2019年6月28日 (金)

生涯に一度も子供時代を持たなかった人間

それはオランダの「国際法の父」とあがめられるフーゴ・グロティウス(1583~1645)です。デルフトの名門グロート家の長男。
西洋史においても幼くて神童の誉れが高かった人は多いが、彼は神童中の神童、「神童のレコードホルダー」だ。
8歳:弟ヤンの死を嘆く父親を慰めるラテン語の詩を作った。
11歳:ライデン大学に入学した。
12歳:ギリシャ語の立派な抒情詩を作り、カトリック信者の母をカルヴィン派に改宗させた。
14歳:数学、哲学、法律に関する論文提出で大学卒業。
15歳:5世紀の百科全書家の難解なラテン語の著書に注釈をつけて出版。フランスの大学で法学博士の学位を得る。
16歳:弁護士として自立。
22歳:オランダ・東インド会社を弁護して『海洋自由論』を著わす。
35歳の時オランダの政争に巻き込まれ、逮捕され2年禁錮、脱獄しパリに亡命。1625年『戦争と平和の法』出版。(世界の歴史より)

彼の平和主義はこれから300年間、国際政治の中で顧みられることがなかった。しかし第1次世界大戦後に国際連盟がつくられ、グロティウスの思想が第2次世界大戦後にその真価を発揮している。がしかし、彼の生きていた時代の酷い代表的30年戦争と変わりなく21世紀の今日、世界のあちこちで戦争にストップがかけられない。核の戦争にもおびえる時代が目の前です。
おりしもG20が今日開幕するが、これに参加出来ない悲惨な国のこと、この会議では直接関係ないのかもしれない。
我たち日本人は現在は中世から近代のあの悲惨な戦争と生活は体験してないが、平和を人類の普遍的な願いとして常に求めて生きたいことに変わりない。
教育は重要です。グローバルな教育は結構なこと。しかしその前に家庭教育が大切(父親母親になる教育も必要)、有能な立派な志を持った政治家を育てる。それを選ぶ国民も高い意識を持った人に育てていく。学校教育では限界があるでしょうか。


昨日咲き始めたコスモス第1号、隅でいじけて咲いているように見えるオリヅルラン。
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断捨離第2弾を始めました。
先日、人形供養のお寺(馬込の本寿院というビルのお寺)に和の人形たちをすべて持って行ってきました。お布施を添え、簡単に受付してもらえました。自分で作った木目込人形が多かったけど、お別れです。一方ぬいぐるみは近所の方に良いのだけ差し上げ、何十とあったものを市の方に持って行って処分してもらいました。タンスや絨毯(転ぶので以前から使用せず)、衝立屏風は粗大ゴミ、その後にたまった本100冊近くゴミ収集の日にと。まだまだいっぱいある品々や家具、随分いろいろなものを必要として生活していることに今更ながら驚いています。便利で快適な生活をしているということです。幸せ!
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2019年2月 9日 (土)

右側通行か左側通行か

カランコエ
最後に咲いたバラの蕾を部屋に入れたら、花弁が4枚開きました。
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『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』によれば  (全16冊中やっと現在4冊目、気が遠くなる)

●右側通行か左側通行か
中世ヨーロッパの旅行者は道のどちら側を歩いていたか?ちなみに中世ヨーロッパとは5~15世紀と言われる。
当時貴族、商人、その他の旅人も、武装し、刀や槍を持って旅行した。道中でいつ盗賊や敵に出くわすかわからない。前からやってくる者に襲われた場合、道のどちら側にいた方が有利か。武器は右手に持つ関係上、敵を自分の右側に回した方が好都合である。敵がどこから来るかわからないが、少なくとも前方の相手を警戒しつつ歩くには左側通行がこの当時の交通の原則であった。
これに対して右側通行はと言うと、通行人が武器として銃を持つようになったとき。銃は銃身を左の小脇に抱えて携行するからとっさの場合に身を左にひねられるような歩き方、つまり道路の右側を歩いて、前方からの敵を左に迎え撃つということである。
しかしヨーロッパ諸国では銃が発達し普及するのは近世で国家の統一がなされ、国王による治安維持もよく行われるようになっていたから、旅人は銃を携える必要はなく武器携行を禁ずる場合が多かった。そのため必ずしも左側通行から右側通行に変わったわけではないが、イギリスでは現在も右側通行を守っている。現在は全て人間でなく車であるが。

これに反し、イギリス植民地時代のアメリカの辺境開拓者は、いつインディアンその他の敵に遭遇するかわからなかったから、常に銃を持ち右側通行を厳守した。これがアメリカでの右側通行のはじまりである。イギリスが支配していた国以外は殆どアメリカ方式となった。

日本は刀で往来した歴史があり、戦後とり入れられたアメリカ方式でなく左側通行となったがそれは歩く人でなく車だ。人は右側通行(交通安全のため)・・・昭和24年から。
人は右といっても心臓が左にあるせいとも言われるが、私個人は左側を歩いたほうが安定します。

●中世年代記のどれにも、どの年にも、地震、台風、洪水、落雷、疫病、飢饉などが記されていない年はない。台風はヨーロッパには来ないし、一部を除いて地震もなかったが、疫病の話は多い。疫病、飢饉に関しては少なくとも今の日本では切実な問題ではないが、地震、台風、洪水による被害が年々増加している。

264x450●中世の赤ちゃん
赤ん坊が生まれると産湯につかわせ、産着を着せるのだがこれが凄い。赤ん坊は腕を曲げた状態なのに、これを無理やり伸ばして横腹にぴったりつけ、身体全体を何枚かの布でぐるぐると巻き、さらに上から小さな帯できつく縛り上げてしまう。赤ん坊は手足を全く動かせず、自由を束縛されるから発育に悪いばかりでなく、衛生、栄養状態の不完全と相まって、乳幼児の死亡率が高かった一因となる。何度か絵画で見たことがあるが、何故こんなことをしたのであろうか?魔女裁判とかその他、今日理解に苦しむことが多かったこの中世と言う時代もまた、多くの悲惨な人々の万華鏡のような時代でもあったことを痛感します。

山形豪著『ライオンはとてつもなく不味い』

306x450著者は南アフリカのボツワナでライオンの干し肉を食べたそうだ。それが、それまで食べた野生動物のキリン、カバ、シマウマ、ダチョウ、ワニなどと比べてマズかったそうだ。
干し肉とはいえ、生臭く、猛烈に筋っぽかったとか。ライオンは筋肉の塊のような生き物で、野生環境では贅肉を蓄える余裕もなどないから硬いのだ。
ここで植村直己氏の、特異な製法と強烈な異臭で知られているアザラシの漬物と言われるキビヤックが、大好物だったという話を思い出しています。

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2018年7月 2日 (月)

リニア&猿橋見学

●リニア見学
6/9(土)、丁度リニア見学センターでリニアの走行試験が見られる日でした。

大月駅で下車すると岩殿山(昔登った)の岩が向き出しているのが見えた
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                            バスからリニア走行試験線が見えてきた
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見学センターに到着 超伝導リニアが出迎えてくれる。車両に備えた超電導磁気と地上に設置したコイルの間に生じる力で、車体を浮かせて走る、磁気浮上式の鉄道。摩擦力に頼らないためより速く安全に走ることができるとのこと。
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見学センターでは早速1時間に何回も繰り返される走行試験を見ることが出来た。時速500㎞以上とはあっという間に走り去る。カメラは走り去る方向に構えよと教えてもらったのでかろうじて撮れた。
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研究が始まったのが1962年で新幹線が走る2年前。1972年浮上走行成功。1979年無人走行時速517㎞。1995年有人走行411㎞、2003年有人走行581㎞、2015年有人走行608㎞。2005年の段階で皇太子さまはじめ試乗者が10万人突破。東京・名古屋開業予定2027年。東京・大阪2045年。

色々な型の模型
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磁気浮上走行の模擬体験をする。説明者の言葉に山梨県は新幹線が走らない県で京阪に出るのも時間がかかり、これは私たち県民の夢でもあるという言葉が印象的でした。
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                                    全長17mのジオラマの一部
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●猿橋見学
大月駅から猿橋駅まで一駅戻って、桂川を左に見ながら、あじさい遊歩道に沿って歩き、最後に上ると猿橋に到着。

あじさい遊歩道 例年より10日以上も早く満開に近い状態で今年のあじさい鑑賞となりました。
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桂川 このあたりの崖は猿橋溶岩流といって、富士山から30Kmも桂川に沿って流下してきた溶岩流の末端部だそうだ。
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猿橋は日本三奇橋の一つ(岩国の錦帯橋、もう一つは黒部の愛本橋あるいは徳島のかずら橋、日光神橋、長野桟)で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル、水面からの高さ31メートル。
1984年(昭和59年)に架け替えられたこの橋は1851年(嘉永4年)の橋を復元したもの。説明板によると総工費3億8千3百万円だったそうだ。
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橋脚の構造(Wikipediaより引用)
深い谷間のために橋脚はなく、鋭くそびえたつ両岸から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支え木をせり出し、橋を支えている。
刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。
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             歌川広重や葛飾北斎が猿橋を描いている
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          重要文化財の第1号水路橋は八ッ沢発電所の施設
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江戸時代に川から30mの高さに吊り橋でなく、刎木と呼ばれるこんな構造の橋をよくぞ造ったものと感心したが、思えば2000年の昔にローマの水道橋などは橋を支えるアーチを考え出したのも凄いことと土木、建築の世界には驚かされます。

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2018年6月18日 (月)

国史跡・八王子城跡

先日、北条氏が造った城として小田原城と山中城を見てきました。残る北条氏の八王子城と鉢形城、合わせて4城とも日本100名城に入っています。
その八王子城跡に行ってきました。これで100名城の32の城・城跡を見たことになります。100名城めぐりをしているわけでなく偶然です。一方日本の滝100選はたった12滝にとどまります。

北条5代 早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直 
   
三代氏康の三男で、四代氏政の弟である氏照が建てた山城。ちなみに鉢形城城主が氏照の弟・氏邦だ。
氏照は八王子城の少し東北にある滝山城(以前訪れたが堀も深く土塁も高く広大で立派ですが、平面的な広がり大きく、各廓の高低差が少なく籠城に向かない)の城主・大石定久の養子となり大石源三を名乗ったが、北条氏照に改名。
1582年頃(織田信長没)から八王子城の築城を始める。江戸時代の城は、平地に造られ、立派な天守閣があるが、戦国時代の城は山の地形を生かして築かれ、天守閣もなかった。
1586年頃、ここに移り1590年、氏照は兄と共に秀吉の小田原城攻めで小田原城にいた。八王子城は秀吉軍の中の前田利家・上杉景勝軍に攻め込まれ、一日で落城した。
一方の山中城は秀吉軍の豊臣秀次軍により半日で落城したのでした。

                              八角形の屋根のガイダンス施設の中

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4_450x355_3マンホール蓋3種、3兄弟の順に、城を守る方向に設置している。
①小田原市:小田原城主・北条氏政「酒匂川」
②八王子市:八王子城主・北条氏照「車人形」 
③寄居町:北条氏邦「キジ、カタクリ、ヤマザクラ」 ③しか見つからなかった。


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御主殿の滝 落城時に御主殿にいた北条方の武将や婦女子らが、滝の上で自刃して次々に身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったという。
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曳橋 当時、城山川に簡単な木橋をかけ、その橋を壊すことで敵の侵入を防いだ。
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石垣 虎口 
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                        石垣 城山山中から産出する砂岩で出来ている
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                                               御主殿跡 
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御主殿庭園跡 池も配されていたという
この御主殿からは接合したら2436点の個体になった遺物が見つかった。お茶をひくための茶うすや中国製の皿、そしてベネチアで生産されたレースガラス器があった。日本国内での出土は八王子城のみという。
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本丸と頂上目指して登山開始  アザミやユキノシタが咲いていた
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                      九合目
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       少し先からの展望 スカイツリーや西武ドームなども見えた
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                      頂上
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        八王子神社 城の守護神「八王子権現」が祀られている
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八王子城本丸跡 標高460m 本丸が頂上と書かれた石標より高い所にあった?
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       八王子城跡入口手前に北条氏照及び家臣墓がある
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                  グミの実が美味しそう
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戦国武将の生活の意外な一面を見た八王子城でした。

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2016年12月29日 (木)

シーボルトの長男、アレクサンダー・フォン・シーボルト

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                   モミジバゼラニウム

雑大講義より
有名な父シーボルトはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトという名である。フォンはドイツでの貴族階級に付けられる名で、シーボルト家は代々医者、学者の系統だ。
アレクサンダー・フォン・シーボルト(1846~1911)には13歳上の異母姉イネ(シーボルトと滝さんの子)と弟と妹がいる。
弟ハインリッヒ・フォン・シーボルト(1852~1908)は日本女性岩本はなと結婚し、2男1女をもうけ、その子孫が健在。オーストリア外交官であり、考古学者としてモースと一緒に大森貝塚の発掘をした人。

長男アレクサンダーは13歳の時日本入国が許された父とともに日本にやってきて、65歳で亡くなるまでのうちの40年間の奉職に対し、日本政府より勲一等瑞宝章を授与された。

それでどんな活躍をしたかを聴いて驚いた次第なのです。それは

・通訳官・外交官として、薩英戦争・下関事件の英国側通訳。1867年のパリ万博国覧会に同行。岩倉使節団の欧州回覧に随行。1878年パリ博に松方正義に随行。

・外務省の通訳官・参事官として、井上馨主導の2回の不平等条約改正に参加。伊藤博文の明治憲法発布の協力者として、ドイツとオーストリアの憲法、法律を英訳。

・人道家として、日本赤十字社設立に貢献。1891年の濃尾地震では義捐金を欧州で集めたそうだ。

・外務省のための情報収集と欧州の広報活動。定期的に欧州の主要新聞から日本に関する記事を抜粋し日本に送ったり、日本政府の立場に立って、欧州各国の通信社及び新聞社に正しい広報を伝える。

アレクサンダーが文書を交わした人は上記にとどまらず、明治の元勲の殆どと各国駐在の公使、日本赤十字社の人々、後藤新平、有栖川宮熾仁親王、そして欧州の王室や著名な人々、イギリスのハリー・パークス公使やアーネスト・サト― 等々。

岩倉具視がオーストリアで、美貌のエリザベート妃に謁見した時には、妃に日本のキリスト教弾圧のことについて聞かれたとか。
高橋是清とユダヤ人との仲介をしたのもアレクサンダー。
『伊藤博文の個人的な思い出』には、「博文は幕末のときにはテロリストだった。塙保己一の息子の幕臣を殺した」などが書かれているそうだ。
幕末、明治期の戦争まで関与し、明治新政権確立、憲法まで深く関わり、欧州に日本を正しく伝えた功績は計り知れなく、それがシーボルトの子どもであったことを初めて知ってとても興味深かったです。

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                    アップルゼラニウム

今年もあと2日ちょっと残すのみとなりました。いつもご訪問、コメントいただきありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。

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2016年9月 5日 (月)

中野京子氏の講演『プラド美術館の名画にみるスペイン王室』

ドイツ文学者であり、『怖い絵』シリーズや『名画の謎』シリーズなど絵画に関する著書の多い中野京子氏の講演『プラド美術館の名画にみるスペイン王室』を聴いてきました。
12枚の有名なベラスケスやゴヤらの絵を見ながら、スペイン・ハプスブルク朝の人々の秘話を伺った。

本で読んでいたので凡そは記憶していたが、例のハプスブルク家の近親婚の数値がどうやって出されるかは帰って調べたみたけれどもわかりませんでした。
他人同士では0、親子やきょうだいの結婚でできた子供の数値は0.25なのだそうです。
ですが親子、きょうだい結婚よりもっと血が濃くなってしまった数値、0.254があるのです。カルロス2世です。写真はwikiより拝借。
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スペイン・ハプスブルク
フェリペ1世(カスティーリャ王、フアナと共同統治:1504年 - 1506年)
               ↓
1、カルロス1世(1516年 - 1556年) 
2、フェリペ2世(1556年 - 1598年) 伯父・姪結婚
3、フェリペ3世(1598年 - 1621年) 母の従妹と結婚
4、フェリペ4世(1621年 - 1665年) 伯父・姪結婚
5、カルロス2世(1665年 - 1700年)

カルロス1世が1500年生まれでカルロス2世が1700年に亡くなったのでちょうど200年で血が絶えたというわけである。このあとブルボンがスペイ王朝に入る。

・フェリペ1世はフィリップ美男公と言われ、フアナは熱愛していた夫が28歳で亡くなってから、その棺を持って半年以上も国内を彷徨っていた、その「狂女フアナ」の絵がまず紹介された。

・フェリペ2世の跡継ぎを残した4番目の妻アンナの父である神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世はフェリペ2世と同年生まれの従弟であった。さらに彼女の母マリアはフェリペ2世の妹であるという関係から、2人は伯父と姪の結婚。

・フェリペ4世の、オーストリア・ハプスブルクに嫁いだ妹が生んだマリアナは、フェリペ4世の息子バルタサール・カルロスの婚約者であったが、彼が早世したためその父フェリペ4世の2番目の妻となった。故に伯父と姪の結婚になる。ハンサムなバルタサールが亡くなってしまい、30歳も年が違う伯父との結婚で描かれた絵の顔は面白くない顔をしていると言われる。そりゃそうでしょう。子供は5人いたが一人がベラスケスが何枚も描いた「マルガリータ」で、父方の従兄・母方の叔父にあたるレオポルト1世と結婚し、夫妻の間に生まれた4人中3人の子が1歳未満で夭折した、自身も22歳の若さで亡くなる。マルガリータの弟がカルロス2世。
           ベラスケス「ラス・メニーナス」の中のマルガリータ210x240
・カルロス2世 癲癇、知的障害などいくつもの病気を抱え、精神障害も起したが、それでも39歳まで生き、家は断絶した。オーストリアの方も近親婚がこの頃多かったが大丈夫だった。

何故これほどまで近親結婚をしたか。
・地位や財産の一族外への散逸を防ぐため。
・厳格なカトリック政策で、プロテスタントや正教会の王侯との結婚ができない。ヨーロッパの王侯は次々とプロテスタントに改宗していた。
・ヨーロッパ屈指の名門であり、家格の低い諸侯との結婚ができない。

ヨーロッパ各国の王室のいろいろな話を読むと、殺し殺されという残虐な話、処刑される話、愉快な話、威張っている王様王妃の話などいろいろだが、太陽が沈まぬ国の何だか笑えない悲劇の一面を持ち併せていて、暫くいろいろな絵がちらちらとしていました。

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2016年9月 1日 (木)

見沼通船掘

700x539治水に関しては遠くはナイル川(治水しないで洪水させて肥沃な土地にしたようだ)や日本では江戸時代頃のたとえば、木曽川・揖斐川・長良川の困難な事業を今まで聞いてきました。
埼玉県の「見沼たんぼ」と言えば、人と自然(多くの植物、昆虫、野鳥)が共生するところとして有名です。

昨日8/31はたんぼは見られなかったがたんぼが出来た一環の見沼通船掘見学とその歴史を聞いてきました。
東浦和の駅で降りたこの地は地図で確認すると大きな見沼の一番南側の端に位置します。

大昔海の底であったこの地が、縄文時代に海が後退し、江戸湾と分離して無数の沼・湿地であったそうな。
江戸初期から荒川と利根川がくっついていて江戸湾に流れ込んでいたのを利根川は東遷させ銚子へ、荒川は西遷させたが、下流域の洪水が減ったものの農業用水が足りなくなった。
そこで小さい2つの川の最も狭い部分をせき止めて見沼溜井を造った。
吉宗時代この溜井に田んぼを作ってコメの増産を図ろうして、干拓が行われ、農業用水確保として、利根川から約60kmに渡って用水が引かれ、 見沼たんぼの 西縁( にしべり)と 東縁 (ひがしべり) の台地に沿って水路が掘削され、農業用水が供給されました。これが 見沼代用水です。

見沼通船掘は、農業用水として利用されただけでなく、この地域の村々の米や産物を江戸に運び、江戸から物資を輸送するため、東西の見沼代用水路(農業用水路)と芝川(排水路)を繋いだ運河。高低差が3mあるので、東西とも2ヵ所ずつの閘門式運河を採用。これはパナマ運河より180年も早く採用されたものでわが国でも最も古い部類に相当する。パナマやスエズ運河は見ていないけれども、スコットランドやポーランドで見、また実際に潮来で乗って体験したので、こんなことがあんな昔に考えられて使われていることに今更ながら感心したり、治水潅漑で何の苦労もなく美味しいご飯を食べているのも、昔の人々の努力の上に今の農業を背負っている人の力のおかげだと感謝して食べます。
今は使われなくなっているが、国指定史跡で、土木技術と産業発達を知る上で貴重とされている。

      地図の見沼通船掘公園・・市民の力で竹林公園が整備されている700x467_460x307
二股に分かれたアオギリは子供が増えると言って植えられたと家の人が言っていた307x460
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       見沼干拓によってこの地に住み着いた人々が勧請した稲荷社460x307_2
   鈴木家住宅の一部 鈴木家住宅は見沼通船の船割業務を担っていた役宅460x307_3
             当時の艜(ひらた)船が保存されていた460x278
  地図にある水神社 河川輸送に携わる人たちが水難防止を祈願して祀ったもの307x460_2
                        閘門307x460_3
←通船の仕組700x467_2

                 猫を見かけるのは久しぶり400x267
       木曽路の富士塚 この富士塚には何合目という表示はなかった460x307_4
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             昼食 デザートは大豆のムースの抹茶でした460x307_6
大間木氷川神社 武蔵国一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構(1667年)。場所は地図参照460x307_7
大きなサルノコシカケ  サルノコシカケ科・コフキサルノコシカケ(オオミノコフキタケ)と教えていただきました。shikamasonjinさま、ありがとうございました。460x307_8
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見性院の墓(清泰寺)大間木神社のそばにある。
見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けた。秀忠の第4子として生まれた幸松丸・後の会津23万石の祖となり、兄家光を助け幕政に参画した保科正之の養母となって育てた人である。この地は見性院の采地だったのでここにお墓がある。
          門とお墓 入れなかったのでどれかがわからなかった。460x307_10
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                    ミソハギの畑460x307
   クサギの花 花は良い匂いがすると聞いていたが、その通り、良い香りがした。460x307_2
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10人の見学者に4人の男女2名ずつのボランティアガイドさんが付いてくださって、オカリナを吹いて富士塚で富士山の歌を歌ったり、「見沼通船掘舟唄」を聞かせてくださったり、家で取れたというミニトマトや漬けたばかりの小梅をご馳走してくださったり、郷土に愛着を持った方たちに感動しました。

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2016年2月10日 (水)

忠臣蔵・義士の最期 と 『勝川春章』展

雑学大学にて
忠臣蔵の真相シリーズ5回目のラストが『義士の最期』でした。資料を先生に読んでいただきわかったことは

元禄15年12月15日泉岳寺へ引きあげ
四家にお預け
 ・細川越中守(肥後熊本)~大石内蔵助以下17名・・泉岳寺の裏にある下屋敷 引き取り人が750人 その人数の多さにびっくり。
 ・松平隠岐守(伊予松山)~大石主税以下10名・・今のイタリア大使館 引き取り人300人
 ・毛利甲斐神(長門長府)~吉田沢右衛門以下10名・・今の六本木の毛利庭園 引き取り人200人 
 ・水野監物 (三河岡崎)~間瀬孫九郎以下9名・・今のJR田町駅 引き取り人150人
元禄16年2月4日
 ・討ち入り浪士切腹 切腹はこの頃は自分の腹に刺すことはなく介錯人が首をすぐ刎ねたとのこと。
 ・吉良家は息子が上杉家の当主になっていたので、吉良家の当主は孫・吉良左衛門であった。喧嘩両成敗で領地召し上げ、信州高嶋藩へお預けとなった。
 ・浪士の遺児15歳以上の4人は遠流で1人死に、3人は赦免され戻る。15歳以下16人は仏門に入る。

切腹したのは四十七士でなく四十六士であった。足軽だったらしい寺坂吉右衛門は引きあげ途中でいなくなる(密命説や逃亡説などあり)。お墓は東京と福岡八女市の2ヵ所も言い伝えがある。
また一人は親戚が引き取ってお墓を別の所に建てる。しかし泉岳寺にはこの2人の墓も供養のために建てられた。

先日、明治天皇が鎌倉宮を作って護良親王の名誉を回復したことを知ったのですが、図らずも四十七士も明治天皇の勅宣(天皇の勅語)で罪人でなくなったのだそうです。
明治天皇が遷都し最初に行幸されたのが埼玉県の氷川神社だったそうですが(東京入都10日目に)、同時に勅使を泉岳寺に派遣したのだそうです。
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『勝川春章』前期展 太田美術館

318x450北斎好きとしては北斎の師の展覧会ははずせません。本日行ってきました。

チラシより
「勝川春章(1726?~1792)は人気の歌舞伎役者や力士たちを、似顔絵を用いた写実的な作風で描き、一世を風靡した浮世絵師です。晩年には、緻密な肉筆美人画を手がけたことでも知られています。春章の門下には春好、春英、春潮ら人気絵師が出て活躍し、勝川派は浮世絵界で大きな勢力を誇りました。あの葛飾北斎も、若いころ春章の門を叩き、勝川春朗という名前で青年時代を過ごしています。そして春章が発展させた役者似顔絵の手法は、東洲斎写楽や歌川豊国ら、のちの浮世絵師たちにも多大な影響を与えました。つまり春章の存在無くして、北斎や写楽が世にでることはなかったとも言えるのです。」
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春章の師の絵も数枚あり、弟子に影響を与えた春章の役者絵、力士絵、肉質美人画、武者絵がたくさん。そして弟子たちの絵がたくさんあり、北斎が弟子であった頃の絵も。北斎と書いてなければ分からないし、師匠と弟子の区別も出来ませんでしたが、初めての北斎の作品がたくさん見られたので本展に行った甲斐がありました。

本日朝日夕刊に勝川春章は実は17年若かったという資料が発見されたという記事が載っていました。生誕290年でなくて生誕273年ということですか。生誕290年記念ということで2月20日から出光美術館でも『勝川春章と肉筆美人画』展が開催されるのです。

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2015年12月17日 (木)

日本橋・人形町から小伝馬町をぶらぶら

340x600先週12/9(水)、朝転んで骨折したことも自覚しないで、人形町から小伝馬町まで地下鉄日比谷線の一駅間を散歩しました。地図で赤く書かれた場所。

人形町:薩摩浄瑠璃や人形芝居が行われ、人形遣いが多く住んでいたことに由来。
伝馬町:通信・交通・輸送のために伝馬を担う大伝馬町・南伝馬町と江戸内部の伝馬を担う小伝馬町が設けられた(南伝馬町は現在は京橋の一部となっているが、大伝馬町と小伝馬町は現在も日本橋大伝馬町・日本橋小伝馬町として地名が残る)

人形町の駅を出ると「玄冶店(げんだなや)」の碑があります。幕府医師の岡本玄冶の屋敷跡で、歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛 (よわなさけうきなのよこぐし) 」4幕目の源氏店 (げんじだな) 妾宅の場の俗称。当時は忠臣蔵のように、実際の話でも人や場所の名を変えたり、字を変えたりした。
古い話ではありますが、昭和29年、春日八郎の「お富さん」で「・・・死んだ筈だよお富さん、生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん、ええさほう、玄冶店」という有名な歌詞の一部分に出てくる。338x450
玄冶店の通りを隔てた紫色で書かれた場所が「元吉原跡」です。振袖火事後、浅草へ移転した。
伝馬町方面と反対方向に少し歩いてみると水天宮が見えたが、今修復中です。450x338
大観音寺」江戸三十三観音・三番札所の聖観音宗450x338_2
開帳のときの御本尊・丈六観音像御首像と御前立観音像
後ろの御首像は鎌倉に関係あり。北条政子が奉祀したが火事で焼け落ちるも御首だけ助かり、その後明治の廃仏毀釈で由比ヶ浜に捨てられたが、人形町の住人、石田可村と山本卯助に助け出されたという。460x490
ここには韋駄天尊が祀られています。韋駄天が俊足なのは、仏舎利を盗んだ鬼神を追いかけて取り戻したことに由来する。ランナーのお参りが急増し、アスリートのメッカとなっている。338x450_2
              昼食は「あさりうどんとそぼろごはん」でした450x338_4

小伝馬町方面に進みます。

椙森神社(すぎもり)」
平将門の反乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所。室町中期に太田道灌が雨乞い祈願のために、京都伏見稲荷の伍社を勧請し篤く信仰した。江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷として信仰された。450x338_5
富籤が盛んだった人形町、神社の境内には他に類を見ない富塚が建つ。宝くじの元祖として多くの人々が心中祈願をするところです。338x450_3
お竹大日如来井戸跡
            立派な行いのお竹さんが使っていた井戸の跡338x450_4
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宝田恵比寿神社 商売繁盛、家族繁栄の恵比寿神(運慶作)を祀る。10月19日にべったら市が催される。
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小伝馬町の駅を過ぎたあたりは、泣く子も黙ると言われた「牢屋敷」があったところで、牢屋敷跡地の公園には、「石町(こくちょう)時の鐘」と「松陰先生終焉の地」の碑がある。
石町時の鐘 江戸で最初に設置された時の銅鐘で、この鐘の音を合図に斬罰刑が執行された。450x338_7
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道を隔てて、真言宗「大安楽寺」江戸三十三観音・第五番札所があります。
大倉喜八郎、安田善次郎など明治時代の財界人が発起人となって、獄死者を弔うために開創した。450x338_8
                     延命地蔵尊450x338_9
日蓮宗身延別院450x338_10
油かけ大黒天 名優長谷川一夫の夫人が夢の中で祀るようにと告げられ、施主となった。長谷川一夫が生まれた京都伏見には油掛町があって、油を売る商人が道端の石像に誤って油をかけて以来、商売繁盛したとの言い伝えがあるそうです。 別院内にある。450x338_11



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2015年11月 5日 (木)

旧新橋停車場プラットホームと鳥居などにまつわる3つの神社

(1)新橋駅で下車してまず向かった旧新橋停車場は、今とは汐留方面に少しずれている。
朝の連続ドラマ『あさが来た』でもうすぐ汽車が横浜まで走るようになるから、その原動力が石炭で、その商いを・・・というのが先週出てきたところです。
夏目漱石は18歳の学生時代から生涯で54回新橋駅に足を踏み入れたそうだ。

1872(明治5)年10月14日、新橋駅ー横浜駅(現桜木町駅)間が開業した。
これはその時のプラットホーム25m(本来は151mあった)が再現されたもので盛土式石積みという方式で造られているそうです。450x300_2
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日本最初の鉄道の起点・0哩標識とレール
1914(大正3)年に新橋駅は貨物専用の汐留駅になり、新橋駅は烏森駅になり、汐留駅は86年に廃止。91年に汐留再開発で関東大震災で、焼失した停車場の礎石などの遺構が現れた2003年、再現駅舎が完成(写真撮り忘れです)。300x450

ブログ「楽餓鬼」のgakiさんに教えていただいた2つ面白い神社です。

(2)ー1 烏森神社 
新橋駅烏森口からすぐのところにある神社で、変わった鳥居と同じ形の社殿。なるほどそっくりで、それだけで感動しました。
手前が鳥居です300x450_2
                       近づいて450x300_4
                  社殿は鳥居にそっくりです300x450_3
ここの狛犬は吽形の方が子どもを抱えているというか、踏んでいるように見えます。300x450_5
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                     神社の起源450x273
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(2)-2 虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう)
虎ノ門琴平タワー(26階)が鳥居と参道に覆いかぶさるという面白い神社。
下層部3分の1が参道になっている宗教法人金刀比羅宮と三井不動産の共同開発オフィスビル。300x450_6
          中から鳥居を見る。ビルを支えている柱の太いこと!450x300_6
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           参道を奥に進み左を向くと、銅鳥居と拝殿がある。300x450_7
                        拝殿450x300_9
拝殿前の銅鳥居には四神の彫刻がある。品川神社にもありました。
左の柱の上が青龍(東)と下が玄武(北)300x450_8
              右の柱の上が朱雀(南)と下が白虎(西)300x450_9

(3)羽田・穴守稲荷神社と大鳥居
2度ほど羽田から朝早い便に乗るため、前日羽田国際空港駅より3つ手前の「大鳥居」という駅のそばのホテルに泊まったというのが事の始まりです。
その時、大鳥居というのはどこにあるのか見てみたいと思って交番で聞いたら、かなり遠くてもう暗いからよした方がいいと言われあきらめたのです。(店やホテルで聞いても誰も大鳥居もことを知りません)
その後調べたら、戦前から羽田には穴守稲荷神社があったが、戦後進駐軍の空港拡張に伴って穴守稲荷神社が取り壊された。地元の人はすぐ近くに土地を寄進してくれた人がいたので神社をそこに造りなおしました。大鳥居も移転しようとしたら、移転に関わった人が亡くなったりといろいろなことが起こり取り壊しを免れて残りました。ところが新B滑走路の整備の障害となることから、今の天空橋駅のそばに移転を余儀なくされ、今は穴守稲荷のものではなく、国と空港関係企業のものになったのだそうだ。
穴守稲荷は羽田に向かって、大鳥居駅の次の穴守稲荷駅にあり、大鳥居は穴守稲荷駅の次の天空橋駅のところにあるというわけです。天空橋の次の駅が国際空港駅です。大鳥居駅といっても大鳥居があるわけでなく、もしかして穴守稲荷駅や天空橋駅が以前はなかったのかなあと思ったですが、どうして名前が付いたのかが調べられませんでした。

前置きが長くなりました。以前夫が川崎の夜景を見に羽田から船に乗ったら赤い鳥居が運河のそばにあったと言っていたので、是非、赤い鳥居(大鳥居)と奥に引っ込んだ穴守稲荷神社を見ようと友人と出かけて見てきたというわけです。

          穴守稲荷には東西南北に鳥居が5つもありました2_450x300_2
                        社殿450x300_12
                       キツネ300x450_10
                      稲荷大明神300x450_11
                必勝稲荷社などお狐様がいっぱい450x300_13

          神社から天空橋まで5分歩くと大鳥居が見えました450x300_14
関係なければ、どうという話ではないのですが、歴史の詰まった大鳥居に出会えて感激です。青空に映えてきれいでした。450x300_15
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