2020年2月 8日 (土)

日光街道1 日本橋~千住宿(2)

◆浅草から千住へ

浅草寺の横から出ると街道に戻り、姥ヶ池跡がある。明治24年まで大きな池があった。
このあたりに娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死んだ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人が姥ヶ池と呼んだという。鬼子母神みたいな話である。
1_20200208162001

助六歌碑もあった。助六を演じた九世・市川團十郎の歌を刻んだ碑だ。
2_20200208162001

江戸猿若町市村座跡碑。老中水野忠邦の天保の改革で、江戸市中にあった芝居小屋が猿若町に集められた。
3_20200208162001

待乳山聖天に寄り道。入り口に池波正太郎生誕の地の碑もある。
左下に見えるのはお供えの大根売り場である。
4_20200208162101
大根と巾着の印。大根は身体健全、夫婦和合、巾着は財福の功徳を表わしたものとされる。
5_20200208162101
歓喜天地蔵は数度の火災に遭い、その尊容をとどめていない、子育て地蔵。
6_20200208162201
築地塀は江戸時代の名残をとどめる唯一の文化財。広重の錦絵に描かれている。
7_20200208162301

山谷堀公園には猪牙(ちょき)舟の浮世絵があった。江戸時代、市中の水路に使われていた、船首が細長くとがった屋根のない舟。語源は舟の形が猪の牙に似ているからなど諸説ある。山谷堀をこの舟に乗って吉原へ遊びに行くのは大変贅沢であったと。
8_20200208162301

今戸神社にも寄る。沖田総司終焉碑があり、今戸焼発祥、招き猫発祥の地。
源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、京都の石清水八幡(行ってきました)を勧請したのが始まりと云われている。
9_20200208162401
新選組の沖田総司は幕末の御典医・松本良順の看病を受けたがここで亡くなった。
10_20200208162501
招き猫発祥の地と言われ(豪徳寺かと思っていた)、猫があちこちに。そして干支のネズミの前に本物の白猫が!
11_20200208162601

春慶院には高尾太夫の墓があった。
仙台藩主伊達綱宗の意に沿わなかったため惨殺された、新吉原の名妓二代目高尾太夫である。
12_20200208162601

東禅寺。江戸六地蔵の一つがある。
宝永から享保にかけて江戸市中の6箇所に造立された、丈六の銅像地蔵菩薩坐像。六街道にあり、旧東海道(品川寺)、東禅寺(奥州街道・日光街道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(旧中山道)、霊厳寺(水戸街道)、千葉街道のは現存しない。見たのは東海道・品川寺のとここの2つだけある。
13_20200208162701

駿馬塚。義家が陸奥へ向かう際、此の地で愛馬 「青海原」 が絶命し、これを葬った所。
14_20200208162701

泪橋(小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをしたという)交差点を通り過ぎ、南千住駅高架を通り過ぎたところに、小塚原刑場跡がある。南の鈴ヶ森刑場跡(旧東海道)に対する北の小塚原刑場跡である。
ここにある大きな首切地蔵は、刑死者を弔うため造立された。
15_20200208162801

すぐ先の回向院では杉田玄白らが刑死者の腑分けに立ち会い「解体新書」を著わした縁から観臓記念碑もあった。
ここに吉田松陰のお墓がある。
16_20200208162801
鼠小僧、高橋お伝、腕の喜三郎の墓も。
17_20200208162901

円通寺。
坂上田村麻呂が創建した曹洞宗の寺。金ぴかの観音様が目立つ。
18_20200208162901
彰義隊士の墓がある。寛永寺の彰義隊士の遺体を見たこの寺の和尚が、遺骸を火葬にして葬った。
19_20200208163001
これが縁で寛永寺の弾痕が残っている黒門がここに移されたという。
20_20200208163101
四十八首塚、七重の塔、三代将軍家光鷹見の松もある。
21_20200208163201

素戔嗚神社。石神信仰の神社。
小塚の中の奇岩を 「瑞光石」 と言い、この小塚から 「小塚原」 の地名由来となった小塚「瑞光石」がある。
24_20200208163301
松尾芭蕉の碑。「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」。
22_20200208163301
23_20200208163401
大銀杏のまわりにも絵馬がたくさんかけられている。
25_20200208163501
三種類の庚申塔。左から如意輪観音が刻まれた庚申塔、聖観音が刻まれた庚申塔、青金剛と刻まれた庚申塔。
26_20200208163501

(続く)

| | コメント (16)

2020年2月 4日 (火)

日光街道1 日本橋~千住宿(1)

ちょっと空いた土曜日にまだ早起きしないでも良い区間、日本橋から10時半に日光街道を歩きも始めました。中山道も京街道も途中なのですが。
都内はビルばかりで、その中の緑の一角が寺社であって、この街道沿いにもちょっと入るだけでたくさんあるのです。そしてその寺社には歴史上の人物がかかわっていて、道の寄り道だけでなく、歴史の寄り道も多く奥深いです。

◆日本橋から浅草

「日本橋」という橋の字は徳川慶喜が書いた。この橋は東海道の歩きはじめであり、中山道でここに戻ってくる。
1_20200204202501

すぐ横道に入ると福徳神社があってここは福徳村であった。家康、続いて秀忠が参詣している。太田道灌とも縁が深いという。
算額があって、ちらしももらってきた。結構難しい!5問目は解答を募集している。
2_20200204202601

小津和紙店の前に、和紙の原料となる木、コウゾ、カジ、ミツマタ、ガンピが植えられていた。
3_20200204202701

於竹大日如来井戸跡。大伝馬町馬込家の下女「お竹」は大日如来の化身で、五代将軍綱吉の母・桂昌院の信仰が篤かった。お竹さんは誠心誠実で、一粒の米、一切れの野菜も粗末にせず貧困者に施したそうで、勝手元からいつも後光が射していたという。以前も見ていて書いたような気がします。この話を聞くと困った人を助けなければという気持ちになります。
4_20200204202701

身延別院の油かけ大黒天神は、伏見の油かけ町出身の名優長谷川一夫の夫人の夢に、伏見の油かけ地蔵(前回見てきた)ならぬ油かけ天神が出てきて、この別院に相談して出来たという。
5_20200204202801

十思(じっし)公園は、伝馬町牢屋敷跡で、石町(こくちょう)時の鐘がある。この鐘を合図に処刑が行われた。
6_20200204202801
吉田松陰はここで処刑された。吉田松陰終焉の地の碑。
7_20200204202901
隣に大安楽寺があり、ここは江戸伝馬町所刑場跡で、刑死者を供養する「延命地蔵尊」がある。
7_20200204202902

横山町問屋街を歩く。神田川を浅草橋で渡る。以前、外堀歩きをしたとき、橋の手前の郡代屋敷跡を見、橋を渡った所の浅草見附跡を撮影し、神田川は船に乗ってくぐった懐かしい場所。
8_20200204203001

昼食はこの辺りのお寿司屋さんで前回と同じ握りずし。
9_20200204203001

銀杏岡八幡神社や蔵前の総鎮守の須賀神社を通り過ぎ、
第六天榊神社に寄る。浅草文庫跡碑があるが、明治7年創立の公立図書館跡だそうだ。
10_20200204203101

首尾の松跡。吉原帰りの客がここで前夜の首尾を語り合ったという。
11_20200204203101

向かい側には木の間に浅草御蔵跡が見えた。この付近に徳川幕府の米蔵があり、蔵前という地名の由来となったという。
12_20200204203201

古典落語ゆかりの神社=蔵前神社。綱吉公が、江戸城鬼門除けの守護神として山城国(京都)男山の石清水八幡宮(次回行く予定)を勧請したのが始まり。
「元犬」「阿武松」という古典落語の舞台の地。
13_20200204203201
歌川国安錦絵「力持」の技芸の奉納を描いたもの。
14_20200204203301

諏訪神社。諏訪大社の分霊を勧請した。
15_20200204203301

バンダイの本社があった。
16_20200204203301

道路を挟んで駒形どぜう。もう何十年も食べていなくて・・・食べたい!
17_20200204203401

お馴染みの景色。左が浅草駒形堂。
18_20200204203401
浅草寺駒形堂。浅草寺の観音像が隅田川から示現した霊地だった。
19_20200204203501

新型コロナウィルス問題で激減したというが雷門はすごい人の波。仲見世も動きがままならず、本堂も行列。年間3000万人が参拝するという。
20_20200204203501
三社祭で有名な浅草神社。
21_20200204203601
猿の次郎君が芸を終わったところ。お利巧で可愛い!
22_20200204203601

浅草寺内をいつもと違ったところを見学。
初めて見た夫婦狛犬。
23_20200204203701
旧仁王門礎石(東京大空襲で焼失)
24_20200204203801
弁天堂。
25_20200204203901
浅草寺時の鐘。綱吉の命により改鋳され、江戸の市中9ヶ所で時を告げていた鐘の一つだ。
26_20200204203901
1687年の二尊仏。右・観音菩薩。左・勢至菩薩。
27_20200204204001

 

| | コメント (24)

2020年1月24日 (金)

京街道(1)髭茶屋追分~伏見宿~淀宿(前編)

1/16(木)に中山道木曽路はかなり寒そうなので、京街道を歩き始めました。ちなみに大阪からは「京街道」、京都からは「大坂街道」と呼ばれるが、地元で呼び習わされてるのは「京街道」ということばである。
東海道五十三次の延長で4宿を加え東海道五十七次です。

京街道は豊臣秀吉が伏見城築造のため淀川左岸に築かせた文禄堤が起源と言われる。
江戸時代東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見、淀、枚方、守口の4宿が設けられた。幕府は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、参勤交代の大名行列もこの道を通った。ただ、伏見から大阪に下る旅人は三十石船を利用し、宿には泊まらず、宿泊客は大坂からの上りの客だったそうだ。

のぞみ東京6:15発→京都8:26着。東海道線で山科へ、京阪に乗り換え、追分駅8:55着。

◆髭茶屋追分~伏見

駅を出ると、蓮如上人塚と追分道標がある懐かしい髭茶屋追分に出た。写真に写っていなかったが右側が京都三条大橋へ、左側がこれから歩く京街道伏見方面だ。昔この分かれ目に茶屋があったようだ。
1_20200124084101

東海道や中山道と違って街道の標識は一つもないので、このあとマップの地蔵印がとても役に立つことになる。京都市に入っているわけだが、小さな地蔵堂にカラフルに塗られた地蔵が続くのです。
2_20200124084201

街道の様子
3_20200124084401

「牛尾山道」の道標。清水寺の奥の院の牛尾山法厳寺への道。
4_20200124084401

木の切り株と「皇塚」(おおつか)と彫られた碑がある。大塚という地名の由来になったそうだ。ここに古墳があったそうだ。
5_20200124084501

岩屋神社の鳥居がある。山科一の宮。奥の山にある巨大な陰岩と陽岩をご神体として、奥の院に祀られているそうだ。
6_20200124084501

大宅一里塚跡は、京都市内で唯一残る一里塚だそうで、大きな榎は切り株になってしまっている。
7_20200124084601

大宅廃寺跡の標柱(白鳳時代の寺の跡で、藤原鎌足が建立した山階寺であるとの説あり)を通り過ぎ、
歓喜光寺へ。本堂は淀君が二世(現世と来世)を幸せに過ごせるよう祈願して桃山時代に建立されたもの。無数の地蔵が並んでいた。
8_20200124084601
9_20200124084701

京都で初めてのソース会社、オジカソースの工場。
10_20200124084701

勧修寺(かじゅうじ)へ。地名は(かんしゅうじ)と読む。
勧修寺は醍醐天皇が、母の藤原胤子(たねこ)を弔うために創建したものだが、元は宇治郡の大領であった宮道弥益の邸宅跡という。入場料400円。入口への道は長い。修理中の本堂をはじめ、観音堂、書院、弁天堂などの建物が点在する。
11_20200124084901
宸殿。江戸時代初期の御所の建物。1697年に明正天王から下賜された。
12_20200124084901
手すりは曲げたのではなく、このまま切り出されたものとのこと。素晴らしい!
13_20200124085001
ハイビャクシン(ぐじゃぐじゃした枝は全部1本の木で樹齢750年)。
14_20200124085001
その右にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」という。
14_20200124085101
88の霊石が埋められていて一周する八十八カ所巡りができるという四国八十八ヵ所巡りをやってみる。もう四国八十八ヵ所巡りは出来ないから。
15_20200124085201
氷室池。庭は池を中心にした池泉庭園となっている。蓮池で夏は素晴らしいでしょう。
16_20200124085201
ボケ
17boke

明智光秀の胴塚に寄る。昨年歩き始めた追分から京都へ進んだとき、明智光秀の首塚を見た。
18_20200124085301

昼食は京都でありながら、江戸前寿司であった。既にイカを食べた後に撮影。
19_20200124085401

宮道(みやじ)神社。日本武尊と子の稚武王(わかたけのみこ)を祀っていて、二所明神とも言う。子孫と言われる勧修寺の邸宅跡の持ち主・宮道弥益(いやます)の娘・列子が藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁ぎ、生まれたのが宇多天皇女御、醍醐天皇生母となった胤子である。この列子の話が玉の輿第1号のようだ。この神社に弥益から列子、高藤、胤子まで合祀されている。宇多天皇と言えば世界遺産の仁和寺です。
20_20200124085501

1㎞以上歩いていくと、醍醐天皇御母(胤子)小野陵がある。宮内庁の管轄で立派なお墓である。
21_20200124085601

虫籠窓の古い家。
22_20200124085601

着色したこんな地蔵も。
23_20200124085701

JR奈良線の跨線橋を越え、京阪本線の手前の墨染駅の手前の藤森神社へ。伏見区の深草にある。菖蒲の節句発祥の地であり、紫陽花が有名だそうだ。
石造りの鳥居に後水尾天皇の筆による額がないのは近藤勇が外したそうだ。西国大名の参勤交代の道筋で、神社前を通る時、駕籠を下りて拝礼しなければいけなかったので、幕末の動乱時代、悠長なことは時代にそぐわないということで。
Photo_20200124090001
蒙古塚。蒙古の大将の首が納められている。
24_20200124090101
重要文化財の本殿は足利義教公(室町時代第6代将軍)が造営したと言われる。
25_20200124090101

この街道も歴史上の様々な人物が出てきて興味深いです。

 

 

 

| | コメント (22)

2020年1月15日 (水)

中山道11 大井宿~中津川宿(3)

◆大井~中津川の続き

上用水之碑がある上宿休憩所が午後のおやつ時間です。中津川は栗で有名な小布施と同じく栗のお菓子が多い。
1_20200115090601

上宿の一里塚跡(85里目)。片側だけ昭和9年に3分の1の大きさで復元された。
2_20200115090801

石仏群!
3_20200115090801

身体が一つ、頭が二つの双頭一身道祖神は市指定文化財だそうだ。是より苗木道と彫られている。↓に書いた苗木藩があるのでしょう。「岐阜のマチュピチュ」「天空の城」の異名を持つ山城があるそうだ。
4_20200115090901

「こでの木坂 左ひだみち」と刻まれた道標もあった。飛騨に行けるのか。
5_20200115090901

駒場村の高札場跡。
6_20200115091001

3基の文字が書かれた馬頭観音と南無阿弥陀仏碑。
7_20200115091001

中津川を中津川橋で渡る。この橋が、広重の晴れの方の中津川のモデルの場所。絵の昔の橋は100m下流にあったそうだ。
8_20200115091101


●中津川宿(45番目) 大井宿から9.8㎞、落合宿まで4.1㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒。

橋を渡って中津川宿に入ってきた。宿の長さは2.2㎞。

中津川宿に行くのを前にして島崎藤村の『夜明け前』を読みました。
この宿の2つ先の馬籠宿の17代続いた本陣・庄屋の当主・青山半蔵は藤村の父がモデルで、平田派の国学を学び、国学に陶酔した人であった。明治維新に強い希望を持つも、実際の維新文明開化は希望と全然違うもので、その上国学への世間の冷笑に次第に挫折し、運命は悲惨な過酷な状態へと誘われます。

中津川宿は国学門人の地であることが他の宿とは違う大きな特色だったそうだ。安政6年~明治3年まで平田門人が35人もいて、中津川宿の本陣当主や分家の当主は夜明け前のモデルになって登場する。門人たちは水戸浪人の天狗党の通過を助け、長州藩の藩論を変えた「中津川会議」での桂小五郎の藩主待ち伏せを助けたりする。(その潜んでいた家をこの日の最後に見学する)

国学をここで初めて意識しました。賀茂真淵や本居宣長が「万葉集」「古事記」を研究し、儒学や仏教の日本伝来以前の日本古代の姿に立ち返ることを主張した。平田篤胤は神道思想を深め、復古思想から攘夷思想に結びついていった。この復古神道主義が廃仏毀釈運動に発展したわけで、中津川の北、苗木藩は日本全国でも特に激しかったそうだ。寺院や仏像などの破棄が私には実にもったいなく残念に思われたが、こういう理由であり、またそれゆえ、寺院が特権喪失し、仏教界の反省に発展したのも、国学であったということを知りました(以上、風人社ウォークマップのコラムを参照した)。廃仏毀釈がなぜ起こったかも知らなかったのです。

はざま酒造。うだつのある古い造り酒屋で杉玉が下がる。5つある中津川の酒造の一つで「恵那山」が有名。酒造を見ると相方の娘は必ずつつつと寄っていく。
9_20200115091101

枡形の角にうだつのあがる家は旧中川家。中津川市出身の日本画家・前田青邨の絵にも描かれているそうだ。映画「青い山脈」ロケに帳場が使われたとも書かれている。中津川宿は説明板がとてもきれいでわかりやすい。
10_20200115091501

白木屋(横井家)にもうだつが。ここは無料休憩所になっている。中二階に四畳ほどの隠し部屋があるそうだ。
11_20200115091601

十八屋(問屋)、天満屋、川上屋(栗きんとんなどの栗菓子)などの建物が続く。
十八屋には水戸天狗党の負傷者をかくまった隠し部屋があるそうだ。
12_20200115091701

枡形を曲がる。本陣は宿の一番高い所にあり、水害からも守られ、大名などが宿泊する際、常に防御や退却方法が考えられ、枡形によって見通せないようにしていた。
13_20200115091701

再現された用水。火災に備えて作られたものだが、明治天皇が来られたさいに、馬車が通れるように埋められてしまったという。
14_20200115091801

うだつの上がる庄屋の家は旅籠も営んでいた。
15_20200115091801

森家脇本陣跡は中山道歴史資料館になっている。奥には土蔵の中に展示があり、上段の間の再現があった。
17_20200115091901
16_20200115092001

資料館で木曽五木を見た。木曽五木とは尾張藩によって伐採が禁止された木曽谷の木です。
ひのき、さわら、あすひ(あすなろ)、こうやまき、ねずこ。いずれも建材など色々な点で優れた樹木。
18_20200115092001

向かいは本陣跡で今は駐車場だ。
よく水害を起こし四度も川の形が変わったという四ツ目川を渡る。恵那山がよく見える。
19_20200115092101

桂小五郎隠れ家跡を見学。上記したように、京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、この「やけ山」に隠れていた。
20_20200115092101

栗きんとんで有名な「すや」。ここも栗のお菓子屋さん。
21_20200115092201

中津川駅へ向かう。途中新しいマンホール発見。恵那山と市の花サラサドウダンのデザイン。
22_20200115092201

恵那山が描かれたマンホールの向こうに恵那山が見えた。
23_20200115092301

駅でお土産を買い、4時49分発のワイドビューしなの19号に乗り松本駅に6時4分に着く。
ここで駅弁を買い、6時40分発のあずさ32号に乗って、立川駅で乗り換え、自宅到着は9時過ぎであった。約35000歩。

夕ご飯は安曇野釜めしと井筒ワイン
24_20200115092401
 
お土産は栗きんとん2種類。1種類は帰り着くなり食べてしまって撮影できず。
25_20200115092501

木曽路は雪に埋まった本格的な冬で歩くことが出来ず、中山道歩きは春になってからです。その間は別の街道歩きです。(完)

 

| | コメント (14)

2020年1月10日 (金)

中山道11 大井宿~中津川宿(2)

◆大井~中津川

馬頭観音がまだまだあります。
1_20200110194701

恵那駅から明智駅まで約25㎞の明知鉄道の高架をくぐるが、ずいぶんと低く背の高い人はぶつかりそう。終点明智駅には明智光秀が生まれた明智城址があるようだ。乗りたくなる、にわか鉄女です。
2_20200110194701

寺坂の上宿石仏群。中津川までのこの区間には石仏群が多いと聞く。左から3番目は痰切地蔵で風邪を引いたらこの地蔵様を拝めということで、風邪の大家なので撫でて拝む。(しかしその後また引いてしまった、涙)
3_20200110194801

街道をちょっと脇道に入ると旅人の墓がある。中山道を旅する途中、大井宿で亡くなった人たち60余基を埋葬していて4人が女性。(旅人には圧倒的に男性が多かったということでしょうか?)
4_20200110194901

また石塔群があり、一番右は3.6mもある背の高い長石塔だ。大井宿の長国寺和尚が村内安全を祈願し、延宝8年(1680)に建立したもの。かなり古い。
5_20200110194901

蓮花寺坂を上ったところに明治天皇行在所碑がありその先に関戸一里塚跡(87里目)がある。
6_20200110195001

甚平坂石仏群の近くに虵塚(蛇塚)がある。蛇とは!
7_20200110195001

根津神社に上がっていくと本殿の後に宝篋印塔があるが、これは根津甚平のお墓だ。
8_20200110195101
9_20200110195101
根津甚平とは、源頼朝の御家人で信州の人と言われ、鎌倉幕府に怪鳥(キジ)退治を命じられ、馬に乗り、勢子と犬と鷹を連れ、怪鳥を追い、この坂に追い詰めた。しかし甚平と馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で倒れ、怪鳥は消えた。里人はこの坂に馬と犬を葬ったのだそうだ。
犬塚と馬塚
10_20200110195101
11_20200110195201

甚平坂のピークに甚平坂公園があるが、本来はここから御嶽山が見えるはずであるが、残念ながら見えず。広重の「大井宿」の絵はその(1)に掲げたマンホールでも見たが、雪景色のここ、甚平坂と遠くに御嶽山が描かれているのであった。
13_20200110195201

岡瀬沢庚申塔。岡瀬沢では庚申講がとても盛んで、庚申の日に講元の家に集まり青面金剛の掛け軸をかけて、お茶飯と汁、漬物の夕食を食べて夜が明けるまで話をしていたのだそうだ。   
12_20200110195301

岡瀬沢の常夜燈。左が静岡の秋葉山に通じる道と刻まれている。
14_20200110195301

社宮司跡。おしゃもじ様などとも言う。検地で使用した縄や尺杖を祀る。檜の根元には金神と氏神が祀られている。
15_20200110195401

広久手坂の標柱から下ると三面八臂の馬頭観音。大変珍しい。弘久手の「久手」という名前は湿気が多い土地ということ。小牧長久手の戦いの長久手もそうなのでしょうか?
16_20200110195401

中津川市に入った。マンホール(中津川市の坂本地区)。シデコブシとハナノキが描かれる。
17_20200110195501

リニアの町の看板があって、少し先の北にJR美乃坂本駅があり、そのあたりがリニア岐阜県駅予定地だそうだ。
お昼はお店がなく、ファミマがあるという下調べで、イートインに。ミートソース、海老とブロッコリーのサラダと飲み物の昼食。

秋葉道との分岐にまたまた常夜燈があり、その先の篠原茶本陣は明治天皇、和宮も休憩されたところ。
18_20200110195601

長連寺薬師堂跡、白木改め番所跡、茄子川村の高札場跡、坂本観音堂を通り過ぎる。
またまた石造物や馬頭観音が並んでいた。
19_20200110195601
20_20200110195701

三ツ家の一里塚跡(86里目)。塚は昭和35,6年ころまで残っていたそうだ。
21_20200110195701

将監塚。二代目美濃代官を(1613~1631まで)務めた岡田将監善同(しょうげんよしあつ)の墓である。名古屋城築城の際、木曽材持出奉行として駐在していた。その子の善政は江戸城本丸用に木曽材1万本を伐出している。それほど木曽材は重要視され、高額資材だった。
22_20200110195801

三面八臂の准胝観音(左)と一面六臂の馬頭観音(右)。このような石仏を眺めていると飽きない。自分ではとても彫れない。
232

恵那山ちらちらと見えていたが、 ドーンと現れた。恵那山は岐阜県中津川市と長野県阿智村にまたがる、木曽山脈(中央アルプス)の最南端の標高2191mの山である。 日本百名山及び新・花の百名山に選定されているとのこと。花の咲く季節に登ってみたいなあ!
24_20200110195901

指さし道標があった。「新国道美乃坂本駅ヲ経テ大井町ニ至ル」「旧国道大井町ニ至ル」と刻まれている。
25_20200110200001

坂本神社八幡宮の大木に絡んでいる黄色い実は何でしょう?カラスウリより大きく初めて見る実だ。キカラスウリでした。ポージィさん、ありがとうございました。
26_20200110200101

六地蔵石幢。石柱の六面にお地蔵様が刻まれていてとても珍しい。大林寺の入り口としてだけでなく、極楽往生や道中安全を願ったという。
27_20200110200101

またいろいろな石造物を見て、中津川市の別のマンホールを発見。おいでん祭りで踊られる風流おどりと市の花のサラサドウダンが描かれている。
28_20200110200201
もう一つも見つけた。市の花サラサドウダンだけのデザイン。
29_20200110200301

また恵那山の風景。広重の69次の中津川宿の絵には2種類ある。「晴の中津川」と「雨の中津川」で雨の方は世界に6枚しかないと言われる。その雨の方の絵がこの辺りから描かれた風景という。
30_20200110200301

(続く)

 

| | コメント (16)

2020年1月 6日 (月)

中山道11 大井宿~中津川宿(1)

まだ昨年のことなんです。
12/19(木)曇 大体、宿場の一区間だけ約11㎞でゆったりと歩いた。

いつもののぞみに乗り、前回の逆コースで名古屋からの中央本線で恵那駅に9時9分到着。
すぐに恵那市のマンホールを見つける。
真ん中は市章(太陽と飛翔する鳥。翼は6枚の羽で、合併した6つの市町村を表しているとか)、まわりには市の花ベニドウダンが描かれている。
1_20200106212001

この日特に強く感じたことは、岐阜県の車のドライバーの事です。渡ろうとするのを察してどの車も必ず停まってくれるということ。私の住んでいるところで一番近い横断歩道では停まってくれる車は今まで20数年間殆どなしという酷さである。岐阜の人の温かい心がとても嬉しかった。

前回の大井宿の手前から宿に入るところまで

長島(おさしま)橋のところまで戻って街道歩きのスタートです。前方右が観音堂と常夜燈。
2_20200106212201
観音堂の中
3_20200106212201

中野村庄屋の家の壁は浸水防止壁だったそうで道の両側に手前に見えるような石があって厚板をはめ、氾濫した川からの浸水を防いだという。
4_20200106212301

中山道広重美術館に寄る。「ニッポンのえんぎもの」という企画展をやっており、はじめてみる絵も何点もあった。
5_20200106212401

駅近く、大井宿の近くまで来て五平餅のあまから屋に入って午前中のおやつ時間。ここの五平餅は丸く、味噌(ゴマとクルミ入り)ダレが美味しい。味噌をお土産に購入した。
6_20200106212401

大井橋を渡る。欄干には中山道69次の浮世絵がはめこまれている。向こうに見える煙は王子マテリアの工場から。恵那には段ボール工場が多いそうだ。
7_20200106212501


●大井宿 大湫宿から13.8㎞、中津川宿まで9.8㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。

橋を渡るといよいよ大井宿だ。全長710mの長さで、6ヶ所もの枡形がある。古くから良い水が湧き、多くの井戸があったことから大井の地名が付いたという。
恥ずかしながら、今頃になって旅籠と木賃宿の区別を認識した。食事が付くか付かないかであった。

白木製品の取り締まりを行ったという、白木番所跡を通り過ぎ、枡形のところに市神神社がある。この宿の町の大切な神社のようだ。
8_20200106212701

次の枡形の角には旅館いち川がある。創業1624年ということで、角にあるため角屋と呼ばれていて、若山牧水や北原白秋も泊まったそうだ。今も外国人旅行者の宿泊が多いという。
9_20200106212701

ここには大井宿のマンホールがあった。広重の雪の大井宿の絵のデザインだ。
10_20200106212801

次の枡形の角を曲がると明治天皇行在所碑の立つ伊藤家跡(現在は岩井家)がある。明治天皇が明治13年に宿泊された際の使用された部屋、風呂場、便所は当時のまま残っている。外から見てもかなり古い。
11_20200106212801

下問屋場跡(脇本陣の高木家跡でもある)を進み、こんな家もある。
12_20200106212801

ひし屋資料館がある。古山家住宅を改修復元して200円で公開している。古山家は酒造と江戸時代中期以降、大井村の庄屋を務めた家柄。
13_20200106212901
ビデオを見た後、ガイドさんに案内して頂き、部屋を広く使う工夫などいろいろなことを知って感心した。今回は欄間の美しさに惹かれる。
縦の線が7本、5本、3本と入った七五三の欄間、花頭窓の欄間には驚く。
14_20200106213001

15_20200106213001
164
17_20200106213101
庭もいいし、蔵もあって展示室になっていた。
18_20200106213201
19_20200106213201

5つ目の枡形の角に本陣跡。戦後の火災でほとんどが焼けてしまったとのこと。
20_20200106213301

大井で昼食をとった際和宮が使用したという井戸もあった。水がよかったため、次の中津川宿で使用する水を運んだという。
21_20200106213401
同じく本陣裏の内城稲荷は大井城の守護神。
22_20200106213401

きのこも数種生えていたが、これは手触りがキクラゲのようです。
アラゲキクラゲだそうです。Sさま、ありがとうございました。

23_20200108095601

6つ目の枡形の角には延寿院横薬師があり、ここが大井宿の江戸方見付だった。
24_20200106213501 

この少し先に復元高札場があった。
25_20200106213601

 

 

 

| | コメント (24)

2019年12月24日 (火)

中山道10 細久手宿~大湫宿~大井宿(後編)

●大湫宿の続き

和宮人形があって中央が和宮。
1_20191224111601

コミュニティセンター到着。ここにも飲食店はなく作ってきた弁当をここで食べさせていただく。寒い日でストーブをつけていただく。
お昼を食べたあとは向かいの丸森邸(旧商家、旅籠の他塩の専売も行った)を見学する。ここでは梅茶をふるまわれ身も心も暖まる。
2_20191224111701
3_20191224111701

旧旅籠三浦屋(登録有形文化財)。
5_20191224111801

本陣跡は、旧大湫小学校(昨年取り壊された)にあった。その脇には皇女和宮御歌碑がある。
「遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も たちうかりけり」
「思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは」
6_20191224111801

宿の端の高台にある宗昌寺は宿の大火を免れて控え本陣に利用されたそうだ。
鐘楼の横に六地蔵尊が並んでいる。
7_20191224111801
ここからも大湫宿がよく見えた。
8_20191224111901


◆大湫~大井 (十三峠を行く・・上ったり下ったり)

宿を出るとそこは十三峠の西入り口だ。たくさんの坂の名前が出てくる。「ヶ根」と付くのは丘陵の尾根筋をいうらしい。
道中が長いので「~立場」や「~茶屋」の跡のなんと多いこと。所々に馬頭観音、庚申様、高札場、本陣跡、代官屋敷跡などを両側に見るのである。人馬が難渋した峠だったわけだ。
尾根筋の坂を下ると現れるのは谷戸(沢)で水田が入り込んでいる風景が展開したり、広い沢筋や扇状地形に宿や集落が現れるという区間なのである。
9_20191224112001

早速、「ヶ根」の付く童子ヶ根碑が現れる。
10_20191224112101

山之神坂を通り、次は八丁坂(しゃれこ坂)で観音碑(中央)がある。
11_20191224112101

石灰帯を通り過ぎて(近くに養豚場あり)、清水で尻を冷やしているように見えることから呼ばれた尻冷やし地蔵を通り過ぎると阿波屋の茶屋跡のところに、三十三所観音石窟がある。三十三体もの馬頭観音がおさめられている。大手運送業者や助郷に係る近隣の村々からの寄進で、石柱に名が記される。
12_20191224112201

曽根松坂の先に、大きなゴルフ場があってゴルフカートが中山道を横切る。
びあいと坂を上り、巡礼水があるが今は水がなくただの穴。昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏を唱えたら水が湧き出して命が助かったそうだ。

権現山一里塚(90里)。ここもまた左右現存している。
13_20191224112201

樫ノ木坂は石畳。87m続く。
14_20191224112301

吾郎坂、炭焼立場跡、鞍骨坂、権現坂、出茶屋跡など次々と坂、立場跡、茶屋跡が出てきて全部立て札を撮影した。書いていてもどこだったかわからないくらい同じような景色の街道が続いていく。主なのだけを記していこう。
弘法大師像や馬頭様を見ると景色が開ける。谷戸だ。
15_20191224112301

中山道の石碑で瑞浪市から恵那市に入った。

下座切場跡の標柱。中山道を行く役人を地元の代官が裃をつけて土下座して迎えた場所。
瑞浪市の白の標柱から恵那市に入ると茶色の標柱に代わる。
16_20191224112401

6つも標柱などを見て、坂を登り、峠を越え、坂を幾つか下ると開けたところが、間の宿の深萱立場(ふかがやたてば)である。
17_20191224112401

山形屋(祖先は代官)跡、本陣跡(加納家)を通り過ぎると復元された高札場(藤村高札)がある。
18_20191224112501

また山に入ると、茶屋が沢山出てくる。ばばが茶屋、馬茶屋、うばが茶屋、びやいと茶屋(枇杷湯糖を売っていた)、平六茶屋などはいいとしても、よごれ茶屋という名は、どうしてつけられたのか?
叩くと音が鳴るちんちん石とか、牡丹に似たぼたん岩などもあった。

紅坂一里塚(89里)。両塚が残る。高さは北塚は2.2m、南塚は3.2mだそうだ。
19_20191224112701

妻の神という小さな祠。命名がなかなか。道祖神の一種で夫婦和合、子宝の神などで塞ノ神とも言われる。
20_20191224112701

かくれ神坂を下るとまた開けた。
21_20191224112801

殿様街道なんていうのがあって標柱が立っており、竹折高札場跡を通り過ぎ、みだれ川をみだれ橋で渡る(急流で飛脚たちが出資して架けたという)。
その先に首なし地蔵がある。2体のうち大きい方に首がない。地蔵前で昼寝をしていた二人連れの中間が起きると一人の首がなかった。怒った中間が地蔵に「黙って見ているとは何事」と地蔵の首を刀で斬り落としてしまったという。
22_20191224112801

姫御殿跡。山中にはお姫様行列の時などには仮御殿を建てて休息をすることがあったという。当時は眺望もよかったらしい。
23_20191224112901

槙ヶ根追分に来た。名古屋を経て、伊勢へ行く下街道との分岐。
ここに伊勢神宮遥拝所があって、伊勢に行けない人は、ここで手をあわせ遙拝したそうである。
24_20191224112901

槙ヶ根立場跡もあって茶屋が昔は9軒もあったそうだ。その先に西行の森桜百選の園があり春の桜を想像する。
ここから雲のかかった恵那山をズーム。
25_20191224113001

槙ヶ根一里塚(88里)。ここも両塚が残っている。
26_20191224113001

西行塚(左奥のが供養塔の五輪塔)。そばに西行の歌碑、西行を偲ぶ芭蕉の句碑もある。
西行は諸国行脚の途中、この地に竹林庵を結び3年暮らした言われ、自分の死期を悟った西行は自分が死んだら遺骸をここに埋葬するよう頼み、亡くなると村人たちはここに埋葬して五輪塔を建てたそうだ。実際は大阪の南河内郡河南町の弘川寺で入寂したというが。
27_20191224113101

またまた東屋からは恵那山が見える。雲がかかっているがうっすら雪が被っているように見える。美しい!
28_20191224113101

西行坂を下って十三峠の東入口にたどり着く。実際はおまけ7つついて二十峠か。西から東へだったのでとても楽だった。(坂の長さや勾配で)
約13㎞くらい峠を歩いたことになる。大湫宿の前は琵琶峠を歩き今日はよく歩いたと自画自賛。

西行硯水を通るが今は水はない。西行句碑、奚花坊句碑などもあった。
29_20191224113201

中央本線恵那駅に到着。5時過ぎの電車で名古屋へ向かう。
P1040185-2

名古屋駅で今日はイタリアン。赤ワインにラスパドゥーチーズのピザと、名古屋コーチン卵と熟成ベーコンのカルボナーラ。
Photo_20191224113601
Photo_20191224113701

お土産は中津川市周辺の銘菓「からすみ」でういろうに似た味わい。
Photo_20191224113702

いつものひかりに乗って10時半帰宅。40548歩。

| | コメント (14)

2019年12月 9日 (月)

中山道9 御嶽宿 ← 細久手宿(後編)    

◆御 嶽 ← 細久手の続き    

紅葉が美しい。
1_20191209111301

竹林もある。
2_20191209111301

この先、諸の木坂を上がっていくと、この葉で覆われてしまっているが、馬の飲み場がある。ここが物見峠である。
3_20191209111401

御殿場に到着した。和宮降嫁の際、一行が休憩する御殿が造られたことから、御殿場と呼ぶようになったという。
富士山麓の御殿場は、家康の遺体を移行する際、一時安置したところなので付いた名という。
ここの東屋で手作りの弁当の昼食。今まで初めて昼食をするお店がなかった。そんな山の中なのです。
紅葉もあり、遠くの山・恵那山、笠置山、御嶽山が見えるはずだが木が茂って眺望がないのが残念。
4_20191209111501
5_20191209111501
6_20191209111601

少し歩くと突然「ラ・プロヴァンス」というケーキ店があった。旅人でなく車で来た人で殆ど満席。昼食屋さんはないのに、南フランスの店名のケーキ喫茶があるのには驚く。冷え切っていたので、アップルティーとモンブランで温まる。
7_20191209111601
8_20191209111601

唄清水の碑。水が湧き、傍らに「馬子唄の響きに浪たつ清水かな」と刻まれている。
9_20191209111701

一呑清水。皇女和宮が降嫁の道中この清水を賞味したところ、大層気に入り、後の上洛の際に多治見の永保寺にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられているそうだ。水の中に地蔵もあった。
10_20191209111701

十本木立場跡、馬頭観音を通り過ぎると謡坂十本木一里塚がある。明治時代に壊され、昭和48年復元されたとある。
11_20191209111801

ここは十本木茶屋跡であり、広重の御嶽宿の絵のモデルとなった場所で、絵に木賃宿が描かれたのは珍しいそうだ。絵の中に宿の前には小川のような洗い場がある。
12_20191209111901

謡坂(うとうざか)石畳に入った。元気づけに唄を謡いながら坂を登ったから付いた名だそうだ。私は歌の代わりに「気合だ、気合だ」と浜口親子の言葉で元気づけています。
13_20191209112001

横道に入ってマリア像を見に行く。御嵩町に隠れキリシタン村が存在したことが、道路工事が行われた際にわかった。地中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことが判明したそうだ。発見された陽刻十字架は前回の中山道みたけ館で見た。これを契機に近在各所から発見が相次いだ。
この地に「聖母マリア像」が建立された。
14_20191209112301

やがて石畳は終了し、その先に耳神社がある。奉納された竹の錐を耳にあてると耳の病気が治るという。
15_20191209112401
16_20191209112401

馬頭観音や百八十八ヶ所順拝納経塚碑(西国、四国、板東、秩父の百八十八ヶ所の霊場を巡った夫婦の記念の碑)を見て竹林を進むと、石窟内の立派な馬頭観音があらわれた。1765年のもの。
寒念仏供養塔と刻まれているが、寒い中念仏を唱えて歩き、報謝で馬頭観音を作って馬を供養したのだそうだ。
17_20191209112501

いよいよ牛の鼻欠け坂。写真ですとあまり急坂に見えないですが。
西からくると荷物を背に上ってくる牛の鼻が擦れて欠けてしまうほどの急坂だったことから名付けられたとか。牛が可哀想になるし、多く使われた馬も大変だったなのだろうと、人間の大変さとともに思う。
18_20191209112701

坂を下ると田んぼが広がる。
19_20191209112801
20_20191209112901

摩利支天。
21_20191209113001

馬頭観音。他にもたくさん撮って馬頭観音の多いことに感心した。
22_20191209113101

和泉式部廟所。平安時代の女流作家。
和泉式部は旅の途中、御嵩のあたりで病気になり、鬼岩温泉で湯治したものの、この地で亡くなったという。
「ひとりさえ 渡れば沈むうき橋に あとなる人は しばしとどまれ」と刻まれている。
23_20191209113101

弘法堂。白い象がいる。(江戸時代の象に関係あるのでしょうか)
24_20191209113201

御嵩富士が見えてきた。
25_20191209113201
最後に再びみたけ館に寄って、さきほど見てきたキリシタン関係の展示をもう一度見る(撮影禁止)。
細久手宿と御嶽宿の間でも殆ど人を見かけず、街道では誰に会うこともなく、ただただ熊に出会わないように祈っていました。
本当に昔の儘の素晴らしい区間です。次回の細久手、大湫、大井までも同じようだそうで楽しみだ。

御嵩駅でこの日の歩きは終了し、4時29分の名鉄に乗り、新可児で中部国際空港行きに乗り換えて名古屋へ。
名古屋駅でおみやげとお弁当を買い、いつもより1時間早い6時26分のひかりに乗る。1時間後のひかりは小田原に停まるが、これは豊橋に停まる。
夕食は、おこわひつまぶしのお弁当 お土産は刻み守口漬け。
26_20191209113401
27_20191209113401

帰宅は9時半頃。34460歩。11.8㎞区間だけれど、寄り道入れても、いつもよりゆったりした歩きだった。

 

 

 

| | コメント (18)

2019年11月11日 (月)

中山道7 六軒駅~鵜沼宿~太田宿(3)  

気が付いたことがあります。岐阜県の中山道沿いのトイレはとてもきれいで、また所々に配置されていて有難いです。
              
◆鵜沼~太田の続き

加茂川が木曽川へと合流する加茂川送水樋門がある。ここで、坂祝町から美濃太田市へと入った。
1_20191111154601

美濃の俳人、兼松嘯風句碑があり、その先の欄干にたくさんの句碑がある。好きな人には散歩しながら楽しめるところでしょう。日本ラインと大きな中洲、近くや遠くの山々と緑、ロマンチック街道なる素晴らしい歩道など、実に心和む風景だ。
2_20191111154601

土手をいったん降りて、芳春寺へ。お寺の前に地蔵尊、馬頭観音、三界萬霊塔、弘法大師が並んでいた。
3_20191111154701

再び土手に上がり、少し進み、マルバルコウソウの群落に目を惹かれながらムクノキと金木犀のところで降りる。
解説板にはこの地で生まれた坪内逍遙(父が代官所の役人で10人兄妹の末子だった)が夫婦で訪れた際にこの木の前で記念撮影したという写真があった。
Photo_20191111160901
4_20191111154701

ムクノキと背中合わせに虚空蔵堂があり、逍遙の子どもの頃の遊び場だったところだそうだ。
5_20191111154801

また、ここのあたりは承久の乱(武家政権確立)の古戦場跡でもある。いろいろな石碑もあった。
6_20191111154801

 

●太田宿 (51番目の宿)鵜沼宿から7.4㎞、伏見宿まで7.9㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒。

太田宿に入ってきた。猫のお出迎え。時刻は4時近く。今年はいつまでも暑くて夕方にならないと会えなかった。
7_20191111154901

本陣跡。今は門が残るのみである。和宮が江戸に向かう時に新築された門とのことだ。おまけに中山道の家並みも新築、修繕されたそうだ。和宮下向に際しては各宿場はてんやわんやだったことが伺われる。
8_20191111154901

その向かいにあるのが、太田宿中山道会館。エノキが大きくとヤドリギがたくさんついている。
9_20191111155001

展示室には、太田宿の展示の他、この地に暮らした坪内逍遥や岡本一平に関する展示もあった。
突き当りの見える机上の模型は、坪内逍遙の父が勤めていた太田代官所。逍遙が書き残した平面図を元にして造ったものだそうだ。
10_20191111155001

岡本一平は岡本かの子の夫で、岡本太郎の父。終戦の年にここに疎開し、昭和23年に亡くなるまで漫俳を創唱し、漫風を発行した。
11_20191111155101
Photo_20191111155401

脇本陣跡の林家住宅。うだつの上がる立派なお屋敷だ。今も住んでおられるそうで、隠居家のみ見学できるが4時までなので次回に見学する。
13_20191111155501

今日は魚徳で、お土産「子持ち鮎の甘露煮」を買ってもらう。これは美味しかった!
14_20191111155501

旅籠だった小松屋(吉田家住宅)は今は案内所となっている。坪内逍遙や、播隆上人の説明板などがあった。
播隆上人は槍ヶ岳を開山した上人さん。知らなかったです。
15_20191111155701
16_20191111155901

向かいの建物は旧十六銀行太田支店だったところ。
17_20191111155901
鬼瓦に「銀」とある。
18_20191111160001

祐泉禅寺に寄る。
191
北原白秋の歌碑と坪内逍遙の歌碑があった(芭蕉句碑と播隆上人の墓碑もあるらしいが次回に見つけることに)。ここでこの日の街道歩きは終了した。
20_20191111160101

美濃太田駅へと向かう。いろいろな鉄道が合流していて立派な駅舎だ。駅近くのいろいろな案内にポルトガル語が書かれているのが多い。
22_20191111160101

美濃加茂市のマンホール。日本ライン下りの船と船頭さんが描かれている。
21_20191111160201

美濃太田駅の前には、坪内逍遙の胸像があった。
23_20191111160201

5時35分の高山本線で岐阜へ。乗り換えて名古屋着は6時45分。
名古屋駅のお店で駅弁・だるまの満彩おこわ弁当を買い、いつもの7時26分発のひかりに乗り込む。
24_20191111160301
東京駅9時10分着。帰宅はいつもの10時半頃だった。41278歩。

 

 

 

| | コメント (26)

2019年11月 5日 (火)

中山道7 六軒駅~鵜沼宿~太田宿(2)

●鵜沼宿の続き

ここで昼食です。鉄門の斜め前にある「花の木」で昼食。ねぶか雑炊のセットです。
1_20191105104801
伊能忠敬がいまから200年前の文化6年(1809)に測量に訪れた際、鵜沼宿のねぶか雑炊(ねぎ雑炊)をうとう峠で食べたという由緒あるもの。
雑炊が出るまでの間、りんごマンゴー酢をおつまみとともに飲んで待つ。
雑炊の他、茶碗蒸し、刺し身入りサラダ、ポテトサラダ、茶碗蒸し、肉団子、ごま豆腐など最近の昼食ではピカ一だ。
2_20191105104801
3_20191105104901

食後、少し戻って鵜沼宿町屋館を見学。
4_20191105104901
5_20191105105001
江戸時代には絹屋という旅籠を営んでいた武藤家は明治に入り郵便局を営むことになった。その建物を市が譲り受け、歴史民俗資料館として公開している。

復元された高札場。
6_20191105105001

赤坂神社にはたくさん御神燈が並んでいた。
7_20191105105101
ここから見た秋の雲が素晴らしい。5000~13000ⅿに現れる巻雲や巻積雲(鱗雲)が一番好きな雲で、我が人生最高の雲は美ヶ原の空にあったことを思い出す。
8_20191105105101

東の見附跡と、道標を兼ねた赤坂の地蔵堂がある。鵜沼宿はここで終わり。
9_20191105105201


◆鵜沼~太田

ここからうとう峠に向けて坂道がはじまる。
江戸時代から農業用水として利用されていた合戸池(かっこ)が行く手の左に現れた。
10_20191105105201

峠らしい道になり薄暗い。「うとう」とは疎いで「不案内、よそよそしい、気味の悪い」という意味があるという。
11_20191105110101

うとう峠の一里塚(100番目)があった。こちら北側は残っているが、南側は崩れていた。
12_20191105110101
13_20191105110201

至る所にイノシシ出没注意と、まむし注意の看板が立っており、まむしが怖くて下や木からぶら下がっていないかを見ながら歩く。イノシシに効き目があるかはわからないが、娘が大きな音のカウベルを付けた。私の付けた鈴はまるで蚊の鳴くような声(音!)なので効き目はなさそう。
14_20191105110301
15_20191105110301
Photo_20191105110401

コフキサルノコシカケか  ホウロクタケとshikamasonjinさまに教えていただきました。有難うございました。
Photo_20191105110501 

鬱蒼としたところを下ると木橋がある。
16_20191105110601

JR高山本線と県道をくぐるトンネルを通る。脇から水が流れ込んで水浸し。
17_20191105110601

坂祝町(さかほぎ)へと入ってきた。階段を上がると県道だが、多くの飲食店が閉店となってさびれていた。日本ライン下り(以前乗ったことがある)が終了したそうだからか。シャッター街同様見るに忍びない。

踏切のところでちょうど高山本線がきた。
18_20191105110701

ここで岩屋観音へと上がっていく。木曽川が見える。
21_20191105110701
観音堂には地蔵尊。奥にもいろいろな仏像がある。
19_20191105110801
20_20191105110801

中山道はここから、太田宿の近くまで県道を行くのだが、車量も多く、風情もないので、皆も通るという川沿いのロマンチック街道を行く。
川と対岸の山々が見えて、素敵な散歩道。名前がまた日本ライン同様ロマンチック街道とは。風景がドイツのライン川沿いに似ているから付けられたとか。

水神と庚申塔が祀られ、勝山湊跡がある。木曾川の対岸犬山市栗栖と勝山を結ぶ。桑名方面へ向かう年貢米の積み出し港として、また水上交通の要所として栄えたそうだ。
22_20191105111301

向こうに見える岩肌が見えている山は、可児市の鳩吹山である。
23_20191105111401

さっきも書いてあったけれども、またロマンチック街道の文字が書かれている。
24_20191105111401

はるか彼方右手に御嶽山が見えた。あの山の向こう側に中山道があるのだ。まだまだ木曽は遠い。
25_20191105111401

 

| | コメント (16)

より以前の記事一覧