2025年3月 5日 (水)

青梅街道7 東青梅~青梅宿 (私の最後のブログです)

2/27青梅街道歩きの最後の目的地青梅に到着。お寺の多い今日の街道歩きでした。

東青梅駅から街道に出た1時50分過ぎ「ぶらり青梅宿」の幟がぶら下がっていた。ここから青梅宿に入ったようだ。
1_20250305151901

踏切を挟んである乗願寺や勝沼神社を過ぎると源平咲きの梅の花が咲いていた。
2_20250305151901

宗徳寺の梅とライオンのような石像。
3_20250305151901
4_20250305151901

次は宗建寺へ。
5_20250305152001
ここには裏宿七兵衛の墓がある。
裏宿 七兵衛(うらじゅく しちべえ)とは、江戸時代中期の青梅裏宿出身の義賊で本業は農民。
Wikipediaに寄ると、まれにみる俊足で、遠方の悪徳商人宅などに盗みに出向き、一夜のうちに甲斐、秩父、相模を引き返しては、盗んだ金品を貧者の軒先に恵み、素知らぬ顔で日中は畑仕事をしたとの伝承があるが、実在であることがわかった。
元文4年に盗賊一味の頭として捕らわれて打ち首、獄門の刑に処された。暴風雨により近隣に位置する宗建寺に首が流れ着き、不憫に思った住職が手厚く葬ったと伝わる。
中里介山の長編小説『大菩薩峠』に描かれたことで、広く知られるようになった。
6_20250305152201
親蛙の背中に5匹の子蛙が乗る、むかえる(六蛙)がユーモラスだ。
若返る、栄える、蘇る、福に変える、無事帰る、良く考えるの「かえる」だそうだ。
7_20250305152301
毘沙門天
8_20250305152301
小さな三重の塔
9_20250305152301
石像群、石の状態で江戸時代後半らしいことが見てとれる。
10_20250305152401

の街・青梅のど真ん中にやってきた。

塀には猫の絵が並ぶ。
11_20250305152401
12_20250305152501

住吉神社 階段が70数段あった。
13_20250305152501
門番的な「恵比須猫」と「大黒天猫」
14_20250305152501
15_20250305152601
江戸時代に建立され、本殿、幣殿、拝殿が一体として残った貴重な建物で彫刻も素晴らしい。
16_20250305152601
17_20250305152701
青梅宿アートフェスティバルの石猫(石に猫を描く)の作品が階段でない方の坂道に飾られていた。
18_20250305152801
19_20250305152801
20_20250305152801
21_20250305152901

街道に降りると昔駅の構内にあった映画ポスター、猫・変形判がたくさん貼られていた。
22_20250305152901
23_20250305152901
24_20250305153001
25_20250305153001
26_20250305153001

カラー版・消防のマンホール
27_20250305153101

常保禅寺の倶利伽羅龍王(不動明王の化身が剣に巻き付き剣を飲み込もうとしている)
28_20250305153201
開運招き猫地蔵 随分いろいろな猫を見た。
29_20250305153301

旧稲葉家住宅のお雛様には静岡、愛知県などで見た御殿雛があった
30_20250305153301

金剛寺
表門はお寺で唯一天保の火災を免れた門。
31_20250305153401
梅 平将門伝説の古木。季節が過ぎても黄熟せず落実まで青く「青梅」と付けられ青梅市の名の由来となったそうだ。
32_20250305153401

裏宿町の七兵衛公園にある裏宿七兵衛供養塔
33_20250305153501
ここでおやつにどら焼きを食べる。
青梅宿はこのあたりで終わり、すぐそこは次の宮の平駅、更に日向和田駅、石神前駅まで歩き、その手前の「へそまん惣本舗」でへそ饅頭をお土産に買ってもらって本日の歩きを終わりました。
へそに見えます。
34_20250305153501

地元駅には5時半頃到着。約19600歩。
奥多摩駅までいつかは行けると思いますが青梅街道歩きは一応ここで終わります。

=====================================

私の拙ブログを読んで頂いた皆様、コメントをずっと書いてくださった皆様、今回を以ってブログをお仕舞にいたします。
20年が目標でしたが、19年と4か月でした。下旬よりのっぴきならぬ事情が生じまして続けることが出来なくなりました。
本当に長い間ありがとうございました。お陰様でたくさんのことを教えていただき、刺激をいただき人生最後にこんな楽しいことに付き合っていただき感謝の言葉しかありません。
唯、時々皆様のところには訪問させてくださいませ。また過去の一部を少し見るために暫くこのままにさせていただきます。tona

| | | コメント (31)

2025年3月 4日 (火)

青梅街道6 箱根ヶ崎宿~東青梅

3月2日に本稿を投稿して、昨日コメントをいただきお返事中に突然消えてしまい、数日すれば戻ると言うお話も聞いたのですが、本日にも戻る様子もなく、ポージィさん、多摩NTの住人さん、ビオラさんには大変申し訳なかったです。もう1度再現しましたのでよろしく目をお通しいただけたら嬉しいです。

あれから三週間、箱根ヶ崎駅から歩き始める。駅構内にこのあたりの名品として狭山茶、村山大島紬と東京だるまが紹介されていた。
東京だるま。いろいろな顔があって見ていて楽しい

早速茶畑。
2_20250304153901

東膳院の本堂
地蔵堂(旧本堂)を覗いてみる北向地蔵尊が見え、その前には勝軍地蔵なる珍しい地蔵がいて、軍帽をかぶって馬にまたがっている。
3_20250304154001
しだれ梅がきれいだ。
4_20250304154101

青梅市に入る。
マンホールのデザインは市の花の梅と鳥の鶯。
5_20250304154201

このあたりは川もないので水路もなく、新田開拓時に多くの井戸が掘られたものの、青梅街道拡幅で埋められてしまったものが多いそうだ。
これは桜株井戸跡碑である。
6_20250304154301

少し進むと東禅寺がある。
元和16年(1616)、新町村を開いた吉野織部之介が建長寺覚海を勧請して開山した。
吉野織部之助はあの有名な忍城城主成田氏の家臣だったが、主人の滅亡後、この地に定着し、名主となった人物だ。
山門
7_20250304154401
布袋様
8_20250304154501
小さいお地蔵様のある庭。
9_20250304154601
本堂の前の常夜燈は宝暦11年(1761)のもの。
10_20250304155501
青梅のお寺はどこも梅が多い。丁度良い季節に歩いたものだ。
11_20250304155501
お寺に昔の井戸があった。
12_20250304155601

大井戸公園に青梅新町の大井戸がある。
すり鉢状に深さ7mまで堀り下げて、筒井戸を掘ったもので、江戸時代以前に道行く人馬の飲み水を供給する場所として掘られたらしい。(以前行った羽村のまいまいず井戸はもっと大きかったような)
13_20250304155601
14_20250304155701

公園を抜けると御嶽神社がある。
15_20250304155801
吉野織部之介が新町村開拓完成(元和2年(1616))と同時に大和国金峯山権現を勧請して創建した神社。
本殿。御祭神は、広国押武金日命、日本武命、木花咲耶姫命。
16_20250304155901
塩竈神社。御祭神は、塩土老翁神、神功皇后。
17_20250304160001
他に新町天神社や新町水神社などがあって立派だ。まだまだ知らない神様の名前が殆どです。

18_20250304160101 

街道に戻り、旧吉野家住宅に寄る。
江戸時代初期に新町村を開拓し、代々名主を務めた吉野家の旧宅。現在の住宅は江戸時代末期に建てられた物で、整形六間形(せいけいむつまがた)。
19_20250304160101
井戸は慶長16年(1611)に掘り始めて18年に完成した慶長の井戸。なんと古い!
20_20250304160201
座敷。右側の戸の向こうは広い板の間のお勝手。
21_20250304160201
奥座敷に雛人形が飾られていた。
22_20250304160301
すわりながし
23_20250304160301
土間
24_20250304160401

街道を歩いて行くと、井戸跡の碑がいくつか出てきたが鈴法寺跡に寄る
川越から吉野織部之介の寄進によりこの地に移転してきた、虚無僧で有名な普化宗の本寺の一つだったが、明治になり廃宗となった。
明治28年火災によって堂宇は焼失し、残った冷気大住持の墓。
25_20250304160501

この先、字のあまりよく判別できない追分道標(青梅街道と飯能・川越道)を見て、青梅六万薬師堂へ。
天正18年(1596)、師岡城落城後に疫病がはやったことから天寧寺の和尚が法華経六万部を読誦・書写し一宇を建立したと伝えられているそうだ。
26_20250304160501 
お薬師様
27_20250304160601

このあと、駅そばの和菓子のおみやげを背に、東青梅駅へ。桜かすてらは初めての味でした。
28_20250304160701
中央線のまだ無料のグリーン車に乗ったので新幹線気分。帰宅は5時すぎだった。
約20000歩。半日だと以前の半分で楽でした。

| | | コメント (10)

2025年2月17日 (月)

青梅街道5 桜街道から箱根ヶ崎宿

1/30 今回は見所はあまりないので、どんどん歩き、良い運動になりました。
前回の逆コースで桜街道に着き、12時40分スタート。

桜街道だが、桜の他、こんな下を刈った松?の街路樹が続く。
1_20250217161301

クロガネモチの実。鳥さんは嫌いなのか殆ど残っていた。
2_20250217161401

正面に見えるのは奥多摩三山の一つ、この間登った大岳山か。山が近くなってきた。
3_20250217161401

横田基地も近くなって飛行機が時々飛び、やがてイオンモールむさし村山が見えてきたので、ここのサーティワンでアイスを食べて休憩する。巨大な商業施設があって便利。我が家は駅まで坂もあり今の足では15分で商業施設を作ってはいけない区域で老体には買い物がだんだん不便に感じるのです。それで週1で車に乗せて行ってもらっているですが、それでも街道歩きして足慣らしです。
4_20250217161501
5_20250217161501

残堀川を上砂橋で渡ると富士山が見えた!
6_20250217161501
7_20250217161601

ひたすら歩くと馬頭観音があった。明治4年建立。道標を兼ねていて、右側に「明治四年未年四月吉日 右青梅道」、左側に「武州多摩郡岸村 左羽村道」と書かれているとのこと。
8_20250217161701

武蔵村山市から西多摩郡瑞穂町へ入る。箱根ヶ崎宿だ。
マンホールは、町の木・松の枝に止まったオオタカがいて、町の花・狭山茶の花と町章を周囲にデザインしている。
9_20250217161701

立派な一本榎です。この下に庚申塔があり文化10年(1813)建立。江戸街道とある。
このあたりは江戸街道の表示が続いていて、青梅の成木から石灰を運ぶために整備された道だったそうだ。
10_20250217161701

新青梅街道を横切り、旧道は細い道を行くと蔵がある。千人同心道(日光街道)と合流する角の旧旅籠の関屋家のもの。
江戸時代の御嶽神社参詣案内書「御嶽菅笠」に旅籠関屋として紹介されているそうだ。
12_20250217161801

千人同心街道と青梅街道が交わる箱根ヶ崎は交通の要衝として大変な賑わった宿場で、江戸時代後半になると日光参拝や、富士講、御嶽講など観光目的の旅人でも賑わったという。
明治時代に入ると千人同心の日光勤番が廃止されたことや輸送形態が変わったことなどにより旅籠の数も減ってしまい、現在は静かな街並みである。

このお店は創業明治5年の漢方の會田商店。ここを左折して千人同心道とはわかれる。
12_20250217161901

しばらく行くと圓福寺がある。この日唯一のお寺なので宗派も調べず見学する。
13_20250217161901
仁王門。木彫りの仁王様であまり怖くないお顔だ。
14_20250217162001
阿形
15_20250217162001
吽形
16_20250217162101
観音堂
17_20250217162101
本堂
18_20250217162101
別石六地蔵。後ろの庚申塔は道標になっている。
19_20250217162201
鐘楼
20_20250217162301

ここで本日は終わり。八高線の箱根ヶ崎駅より帰る。拝島で乗り換え、青梅線にて地元駅に5時前到着。
あんみつをご馳走になってお土産をもらって帰宅。
約21500歩。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
塩野七生氏の『ローマ人の物語』そのあとの地中海関係の数冊、その後に出た『ギリシャ人の物語』を読み、ローマ以前に書かれた本でほぼ塩野氏の本を読み終わりましたが、最後のギリシャ人の物語の最終が「アレキサンダー大王」だったのですが、遠征の様子もよくわかって秀逸でした。

 

| | | コメント (11)

2025年2月 6日 (木)

青梅街道4 花小金井~小川宿~桜街道(2)

今回は小平市を歩いていてその続きです。
小平市の別のマンホール。市の木ケヤキと小平市の街並みがデザインされている。
1_20250206144601

小平市の中心あたりから昔は小川村が広がっていた。そこには小川用水が流れる。西武国分寺線に小川駅があるわけが今頃分かりました。
明暦2年(1656)に小川村開発にあたった名主小川九郎兵衛により開削され、明治時代まで飲料水として利用されていた。またここに馬継場があったので発展した。

熊野宮には夫婦ケヤキや、その後ろに3代目孫ケヤキがあるが、旅人の目印になったそうだ。
3_20250206144701

少し進むと、面白い建物が見えてきた。
なかまちテラス(図書館)で北斎美術館を設計した妹島和世の設計なので、外観もちょっと似ているような感じがする。
4_20250206145201

平安院。元文4年(1739)、小川新田(仲町)に移住した農民の菩提寺として建立されたもの。
5_20250206145301
山門前の笠付庚申塔。享保2年(1717)造立。300年以上も前のものとは思われないほど状態が良い。
6_20250206145701
立派な槙のある庭で、奥が本堂。
7_20250206145801

西武多摩湖線の踏切を通り過ぎるとすぐに次はこのあたりでは地下にもぐっている武蔵野線の新小平駅がある。
青梅街道は鎌倉街道と交差し、続いて府中道と交差。さらに来るとき乗ってきた西武国分寺線の踏切を通り過ぎると小川宿の中宿に入ってくる。名主の小川家の現在の家もあった。

さらに進むと、仁王門が見えてきた。
8_20250206145901
小川寺(しょうせんじ)である。小川村開村と同時に小川九郎兵衛が開基したお寺である。
久しぶりに「舟形浮彫り別石六地蔵」
9_20250206150001
角形四地蔵
10_20250206150001
本堂
11_20250206150001
ご本尊は薬師如来様
12_20250206150101
薬持観音
13_20250206150101
千手観音
14_20250206150201
よく手入れされた庭が続く
15_20250206150201
16_20250206150201
本堂の裏には逃げ水の里庭園がある。
17_20250206150301
三十三観音
18_20250206150401
山茶花がきれい
19_20250206150501
出口近くに大きな獅子柚子が十数個なっていた。
20_20250206150501
立派な、しかもいろいろあって楽しいお寺拝見になった。

斜め向かいにあるのが小平神明宮。寛文元年(1661)に名主・農民などの協力のもとに建立されたもの。阿豆佐味天神社の摂社であった神明社を遷座。
21_20250206150601
鳥居をくぐったところに、小川用水が流れている。どこかの街道にもこんなことがあったが思い出せない。
22_20250206150701
拝殿。文政年間(1818~30)の建立。
23_20250206150701
ボケボケだけれどキセキレイに会えて嬉しい。
24_20250206150701

小平上宿交差点で竹内家の大ケヤキを見る。樹齢300年以上で樹高35m、枝張り面積400平方メートルもあるそうだ。
25_20250206151001
ここで(先週も買った人参だけれど)今日は大きい3本が150円と100円のほうれん草を購入。小平の人参はとても美味しい。昔の味がする。

街道に戻ってしばらくすると、度々来る東京都薬用植物園(小平市)の前に出た。
26_20250206151001

すぐそこは小川駅から一駅の西武拝島線の東大和市駅だ。
明暦元年(1655)野火止用水が完成すると、青梅橋が架けられたのでその名が残っているのだが、昭和38年に暗渠となったと説明版にあった。
ここで東大和市に入って桜街道を歩いていると、東大和市のマンホールを発見。村山貯水池の取水塔と市の花ツツジのデザイン。
(かつて、旧青梅街道は江戸街道と呼ばれ桜並木だったが、昭和20年の空襲で壊滅状態に。東大和市で桜並木を復活させるため桜を植え、桜街道という名前にしたそうだ)
27_20250206151101

桜街道に入ってからは特に見所はなくひたすら進み、この日のゴールのモノレールの桜街道駅に到着。
28_20250206151601

ここからモノレールの一駅を歩いて、西武線の玉川上水駅(場所はモノレールの玉川上水駅と同じ場所)より帰る。
帰宅は5時半前だった。約25300歩でした。

 

| | | コメント (14)

2025年2月 1日 (土)

青梅街道4 花小金井~小川宿~桜街道(1)

1/24の4回目は家から西武線で近くなので12時半前に花小金井をスタートできた。今回は見どころが多く街道歩きの醍醐味でもあります。しかし次回は何もないとのことで歩く練習になってそれだけでも由です。

小川用水に棲むヤマメをデザインした小平市のマンホール。
1_20250201191701

こうしたお地蔵様を今回、お堂ではたくさん見てきた。生花が絶えなく飾られているようなところが多く、今でも地蔵信仰の篤さを感じる。文化5年(1808)のだそうだ。
2_20250201191801

別の小平市のマンホール。市の木ケヤキと市の花ツツジの周りに「KODAIRA 雨水の道 小平」の文字と 市の鳥コゲラを描き、外周には十二支と東京都のシンボルマークのイチョウが描かれている。
3_20250201191801

武蔵野神社到着。参道が長い。野中新田開発の際の一角に、駅そばの前回最後に寄った円成院から分離した末社の猿田彦大神を祭祀した神社。
4_20250201191901
珍しい七福神。
5_20250201192001
猿田彦大神。鼻が大きくや腕の太い神様だ。
6_20250201192001

西武新宿線を渡ると、右手に整備された小平ふるさと村がある。江戸初期から明治時代以降の近代の建物を復元した施設だそうだ。
1軒1軒に丁寧な説明のチラシが置いてあって昔のこのあたりの様子を詳しく知ることが出来る。

まず旧小平小川郵便局舎。明治41年築で赤い屋根の二ヶ所に〒マークがあるのが印象的。手前に丸ポスト。この後も丸ポストばかり見るが、小平市には30以上も残っているそうだ。中には金庫も見え、横に回ると自宅の部屋が残されていた。
7_20250201192201
消防小屋。昭和3年製作の手動ポンプ車などが展示されている。
8_20250201192301
旧神山家住宅主屋。
江戸後期に小金井から廻り田新田に移築されたもの。間取り形式は喰違い四ツ間型。
ここには、台所、馬屋、お勝手、お座敷には各種道具や婚礼衣装など今までの街道歩きで見たような展示がされていた。
9_20250201192301
こんな井戸も見たことあります。
10_20250201192401
水車
Photo_20250201192401
水車小屋の中。木造平屋建切妻杉皮葺で、循環式で水量毎秒10リットル。天明8年(1788年)には、玉川上水の分水にかかる水車は33か所もあったそうだ。
11_20250201192501
粗末な開拓住居を見た後、こちらは旧小川家住宅玄関棟。
小川家は幕末までの200年間、小川村の名主を代々務めた家で、この玄関も控えの間があり主家と渡り廊下で繋がっている格式の高い造りになっている。
12_20250201192501
最後のやはり藁ぶき屋根の旧鈴木住宅の穀櫃を見て、出たところで青木屋の草餅をご馳走になって出発。

その先に延命寺というお寺が現れた。
享保年間の野中新田開発に際して入村した者たちの願いにより、野中善左衛門が開基となり享保18年(1733)この地に引寺したお寺。
13_20250201193201
門前に嘉永3年(1850)の珍しい青面金剛庚申塔があった。
写真ではよく見えないが、青面金剛も笑っているような表情で、三猿が狩衣を身につけて、烏帽子をかぶり、一匹は左手に扇を持ち右手で口をふさぎ、一匹は左手に鈴を持ち右手の扇で顔をおおい、一匹は左手にご幣をかつぎ右手で耳をふさいで三番叟を踊っている。
14_20250201193201

本堂の他、お地蔵様、六地蔵や、鐘楼、観音堂、境内にある多摩野神社もある。
かわいらしいお地蔵様。
15_20250201193301
本堂。
16_20250201193401

古い正徳2年(1712)の石灯籠も残っている。
17_20250201193501
神社の鳥居の手前にジュウガツザクラが咲いていた。
18_20250201193701

(続く)

| | | コメント (10)

2025年1月27日 (月)

青梅街道3 上石神井~田無宿~花小金井

上石神井駅到着12時半、45分に街道に出てスタート。(もう2週間前の1月14日のことです)
青梅街道には街道の説明(江戸城の壁材である石灰を運ぶ道として開かれた)と道しるべの石碑がところどころに立っていた。
このあたりから、古の人々が掘った用水、上水があちらこちらに見られるようになる。
多摩川上水から分岐した千川上水。
1_20250127201901

お地蔵さんが多い青梅街道であるが、「関のかんかん地蔵」なるものがあり石で叩けば願いが叶うとのことで叩かれた石の部分が細くなって修繕されていた。願い事の多い私は「お願いします」と街道歩きの時によく神頼みする。
2_20250127202201

下野谷遺跡(平成27年国史跡に指定)に寄る。
この遺跡は石神井川沿いの縄文時代中期の環状集落。今は公園としてきれいに整備されている。
竪穴式住居跡(復元)。
3_20250127202301
ぼこぼこしているのはお墓だそうだ。ここで大きめの塩大福をご馳走になって前進。
4_20250127202401

西東京市(田無と保谷が統合された)に入ると真っ赤な大きな鳥居が。
昭和4年、伏見稲荷大神の分霊を奉迎して創建された東伏見稲荷神社だ。
5_20250127202501
京都とは比較にならないが結構たくさんの鳥居が並ぶ。
7_20250127202501
拝殿には澤乃井のお酒がたくさん奉納されている。青梅から近いからでしょう。
6_20250127202501
拝殿裏の境内社は20も並んでいてそれぞれに丁寧にお参りしている若者あり。
初めて知るのがいくつか
佐田彦大神(方針決定の守護神)
8_20250127202701
田中大神(権太夫。勧善懲悪を司る神)

旧保谷市マンホールで、市の花サザンカと市の鳥シジュウカラがデザインされている。
10_20250127203101

先ほどから大きな石柱の庚申塔や弘法大師供養塔をいくつか見てきたが、これは六角地蔵石幢である。「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養したのだそうだ。
11_20250127203101

柳沢(やぎさわ)庚申塔があった。道標を兼ねた庚申塔である。享保8年(1723)の建立。型式は、梵字、ニ鶏、三猿、青面金剛、邪鬼が揃えられた角柱塔である。「是より左ハあうめみち 是より右ハはんのふみち」と書かれている。
Dsc01219

その先の交差点が青梅街道(左)と秩父道との追分でここから田無宿だ。

すぐに田無神社がある。初詣客で賑わっている。
式台構えの玄関である国登録有形文化財の参集殿を左に見、石神井川に流れていた田無用水のあとを見、拝殿に至る。
彫刻は立派であるが、内部の本殿は天才彫刻師の島村俊表が手がけたそうだが、見ることはできない。
12_20250127203701
茅の輪か
13_20250127203701
神社には5つの龍がいる。黒龍、青龍、撫龍、白龍、赤龍。
これは楠木正成像で奥が青龍。正成の子孫が保谷に移り住んだそうだ。
14_20250127203901
「田無神社と五木寛之」という説明板があった。大学に合格後上京していたものの、お金がなかったのでしょう、この神社の床下で暮らしたそうだ。知らなかった。

続いて総持寺に向かう。手前にいろいろな柄の西東京市のマンホール、市の木(ケヤキ)、市の木(金木犀)、市の花(田無ツツジ)、市の木(ハクウンボク)、市の花(沈丁花)。
これはハクウンボク
15_20250127203901

総持寺仁王門。仁王像が大きい。裏には広目天と多聞天が。正面が本堂。
16_20250127204001

大きなケヤキは、本堂の完成(嘉永3年(1850))を記念して植栽されたものの1本だそうだ。全部入らない。
17_20250127204001

妙見堂。安政6年(1859)に制作された田無村名主、下田半兵衛の木像が納められているが見られず。
半兵衛は田無神社を再建し、養老畑を以って老人を助け、現代の福祉行政の先駆といわれる名主だったそうだ。
18_20250127204101
水仙が咲いていた。
19_20250127204101

お寺の斜め向こうの路地を入ると下田半兵衛の家がある。安政4年(1857)建築で、旧田無市最古の民家。
20_20250127204201

反対側に稗倉が現存している。
半兵衛は幕府に願い出て飢饉に備える五百石入りの備蓄庫を自費で建設したもの。現存の稗蔵は文久3年(1863)に建て替えられたもの。
21_20250127204201

用水跡は「やすらぎのこみち」や「ふれあいのこみち」になっている。
22_20250127204301

ひまわりのマンホールも発見。マンホールの種類が多い市だ。
23_20250127204401

コートを着せられて顔も見えないお地蔵様。
24_20250127204401

次にあった三猿だけの庚申塔が珍しい。
Dsc01272

小平市に入る。

花小金井駅に向かう途中で最後に円成院に寄る。
開基した矢沢大堅は武州多摩郡上谷保村(現国立市)の出身で宝永2年(1705)10月に黄檗宗に帰依して谷保とこの地にお寺を開いたとのこと。本堂。戸の桟などが凝っている。
25_20250127204701
旧本堂(開山堂)。燈籠は天明6年(1786)のもの。
26_20250127204701

庚申塔と馬頭観音が2基。
27_20250127204801

花小金井駅から西武線を乗り継ぎ、5時半前帰宅。約22400歩。

 

| | | コメント (8)

2024年12月23日 (月)

青梅街道2 東高円寺駅~上石神井駅

2回目は東高円寺の駅から12時45分より歩き始める。このためには昼食は11時からでした。
青梅街道は杉並区を通過中はずっと銀杏並木で、練馬区に入ると欅並木に変わる。一体何本の銀杏が植えられているのであろうか。丁度黄葉がきれいで今年は銀杏を満喫することが出来た。
銀杏の下の燈籠は一対あって、中野駅から妙法寺への参詣者の目印に建立されたそうだ。
1_20241223143301

その 堀之内妙法寺(日蓮宗本山)は 「厄除祖師」として有名なので寄った。日蓮上人が法難に遭い伊豆に流されたとき、弟子の日朗上人が霊木に祖師の御影を刻んだものがこの寺に伝わったのが「厄除祖師」、11代将軍家斉、12代将軍家慶が立ち寄って休憩したので有名になったという。

仁王門をくぐり、祖師堂へ。文化8年(1811)建立。ここに祖師が安置されている
内部は金箔で覆われていてなかなかに豪華である。
2_20241223143401
彫刻は、北斎が参考にしたと言われる波の伊八のものだそうだ。素晴らしい。
3_20241223143401

鉄門。極彩色の鳳凰が上に。ジョサイア・コンドル(河鍋暁斎の弟子・イギリス人)が設計し明治11年建立。重要文化財。
4_20241223143501

本堂(三軌堂)。日蓮聖人と釈迦如来が安置されている。
5_20241223143501

日朝堂の中には日朝上人像が奉安されている。身延山第11世行学院で日蓮宗の代表的教学者。勉学で眼病を患い、回復後眼病の人々を救おうと大願を立てたという
6_20241223143601

廿三夜堂。二十三夜塔は見てきたけれど、お堂は初めてだ。毎月23日に開帳される。
723

浄行さま(浄行菩薩)、健康の守護神。これも初めて。
8_20241223143701

有吉佐和子の碑。
このお寺の近くに住んでいて、境内を通って帰宅することも多かったそうだ。
9_20241223143701

街道に戻る途中に日本橋越後屋の三井家の菩提寺・眞盛寺に寄る。
右が本殿(安永5年(1776))、左奥が客殿。客殿と庫裡は明治26年、細川侯爵邸として建てられたものを譲り受けて移築された。
10_20241223143801

お地蔵様をはじめいろいろな石像がある。
11_20241223143801
12_20241223143901
13_20241223143901
竹林もあり紅葉もきれいであった。
14_20241223143901

街道に戻り、少し歩くと新高円寺の駅があり、その前の道を入っていくのが五日市街道で数年前に完歩した。
15_20241223144001

街道は荻窪駅へ向かっているが、荻窪駅の手前で藤澤ビルの南側の道へとまわりこむと長屋門がある。
この長屋門は名主中田家のものだったが、藤澤家が取得してビルを建てる際に裏側に移築したのだそうだ。
その前には明治天皇荻窪御小休所の石碑がある。明治16年立ち寄られた。
16_20241223144001

街道は地下道を通って北西側へ続き、太陽が左手に見えるようになる。少し進むと青梅街道と環八の交差点「四面道」だ。
昔、秋葉神社があり、この境内に高さ2mほどの常夜燈があった。下荻窪村・上荻窪村・天沼村・下井草村の四か村の境にあるから四面道と呼ばれるようになったという説と、常夜燈が四か村を照らすので四面燈と呼ばれ、それがやがて四面道となったという説があるらしい。
17_20241223144101  

しばらく歩くと荻窪警察署の斜め前に荻窪八幡神社がある。
寛平年間(889~897)の創建。永承6年(1051)に源頼義が奥州征伐の途中で戦勝祈願し、凱旋の時、神恩に感謝して厚く当社を祀ったと言われる。古いお話です。
18_20241223144201

祓門からは神門が見える。くぐるとお祓いになるというので通ってみる。本日の大きな目的だ。
19_20241223144301

拝殿
20_20241223144301

道灌槙。文明9年(1477)太田道灌が石神井城を攻めるにあたって戦勝祈願した際、植樹したもの。
21_20241223144401

ベンチで休憩。おやつは荻窪駅ルミネで買った苺大福。お土産はどら焼き。病人は餅が食べられないので、外に出たときの私のおやつは餅系の大福などを買ってもらう。
22_20241223144401

続いて井草八幡宮。鳥居も大きいし境内が広い。元は春日社だったが、源頼朝が奥州遠征の際に戦勝祈願に立ち寄って以来八幡宮となった。
24_20241223144601

参道も長く「二の的」という表示がある。流鏑馬が5年に一度行われるのだそうだ。隅田川で一度見たきりなので、鎌倉やここのも見てみたい。
25_20241223144501

楼門
26_20241223144601

頼朝公御手植の松。
奥州平定に成功した頼朝はお礼として雌雄2本の松を植えた。雌株は明治時代に枯死、雄株も昭和47年強風で折れてしまったそうで、現在のは2代目の松だそうだ。
27_20241223144701
こちらが倒れてしまった松の根の一部。
28_20241223144701

神門を通って拝殿へ。
29_20241223144701

北参道を通って街道へ出るが、大きな燈籠があり、屋根は銅板葺で八畳分の広さがあるそうで驚く。
30_20241223144801

その先で練馬区に入ると銀杏並木からケヤキ並木に変わった。
31_20241223144801

最後に江戸向き地蔵を見る。享保14年(1729)のもの。
3体の地蔵の間に、文政9年(1826)に建立された三山百番供養塔(出羽三山・坂東/秩父/西国の百カ所)がある。
32_20241223144901

上石神井駅に向かい、西武線乗り継ぎで地元駅へ。帰宅は5時半だった。約24000歩。

(完)

| | | コメント (18)

2024年12月12日 (木)

青梅街道1追分~中野宿~東高円寺

五街道と姫街道、大山街道、五日市街道などを歩いてきたが今度は青梅街道へ。
往復の電車を除いて日暮れまで3時間なのでちょっとずつ進む。
青梅街道は甲州街道の脇往還として新宿から山梨県酒折まで130㎞。歩くのはそのうち青梅までの40㎞です。

新宿3丁目で降りて、老舗の追分だんごでおやつとお土産を買って、すぐそばのスタート地点(午後1時頃)へ。

スタート地点にある新宿元標。
1_20241212123901
ここ追分が甲州街道と青梅街道の分岐点。甲州街道もここからだった。

新宿駅東口の広場に馬水槽がある。
19世紀にイギリスで馬に水を供給するために設置されたもので、明治36年にイギリスから贈られた。ライオンの口から水が出て、上では馬が水を飲み、下は犬猫が飲み、この裏は人間が水を飲んだ。
2_20241212123901

東口から西口へつながる地下通路には宿の絵が描かれていた。中野宿から始まり、田無、小川、箱根ヶ崎、青梅宿の順。
3_20241212124001

線路横の電車からも垣間見える思い出横丁を右に、左にモード学園やSOMPO美術館などの西口ビル群を見て進むと右側に常圓寺がある。
4_20241212124101
日本銀行本店本館、東京駅丸の内庁舎などを手がけた建築家・辰野金吾のお墓があるそうだが、見つからなかった。

ここから見えた上部と途中が雪化粧したような、面白いビルは、東急歌舞伎町タワーだ。エンタメ関係も充実しているようだ。
5_20241212124201

お隣にあるお寺が常泉院(浄行菩薩)に寄ってから、なだらかな成子坂を下っていくと少し先に成子天神がある。
6_20241212124301
説明版によると、このあたりは江戸時代マクワウリの特産地だったそうで、この地域が鳴子坂(転じて成子)とよばれていたことから鳴子ウリと呼ばれたそうだ。
菅原道真公に縁がある。参道境内には拝殿はじめ七福神や力石などがある。
一番奥に結構高い立派な富士塚があった。頂上には浅間神社あがって、ここからも昔富士山が良く見えたことでしょう。
7_20241212124301

道路の反対側には天保年間のものが再建された成子子育て地蔵尊があり、そばに小さなお地蔵さんがあって、右が延宝4年(1676)のものという。ビルの谷間にこのようなものが残されていることに感動。
8_20241212124301

淀橋、下は神田川が流れる。
中野長者が財を地中に隠し、手伝った人を殺して橋から神田川に投げ込んだ。長者と橋を渡るときには見えた人が帰るときには見えなくなったことから「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。徳川家光が鷹狩りで通り、不吉でよくないということで京都の淀川に似ているからと「淀橋」と名づけたという。
9_20241212124401

中野坂上の交差点から左に折れたところの公園に象小屋跡の説明板がある。
八代将軍吉宗に献上するためベトナムから連れてこられた象(姫街道の象鳴き坂を通った象)は、しばらく浜御殿で飼われていたが、中野村の源助という者に払い下げられ、このあたりに小屋を建てて飼育されていた。寛保2年(1742)に病死。牙の一部が宝仙寺に保存されているそうだ。
10_20241212124501

街道の下は地下鉄丸の内線が走っている。中野坂上の駅を通り過ぎて右手にある象の牙を保存する宝仙寺に寄る。牙は見られなかった。
源義家が後三年の役を平定して京へ凱旋の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するため創建したお寺。仁王門、三重塔、本堂と立派な構え。境内には中野町役場跡碑もあった。
11_20241212124601

三重塔手前の塚は石臼塚で使われなくなった石臼を供養したもので初めて見る珍しいもの。
12_20241212124601

御影堂には弘法大師像が。
13_20241212124701

四面に弘法大師が彫られたもの。22×4面だから88体。
1488

追分だんごで買った豆大福で休憩。
15_20241212124701

お寺を出て右折したところにやままさ醤油醸造所のレンガ塀が残っていた。
16_20241212124801

街道を少し進んで右手に少し入ると明徳稲荷神社があるがここの辺が中野宿の中心だったそうだ。

鍋屋横丁の交差点の手前に慈眼寺がある。
珍しいパゴダ風の塔がある。住職がタイで修行し、その縁で仏舎利を授かり納めるために建てたそうだ。
17_20241212124801

本堂前には邪鬼らしきものが。
18_20241212124901

このお寺には大変古い江戸元禄期の庚申塔など石仏群がずらりとある。
19_20241212125001

下の部分に道標が刻まれた(写真に納まっていない)をかねた馬頭観音。
「左あふめ(青梅)道  右いぐさ(井草)道」と刻まれている。
20_20241212125001

立派なざくろがなっている。
21_20241212125101

鍋屋横丁は妙法寺への参道であり、鎌倉街道でもあった。
22_20241212125101

北野神社(総本山は京都の北の天満宮)を通り過ぎ、東高円寺の駅を過ぎて、蚕糸の森公園(以前蚕糸試験場があった)を散策した。
柊の花
23_20241212125301
スズカケノキと滝
24_20241212125301
紅葉がきれいだった
25_20241212125401

帰宅は5時すぎ。約17400歩。
途中で電話を入れながらも心配だった家人は無事5時間20分留守番出来てほっとしました。

| | | コメント (16)

2024年4月27日 (土)

中山道(最終回)北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋

夫が小康状態の時、是非踏破しなさいと逆に励まされて、34回目で最後になる中山道を歩いてきました。これで五街道を制覇することが出来ました。
京都から約534㎞、しかし東海道と重なるので途中草津から日本橋まででしたが距離もあり、色々な不都合が重なって、本来ならばもうとっくにゴールしていました。何しろ歩き始めは2019年6月6日でしたから約5年間かかったわけです。しかし5街道の中では山や峠あり、木曽などの川や遠くのアルプスの山々を眺め、森林や林の中を通り抜け、畑を花や垣根を愛で、あるいは色々な歴史に触れて神社仏閣にもお詣りして、昔歩いた人々の苦労に思いを馳せた歩きでした。

前回到着した北浦和駅から6時半に歩き始めた。
駅前に浦和レッズのレディア君がいて撫でる。
1_20240427113501

成就院の頭痛除観世音や六面地蔵を見ているうちに
2_20240427113601

浦和宿に入ったようです。
●浦和宿(3番目)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒。

浦和宿二・七市場跡の立て札と鳥居が見える慈恵稲荷神社の所にやってきた。
二と七の付く日、月に6回市が開かれ大変賑わったそうだ。
3_20240427113601
リアルな石像、話かけられているみたい。
4_20240427113601

浦和宿本陣跡、隣には明治天皇行在所趾。
代々星野家が勤め、加賀前田家の宿泊所であり、皇女和宮も昼食をとった。
5_20240427113701

舗装路にいろいろ埋め込まれていた。
6_20240427113701

縣社延喜式内調神社。
初穂米をここの倉庫に搬入する妨げになるため、鳥居と門が取り払われたとのこと。
7_20240427113801
狛兎で中にも兎の石像が多い。
8_20240427113801
兎が関係するのか、秩父の兎田ワイナリーから奉納されている。
9_20240427113901

お助け井戸・・元関屋(材木商後米穀商)が関東大震災や東京大空襲で逃げてきた人々の喉を潤してあげた井戸。
Dsc00068

焼米坂という妙な名前の坂に出会い、辻一里塚跡碑を過ぎて蕨宿へ。


●蕨宿(2番目)本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠23軒。
この宿はとても力を入れている!

京都側の木戸口。
12_20240427114201
蕨市のマンホール。蕨市の花・サツキをふんだんにあしらっている。
13_20240427114201

昔の行列の様子が絵で再現されている。
14_20240427114301

歩道の両側には中山道59次の渓斎英泉および歌川広重により描かれた浮世絵木版画のタイルが続く。
大津から日本橋まで70枚。
15_20240427114501
16_20240427114601
蕨もあるけど、所々に特製が。
17_20240427114601

本陣跡も立派に復元されていた。
18_20240427114601

屋根は新しいが時々古い家がある。
19_20240427121701

蕨宿の江戸方、ここで終わる。
20_20240427114701


戸田市に入りマンホールを。レガッタと上に市の木モクセイ、下に市の花サクラソウをデザインした。
21_20240427114801

競艇場は見えないが菖蒲川を通る。
22_20240427114801

東京都の板橋に入る。目の前に坂が。日本橋を出発して江戸を出ようとする最初の難所の坂が清水坂だったそうだ。この後のいろいろな峠を歩いてきた身にはどうっていうことのない坂だった。

志村一里塚 中山道の3番目の一里塚で、都内でもあり、2基一対現存するのは全国的にも貴重。山の中でも随分見てきてはいるが整備され立派である。国の史跡に指定。
23_20240427114901

南蔵院 吉宗公が鷹狩りの際の御膳所だった。
24_20240427114901
25_20240427115001


●板橋宿(1番目)本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠54軒。平尾宿、仲宿、上宿からなる。旅人は板橋宿から出発する人が多かったので賑わったそうだ。

縁切榎がある。昔は男女の悪縁を切りたい、断酒を願って訪れたが、今は難病との縁切りや良縁を結ぶなどの信仰に変わったようだ。この日も4,5人の女性が何かを買って祈っていた。
26_20240427115101

板橋の地名の由来になった板橋は木の太鼓橋だったとか。
27_20240427115101

文殊院には文殊菩薩でなく立派な閻魔様が。
28_20240427115201

板橋宿本陣跡。
29_20240427115201

昼食は板五米店の古民家の飲食店で。
30_20240427115201

脇本陣跡
31_20240427115301

埼京線板橋駅の所にある、近藤勇と新選組隊士供養塔。
Dsc00219


板橋宿の商店街を抜け、次は巣鴨商店街に入ったが前回の山手線歩きで、高岩寺のとげぬき地蔵や真性寺の江戸六地蔵尊は見ているのでパスし、ひたすら日本橋に向けて歩く。

猿田彦大神庚申堂。
32_20240427115701

西巣鴨、滝野川辺りは「種屋通り」と呼ばれ、種子屋が多く軒を連ね、日本の農業を支えてきたとか。

途中大円寺には八百屋お七に関するほうろく地蔵があった。火事の際、地蔵はこのほうろくを頭にかぶって焦熱の苦しみを受けたとか。
33_20240427115701

すぐ近くに八百屋お七の墓があった。
34_20240427115801

長い長い東大に隣接する歩道を赤門前まで歩くと、そのあとすぐ神田明神があった。湯島の聖堂なども以前見たので省略して。
境内の隅の2度目に会う「あかりちゃん」に会ってから日本橋に16時46分に到着しました。
35_20240427115801
36_20240427115901
一日で歩こうと思い立ったので寄り道は少かったですが、約54500歩でした。

長い長い五街道歩きを読んでいただきありがとうございました。
  
 (完) 追記:もうすぐパソコンが壊れそうです。スマホを使いこなしていないので不便です。

| |

2023年12月 7日 (木)

中山道33 上尾宿~大宮宿~北浦和(2)

御嶽神社などの境内社を見てから、大宮公園へ。
1_20231207081701

大宮公園は明治18年、氷川公園の名称で誕生した県営公園の中では最も長い歴史を持つ公園。その後、日本の公園の父、本多静六により整備され、漱石や子規なども訪れたという。

日本庭園がある。
2_20231207081801
3_20231207081801
ちょうどツワブキが満開。
4_20231207081901
ミニ滝もあった。
5_20231207081901

隣の小動物園に行く。無料。思ったより色々な小動物がいた。
シロフクロウのオス。
6_20231207082001
アネハヅル。8000m級のヒマラヤ山脈を越える事で有名。映像で一度見たことがあるような気がする。人間が無酸素で登るのが大変なのにその上を飛んでいくのだから、動物も植物同様凄いのがいるものだ。
7_20231207082001
インドガン。これもヒマラヤ山脈を越えるそうだ。後頭部の2本の黒いラインが特徴。
8_20231207082001
ブチハイエナ。テレビで見るのと違って可愛い。
9_20231207082101
フラミンゴ。ずっと水を飲んでるが、寝る時と同じく片足で。何時まで水を飲み続けるのか?こちらが根負けして立ち去る。
10_20231207082301

神社に戻って三の鳥居を出る。
11_20231207082401

明治天皇と氷川神社御観察の絵巻。
12_20231207082401

参道の紅葉は始ったばかり。2㎞もありとても長い。
13_20231207082501

二の鳥居は明治神宮から移設されたもの。狛犬はここにいました。
14_20231207082501

参道途中で中山道に戻る。

邪鬼の可愛い庚申塔。宝暦10年(1760)建立。
15_20231207082601

大宮区役所兼図書館のガラス張りの建物の向かいにある山丸公園(公園名はここにあった山丸製糸工場に由来する)には、蒸気機関車があった。
16_20231207082701

さいたま市のPRキャラクターが乗ったポスト。見沼田んぼの竜ヌゥとのこと。「くまモン」と「ひこにゃん」と「ふなっしー」しかわからなかった私もあちこちでキャラクターの絵を見て楽しむようになった。
17_20231207082701

中山道に戻る途中の小道に塩地蔵がある。
病に倒れた父親を二人の娘が、お地蔵様のお告げに従って塩断ちをしたところ、父の病が全快したところから、塩を供えて願をかけるようになった。
角度が悪く光って良く見えず、ボケボケですがこんなお顔。娘さんが父親代わりに高血圧治療したみたいな話です。
18_20231207082701

お隣の三体子育て地蔵。
19_20231207082801

ここから少しで大宮宿を出て、北浦和駅に向かう。

この先が氷川神社一の鳥居だ。参道2㎞には江戸時代は松、大正時代は杉、現在は根を張る欅を中心にスダジイや桜、楠など30種類が植えられている。
20_20231207082801
この鳥居の辺りが一里塚跡である。

大きなショッピングモール「コクーンシティ」(片倉製糸跡で繭の事を英語でコクーンという)の横を通り、さいたま新都心駅を通り過ぎる。

お女郎地蔵と火の玉不動の祠がある。
大宮宿の女郎・千鳥が悲恋の末、高台橋から身投げし、哀れんだ人が地蔵を建てた。左が火の玉不動で、この辺りにあった下原刑場の死者供養で建てられた。
21_20231207082901

さいたま新都心当たりで空を見上げたら雲がきれい。
22_20231207083201

一本杉の仇討ち跡。幕末最後の仇討の現場で、1864年のこれを最後に仇討は禁止された。この杉は当時の物ではない。左下の石柱に「一本杉」と彫られている。
Dsc08980

モチーフは同じだが違ったデザインのマンホール。
23_20231207083401

旧浦和市のマンホール。
24_20231207083401

最後に廓信寺に寄る。
参道口にはサツマイモの女王紅赤(通称金時)発祥の地の説明板がある。この地の農家の主婦山田いちさんが紅赤を発見したのだそうだ。ずっと王者のさつまいもも今はベニアズマに押されてしまった。
仁王門。
25_20231207083501
4時半なのでしまっていたので中に入れなかった。
26_20231207083601
また仇討の河西祐之助の墓も見逃す。

北浦和駅に4時35分に到着。地元駅には5時半前到着。
27_20231207083601

駅ビルの鮨屋さんで食事
28_20231207083601
寒ぶりの刺身、じゃこ天、揚げ茄子とトロロのネギ味噌焼き、あん肝ポン酢、握り寿司(いくら、甘エビ)
お酒は瓶ビール(キリン一番搾り)と白ワイン。

お土産。
29_20231207083701

帰宅は7時過ぎで、約33700歩。このくらいですと何処も痛くなりませんでした。

(完)

| |

より以前の記事一覧