2020年4月 3日 (金)

『二宮金次郎の一生』三戸岡道夫著

街道を歩いているときいくつか見た二宮金次郎像。子供の時に読んだだけで薪を背負って勉強している金次郎しか覚えていないので、実際にはどんな人だったのでしょう。

小田原の報徳二宮神社内の子供の時と大人になってからの像。
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先日歩いた千住宿を出た先の足立区の国土安穏寺内及び疱瘡神社に隣接する小学校辺りで見かけた二宮金次郎像。
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貧しい農民の子に生まれた金次郎は、14才で父親を亡くし、乳飲み子を抱えた母と弟2人を養わなければならなくなった。未明に薪を取りに1里を歩き、それを小田原まで2里歩いて売りに行く。その時間が惜しくて人のいない道を読書しながら歩いたのがこの像だった。1年半後には母も亡くなる。すべての田畑を失い、一家離散してしまった。その後からが凄い。奉公先で早朝から夜中まで働き、一番鶏が鳴くまで勉強したという。
その勉強で得たあらゆる知恵を使って仕事、生活を工夫して(これがいろいろと凄い)、少しの暇に荒れ地を整備していたとき末弟を亡くし、家を復興することを誓う。その働きは馬車馬のようだが我武者羅でなく、知能的、多面的であった。父の死から10年目に24才で1.46ヘクタール(約4400坪)の所有するまでになり、2年後には小作米38表1斗の自作農になった。これに安んじない金次郎。傍ら服部家に仕え、色々な知恵、実践で財政再建をする。
これが発端となって、農民から幕臣となって藩の改革に努め、600の村を救い、数万人を飢餓から救ったのだ。70才で亡くなるまで早朝から深夜まで村を歩き回り怠けて怠惰になってしまっている農民を説得し、勤勉な農民に変えていくのである。身長が180㎝以上という偉丈夫で、声も大きく、一汁一菜の粗食で働き詰めでよく70才まで生ききったものとその体力にも驚く。
農村や藩の再建は険しく、農民の出だということで武士である家臣たちは馬鹿にするし、意地悪する。というのも金次郎の基本精神は農民を救うことにあり、それは財政立て直しで武士を潤すものでなかったからだ。
小田原の地にずっと自作農としていれば、何万町歩の大地主となり、大資産家になれたのに、その生涯で所有する田畑はなく、膨大な資金も農村復興に使ってしまって私有財産は全く残っていなかったという。全生涯を農村と農民のために捧げた。その無私の精神が報徳社となって今に続いているのだそうだ。

まさしく現在の政治家にこんなに国民を考える人は皆無。突出していた田中正造等を思い起こしますが、この方も過去の人。
今は絶望的。自分の自分による自分が金持ちになるための政治。アベボンとその友達、日銀総裁とで子・孫の時代は日本沈没しそうな借金を膨らませ、コロナ対策も諸外国からも批判されるようなもたつき具合に、色々合わせて疲弊してしまいます。そういう人しか出せず、選ぶ国民も悪いとは思いますが。

 

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2020年3月 3日 (火)

『奇妙な死刑囚』アンソニー・レイ・ヒントン著


『奇妙な死刑囚』アンソニー・レイ・ヒントン著 ブライアン・スティーブンソン序文

著者はアメリカ・アラバマ州で黒人であるがゆえに無実にもかかわらず死刑判決を言い渡されが、正義感溢れる弁護士(序文を書いた人)により、30年後に無実で死刑囚監房から釈放された。
事件当時、ヒントンは犯行現場から20数㎞離れた場所で守衛が目を光らせ、全従業員の出社と退社時刻を記録している倉庫で働いていたのである。警察はアリバイ無視、家宅捜索で古い拳銃を押収し、別の強盗事件でも逮捕、起訴した。検事、裁判官、裁判所指名の弁護人、陪審員ら全員有罪判決にし、死刑を宣告した。誤判は貧しい黒人青年であったがゆえに人種差別の犠牲になったのだ。
この悲劇は今でも跡を絶たないようだ。その中で30年の月日を経て2015年に釈放されたヒントン氏。彼を最終的に助けた弁護士は言う。
ヒントン氏は、思慮深く、偽りがなく、誠実で、思いやりがあり、たぐいまれなユーモアセンスの持ち主で愉快な人物。死刑囚たちと積極的に関わり、監房ではひとかどの人物として尊敬されていた。刑務官たちでさえ、結婚や信仰、日々の生活の苦労など悩みがあると彼に相談、助言を求めていたという。前代未聞の話だ。そんな風な人物に育て上げたのは素晴らしい母親だった。30年間毎週片道7時間もかかるのに面接に来てくれ、癌で途中無くなってしまう彼の母の面倒を見た友人レスターとその妻も心の支えになった。
そして弁護士だ。ヒントン氏は言う。彼を信じてくれ、貧しい人間のために粉骨砕身を続け、どんなに分が悪くても闘い続ける、神がつかわした最も偉大な弁護士だと。
本当にこんな弁護士がいるのかと私も感動した。

それにしても監獄の凄さは聞きしに勝る。冬の気温は書いてなかったけれど、夏は部屋の中は47度~49度の暑さという。ご飯は味なく泥のよう。ゴキブリとネズミが走り回り、死刑執行の時の焼く臭いが漂うという。最初は狂わんばかりの怒り、絶望、恐怖の果てに、よく耐え、ユーモア持って所内の人々へも希望をもたらし、奇跡を手にしたのである。ラスベガスの45度に数時間でダウンしてしまった虚弱な自分を思うと、そしてこの夏も猛暑日が続いたらもうだめと思っている自分を恥じます。いまだに黒人だからという人種差別という悪がまかり通っているということにも驚きます。

 

 

埼玉県の寄居町には8つの寺院に「十二支守り本尊霊場」があり、2月上旬に巡ってきました。
東武東上線の北側に四寺、南側に四寺。極小さな寺から立派な寺までいろいろで、自分の干支の守り本尊をお参りすると開運厄除、諸願成就等の御利益があるという。肝心の自分の守り本尊は閉まっていて見られなかったのが残念でしたが、色々なご本尊や石仏、鐘楼、仁王様などを見、最後の少林寺では五百羅漢を楽しんで癒されました。
どこかのお寺でいただいたちらし。全くその通りで戒めになります。
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少林寺の羅漢山(247m)の上の方までずっと並んでいます。これが見たくて参加したようなものです。
こんな風な間隔で続いています。
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ムンクの叫びのようなのが!!
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2019年12月14日 (土)

角幡唯介著『極夜行』

角幡唯介著『極夜行』

こんな凄い冒険旅行の記録は初めてです。南極点に到達したスコットが帰路で亡くなってしまった話『世界最悪の旅―スコット南極探検隊』や『エンデュアランス号漂流』や『冒険歌手 珍・世界最悪の旅』峠恵子著などもなかなかだったけれど(この旅に角幡唯介氏は大学生で参加していてどうやら無計画性に呆れて引き返したらしく、彼の経歴にはこの部分が抹消されていると検索したら出ていました)。

この本の前に『極夜行前』を読まれたZさんの感想で驚いて読み、そして本番のこの本です。
グリーンランドの極夜をほぼ4ケ月犬1匹とともに旅するのである。月が出る日もかなりの暗さであろう。
氷点下30~40度、強風や暴風の吹きまくる一面の氷の真っ暗な世界をテント泊で旅する。食料も橇で引けるだけしか持てず、事前の3年間に自分の食料とドッグフードを数か所にデポした。現地にいる魚の他、ウサギ、アザラシ、セイウチ、ジャコウジカなどなどを捕獲し解体し、乾燥したものをドッグフードや日本から輸送した他の乾燥食糧と燃料などをデポ地まで運ぶ苦労が『極夜行前』に書かれていた。

本書ではいよいよ出発。あえてGPSを使わないことにこだわり、天測で、地図とコンパスだけで旅する。というのも旅の始めにそれに必要な六分儀を無くしてしまうのです。苦労して旅して奇跡的に(以前の3年間で地理的な起伏などを覚えていた)デポ地に辿り着くと、どこも全部白熊に食べられてしまっていた。旅を続けるべく獲物探しが始まるが一向に捕獲できず途中から引き返す判断をする。オオカミを捕まえたり、最悪パートナーの犬を殺して生き延びようと思ったりしてどん底状態になる中、いろいろな奇跡が重なって、筆者は犬とともに生還するのです。
どうしてここまで死と隣り合わせの危険な恐ろしい究極の旅をするのか??著者にはちゃんと理由があるのでした。著者と犬の愛の物語も秀逸でした。


11/10(日)は久しぶりに高尾山へ。

1号路、4号路、6号路、稲荷山コースは歩いていますが、この日は3号路、2号路南側コースを制覇(大げさ)しました。残るは5号路ループと2号路ループ北側なので次回回ってみたい。この日のコースは1号路→もみじ台→山頂→3号路→2号路→6号路。台風19号の影響で6号路は琵琶滝から上は通行止め。

咲いていた花はオヤマリンドウ、キッコウハグマ、ヤクシソウなどでした。
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富士山は上の方がちょっとだけ見えました。私にしか見えないでしょう。中央上ですが。
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下では高尾山もみじ祭りで、関東唐獅子太鼓の演奏の最中でした八王子の関東太鼓合戦に出演した15のうちの一つのようです。力強い演奏でした。
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八王子市のマンホールは八王子車人形・演目三番叟がデザインされている。初めて気が付きました。
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11/17(日)山梨県上野原の四山(尾続山、実成山、コヤシロ山、要害山)から富士山を眺めるトレッキングコースを巡りました。

尾続(おぞく)バス停からまず尾続山(538m)へ。頂上は眺望がきかず手前の展望台からの富士山。
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ミヤマシキミの蕾
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実成山(609m)の頂上も眺望なしで手前から富士山を望む。
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コヤシロ山(600m)頂上からの富士山。
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ユウガギクと友が言う。
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風の神様(540m)から
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要害山(536m)頂上。戦国時代、ここ要害山には甲斐・相模・武蔵三国の国境において最大級の山城の大倉砦が築かれていたそうです。
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同じ友がこのシメジは美味しいと。ナラタケだそうです。いつもsさまありがとうございます。
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石像と紅葉。このコースは次々と富士山が現れ、大菩薩嶺の時のように感激しました。家からも割合近い山ですし。
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2019年11月16日 (土)

『ガン入院オロオロ日記』東海林さだお著

『ガン入院オロオロ日記』東海林さだお著
入院以外を多く書いている本ですが、最初に初体験入院日記ⅠⅡⅢを書いている。まず東海林さん自身がガンの手術をしたことを知らなくて驚く。
冒頭のページから面白くて、数度の入院体験者の私は失礼だけどいろいろ思い出されて笑ってしまった。
その冒頭です。
「入院したことがありますか?」と訊かれて、「ある」と答えた人、「ない」と答えた人、「何回もある」と答えた人、いずれも共通していることがひとつある。
いずれも嬉しそうに答える、というところが共通している。
よくぞ訊いてくれた、と言わんばかりにヒザをのり出して答える。
それゆえ筆者が、「ある」にも「ない」にも「何回もある」にも「!」のマークをつけざるをえなかったのである。
「ない」と答えた人が嬉しそうなのはよくわかる。健康自慢の人である。
「ある」と答えた人はどうか、病気自慢の人である。「こんなにも病弱なオレ」この真逆な自慢に、誰もが納得してしまう不思議。
「何回もある!」と答えた人に至っては、頼まれもしないのに、大急ぎでシャツをめくってお腹の手術の傷跡を、「ホラ、こことここ」と自慢気に見せびらかしたりする。 

全くその通りかもしれません。私自身「何回もある」に入るのですが、べらべらとやってしまっているかも。相手は辟易していたのではないでしょうか。
年取るとクラス会も同窓会もどうしても体のことが話題になってしまいがち。わかっているけどやっぱりそちらに向かう。しかし情報交換は弱い者にとって重要で、色々な医者や病院を知り、喜んだり安心したりとても役に立つのです。
しかしこの本を読んで、滑稽なのでほどほどにしなくては。なんでも加齢ですからと言われる医者のおっしゃる通り。

今読んでいるのが『すぐ死ぬんだから』内館牧子著と、読んだ『明日死んでもいい暮らし方』ごんおばちゃま著なども読んでかなり覚悟が出来たので、読むのをやめて、年だから、年、年、という言葉から少しでも遠ざかった時間を一日の中に作りたい。

 

 

11/3(日)飯能→宮沢湖→高麗峠→巾着田ハイキング 21260歩

この日、西武線・稲荷山公園で入間基地航空祭が開催され、西武線は早くから激混み状態でした。男の子、そして女の子も航空ショーを楽しみに両親に手をつながれ大喜びの様子。私も一度見たいと思ってもこの混雑にはもう入っていけないのが残念。

飯能はお祭りの日であった
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飯能駅から北へ歩くと加治神社に到着。
この辺りは徳川光圀の家老・中山信吉はじめその子孫の墓碑多数が残るところである。加治神社は信吉の祖父家勝が芦毛の馬を連れた老人(吾妻天神)に救われたとの伝承のある天満宮だそうだ。
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コウヤボウキ
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宮沢湖に入っていくが、ここにムーミンバレーパークが今年オープンしたそうで、ここも家族連れが沢山向かっている。
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対岸の方にそのパークが見える。
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カラスウリの実や面白いキノコ。エゴノキだけに生えるエゴノキダケだそうです。shikamasonjinさま、有難うございました。
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高麗峠へ
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高麗峠(標高177ⅿ)
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高麗川
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高麗川のドレミファ橋を通って巾着田へ。
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巾着田の彼岸花はもう葉になっている。
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日和田山が見えている。最近楽しく登った記憶が蘇る。
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高麗川で遊ぶ人々。
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高麗駅へ向かう道にはいつも花が咲いている
白いそば
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八重のキバナコスモス
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フウセントウワタ
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2019年9月27日 (金)

島崎藤村著『夜明け前』

島崎藤村著『夜明け前』

中山道はやっと美濃路が始まったばかりです。その先の木曽路12宿の西の端、落合・馬籠宿は長野県ではなく岐阜県だ。今まで長野県とばかりと思っていました。
昔読んだ『夜明け前』が馬籠宿の本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねた旧家の主人公からみた幕末から明治維新、明治初期の歴史小説であったことを忘れ、主人公の最期だけぼんやりと覚えているに過ぎなかった。友人が読んでいるということで読み始めたら、今まで街道歩きで残っている本陣や本陣跡の立て札を見てきただけだったのが、本陣の仕事を当時の歴史とともに知ることが出来た。皇女和宮の行列、勤王の志士たち、天狗党、最後の大名行列、そして明治に入ると天皇の巡幸などで、本陣などは実に細かい気遣いがされ、人々が慌ただしく行き交う。たくさんの物資も行き交う木曽の山中は、伐ってはいけない5樹木があったり、耕作地がないなどの地形が故、接待する食物などをどのようにして調達したのかなどわからない点もあるが、本陣や庄屋さんともなると大変な雑務に追われ、予想もつかない雑務があることを知る。一揆も多く起こるし、気苦労の絶え間がない。
小説は藤村の実家がそのまま描かれた私小説で、藤村の父は馬籠の名主・戸長(本陣の仕事がなくなった時から名前が変わった)であった。大磯で見た別荘からは窺い知ることの出来ない過去を知ることになる。
また、これから歩く美濃路の中津川、木曽路の落合、馬籠、妻籠、関のあった福島、その他の木曽12宿が出てきてこの先到達した時が楽しみになりました。

 


森下典子著『日日是好日』

奥の深いお茶。主人公の母をして、お茶の先生を「タダモノじゃない」と言わしめた、その先生について25年。著者はまだお茶のお稽古に励んでいる。
読み進むほどに思っていた茶道の奥深さはさらにさらに奥深くなっていくのでした。
映画で主演が黒木華、樹木希林が先生役、多部未華子が従姉妹。 監督・脚本は大森立嗣。まだ観ていないのでチャンスがやってきたら是非観てみたい。

 


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これは友人の個展「色鉛筆画展~野の花に魅せられて~」の個展案内状の絵です。
クラスメートでは初めて個展を開いて、6年以上も色鉛筆教室に通い精進されている。130点の中から40点展示され鑑賞してきました。色鉛筆とは見えず水彩画と思ってしまったほどでとても上手でなんでも60種類くらいの色鉛筆を使うそうだ。上の本の先生も庭の草花を殆どご自宅の庭のものを茶花として飾り、この個展を開いた友人の先生もたくさんのお花を自宅から持って来られるそうで、何かはっとされるお話でした。

 

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ヤモリがすだれの内側の網戸に張り付いている。ヤモリが10~14㎝くらいというのに、ヤモリにしてはまるでカナヘビのように尻尾が長く全長20㎝以上もある、変わったヤモリ。

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2019年4月22日 (月)

田辺聖子著『姥ざかり花の旅笠ー小田宅子「東路日記」』

  芥川賞受賞者で文化勲章受章の著者。さすが文章も上手く嫌味もなく凄い癖もなくて楽しく読んだ。以前紀行文と「新源氏物語』を読んで以来。今街道歩きをしているので私が生まれたちょうど100年前に旅した女性の日記が私を偶然に呼んでくれた。
小田宅子(いえこ)は俳優・故高倉健さんの5代前のご先祖様。福岡県の現中間市在住の宅子さんは53歳の天保12年(1841)に女の友人3人と3人の男性の従者を連れてお伊勢参りに出る。
高倉健さんが持っていた『東路日記』をわかりやすく読めるようにということで回りまわって田辺聖子さんの手でこの解説本が出たとう経緯がある。
当時イザベラ・バードが旅した東北の奥地と違って、当時としては豊かな筑前の商家のお内儀で、子育てを終えてから和歌を学び、古典教養にも溢れ、その日記には有名な和歌集に載っているような、素晴らしい和歌が行く先々で詠まれているし、古典からの知識が次々飛び出てくる。田辺さん曰く「女性文化の暗黒の時代と思われていた江戸の世で、それも天ざかる鄙の地、商賈の家の女たちに、こんなみやびな文化が息づいていたとは」と。読んでみて江戸時代のイメージがちょっと違った。

歩いた距離は800里(3200km)、5ヶ月の旅であった。一日に7里半や8里歩くことが多い。その健脚ぶりは30km~32km。もうひっくり返りそうな距離。
故郷を出て、時々瀬戸内海の島々に出ながら山陽道を、四国も金毘羅山へお参り。その後のざっと歩いた道は奈良街道、吉野金剛峯寺、伊勢参り。ここでやめるつもりが善光寺へということになり、北上して岐阜から中山道を通って善光寺へ。その後日光へ。日光街道から江戸へ。江戸では歌舞伎、能、狂言などに入り浸り、そのほか見物。東海道を戸塚あたりまで、そこから江の島へ。藤沢の遊行寺へ。ここで箱根と新居の関抜けをするため、遠回り。それが厚木あたりから北上して甲州街道へ。諏訪から高遠へ。そして最も困難な信州・静岡県の北遠の境の青崩峠から秋葉山信仰の地へ、三河の鳳来寺山、豊川稲荷、熱田神宮、佐屋街道を経て関が原へ。中山道で京都に出て長らく滞在し、お寺や芝居見物したり夜遅くの講話まで精力的にこなし、船で大阪に出て、そこでも同じように滞在した後、瀬戸内海を船で行き、九州に着いたというもの。最初若い従者が具合悪くなっただけで、あとは全員病気もせず歩き通した。苦しかったのは雨の日や、峠で泊まるところもなかなかなく、食べるものも干し飯を初めて経験したことなどで、あまり困ったことなどは書いてないらしく歌で感動を表現しているのが素晴らしい。
かかったお金を今に換算すると一人分、5ヶ月で1263000円。それに従者の分がかかっている。
当時為替手形や両替商発行の預かり手形、振手形(今日の小切手)などがあったそうで、路銀入れとして、大金は胴巻きに、中程度は財布に入れ、首から吊るし懐にしまう。小銭は巾着、早道、煙草入れ、胴乱などにしまった。お土産は飛脚便で送る。
宅子さんはその後、夫や弟、息子に先立たれるが、孫息子に優しくされて、82歳まで歌を友として過ごしたようである。
またまた江戸時代の旅の様子がわかったのと、素晴らしい歌の数々、実に面白い本でありました。私も50代初めだったらこんなに元気であったろうか。歩けたであろうか?やはり当時の信仰心の成せる技でもあると思うのです。

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今の庭。毎年全然変わり映えせず、むしろ多年草だけになって植木鉢がだいぶ減りました。腰痛を悪化させないように残念ながら鉢を減らし続けています。

モッコウバラ
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ナルコユリ
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シラユキゲシ
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シャガ
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ツリガネズイセン
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ミヤコワスレ
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フロックス&ビオラ
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アップルゼラニウム
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2019年3月26日 (火)

東京都薬用植物園にて

3/22東京都薬用植物園ではいろいろな花が咲いていました。


カタクリ
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ヒトリシズカ
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ウグイスカグラ
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シュンラン
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ヒゴスミレ
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チオノドグサ
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ユスラウメ
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アンズ
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アブラチャン
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コナラのドングリから発芽した赤ちゃん。教えてもらいに行った指導員の方も大変珍しいと言っていました。残念ながら育たないそうですが。
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『なぜ、江戸時代の庶民は時間に正確だったのか?』山田順子著(時代考証家)


また江戸の話です。
江戸の長屋は上下水道が完備していた。それで100年で当時世界一の人口100万都市になった。パリやロンドンは50万。セーヌ川やテームズ川の水を飲み、下水はなく糞尿を道路に階上の人まで投げ捨てていたというエピソードは有名だ。そのため疫病が常に流行っていた。
江戸は糞尿を農家が買って、運んでくれたのですから、こんな社会はなかったのです。
江戸では下水は最後は堀や川へ流れ込むが、吐き出し口に杭や柵を設けて、ごみが一緒に流れ込まないようにしていた。掃除や修繕は町内ごとに費用を出して人を雇い、下水道を維持していた。水の管理に江戸は相当お金をかけていた。
今みたいに便利でもなく、豊かでもなく、娯楽も少なく、病気になれば治らない場合が多かったけれども、それに天災、火事が多かったが、完全リサイクル社会だったのでごみはほとんど出なくて世界一清潔な町であった。
その火事が多かったので庶民はすぐ逃げられるように、一番の財産の布団はいつも包んであり、鍋釜も少ししかなく、すぐ持って逃げられるようになっていた。庶民は貧しくその日暮らし。ましてや江戸時代布団は高価で掛布団まで買えなかった。敷布団を半分に折って、その中に柏餅のように横になって寝ていたとか。そうすれば、掛布団はいらないし、土間と四畳半か六畳一間で4,5人暮らしなので面積が半分で済んでみんな寝られる。日本は綿の栽培が増えず、綿ではなく、まず布に織ることが優先だったから、布団がとても高価だったというわけだ。初期は着物の重ね着と蓆が布団代わりだった。後になっても掻い巻きを持っている人は少なかったようだ。あのすーすーした長屋でさぞ寒かったことでしょうに、辛抱強かったのです。


江戸時代のやくざは関東地方に多く、関西にはいなかったそうだ。生糸が原因で生糸を売って農家が現金を持つようになり、流行ったのが博打。胴元が必要で、金があって素行の悪い地元の顔役がなったなどのことが理由のようだ。


バカ殿様でも政治ができたシステムあり。
大奥は江戸の女性にとって憧れの就職先であった。
西郷隆盛は大の写真嫌いであの顔は亡くなったのちに描かれたもの。
新選組のあの衣装は20万円のオーダーメイドだった。
おかずが少なかったからか一日五合のご飯を食べていた。
時代劇の言葉は今に合わせている。本当は鎌倉時代は平家琵琶の語りのような会話であった。室町時代の言葉は能や狂言。江戸時代は歌舞伎の中で唄われる浄瑠璃や長唄だそうだ。などなど知らないことが多くて面白い。

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2019年3月18日 (月)

四手井淑子著『山科の家 夫・四手井綱英と私の戦中日記』

四手井淑子氏の本をブログ友から紹介していただきました。
著者は日本菌学会会員で、1717年生まれ101才か。夫は2009年逝去した京都大学名誉教授で森林生態学の草分けとして「里山」の概念を提唱した人。

四手井淑子著『山科の家 夫・四手井綱英と私の戦中日記』

縁戚にあたる人と結婚し、山科の家に入り、そこで繰り広げられる舅と子姑(夫の姉)とのすさまじい苛めによる壮絶な日々、近所の一族並びに人々の回りまわったうわさ話に翻弄され、結核を患って治ったばかりの箸者は、ストレスから血反吐を繰り返すほど。それでも産後の主婦もそうだが、具合悪くて絶対に寝混んではいけなくて、それで亡くなっていく嫁さんたち多いこの地で転勤まで頑張る。

現代においても、知人の娘さんが京都に嫁入りして物凄い苦労で、家に引き取りたいと言っていたことや、ある作家の京都は嵯峨野や伏見さえも受け入れられないよそ者とされるなどと書いていたのを思い出し、山科でも戦中戦後の話だからさもありなんと思える。
それでも著者が耐えられたのは、夫の綱英氏の存在だ。末っ子でありながら当時の男性としては珍しい愛妻家、常に愛妻の味方。料理もお菓子も作り、奥さんの作った料理を褒め、常にいたわりの言葉をかけて、本当に当時としてはあり得ない夫であった。著者も苛められながらもいじめられた舅に優しいほろっとするような言葉を投げかけ、親身に世話したりする方なのだ。

四手井淑子著『きのこ学放浪記』
そうした著者が転勤で山形に行ったときに突然目覚めた「きのこ」に対する興味。それが再び疎開で山科に戻って苦労するが、夫が戦地より帰り、東京から最終的に京都大学へ赴任してから子育てに手がかからなくなった辺りから本格的にきのこの研究にのめりこんでいったようだ。
元々勉強が好きな方だったから、それはそれは男性並みに没頭。体が弱くてもそれをも乗り越え励むのだ。最初の『きのこ学騒動記』は読まなかったが、放浪記の方はきのこを求めて日本だけでなく外国まで、それも人の入らない辺鄙な所へ、ある時は急登を登り、藪漕ぎし、寒さに震え、かなり変わったきのこ学者のお供、自身の発見のきのこの命名や論文発表に関してアメリカのきのこ学者とのやりとりなどなど、本当に学者顔負けの奮闘ぶりで驚いたしまった。私の亡き母より1才年上で101才の今もお元気のようだ。

地面に横たわっていたのが、突然むっくり起き上がるヒマラヤユキノシタの花
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パソコンが新しくなってと思ったら明日はココログのリニューアルだそうであわててアップしました。

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2019年3月12日 (火)

『ガザに地下鉄が走る日』 岡真理著

著者は京都大学の教授で、現代アラブ文学・パレスチナ問題・第三世界フィミニズム思想が専門。東京外国語大学外国語学部アラビア語学科卒業。
カイロ大学留学時代やモロッコ日本大使館専門調査員時代にパレスチナに興味を持ち何度も訪れる。したがってイスラエル、ユダヤ人、ユダヤ教に対しては極めて批判的。
この本を読んでみると頷かざるを得ない説得力がある。
先の世界大戦でナチによるユダヤ人排斥運動で、ユダヤ人が600万人も殺され、私たちはフランクルの『夜と霧』を読み、アウシュヴィッツを見学し、杉原千畝の話に感動してきた。
ユダヤ民族の悲惨さをこれでもかとここに聞き及んできたのに、そのユダヤ人が、住んでいたパレスチナ人を排斥し、先祖の土地と言ってイスラエルを建国。その後の両民族の戦争は知らない人がいないほどに報道されてきた。しかしここまで深い内容も知らずにきたのだが、この本で情勢を知ることが出来た。
不思議・・・ホロコーストや収容所生活であんなに苦しめられたユダヤ人が、ずっとパレスチナ人に残虐な行為をしている。どうして?そこまでしなくてはならないのか。出来るのか?
仕返しするとしたら昔のナチスドイツ人にでしょう。しかし善良なるドイツ人もかつてどうしてあんな残虐な行為をしたのかも説明するのが難しいようだ。

ヨルダン川西岸地区とガザ地区はパレスチナ自治区でありながら、1967年に占領され、多くのパレスチナ難民が隣のレバノン難民地区や世界に逃れて行った。そこでの生活も悲惨ながら、自治区に住んでいる人々はなお悲惨である。ガザ地区はトンネルでエジプトとつながっていて唯一の物資の輸送が行われ、人々は一歩も出られなく人質同様の生活らしい。電気もガスも途絶え、下水設備も破壊され、汚物は全部海に流され、目の前の海が悪臭漂う、魚の摂れない状態へと変わり果てた。
西岸地区もイスラエルがどんどん植民し、塀を造って占領していき、60%はイスラエルの土地化しているという。パレスチア人をドローンで監視しているともいう。生活の自由は完全に奪われている。爆弾を落とし、どんどん若者の命を狙い、足を狙って行動できないようにする。
こうした生活に将来なんの希望も持てず絶望の中に若者たちは、心が壊れていくでしょう。すさみ、麻薬に手を出し、敵の爆撃に自爆で答えたりする。
そう、未来に何も希望がなく、国家も持てない生きる屍となった人々の悲劇は終わりそうになく、なんら解決も見つかっていない。
そこへ他の国がイスラエルを巡っていろいろ駆け引き。それでも世界最大級の強制収容所に現在いるパレスチナ人は何だか永久に救われないような。
国家を持てなかったクルド人もまた今大変な思いであり紛争が絶えない。

表題はガザ地区に住む子どもがガザに地下鉄が走る夢を絵に描いたことからきている。

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                   ウンナンオウバイ

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2019年3月 7日 (木)

絵が語る江戸の暮らし

パソコン復活。今回はその日に直してもらえましたが、もう半年も持ちそうになく、次はwindows10になって私にとっては大変そうです。

最近の毎日川柳から第2弾 みなさん本当に上手

 挨拶し帽子脱いだらカツラまで
 物隠す神が近頃住みついた
 ファミレスでお一人様と連呼され
 あ行から順に巡らす浮かばぬ名
 再調査するにも税のムダ遣い
 割り勘のために呼ばれたような席
 CMのハイジあまり好きじゃない
 志望校無事受かったのハイジちゃん
 重要な書類だちゃんと処分しろ

街道を歩いていると、江戸時代の様子を再現したり教えてくれる施設が多い。広重の東海道五十三次の絵でさえ、絵解きも碌(チコちゃんで知った字)に出来ずにいます。
そこで江戸ものや、日本の歴史、又街道筋やお寺・神社にある仏像・石像のことも知るといいわけで、その勉強が追い付かないうえ、欲張って世界史に首を突っ込んで全部中途半端な私です。この頃勉強のパワーもダウンし、覚えられないし、覚えてもすぐ忘れてしまう・・・試験がないのでいいとしましょうとなります。

本田豊著の『絵が語るー知らなかった江戸のくらしー庶民の巻』では絵に出てくる人々に旅人も多くためになります。

・旅では体を洗えなかったのでしょうが、女性の髪を洗うのにうどんの茹で汁が使われ、髪に艶を出した。
・大名行列の絵にも出てくるのですが、江戸時代はロボット歩きだった。今日のような歩き方になったのは軍隊行進が学校教育に取り入れられた成果だそうだ。そういえば昔ロボットさんがいましたね。
・大名行列が通った時、行列の主より格上なら立ったままでやりすごすが、格下だと立膝で行列を見送る。その格上か格下かは家紋で判断したそうで、そのため『武鑑』という家紋の百科事典で全国の藩の家紋を頭に入れておかなくてはならなかったそうだ。現在は25000くらいあるそうだが、果して江戸時代事典にはいくつ載っていたのでしょう。
・江戸の絵を見ていると、中国の絵と間違えていたのですが、子どもに髪の毛がない。江戸時代後期、江戸の町では子どもは髪の毛を剃っていたという。何故かは書いてなかった。
・江戸で身投げの名所は・・両国橋だった。ここは大川(隅田川)の流れが早く深いから、死体が上がらなかったという。川は成功率が高かったそうだ。
・「シャボン玉」という童謡は、実は間引きの歌である・・というのには驚いた。「生まれてすぐにこわれて消えた」のはシャボン玉でなく、子どもの命だったという。
・写真にもたくさん撮りましたが、行倒れや捨てられた子どもを供養した地蔵や石仏、始末をしたのは穢多非人の身分の人だった。

近所の梅と河津桜を夫が撮ってきました。

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河津桜は公園に1本、他に1本しか見当たりません。
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