2016年12月29日 (木)

シーボルトの長男、アレクサンダー・フォン・シーボルト

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                   モミジバゼラニウム

雑大講義より
有名な父シーボルトはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトという名である。フォンはドイツでの貴族階級に付けられる名で、シーボルト家は代々医者、学者の系統だ。
アレクサンダー・フォン・シーボルト(1846~1911)には13歳上の異母姉イネ(シーボルトと滝さんの子)と弟と妹がいる。
弟ハインリッヒ・フォン・シーボルト(1852~1908)は日本女性岩本はなと結婚し、2男1女をもうけ、その子孫が健在。オーストリア外交官であり、考古学者としてモースと一緒に大森貝塚の発掘をした人。

長男アレクサンダーは13歳の時日本入国が許された父とともに日本にやってきて、65歳で亡くなるまでのうちの40年間の奉職に対し、日本政府より勲一等瑞宝章を授与された。

それでどんな活躍をしたかを聴いて驚いた次第なのです。それは

・通訳官・外交官として、薩英戦争・下関事件の英国側通訳。1867年のパリ万博国覧会に同行。岩倉使節団の欧州回覧に随行。1878年パリ博に松方正義に随行。

・外務省の通訳官・参事官として、井上馨主導の2回の不平等条約改正に参加。伊藤博文の明治憲法発布の協力者として、ドイツとオーストリアの憲法、法律を英訳。

・人道家として、日本赤十字社設立に貢献。1891年の濃尾地震では義捐金を欧州で集めたそうだ。

・外務省のための情報収集と欧州の広報活動。定期的に欧州の主要新聞から日本に関する記事を抜粋し日本に送ったり、日本政府の立場に立って、欧州各国の通信社及び新聞社に正しい広報を伝える。

アレクサンダーが文書を交わした人は上記にとどまらず、明治の元勲の殆どと各国駐在の公使、日本赤十字社の人々、後藤新平、有栖川宮熾仁親王、そして欧州の王室や著名な人々、イギリスのハリー・パークス公使やアーネスト・サト― 等々。

岩倉具視がオーストリアで、美貌のエリザベート妃に謁見した時には、妃に日本のキリスト教弾圧のことについて聞かれたとか。
高橋是清とユダヤ人との仲介をしたのもアレクサンダー。
『伊藤博文の個人的な思い出』には、「博文は幕末のときにはテロリストだった。塙保己一の息子の幕臣を殺した」などが書かれているそうだ。
幕末、明治期の戦争まで関与し、明治新政権確立、憲法まで深く関わり、欧州に日本を正しく伝えた功績は計り知れなく、それがシーボルトの子どもであったことを初めて知ってとても興味深かったです。

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                    アップルゼラニウム

今年もあと2日ちょっと残すのみとなりました。いつもご訪問、コメントいただきありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。

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2016年9月 5日 (月)

中野京子氏の講演『プラド美術館の名画にみるスペイン王室』

ドイツ文学者であり、『怖い絵』シリーズや『名画の謎』シリーズなど絵画に関する著書の多い中野京子氏の講演『プラド美術館の名画にみるスペイン王室』を聴いてきました。
12枚の有名なベラスケスやゴヤらの絵を見ながら、スペイン・ハプスブルク朝の人々の秘話を伺った。

本で読んでいたので凡そは記憶していたが、例のハプスブルク家の近親婚の数値がどうやって出されるかは帰って調べたみたけれどもわかりませんでした。
他人同士では0、親子やきょうだいの結婚でできた子供の数値は0.25なのだそうです。
ですが親子、きょうだい結婚よりもっと血が濃くなってしまった数値、0.254があるのです。カルロス2世です。写真はwikiより拝借。
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スペイン・ハプスブルク
フェリペ1世(カスティーリャ王、フアナと共同統治:1504年 - 1506年)
               ↓
1、カルロス1世(1516年 - 1556年) 
2、フェリペ2世(1556年 - 1598年) 伯父・姪結婚
3、フェリペ3世(1598年 - 1621年) 母の従妹と結婚
4、フェリペ4世(1621年 - 1665年) 伯父・姪結婚
5、カルロス2世(1665年 - 1700年)

カルロス1世が1500年生まれでカルロス2世が1700年に亡くなったのでちょうど200年で血が絶えたというわけである。このあとブルボンがスペイ王朝に入る。

・フェリペ1世はフィリップ美男公と言われ、フアナは熱愛していた夫が28歳で亡くなってから、その棺を持って半年以上も国内を彷徨っていた、その「狂女フアナ」の絵がまず紹介された。

・フェリペ2世の跡継ぎを残した4番目の妻アンナの父である神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世はフェリペ2世と同年生まれの従弟であった。さらに彼女の母マリアはフェリペ2世の妹であるという関係から、2人は伯父と姪の結婚。

・フェリペ4世の、オーストリア・ハプスブルクに嫁いだ妹が生んだマリアナは、フェリペ4世の息子バルタサール・カルロスの婚約者であったが、彼が早世したためその父フェリペ4世の2番目の妻となった。故に伯父と姪の結婚になる。ハンサムなバルタサールが亡くなってしまい、30歳も年が違う伯父との結婚で描かれた絵の顔は面白くない顔をしていると言われる。そりゃそうでしょう。子供は5人いたが一人がベラスケスが何枚も描いた「マルガリータ」で、父方の従兄・母方の叔父にあたるレオポルト1世と結婚し、夫妻の間に生まれた4人中3人の子が1歳未満で夭折した、自身も22歳の若さで亡くなる。マルガリータの弟がカルロス2世。
           ベラスケス「ラス・メニーナス」の中のマルガリータ210x240
・カルロス2世 癲癇、知的障害などいくつもの病気を抱え、精神障害も起したが、それでも39歳まで生き、家は断絶した。オーストリアの方も近親婚がこの頃多かったが大丈夫だった。

何故これほどまで近親結婚をしたか。
・地位や財産の一族外への散逸を防ぐため。
・厳格なカトリック政策で、プロテスタントや正教会の王侯との結婚ができない。ヨーロッパの王侯は次々とプロテスタントに改宗していた。
・ヨーロッパ屈指の名門であり、家格の低い諸侯との結婚ができない。

ヨーロッパ各国の王室のいろいろな話を読むと、殺し殺されという残虐な話、処刑される話、愉快な話、威張っている王様王妃の話などいろいろだが、太陽が沈まぬ国の何だか笑えない悲劇の一面を持ち併せていて、暫くいろいろな絵がちらちらとしていました。

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2016年9月 1日 (木)

見沼通船掘

700x539治水に関しては遠くはナイル川(治水しないで洪水させて肥沃な土地にしたようだ)や日本では江戸時代頃のたとえば、木曽川・揖斐川・長良川の困難な事業を今まで聞いてきました。
埼玉県の「見沼たんぼ」と言えば、人と自然(多くの植物、昆虫、野鳥)が共生するところとして有名です。

昨日8/31はたんぼは見られなかったがたんぼが出来た一環の見沼通船掘見学とその歴史を聞いてきました。
東浦和の駅で降りたこの地は地図で確認すると大きな見沼の一番南側の端に位置します。

大昔海の底であったこの地が、縄文時代に海が後退し、江戸湾と分離して無数の沼・湿地であったそうな。
江戸初期から荒川と利根川がくっついていて江戸湾に流れ込んでいたのを利根川は東遷させ銚子へ、荒川は西遷させたが、下流域の洪水が減ったものの農業用水が足りなくなった。
そこで小さい2つの川の最も狭い部分をせき止めて見沼溜井を造った。
吉宗時代この溜井に田んぼを作ってコメの増産を図ろうして、干拓が行われ、農業用水確保として、利根川から約60kmに渡って用水が引かれ、 見沼たんぼの 西縁( にしべり)と 東縁 (ひがしべり) の台地に沿って水路が掘削され、農業用水が供給されました。これが 見沼代用水です。

見沼通船掘は、農業用水として利用されただけでなく、この地域の村々の米や産物を江戸に運び、江戸から物資を輸送するため、東西の見沼代用水路(農業用水路)と芝川(排水路)を繋いだ運河。高低差が3mあるので、東西とも2ヵ所ずつの閘門式運河を採用。これはパナマ運河より180年も早く採用されたものでわが国でも最も古い部類に相当する。パナマやスエズ運河は見ていないけれども、スコットランドやポーランドで見、また実際に潮来で乗って体験したので、こんなことがあんな昔に考えられて使われていることに今更ながら感心したり、治水潅漑で何の苦労もなく美味しいご飯を食べているのも、昔の人々の努力の上に今の農業を背負っている人の力のおかげだと感謝して食べます。
今は使われなくなっているが、国指定史跡で、土木技術と産業発達を知る上で貴重とされている。

      地図の見沼通船掘公園・・市民の力で竹林公園が整備されている700x467_460x307
二股に分かれたアオギリは子供が増えると言って植えられたと家の人が言っていた307x460
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       見沼干拓によってこの地に住み着いた人々が勧請した稲荷社460x307_2
   鈴木家住宅の一部 鈴木家住宅は見沼通船の船割業務を担っていた役宅460x307_3
             当時の艜(ひらた)船が保存されていた460x278
  地図にある水神社 河川輸送に携わる人たちが水難防止を祈願して祀ったもの307x460_2
                        閘門307x460_3
←通船の仕組700x467_2

                 猫を見かけるのは久しぶり400x267
       木曽路の富士塚 この富士塚には何合目という表示はなかった460x307_4
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             昼食 デザートは大豆のムースの抹茶でした460x307_6
大間木氷川神社 武蔵国一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構(1667年)。場所は地図参照460x307_7
大きなサルノコシカケ  サルノコシカケ科・コフキサルノコシカケ(オオミノコフキタケ)と教えていただきました。shikamasonjinさま、ありがとうございました。460x307_8
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見性院の墓(清泰寺)大間木神社のそばにある。
見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けた。秀忠の第4子として生まれた幸松丸・後の会津23万石の祖となり、兄家光を助け幕政に参画した保科正之の養母となって育てた人である。この地は見性院の采地だったのでここにお墓がある。
          門とお墓 入れなかったのでどれかがわからなかった。460x307_10
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                    ミソハギの畑460x307
   クサギの花 花は良い匂いがすると聞いていたが、その通り、良い香りがした。460x307_2
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10人の見学者に4人の男女2名ずつのボランティアガイドさんが付いてくださって、オカリナを吹いて富士塚で富士山の歌を歌ったり、「見沼通船掘舟唄」を聞かせてくださったり、家で取れたというミニトマトや漬けたばかりの小梅をご馳走してくださったり、郷土に愛着を持った方たちに感動しました。

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2016年2月10日 (水)

忠臣蔵・義士の最期 と 『勝川春章』展

雑学大学にて
忠臣蔵の真相シリーズ5回目のラストが『義士の最期』でした。資料を先生に読んでいただきわかったことは

元禄15年12月15日泉岳寺へ引きあげ
四家にお預け
 ・細川越中守(肥後熊本)~大石内蔵助以下17名・・泉岳寺の裏にある下屋敷 引き取り人が750人 その人数の多さにびっくり。
 ・松平隠岐守(伊予松山)~大石主税以下10名・・今のイタリア大使館 引き取り人300人
 ・毛利甲斐神(長門長府)~吉田沢右衛門以下10名・・今の六本木の毛利庭園 引き取り人200人 
 ・水野監物 (三河岡崎)~間瀬孫九郎以下9名・・今のJR田町駅 引き取り人150人
元禄16年2月4日
 ・討ち入り浪士切腹 切腹はこの頃は自分の腹に刺すことはなく介錯人が首をすぐ刎ねたとのこと。
 ・吉良家は息子が上杉家の当主になっていたので、吉良家の当主は孫・吉良左衛門であった。喧嘩両成敗で領地召し上げ、信州高嶋藩へお預けとなった。
 ・浪士の遺児15歳以上の4人は遠流で1人死に、3人は赦免され戻る。15歳以下16人は仏門に入る。

切腹したのは四十七士でなく四十六士であった。足軽だったらしい寺坂吉右衛門は引きあげ途中でいなくなる(密命説や逃亡説などあり)。お墓は東京と福岡八女市の2ヵ所も言い伝えがある。
また一人は親戚が引き取ってお墓を別の所に建てる。しかし泉岳寺にはこの2人の墓も供養のために建てられた。

先日、明治天皇が鎌倉宮を作って護良親王の名誉を回復したことを知ったのですが、図らずも四十七士も明治天皇の勅宣(天皇の勅語)で罪人でなくなったのだそうです。
明治天皇が遷都し最初に行幸されたのが埼玉県の氷川神社だったそうですが(東京入都10日目に)、同時に勅使を泉岳寺に派遣したのだそうです。
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『勝川春章』前期展 太田美術館

318x450北斎好きとしては北斎の師の展覧会ははずせません。本日行ってきました。

チラシより
「勝川春章(1726?~1792)は人気の歌舞伎役者や力士たちを、似顔絵を用いた写実的な作風で描き、一世を風靡した浮世絵師です。晩年には、緻密な肉筆美人画を手がけたことでも知られています。春章の門下には春好、春英、春潮ら人気絵師が出て活躍し、勝川派は浮世絵界で大きな勢力を誇りました。あの葛飾北斎も、若いころ春章の門を叩き、勝川春朗という名前で青年時代を過ごしています。そして春章が発展させた役者似顔絵の手法は、東洲斎写楽や歌川豊国ら、のちの浮世絵師たちにも多大な影響を与えました。つまり春章の存在無くして、北斎や写楽が世にでることはなかったとも言えるのです。」
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春章の師の絵も数枚あり、弟子に影響を与えた春章の役者絵、力士絵、肉質美人画、武者絵がたくさん。そして弟子たちの絵がたくさんあり、北斎が弟子であった頃の絵も。北斎と書いてなければ分からないし、師匠と弟子の区別も出来ませんでしたが、初めての北斎の作品がたくさん見られたので本展に行った甲斐がありました。

本日朝日夕刊に勝川春章は実は17年若かったという資料が発見されたという記事が載っていました。生誕290年でなくて生誕273年ということですか。生誕290年記念ということで2月20日から出光美術館でも『勝川春章と肉筆美人画』展が開催されるのです。

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2015年12月17日 (木)

日本橋・人形町から小伝馬町をぶらぶら

340x600先週12/9(水)、朝転んで骨折したことも自覚しないで、人形町から小伝馬町まで地下鉄日比谷線の一駅間を散歩しました。地図で赤く書かれた場所。

人形町:薩摩浄瑠璃や人形芝居が行われ、人形遣いが多く住んでいたことに由来。
伝馬町:通信・交通・輸送のために伝馬を担う大伝馬町・南伝馬町と江戸内部の伝馬を担う小伝馬町が設けられた(南伝馬町は現在は京橋の一部となっているが、大伝馬町と小伝馬町は現在も日本橋大伝馬町・日本橋小伝馬町として地名が残る)

人形町の駅を出ると「玄冶店(げんだなや)」の碑があります。幕府医師の岡本玄冶の屋敷跡で、歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛 (よわなさけうきなのよこぐし) 」4幕目の源氏店 (げんじだな) 妾宅の場の俗称。当時は忠臣蔵のように、実際の話でも人や場所の名を変えたり、字を変えたりした。
古い話ではありますが、昭和29年、春日八郎の「お富さん」で「・・・死んだ筈だよお富さん、生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん、ええさほう、玄冶店」という有名な歌詞の一部分に出てくる。338x450
玄冶店の通りを隔てた紫色で書かれた場所が「元吉原跡」です。振袖火事後、浅草へ移転した。
伝馬町方面と反対方向に少し歩いてみると水天宮が見えたが、今修復中です。450x338
大観音寺」江戸三十三観音・三番札所の聖観音宗450x338_2
開帳のときの御本尊・丈六観音像御首像と御前立観音像
後ろの御首像は鎌倉に関係あり。北条政子が奉祀したが火事で焼け落ちるも御首だけ助かり、その後明治の廃仏毀釈で由比ヶ浜に捨てられたが、人形町の住人、石田可村と山本卯助に助け出されたという。460x490
ここには韋駄天尊が祀られています。韋駄天が俊足なのは、仏舎利を盗んだ鬼神を追いかけて取り戻したことに由来する。ランナーのお参りが急増し、アスリートのメッカとなっている。338x450_2
              昼食は「あさりうどんとそぼろごはん」でした450x338_4

小伝馬町方面に進みます。

椙森神社(すぎもり)」
平将門の反乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所。室町中期に太田道灌が雨乞い祈願のために、京都伏見稲荷の伍社を勧請し篤く信仰した。江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷として信仰された。450x338_5
富籤が盛んだった人形町、神社の境内には他に類を見ない富塚が建つ。宝くじの元祖として多くの人々が心中祈願をするところです。338x450_3
お竹大日如来井戸跡
            立派な行いのお竹さんが使っていた井戸の跡338x450_4
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宝田恵比寿神社 商売繁盛、家族繁栄の恵比寿神(運慶作)を祀る。10月19日にべったら市が催される。
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小伝馬町の駅を過ぎたあたりは、泣く子も黙ると言われた「牢屋敷」があったところで、牢屋敷跡地の公園には、「石町(こくちょう)時の鐘」と「松陰先生終焉の地」の碑がある。
石町時の鐘 江戸で最初に設置された時の銅鐘で、この鐘の音を合図に斬罰刑が執行された。450x338_7
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道を隔てて、真言宗「大安楽寺」江戸三十三観音・第五番札所があります。
大倉喜八郎、安田善次郎など明治時代の財界人が発起人となって、獄死者を弔うために開創した。450x338_8
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日蓮宗身延別院450x338_10
油かけ大黒天 名優長谷川一夫の夫人が夢の中で祀るようにと告げられ、施主となった。長谷川一夫が生まれた京都伏見には油掛町があって、油を売る商人が道端の石像に誤って油をかけて以来、商売繁盛したとの言い伝えがあるそうです。 別院内にある。450x338_11



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2015年11月 5日 (木)

旧新橋停車場プラットホームと鳥居などにまつわる3つの神社

(1)新橋駅で下車してまず向かった旧新橋停車場は、今とは汐留方面に少しずれている。
朝の連続ドラマ『あさが来た』でもうすぐ汽車が横浜まで走るようになるから、その原動力が石炭で、その商いを・・・というのが先週出てきたところです。
夏目漱石は18歳の学生時代から生涯で54回新橋駅に足を踏み入れたそうだ。

1872(明治5)年10月14日、新橋駅ー横浜駅(現桜木町駅)間が開業した。
これはその時のプラットホーム25m(本来は151mあった)が再現されたもので盛土式石積みという方式で造られているそうです。450x300_2
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日本最初の鉄道の起点・0哩標識とレール
1914(大正3)年に新橋駅は貨物専用の汐留駅になり、新橋駅は烏森駅になり、汐留駅は86年に廃止。91年に汐留再開発で関東大震災で、焼失した停車場の礎石などの遺構が現れた2003年、再現駅舎が完成(写真撮り忘れです)。300x450

ブログ「楽餓鬼」のgakiさんに教えていただいた2つ面白い神社です。

(2)ー1 烏森神社 
新橋駅烏森口からすぐのところにある神社で、変わった鳥居と同じ形の社殿。なるほどそっくりで、それだけで感動しました。
手前が鳥居です300x450_2
                       近づいて450x300_4
                  社殿は鳥居にそっくりです300x450_3
ここの狛犬は吽形の方が子どもを抱えているというか、踏んでいるように見えます。300x450_5
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                     神社の起源450x273
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(2)-2 虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう)
虎ノ門琴平タワー(26階)が鳥居と参道に覆いかぶさるという面白い神社。
下層部3分の1が参道になっている宗教法人金刀比羅宮と三井不動産の共同開発オフィスビル。300x450_6
          中から鳥居を見る。ビルを支えている柱の太いこと!450x300_6
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           参道を奥に進み左を向くと、銅鳥居と拝殿がある。300x450_7
                        拝殿450x300_9
拝殿前の銅鳥居には四神の彫刻がある。品川神社にもありました。
左の柱の上が青龍(東)と下が玄武(北)300x450_8
              右の柱の上が朱雀(南)と下が白虎(西)300x450_9

(3)羽田・穴守稲荷神社と大鳥居
2度ほど羽田から朝早い便に乗るため、前日羽田国際空港駅より3つ手前の「大鳥居」という駅のそばのホテルに泊まったというのが事の始まりです。
その時、大鳥居というのはどこにあるのか見てみたいと思って交番で聞いたら、かなり遠くてもう暗いからよした方がいいと言われあきらめたのです。(店やホテルで聞いても誰も大鳥居もことを知りません)
その後調べたら、戦前から羽田には穴守稲荷神社があったが、戦後進駐軍の空港拡張に伴って穴守稲荷神社が取り壊された。地元の人はすぐ近くに土地を寄進してくれた人がいたので神社をそこに造りなおしました。大鳥居も移転しようとしたら、移転に関わった人が亡くなったりといろいろなことが起こり取り壊しを免れて残りました。ところが新B滑走路の整備の障害となることから、今の天空橋駅のそばに移転を余儀なくされ、今は穴守稲荷のものではなく、国と空港関係企業のものになったのだそうだ。
穴守稲荷は羽田に向かって、大鳥居駅の次の穴守稲荷駅にあり、大鳥居は穴守稲荷駅の次の天空橋駅のところにあるというわけです。天空橋の次の駅が国際空港駅です。大鳥居駅といっても大鳥居があるわけでなく、もしかして穴守稲荷駅や天空橋駅が以前はなかったのかなあと思ったですが、どうして名前が付いたのかが調べられませんでした。

前置きが長くなりました。以前夫が川崎の夜景を見に羽田から船に乗ったら赤い鳥居が運河のそばにあったと言っていたので、是非、赤い鳥居(大鳥居)と奥に引っ込んだ穴守稲荷神社を見ようと友人と出かけて見てきたというわけです。

          穴守稲荷には東西南北に鳥居が5つもありました2_450x300_2
                        社殿450x300_12
                       キツネ300x450_10
                      稲荷大明神300x450_11
                必勝稲荷社などお狐様がいっぱい450x300_13

          神社から天空橋まで5分歩くと大鳥居が見えました450x300_14
関係なければ、どうという話ではないのですが、歴史の詰まった大鳥居に出会えて感激です。青空に映えてきれいでした。450x300_15
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2015年9月20日 (日)

鎌倉1・小町の寺社

652x700四国巡礼はあまりに遠く体力も及ばないので、訳あって鎌倉の寺社を巡ることにしました。鎌倉三十三観音霊場があるのですが、山折哲雄監修・槙野修著『鎌倉の寺社122を歩く』にしました。
私の鎌倉巡り(その1)は、鎌倉駅東域の小町大路の左右に点在する寺社で1時間半で回れます。

鎌倉時代と室町時代には疎く、歴史的には一番興味を持っていない時代なのに、宗教活動やお寺はたくさん建って鎌倉と京都では歴史を辿れる。
せめて鎌倉時代だけでも少しは勉強出来たらといいと期待しているのです。

         鎌倉駅からすぐの小町通りは魅力的なお店が並んで、混雑している450x316
                     小町通りの突き当りを右に曲がると左手が鶴岡八幡宮450x300
                                          お囃子が出ていた450x300_2
1.宝戒寺
八幡宮の前の道の金沢海道は左に曲がり、右に曲がるのが小町大路、突き当りが「萩の寺」と呼ばれる宝戒寺だ。拝観料100円。
                           参道の敷石が巨大な八角形の一枚岩である300x450
                        萩や木で覆い尽くされ、本堂全体が良く見えない。450x300_3
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ここは執権北条義時以来の執権の屋敷地跡だったところで、幕府が滅びた後に後醍醐天皇が足利尊氏に命じて北条一族の霊を弔うため執権屋敷跡に創建した。
天台宗、本尊は地蔵菩薩
鎌倉江の島七福神(毘沙門天)
鎌倉観音霊場第二番
鎌倉地蔵尊霊場第一番

本堂で、御本尊地蔵菩薩様と七福神の毘沙門天様にお祈りしてきました。
観音霊場としての観音様は秘仏の歓喜天らしく、立派な扉の中におわします。300x450_3
                                                  鐘楼450x300_5
                                                彼岸花450x300_6
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                                                     地蔵300x450_4

2.東勝寺跡と切腹やぐら
幕府滅亡時(1333年)、北条高時と一族郎党は、北条氏代々の墓のあるこの寺で自刃した。その数870余人といわれる。
                   東勝寺橋からの滑川450x300_2_2
                      東勝寺跡450x300_10
     切腹やぐら 高時の墓とされる石塔が多くの卒塔婆に囲まれている。450x300_11
3.妙隆寺
日蓮宗
鎌倉江の島七福神(寿老人)
自分の生爪を一日に一指ずつ十指をはがしてここで修業した日親は、厳しさゆえ焼け鍋を頭からかぶせられる迫害を受けたので「鍋かむりの日親」と呼ばれた話が有名なのだとか。450x300_12
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4.日蓮上人辻説法跡
この小町大路一帯は日蓮が説法を行った主要な場所で、日蓮宗のお寺が多い。大きな石碑と腰掛石が残る。450x300_13
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5.蛭子神社
明治の神仏分離令で一村一鎮守によりできた。祭神は大国主神。450x300_15
6.大巧寺(だいぎょうじ)
真言宗から日蓮宗に改宗した寺。安産祈願の寺。450x300_16
                     格天井が美しい450x300_17
野花の美しく咲くお寺でもある。シュウメイギク、ハギ、ワレモコウ、オトコエシ、コシキブ、アマギノクサキなど。450x300_18
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7.本覚寺
日蓮宗。
鎌倉江の島七福神(夷)
                      夷尊堂450x300_24
                  門は立派。本堂は修理中。450x300_25
日蓮が佐渡に配流されたのち、鎌倉に帰り滞在したところで、ここから身延山へ旅立った。身延山へなかなかお参りに行けない人達のため、日蓮の遺骨を分け、当寺におさめた。日蓮分骨堂である。本覚寺を「東身延」という。450x300_26

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2015年8月 3日 (月)

宮崎正勝著『地図と地名で読む世界史』

294頁だけれど、小説と違うからずいぶん時間がかかった。2004年の上梓なので激動激しいこの10年は載っていない。

時間では約7000年間、全世界に渡る歴史なのでかなり内容が多岐にわたるが要点だけでそんなに詳しくはない。
2点思いがけなかった歴史を知る。

(その1)オスマン帝国のイェニチェリ
3大陸にまたがるオスマン帝国は、トルコ語を共用するイスラム帝国であった。
多様な民族、宗教が混じり合う広大な地域の秩序を巧みに維持できたのは、基本的には民族よりイスラム教徒であることが優先されたものの、非イスラム教徒に対しては宗教ごとに共同体をつくらせて、納税を条件に自治を許した。
バルカン半島のキリスト教徒に対しては税金に代わって青年を提供させ、イスラム教育を施した後、官僚・軍人として帝国統治に利用した。イスラム世界の外から自由に利用できる人材を集めたわけである。
あの勇壮なる世界最強の軍隊「イェニチェリ」が改宗したキリスト教徒の子弟から成り立っていたとは!今までずっとトルコ人だとばかり思っていました。
彼らは結婚を禁止され、軍旗の代わりに巨大な金属製の野戦用の鍋を携帯し、帽子にはスプーンをさしていたという。

(その2)アフリカの悲劇の始まりはリビングストンの探検から
リビングストンがアフリカを探検し、ザンベジ川源流部のヴィクトリアの滝を発見しヨーロッパに紹介し、行方不明になったリビンングストンを探し当てたスタンリーが、その後コンゴ川、アマゾン川などがアフリカの動脈として豊かな可能性を持つことを紹介したのが、アフリカ分割のきっかけになったという。
その後ヨーロッパの勝手な論理で多くのヨーロッパ諸国が参加し、アフリカはどんどん分割され、植民地化され、しかも机上で分割されたので国境線に直線が多い。
勝手に線引きされたことにより、既存の多くの部族が分断された。このことが多くの悲劇を生むことになる。国家への忠誠心より部族に対する忠誠心の方が強いから。次々と独立して53の国が誕生したが問題多発。
強力に国家建設を進めるためには一党制。しかし独裁体制は腐敗しやすく、国境紛争、部族間対立、利害対立、軍事クーデターなどで、難民が21世紀に入ってからも400万人になった。
多くの天然資源を持ちながら、開発資金に乏しく、外貨不足、債務拡大、干ばつと飢饉、エイズ、コレラ、エボラ出血熱など様々な困難に直面している、とある。

中南米は航海技術の発達によって、スペイン、ポルトガル等によってマヤ、アステカ、インカ文明が破壊され、征服されて、ブラジルやポルトガル、残りは全てスペインの植民地になっが、独立して、白人、メスティーソ、インディオがまざって一つの国民を作りあげていった。アフリカとは全然違うのである。

     朝の7:45、すでに暑いのに畑の雑草の中でくつろぐ近所の猫ちゃん450x301

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2015年5月16日 (土)

品川神社と泉岳寺

ブログ友のgakisroomさんが、双龍の彫刻のある鳥居として品川神社をご紹介くださったので、行って見ました。
京急で品川駅から二駅2分の新馬場駅前の道路を挟んだ向こう側にあります。

鳥居が見えました。龍が鳥居に巻きつくように彫刻されています。凄い迫力。双龍鳥居はこの他に高円寺境内の稲荷社と阿佐ヶ谷の馬橋稲荷神社にもあり、東京三鳥居と言われている。450x300
                    左側は降り龍です269x450
                     右側は昇り龍です272x450
             鳥居の左側高く富士塚が見えています450x413
                       本殿450x300_2
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1185年に源頼朝が安房国州崎明神を勧請し創建され、1591年に徳川家康が品川大明神へ5石の朱印社領地を賜りました。そのため提灯に三つ葉葵が見られる。300x450
                       神楽殿450x300_4
                     お稲荷さんも450x300_5
そこを回って奥には板垣退助と4番目の妻のお墓がありました。高知には3番目の妻と一緒の墓石があるそうです。450x300_6
隣に佐藤栄作の筆による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。品川神社の社域がもと東海寺の寺域であったため、社殿裏が墓となっているというわけだ。450x294
都内最大の高さ約15mの富士塚・品川富士に登る
           二合目の石室に役行者が夫婦の鬼を従えている450x300_7
                       六合目450x300_8
          頂上は平で何もなく、京急電車が走るのが見えました。450x300_9
               後ろの道を降りると浅間神社に至る450x300_10
            北馬場参道通りの所は東海道品川宿であった450x300_11
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品川駅を挟んで北馬場駅と反対方向すぐに泉岳寺駅があるので、降りて泉岳寺に寄りました。先日日本三大仇討の一つの工藤祐経の墓を富士山で見ましたが、やはり三大仇討の一つ、忠臣蔵の四十七士の墓です。450x300_12
                   大石内蔵助良雄の銅像300x450_3
首洗い井戸 吉良上野介の首をこの井戸で洗って、主君の墓前に供えたという。300x450_4
                奥の主君の墓と四十七士の墓450x300_13
後日、三大仇討の最後の一つに関係する史跡を見ることになります。

お昼過ぎたので、築地場外に出てお寿司を食べて帰りました。

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2014年11月23日 (日)

江戸城天守閣

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                  昭和記念公園の銀杏並木

雑大で、太田道灌の子孫18代目の太田資暁(すけあき)氏の「江戸の成り立ちと江戸城再建」について聞いてきました。
ちなみに太田国交相も太田道灌の子孫だそうだ。
どこの国にも首都の象徴となる建築物があるので、東京にもと、オリンピック開催まで、江戸城の天守閣を再建して、世界中に認知される名所として観光客を呼び込もうというプロジェクトが太田さんたちのNPO主導で進んでいる。

太田道灌が江戸城を築城したのは1457年で、家康より150年も前だった。
3つの天守閣、家康1606年、秀忠1622年、家光1638年も明暦3年(1657)の振袖火事で焼け落ちる。
将軍家光、家綱の補佐役保科正之が財政困難故再建する必要なしと進言して今日に至った。これはとても賢明なことだった。今の日本も実は一千兆円を超す借金大国だ。1分間に6000万円も債務が膨れ上がっているそうだ。

その大きさであるが、5階建て(マンションでいえば20階建相当)で、高さ59mで銅瓦ぶき屋根で金のしゃちほこがあった。容積は姫路城の3倍だ。木造建築物としては世界最大級という。費用は350億円。柱には直径60㎝のヒノキが千本、壁や柱に杉1万本も使うという。
大阪城も名古屋城も市民の寄付で再建されたので江戸城も出来ないはずはないという。問題は5年かかるということと、五輪に向けてのインフラ整備で人材不足の上、建設費高騰が予想されて2020年までに間に合わないかもしれないということ。
ご先祖が強固な城をいくつも造った、そのご子孫の夢は大きく、熱意も並々ならぬものでした。
オリンピック開催同様賛否両論、様々な意見があるでしょう。姫路城より大きな城が東京駅のそばに出来たら観光名所になり、徳川家が造った江戸の象徴として親しんでいけるのでしょうか。

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280x420_3                   メタセコイアと雄花でした

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