2019年6月24日 (月)

中山道2 武佐宿~愛知川宿~高宮宿(3)

愛知川~高宮の続き 

伊藤忠兵衛記念館は無料。伊藤忠創始者・伊藤忠兵衛の旧邸であり、二代目忠兵衛が生まれた豊郷本家。明治15(1882)年建設された。
大きく立派な家で庭も広く手入れされ、蔵は2つもあって当時の貴重な品が沢山保管されている。
初代の妻八重さんは大所帯を切り盛りするだけでなく、アシスタントとして江州での近江麻布の仕入れを一手に切り回した。新入店員の教育もし、また二代目を自ら指名し、丁稚小僧扱いにし、5年間の地方回りの下積みを重ねさせ、その後イギリス留学をさせた由。
1_20190624125701

2_20190624125701

3_20190624125701

4_20190624125801

5_20190624125801

伊藤長兵衛家屋敷跡。九代目伊藤長兵衛が1921年伊藤忠商店と合併して株式会社丸紅商店設立し、初代社長になった。伊藤忠と丸紅は同じ系統だったことを初めて知った。この方は地域のために自費で病院を建て、屋敷跡は病院の駐車場になっている。
 6_20190624125901

八幡神社にある石柱には豊郷町のこのあたりが石畑で間の宿とあった。立場跡もあった。
又、那須城跡でもあり、かつては弓に名手・那須与一の次男石畑宗信がこの地を治めていたそうだ。
7_20190624130001

旧豊郷小学校は、この町出身で丸紅の専務だった古川鉄治郎の寄付で建てられたもので、ヴォーリズの設計。滋賀県最古の鉄筋コンクリート造りで、縦長の窓が並んでいるのが特徴。見たことがないけれども、アニメ「けいおん!」のモデルになったところ!
8_20190624130001

スズムシバナの群生地があった。鈴虫が鳴く頃に薄紫の色の花を咲かせるが、九州、四国、本州(近畿地方以西)に自生し、この町のものが自生しているものでは北限だそうだ。キツネノマゴ科ですが葉はシソの葉によく似ている。
9_20190624130101

彦根市に入って西側に「おいでやす」、東側に「またおいでやす」と書かれたモニュメントが立っている。その上に麻の荷を担いだ女性、旅人、近江商人がのっている。
10_20190624130101

月通寺には行基が刻んだ柏原地蔵(見られない)がある。この門が医薬門(左右に本柱と控え柱をそれぞれ1組ずつ配し、屋根は切妻破風造りのもの)。
11_20190624130201

松とカエデの並木の街道。
12_20190624130301

120里目の壊れた一里塚跡。
13_20190624130301

またこちらにも無賃橋が出てきた。
当初ここ犬上川には橋はなく、川越人足による渡しだったが費用が高く、彦根藩は豪商らに命じて費用を一般から募って橋を造らせ無料で渡れるようにしたため、無賃橋と言われるようになった。無賃橋碑があった。
14_20190624130401



高宮宿(64番目の宿)愛知川宿から7.9㎞、鳥居本宿まで5.9㎞、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒。

橋を渡って高宮宿に入ってきた。多賀大社の門前町であり、「高宮上布」という麻織物の集散地として栄え、中山道の宿場の中では本庄宿につぐ規模だったそうだ。

彦根市のマンホールは市章を幾何学的に配置し、外周に市の木のたちばなをデザインした。ひこにゃんのマンホールもあるらしい。
15_20190624130601

今日のお土産は旭堂の丁稚羊羹。刻んだ栗が美味しい羊羹。丁稚さんでも買えた羊羹という。
16_20190624130601

まず円照寺があってとても立派なお寺。明治天皇ゆかりの松を見、家康の腰掛石があるというがこれは見つからなかった。
17_20190624130801

表門が現存している本陣跡。
18_20190624130801

高宮寺(こうぐうじ)。奈良時代に行基とインドから来日した婆羅門が開基したと伝わる。中に重文の木像や県指定文化財4点があるという。
19_20190624130901

小林家の前に芭蕉の紙子塚の説明板と碑がある。
20_20190624131001
芭蕉が小林家に泊まった際、「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 と詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、庭に塚を作り古い紙子を収めて 「紙子塚」 と名付けたという。

多賀大社の一の鳥居。高さ11メートルで滋賀県最大。県指定有形文化財。ここから多賀大社まで3.6㎞の距離がある。江戸時代の三大神社参りは伊勢、熊野そしてここ多賀であった。延命信仰では重源や秀吉の話が有名だ。
21_20190624131001

高宮宿の街並み。雨がやっと止む。
22_20190624131101

座・楽庵の看板のある建物は布問屋で蔵もある。建物は登録有形文化財。
22_20190624131102

高宮神社は創建は鎌倉末期。見つからなかったが芭蕉の句碑も残る。
23_20190624131201
24_20190624131201

参道にあった立派なお宅は馬場家住宅。元大庄屋の家である。近江商人でもあって、蔵が4つあり、天保4年の創建という。
25_20190624131301

街道歩きは宿の終わるこのあたりで終了し高宮駅へ。
26_20190624131401

彦根まで近江鉄道に乗り、琵琶湖線に乗り換えて米原着が6時前。18:57のひかりに乗り、米原駅のお弁当を食べ(なかなかに美味しい)、21:10東京着。帰宅は22時半前。41264歩(この内、家往復は帰りのみバスを使うので約2700歩)
27_20190624131501

(完)

| | コメント (10)

2019年6月21日 (金)

中山道2 武佐宿~愛知川宿~高宮宿(2)

◆武佐~愛知川(続き)

近江商人について、まだ本を読むに至らず、地図の説明を引用させていただきました。
「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の近江商人の精神と信仰心が商売の精神と結びついた。
近江商人は日本全国に留まらず、ベトナム、朝鮮半島、中国まで行商に出かけ、日本の近代商業の発祥の役割を担った。
この先で邸宅を見た伊藤忠・丸紅、その他住友、高島屋、西武グループなど現在の日本を代表する老舗を輩出した。「近江の千両天秤」という言葉は天秤棒一本で千両を稼ぐ商魂の逞しさを表している。
何故近江商人が誕生したのか?1つに大名がおらず、領地が他国大名、旗本、社寺の領地で、移動に通行手形が簡単に取れた。2つに日本の真ん中で東西を結ぶ交通の要衝であり琵琶湖の水運もあったことである。
重伝建になっている近江商人の屋敷や街並みは、中仙道から少し入った金堂地区で寄らなかったが、この街道沿いにも商人の家は残っている。

江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍した市田庄兵衛の本宅。明治初期の建築。
1_20190621083701

家の跡が残る近江商人・市田太郎兵衛邸には明治天皇が巡幸の際、往復路この家で小休され、その記念碑が向かいにあった。東海道では数えきれないほど明治天皇御聖蹟があって、殆ど写真はスルーしたが、中山道にも見かけている。明治天皇は随分とあちこち出かけられたのですね。
2_20190621083801

道標を兼ねた常夜燈。「左いせ ひの 八日市 右京道」と刻まれている。天保15年(1844)・・・大飢饉、お伊勢参り大流行、天保の改革が行われた年。
Photo_20190621084701

旧五個荘郵便局は大正14年の建物。国の登録有形文化財である。
3_20190621084701

中がこんな立派な小さな地蔵堂があった。
4_20190621084801

渡った大同川の橋には近江商人のレリーフがあった。
5_20190621084901

小幡町に入って近江鉄道の五個荘駅も近い。趣ある立派な大神宮常夜燈。この後3つも見る。
6_20190621084901

昔を偲ばせるような街並み。
7_20190621085001

小幡人形のお店があった。伏見人形を見た飛脚が街道土産として売り始めたのが発祥で、500種類もあるという土人形。伏見人形は若冲の絵で見た。笠森観音のある千葉県長南町には猫が多い芝原人形があると聞いたことがある。
8_20190621085201

東嶺禅師生誕の碑。静岡県原宿の白隠禅師の高弟だそうだ。
9_20190621085201

愛知川(えちがわ)にやってきた。睨み灯籠(大神宮常夜燈)といって、両岸に睨みあうかたちで存在している。
愛知川を御幸橋で渡るとちょうど近江鉄道が通っていったが、橋梁は明治31年のものだそうだ。古いのによくもっているものです。
この川は歩行渡りだったが、増水すると旅人が多く死亡、「人取川」と恐れられ、1831年無賃橋が架けられて多くの旅人に喜ばれた。広重の六拾九次之内にも描かれている。
10_20190621085401

祇園神社は御幸橋の守護神として建立された牛頭天王社である。
11_20190621085401

●愛知川宿(65番目の宿) 武佐宿から9.8m、高宮宿まで7.9m、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒。

愛知川宿のゲートが見えてきた。時々国道を歩くとダンプカーのしぶきを浴びて参った参った。びしょ濡れだ。
12_20190621085601

ゲートの先に不飲川があり、橋の欄干に載っているものがある。愛知川名物の瓶手毬なのだそうだ。瓶の中に手毬が見える。瓶細工手毬と言って、ボトルシップのように、その口より大きな刺しゅうを施した手毬が入ったもの。
13_20190621085701

竹平楼は昔は旅籠(1758年)で明治天皇の小休所となった。登録有形文化財。現在は食事処だ。
14_20190621085801

愛知川宿の街並み。商店街の街灯は近江商人の隊列があしらわれているそうだが見なかった。
15_20190621085901

高札場跡、脇本陣跡と本陣跡を挟んで八幡神社があり、愛知川の産土神。本殿は檜皮葺で立派だ。
16_20190621085901

17_20190621090001

お隣の寶満寺には親鸞お手植えの紅梅があるそうだが探せなかった。この地の最初の小学校になったり最初の郡役所になったお寺。
18_20190621090001

しろ平老舗という和菓子屋さんに寄って「米どころ」という名物の最中を買って今日のおやつにする。
19_2019062109020120_20190621090101    
 
郡分延命地蔵尊の所が愛知川宿の江戸口だ。地蔵は暗くてよく見えなかったが、お堂の脇にはたくさんの地蔵とおぼしき石仏が。
 21_20190621090301

ゲートをくぐって愛知川宿とお別れする。ゲートの文字愛知川宿の隣は瓶手毬の絵。
22_20190621090501


愛知川~高宮(間に間の宿・豊郷町があり7.9㎞)

式内社石部神社は石を扱う石作部の神社。社標の文字は第35代首相・平沼騏一郎(平沼赳夫の養父)のものだそうだ。
23_20190621090601

愛知川のマンホールは町を流れる愛知川、宇曽川、安壺川、新愛知川、不飲川の5つの川と花火大会の花火をデザイン化したそうだ。
24_20190621090601

歌詰橋。謂れは平将門が藤原秀郷によって討たれた。秀郷が京に上る途中この橋まで来た時に、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、その首に対して一首をと言うと、将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちたという。ここで豊郷町に入る。
25_20190621090701

千樹寺の前に「伝統芸能・扇踊り日傘踊り・中山道千枝の里碑」と「江州音頭発祥の起源碑」。「江州」とは「近江の国」の異称。
は信長によって焼かれた千樹寺が、近江商人によって再建された。この落慶法要で時の住職がお経に音頭の節をつけて唱い踊りだし、見物人も面白くなって踊り出し、住職が扇子や花傘を持たせて踊らせたのが 「江州音頭」 の始まりとのこと。まさに現在の盆踊りのよう。
26_2019062109080127_20190621090801   

豊郷町のマンホールにも内側から、江州音頭を踊る人々、町の花・ツツジ、提灯がデザインされている。
28_20190621091001

近江商人・又十屋敷跡(豊会館)はお休み。その隣に121里目一里塚址があった。
29_20190621091001

タンクにも江州音頭が描かれていた。
30_20190621091101

続く

 

 

 

| | コメント (14)

2019年6月11日 (火)

中山道1草津~武佐(後編)

◆ 守山~鏡(間宿)
次の武佐宿まで13.8㎞と草津から武佐よりも倍以上の長い距離で鏡という間(あい)の宿があった。

稲妻型道路と言って守山宿の加宿・吉身は、街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっていたとのこと、今見られないのが残念だが、思うに歩きづらそうな感じだ。宿場の治安維持を図るための工夫だったらしく全国的にも珍しかったとのこと。

加宿の高札場跡を過ぎて野洲市に入り、野洲川を渡る。野洲川は大きな川で、朝鮮通信使などの場合を除き、橋は架けられず、徒渡しだったそうだ。三上山がきれいに見えた。
1_17

まだまだ近江路、もうお地蔵さんだらけ。この先もたくさん見かけた。これもその一つで川を渡った先に並んでいた。個人宅にもかなり見られた。
2_19

芭蕉句碑を撮影。「野洲川や 身は安からぬ さらしうす」・・野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす 「布晒」 を行っていて、冬に冷たい川に入って布をつくのは重労働だったという意味。風景が思い浮かぶようだ。
3_17

野洲市のマンホールは旧野洲町から出土された銅鐸の模様。
4_19

梅元老舗という和菓子屋でおやつとして三上山彩景という三上山の形をした蒸しパンのようなどら焼きを購入しもう少し先でいただく。
5_18

唯心寺の屋根は茅葺きでなかなかいいものだ。このお寺を開基した唯心尼は処刑された住蓮坊を手厚く葬ったという。
6_14

弘法大師作と伝わる背くらべ地蔵がある。当時は乳児がよく死んだため子を持つ親達が、小さい方の地蔵と子供の背丈を比べ我が子の発育を祈った。大きい方は、阿弥陀如来立像で背比べをしているわけではない。
7_17

行事神社の鳥居にかかっている縄は勧請縄といって悪霊や疫病神が入ってこないよう縄を張って境を守る。紙垂が木の枯れ葉のようで実に面白い、珍しいしめ縄。枯れ葉が落ちていないのが不思議?何か仕掛けがあるのかな。
8_17

この神社の横を流れる用水路は祇王井。平清盛の寵愛を受けた祇王が故郷の人々が干ばつで苦しんでいることを訴え、清盛が水路を造らせたとのことでこの名がついた・・と平家物語にあるとか。
9_17

野洲市の2種類目のマンホールは市章と三上山、鉄橋、野洲川とアヤメ。
10_17

こんな可愛い六地蔵もあった。
11_19

宝樹寺には鎌倉時代の宝篋印塔がある。この寺で近江天保一揆の打ち合わせが行われたという。東海道側まで一揆は広がっていた。
12_13

銅鐸出土地のあたりを過ぎ、国史跡大岩山古墳群の一つの桜生(さくらばさま)史跡公園の3つあるうちの甲山古墳(6世紀)・横穴式が街道沿いにある。中の石棺が大きい。
13_13

子安地蔵堂には平安時代の地蔵があるが秘仏で見られず、天井川だった家棟(やのむね)川を無くして新家棟川を作ったのを渡る。滋賀県は天井川だらけでもあったのに感心する。渡ったところにある愛宕山常夜燈。静岡県や愛知県は火伏として秋葉常夜燈であった。
14_13

不帰池(蛙不鳴池)。1185年、源義経が平家の大将・平宗盛とその子清宗を処刑した時、その首を洗った首洗い池と続いていて蛙が鳴かなくなったと言われた池だ。
15_15

平家終焉の地、平宗盛・清宗胴塚
16_14


◆鏡の宿(間宿)~武佐

竜王町に入ると、道に駅・竜王かがみの里がある。
向かいに義経元服の池とその碑があった。
17_12

隣の鏡神社の参道には、義経が元服後参拝した折に烏帽子をかけたとされる烏帽子掛け松があった(明治6年の台風で倒れたため切断したまま残されている)。神社の本殿は室町時代のもので重文。
18_12

間宿として、旅籠の跡や本陣跡などの案内板が続く。本陣には皇女和宮も休息した。
19_10 20_11

源義経宿泊の館跡。このあたりは義経関係が多い。
21_11

こんな愛宕常夜燈もあった。
22_9

竜王町のマンホールは町の木「松」と町の花「コバノミツバツツジ」が描かれている。
23_11

間の宿を抜けると遥かかなたまで田んぼが広がる。近江盆地の最も広い平地部で 耕地の約90%が水田で、他にメロン、ぶどうなどを栽培しているそうだ。
24_11

「みなくち道」「是よりいせみち」の道標があってまたまた、東海道(水口)や伊勢につながっている道が出てきた。
25_11

川縁の石造物。
26_9

日野川を渡ると近江八幡市に入った。
27_12

水田と麦畑の中を行く。今まさに麦秋だ。
28_10

高札場跡の向かいに八幡社がある。
源義家が奥州遠征の途中、愛馬が熱病にかかりここで休ませたところたちまち回復したので、応神天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願して造ったとの伝承がある重文の社である。
29_8

遠くに住蓮坊古墳が見えた。その母が自害した場所を通ったが、住連坊は安楽坊と同じく法然上人の弟子で後鳥羽上皇の溺愛する女官を、上皇の留守中に出家させたために死罪になった。安楽坊は京都で住連坊はこの地で。二人の墓があるのがこの古墳だ。
30_9

武佐宿に入ってすぐ住友グループの育ての親・伊庭貞剛邸跡がある。公園になっていて、武佐竜胆が飾られていた。武佐で発見された竜胆のようだ。
31_8
32_7

近江鉄道の無人駅・武佐駅に到着。
33_4

近江八幡駅でJR琵琶湖線に乗り換え、米原で新幹線「ひかり」に乗る。名古屋を過ぎると小田原に停まるだけで21:10に東京駅到着。家には10時半頃着く。47081歩で最初から良く歩いたものです。
米原で買ったお弁当は牛肉弁当。
34_2

 

| | コメント (22)

2019年6月 6日 (木)

中山道1 草津~武佐(前編)

また歩くことになりました。よろしかったとき、お付き合いをくださいませ。

5/30(木) 今日から中山道69次を京都側から歩きます。マップは風人社のです。丁寧な説明と絶対に迷わない地図。
中山道は江戸から京都まで約526.3㎞なので東海道の492㎞より34.3㎞長いことになります。
しかし69番目の大津宿と68番目の草津宿は重なり、草津追分から歩くので、18.6km少なくなり、15.7km東海道より長く歩くだけで、1回分くらいの距離です。が交通が不便、山あり谷あり、ストック持参で出かける日もありそうです。人によっては90歳越えても歩いている方がいらっしゃるそうで、果たして私は挫折してしまうかは神のみぞ知るです。

いつもの6:16ののぞみに乗り京都(京都は今朝が最後、帰りは米原から)で乗り換えて草津へ。草津駅から歩き始めたのが9時10分。

◆草津~守山

いざ草津追分の道標を再び見てトンネル(旧草津川隧道)をくぐって出発!中山道はしばらく近江路を行く。
1_15 2_18

トンネルの上は草津川跡地公園となっていて、ここから京都へ向かう東海道・中山道の草津宿が見えたが、高層ビルが両側に多く建っている宿だ。
3_16 4_18
 
覚善寺の前の街道の分岐点の道標。明治時代に移転していたらしい。
5_17

伊砂砂神社。檜皮葺の本殿は重文で高く評価されている神社。
6_13

まだ滋賀県なので飛び出し坊やが多く、栗東市に入ってからもスヌーピーなど面白いのが続く。
7_16 8_16
9_16 10_16

綣(へそ)という変わった名前の集落に入る。綣は巻子など糸巻きに関係するらしい。
佛眼寺地蔵堂の綿被り地蔵。大雨で河川が氾濫し、上流から流れてきた一体の地蔵尊を拾い上げ、「冷たい水に漬かって、さぞかし寒かっただろう」 と頭から綿をかぶせて祀り、綿被り地蔵の名がついたと伝わるが、綿は水を吸って地蔵を傷めるということで今はかぶっていない。
11_18

大宝神社 大宝年間(701~4)創建の古い神社で疫病の神・牛頭天王(茅の輪くぐりの習俗はこの牛頭天王に由来する)を信仰。
8社ある境内社の中の1つ、追来神社は1283年建立で重文。
12_12
13_12

「へそ=綣」が出てくる芭蕉句碑がある。「へそむらの 麦まだ青し 春の暮」。
14_11

守山市に入るとマンホールが目に入る。
 ゲンジボタル、琵琶湖大橋、空から見た琵琶湖に浮かぶたくさんの矢印(えりと呼ばれる定置網の一種で、琵琶湖独特の漁法)が描かれているそうだが、1地番下の草みたいのがわからない。ドローンで湖の上の矢印が見られたら最高。
15_14
 
十王寺焔魔堂。焔魔堂町の由来になったお寺。開基は小野篁で閻魔大王など十王を彫った。十王とは人が亡くなって冥府で死者を前世の善悪業因により中有(初七日から3周忌の間)裁くことにより来世の生所が定まる裁きを行う10人の王様。ダンテの『神曲』を思い出す。
16_13

重蓮坊母公墓標石
法然、親鸞の浄土教が発展していくなかで、旧勢力から弾圧がなされた「承元の法難」に関係した重蓮坊が近江八幡で打ち首になったとの報を聞いた母が、悲しんでこの地の池に身を投じて亡くなったという。
17_11

今宿一里塚(128番目)中山道の一里塚は草津まで129ある。滋賀県で唯一原型をとどめる一里塚。南側だけしか残らず、榎は二代目。
18_11

本像寺 朝鮮通信使が宿泊した時、本陣として使用された寺。
ここには江戸時代の奇石収集家で「石の長者」と呼ばれた、木内石亭の墓があり、いろいろな石もあった。
20_10
21_10

 
 
●守山宿(67番目の宿)草津宿から5.9㎞、次の武佐宿まで13.8㎞。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒。宿は400mしかない。

守山宿に土橋を渡って入る。
22_8

「かたた屋」で昼食。かたた屋は旧旅籠の堅田屋で旅籠の面影を残している。中の雰囲気もとても良い。
昼食に注文したのは鶏ひつまぶし。鶏肉は炙り焼きで、まずはそのままで、次に薬味をつけて(柚子胡椒が美味しい)、最後に鶏がらスープをかけていただく。
23_10
24_10

東門院 仁王門 ご本尊は十一面観音だ。重文の不動明王坐像(平安時代)は見損なったが多くの文化財を保有する。
25_10

東門院五重塔は鎌倉時代のもので重文。左は宝塔、右は宝篋印塔。
27_11

  本陣跡と井戸跡
29_7

天満宮の裏に源内塚がある。平治の乱に敗れた源頼朝が東国に敗走する途中、源内兵衛真弘らが襲いかかったが、頼朝は髭切りと呼ばれる名刀で源内を一刀両断にしたという。
31_7

うの家は、元首相の宇野宗佑氏の実家。レストランのようだった。
30_8

すぐ先に「すぐいしべ道」の道標。ここから東海道のあの石部宿までつながっているのだ。距離的にはとても近い。分かれたばかりだから。
32_6

続く

| | コメント (24)

2019年5月26日 (日)

東海道35(最終回) 大津~三条大橋


5/23(木)いつもの6時過ぎののぞみに乗り、京都から山科、そこで京阪に乗り換え前回の大谷駅に到着して9時頃から歩き始める。お天気も良く、途中富士山も見えた。京都の気温は午後30度。

Photo_67

◆大津(大谷駅)~三条大橋

広重の「大津 走井茶店」の絵には店の前の井戸から勢いよく水が吹き出ている。茶店は明治初期まで続いたが、日本画家・橋本関雪の別荘となった後、月心寺になった。
1_13

髭茶屋追分
東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点。追分で大津絵が生まれ、大津算盤も当地で日本人向けに改良され全国に広まった。
2_16

閑栖寺には車道が再現されていた。車道は京と大津間に敷かれ、京に向かって右側で車幅は約2.7mで、人馬道より15~30㎝低くなっていた。その様子を描いた絵が飾られていた。
3_14

4_16

井筒八ツ橋本舗で工場内を見学し、「夕子」の製造過程を見、お茶と一緒にご馳走になる。販売用お菓子だけでなく、大津絵や大津算盤、縫い針の展示説明もされている。
大津絵は寛永年間、ここ大谷・追分付近で町絵師が素朴な仏画を描いて旅人に売ったのが始まり。鳥子紙に泥絵具で描く。藤娘は良縁、鬼の念仏は子供の夜泣き止めと護符として庶民信仰と結びついて流布した。
八ツ橋や生八つ橋入りどら焼きの「三笠」を買って、三笠は午後のおやつにする。
6_11

5_15

京都市に入ると「徳林庵」があり、京都に入る際の厄除け寺。
7_14

京都に入ってもお地蔵様や飛び出し坊やが続く
8_14 9_14

京都のマンホール 古都京都にちなんで「御所車」をモチーフとしたデザインで雨の時に滑り止めとしての機能もあるとのこと。
11_16

天智天皇陵はこの奥の方にある
10_14

街道が狭いが昔はこんなところが多かったのでしょう。
122

かなり長い日ノ岡峠を越えると車石の広場に出る。
13_10

何も残ってい居ない粟田口の刑場跡後を過ぎると広い蹴上浄水場に至り、ここはツツジの名所らしい。
15_12

粟田神社の本殿と御神馬は立派だ。元禄時代の様式らしい。ここから平安神宮の赤い大鳥居がすぐ目の下に見えた。
16_11

17_9

「おふく」にて昼食。京都らしい「にしんそば」を食べる。
18_10

坂本龍馬・お龍の結婚式場跡
19_8

三条白川橋道標は京都最古の道標
20_8
明智光秀の塚 家来が自刃した光秀の首を切り落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたという。
21_9

12:35 三条大橋に到着!!
22_7

橋の欄干の柱頭には12の擬宝珠がある。川床も見え、比叡山も見えた。
23_9

弥次喜多さんの銅像
24_9

日本初の駅伝のスタート地点でもある。1917年(大正6)4/27午後2時スタート、上野不忍池の博覧会場に4/29午前11時34分到着。45時間30分強。23区間。約508㎞だったそうだ。
25_9

思えば2年1ヶ月前の2017年4月20日に沼津から歩き始めて途中で日本橋に戻っては歩き、全492㎞を歩き終えました。
1回目の処は既に一度歩いて重なったので、結局日帰りで全34回、1414189歩。1回の平均は41594歩でした。寄り道が多かったので単純計算より大幅に歩数が増えました。
広重の絵と比較してもその面影は殆どないですが、たくさんの資料館で当時の様子を見て、往時の旅人のことを想像しながら只々電車などのない大変な旅を想いました。今は往復、電車やバスを使い、しかも何十日(早い人は15日だった)も続けて歩くわけでなく、当時の名物のご飯の一部やおやつを味わっただけで、飲み物は水だけでなく好きなのを飲み放題で贅沢な旅人でありました。
しかし、城、街道の建築、信仰、名勝、歴史、地理、神社仏閣、現代の鉄道などなど、もう思い出せないほど色々なことを学ぶこともできました。毎回何か楽しみや驚きがあり苦痛はなかったです。一番心に残った風景は薩埵峠の富士山でしょうか。仕事で忙しい娘が、食事処から名物の売店まで調べ、電車の切符まで買っておいてくれ、マップ片手に引率してくれたのでカメラだけ持って説明を聞き後についていくご気楽な旅であり、娘に感謝です。私の力ではとても一人で歩けませんでした。


<おまけ>
◆二条城、三十三間堂、京都タワー 街道歩きとは関係ないが、時間が余ったので3ヶ所を周りました。聞きしに勝る外国人の多さに改めて驚く。

・二条城(世界遺産)1603年に家康によって、京都の守護と上洛の際の宿泊所として建てられた。宿泊は家康、秀忠、家光、家茂(14代)、慶喜の5人のみ。御幸は1626年の後水尾天皇とその中宮・和子(秀忠の娘)。その際、狩野派の障壁画が新たに描かれたという。

東南隅櫓
26_8

唐門(重文)、二の丸御殿(国宝)では狩野派の障壁画(レプリカ)を堪能し、後で展示収蔵館で「牡丹と梅」の原画を見る。
27_10 28_9

二の丸庭園(特別名勝)、清流園(豪商・角倉家の屋敷跡から譲り受ける)
29_6 30_7

・三十三間堂 中央の中尊と左右各500体、合計1001体の国宝「十一面千手千眼観世音」は全部顔が違っていて壮観。同じく国宝「雷神と風神像」、国宝「二十八部衆像」も素晴らしく玉眼で生きているようでため息が出る。高校の時以来で感動する。
31_6

 ・京都タワー いつも外観だけだったので登ってみた。京都が大阪方面の一角だけ少し空いているが、ぐるっと山に囲まれた盆地であることがよくわかった。
32_5 332

 343 35_1

・京都駅大階段と反対側
36_1 37

階段途中のカントリーハウス英國屋にてお茶
38

夕食は弁当の「皐月の彩」
39

お土産は京賀茂名物の「おやき」
40_1

家には午後10時半前に到着。36266歩でした。完歩まで長いお付き合いに感謝します。次は予定通り、中山道を草津から東京に向かって進むことにします。また気が向きましたらお付き合いくださいませ。長くなって失礼しました。

| | コメント (32)

2019年5月16日 (木)

東海道34 瀬田~大津宿(3)

●大津宿(53番目の宿)の続きです。<三井寺と逢坂の関蝉丸神社見学>

辻の札から寄り道して三井寺へ。

途中に琵琶湖疏水がある。
1_11

三井寺到着。園城寺(三井寺)は天台寺門宗総本山。始まりは天智、弘文、天武天皇の勅願による。開祖は智証大師円珍和尚で母は弘法大師の姪。

立派な仁王門だこと(重文)。徳川家康より寄進される。
2_14

釈迦堂(重文)
3_11

近江八景「三井の晩鐘」。日本三銘鐘(あと2つは平等院・高雄神護寺)の一つ。数回来ているが覚えていたのはこれだけであった。
4_14

金堂(本堂・国宝)は秀吉の北政所により再建された。本尊は弥勒仏(秘仏)。特別公開で内陣の大日如来や不動明王などの他、円空仏も見られた。
5_13

閼伽井屋を見てから、霊鐘堂で弁慶の引き摺り鐘を見る(重文)。
藤原秀郷が三上山の百足退治のお礼に琵琶湖の龍神からいただいた鐘を寄進したと伝えられているが、その後弁慶が奪って比叡山に引き摺りあげたところ、イノーイノー(帰りたい)と響いたので、谷底に投げ捨ててしまった。そういえば延暦寺には力持ちの弁慶が渡り廊下をてんびん棒にして、2つのお堂をかついだという伝説から「弁慶のにない堂」というのもありましたっけ。
6_9

弁慶の汁鍋。鐘を奪った際に置いていった大鍋というがその大きいこと。
7_12

一切経蔵(重文)の内部の、一切経を収める回転式の八角輪蔵。
8_11

三重の塔(重文) 家康により寄進された。
10_11

11_13  
12_9

微妙寺の十一面観音(重文・平安初期・湖国十一面観音霊場第一番札所)は見られない。
13_8

地蔵様 
14_8

毘沙門堂(重文)は鮮やかに彩色されている。
15_10

西国十四番札所観音堂(県指定文化財)へと上がっていく。
16_10

更に上の展望台に上がってみると、すっかり晴れて琵琶湖が一望できたのです。素晴らしい眺めです。三井寺から琵琶湖が望めることすら知りませんでした。
17_8
18_9

大津そろばんの碑(大津はそろばん発祥の地)  
19_7


東海道に戻る途中の長等神社内の馬神神社には、競争馬の名前が書かれた木札が貼ってあった。
20_7

このあたりのお寺の多さにも驚きさすが日本一を感じる。大津宿も草津宿同様、宿場の解説板は殆どなく、ただこの本陣跡だけあった。
21_7


この後、京阪京津線の大谷駅までの間に三つの蝉丸神社(平安時代、逢坂峠の守護神として建立され、後に蝉丸が合祀された)があり、その間に弘法大師堂や逢坂山関址の碑、大津絵販売の地碑などがある。

「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の歌で有名な蝉丸。逢坂の関に庵をむすび、往来の人を見てこの歌を詠んだという。
平安時代の歌人であった盲目で琵琶の名手だった蝉丸は、歌舞・音曲の神として、また眼病の人々の神として祀られている。能や人形浄瑠璃にも『蝉丸』がある。
逢坂の関は平安時代、山城国と近江国の国境となっていた関だったが、平安後期には形骸化され形を失ったという。
逢坂の関を詠んだ歌がもう一首、百人一首にある。清少納言「夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」

・関蝉丸神社下社 
22_6
24_8

蝉丸型の時雨燈籠(重文)がある。鎌倉時代のもので貴重な燈籠だそうだ。
23_8

・関蝉丸神社上社 
25_8

弘法大師堂 
26_7

逢坂の坂  
27_9

逢坂山関址の碑と常夜燈があった。
28_8

大津絵販売の地ハン六の碑。逢坂山付近の名物は、この大津絵と算盤と縫い針と走井餅だった。
29_5

・蝉丸神社分社。
30_6

2列になった車石。草が生えてわかりづらいが、牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が京都・大津間に敷設されていたという。
31_5

京阪の大谷駅に到着すると、かわいらしい、コルクのオブジェがいろいろ並んでいた。
32_4

大津絵もあった。
33_3

この駅は日本の普通鉄道駅でもっとも傾斜のある駅であり、ベンチの脚の長さが左右で違っている!腰掛けながら反対のホームのベンチを見る。
35

入ってきた京阪電車は碓氷峠並みの66.7%の勾配を下りてきたのだった。又辻の札あたりは併用軌道を走っていた。
Photo_65

この日のお弁当は「京のおばんざい弁当」 お土産は生八つ橋でした。
36

前回と同じのぞみに乗り帰宅は10時半頃。43800歩。いよいよ次回にゴールの三条大橋に到着予定です。

 

| | コメント (8)

2019年5月13日 (月)

東海道34 瀬田~大津宿(2)

Photo_64

◆瀬田~大津宿の続き

琵琶湖に面する膳所城跡公園に寄る途中で雨が降ってきた。
 
膳所城は琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城であり、日本三大湖城の一つであった。現在の跡は陸続きとなっている。
関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌1601年東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせ膳所城は江戸城、大坂城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第1号(以前書いて繰り返しですが)である。縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎に計画させた。湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれたそうだが、今は何も残っていない。家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われる。

入口大手門(疑似再建された)の内側から 
1_10   
2_13

わずかに残った石垣
10_10  

近江大橋 向こう側の東詰で事故が起こったのですね。
3_10
4_13

石鹿地蔵。 
織田信長が比叡山を焼き討ちにしたとき、内にあった石地蔵を全部ひきずり降ろし、坂本城の礎石にした。その後、大津城(秀吉)、膳所城(家康)の基礎としてこれらの石地蔵が使われてきた。約60体が祀られている。
5_12

膳所神社に寄る。この門も旧膳所城の本丸大手門で重文だ。前回の篠津神社のが北大手門で、後、行かなかったけれど鞭崎神社(南大手門)も重文だ。
6_8  

縁心寺は膳所城主の菩提寺で立派な墓がずらりと並んでいる。城主は戸田氏に始まり次々と変わり本多氏で終わった。
7_11

和田神社の鳥居の向こうの表門は膳所藩の藩校 「遵義堂(じゅんきどう)」 の門を移築したもの。膳所城は大きかったので門がそれだけ多かったのでしょう。膳所城=門とインプットされてしまった。 
8_10

この神社の銀杏は、護送中の石田三成がつながれたと言われている。 
9_11

石坐(いわい)神は式内社で立派だ。御祭神は天智天皇と弘文天皇。
11_12

角に膳所城北総門跡の碑があって随分歩いたけれど、ここまで膳所城があったということだ。
12_8

笑っているような地蔵 
13_7

 

●大津宿(53番目の宿)草津宿から14.4km 日本橋から約484㎞ 宿の長さは4㎞以上もあるらしい。53次の中でトップの長さだ。 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒。1番最後の宿に来た。
大津の地名は大きな港(津)に由来し、物資を中継する重要港であった。

義仲寺に到着。雨止む。大津宿はこの先小舟入常夜燈あたりから追分まであるそうだ。
義仲寺は木曽義仲の墓所があるのが寺名の由来であり、芭蕉の墓もある。
14_7

まずは資料館を見て、朝日堂(本堂)を覗く。義仲は朝日将軍と呼ばれたからか?本尊は聖観世音菩薩で、義仲公・義高公(鎌倉に人質として小さい頃から行っていた)父子を祀っている。
15_9

巴塚。巴御前の供養塔。義仲亡き後鎌倉に捕らえられ、和田義盛の妻になり、義盛戦死後尼僧となり90歳で木曽で亡くなったという。 義仲の側室、山吹御前の塚もこの境内にあった。
16_9

木曽義仲のお墓。義仲はここ粟津で戦死した。
17_7

松尾芭蕉のお墓。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、義仲寺の無名庵に3ヶ月も滞在したこともあり、生前から義仲の隣に葬って欲しいと遺言していたという。何故義仲だったのでしょう。
18_8

翁堂。芭蕉翁座像があり、左右の壁上には36俳人の画像が掲げられる。 
19_6

天井は伊藤若冲の四季花卉の図。
20_6

巴地蔵堂。巴御前を追福するため石彫地蔵尊を祀る。
21_6

平野神社は蹴鞠の神様を祀る神社。
22_5

滋賀県庁はなかなか風情のある建物だ。
23_7

華階寺の山門前には俵藤太矢根地蔵月見の石がある。境内には、俵藤太(藤原秀郷)が三上山でムカデを退冶した大矢の根(鏃)で彫ったという地蔵尊が祀られているそうだが、中に入ることができない。
24_7

街道らしい街並み  
25_7

大津魚忠は国の登録有形文化財だ。
26_6

あの大津事件が起きた場所に露国皇太子遭難地碑があった。
27_8

札の辻にやってきて、大津市道路元標を見る。
28_7

三井寺力餅本家で、力餅をいただく。元気が出ました。
29_4

続く

| | コメント (19)

2019年5月 8日 (水)

東海道34 瀬田~大津宿(1)

Photo_63

4/25(木)曇り一時雨の予報だったけれど、いつもの東京6:16発→京都8:26着で東海道線に乗り換え、8時50分過ぎに瀬田駅到着。9時5分から歩き始める。土山宿の時より2時間近くも早くなった。


◆瀬田~大津宿

大津市のマンホール・・とても賑やかな模様。施行から100年目の大津市の景観をモチーフに、市の花「エイザンスミレ」、市の木「ヤマザクラ」と市の鳥「ユリカモメ」、花火大会の花火、外輪船のミシガン、琵琶湖大橋、左下にワンちゃんと盛りだくさんです。
1_9

野神社舊跡の碑。ここに大江千里(ちりんさん)が住んでいた。平安時代前期の歌人で三十六歌仙の一人。百人一首23番「月見れば千々に物こそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど」
2_12

飛び出し坊やの「くまモン」は目立ちます。
3_9

この日も地蔵様がどんどん出てきたが、これは口紅をさした地蔵様。
4_12

西行屋敷があったというところで左折して、東海道は右折するが寄り道して近江国庁跡の遺構を見にまっすぐ進む。
8,9世紀頃建てられていたらしい。全国68ケ所に設置された役所の一つで1300年前から800年前まで存続した。暖かくなってきたので久しぶりに猫を午前中から見る。
6_7
5_11
7_10

東海道に戻ると石屋さんのネコの像が面白い。
8_9

建部大社(式内社)に寄り道。近江国一宮で立派だ。本殿は日本武尊を祀る。
9_10

10_9

鎌倉時代の重文・石灯籠。
11_11

特別天然記念物・菊花石  
12_7

天然記念物・さざれ石 
13_6   

左右に8つの神社も鎮座する。 
14_6

いよいよ三大名橋の瀬田の唐橋(いろいろな説があるがあと2つは錦帯橋、眼鏡橋)にやってきた。近江八景の「瀬田の夕照」で有名で古典文学に多く出てくる。
琵琶湖には約460本の河川が流入している。しかし流出は人工の琵琶湖疎水を除くとこの南端の瀬田川1本だけだ。洪水になると琵琶湖の水位が下がらずこの周辺は浸水被害に悩まされた地域だそうだ。
15_7

下を見ると唐橋の構図の敷石が。
15_8

唐橋の袂には橋守地蔵尊がある。撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から出現された石仏だそうだ。室町末期の作。
16_8

その奥に龍王宮秀郷社。瀬田の唐橋を渡ろうとした藤原秀郷(俵藤太)が瀬田川の龍に三上山の大百足退治を依頼されたそうで、その秀郷公を祀る神社。
17_6

お隣の雲住寺は秀郷公の子孫が供養のために建立したお寺で、秀郷に倒された百足の供養堂がある。百足が見える。
18_7
19_5

橋の東詰には地蔵堂があったが、これまたカラフルなこと。
20_5

いよいよ橋を渡って振り返る。擬宝珠が印象的。
21_5

西側の方に橋を移動すると中之島があった。中之島より東側を大橋、西側を小橋という。
22_4

橋を渡った左側の古い家は油屋だ。  
24_6  

唐橋前駅横の踏切を渡り右折、石山駅に到着するとデッキの上に芭蕉像があった。芭蕉は42歳で『野ざらし紀行』の旅行途中大津に滞在し、門弟が集まって湖南蕉門が形成された。以来大津が気に入った芭蕉は義仲寺に借住まいし、その後幻住庵に4ヶ月滞在した。51歳で旅先の大阪で1694年に亡くなった際は遺言で義仲寺に埋葬された。
23_6

駅の北口に出て、今井兼平のお墓に寄り道。兼平は巴御前の兄で木曽義仲の家臣。義仲が討たれたあと、口に刀をふくんで馬から飛び降り自害したという。なんて壮絶な死に方でしょう。
25_6

東海道へと戻るが112里目の粟津一里塚があったらしいが、何もなく、この日は次からも一里塚跡など説明板も石柱もなかった。

ほっとするお地蔵様。
26mata

膳所城勢多口総門跡
27_7

若宮八幡宮の再建されつつある膳所城の犬走り門を通り過ぎて篠津神社に寄る。
篠津神社の門は膳所城北大手門で重要文化財とのこと。一体膳所城にはいくつ門があったのであろうか。今まで移築されたものばかり随分見てきた。
28_6

お昼は「つる家」というお寿司やさんに入りすし盛り合わせセット。太巻き、かっぱ、はも、鱒、いか、まぐろ、海老、とろろこんぶ。菜の花のからしあえに、お吸い物(桜の花、うど、山椒ほか)。デザートのフルーツ。とても美味しいお寿司屋さんで今までのお昼では最高級の一つである。
30_5

続く

 

 

| | コメント (26)

2019年4月30日 (火)

東海道33 石部~草津宿~瀬田(後編)

Photo_39

●草津宿(52番目の宿) 石部宿から11.7km 日本橋から約468㎞ 宿の長さ約1.5㎞くらい 本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒。

うばがもちを買ってからそのまま南へ歩き、草津川を渡ると渡った先に横田常夜燈道標がある(1816年建立)。ここが草津宿の東の入り口。江戸時代は橋がなかった。右金勝寺志がらき道、左東海道いせ道と書かれている。
1_8

横町地蔵尊。これは黒く縁取りされて描かれる。滋賀県草津もまた地蔵尊が多く、彩色されたり、化粧されたりしているのが多くて、こちら関東では見られない。
2_11
 
わーい!遂に中山道と東海道の分岐の追分に到着です。東海道歩きが終わったら、まずはここから中山道を歩こうということになった。先日来京都に到着できるかさえおぼつかなかったのに、人間の欲望はきりがなくふくらんでいくものである。距離は東海道492km、中山道534kmで42km(江戸時代の男性の1日分、私たちなら2日分)長い。またまた3年かかれば大台に乗ってしまうではないか。果たして膝が痛くならないか、家族も元気でいられるかなど心配も尽きないのではありますが、なるようにしかならない、ちょっとでも出来ればそれもいいさという感慨にふけった追分であります。

追分の道標は1816年建立。
3_8

道標の反対側には高札場が再現され、延命地蔵尊がある。
4_10

右側から歩いてきたわけだが、T字路になった右側の草津川隧道をくぐっていくと中山道。
5_10

左折すると草津宿の中心部へ続く旧東海道。今までの宿では気が付かなかったのか、あるいはなかったのか。草津宿に来て、道路沿いに高層ビルが建っているのに(茶色のビルや足場がかかって青いシートの所)遭遇し旧東海道に似つかわしくないと感じる。しかし考えてみると日本橋出発は旧東街道という感じでなくビル群の連続だから都会に出てきたということか。
 6_6


7_9

8_8

明治4年創業当時使用していたものと同じ型の郵便ポスト(書状集箱)で、今も利用できる。
9_9

右側に、東海道には本陣は2軒(二川宿)しか現存しないが、国指定史蹟・田中七左衛門本陣が見えてきた。撮影禁止箇所があった。
敷地1305坪、建坪486坪、部屋数30余室の最大級の本陣である。浅野内匠頭・吉良上野介・シーボルト・皇女和宮・徳川慶喜など泊まったとあった。土蔵が4棟もあった。
101


11_10

上段の間の雪隠
12_6

湯殿も広いが冬は寒そう。タイルがあったわけでないから板敷きで中央に排水用の溝が作られているのが見える。
134


14_5

脇本陣仙台屋跡は今はベーカリー&カフェとなっている。
15_6

真教寺の梵鐘は戦争で供出されてしまい、コンクリート製だ。
16_6

寺の前の笑っているようなお地蔵様
16_7

草津宿街道交流館に寄った。草津宿の模型、旅籠再現や情報コーナーの他、「旅する画僧 金谷展」を開催していた。近江が生んだ奇才(草津出身)で名を「横井金谷」といい、文人画ほかいろいろなジャンルの絵があり、与謝蕪村の影響を大きく受けた画家。初めて知った画家で実に素晴らしい作品であった。
17_5

太田酒造。太田道灌が祖先で、6代目が家光の命で草津に移住し、日本酒「道潅」などを製造。娘は酒造メーカーがあると入り、いつもリュックの中は4,5本の酒がごろごろしている。荷物の重い街道歩きはこたえるでしょうに、私より速いスピードですたすたと前を行く。
18_6

八百久店舗兼主屋は格子窓と虫籠窓があり、国の登録有形文化財となっている。
19_4

日吉神社の屋根には阿吽の猿がいる。初めて見る。
20_4

立木神社(767年創祀)は狛犬ならぬ狛鹿でこれはどこかで見たことがある。この神社も立派で、滋賀県の東海道沿いには立派な神社が多い。
21_4

神社の先の黒門跡が草津宿の西の入り口でこれで草津宿見学が終わった。問屋場跡とか本・脇陣跡などいろいろな説明板がないのでうろうろしてしまった。
22_3

 ◆草津~瀬田

稲荷神社や120里目の野路一里塚跡を通り過ぎる。

草津名物のアオバナのマンホール 
23_5                                                                                                     
国指定重要文化財の本殿のある新宮神社へ。創始730年の古い神社。
鳥居を入ったところに実にカラフルなお地蔵様が。
24_5

25_5

街道の先に今度はリアルなお顔の子守地蔵様が。カブトムシを捕まえようとして大名行列を横切ろうとした親子が手打ちにあったことを悼んで村人たちが祀った地蔵だそうだ。
26_5

広重の諸国六玉川の一であった「近江野路の玉川」は萩の名所で「萩の玉川」とも呼ばれかつては清水が湧いていた。
27_5

このあたりあちこちに池があるようだが、これは弁天池。参道橋でつながった島に弁財天が祀られる。
27_6


28_5

立場跡
29_3

飛び出し坊やは雀であった。
30_4

長沢川の桜は散ってしまっていたが、さぞ奇麗だったことでしょう。
31_4

121里目の一里塚跡を過ぎ瀬田駅の近くの道標。京都まであと5里余り、江戸まで120里余りとあります。瀬田駅から京都へ。
32_3

今日の夕ご飯は「てまり寿司」
33_2

前回と同じ新幹線、18:56京都発→21:13東京着。22:30頃帰宅。39164歩でした。

 

| | コメント (14)

2019年4月27日 (土)

東海道33 石部~草津宿~瀬田(前編)

4/18(木)に全回と同じ新幹線6:16発、京都に8:26着。草津で草津線に乗り換えて、石部駅着9:40着。45分過ぎに歩き始める。
今日も富士山も見えてのご機嫌の出発気分。
1_7

◆石部~草津宿
Photo_37

石部駅前の公園には説明板があり、ポケットパークである。ここは石部宿の西なので西縄手というが、説明によると縄手とは立場から立場の道のことを言うという。普通は田の中のあぜ道、あるいは真っすぐな長い道のことを言うのだが。
2_10

草津線に沿って行くと栗東市に入る。
3_7

右手に近江富士の三上山(432m)がよく見える。藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残る山だ。 
4_9

徳生寺には鎌倉時代の宝篋印塔がある。塔身や基壇には彫りこみがあり大和の影響が伺われるということだが、宝篋印塔のについても不勉強でまだまだです。
5_9

この地蔵の持ち主の人によると、信長が安土城の土台にしようとしたのを救い出したものだそうで、そんな地蔵様がたくさんいるとのこと。
7_8

この近辺は野洲川ダムから引かれた水路がたくさんあって、水がとてもきれい。三上山の美しい姿を再度撮影。
8_7

栗東市のマンホールは、市の花キンセンカと市の木のカイヅカイブキ、市の鳥メジロが描かれている。
9_8

六地蔵尊村に入り、木造地蔵菩薩立像を見る。行基が全国に安置した六躯のうちの一つという。平安時代になります。
10_8

古い立派な家は重文で、旧和中散本舗(大角家)である。和中散は家康が腹痛をおこしたとき献上され、すぐに治ったことから直々付けられた名前という。ケンペルやシーボルトも立ち寄り薬を求めたそうだ。奥にある庭は小堀遠州作で国の指定名勝だが事前申し込み制だ。
11_9

向かいは大角家住宅隠居所で、本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物だ。
13_5

六地蔵一里塚。118里目。
14118

このあたりの家々にも屋号札が掛けられている。今も営業するふとん店があったが「綿屋」の屋号札がかかっている。
15_5

国の有形登録文化財に指定されている里内呉服店。
16_5

同じく国の有形登録文化財の手原醤油店。
17_4

手原稲荷神社到着。この東海道歩きでは、唯一お昼を食べる飲食店が見つからなかった処で、家でお弁当を作って持ってきた。
明治天皇御小休所碑と「手ハラベンチ」という手の形をした石があった。どうも座ってはいけない感じだ。
19_3
18_5

この神社の奥になぜかSLが置いてあった。かつて奈良線、草津線を走っていたD51だ。手原駅開業50周年記念に町に貸与されたらしい。
20d51

菜飯と豆腐田楽を出していた「すずめ茶屋跡地」。雀をあしらった「目印雀」の紋を使用していた。
21_3

県道を越えると堤が見えてきた。葉山川の調整池の上鈎池(かみまがりいけ)で土手を登ったところにある。
23_4

土手に九代将軍足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地碑がある。幕府に反抗する六角高頼を討伐する為この地に着陣したが、連日酒宴、遊興にふけり、25歳でこの地で病没し、鈎の陣も終焉を迎えた。
22_2

善性寺は、シーボルトが寄った寺だそうだ。植物学者として知られている僧恵教のもとを訪ね、シーボルトにとっては珍しいスイレン、ウド、モクタチバナ、カエデなどを見物したと日記に記す。
24_4

この日もお地蔵様をたくさん写してきたが、このあたりでまた1枚。
25_4

目川の瓢箪を軒先にぶら下げ展示販売している。ここは明治期まで瓢箪の名産地だった。
26_4

119里目の一里塚を過ぎ、かたつむ邸で一休み。民家が提供してくださっているのか、ありがたい。
27_4

田楽発祥の碑と領界石(従是西膳所領)。目川地区には3軒の田楽茶屋「旧伊勢屋跡」と「古志ま屋跡」と「京いせや跡」が石碑として残っている。
28_4 

次回寄り道する膳所城跡の大手門が移築されている。膳所城は天下普請第一号の徳川家の城である。
Photo_38

10年ほど前に建てられたという、領界石(従是東膳所領)の先に史跡老牛馬養生所趾碑がある。
庄屋の岸岡長右衛門が、老廃牛馬の打ちはぎの様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎをすることを止めるよう呼びかけ、天保12年(1841)4月老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立し、県下の老牛馬を広く収容したという。心優しい庄屋さんがいたのです。
30_3

その先で栗東市から草津市へと入った。この日3つめの市。
うばがもちやで、家康や芭蕉も食べたという「うばがもち」を買う。伊勢の「赤福」や三嶋大社の「福太郎餅」を思いおこす味で美味しい。
31_3
 32_2

続く

| | コメント (12)

より以前の記事一覧