2018年4月22日 (日)

東海道五十三次歩き19 小田原宿(3)

◆小田原宿から箱根湯本まで 殆ど箱根登山鉄道に沿って歩きます。

・内野邸 明治36年(1903)建築の土蔵風町屋。なまこ壁や石造りアーチの和洋折衷の歴史的建造物。
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・板橋地蔵尊(宗福院)の大黒天の顔が楽しい
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・小田原用水(早川上水)取水口 小田原城下領民に飲料水に供された。北条氏時代に施設されたと考えられ、我が国水道施設の中では初期のもの。玉川上水の羽村の堰を思い起こします。
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・ロマンスカー、本日見たのには4種類の色があった。次回に乗る予定だが何色だろう?
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・風祭に21番目の一里塚跡があって、そこに道祖神がある。今までの道祖神は男女二神の双体道祖神だが、ここのは伊豆型という丸彫り道祖神だ。
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・茅葺のお寺萬松院
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・入生田駅近くに紹太寺(黄檗宗)が広がる。江戸時代初期の小田原藩主稲葉氏の菩提寺。広大な伽藍は火事で焼けてしまって清雲院のみ残る。元禄4年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルがこの総門あたりのことを書き記している。

                       総門跡300x450_2
                      清雲院450x300_8
                    恵比寿天と桜
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          全部で350段の階段を上がると稲葉氏の墓に到着
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                 途中伽藍跡があリさらに階段
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                     マムシグサ
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稲葉氏一族墓所 春日局、その子・初代藩主正勝夫妻、二代藩主夫妻、三代藩主夫人などの墓。偉い人の墓は何時までもずっと世話する人がいなくても残っていくのです。家制度がなくなって、男の子が絶えると今は墓を作っても数十年後にはなくなってしまう庶民とは違う。一時だけ準備したのでその墓の下に収まる。それでいいのです。
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            春日局の墓にだけみかんが置いてあった
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                  開山の鉄牛和尚の寿塔
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                  この枝垂れ桜は320年という
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・日本初の有料道路の案内板 明治8年(1875)に人力車が通れるように勾配を緩くし、5年間通行料を取ったそうだ。
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・達磨が描かれた交通安全の碑
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・箱根湯本に到着 日が暮れておりました
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帰りは小田原へ出て上野東京ラインで東京へ。中央線で地元へ。いつもの所いつもように飲食し9時半ころ帰宅でした。

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2018年4月18日 (水)

東海道五十三次歩き19 小田原宿(2)

●小田原宿(9番目の宿)大磯宿から15.7㎞、日本橋から84㎞、宿の長さ約2.2㎞、本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒。
5代100年にわたる戦国武将北条氏の小田原。江戸時代には城下町で、大規模な宿場町として発展した。東に酒匂川の徒歩渡り、西に東海道随一の難所、箱根が控えている。本陣、脇本陣の数は東海道随一という。そして小田原名物と言えば、蒲鉾、漆器、鋳物、干物、箱根寄木細工、外郎だ。

・江戸口見附 20番目の一里塚もこのあたりにあったらしい。

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・北條稲荷 狼ではないかと思うほど恐い顔の狐と蛙に似た石・蛙石(かわずいし)がある。
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                       蛙石
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・府中(静岡)と同じく、ここも石柱に町の名前が刻まれ横に謂れが書いてある。
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・鍋町の石柱を曲がると「かまぼこ通り」には12軒のうち10軒が並ぶ
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・昼食は清風楼(文久2年創業)小田原どん。参加店は30店舗余あるそうで、小田原の海と大地で育まれた食材を一つ以上用い、伝統工芸品の小田原漆器の器に盛って、お客様に満足していただき、小田原がもっと好きになるように、おもてなしすること・・・という決まりがあるとのこと。
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この店のは梅味噌を練り込んだあじのつみれとかまぼこを卵でとじた丼が漆器に盛りつけられている。他に刺身、有機野菜のお浸し、味噌汁と漬物。美味しかったがちょっと多めでした。
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脇本陣跡、本陣跡を過ぎ

・なりわい交流館へ。 網問屋だった。関東大震災で壊れたのを昭和7年に再建した。ここでは温かいお茶を御馳走になった。
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・反対側の風月堂で和菓子のきなこ餅「へっちょい」を買う。へっちょいとは籠を担ぐときのかけ声だそうだ。
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・小西薬局 江戸初期より薬種商を営む済生堂薬局小西本店の建物は大正年間再建されたもの
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・ういろう 城の様な建物。丸薬の「ういろう」とお菓子の「ういろう」を売っている。ルーツは室町時代で、北条早雲に招かれ小田原に移住した。
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鈴廣(箱根登山鉄道の風祭駅にある)の蒲鉾と外郎を娘に買ってもらった。薬のういろうは141粒で1080円!仁丹に似ている。飲んでみたけれども、西洋医薬の洗礼を浴びているので、漢方は効き目が遅いかもしれない。
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・小田原城 築いたのは大森氏で15世紀中頃。北条早雲から5代の本拠。北条滅亡後は徳川家康家臣の大久保氏が城主。大久保氏改易で春日局の稲葉氏が城主。1686年再び大久保氏が城主となる。この後、稲葉氏と春日局の墓に詣でました。
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                                        銅門 二の丸の表門
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                    常磐木門 本丸の正門で最も大きく堅固に造られる
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                  天守閣6階から
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          1階に展示されていた小田原かまぼこコレクション
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・報徳二宮神社の二宮尊徳の子どもの頃と大人の銅像 子供の方のブロンズ像は約一千体制作されたが、戦時中に供出、これ一体のみとなった。
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・人車鉄道小田原駅跡の碑 明治29年~大正11年まで、ここから熱海まで約25㎞を人力で客車を押していたという。
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・大久保氏の菩提寺・大久寺を見、向かいの居神神社(鎌倉時代の古墳がある)を過ぎると板橋上方見附跡の案内板がありここで小田原宿は終わる。
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このあと、箱根湯本駅まで東海道を上って行きました。といってもとてもなだらかです。

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2018年4月16日 (月)

東海道五十三次歩き19 小田原宿(1)

半月も前になりますが、3/29(木)国府津から小田原宿を通り箱根湯本まで歩きました。東海道線は国府津~鴨宮~小田原。箱根登山鉄道は小田原~箱根板橋~風祭~入生田~箱根湯本の間です。42108歩。階段1000段。小田原城も丁度桜満開の時でした。

◆国府津から小田原宿までの間

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・国府津駅の近くでは親鸞上人が民衆を教化した御勧堂があり、ここに草庵を結んだ親鸞は7年住んだという。
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・菅原神社は国府津の天神様だそうだ。いろいろな物満載の神社。

曽我兄弟の隠れ石があってここでの仇討ちが警備が厳しくて隠れていても出来なかったという。結局富士山裾野がその場所となった。
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      撫で牛 自分の治したい所を先に撫でてから撫でると御利益あり
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童謡「通りゃんせ」の発祥の地。埼玉県川越市の三芳野神社も発祥の地と言われる。
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                  茅の輪くぐりをした
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         珍しい狛犬ならぬ狛牛(この間は狛鹿を見たのでした)
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     御神木のムクノキのすごい空洞。立っているのが不思議なくらい。
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・まだ真っ白な富士山が見えてきた
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・小田原市にも道祖神がいっぱい。辻などに安置されていたものを集めたのだそうだ。
八幡神社のもの。
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・この日も猫発見
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・↑の地図の松並木が現れる
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・大見寺には佐川の旧家・川辺家の墓や小嶋家の宝篋印塔があり、1500年代と明記され小田原市内で個人墓では一番古い。
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・酒匂宿本陣の川辺家の長屋門は黒く立派だ。matsubara家の長屋門はもっと大きかった。
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・法船寺 日蓮上人とお手引地蔵尊天 
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             ここでも道祖神がたくさん集められている
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五重塔 平成5年に信徒の常在によって建てられた。高さ6.8mだけれど美しい塔だ。
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・連歌橋から桜満開の眺め
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・酒匂川
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酒匂川渡し場の碑 この川は冬の時期だけ仮の橋を架けたそうだ。広重の小田原宿の絵はこの徒歩渡しが描かれている。
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・渡った先に二宮尊徳表彰の碑がある。小田原藩主・大久保忠真が金次郎をはじめ働き者、親孝行者13人を表彰した場所。
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・その近く、こんな所に新田義貞公の首塚がある。京都で晒されていた首を家臣が国の上野に持って帰る途中病に倒れ、ここに葬ったからとのこと。
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・山王神社の星月夜の井戸(蓋がされている)があり、林羅山が星月夜の詩を詠んだ。
旧山王原村の絵図には鯨が潮を吹いている絵やいろいろな書き込みがあって面白い。大正時代でしようか。
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・宗福寺の片耳を塞ぐ猿が載った庚申塔
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・山王大権現(宗福寺の鎮守) 堂内の猿像が珍しい。
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小田原宿の入り口にもうすぐ到着です。

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2018年4月 5日 (木)

東海道五十三次歩き18 新居~白須賀~二川(後編)

◆白須賀宿と二川宿の間

・静岡県と愛知県の境にある境川は小さかった

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・遂に静岡県湖西市から愛知県豊橋市に入った。それぞれマークが描かれていた。静岡県は富士山マーク。ここで万歳三唱!
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・一里山の一里塚跡を過ぎる豊橋もキャベツの一大産地、キャベツ畑が広がる
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・コオロギ販売店があったL8円、M7円とあった。但し200匹以上で小売りだそうだ。
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・立岩という岩山が遠くに目立っていた
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●二川宿(33番目の宿)白須賀から5.8㎞ 日本橋から約296.5㎞ 宿の長さは約1.3㎞ 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒。二川と加宿大岩の2村からなる宿場。

今まで離れていた新幹線をくぐり、東海道線を渡ると二川宿だ。
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二川宿は凄いのだ。各家にこのようなのが置いてある。
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そして草津宿と並び東海道に2ヵ所しか現存しない本陣と、一般庶民が利用した旅籠屋が復元されているのである。江戸時代の商家・駒屋も公開されているのだ。人口では53宿中42番目、旅籠数は36番目で規模は小さかった。藩領になったり幕府領になったりの繰り返し、しかも地震が2回、大火が4回も起きているのだ。まず神社などに立ち寄る。

・豊橋市のマンホールは出港する船と人々が見える

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・十王院の石仏
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・妙泉寺には芭蕉碑があり、春乙桜がきれいな日蓮宗の寺
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・二川八幡神社 1295年鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請された神社で、立派な灯籠2対や秋葉常夜灯があり、奥には各種神社もある。
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・商家「駒屋」(東駒屋)江戸時代後期の商家の建物で無料で見学できる。まだお雛様がたくさん飾ってあった。
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・手筒花火のデザインの消火栓
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・東問屋場跡、脇本陣跡を通り過ぎ、いよいよ資料館を含めた本陣と旅籠屋清明屋の見学で入場料400円。

資料館>は二川宿の説明の他、当時の旅について説明の展示、ジオラマがあり、ワークシート8枚ももらう。凄い力の入れようだ。
この宿全体は間口が狭く奥に長い、京都の町屋のようだ
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旅籠屋清明屋> 1817年に建てられた本陣に隣接した旅籠を解体修理復元している。荷物置き場、土間、台所、客室(繋ぎの間)、奥座敷(上客向け)などがある。
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         旅籠の食事。煮物と魚の一汁二菜か一汁三菜だった。
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<本陣> 東海道の宿場には111軒の本陣があった。伊勢から移住してきた馬場家が経営していた本陣。明治になり味噌、醤油醸造業を行っていたが、豊橋市へ建物が寄贈され、改修復元して公開された。敷地面積525坪、建物は181坪半だったのがその後233坪にもなってとても広い。
門(表、裏)、玄関、 式台(道具、武具を置く)、番所(見張り)、台所、土間、勝手、板の間、茶室。そして立派な大名が泊まった上段の間だ。名前のとおり、一段高くなっており、庭の眺めもよい。お殿様のお風呂やお手洗いも豪華だ。
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その後、高札場の復元、本陣の向かいの東駒屋から分家した西駒屋を眺め、高札場跡と道路元標を見て、前の麩まんじゅうの有名な中原屋に入ったが売り切れであった。

・西問屋場跡の次に大岩町郷蔵跡の石柱があった。郷蔵とは年貢米の共同の備蓄所とのことである。
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・大岩神明宮には牛と馬があった
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・豊橋市の違うデザインのマンホール発見!吉田城(豊橋城)と手筒花火のようだ。
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・二川駅に到着、浜松まで戻り「遠州の夢の夢ポーク弁当」が買えた。遠州産銘柄豚で、花の舞酒造の酒粕をベースにしたみそだれを塗って焼いてある。次回から豊橋から新幹線に乗るので浜松駅弁当はこれで終わり。
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2018年4月 3日 (火)

東海道五十三次歩き18 新居~白須賀~二川(前編)

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3/23(金)小田原方面は雨、白須賀方面は晴れということで、また新幹線ひかりで浜松まで、東海道線に乗って新居駅で下車。前回歩いた宿場はとばして歩き、新居宿の出口あたりから次の白須賀宿、その次の二川宿まで全部で40720歩でした。これだけ歩くとカロリーは約2000㎉いる。そこで饅頭屋さんを当てにしているのに何と金曜日というのに目当ての3軒ともことごとくお休みか売り切れ。持参したバナナやカロリーメイト、エネルギー補給ゼリー、甘納豆などでカロリー不足にあてました。
この日の目当ては太平洋の眺めで何故かはのちほど。他、二川宿にて現存本陣や改修復元の旅籠見学です。舞坂では唯一現存の脇本陣を見、新居では唯一現存の関所や置屋を見て来たばかりでわくわくします。

又、この日は遂に長い静岡県から愛知県に入ったのです。静岡県には22宿あって白須賀が最後。東京、神奈川、静岡、愛知、三重、滋賀の六県を通って53宿あるが、そのうち静岡県が22宿で約40%になる。長かったです!

駅辺りで見かけた私と同じ年くらいの二人組の女性、きっと新居の関所でも見学していたのでしょうか、松並木を過ぎたあたりで追い越されましたがそのスピードは娘の速足と同じです。なんでも北海道からやって来て東海道を5年に渡って歩くそうで、1回が4泊5日とのこと。しかも山ガールスタイルで飛ぶように歩き去って行きました。この日は二川宿の次の吉田宿まで歩くとか。あまり寄り道は多くなさそうですが、世の中には元気な人がいるものよ!

新居宿(22番目の宿)の残り

・種田山頭火の新居駅横の句碑「水のまんなかの道がまっすぐ」 簡単に作れそうでいてそういうわけにはいかない。tona作「幸せは腹と頭からやってくる」・・季語なし。
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・鷲栖院に関所番頭を務めた(1647~57)佐橋甚兵衛の墓。たくさんいたであろう関守の中で何故この人だけの墓があるのか?
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                    墓の横の枝垂れ桜
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・69番目の一里塚を過ぎると棒鼻跡、ここが京方見附に当たる新居宿の西の境。棒鼻とは駕籠の棒先のこと。大名行列が宿場に入るとき、ここで先頭を整えたので言う。
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新居宿から白須賀宿までの間

・風炉の井 ここは橋本宿なのだが、源頼朝が1190年上洛の折、この井戸水を茶の湯に用いたという。
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・紅葉寺跡 同じく宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘がのちに出家したお寺で、足利義教が富士遊覧の時に立ち寄り紅葉を鑑賞したのでこの名がついた。今は跡が残るのみ。
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・新居から白須賀の間は花の咲いた松並木あり、広々とした田園風景の中にキャベツ畑がずっと続き、気持ちの良い街道だ。
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・前大納言為家と阿仏尼の歌碑。このあとに立場跡があるが、宿の間の中間点だった。
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・火鎮(ほずみ)神社 家康も祀られている。静岡県では秋葉信仰といい、この火鎮神社といい、いかに火事が恐れられてきたかを実感した。また静岡県には槇の垣根が実に多かったが槇は火災延焼防止の植物という。江戸の火事騒ぎしか時代劇で見ていなが、どこも火事では悩まされたのですね。
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・風車 ゴルフ場の電気を賄っているという。二川宿までずっと風が吹きわたって風の強い地域と実感した。「遠州の空っ風」というそうだ。何と「伊吹おろし」から来ているという。
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・清正公神社 入口が分からなくて探検に行った娘が写真を撮ってきたのをもらった。崩れていてもうすぐ倒れそうだ。
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・一里塚跡と高札立場跡を過ぎると内宮神明神社があってその隣に立派な長屋門があった
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・昼食 港屋食堂で11時15分だけど、この後ないので昼食とする。トラックの運転手さんも入るお店である。
ごはん(小)×2、あさり汁×2、かれい煮魚、どてやき、しらすおろし、白菜漬け。浜名湖の名物と愛知県名物どてやきのミックス。一度にあさりをこんなに食べたことはない!
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・蔵法寺 潮見観音が60年位1回公開。地震の年、備前岡山の池田綱政公が白須賀宿に泊まった時、観音様が夢枕に現れ、「早くここを去れ」と告げられし翌日大津波で宿が流れされたという。
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・潮見坂を登る。かつては坂下の海岸沿いに宿があったが、1707年の地震により現在の坂上に移った。登った所に「おんやど白須賀」がある。温かいお茶を無料で頂戴する。津波の記録や白須賀宿に関する展示があり、中でも素晴らしいのが往時の街道の様子のジオラマだ。白須賀は天領だったそうで地震移転の時幕府からお金が出たそうだ。
又、ここは織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が茶亭を建てて、信長をもてなした所だ。
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・潮見坂上の展望台から・・・ここは広重の絵の風景で、遠州灘が見える。京都から東に向かって初めて目にする海で(と書いてあったが七里の渡しのことが行ってないのでわからない)、富士山も眺望できたという。明治天皇が初めて東京に行幸された時、ここで休憩されたが、天皇で初めて太平洋をご覧になったという。斉明天皇が和歌山白浜あたりにいらしたのだと思っていたのですが。あるいは熊野行幸で海が見えたのかと思っていました。
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白須賀宿(32番目の宿) 新居から6.5㎞ 日本橋から約289㎞ 宿の長さは約1.5㎞ 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒。

・白須賀宿が始まる
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・十王堂 閻魔像の脇に十王でなく十二像が並んでいた
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・隣の禮雲寺には弘法大師八十八ヶ所霊場があり巡ってみた。かぶっている帽子や数珠が違い、どなたがお供えしているのか全部にお団子が供えられている。飛んで落ちてしまっているのが多く全部供えなおした。
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本陣、脇本陣跡を通り過ぎ、夏目甕麿邸跡と加納諸平生誕地の石碑が立つ。本居宣長に学んだ親とその子で2人とも有名な国学者だそうだ。

・庚申堂には三猿と四猿が置かれる
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           四猿 右から2番目が行わざる(せざる)だそうだ
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・その北側に役行者が祀られていた
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・白須賀宿の出口あたり。境宿とあり白須賀宿の加宿とか。加宿とは宿場で常備すべき人馬が少ない場合に不足する人馬を補う村や町のこと。
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2018年3月28日 (水)

東海道五十三次歩き17 平塚~大磯(3)

大磯宿(8番目の宿)の続き

・海水浴場 西湘バイパスをくぐった先に松本順先生謝恩碑と海水浴発祥の地の碑がある。初代軍医だった松本医師は健康増進を目的として日本で初めての海水浴場をここに作ったそうだ。
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・新島襄終焉の地もこの辺りだ
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・湘南発祥の地大磯の碑がある。大磯の海岸が中国の景勝地「瀟湘湖南」という湖に似ているからとか。裕次郎の葉山からサザンの茅ヶ崎が湘南のイメージだったのだが。
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鴫立庵 西行法師がこの沢や海岸で歌った「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の歌を偲び、江戸初期に崇雪が創建した。京都落柿舎、大津無名庵(義仲寺)とともに日本三大俳諧道場と呼ばれる。沢の上の橋を渡って門へ。
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                                円位堂の中の西行法師坐像
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                沢の奥の小高い丘には墓石や歌・句碑が目白押しだった
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島崎藤村旧宅 こじんまりしているが広い縁側は畳敷きである。藤村は住んで2年半、ここで亡くなる。
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・上方見附跡 大磯宿終わり
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大磯宿から二宮を経て国府津まで

・又立派な松並木が出現する
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・滄浪閣は伊藤博文の別邸。大磯プリンスホテルの別館だったが10年前に閉館したがまだ建物はある。親戚がここで結婚式を挙げた。
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・県立大磯城山公園 旧三井財閥別邸跡地。大きな公園で展望台からの景色を眺めただけにとどまった。道を挟んで反対側には旧吉田茂邸(外国からの貴賓を招くための)が火事のあと再建されたけれども時間がなくてパスした。
 展望台から富士山がかすかに見え、目を左に移すと箱根、伊豆、相模湾が一望できた。
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・本郷橋 不動川に架かるがこれは神奈川の橋100選だそうだ。100選ってこんなのまであるのですね。
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・江戸から17里
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・この日は道祖神だらけだった。馬頭の残っている観音様もあり、たくさん可愛いいのがあったけれど省略。
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・大磯町と二宮町のある中郡の二宮町に入るとじみなマンホールが目に入る
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・塩海橋で葛川を越えるが、二宮は古くから製塩が盛んで、これに由来する名前だそうだ。
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・二宮駅前の「ガラスのうさぎ」記念像 作者高木敏子は東京大空襲で母と妹たちを失い、焼け跡に父が営んでいたガラス工場で作ってくれたガラス細工のうさぎが歪んだ形で残っていた。そのあと疎開途中の二宮町で、父を眼の前で米軍の機銃掃射で亡くしたことを元に書かれたノンフィクション文学である。私も読みました。220万部を超えるベストセラー。
駅の向こうには菜の花で有名な吾妻山公園がある。
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・等覚院は藤棚で有名だそうだ。水子地蔵のお母さんに抱っこされた地蔵の子どもの他、足元にも可愛い子が二人いる。
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・日本橋から18番目の一里塚跡のあたりが大磯宿と小田原宿の間だ。梅沢の立場があって間の宿として、松屋本陣もあり大名など特権階級の人々が休憩した。
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・小田原市に入ったら又マンホール 富士山や小田原城と、どうやら女性を乗せた輦台を担ぐ人足さんがわかる。
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・浅間神社にも道祖神や庚申塔がたくさんあり、その中に天邪鬼を踏んでいる像が!
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・史跡車坂の標柱の所に、太田道灌、源実朝、阿仏尼の素晴らしい歌がありました。
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・緑と黄色に着色された不動尊が載った大山道標。藤沢の四ツ谷も不動尊であった。
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この前後道祖神などたくさん見て国府津駅に到着。帰りも茅ヶ崎から単線の相模線に乗り、橋本、八王子乗り換えで地元に。いつもの「庄や」にて遅い夕食を。若どりのジンギスカン炒め。じゃがいも明太チヂミ。お通しは肉豆腐。セロリの浅漬けなどを美味しくいただく。

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2018年3月25日 (日)

東海道五十三次歩き17 平塚~大磯(2)

平塚宿(7番目の宿) 
藤沢宿から13.7㎞。日本橋から約64.7㎞。宿の長さは1.1㎞。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒。

平塚宿は昭和20年の大空襲によって殆ど焼けてしまって、今は脇本陣跡、高札場跡、本陣跡や問屋場跡の標柱や説明板を残すのみで面影は全くない。現在はこの通りが七夕祭りの会場である。

・江戸見附跡 石垣と竹矢来が再現されている
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・本陣跡
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・向かいに宝善院がある。なまこ壁が美しい!又エキゾチックで、いろいろな物を集めている面白いお寺だ。
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日本最初の鉄道レール、明治5年開通した新橋横浜間のレール。昭和43年東宮御所改修中に出てきて、御所の補強材に使われたらしい。
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埋め込まれた宮本武蔵ゆかりの瓦 東寺・観智院の桃山時代の瓦で武蔵がこの瓦の下で約1年半暮らしていた。観智院には武蔵筆の国宝の襖絵も残っている。
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他にバリ島の道祖神やネパールの僧正像やぼたもち地蔵、そして光悦垣も作られていた。
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・消防団の施設前に西組問屋場跡があり、施設のシャッターに広重五十三次「平塚・縄手道」が描かれていた。
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・平塚の塚 桓武天皇3代孫・高見王の娘がこの地で亡くなり棺が埋葬され、墓として塚が築かれ、ここが平らになったので付けられたのが平塚の謂われだそうだ。
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・平塚宿京方見附跡 後方に高麗山が見える。ここから大磯町となる。
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平塚宿から大磯宿までの間
・マンホールは大磯町の木「クロマツ」、町の花「サザンカ」、町の鳥「カモメ」と「大磯の海」がデザインされている。
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・花水橋からの高麗山 
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・橋を渡った左の善福寺には横穴古墳があった
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・高麗山の麓の高来(たかく)神社。江戸時代に高麗寺に属し、廃寺になって高麗神社となりさらに高来神社となった。
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昼食は化粧坂交差点近くの「たまや」でプレミアムセット・魚河岸定食煮魚系で、煮魚は銀むつ(メロ)の煮付で、味付けもなかなかのものであった。
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・化粧井戸 仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎祐成の恋人・虎御前が化粧坂のこの辺りに住み、この井戸の水を汲んで化粧したのでこの名がついたという。
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・大磯の松並木も立派だ
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・江戸から16番目の化粧坂の一里塚跡450x300_14
・広重五十三次「大磯・虎ヶ雨」も掲示されていた
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大磯宿(8番目の宿) 
平塚宿から2.9㎞。日本橋から約65.8㎞。宿の長さは約1.5㎞。本陣3軒、脇本陣なし、旅籠66軒。明治以後、歴代総理8人(伊藤博文、大隈重信、山県有朋、寺内正毅、西園寺公望、原敬、加藤高明、吉田茂)の屋敷が建てられ、この地は別荘地となった。

・大磯宿江戸見附跡 ここから大磯宿の始まり

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・延台寺 大磯駅の近くにある曽我十郎の想い人・虎御前が庵を結んだ寺。法虎庵曽我堂には虎御前の成長とともに大きくなり、十郎の身代わりになったという虎御石が包まれて安置されている。 
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            境内の虎池弁財天御神石と遊女の墓
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・小島本陣旧蹟
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・地福寺の島崎藤村と静子夫人の墓 細い柱の墓で意外な感じだ
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・明治24年の創業時のままの「新杵」で西行まんぢゅうを買う。虎子まんぢゅうは売り切れで残念。
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                        (つづく)

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2018年3月22日 (木)

東海道五十三次歩き17 平塚~大磯(1)

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茅ヶ崎の南湖の左富士は吉原の左富士とともに有名な個所。戸塚の手前にも微妙なのがありましたので全部で3ヶ所。晴れマークが出たこの日(3/15)、富士山が見られるかもしれないということでまた神奈川県に戻り茅ヶ崎から歩き始めました。あと楽しみは大磯の鴫立庵。道祖神が多い区間でもありました。JRの駅は、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮、国府津の区間です。20㎞ですがあちこちの寄り道で46973歩でした。

神奈川県は中学生からの故郷でもあり、東海道などもバスやその後は車でうろうろしていたので、知った風景だから何もなくてつまらない街道歩きになると思いきや、とんでもない。歴史的にも他にも知らないことが多いことがわかり、興味も尽きなくなってきています。
また、東海道から右側にたくさんの大山道が分岐していました。

茅ヶ崎から平塚宿までの間

・茅ヶ崎駅から北の東海道に突き当たった角の市役所に上野寛永寺の石灯籠が4つ並んでいる。茅ヶ崎のお寺などだけに随分たくさん寛永寺から石灯籠が移されたものだ。

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・東海道を200年見守った、茅ヶ崎地区で一番大きなクロマツが平成21年腐朽のため伐採され、モニュメントとして残された。こんな大きなのが、私が住んでいた頃はあったのに知らなかった。
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・湘南クッキーの自販機 藤沢から小田原あたりまであるらしい。娘にたくさんあるクッキーの中から「寄木細工」を買ってもらう。「湘南kids」「大磯の洗出」「湘南ビーチdeティータイム」などいろいろあった。
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・境内に石造物多数の第六天神社。六地蔵の頭がなくて顔を書いた石が地蔵の上に置かれているのが面白い。
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 三猿が刻まれた庚申塔や道祖神.。このあと、国府津までずっと道祖神を見る。
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・南湖の鳥居橋から少し霞んでいたが、左富士が見えた!!富士山はあとは小田原と箱根芦ノ湖からと再トライの美保の松原です。全く富士山に対する執念が我ながらあり過ぎと思う。
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 橋の先にある南湖の左富士之碑 一番右の工場の建物の左側にちょっとだけしか富士山が見えない
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・橋の右手には鶴嶺八幡宮の鳥居がある。神社は遠いのでパス。中学生の頃何度か行ったことあり。
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・神明神社にはかつて陰陽師の阿部清明の井戸があったが国道拡張でなくなり、今は碑が立っているのみ。
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・「でかまん」という店があり、1つ3500円という大きな饅頭を売っている。普通サイズは150円だそうだが、10時の開店前に通過する予定だったのであきらめていた。一目見たかったけれど。大きいのは一日何個売れるのかしら。
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・馬入川(相模川)のだいぶ手前に小出川があり、相模川橋脚跡がある。昔はこんな手前に相模川が流れていたのか。関東大震災のときに水田だったここから7本の鎌倉時代の橋脚が出てきて 今は保存のため埋められ、レプリカが置かれている。
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・日蓮宗の上国寺と信隆寺とお寺が続くが、どちらも室町時代の木造日蓮坐像がある。これは上国寺のもの。
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・スミレ この時期ハクモクレン、シデコブシ、河津桜などが見られた。
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・馬入橋のところから平塚市に入り、相模川はこの橋から下流で馬入川と名前が変わる。橋からの富士山がまたまた霞んではいるけれど大きく見えた。カメラのレンズにシミがあって富士山の写真ではいつも目立つので見苦しいです。
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・陸軍架橋記念碑 鎌倉時代には架けられていたのが、江戸時代、相模川も架橋が禁じられ、馬入の渡しには渡しが60ほどあった。明治の終わりに架橋。関東大震災で壊れ、陸軍が1か月半で橋を架けた記念碑が立っている。
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・丁髷塚とちょんまげ最中 昔寒川神社と平塚八幡宮の御輿を担ぐ若者たちが喧嘩をし、馬入村側が寒川の御輿を川に投げ入れたりで乱暴を働き、打首断罪の判決を受けた。代官太郎左衛門はその丁髷だけを切り落とし、打首に代え、その丁髷を埋めた。その手前にある弘栄堂でちょんまげ最中を買う。 
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・平塚のマンホールは七夕だ
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・江戸から15番目の馬入一里塚跡
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・平塚宿・江戸方見附手前の路地裏に「番町皿屋敷」で知られるお菊の塚がある。お菊は平塚宿役人・真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本・青山主膳の屋敷に奉公にあがったが、家宝の皿を割り手打ちにされた。平塚に戻った娘の骸を父は刑死人の例にならい墓を作らず、木を植えて墓標としたという。
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故郷ということもあって茅ヶ崎に力が入って長くなりました。

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2018年3月 5日 (月)

東海道五十三次歩き16 舞坂~新居(後編)

本日、前編で書いた浜松の新玉ねぎを売っていたので早速買って来て、生噛りしたところ甘味がありました。値段は3個で197円+税でした。サラダや煮たり焼いたり楽しみです。

◆舞坂から新居までの間 浜名湖を渡る。風が吹き渡って実に寒い。右手には自動車道の他、東海道線と新幹線があって、新幹線が数分おきにびゅんびゅんと飛んで行く。
これらがあるために右手奥の浜名湖が殆ど見えず、浜名湖競艇場さえも見えず、帰りの電車からわずかに浜名湖が見えたのでした。

・先ず弁天橋を渡る。橋を渡った先の右手にはJR弁天島駅がある。昔弁天島の辺りは白砂青松「天橋立」のような風景が広がっていたが、地震で砂洲が壊れてから洲崎の一部であった弁天は湖に取り残されて島になったそうだ。
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・弁天神社 江戸時代1709年に今切渡海安全のためにこの神社が建てられた。境内に「天の川 濱名の橋の十文字」という正岡子規の句碑があった。
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・弁天島シンボルタワー 鉄鋼製で高さ18mの鳥居で、1973年(昭和48)に舞坂町観光協会が建設した。潮干狩りの名所。
浜名湖ではアサリ、スズキ、黒鯛、鰻、穴子、シラスウナギなどいろいろな漁業が行われ、最多漁獲はスズキ。秋から冬にかけてはトラフグ、牡蠣の養殖も盛んで、隣の新居町で牡蠣剥き場を見た。
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・弁天島から新居の方を眺める
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・長かった浜松市が終わり、中浜名橋を渡ると湖西市に入る。この辺りは手筒花火が有名で、これは手筒花火のモニュメント。右手は新居町駅だ。
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・浜名橋には広重などの絵が数枚紹介されている
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●新居宿(31番目の宿)舞坂宿から5.9km 日本橋から約284㎞ 本陣3軒、脇本陣なし、旅籠26軒。

・新居関所 徳川幕府は江戸を守るため、全国に53ヶ所の関所を設けた。新居に関所が出来たのは1600年だ。地震や津波の被害を受けて移転を繰り返し、現在の場所になったのは1708年。今切れの渡しの渡船場業務もあり、新居関所は箱根関所と並ぶ東海道の重要地点だった。
現在の遺構は幕末1855年再建のもので、昭和46年解体修理を行い、江戸時代の関所で全国で唯一現存する建物だ。関所が廃止されたのは1869年(明治2)で約270年の役目を終えた。

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面番所 旅人を取り調べる役人が控えていた所。関所役人は番頭や給人まで併せて40人前後が交代で任務にあたっていた。
関所を通行するには「関所通行手形」が必要で、武士なら藩の担当役所が発行し、庶民なら自分が檀家になっている寺が出すほか。村長さんに相当する名主・庄屋が発行する。手数料は数百文。内容は氏名、生年、住所、宗派。
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あらため女 「入り鉄砲に出女」と言われ、江戸に持ち込まれる鉄砲や武器に目を光らせ、江戸から出る女性に対し特に厳しい調べを行った。女手形が必要だった。多くの女性がこの関所を避けて姫街道に行ったが、<女城主直虎>に出てきた気賀にも関所があった。
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                                                中庭
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渡船場跡 復元されたものであるが、今は周りは全部埋め立てられて面影はない。
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大御門 午前6時からから午後6時まで開けていた。屋根付きの高麗門。
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                                門のそばにある復元された高札場450x300_13
関所の隣のあと引き製菓で名物の「あと引き煎餅」を買う。瓦煎餅系である。固いけれども美味しい。
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・旅籠「紀伊国屋」は紀州藩の御用宿 昭和30年代まで旅館業を営んでいたという。
お雛様が飾ってあった。御殿飾りと言われるお雛様。とても豪華だ。
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                           枕                           手筒花火
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                     客間
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・小松楼(大正期の芸者置屋)多い時で60~80人いたという。道に面する2階廊下の手摺りの角度に工夫が凝らされているという。道から見上げた時、きれいどころの姿が美しく見えるようにと。
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                     お雛様
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                       部屋
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・本陣の一つ、飯田武兵衛本陣跡。
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・東海道はここで直角に左に曲がる。その一つ向こうの通りが寺道である。手筒花火のお祭りをする諏訪神社や朝鮮通信使一行の無事を祈って奉納した関所稲荷が神宮寺にあったりする。
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・寄馬跡 宿場には常に100人の人足と100匹の馬が用意されてたが、足りない時は助郷制度で近在の村々から人馬を寄せ集めた、その溜まり場。
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・湖西市のマンホールは関所に松と波に千鳥
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・いさごやで「はまぐり」というお菓子を買う。蛤の形をしていて中に栗が入っている。
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             家康くん弁当が遂に浜松の駅で手に入る
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                    (終わり)

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2018年3月 2日 (金)

東海道五十三次歩き16 舞坂~新居(前編)

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◆高塚から舞坂までの間
昨年浜松駅から一駅の高塚駅まで歩いておいた。9時頃から浜名湖手前の舞坂宿と浜名湖を渡った先の新居宿に向かって歩きはじめる。この日は34351歩。
東海道線は高塚~舞坂~弁天島~新居町駅

・駅の近くに「麦飯長者跡」がある。高塚に五郎兵衛という長者がいて、明治維新の頃まで人の区別なく街道を行き交う人々に、湯茶を接待し、空腹の人には麦飯を食べさせていたので「麦飯長者」と言われるようになった。小野田の姓を許され、村役人、庄屋を努めたそうだ。偉い人がいたものです。
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   暖かなこちらはギョリュウバイやエリカなどの花がきれいに咲いている
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・常夜灯 秋葉常夜灯などこのあと街道筋には次から次へと現れて驚くほどの数だ。
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・篠原立場跡 街道の施設として本陣、脇本陣、旅籠屋、問屋場、そして高札場や一里塚や並木(松)などを多く見て来たわけですが、立場というのもあった。
立場というのは宿場と宿場の間の村の沿道に置かれ、人や馬が休息し、湯茶や簡単な食事を提供する施設。
ここの立場は立場本陣と言われ、大名など身分の高い人達が多く休憩した。明治天皇も明治元年に休憩されている。
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・66番目の一里塚や高札場跡(吉田藩はあちこちに高札場を設置していた)などを過ぎる頃、日本一早く出荷する「新玉ねぎ」の畑や、収穫されているのを見る。篠原地区は白玉ねぎの一大産地だそうだ。
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・稲荷神社・・・珍しい赤い両部鳥居がある。両部鳥居というのは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。厳島神社や熊野速玉大社が有名。
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・春日神社 舞坂駅のすぐ手前にある。春日大社と関係あるのか?拝殿前に狛犬ならぬ雄と雌の鹿が迎えてくれる。非常に珍しい。
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・舞坂駅の所から今までで一番立派な松並木が現れた。700mの間に340本あるという。
害虫駆除など維持が大変という。
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松並木の右側には十二支をかたどった石に其々の説明が彫られたレリーフがあり、左側には東海道五十三次のレリーフが品川から始まり京都三条まである。
      最後(京都側)にあった、亥の刻、横から見ると猪の形をしている
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                     品川宿
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              舞坂宿のはさすが1つだけ大きかった
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・浪小僧  網にかかった真っ黒い小僧を漁師たちは殺そうとしたが「助けてくれれば御恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったときは、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言ったので海に返すと、それ以来天候の変わり目に波の音がするようになったという。
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●舞坂宿(30番目の宿)浜松宿から8.8㎞ 日本橋から約278㎞ 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒。

・見付け石垣 舞坂宿の東側の道路の左右に残っている。江戸・京都方とか東・西方見付という言い方ではなく石垣で表されている。
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・家は古くないけれど、宿場らしい雰囲気の舞坂宿だ。舞坂一里塚跡のあたりから「ぶち海苔」と呼ばれる青と黒の海苔を混ぜたのや「しらす」の看板を出す魚屋が多くなる。
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・宝珠院に舞坂の海苔産業に貢献した森田屋彦之丞と大森三次郎の供養碑がある。
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舞坂宿の見学の前に浜名湖のそばの「つるや」といううなぎ屋で昼食にする。このうなぎは2段になっていてボリュームがあった。浜名湖の養殖鰻は最盛期の三分の一にまで減少したが、海苔、牡蠣、スッポンなどの養殖が盛んである。
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・舞坂宿脇本陣 東海道に唯一現存する脇本陣の遺構で天保9年(1838)建築の茗荷屋脇本陣の書院棟を復元したもの。大名用の上段の間を備えた見事な建物。
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       奥の上段の間から中庭、玄関の方を見る。厠。庭。台所。
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・一里塚と常夜灯
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・浜名湖はかつて閉じた淡水湖だったが、室町時代の大地震明応7年(1498)によって湖と海とを分けていた砂洲が流され、1里(約4㎞)の切り口が開き外界とつながった。そのためこの辺りを「今切」(いまぎれ)と呼ぶようになり、船で渡ることになったのが「今切の渡し」である。舞坂宿は渡船場として大いに賑わう。雁木(舞坂ではがんげと呼ぶ)と呼ばれる階段状の渡船場が3ヶ所あり北雁木だけが現存している。北雁木は大名や役人用、中雁木は武士用、南雁木は庶民と荷物用だった。
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                       (続く)

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