸に向かう西国大名はここに立ち寄って衣服を改めてから桑名城下に入ったという晴雲寺を通り過ぎ、その先が安永の立場で、多くの茶店で賑わっていて安永餅が売られていたそうだ。

伊勢両宮常夜燈(伊勢神宮への祈願を兼ねているとのこと。1818年建造)と里程標
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・員弁川を渡ると三重郡朝日町。マンホールは町の木の白梅だそうだ。
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田圃の緑が目に染みる
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・真光寺には松平家の家紋の梅鉢紋が彫られた手水鉢がある。それは第6代桑名藩主松平定良が有馬温泉帰りに病死、員弁川の洪水で川止めになった時に遺体を安置して手厚く葬ったお礼に松平家から寄進された。
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・山口誓子の筆跡の句碑を通り、縄生一里塚(97里目)の標柱を過ぎると安達本家酒造がある。娘が重いのに「富士の光」を2本買っていた。
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萬古焼を発展させた森有節の墓は遠いので行かず、朝日資料館は水、土曜しか開館してなく閉まっていた。

・橘守部生誕地遺跡 独学で国学を学んだ人で天保の国学四大家の一人。お墓は東京向島の長命寺にある。
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・浄泉坊は徳川家に由緒ある桑名藩の奥方の菩提寺であったことから、山門の鬼瓦や本堂の瓦に三つ葉葵の紋がある。参勤交代でここを通る大名は、駕籠から降りて一礼していた。
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・タオル工場が続く東海道の両側には美しい田圃が広がっている
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・咲いたころを見たい桜並木がある
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・多賀神社常夜燈(1864)は大きくて立派だ。多賀神社とは滋賀県の多賀町にある長寿と厄除け、縁結びの神社で、お詣りした人が多かったからここに造られたのか。
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・朝明川を渡って、いよいよ四日市市に入った。
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このような看板を随所に見かけ。民家の塀にも東海道の表示板があちこちに掲げられとても親切な市だ。それに国道と殆んど重なることなく旧街道を進める。
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・19茶屋が店先に置いた力石。100㎏。茶屋で休んでいるとき余力のあるものが自慢げに持ち上げたらしい。
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・長明寺 ここの山門も桑名城から移築されたもの。ここは蒔田城址と言われ山門の手前の橋の下は濠でコイが泳いでおり、築塀もなされている。
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・富田の一里塚跡(98里目)京都は126里だそうで随分来たものだ。
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・行啓記念道路碑 また明治天皇かと思いきや、初めて大正天皇のもの。大正天皇が皇太子時代に現四日市高校に立ち寄られて授業参観されたことを記念した碑だ。
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・少し先のこちらは明治天皇御駐輦跡碑で、明治天皇は四度もこの地で休まれた。近衛文麿の筆だそうだ。
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昼食はJR富田駅近くのイオンモールの中の柿安ミートエクスプレスで、四日市名物とんてき丼(ご飯少なめ)を頼む。
ここでお水を5杯も飲む。午前中はどら焼きとヨーグルトドリンク。午後は凍らせたレモンドリンクやアイス最中、他ポカリスエット、ウーロン茶、緑茶を全部帰宅まで飲みきる。
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2018年7月11日 (水)

東海道五十三次歩き26 鳴海宿・宮宿・桑名宿(3)

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●桑名宿(42番目の宿)宮宿から0㎞(海里7里) 日本橋から372.3㎞ 宿の長さ2.7㎞ 本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒。脇本陣の数は小田原と並んで1位。旅籠数は宮に次いで2位。

桑名宿も宮宿と同様七里の渡しの渡船場として栄え、旅籠数も120軒も数える賑やかな宿場であった。

・六華苑を出て揖斐川の堤防の上を歩き宿場の中心へ向かっていく。向こうに長良川の河口堰も見えた。

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・大塚本陣跡(現在料亭・船津屋)、この先が船番所、脇本陣駿河屋(現在高級旅館山月)。
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泉鏡花がこちらの小学校の講演で来た時船津屋に宿泊し、この時の印象をもとにして小説『歌行燈』を書きあげた。演劇化し映画化するため、久保田万太郎もここに滞在し、戯曲『歌行燈』を書き、明治座で公演された後映画化された。読んでないので図書館から借りてきました。
「歌行燈句碑」久保田万太郎が船津屋主人に求められてその情景を詠んだ句碑。字が消えて読めない。「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」
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・桑名側の七里の渡し
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・伊勢の国一の鳥居。初めて建てられたのは天明年間(1781~1789)で、式年遷宮ごとに伊勢神宮宇治橋の鳥居を移しているそうだ。
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・蟠龍櫓(復元)が見える。広重の絵にも描かれている。蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍の事で、航海の守護神としてここに造られたという。
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・舟会所、問屋場跡、通り井跡を通り、蛤料理屋さんを見て、九華公園(桑名城址)へ
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                    お堀がきれい
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  天守台跡 崩れやすいため登るのは禁止。戊辰殉難招魂碑が建っている。
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             猫4匹に遭遇。この子は親分みたいな感じ。
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本多忠勝の像 徳川四天王の一人。関ケ原の合戦後家康は本多忠勝をここに配置し、その後城を整備していった。
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・東海道に戻ると右手に青銅の鳥居の春日神社がある。木製から青銅に造り替えられたのは1667年。門の奥には楼門が見える。逆光で見えないが、鳥居には色々な模様が彫ってあって、貫には藤紋、両柱の上部には上り藤紋がある。
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             島木には花輪違いの模様があるのには驚く
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「しるべいし」が鳥居の左下にあって、迷子石とも呼ばれ、左に子どもの特徴を書いた紙を貼り、右に心当たりのある人が子どものいた場所などを書いて貼ったそうだ。
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              楼門の左右には左大臣と右大臣がいた
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拝殿 春日神社(俗称)は桑名宗社(公称)で、桑名神社(拝殿の紋は「三」)に中臣神社(拝殿の紋は「大」)が遷座したもの。
拝殿には「大」と「三」の紋が見える。桑名宗社の紋は「大三」とのこと。
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・飛び出し注意の看板は蛤のかぶりものが
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・桑名城城壁 積石は「野面はぎ」「打込みはぎ」の乱積み。
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・歴史を語る公園 東海道五十三次を模していて、日本橋、富士山、そしてたちまち三条大橋に到着。面白い。
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・石取会館 昔銀行だったが現在、日本一やかましい祭りの「石取祭」の祭車や祭りの紹介施設。桑名七曲り一つ目を曲がった先。
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向かいのマルマンにて名物アイス饅頭を買って食べる。暑かったので美味しかったこと。
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・「右:京いせ道」「左:江戸道」と書かれる
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・光明寺、泡洲崎八幡社を通り、十念寺へ。森陳明(戊辰戦争で新政府軍と戦い、降伏後、桑名藩の全責任を負い、切腹した人物)の墓がある。桑名は幕府側についたため、このあと城も取り壊されてしまった。
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・寿量寺の、狩野光信(永徳の長男の絵師)の墓。江戸からの帰り、桑名で病死し、このお寺に葬られたのだそうだ。
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七曲見附跡で曲がり、シーボルトも見学したという広瀬鋳物工場跡の説明碑を過ぎる。

・天武天皇社 壬申の乱の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に泊まったことにちなんで建立された神社で、天武天皇を祭祀する唯一の神社だそうだ。
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・一目連神社 雨乞いの神で、火を扱う鋳物師によって信仰され、金属工業の神として知られたという。
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・善西寺の鐘
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・馬繋ぎの輪 実際の立て場はこの寺あたりで現在より少しずれていた
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・矢田立場跡(火の見櫓が復元されている)
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・近畿地方に多いと言われる飛び出し坊やだそうだ
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益生駅はすぐそこ、いろいろ近鉄を乗り継いで名古屋駅へ。約1時間後の切符が取れたので、きしめんをいただく。
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何時も買ってもらうお土産は、岡崎で買えなかった「あわ雪」、これがきめが細かくて絶品。写真が何処かへ消えてしまったのが残念。
7:42ののぞみに乗り、帰宅は11時でした。

今回桑名はブログ友の「花筐~花がたみ」Saas-Feeの風さまが歩かれてもっと詳しく説明されているのを参考にさせていただきましたが、とても全部見ることが出来ませんでした。お礼申し上げます。
                
                    (終わり)

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2018年7月 8日 (日)

東海道五十三次歩き26 鳴海宿・宮宿・桑名宿(2)

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●宮宿(41番目の宿) 鳴海宿から6.5㎞ 日本橋から約371㎞ 宿の長さ約1.3㎞ 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒。
宮宿は桑名への海上七里の渡しを控えていたことから、東海道で最も大きな宿場の一つであった。悪天候で欠航した際の船待ちの客や、乗り遅れた旅人で、他にはないほど248軒の旅籠で賑わった。熱田神宮の門前町でもあった。

新堀川を熱田橋で渡って宮宿(熱田宿)に入り、右に神明社があり名古屋と知多半島を結ぶ道の道標があった。

・一里塚跡(89里目)は再現されたもの
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・姥堂の建物の1階には裁断橋址があり、橋のミニチュアがあった。裁断橋は精進川に架けられていたが、川が埋め立てられすでにない。姥堂の姥は奪衣婆という説や日本武尊の母などという説がある。隣に都々逸発祥の地の碑があった。
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あんかけスパゲティの店でミラカンの昼食です。ミラカンとはミラネーゼ(赤ウィンナー、ベーコン、ハム)とカントリー(玉ねぎ、ピーマン、トマト、マッシュルーム)をミックスした具のあんかけスパゲティ。胡椒が効いているのが特徴でしょうか。面白い味でした。
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・すぐ先の鈴之御前(れいのみまえ)神社は熱田神宮への参詣者が禊をした場所だそうだ。神社の裏側が徳川家康幽距跡地だが見つからなかった。織田信秀の元に送られた時2年間ここに幽距させられたそうだ。
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・白本陣跡の表示は見つからず、七里の渡しへ曲がる手前に分岐点の道標がある。南は宮の渡しへ、北は美濃路・佐屋路へと重要な分岐点だ。いつか佐屋街道を姫街道と同じく余裕があったら歩きたい。
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・道標の向かいの地蔵が「ほうろく地蔵」。ほうろく売りが荷物の片方の重し代わりにして運んでここで捨てたのを石仏として地元の人が祀った。なかなか立派である。
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・赤本陣跡の説明板が、ひつまぶしで有名な蓬莱軒の駐車場にあった。お店は30分待ちという混み具合。
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・宮宿側の七里の渡し船着き場跡(宮の渡し公園)に到着。 芭蕉がしばしばここを訪れたことやシーボルトもここに寄ったということが説明板に書いてあった。
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                     熱田常夜灯
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時の鐘の櫓 昭和58年建築。江戸時代は熱田神宮前の蔵福寺にあって時を知らせていたが戦災で焼けてしまった。
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・公園の前の熱田荘。明治時代の建物で料亭だった。今はデイケアとして利用されている。
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・熱田神宮へ。三種の神器の一つである草薙剣を御神体としており、伊勢神宮に次ぐ社格を誇る。敷地19万㎡。本宮、別宮の他、摂社、末社など45社にのぼる。
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               愛知県の日本酒が奉納されている
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          御神木の大楠 弘法大師お手植えで千年以上という
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本宮拝殿 祭神は熱田大神(天照大神)他、相殿神四神。相殿神は同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること。広重の絵ではここの熱田神事が描かれる。
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鶏がいた。奈良の山の辺の道の石上神宮には神様としての使いの鶏がいる。40年前に奉納された東天紅や烏骨鶏だ。さて、熱田神宮のこの名古屋コーチンは奉納されたのか、勝手に棲みついたのかわからない。
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信長塀 信長が桶狭間の戦いの前、熱田神宮に戦勝祈願をした。戦勝した信長はお礼に築地塀を寄進した。
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           きよめ茶屋で、抹茶ときよめ餅のセットで一休み。
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ここで愛知県が終わりました。静岡県に比べてあっという間。往時の本陣や旅籠見学、美しい松並木、かきつばた園、東海道三社のうちの二社にお参りした。芭蕉の句碑が多く、しかも生前の直筆まで見られるとは。実にいろいろなお地蔵さまに会えたし、三面馬頭観音様もたくさん見ることが出来た愛知県でした。

◆名古屋駅から近鉄で30分、桑名駅で降りて歩きはじめるが、桑名宿七曲りを歩く前に海臧寺と六華苑を見学する。

・桑名のマンホール 七里の渡しと蛤
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桑名の千羽鶴 1枚の紙から最大切込みを入れながら97羽も鶴を折るそうだ
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・海臧寺 三大河川の治水工事に外様大名の薩摩藩が工事を命じられた。その間、悪疫、紛争、工事費の超過などの責任を負って殉難した24名の墓があり中央が平田靭負のお墓である。
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「通り井」・・桑名は水質が悪く、住民たちは飲み水の確保に苦労したので、桑名藩の4代目藩主が水路を造り、各所に井戸を設けて用水にしたという。・・説明板や三崎見附跡や蔵前祭車庫を通って、六華苑へ

・六華苑 山林王、桑名の実業家二代目諸戸清六の邸宅で洋館部分はジョサイア・コンドルの設計(鹿鳴館を設計した人)。「黒井戸殺し」のロケ地として使われたそうだ。敷地は18000㎡と広い。
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         洋室、庭(国の名勝)、和室、離れ屋とどこも実に素晴らしい。
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                        続く

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2018年7月 5日 (木)

東海道五十三次歩き26 鳴海宿・宮宿・桑名宿(1)

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6/22(金)晴れで暑くなりました。この日から名古屋まで「のぞみ」。東京駅6:43発~名古屋8:23着。名鉄に乗り換えて鳴海駅に戻り、9時頃より歩き始めました。鳴海宿の続きから宮宿へ。現在、七里の渡しがないので熱田神宮駅から名古屋駅。名古屋駅から近鉄で桑名駅へ。桑名宿を歩き、隣の駅益生駅より名古屋に出て、東京へ。47278歩でした。

●鳴海宿(40番目の宿) 知立宿から11.1㎞ 日本橋から約363.7㎞ 宿の長さ1.8㎞ 本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒。
殆ど遺構が残っていない。広重の絵は「名物有松絞」。

鳴海駅から旧東海道へ出てスタート。

・復元された鳴海宿高札場。宿場間の駄賃や人足賃を示しているそうだが読めない。
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・その奥の天神社は鳴海城跡だ。今川方の猛将・岡部元信は今川義元が討たれても籠城して戦ったという。
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・斜め向かいにあるお寺の圓道寺には三猿が山門の上の扁額に、本堂の上の屋根に、絵馬にも描かれる。
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どうして三猿?ここの御本尊が青面金剛明王だから。この明王はインド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し日本仏教における庚申講の本尊で、三尸(さんし)を押さえる神とされる。
「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わり、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいう。その教えが、三猿のモチーフになった。それで青面金剛や庚申塔の多くに三猿が彫り込まれていて、この東海道の旅でたくさん見てきて、初めて知ったというわけです。

                  青面金剛不動明王
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・お隣の誓願寺には芭蕉最古の供養塔があった。緑色の石である。このお寺は芭蕉の弟子・下里知足の菩提寺で、芭蕉没後の翌月に如意寺に建てられた供養塔が、すぐ近くのこの寺に移された。亡くなって翌月なので一番古いということになる。
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・少し先のところを右の道に入った所に東福院がある。廃城になった鳴海城の廃材で寛永年間(1624~1644)に再建されたもので山門が当時のもの。古く感じなかった。
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             門の脇の観音堂の中央は子宝観音である
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・丹下町常夜灯 ここが鳴海宿の西端。鳴海宿の東端と西端には常夜灯があって、今までなかったことで貴重とのことだ。
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◆鳴海宿と宮宿の間

・千句塚公園内の千鳥塚 芭蕉存命中に立てられた唯一の翁塚で、俳文学史上稀有の遺跡。この文字は芭蕉筆。1687年。
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・公園の奥に緒畑稲荷神社があるが、白狐が棲みつき神社を守っていたという。
建物内の狐と外の笑っているような白狐
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                  可愛い不動明王と弘法様
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・天白川を渡ると名古屋市南区に入る。またまた珍しい地蔵・いぼ地蔵があった。地蔵の左手のいぼ状の隆起に触れていぼが取れるのを祈願するという。
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・笠寺一里塚(88里目) 片側しか残っていないが、名古屋市に現存している唯一の一里塚。
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・玉照姫が祀られる泉増院 
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この後に行った笠寺観音(笠覆寺)には、呼続(よびつぎ)の浜の流木に刻まれた十一面観音があったが、堂が荒れ、観音像が雨ざらしになっていたのを見かねた玉照姫が自分の笠をかぶせた。後日娘が仕えていた長者の家に泊まった藤原兼平は娘を見初め、妻とし、その時から玉照姫とよばれるようになった。

・笠寺観音の山門は立派だ
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                        本堂
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              玉照堂 縁結びとして信仰されている
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               芭蕉の千鳥塚と宮本武蔵之碑もある
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・塩付街道(星崎塩田の塩を信州に運んだ道)の標柱を左に曲がると富部神社がある。隣の長楽寺に家康四男松平忠吉が病気の平癒祈願をし、無事回復したので、そのお礼に建てた神社。桃山時代の特徴を備えた国の重要文化財。
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・その長楽寺は動物寺で盲導犬サーブのお墓がある。御主人を交通事故から守って、そのため片足をなくした盲導犬だ。そもそもこの寺は弘法大師の創建で今川氏が再建したもの。
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                     目守弘法大師
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・鎌倉街道と交差したところの地蔵院の中に、又初めて聞く大きな(2.3mの坐像)湯浴地蔵がある。人々が湯を浴びせて祈願したことから名付けられたそうだ。
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・一方左折すると百毫寺があり、 年魚市潟(あゆちがた)勝景碑が建てられている。年魚市潟は鳴海から熱田にかけての海辺の湾入した遠浅の地形をさし、これがあいちに転じで愛知の語源になったそうだ。今は潟の面影がなかった。
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2018年6月28日 (木)

東海道五十三次歩き25 新安城~知立宿~鳴海宿(3)

先日テレビで「外国人がはるばる買いに来るスゴイ日本製品ランキング16」という番組があって有松が出てきたのでついでに全部見ました。
ランキングの15位に有松絞りのハンカチが入っていました。本当に凄い!
ちなみに一位から並べると、1.ニッカウィスキー(北海道)2.アメ横のお菓子 3.靴下・5本指など(原宿)4.アメ横の焼き海苔 5.あぶらとり紙(京都)6.七味唐辛子(京都)7.古着(原宿)8.木版画(京都)9.箸(銀座)10.絵具(天王洲)11.カー用品(町田)12.布(日暮里)13.錦鯉(新潟)14.革財布(浅草)16.傘(浅草)

◆豊明市から有松までの間・・・桶狭間の戦いに関する史跡があった。

・名鉄前後駅の先を右手に上って行くと戦人塚がある。桶狭間の戦いの戦死者2500人余を供養したところ。前後という地名も今川軍が狼狽して前後して逃げ惑ったという説がある。

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・豊明市の端の方に桶狭間古戦場跡がある。1560年に駿河・遠江・三河の今川が尾張の織田勢の急襲を受けて、義元が戦死した。信長は清州を出るときは6騎だけで、熱田神宮に戦勝祈願した時は1000人、合戦の時は軍勢3000人。対する今川25000人の軍勢だったという。
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                今川義元の霊が祭られている墓
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桶狭間七石表 
今川武将の七人の戦死場所の碑で一号碑が義元の戦死場所だ。二号碑が松井宗信の戦死場所。桶狭間古戦場はもう一つあるという説があってそこは名古屋市緑区で少し遠いために行かなかった。まだどちらが本当の古戦場だったかは決着がついていないという。
               義元の戦死場所(一号碑)
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向かいの高徳院境内にはお化け地蔵(亡霊を鎮めた地蔵)などいろいろな地蔵が並ぶ。そこに義元仏式の墓碑(法名を刻んで建立された供養塔)もあった。
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◆有松宿(間の宿) 
重要伝統的建造物保存地区(平成28年選定された。現在117ヶ所ある)で美しい街並みは800m続いている。重伝建であることを慕辺未行さまに教えていただきました。有難うございました。有松・鳴海絞りは国の伝統的工芸品に指定されている。

ついに豊明市から名古屋市緑区に入った。有松宿に着く。

        どの家にも「ありまつ」の絞り染めののれんがかかっている56_450x300
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       名古屋市の消火栓のマンホールは名古屋城としゃちほこだ
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               別バージョンはアメンボとのこと
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            有松のは絞りをイメージしているのでしょうか
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有松山車会館。3台の山車があり、交互に1台ずつ展示している。土日祝日しか開館していないということで見られなかった。
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服部家は1790年創業の絞り問屋。屋号が井桁屋。11棟の建物が県の有形文化財。主屋の2階は黒漆喰の塗り籠造、屋根に卯建が上がる。土蔵は漆喰の塗り籠造、腰はなまこ壁で防火対策を行っている。連子格子、虫籠窓等なんて美しいのでしょう。
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中舛竹田荘は有松絞りの開祖、竹田庄九郎ゆかりの建物で外観だけ江戸期の様式を再現。現在デイサービスの建物として使われている。
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絞り問屋の竹田邸の屋根の上には、明治時代のガス灯の名残のランプが置かれている。
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岡家住宅(右手)の二階窓は優美な縦格子だ。広重の絵の鳴海宿ではよくこれが描かれている。
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小塚家の立派な卯建。この建物は塗籠造のうち最も古いものの一つと言われる。
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この辺りで街並みが終わるが、電柱がなかったのでより美しかった。
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・有松の氏神の有松天満社
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・復元された有松一里塚(87里)
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●鳴海宿 知立宿から11.1㎞ 日本橋から約363.7㎞ 宿の長さ1.7㎞ 本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒。

・名残松を通り過ぎるとやがて永代常夜灯が現れる。ここが鳴海宿の東の入口である。
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・中島砦跡 織田信長が義元の侵攻に備えて築いた砦で、桶狭間の戦いでは重要な砦だった。
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・瑞泉寺の山門 宇治の万福寺の総門を模したもの。
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鳴海宿はとば口を見ただけ。次回に鳴海宿を見ることにしここで街道歩きを終え 鳴海駅に向かう。名鉄で名古屋へ。新幹線の並び席が取れたのが1時間後だったので山本屋本店で味噌煮込みうどんを注文する。漬物盛り合わせの中の生玉ねぎスライスが何も辛くなくて、生まれて初めてこんな美味しい生玉ねぎをいただきました。
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                   お土産はきしめん
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街道歩きに関してもいつもいつもお付き合いいただきありがとうございます。娘の有給休暇も今年度のはそのうちなくなりそうですし、真夏はお休みし、四日市から向こうをいかにして日帰りで歩けるか難問ですが、来年のいつかクリアできたらと思っています。次の鳴海宿から宮宿、桑名宿は先週歩きました。またよろしくお願いいたします。

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2018年6月24日 (日)

東海道五十三次歩き25 新安城~知立宿~鳴海宿(2)

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●知立宿(池鯉鮒宿)の続き

・山車庫 知立神社の例祭「知立まつり」の隔年に行われる本祭の山車が保管される。その時、知立神社では国指定重要無形民俗文化財の人形浄瑠璃芝居の「山車文楽」と「からくり」が上演される(ユネスコ文化遺産)。このあと似たような山車庫を桑名までいくつか見た。
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・その横の奥に入った所の宝蔵寺には追腹塚がある。石田光成が家康の暗殺を命じた加賀野井弥八郎の墓とこれに絡む刈谷城主や浜松城主との斬り斬られで刈谷側の家臣が二人切腹するという、ややっこしい話の塚なのである。三十三観音菩薩像もあった。
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・知立古城址 知立神社の神主氷見氏の居館だったが、桶狭間の戦いのあと、織田軍によって落城した。
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・あんまきの店・小松屋本家であんまきを食べる。美味しいのなんのって!
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・知立公園へ花菖蒲を見に行く。ここの花菖蒲は明治神宮から昭和時代にご下賜いただいたものだそうだ。例年なら見頃だが今年は見頃を過ぎていたがきれいにまだ咲いていた。
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・隣の知立神社へ(東海道三社の一つ。他は三嶋大社、熱田神宮)
                                 拝殿1832年(天保2)造営
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国指定重要文化財の多宝塔がなかなか素晴らしい。850年僧・円仁の創建、1509年の再建、1929年解体修理復元。
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                                          神社の裏の花菖蒲
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                                    太鼓橋は1732年のもの
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この辺りが知立宿の西見付跡だ

◆知立宿から有松宿(間の宿)の間 (知立市~刈谷市~豊明市へ)

・総持寺 家康側室・お万の方の生誕地碑がある。家康の次男・結城秀康を産んだお万の方は、知立神社の神主氷見氏の娘だそうだ。
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             洗心水琴窟 水子地蔵に7回水を掛けると水琴窟の音がした
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                             お地蔵様に囲まれた一願出世不動
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逢妻川を渡ると知立市から刈谷市に入って85里目の一里塚は現存せず説明板だけ。ここで回転ずし「くら寿司」で赤だし(味噌汁)で発汗で失われた塩分を補いながら寿司8貫と巻きずしを食べる。

・刈谷市のマンホールも知立市と同じかきつばた
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・十王堂の三面馬頭観音様
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・洞隣寺の中津藩士の墓(左2つ)と「めったくやしいの墓」(右の小さな墓)
帰国途中の中津藩士2人が喧嘩して斬り合いここに葬られたが、どうしても反対側に傾いたので村人が篤く葬りなおしたので傾かなくなった墓。
洞隣寺の気立ては良いが不美人の下女が医王寺の住職に恋したが、見向きもされず憤死。ここに葬られたが墓石から火の玉が出て「めったくやしい」の声と共に医王寺へ飛んで行ったとか。
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・いもかわ(ひもかわ)うどん発祥の地。名古屋では「きしめん」といわれる。
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・馬頭観音そのものが道標になっている。観音の台石を見ると「右 ころも」「左 東さかい」と彫られている。挙母(ころも)街道と東街道の分岐点の道標になっていた。
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・藤松駅手前付近の街並み
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・乗蓮寺の椎の木は樹齢850年の刈谷市の天然記念物 2本ではなく空洞だそうだ。
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・境川の境橋を渡ると刈谷市から豊明市に入った。ここが三河と尾張の境だそうだ。
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・豊明市のマンホールは桶狭間古戦場のデザイン
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・どんどん歩いていくと、こんな風に両側に残っている阿野一里塚(86里)がある
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                      (続く)

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2018年6月21日 (木)

東海道五十三次歩き25 新安城~知立宿~鳴海宿(1)

6/15(金)名古屋方面は1㎜程の雨のち曇りということで出かけました。地元駅5:17の中央線、東京駅発6:26の豊橋に停まる「ひかり」座席指定で出発。名鉄に乗り換え前回の乗車駅・新安城に到着し、歩き始めたのは8:45分頃。在原業平伝説の八橋かきつばた園に寄り、知立(池鯉鮒)宿を経て桶狭間の古戦場跡に寄り、間の宿の有松の重伝建の通りを鑑賞し鳴海駅に到着。名古屋に出て新幹線の座席指定の横並び2席がたった1ヶ所取れたのが1時間後の7時過ぎ。10時過ぎには家に帰りましたが、とても長い一日でした。約46000歩。
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◆新安城~知立宿まで

・駅からすぐの所に立派な崇福寺がある。注連縄が張られた三猿に会えなかったが素晴らしい庭に感動。
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コンロンカや夏椿が咲く
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・安城市の別バージョンの七夕の図柄のマンホール 安城も平塚や仙台と同じく七夕が有名とのこと。
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猿渡川を渡ると安城市から知立市に入った。

・御鍬(おくわ)神社には伊勢神宮の2分の1の大きさの、神明造りの本殿があった(建物は大正時代に造られた)。江戸時代に近隣の8つの村が連合して伊勢から御鍬神を勧請した。豊受比売尊が祭神で豊作を祈ったのだそうだ。
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・「従是四丁半北八橋業平作観音在」と彫られた道標は八橋かきつばた園のある無量寿寺へのもの。往復2㎞もあるがそこへ向かう。
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・東下りの途中、同行者に言われて詠んだ在原業平の有名な歌は(かきつばた)の五文字を冒頭に据えた。
 からころも 
 きつつなれにし 
 つましあれば 
 はるばるきぬる 
 たびをしぞおもう
と刻字されていて、まわりに「かきつばた」がデザインされている知立市のマンホールがあった。
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・無量寿寺 
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杜若姫供養塔や芭蕉連句碑が境内にあり、また亀の上に立っている亀甲碑(八橋古碑)・・・(荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた)がある。
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             業平竹 縁結びの竹として信仰されている
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                    杜若池(心字池)
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所在地の八橋は古来から杜若の名勝地であった。現在かきつばた園には3万本の杜若が咲く。4月終わりから1か月間開催されるお祭りは今年は生育不良で中止になったそうだ。この日、1輪だけ咲いていた!
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昭和になって復元されたかきつばた園の八橋。満開だったら尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」を彷彿とさせるでしょう。この絵の10年後、橋を描いた「八ッ橋図屏風」を制作している。伊勢物語を題材にしているが、八橋の杜若がモデルだったとも言われる。
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                 業平像と句碑もあった
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・東海道に戻り進む。松の植えられた塚が両側に残っている来迎寺一里塚(84里)がある。普通は榎が植えられている。
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・吉田忠左衛門夫妻の墓 忠左衛門は赤穂浪士の一人。妻りんは身を寄せていた娘婿が刈谷に転封されたので、この地に移り亡くなった。死別の折、形見に貰った夫の生歯とともに埋葬されたとのことだ。
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両口屋本舗の「ミカン氷餅」を午前中なのでやめたのは残念であった。

・三河三弘法の一つ見返り弘法大師道、遍勝院への道の入口。見に行けなかったが、三弘法とは別れを惜しんで、 やや右を向いて振り返っておられる御姿の見返弘法大師と、立ち去る大師との別れを惜しんでお見送りされたので見送弘法大師、大師との別れに際して涙を流されたので流涕弘法大師と呼ばれる三体の弘法大師像のこと。
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・知立宿の東の外れに松並木がある。500mに170本植えられているそうだ。
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並木横の歩道には池鯉鮒の碑と可愛いモニュメントがあり、杜若も植えられている。万葉歌碑と馬市句碑と広重の絵が並木の最後にあり、知立市の力が入った松並木は楽しい。
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●知立宿(池鯉鮒宿)(39番目の宿)岡崎宿から15㎞。宿の長さは1.36km。日本橋から約351.6㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒。

・名鉄三河線の踏切を越えたら東見附跡。ここを右折して慈眼寺へ。入口の家畜市場標柱。
広重の絵にも野原で開かれている馬市の様子が描かれるが、明治時代に、馬市はここ慈眼寺境内に移り、昭和19年に馬市は終了した。
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愛知県はお地蔵さんが多い印象だが、このお寺にも珍しい名前のお地蔵さんがいらした。馬頭観音は60年に1回の開帳とのこと。
                      北向き地蔵
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                       蚕地蔵
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              マンマ地蔵(歯が痛いときにお詣りする)
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                  顔が白いおびんずる様
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こんな店があった
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・知立市別バージョンのマンホールはやはり「かきつばた」
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・問屋場跡の石柱を過ぎると、本陣跡、明治天皇行在所碑があった。
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2018年6月14日 (木)

東海道五十三次歩き24 美合~岡崎宿~新安城(後編)

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●岡崎宿の続き

・いよいよ岡崎公園の中の岡崎城へ27_450x300
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                                    龍神神社の前のご神馬
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  天守閣(昭和34年復興)  手前右は亀の台座の上に家康公の遺訓碑が。
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家康は1542年にここで生まれ6歳で織田信秀の人質、8歳で今川義元の人質に、19歳の時の桶狭間の戦いにて義元戦死でここに戻る(1560)。10年後1570年に嫡男信康を城主とし、自分は浜松へ。秀吉によって家康が関東に移されると、二十七曲を造った秀吉の家臣・田中吉政が城主。江戸時代になってからは岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏と家格の高い譜代大名が城主となったと説明されていた。他、武具や城下町の産業(鋳物・刀鍛冶、石工道具、三河花火、矢作川舟運、八丁味噌など)やジオラマが展示されていた。
                                      5階展望台からの景色
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石垣めぐりのマップに寄れば、岡崎城跡には見えないものも合わせて23種類の石垣が紹介されている。岡崎産の花崗岩が使われている。
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またまた芭蕉句碑を見、家康公の銅像、花時計、二の丸の跡の能楽堂、東照公産湯の井戸などを見学した。
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・城から八丁ある八帖町、八丁味噌発祥の地だ。「い」から始まった標柱の最後に見た「れ」は1枚板で草履も絵で描いてあった。
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カクキュー(1664年創業)とまるや(1337年創業)がある。

まずカクキューの方で「味噌煮込みうどん」の昼食をとる。白い大きな食品は「たま麩」だそうだ。八丁味噌(豆味噌)の味が少々鹹いけど、汗をかく歩きには塩分補給になった。
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                  自販機が八丁味噌色
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まるやで工場内見学
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高さ2m、重さ700㎏の木桶に約6トンの味噌が入れられ、その上に3トンの重石が円錐状に積み上げられる。一人前に積めるようになるには10年かかるそうだ。八丁味噌が欧米、オーストラリアやニュージーランドに輸出されているそうだ。
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カクキューとまるやに挟まれた旧道を進み矢作橋(東海道三大大橋)を渡る。江戸時代9回も架け替えられたとか。広重の岡崎宿の絵に描かれている橋だ。
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渡った先に蜂須賀小六と日吉丸の出合之像がある。秀吉は出世前はこんなところにいたのだ。この辺りで岡崎宿とお別れ。
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◆岡崎宿から新安城駅まで

・家康の長男信康の肖像画や遺品があるという勝蓮寺は見られないのでパス。弥五謄神社(やごとう神社)を通り過ぎ、誓願寺十王堂を覗く。この寺は浄瑠璃姫と義経にまつわる伝説があるらしい。
                    十王堂の中

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・竊樹神社(ひそこ)という字も読みも難しい神社を過ぎ、薬王寺の手前に「三河国薬王寺刀匠鍛刀造趾碑」がある。室町後期から薬王寺派の刀鍛冶集団が住んでいたそうだ。
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安城市に入って松並木が続く。松の根元にはマツバギクがずっと植えられキラキラ輝いている。
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         暑いので夕方近くならないと見られない猫、癒される。
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・東高根用水祈念碑や予科練の碑( 第一岡崎海軍航空隊跡)、一里塚跡(83番目)を過ぎた所で安城市のマンホールがあった。安城市発祥の三河万歳の扇と鼓。
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・永安寺 助郷役を宿場から命じられたとき、村の窮状を訴えて免除を願い出た庄屋・柴田助太夫は1677年に死罪になった。その恩に感謝し村の人々が彼の旧宅跡に草庵を建立、のちに寺として整えられた。その頃からある雲竜の松で推定350年。枝張りが東西17.9m、南北24.7mで、高さ1.5mの所から雲を得て昇ろうとする竜のようでこの名が付いた。何て大きな立派な松なのでしょう!
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                三十三所観音もあった
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明治川神社交差点に立つのは明治用水記念碑。矢作川から水を引き、西三河を灌漑するための用水路で、この一帯は「日本のデンマーク」と言われる農業地帯となったそうだ。

                また松並木で涼しく感じる
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・扁額が落ちてしまっている青麻神社は道端に石造物がごろごろとあるだけだが、明治初期に活躍した力士、濱碇(はまいかり)の像が目立つ。
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ここを左に曲がって新安城駅へ。豊橋からひかりに乗れる時間帯だったが、金曜日で混んでいる模様で、先に出るこだまに乗車したが2時間10分もかかって東京駅に到着。家には10時過ぎの到着になった。
お弁当もほとんど売り切れだったが、買えたのはおかずがなくてわびしい助六寿司だった。が美味しかった。
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2018年6月11日 (月)

東海道五十三次歩き24 美合~岡崎宿~新安城(前編)

5/25(金) 先の戦争の大空襲で往時の面影が殆どない岡崎宿だけれどもいろいろ力を入れている。その岡崎宿と岡崎城、八丁味噌の発祥地で営業を続けている2つの老舗の見学を中心に歩きました。暑くなり、1年ぶりのアイスクリーム日和でした。40662歩。
新幹線の殺傷事件の犯人が岡崎の人と聞いてびっくり。
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◆美合駅から岡崎宿まで

・プローディアが咲いていた。庭に咲かせておられるブログ友Sさまに教えていただきました。ありがとうございました。
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・地蔵寺 名前の通り、いろいろなお地蔵さまに会える。六地蔵、聖観音菩薩、子育地蔵尊、抱き地蔵、水をかけると心もきれいになる水掛地蔵尊などなど。それに愛知県に入ってから知って気になる、鯖大師や三面馬頭観音にも会えた。
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・河原で馬がくつろいでいる。4月に行われる家康行列のための馬だという。
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・岡崎市のまたまた別バージョンのマンホール。岡崎城と乙川の五万石船である。
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・大岡越前守忠相の西大平藩陣屋跡・・大岡忠相は将軍吉宗の口添えでこの岡崎の領地を加増され、72歳のときに1万石の大名になった。町奉行から大名になったのは大岡忠相のみである。大岡家は江戸に常駐する定府大名で、家臣の多くは江戸に住んでいて、この陣屋に詰めていたのはわずか十数人だったそうだ。廃藩置県まで7代にわたって治めた。私の故郷茅ヶ崎にも領地があって、墓所は茅ヶ崎だし、大岡祭も4月に開かれていた。
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陣屋内に大岡稲荷神社がある。大岡越前守はここの領地に近い豊川稲荷を信仰していたので、社殿を建立した。
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・ここからすぐ近くに常夜灯と地蔵堂があって、地蔵尊や三面六臂の馬頭観音が並んでいる。
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・大平一里塚(80里)向かい側に立派な一里塚が残っているが、片方のみで手前側はなくなってしまっていた。国指定の文化財だ。
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・大平松並木
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●岡崎宿(38番目の宿)藤川宿から6.7㎞。宿の長さは約4.5㎞位か、とても長い。日本橋から約335.9㎞。本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。

・いよいよ岡崎城下の入り口、冠木門と二十七曲(まがり)の説明板があった。手元の風人社の地図で曲りをなぞってみると確かに27回曲がっている。

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宿の枡形は参勤交代の大名の鉢合わせを防止するために設けられた。城下町の枡形は外敵からの防衛のためだった。岡崎は宿と城下町を兼ねるが主なる目的は外的防御のためだった。
この大改革を行ったのが、家康が関東移封後岡崎城主となった田中吉政だった。

・複雑に曲がるが、角ごとにこんな標柱が立っているので迷わず行ける、というか私は娘の後にくっついて行っただけだが。標柱の上に草履がのっているのが面白い。
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・初めての角を曲がると根石原観音堂がある。この辺りに住む90歳に近いと思われるおばあさんが観音堂のリーフレットをくださった。何でも毎日お詣りしていた御主人がピンコロで昨年亡くなったのはこの観音様のお蔭だったと。あやかりたく通りがかりの者だけどお詣りした。
家康が初陣の時祈願し軍功を上げた。本尊は行基作の観世音菩薩。
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・宿の中心の伝馬町の通りの両側に10ずつ20も街道にちなんだ石造物が並ぶ。なかなか可愛いので全部写真を撮ってしまう。お茶壺道中、朝鮮通信使、助郷、飯盛女、田中吉政、人馬継立、三度飛脚、塩座、御馳走屋敷、籠田惣門、旅篭屋、市隠亭、一里塚、往来手形、作法触れ、あわ雪茶屋、矢作橋、二十七曲、駒牽朱印、本陣・脇本陣。
この説明を読んでいると、当時の宿場での特に大名や偉い人に対しての接待がいかに大変かがよくわかった。

お茶壺道中・・宇治茶を幕府に献上するお茶奉行をもてなすための負担が大きく各宿場から恐れられていたとか。
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                      朝鮮通信使
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          御馳走屋敷 岡崎藩の迎賓館的役割を持った屋敷
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          籠田惣門 東海道から城郭内に入る門の一つ
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作法触れ 行列が来ると町奉行から、前日から下肥をまくなとか、手桶・帚・提灯を出しておくこと、通行に際しては土下座をすることなど指示され御馳走触れも出され、出迎え支度が大変だった。
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・岡崎信用金庫資料館(日本や世界の貨幣の歴史や展示があるそうだ) 最初は岡崎銀行本店だった。国の有形文化財。
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・東総門跡
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・又曲がって田中吉政像(二十七曲を造った岡崎城主)
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・また何度か曲がって大林寺へ 
戦国時代の松平氏の岡崎城の守りの拠点となった寺
家康の祖父・松平清康と夫人春姫の墓、家康の父・広忠の墓がある。
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・向かいには唐弓弦(とうゆみづる)という看板のかかった家があった。かつての岡崎は三河木綿の特産地だった。唐弓弦とは江戸時代に使用されていた綿をうつ道具でこれを扱っていた店だ。
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・曲がった所に白山神社があって、唐弓弦と取引があった大阪の問屋が奉納した石灯籠が残る。
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